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  • 第三幕(6) 2023年11月15日更新
 五日間にわたる『火焔(かえん)』の公演はほぼ毎回、満員だった。
 話題性は高かった。『落雷』以来、約二年ぶりに名倉敏史(なぐらとしふみ)が書いた台本であり、主演は注目株の遠野茉莉子(とおのまりこ)。その他の出演者も手練(てだ)れの役者ばかりで、隙はない。スタッフも含めて万全の体制であった。
 衣装や大道具にも予算をかけた。娼妓(しょうぎ)たちのまとう絢爛(けんらん)な着物。明治時代の遊廓(ゆうかく)を再現した書き割り。可動舞台がある宮下(みやした)劇場を使ったのも、妓楼の内と外、二つの場所を交互に出現させるためだ。
 とにかくこだわりが詰まった舞台だった。そのせいで、チケットが売れたにもかかわらず主宰の名倉は赤字らしい。けど、後悔はしていないだろう。名倉は演劇の悪魔なのだから、舞台さえよければ破滅しようが関係ない。
 私も久々に、心ゆくまで舞台の上で役柄を演じた。やはり名倉の作り上げた人物が最も肌に合う。結った髪に簪(かんざし)を挿し、着物の袖を振りながら、男たちに復讐(ふくしゅう)を遂げようとする遊女を演じた。
 神山(かみやま)からの暴力はきわめて役立った。男たちにいたぶられる瞬間、神山の振るう拳が重なり、恐怖が蘇(よみがえ)った。屈辱的な記憶は怒りの源泉となった。神山は一度も舞台に足を運んでいない。
 今、緞帳(どんちょう)の裏で私はひっそりと幕開けを待っていた。
 これから千秋楽の夜公演がはじまろうとしている。これが終われば亜矢乃(あやの)を演じることはなくなる。
 真っ白な死に装束を身に着け、正座をして開演を待つ。舞台上にはただ一人。周囲には真っ暗な闇が広がっている。さっきまで客席のざわめきが聞こえていたが、開演時刻まで五分を切ったころから不思議と静まりかえった。
 開演のブザーが鳴る。
 するすると緞帳が上がり、暗闇に一筋の光がさす。スポットライトに照らされた私は、背筋を伸ばし、正面を見据えている。客席は静寂に包まれていた。幾度となく繰り返した台詞(せりふ)が、ひとりでに口を衝(つ)いて出る。

  亜矢乃  ご来場の皆々様、私の姿が見えますでしょうか。 身に着けておりますはご覧の通り死に装束。行き着く先は極楽かはたまた地獄か、絶命せぬことには判じられません。ただし皆々様、ご注意を。極楽にせよ地獄にせよ、もとは人間がこしらえた作り事でございます。しかしながらその作り事がいつからか形を持ち、実在するかのようにふるまっているのもまた事実。人は作り事という現実のなかでしか生きられぬ性(さが)なのかもしれません。 私がおりますのは洲崎(すさき)遊廓。一夜限りの芝居をうって、酔わせることが手前ども娼妓の仕事です。ここでは愛も情も苦も楽も、すべて作り物。真が偽になり、偽が真になる。真偽の裏返る瞬間を見逃さぬよう、これより先まばたきすらも惜しんでくださいますよう、謹んでお願い申し上げます。
 私は両手をついて、深々と頭を下げる。余韻を断ち切るようにスポットライトが消え、可動舞台が動き出す。  次に照明が灯(とも)った時、観客たちの前に現れるのはある妓楼の一部屋だ。そこにいるのは男と女が一人ずつ。私は馴染(なじ)み客との別れを惜しみ、背中を撫(な)でている。まもなく、その男に身請けされる予定なのだ。遊女は外の世界へ出られる日を夢見て、浮足立つ。しかしその夢は、あっけなく打ち砕かれる。覆面の男たちに斬りつけられ、醜い傷が残ったことで話は立ち消えになってしまう。  私は一人、部屋の隅でうなだれて独白する。
  亜矢乃  傷一つで捨てる男なら、いっそ貰(もら)われないで正解だった。そう考えようともしたけれど、身体(からだ)は思うように働いてはくれない。 男、男、男。この世は男の理屈で回っている。楼主も客も、男ばかりだ。私らは男に飼われている畜生だ。悔しくて悔しくて、また傷が熱を持ってくる。止まったはずの血が滲(にじ)む。 壊してやる。この洲崎で、男の論理をぶち壊してやる。
