物語がつまった宝箱
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  • 第三幕(4) 2023年10月15日更新
 チーズが溶けたピザ。黄金色に揚がったフライドポテト。生ハムのブルスケッタ。
 テーブルに並べられた食べ物からは脂(あぶら)や塩気を含んだ香りが立ち上り、鼻腔(びこう)を刺激する。食べたくないわけではない。だが、食べてはいけない。食欲をごまかすため、ひたすらギネスを胃袋に流し込む。
「本当に食べないの?」
 神山(かみやま)はピザを頬張りながら、心配そうに私の顔を覗(のぞ)きこんできた。私はそっと視線を逸(そ)らして、またグラスを傾ける。ジャズクラブの店内にはトランペットの音色がこだましていた。
「ボクサーの減量みたいなものだから」
「どういうこと?」
「痩せないと、人前に立つ資格がない」
 すべては次の舞台のためだった。
 名倉(なぐら)が書いた新作のタイトルは『火焔(かえん)』。これまで現代劇を書いてきた名倉が手がける、初めての時代劇だった。
 時は明治時代後期、場所は実在した洲崎遊廓(すさきゆうかく)。大店(おおだな)に所属する娼妓(しょうぎ)、亜矢乃(あやの)のもとに、問屋を営む富商から身請けの話が舞い込む。実家の借金のために客をとっていた亜矢乃は、これで足を洗える、と喜ぶ。
 しかし、亜矢乃は妓楼(ぎろう)に押し入った何者かによって斬りつけられる。亜矢乃はからくも一命をとりとめるが、顔には醜い傷痕が残ってしまう。変わり果てた亜矢乃の容貌を見て、富商は身請けの話をなかったことにしてしまう。
 やむなく娼妓の仕事に戻った亜矢乃だが、顔の傷痕のせいで客が寄り付かず、お茶を引くことになる。妓楼に押し入り、己を傷つけた下手人(げしゅにん)は顔を隠していたせいもあり、いまだ捕まっていない。亜矢乃は屈辱から復讐(ふくしゅう)に燃え、娼妓たちを焚(た)きつけて遊廓の転覆を計画する――
 私が演じるのは、主役の亜矢乃だ。亜矢乃は顔に傷をつけられ、さらに身請けを反古(ほご)にされるという、二重の苦しみのなかで立ち上がる。彼女の原動力は燃え盛る怒りだ。何をおいても、今回の舞台では怒りの感情が必要だった。
 台本を受け取ってからの二週間、来る日も来る日も記憶と向き合い続けた。腹が立つ。イライラする。ムカつく。悔しい。かっとなる。そういう瞬間をかき集めて、巨大な怒りの塔を組み上げている最中だった。
 肉体的な面では、大幅な減量が必要だった。苛烈な状況に置かれた亜矢乃は、食事もろくに喉を通らないくらいのショックを受けたはずだ。それも半端な痩せ方では足りない。客席からでもわかるほど、凄絶な風貌に生まれ変わらなければ意味がない。目標は体重四十キロ以下。
「もう、だいぶ痩せてると思うけど」
 神山はポテトをかじりながら言った。
「まだ全然ダメ。あと五キロは減らさないと」
「名倉さんがそこまで求めてるの? だとしたら、ひどくないかな」
「口出さないで。自分の意思でやってることだから」
「わかった、わかった」
 同じ役者のはずなのに、神山は察しが悪い。私と彼とでは、演技に対する考え方が根本的に違うせいだ。私は効率よく八十点の芝居がしたいんじゃない。百点、いやそれ以上の芝居を見せるためには、これくらいのことは当たり前だ。
 空腹を紛らわせるため、新しいギネスを注文する。
「酒はいいんだ?」
「お酒までやめたら頭がおかしくなっちゃう」
 最近は、目の前まで迫ってくる死にたさを酒で無理やりぼかしているような状況だった。アルコールを断ったら、すぐにでもベランダから飛び降りるかもしれない。吐いてぐったりするまで飲むことで、何とか命をつなぎとめている。
 希死念慮のことは神山に話していない。けど、実は密かに精神科は受診していた。薬を出されたけど、あまり真面目には飲んでいない。死にたくなくなるのはいいけど、そのせいで演技に影響が出るのはいやだった。
 私を死から救ってくれるのは演技と酒だけだ。この二つの他は、恋人だろうが家族だろうが、毛ほども役に立たない。
 ハイペースで飲み続ける私につられるように、神山も杯を重ねた。二時間後には二人ともすっかり泥酔していた。テーブルに寄りかかった神山は、ろれつの回らない口ぶりで「あのさあ、茉莉子(まりこ)」と言った。
