物語がつまった宝箱
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  • 第三幕(2) 2023年9月15日更新
 最初は飛蚊症(ひぶんしょう)かと思った。
 ある朝、自宅で目覚めた私の視界に、半透明の物体がふわふわと漂っていた。目を凝らすと、それは見たくもない過去だった。瞼(まぶた)を閉じてもいないのに、私の身体(からだ)を舐(な)めまわした男たちの断片が幽霊みたいに浮遊していた。ねばつくような視線や、筋肉質な腕や、股ぐらに押し入ろうとする男そのものだった。まばたきをしても残像は消えない。
 その瞬間、唐突に思った。
 ――あ、死にたい。
 同時に、まずい、と思った。たぶんこのままじゃ、本当に死んでしまう。死にたいけど、死にたくない。
 急いでコンビニに走って、赤ワインを買った。家に戻ると、台所に立ったまま瓶に口をつけて飲んだ。なんでもいいから、気を紛らわす手段が必要だった。口の端から血の色の液体がこぼれて、胸を濡(ぬ)らした。
 赤ワインを一本空けて、少しだけ衝動が落ち着いた。
 心臓がどくどく鳴っていた。頭がくらくらして、吐き気がする。この身体反応がアルコールのせいなのかもわからない。ともかく、もっと酩酊(めいてい)しなければいけない。死ぬのが面倒になるくらいに。
 もう一本、ワインを買ってきた。一緒に買った菓子パンを食べながら、今度はコップで少しずつ飲む。
 視界の幻はまだ消えない。それどころか色濃くなっている。半透明だった記憶の断片に肌の色がつき、生々しさを増している。二十数年の人生で何人の男に触れられたか、数えることは不可能だった。デリヘルの時だけで少なくとも百は超えている。ただ、蘇(よみがえ)るのはその時の記憶だけじゃない。プライベートでした男たちもまた、私の目の前を浮遊している。
 冷房の効いた部屋で、私はかさかさした二の腕に触れる。今、この部屋には他に誰もいない。私の身体は乾いていて、痛みもかゆみもない。それなのに、強烈な他人の気配を感じた。ここにはいない男の手が私の胸に触れ、唇を吸っていた。耐えきれず、トイレに駆けこんで胃のなかのものを吐いた。
 それから時間を潰すためにひたすら飲んだ。夕方までに二回吐いた。吐いた後はぐったりとして動けず、結果的に死なずに済んだ。
 六時過ぎ、チャイムが鳴った。
 不思議なことに、それはこの部屋のチャイムではなかった。群馬にある実家のチャイムの音だった。私は反射的に立ち上がり、玄関へ駆けよっていた。チャイムが鳴ったら、家族が出迎えなければならない。それが我が家の決まりだ。
 玄関のドアを開けると、そこには母が立っていた。
「ただいま」
 半袖のトレーナーを着て、半ズボンを穿(は)いている。死んだ日と同じ服装だった。困惑はしなかったけどうんざりはしていた。無言のままの私を睨(にら)んで、母がもう一度口を開く。
「ただいま」
 返すべき言葉は一つしかない。それを言ったら終わりだ、と思いながら、どうしても言わずにはいられなかった。
「おかえり」
 母は「疲れた、疲れた」とこぼしながらサンダルを脱ぎ、部屋に上がった。ドアを施錠してからため息を吐(つ)く。どうして、現れてほしくないものばかりが現れるのだろう。母との記憶は、憎しみを呼び覚ますための道具に過ぎないはずだった。
 勝手にソファに腰を下ろした母は、「汚い部屋」と吐き捨てた。私の部屋で母だけがくっきりと浮かび上がっている。現実という背景にもう一枚、紙を重ねたみたいだった。
「女の一人暮らしで、こんなに汚れてるってどういうこと」
 フローリングには領収書や読みかけの本、段ボール箱や乾いた布巾が散乱している。一人暮らしが長くなっても、私は「生活」が苦手なままだった。
「色々あるから。仕事も忙しいし、お母さんみたいに暇じゃない」
「ああ、そう」
 母は早くも興味を失ったのか、リモコンを操作してテレビをつけた。あれから八年経(た)ったけど、時間は私たちの距離を縮めてくれない。
「あんた、私が死んだ時に泣いてたね」
 母はニュース番組を眺めながら、ぽつりとつぶやいた。
「そうだね」
「あれ、嘘(うそ)泣きでしょう。お母さんにはわかるからね」
 ひとりでに「は?」と返していた。
 泣いていないのに泣いているふりをするのが、嘘泣きじゃないのか。私はあの時、嗚咽(おえつ)を漏らして、しっかりと涙を流していた。鼻水まで出ていた。母を失った娘、という私の演技は完璧だった。
 母がこちらを見た。心の底を射るような、冷たい視線だった。
「ほら。また、バカにしたような目」
 バカにしてくる相手をバカにして、何が悪い。そう言ってやりたかったけど、反論は喉でつかえた。いつもこうだ。相手が幻だとわかっていても、私は母にうまく逆らえない。対等に話すことができない。
 酔いは醒(さ)めていた。台所に戻り、残ったワインを一気に飲み干す。酩酊が足りない。
「買い物してくる」
 そう言い残して、またコンビニへ向かう。でたらめに酒を買いこんで自宅に戻ると、母はもう消えていた。