 顔に醜い傷をつけられた私は客を取ることもできず、温情だけで妓楼に残されていた。暇を持て余した私は若い新造(しんぞう)を引き連れ、洲崎遊廓を案内する。監視のためについてくる男衆を引き離してから、私は彼女の耳元でささやく。
  亜矢乃  致し方ない事情はあったとて、こんな場所で死ぬまで男に媚(こ)びを売るのは御免だろう。それならいっそ、ひっくり返してしまわないかい。籠(かご)から出るのに飼い主の許しはいらないんだ。内側から壊しちまえばいい。
 同じような手管を使って、私は幾人かの遊女を味方につける。狙うは娼妓による蜂起。そして、洲崎遊廓の転覆であった。遣(や)り手のばあさんや楼主の監視をかいくぐり、私は着々と計画を立てる。  私は男衆の一人を金で抱き込み、大量の油を用意する。これを遊廓一帯の建物に撒(ま)いて火を放つ算段だった。混乱のなかを、遊女たちは思うように逃げればいい。借金など知ったことか。  一方、警察の働きによって、私の顔に傷をつけた下手人(げしゅにん)たちが明らかになる。正体は、とある商家の番頭とその仲間であった。番頭はかつてこの妓楼に来て、私を指名しようとしたが、勝手に「嘲笑された」と勘違いして帰ったらしい。傷害事件はその意趣返しであり、つまりは独りよがりの思い込みによる犯行であった。怒りはさらに掻(か)き立てられる。
  亜矢乃  ふざけるな。私は男の憂さを晴らす小道具じゃあないんだ。同じ人間なんだよ。傷つけていい、いたぶっていい人間なんて、この世のどこにいるんだい。この顔は、誰かの溜飲(りゅういん)を下げるための的じゃない。
 絶叫が、劇場の天井にこだまする。  クライマックスに向かうにつれて、客席の熱気は静かに高まっていた。手ごたえはある。あとは、ありったけの感情を炸裂(さくれつ)させるだけだ。場面転換の直前、一気呵成(いっきかせい)に台詞を言い放ち、ふと客席を見て、一瞬固まった。  最前列の座席に母が座っていた。あの日と同じ服装で、つまらなそうに舞台を観ていた。  その視線は、羞恥心を強く刺激した。  舞台に立って「恥ずかしい」と思ったことは、これまで一度もなかった。演技の場面が日常から劇場に変わっただけで、恥ずかしいことなんて何もないはずだった。でもなぜか、母には観られたくなかった。  とっさに思ったのは、バカにされる、ということだった。あんたが女優なんて笑っちゃうよ。恥かく前にさっさとやめなよ。いい服着せてもらっても、田舎出のつまらない女だってことは隠しようもないからね。私が死んだ途端、舞い上がって夢みたいなこと言い出してさ。みっともない子だよ。  音が鳴るくらい、強く奥歯を噛(か)んだ。  かろうじて演技を続けることができたのは、亜矢乃という役に没頭していたおかげだった。バンケットの舞台でなければ、もしかしたら役を忘れていたかもしれない。場面転換のため、照明が落ちる。  そこから十分ほど、私の出番は空く。水を飲み、呼吸を整え、さっき見た幻影を忘れようとした。だが、肌にこびりついた母の視線は消えてはくれない。母の言葉はまだ頭のなかに響いている。  あんたはそんな、器用な性格じゃないよ。お母さんが一番わかってるんだから。分相応、って言葉知ってるかい。地元に残ってちゃんとした仕事を持った男と結婚して、普通に暮らせばそれでいいんだから。  ――うるせえな。  誰のせいで演技する羽目になったと思ってる。あんたが産んだから、あんたが育てたから、私の人生はこうなった。演じることがみっともないと思うなら、それはあんたがみっともなく育てたせいだ。  心のなかで母への反論をぶちまけ、再び舞台に立つ。母はやはり最前列で待っていた。  密かに妓楼を抜け出した私たちは、用意していた油を遊廓に撒き散らす。あとは火を放つだけだった。しかし買収したはずの男衆が楼主に密告していたことから、企みは露見する。逃げる遊女たちは一人、また一人と捕らえられ、ついには私だけになる。  逃げ延びた先で、私は松明(たいまつ)の炎を頭上に掲げる。
  亜矢乃  これからこの火が私らの命を解放してくれる。いばりくさっている楼主も、下卑た目つきの常連客も、燃えてしまえば皆が灰。たとえ、飢えてくたばる定めだろうが、飛び立つ鳥は止められない。見よ、この橙(だいだい)に燃える炎を。誰にも消せない、地の底の業火を。