「怒らないで聞いてほしいんだけど。名倉さんとは、本当に何もなかったの?」
 酔ってはいたけど、神山の目は剣呑(けんのん)だった。あまりに新鮮な反応で、呆気(あっけ)に取られてしまった。
「嫉妬してるの?」
 神山はむすっとした顔で黙りこんだ。図星らしい。
 女優が劇作家や演出家と付き合っている、という話はたまにある。だが私と名倉の間にそのような関係は成り立たない。性行為をする理由がないからだ。名倉は作家として、私は役者として、互いを必要としている。それ以外の部分に興味はない。
「作家と寝てもいいことなんか何もないから。役者ならわかるでしょ」
 ごく稀(まれ)に、「あの女優は役をもらうために寝ている」という噂(うわさ)が立つこともある。だが私は、そういう噂は大半がガセだと思う。仮にそんな作家や演出家がいるとしても、おそろしく危機管理能力に欠けているから、いずれにせよ相手にしないほうがいい。
 神山はすねたように口をとがらせていたが、「それならいいけど」と自分で話を終わらせた。子どもみたいだ。けど、いやな感じじゃない。
 私は今まで付き合ってきた男たちを見下している。芝居しか取り柄のない女を選ぶ時点で、信用するに値しない。けれど神山を相手にしていると、なぜか見下すことすらバカバカしくなってくる。蔑(さげす)むより先に、つい笑ってしまう。こんな男は初めてだった。
 彼ならきっと、私の「お願い」も叶(かな)えてくれるに違いない。
 その後、神山は当然のようにうちへ来た。躊躇(ちゅうちょ)なくベッドに腰を下ろす神山に、水の入ったグラスを差し出すと、うまそうに飲んだ。
「今日、泊まっていい?」
「最初からそのつもりだったんでしょ」
 神山は、ベッドの下の衣装ケースから慣れた手つきで寝間着を引っ張り出す。私の部屋には二泊分の着替えが常に置いてある。
「風呂入る?」
 無邪気に問いかけてきた神山の前に立つ。
「その前に、ちょっとお願いがあるんだけど」
「なに、改まって」
「私のこと殴ってくれない?」
 神山はぽかんと口を開けたまま、固まってしまった。
「……は?」
「殴ってほしいの。顔とか腕みたいな、外から見えるところはダメね。お腹とか、背中とか、太ももとかなら隠せるから。遠慮しないで、思いっきり殴って」
 ぐにゃっ、と神山の顔が歪(ゆが)んだ。恐怖と困惑と愛想笑いが入り混じったような表情。笑い飛ばそうと努力しているけれど、どうしても笑えないみたいだった。
「なに言ってんの。酔いすぎじゃない?」
「道具使ってもいいよ。定規とか、ハサミとか。救急車呼ばない程度なら」
「やめろって。頭おかしいんじゃないの」
「誰にも言わないから。警察にも、医者にも」
「やめろ!」
 当惑した神山が怒鳴った。まだ意図が理解できていないのだろう。説明していないんだから、無理もないけど。
「『火焔』はね、怒りの舞台なんだよ」
 動揺している神山にも聞き取れるように、ゆっくりと語りかける。
「遊廓に通う男、身請けしようとする男、傷害を加えようとする男。あらゆる男に虐(しいた)げられてきた女たちが、怒り、憤り、抵抗するために立ち上がる物語なんだよ。だから私には怒りが必要なの。この世の女、いや、もうこの世にいない女の分までふくめて、全員の怒りを煮詰めたような感情が必要なの。わかる?」
 神山は頷(うなず)かない。ただ息を呑(の)んで、目をみはっている。
「私の生半可な実体験じゃ、とうてい怒りが足りない。もっともっと酷(ひど)い目に遭って、屈辱を舐(な)めないといけない。特に男から虐げられないといけない」
 それは『火焔』を読んだ時、真っ先に考えたことだった。
 私は、明治に生きる娼妓たちと同程度の辛酸を味わってきただろうか。答えは否だ。少しデリヘルで働いたくらいで、彼女たちの屈辱は追体験できない。でも、顔が売れてしまった私は今さら性風俗店で働けない。
 ならば、暴力はどうだろう。男が私の肉体を痛めつける、その光景を目に焼き付け、憎しみの火を灯(とも)すのだ。
「芝居のため、ってこと?」
 神山の声は、喉の奥から絞り出したみたいにか細い。見方によっては滑稽な状況だった。殴られるほうが胸を張り、殴るほうが怯(おび)えているのだから。うつむいた神山の耳元に顔を寄せ、優しくささやく。
「これは役作りだよ。体重の増減とか、トレーニングと同じ。役者ならわかるよね」