 神山(かみやま)と二度目に飲んだ夜、彼はしきりにうちへ来たがった。『落雷』の台本を読んでみたい、という名目だった。神山は両手を擦り合わせて、拝んでいる。
「本当はもう一度観てみたいけど、映像で残ってないよね? 台本読めば、頭のなかで思い出せるから。お願い」
「うち、汚いんで」
「俺の家よりはましだと思うよ。うち、本当に汚いから」
 居酒屋のカウンターで神山をいなしながら、つい笑ってしまった。あまりに下心が見え透いていたから。役者とは思えないくらい、口説(くど)くのが下手だった。こういう時に器用さを発揮しないで、いつ発揮するのか。
「台本読んだら、すぐ帰るから。頼みます」
 私は考えこむふりをした。どうせ、いずれはこうなると思っていた。体調も悪くない。でも安易に了承すると調子に乗るかもしれないから、慎重に答える。
「終電まであとどれくらいあります?」
「えっと、二時間ちょっと」
「終電までに帰ってくれるなら、いいですよ」
「マジで?」
 神山の顔がぱっと明るくなる。
 舞台を降りた神山は、本当に裏表がない。少なくとも私にはそう見える。いいなぁ、と素直に思った。神山は、仮面を被(かぶ)る必要がない。素顔のままでいて何の問題もない。それがどれだけ幸福なことか、この人はわかっていないんだろう。
 男が皆こうだと言うつもりはない。四六時中演技をしている男も、仮面を脱ごうとしない男もいる。でも、やっぱり女に比べるとその割合は低い。というか、私が会った女は全員が演技をしていた。
「神山さんって、嘘つけなさそうですよね」
「あ、役者にそれ言う?」
 言葉の割に、神山は楽しそうだった。この人は私にないものを持っている。嬉(うれ)しさや喜びを、素直に表現できる。
 二人で居酒屋を出て、コンビニで飲み物を買ってからうちに来た。神山は私の部屋に足を踏み入れるなり、顔をこわばらせた。たぶん、予想以上に部屋が汚かったからだろう。玄関を開けてまず視界に入るのは、ワインの瓶を詰めこんだビニール袋だ。ごみの日を逃したせいでかなりゴミが溜(た)まっていた。これに幻滅して帰ってくれても、私としては一向に構わない。
「ワイン、好きなんだ?」
 神山の一言に、そこかよ、と胸のうちで突っこむ。
「寝酒が習慣なんで」
「酒飲んで寝ると、逆に眠り浅くなるらしいよ」
「もともと眠れないんでいいです」
 神山と話していると、自然と軽口の応酬になる。
 畳んでいない衣類を端に寄せて、空いたスペースに神山を座らせる。さっき買った缶チューハイで乾杯してから、私はすぐに『落雷』の台本を取り出した。散らかっている部屋だけど、台本の置き場所は本棚の一番上と決めているから、探す必要はなかった。
「はい、これ」
「拝読します」
 あぐらをかいた神山は、ほとんど中身が減っていない缶を置き、うやうやしい手つきで台本を受け取る。指先でページをつまむと、音も立てずに開いた。緩んでいた横顔が引き締まる。
 それから、神山は『落雷』に没頭した。
 一言も発さずに読んでいる横で、私は黙々と酒を飲んだ。缶チューハイは早々に空になったから、買い置きの赤ワインをコップに注いで、神山の反応を窺(うかが)いながら過ごした。
 神山の仕草を観察していると、飽きなかった。時おり首を回したり、鼻から深く息を吐いたりしながら、ゆっくりとページをめくっている。目を細めている箇所があれば、私も横から覗(のぞ)きこんだ。スマホをいじる気にもならなかった。
 一時間半して、ようやく神山は最後のページを閉じた。
「ありがとう」
 体育座りをする私に、両手で台本を差し出す。
「そんなに好きなら、貸しましょうか」
 えっ、と神山の口から声が漏れた。
「いいの?」
「ちゃんと返してくれるなら。コピーしてもいいですよ」
 ほんの少し躊躇(ちゅうちょ)してから、神山は「じゃあ、お借りします」と頭を下げた。コップに視線を落とすと、血の色をした液体に私が映っていた。中身を一息で飲み干し、手の甲で口元を拭う。皮膚の上の赤黒い残像を見つめる。
「そろそろ帰るわ」
 申し訳程度に缶チューハイを飲んでから、神山が腰を浮かせた。終電の時刻が目前に迫っている。
「泊まっていったらいいじゃないですか」
「別に、そういうつもりでは……」
「いやですか?」
 神山の動きがぴたりと止まった。中腰で固まり、きょろきょろと無意味に辺りを見回してから、「それじゃ」と再び腰を下ろした。
「遠野(とおの)さんにそう言ってもらえるとは思ってなかった」
 つぶやいた神山に、ふふっ、と笑ってみせる。
 神山一喜(かずき)は私にないものを持っている。この男と関係を持つことは、きっと私の芝居にとってプラスになる。新たな感情の糧となってくれる。神山の胸に顔を埋めると、温かい手のひらが私の後頭部をそっと撫(な)でた。
 その手は、強烈な磁力を発していた。

(つづく) 次回は2023年10月1日更新です。

著者プロフィール

  • 岩井圭也

    1987年生まれ。大阪府出身。北海道大学大学院農学院修了。2018年『永遠についての証明』で第九回野性時代フロンティア文学賞を受賞し、デビュー。他の作品に『夏の陰』『プリズン・ドクター』『水よ踊れ』『この夜が明ければ』『竜血の山』『生者のポエトリー』『最後の鑑定人』『付き添うひと』『完全なる白銀』がある。