 松明の火をそっと油に移す。炎は瞬く間に燃え広がり、洲崎遊廓の建物を飲み込んでしまう。熱風が吹き荒れ、火の粉が舞う。遊女も客も男衆も、悲鳴をあげて我先に逃げ惑う。その様子を見て私は高笑いする。
  亜矢乃  可笑(おか)しいねえ。死ぬかもしれない、と思った途端に誰もが仮面をかなぐり捨てて、目の色変えて駆けずりまわる。所詮私らのやっていた芝居は、平穏無事な日常という舞台あってのものだったってこと。これじゃ、今まで己で命を絶った女たちが何のために死んだのかわからない。だってそうだろ。死ぬくらいなら、さっさと火ぃ付ければよかったんだ。
 放火は重罪だ。捕まれば、死罪は免れない。人目につかぬよう遊廓から逃げ、松林へと入りこむ。息をついたのもつかの間、配備されていた警察官たちが私の存在に気が付き、追いかけてくる。必死で松林のなかを逃げるけれども、前後を挟まれて逃げ場を失う。左手には切り立った崖、眼下には燃え盛る遊廓。飛び降りれば無事では済まない。  集(つど)った男たちを前に、私は最後の啖呵(たんか)を切る。
  亜矢乃  あんたら男が何もかも思い通りにできると思ったら、誤りだ。
 そして、私は崖下へと身を投げる。  舞台には二メートルほどの高さの台が設(しつら)えられていて、下手に隠してあるもう一つの台へ飛び移る仕組みになっていた。練習でも本番でも、飛び損なったことは一度もない。けれど私は台を蹴る直前、横目で客席のほうを見てしまった。母がどんな顔で観ているか知りたかった。飛びながら見た母の顔は、冷たい無表情であった。  ほんの一瞬視線を外したせいで、飛び降りたはいいものの、着地の時に左足を踏み外した。そのまま派手に転落し、ものすごい音が辺りに響いた。気がついたら、舞台袖で仰向(あおむ)けに寝転んでいた。  控えていたスタッフが飛んできた。顔が真っ青だ。少し落ちたくらいで大袈裟(おおげさ)な。 「大丈夫ですか。立てますか」 「うん。平気……」  身体を起こそうと力を入れると、左足首の関節に激烈な痛みが走った。叫び出しそうになるのを気力で堪(こら)える。舞台上ではまだ芝居が続いている。すでにフェードアウトしている私が、ここで叫ぶわけにはいかない。額に脂汗(あぶらあせ)が滲(にじ)んだ。  スタッフに肩を借りて、右足だけでどうにか立ち上がる。しかし少しでも左足を踏みこめば激痛が走るため、歩くことはできない。くるぶしが腫れあがり熱を持っていた。ただの捻挫ではなさそうだ。舞台監督の渡部(わたべ)が駆けつけ、患部を見るなりぎょっとした顔をした。 「なんですか、その腫れ方」 「まずいですよね」 「骨、折れてるんじゃないですか。早く病院行ったほうが」  私はとっさに、「出番あるから」と渡部の言葉を遮る。  私にはまだやるべきことが残っている。『火焔』は、冒頭と同じく亜矢乃の独白で幕を閉じるのだ。足が痛もうが、熱が出ようが、やり遂げなければ舞台が終わらない。しかし渡部は首を横に振った。 「どう見ても普通の怪我じゃない。だいたい、歩けるんですか?」 「少しなら」  左足を慎重に踏み出してみる。ほとんど体重をかけていないのに、足首を鉈(なた)で断裂されたような痛みが走る。激痛に頭がくらくらする。渡部は周囲のスタッフに聞こえるくらいのため息を吐(つ)いた。 「一歩も歩けないじゃないですか。諦めましょう」 「名倉さん、呼んで」  渡部は苦い顔をしたが、構っていられない。残された時間はあと五分もなかった。 「早く。時間がない」  気を利(き)かせたスタッフが走り出し、客席にいた名倉を舞台袖に連れてきた。名倉は左足を押さえてうずくまる私を見て、すぐに状況を察したようだった。彼の問いかけは簡潔だった。 「どうする?」 「出ます」  話はそれで済んだ。名倉は渡部に向かって一つうなずき、「あとはよろしく」と言い残して客席へ戻っていった。信じられない、とでも言いたげな渡部だったが、名倉の意思に逆らえるはずもなく、私の出演を黙認するしかなかった。  間もなく、最後の出番がやってきた。舞台上には誰もいない。背筋を伸ばしてしゃんとした表情を作る。私は亜矢乃だ。観客に無様なところは見せられない。たとえ心臓を突かれても、演じきらなければ舞台は完成しない。  皆の視線を一身に浴び、一歩、また一歩と舞台中央に近づく。左足首に、神経を刻まれるような痛みを覚える。それでも涼しい顔のまま進んでいく。  中央にたどりついた私はその場に正座をして、正面を見据える。私の顔にはいまだ醜い傷がこびりついていた。
