物語がつまった宝箱
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  • 第三幕(5) 2023年11月1日更新
 年の瀬の真昼、都心にほど近い住宅街はひっそりとしていた。
「木場(きば)って初めて来ました」
 隣を歩くクリスがはしゃいだ声を出す。「そうなんだ」と適当に流したが、彼女の話は止まらない。
「シモキタとか高円寺(こうえんじ)とか中野(なかの)とか、そういう街ばっかり行っちゃうんですよね。なんか肌になじむっていうか。だからこういう渋いところ来るの、新鮮です。あ、別にいやだって意味じゃないですよ」
 私は早くも、この女に声をかけたことを後悔しはじめていた。
 わざわざ木場まで来たのは、『火焔(かえん)』の舞台がこの周辺だからだ。かつて洲崎遊廓(すさきゆうかく)があった場所は、現在の地下鉄東西線木場駅の東側にあたる。戦後も一帯は赤線地帯――つまりは風俗街として盛んだったらしい。
 だが、洲崎が色街として栄えていた時代から半世紀以上が経過している。下調べで、遊廓の名残りはすでに跡形(あとかた)もないこともわかっていた。それでも構わないから、娼妓(しょうぎ)たちが吸った空気を感じてみたくてここに来た。
 クリスを連れてきたのにも理由がある。
 今回の舞台は私の演じる亜矢乃(あやの)が主役だが、準主役にあてがわれているのは新米の娼妓だ。地方から東京へ出てきたばかりの彼女は、新造(しんぞう)と呼ばれる見習い遊女の立場であり、右も左もわからない。初心(うぶ)な新造を連れた亜矢乃が、洲崎遊廓を案内するシーンは序盤の重要な山場だった。
 木場での街歩きには、敬意と恐れを抱きつつ、先輩遊女の後ろをついてくる小娘が欲しかった。そうでもしないと色街のイメージが掻(か)き立てられない。
 新米の娼妓を演じるのは、私より六つ下の若手女優だった。本来ならその女優を連れてくるのが筋なのかもしれない。だが、彼女は若くして芸歴十年のベテランだ。とてもじゃないけど、舞台の外で初々(ういうい)しさなど発揮してくれない。ならば、本当に初心な女を連れてきたほうがまだましだ。
 最初は城亜弓(じょうあゆみ)を誘おうかと思ったが、彼女はデリヘル勤務で擦(す)れている。元風俗嬢が二人で旧色街を歩いても、荒涼とした会話しか生まれないのは目に見えていた。舞台のイメージをつかむには役に立たない。
 その点、クリスが相手であれば気兼ねする心配はない。養成所に通っている素人だし、私への畏敬の念も持っているはずだ。連絡先は養成所の講師をやっている知り合いを使って手に入れた。クリスに電話をかけ、ある舞台のため街歩きに付き合ってほしい、と誘った。彼女は狂喜し、ぜひおともさせてほしい、と応じてくれた。
 木場駅周辺に広がる住宅街を、私はずんずん進む。クリスは斜め後ろをぴたりとついてくる。
「あっ、あの、遠野(とおの)さん」
「なに?」
「なんで私を連れてきてくれたんですか?」
 クリスは期待のこもった視線を向けている。
 勘違いするな。あなたという人間そのものには何一つ価値を認めていない。私が欲しいのは、尻尾(しっぽ)を振ってついてくる同性の人間だ。そう言ってやりたいのを堪(こら)えて、ふんわりと笑みを浮かべる。
「なんとなく」
 詮索する言葉は返ってこなかった。意味ありげな態度だけで、彼女は満足したようだ。クリスは鼻の穴を膨らませ、大股で歩きだした。話しかけてくるのはうっとうしいが、扱いやすい、という意味ではこの子を選んでよかったのかもしれない。
 木場の東側は、ごく普通の雑居ビルや住宅が並ぶ街だった。細い通りに面した、寂れた飲み屋やトタン壁の東屋から、かすかに往時の残り香が立ち上っていた。私はその街並みに、かつて存在した遊廓を重ね合わせる。想像のなかでボロ屋は立派な和風建築へ変わり、通りには和装の客が行き交う。
「次に出演するのって、どんな劇なんですか?」
 クリスが雛鳥(ひなどり)のように、後ろでピーピー鳴いていた。
「時代劇」
「珍しいですね。衣装とか、大道具とか大変そう。言葉遣いもいつもと違うんですか?」