「無理。できない」
「やってくれないなら、誰か他の人に頼むから」
 この一言は効いた。神山は顔を上げ、「他の人って?」と軽く睨(にら)んできた。私は何も言わずに微笑を返す。
「私のことを想うなら、殴って」
 神山の顔はすぐそこにある。少し前のめりになれば唇が触れそうだった。お互い酒臭い息を吐きながら、しばし黙っていた。神山は目を逸らし、また私の目を見て、下唇を強く噛(か)んだ。あまりに強いせいで血が滲(にじ)んでいた。
「芝居のために、必要なんだよな」
「そう言ってるよ、ずっと」
「……少しだけな」
 とうとう、神山が折れた。
 私は「ありがとう」と告げ、さっそく準備に入る。やるなら気が変わる前にやってしまいたい。シャツを脱ぎ、下着を外す。いそいそと服を脱ぎはじめた私に、神山が「おい」と狼狽(ろうばい)した声を上げる。
「なんで脱ぐの?」
「そのほうが狙い、つけやすくない? そっちは着たままでいいから」
 ほんの数秒で全裸になった私は、ベッドに腰を下ろしている神山の前で両手を広げた。天井の照明が、私の裸体に陰影を刻んでいる。舞台に立つための、ただそれだけのための肉体。
「さあ、どうぞ」
 神山の目に、私の身体はどう映っているだろう。きっと、ベッドの上で見るのとは違うはずだ。その証拠に、彼は興奮するどころか、青白い顔で胸の辺りを見ている。何日か前にまさぐり、吸っていた乳房を、血の通わないモノのように凝視している。浮き上がった肋骨(ろっこつ)に濃い影ができている。
「早く」
 イライラが募り、つい神山の手首を握ると、振りほどかれた。
「うるせンだよ!」
 叫んだ神山が右手を握りしめる。私は身構える。神山の拳が、小指側から私の腰に打ち付けられる。痛みは一瞬で過ぎ去ってしまう。
「もっと」
 神山はもう一度、同じように右の拳を打ち付けた。まだまだ痛みが足りない。人を殴ることに慣れていないらしい。
「もっと、もっと」
 私の求めに応じて、神山はひたすら右拳を振り回した。太ももや下腹に拳がめり込む。たまにクリーンヒットすると、うっ、と声が漏れた。そのたびに神山が手を止めるので、毎度「やめないで」と言わなければならなかった。
 続けているうちに、だんだん神山も要領をつかんできた。空手の正拳突きのように、まっすぐに拳をぶつけてくる。下腹にそれを食らうと、内臓をえぐられたような感じがして、一瞬息が止まる。
 身体が悲鳴を上げている。もうやめてくれ、というメッセージを無視して、神山の前に身体を晒(さら)し続ける。
「終わりにしていいか?」
「あと少し」
 そんなやり取りを何度か繰り返し、とうとう神山が手を止めた。私も神山も汗みどろになっていた。二人分の荒い呼吸が部屋に満ちている。
「……勘弁してくれ」
 神山は限界だった。泣き出す寸前の表情で、恨めしそうに私を見ている。今日はこの辺で打ち止めにするのがよさそうだ。この男には、これからまだまだ痛めつけてもらわなければならない。
「このままお風呂入ろうか?」
 さらっと訊くと、神山は化け物でも見るような目をした。それから、さっき引っ張り出した寝間着を衣装ケースに押しこんでしまった。
「ごめん。帰るわ」
 神山は目を伏せたまま、ろくに私の姿を見ることもなく消えてしまった。
 腰骨に痛みを感じる。何度か痛烈に殴られた箇所だった。赤く腫れているが、うまく痣(あざ)になってくれるだろうか。痕が残ったほうが、より屈辱を味わえそうだ。
 目を閉じると、泣きそうな神山の顔が瞼(まぶた)の裏に浮かんだ。きっと、恋人を殴りたくなんかなかっただろう。悪いことしたな、と一瞬だけ思う。
 ――もしかしたら、別れることになる?
 それは困る、と反射的に思った。心がざわざわした。
「あんたって本当に愚かだね」
 声に振り返ると、ベッドの縁に母が腰かけていた。

(つづく) 次回は2023年11月1日更新です。

著者プロフィール

  • 岩井圭也

    1987年生まれ。大阪府出身。北海道大学大学院農学院修了。2018年『永遠についての証明』で第九回野性時代フロンティア文学賞を受賞し、デビュー。他の作品に『夏の陰』『プリズン・ドクター』『水よ踊れ』『この夜が明ければ』『竜血の山』『生者のポエトリー』『最後の鑑定人』『付き添うひと』『完全なる白銀』がある。