  亜矢乃  人は生前の行いによって死後の居場所が振り分けられると申します。火付けという重い罪を働いた私に用意された居場所は、当然地獄。霊魂となった後も、永遠の火に焼かれる定めが待っているのでしょう。 しかしながら火付けが重罪と申すのであれば、そこに至るまで私どもを追い詰めてきた男たちは、罪人でないと申せましょうか。彼らは極楽へ行き、私は地獄へ落ちる。それが道理であれば従うまでですが、その道理もどなたが定めたものやら、わかりようもないことです。 私はこうも思います。所詮、現実はすべて作り事。私は命を捨てたことで、作り事の世界からようやく解き放たれたのです。ここから先、とうとう真実の人生がはじまるのです。たとえ行き先がどこであろうと、偽物の人生を生きるよりはましではありませんか。そのような繰り言を申すことができるのも、命あってのこと。私はそろそろお暇(いとま)せねばなりません。 善男善女の皆々様におかれましては、いずれ極楽へたどりつくことができるよう、心の底からお祈り申し上げます。
 両手をついてゆっくりと頭を下げる。それと同時に、示し合わせたように一斉に拍手が湧いた。私はつむじで喝采を浴びる、緞帳はしずしずと下りていく。いつもならこのまま閉幕する。だが最後の最後で、あと一度だけ、母の顔を見てみたくなった。冷たくても、無感動でもいい。母の前で演じきったという証がほしかった。  私は擦(こす)りつけていた額をかすかに上げ、上目遣いで母のいた最前列の席を見た。  そこには、クリスが座っていた。  視線が宙で交錯すると、彼女は息を呑(の)んだ。拍手はしていない。両手は強くアームレストをつかんでいる。わずかな時間だったが、私には、剥がれかけた人差し指のネイルまでよく見えた。  幕が閉じるが、拍手はまだ続いている。この後はカーテンコールが待っているが、私は立ち上がることができなかった。閉幕した瞬間、忘れていた左足首の激痛が蘇り、その場に情けなく転がった。 「遠野さん」  スタッフに左右から担がれ、私は退出させられた。悔いはなかった。ともかく、舞台は終わったのだ。大役を務めた達成感と、責任を果たした安堵(あんど)が、胸のなかにじんわりと広がっている。  救急車を待っている間、楽屋に寝かされた。遠くから、また拍手が聞こえてきた。私抜きでカーテンコールをやっているのだろう。潮の満ち引きのように寄せては返す喝采を聞きながら、別種の感想がふつふつと湧いてきた。  ――降りそこねた。  この怪我は、演じることから降りるためのまたとない好機だったかもしれない。私はたぶん、死にたさに苛(さいな)まれたり、恋人に暴力を求めたりしない、健康的な人間になるためのチャンスを反故(ほご)にした。  でも、そうするしかなかった。  たとえ二度と立てなくなったとしても、舞台に出ない、という発想は微塵(みじん)もなかったのだから。  夜明け前の待合室で、私はナースセンターの照明をぼんやり眺めていた。  退屈だけれど、やることがない。スマホは手元になかった。たぶん、家だろう。神山が持ってきているかもしれないが、それどころじゃなかったはずだ。気を失っている私を見て、彼はどう思っただろう。そのまま死なせてやろう、とは考えなかったのだろうか。  ――生き延びちゃったなあ。  それが、率直な感想だった。  救急車で運ばれたのは二か月ぶりだ。前回は『火焔』の千秋楽で、足首を骨折した時。あの時は三週間入院することになった。左足首には、つい最近までギプスが装着されていて、いまだに痛みや腫れは残っているけれど、松葉杖なしで歩くことができる。  