 さらっと無視してもよかったけれど、想像の上で私はいっぱしの娼妓、彼女は右も左もわからぬ新造ということになっている。尋ねられたことは、きちんと教えてやるのが筋だろう。
「台詞(せりふ)は全部現代の言葉遣いにしてある」
「時代劇なのに?」
「観客に伝わらなければ意味がないんだから、当時の言葉遣いにこだわる必要はない。それが名倉(なぐら)さんの方針」
「次の舞台、名倉敏史(としふみ)の作品なんですか」
 バンケットの舞台に出ることは隠していたのに、つい口を滑らせてしまった。この子といると調子が狂う。始終イライラさせられるせいだろうか。クリスは呑気(のんき)に目を輝かせている。
「バンケット、復活するんですね」
「もともと、解散してはいないけど」
「そうですよね。ごめんなさい。でも嬉(うれ)しくて」
 クリスは一人で浮足立っている。かわいげがないわけではない。ただ、それよりも軽薄さのほうが目についた。
「なんで役者になろうと思ったの?」
 素朴な疑問が、するりと口から転げ出た。「え?」と問い返すクリスの顔には、まだあどけなさが残っている。質問の意味がよくわかっていないようだった。
「あなた、役者にならなくても生きていけそうだから」
 そう告げると、クリスは真面目な顔で考えこんだ。歩きながら腕を組む。
「……憧れですかね」
「誰への?」
「舞台に立っている人への憧れです」
 クリスは「私、昔から地味だったんです」と言う。
「小中高と目立たないタイプで。教室の端っこにいて、同じように目立たない子たちとぼそぼそ話してる感じでした。でも本当はみんなの視線を浴びてみたかったし、注目されてる人たちが羨ましくて」
 金髪の髪を指先でねじりながら話す。
「高校の時、クラスで一番目立つ子が演劇部だったんです。何気ない発言とか、動きとか、いちいち周りの視線を集める子だったんです。カリスマ性のある子で、校内の有名人で」
「その子に憧れて、役者になろうと思ったんだ?」
「きっかけはそうです。東京に来て、とにかく地味な自分がいやで、思い切って金髪にしてみたりネイルしてみたりしたんですけど、似合わないんですよね。あの子なら絶対、ばっちりハマるんだろうけど」
 後半はまるで独り言だった。
 クリスは「目立ちたい」という意思がある分、私よりずっとまともだ。たぶん、役者にならなくても生きていける。むしろ、ならないほうが幸せかもしれない。
 私たちは公園に足を踏み入れた。寒空の下、先客は誰もいない。
「遠野さんは、どうして俳優に?」
 適当にいなしてもよかった。けど、心を覆っていたイライラが別の選択をさせた。
「演技をしないと、生きていけないから」
 クリスが目を瞠(みは)った。
「すごい。さすがです」
 彼女のまぶしい笑顔を見ていると、罪悪感が湧いてくる。誤解だ。私はそんなにすごい人間じゃない。ただ、空っぽなだけ。空虚さを見透かされるのが怖くて、人の皮をかぶっているだけだ。それなのに、いい格好をしたくてあんな言い方をした。恥ずかしさから顔を背ける。
 公園には巨大な石碑が立っていた。言葉らしきものが彫られているが、ほとんど読めない。ただ、左下にこう書かれているのは判別できた。
〈洲崎遊廓開始以来先亡者追善供養〉
 それは、ここがかつて確かに遊廓だったことを示す、唯一の物証だった。
 たくさんの遊女が、ここで亡くなったのだろう。尊厳を捨て、身体(からだ)を売り、籠(かご)のなかの鳥として生涯を終えていった女たち。ここには無数の遊女の嗚咽(おえつ)が渦巻いている。涙はいずれ乾く。だが、染みついた感情は容易に消えない。
 虐(しいた)げられた女たちの視線を感じながら、誓った。私はあなたたちの無念を演じる。燃え上がるような憎悪を、必ず舞台に蘇(よみがえ)らせてみせる。

「限界だ」
 神山(かみやま)は首を前に折り、消えそうな声でつぶやいた。
 自分の部屋で、私は痣(あざ)だらけの裸体を彼の前に晒(さら)していた。肋骨(ろっこつ)の下や腰のあたりに、青黒い痕跡が刻まれている。指で押すだけで声が漏れるくらい痛い。それは、このひと月あまりの〈成果〉だった。