今日運ばれたのは、睡眠薬をアルコールと一気飲みしたからだ。噂(うわさ)の胃洗浄もやった。城(じょう)が言っていた通り、溺れるような息苦しさがあった。けど、意識が朦朧(もうろう)としていて正直なところよくわからない。吐きまくったせいか、とにかく胃が焼けるように痛い。  自殺未遂、ということになるのだろう。  理由は自分でもはっきりと語れない。亜矢乃の言葉を借りれば、命を捨てて、作り事の世界から解き放たれたかった。死ぬまで芝居を続けることが、急にしんどくなった。衝動的に、ありったけの睡眠薬をチューハイで流しこんだ。  気鋭の女優による自殺未遂を、演劇関係者が知ったらどう思うだろう。傍目(はため)には、私は成功者と言っても差し支えないと思う。主観を抜きにしても、遠野茉莉子は舞台演劇の第一線で活躍している。だが、それは死なない理由にはならない。  城はこう言っていた。  ――その人の地獄は他人には絶対わからないですから。  名倉には名倉の、城には城の地獄がある。それらが私には見えないように、私の地獄もまた他者には見えない。演じる者同士であっても、他人のことを理解なんてできるはずがない。 『火焔』の千秋楽から数日後、名倉の事務所に手紙が届いた。送り主はクリスで、宛先は私になっていた。手紙は骨折の入院中に手渡された。  そこには舞台の感想が記されていた。私の演技に圧倒され、感動したという。あまりの凄みに自信を喪失し、養成所を辞めようかと考えている、とも書いてあった。その選択が頭に浮かぶだけ、クリスは私より幸せなのだろうと思う。私はどんなにしんどくても、舞台から降りられない。  空が白んできた。早朝の日差しを背に、神山が歩いてくる。待合室の隣の席に座った神山は、目頭を揉(も)んでいた。 「医者に説教されたわ」  私のほうを一瞥(いちべつ)もせずに語り続ける。 「彼女の身体に不自然な痣(あざ)があるけどDVか、って言われた。俺は知らないってごまかしたけど、あれは確信してたな」 「ごめん。迷惑かけて」 「そう思うなら、自殺未遂とかやめてくれない?」  ナースセンターから話し声が聞こえた。シフトの引継ぎだろうか。私のようなおかしな人間を助けるために、この病院は二十四時間稼働している。 「帰ろうか」  神山が歩き出し、私が後ろに続く。夜間出入口から外に出ると、日差しがやけにまぶしかった。内臓は痛くて重い。けど、それ以外は運ばれる前と何も変わらない。不思議だ。昨夜、確かに死のうとしたのに。  二人で、タクシーで家まで帰った。玄関ドアに鍵を差しこんだところで、神山は立ち止まった。 「このタイミングで悪いんだけど」  差し出された右手には、合鍵が載っていた。無言でそれを受け取る。彼はよく我慢してくれたと思う。さんざん無茶を言った私に、引き留める権利なんてない。 「今日のことは誰にも言わないから。付き合ってたことも」 「うん」 「じゃあ、元気で」  神山は颯爽(さっそう)と去っていく。早朝の光へと溶けていく背中に、私はつい「あっ」と声をかけていた。何を言いたかったわけでもない。ただ、もう一度だけ顔を見たかった。神山は普段と変わらない、無垢(むく)な顔で振り返った。 「本当の名前で呼んでいいよ。一回だけ」  まだ覚えているだろうか、という懸念はすぐに吹き飛ばされた。神山は晴れ晴れとした表情で右手を振った。 「ありがとう、――」  今度こそ彼は去っていった。その背中を追いかけたい衝動に駆られる。けれど、そうはしない。役者としての私が、行くな、と叫んでいるから。私は手がじんじんと痺(しび)れるくらい、合鍵を強く握りしめた。  こんな気持ちになるくらいなら、やっぱりあの男と付き合うんじゃなかった。

(つづく) 次回は2023年12月1日更新です。

著者プロフィール

  • 岩井圭也

    1987年生まれ。大阪府出身。北海道大学大学院農学院修了。2018年『永遠についての証明』で第九回野性時代フロンティア文学賞を受賞し、デビュー。他の作品に『夏の陰』『プリズン・ドクター』『水よ踊れ』『この夜が明ければ』『竜血の山』『生者のポエトリー』『最後の鑑定人』『付き添うひと』『完全なる白銀』がある。