 週に二、三度、神山を呼び出して殴らせた。彼はもはや口答えせず、指示するまま拳を振るってくれた。おかげで私の胸のうちには、熱く暗い憎悪がたぎっていた。傷つけられた娼妓の魂が乗り移っていた。
 神山はうちに泊まっていくこともあったが、身体は求められなかった。私たちをつなぐのは暴力だけだった。すでに体重は四十キロを切っている。劇場で偶然会った知り合いからは、「大した役作りだね」と褒められた。生理は止まっていた。
「もう無理?」
「無理だ。ついていけない」
 神山は両手で顔を覆った。彼の手にも痣が残っている。ついさっきまで、その両手は凶器となって私の下腹をえぐっていた。
「あと少し頑張ってくれる?」
「お前、おかしいよ」
 おかしいのは承知のうえだ。女のほうから懇願してDVさせるなんて尋常じゃない。でも私は役者であって、これは感情の引き出しを作る行為だ。要は仕事だ。仕事に熱心であることを、誰が責められるだろう。
 神山は頭を振った。
「精神科、通ってるんだろ。いつからだ? 薬は飲んでるのか? 舞台に立つより先に、やることあるんじゃないか?」
「……なんで知ってるの?」
 精神科への通院を話した記憶はなかった。神山は苛立ちを隠そうとしない。
「どうでもいいだろ。なんで通ってるんだ。言えよ。」
 とにかく、殴る気はないらしい。私はベッドに座りこんだ。神山は立ったまま私を見下ろしている。
「死にたかったから」
 宙に向けて、私は語りかける。
「と言うか、今も死にたい気持ちはある。朝起きて、あ、死にたい、と思う。暗い記憶が、目の前をふわふわ飛んでるの。無理やり犯されたとか、ひどい言葉で罵倒されたとか、そういう記憶。なんでまだ生きてるんだろう、って思う。あと、たまにお母さんの幻が見える。とっくに死んでるのに。この歳になってもまだあの人に監視されてるような気がする」
 神山の顔は引きつっていた。きっと病気だと思っているのだろう。別に構わない。たぶん、それは事実だろうから。
「死なないためには演技をしなきゃいけない。だからこうして殴ってもらってる。あなたがやってることはただの暴力じゃなくて、私の命をつなぐ行為だよ。だから、遠慮なく殴ってほしい」
 ごうっ、とエアコンが鳴っていた。温かい空気が室内に吐き出される。裸の私はうっすら汗ばむ程度だが、神山の顔は汗でぐっしょり濡れていた。暑くて流れた汗なのか、冷や汗なのか、区別がつかない。
 神山は額の汗を手の甲で拭い、唐突に白状した。
「診察券」
 ああ、と納得する。
 私は病院の診察券を、全部財布のなかに入れてある。精神科のものも含めて。泊まった時にでも、こっそり盗み見たのだろう。ただ、どうしてそんなことをしたのかわからなかった。盗みのために財布を触ったとは思えない。じっと見つめていると、神山は苦しそうに言った。
「名前が知りたかった。茉莉子(まりこ)の、本当の名前」
「知ってどうするの?」
 私は遠野茉莉子。それじゃダメなんだろうか。生まれついての名前なんて、役場や病院でしか使わない記号みたいなものだ。私はいつでも遠野茉莉子を演じている。神山は今までで一番辛(つら)そうだった。
「俺は、本当の名前を呼びたい」
 ぎゅっ、と心臓をつかまれた。
 男の言葉に動悸を覚えるのは初めてだった。見下している男からは、何を言われても興奮しない。けど神山の一言に、私の神経は反応した。やっぱり神山は例外だ。この人は、知らなかった感情を次々と引き出してくれる。
 神山は裸の私に背を向け、歩み去っていく。ここで引き止めなければ、きっと関係は断たれてしまう。それは嫌だ。
 台所に走り、包丁を手に取る。
「待って」
 靴を履こうとしていた神山が振り返る。視線は真っ先に包丁へ注がれた。
「死にたい、って言ったよね。あれ、嘘(うそ)じゃないよ」
 私は包丁を逆手に持ち直し、先端を痣の残る下腹部へ向ける。神山が息を呑(の)んだ。
「変なことするな」
「するよ。うまく演技できないなら、生きていけないから」
 脅し半分、本音半分だった。
 切っ先をゆっくりと近づける。確実に死ぬなら腹なんかより首の動脈を傷つけたほうがいいんだろうけど、首はやっぱりダメだ。人目につく。お腹なら、服を着れば綺麗(きれい)なまま死ねる。明治時代の遊女は、どうやって命を絶ったのだろう?
 神山は眉間に皺(しわ)を寄せ、固く目を閉じていた。迷っている。止めるか、帰るか。あるいは警察に連絡するつもりか。
「死ぬな」
 身体をねじるようにして、絞り出した声だった。
「ここで死んだら、痴情のもつれ、ってことになるのかな」
「よせ」
「なら、どうしてほしいかわかるでしょ?」
 私は包丁を下げない。先端をさらに近づける。鈍く光る刃先がほんの数ミリ、肌を押す。皮膚の張力が、ギリギリのところで刃の侵入を防いでいる。
「早く」
 とうとう、神山が瞼(まぶた)を開いた。
 無言で歩み寄り、私の手首を握る。包丁を奪い取られ、靴脱ぎ場に捨てられた。金属音が鳴る。次の瞬間、仰向(あおむ)けに押し倒された。腰を打ち、痛みで顔がゆがむ。神山は馬乗りになり、血走った目で私を睨(にら)んでいた。
 振りかぶった右拳が、私の左頬に打ちおろされた。ごりっ、と音がして、肌が熱を持つ。見える場所には傷をつけないでほしいと伝えたのに、よりによって顔を殴った。私の言うことを聞かなかった。
 抗議をする暇もなかった。今度は左の拳が飛んできて、右の頬桁を殴りつけた。唇が切れ、鉄の味が口に広がる。私は顔の前で両腕を交差した。
「やめて!」
 意外にも、神山はすんなり応じた。腹の上に感じていた重みがなくなり、這(は)うようにリビングへと逃げる。振り返ると、神山は温度のない目で私を見ていた。
「屈辱だったか?」
 背筋に寒気が走った。
 その一言で、神山が顔を狙った理由を悟った。
 神山は、私から見下されていることを知っている。そして、私が男に虐げられる体験を求めていることも。すべてをわかっているからこそ、あえて私の指示に逆らい、最も傷つけてほしくない箇所を傷つけた。
 その行為こそが、私に深い屈辱をもたらすとわかっていたから。
 神山は、遠野茉莉子を完璧に理解している。私はただ殴ってほしいわけじゃない。怒りの、憎悪の感情が欲しいのだ。そのために裏をかき、屈辱を味わわせた。他にこんな真似のできる人はいない。
 二度、三度と寒気の波が来て、そのたびに身体が震えた。ふふっ、と笑いが漏れた。私は初めて、喜びの感情の一端に触れた気がした。
「ありがとう」
 表情を見られるのを避けるように、神山は顔を伏せた。
 その反応に、再び私の胸は高鳴った。

(つづく) 次回は2023年11月15日更新です。

著者プロフィール

  • 岩井圭也

    1987年生まれ。大阪府出身。北海道大学大学院農学院修了。2018年『永遠についての証明』で第九回野性時代フロンティア文学賞を受賞し、デビュー。他の作品に『夏の陰』『プリズン・ドクター』『水よ踊れ』『この夜が明ければ』『竜血の山』『生者のポエトリー』『最後の鑑定人』『付き添うひと』『完全なる白銀』がある。