物語がつまった宝箱
祥伝社ウェブマガジン

menu
  • 第四幕(3) 2024年1月5日更新
 幡ヶ谷(はたがや)の稽古場に行くのは、久しぶりだった。
 今まで何度か使っているけれど、最後に来たのは五年ほど前だ。ここ数年は下北沢(しもきたざわ)の舞台に出る機会が少なくなったこともあり、一時期ほど井の頭(いのかしら)線に乗らなくなった。それでも週に一、二度は乗っているから十分な頻度かもしれないけど。
 昼下がりだった。あらかじめ指定された部屋に入ると、一面鏡張りの空間で二人の男が待っていた。丸眼鏡をかけた中年の劇作家と、その後輩である舞台監督。人を待たせることのほうが多い、と城(じょう)に言われたのを思い出す。
「お疲れ」
 渡部(わたべ)が片手を挙げた。彼と会うのも『火焔(かえん)』以来だ。名倉(なぐら)はクリップで留めた書面に目を通していた。傍らに置かれた『幽人(ゆうじん)』の単行本には、無数の付箋が貼りつけられていた。
「稽古場なんて借りなくていいのに」
 私は率直な感想を伝える。ここに呼び出されたのは、『幽人』の舞台化に向けた作戦会議のためだと聞いていた。
「いいんだ。ぼくがそうしたかったから」
 名倉は顔を上げずに口だけ動かす。
「なんで?」
「稽古場のほうが、緊張感がある」
 それはそうかもしれない。けど、まだ台本もないのだ。だったら喫茶店でいいような気がするけれど。フローリングにあぐらをかくと、名倉は付箋だらけの単行本を手にして、こちらに表紙を見せた。
「面白かった」
「よかったです」
 渡部が「実は」と口を挟む。
「早速、出版社に舞台化の許諾を申請している」
 思わず「もう?」と声が出た。『幽人』のことを連絡してから、まだ二週間も経(た)っていない。名倉は事もなげに頷(うなず)く。
「正式な返事はまだだけど、感触からするとたぶん問題ないと思う。脚本はぼくが書く。早ければ夏のうちに上演したい」
 名倉が原作のある舞台を手掛けるのは初めてだった。オリジナルの脚本よりは早く書けるだろうが、上演まで約六か月というのはずいぶん短い。
「急いでますね」
「茉莉子(まりこ)の気が変わらないうちに。スケジュールは?」
「なんとでも」
『幽人』を舞台化できるなら、他の予定はすべてキャンセルしてもいい。そもそも私から言い出したことだ。
「配役なんだけど。茉莉子は今日子(きょうこ)を演じたいってことでいいよね?」
 名倉はその前提で話を進めようとした。しかし私は首を横に振る。
「幽霊の役がいいです」
 名倉と渡部は、揃(そろ)って怪訝(けげん)そうな顔をした。無理もない。
「確かに、この小説の語り手は今日子なんですけど。でも、主役は今日子じゃないと思うんです。彼女が出会う幽霊こそが、本当の主人公です」
 今日子が序盤で出会う幽霊の女性は、要所要所で登場する。今日子にとっては無二の友人であり、その人生を大きく変容させる存在として描かれている。
「……茉莉子は、幽霊役がいいってこと?」
「はい。不満ですか?」
 名倉は腕組みをして、しかめ面で考え込んだ。たぶん、私を今日子役に据えた脚本を構想していたのだろう。計画が狂ったみたいだ。けど、譲歩するつもりはなかった。
「それに、今日子を演じてほしい役者は別にいます」
「誰?」
「城亜弓(あゆみ)」
 この小説を読んだ直後、真っ先に浮かんだのが城だった。
「仲良くしてるからってわけじゃないです。今日子の空虚さを演じるにあたっては、彼女が一番の適役だと思います」
 存在感が薄く虚無的な今日子は、我が強くオーラのある俳優には演じられない。空っぽで、演技をすることによって人間のふりをしている女――つまり城のような役者こそがふさわしい。
 名倉は「わかった」と言い、スマホに何かを打ち込んだ。まだ難しい顔をしているが、一応は私の希望を呑(の)んでくれるらしい。
「ギャラとスケジュール次第だけど、オファーは出してみる」
「よろしくお願いします」
「もし城が受けたら、茉莉子と城のダブル主演という名目にさせてもらう。台本はその方向で書く」
 有無を言わせない口調だった。舞台で幽霊を演じさせてくれるなら、主演だろうがなんだろうが構いはしない。
「他に言っておきたいことはある?」
「ないです。お任せします」
 部屋の鏡に、私と名倉と渡部、三人の姿が映っていた。稽古場にいると、実際の人数よりも多くの人に囲まれているように感じる。鏡のなかの名倉が口を開いた。
「いろいろあって、小屋は宮下(みやした)劇場にしようと思っている」
「えっ?」
『火焔』でも使った宮下劇場は可動舞台で知られる。『幽人』でも場面が頻繁に変わるため、舞台装置の使いがいがあるのかもしれない。だがそれよりも、気になることがあった。
「宮下劇場って、今年の夏で閉館するんじゃ?」
「そうだよ。たぶん、あの劇場での最終公演になると思う」
 宮下劇場の閉館は、二年前に発表されていた。独自の装置を持ち、数多くの演劇やイベントを上演してきた劇場の閉館は、関係者たちからはナーバスに受け止められている。その最終公演を、このタイミングで名倉が取れるとは思えなかった。
「今からで取れるんですか?」
「実は別件でやる予定だったけど、そっちはキャンセルする」
 名倉はさらりと言う。
「元々、違う演目をかけるつもりだったってことですか?」
「うん。でも、それは中止した。ぼくは『幽人』に懸ける」
 この時期なら、おそらくすでに関係者には本来の演目でいく旨を伝えていたはずだ。スタッフや役者にも連絡済みだったろう。それを半年前になって根本から変更するとなれば、抗議の声が上がってもおかしくない。補償問題に発展する可能性すらある。しかし名倉には、躊躇(ちゅうちょ)も恩着せがましさもなかった。そうするべきだからそうする。ただそれだけだった。
 事前の打ち合わせの段階から、わざわざ稽古場を使っている理由もうっすらとわかった。名倉にとってすでに舞台ははじまっている。私は久しぶりに身震いした。手足がぴりぴりと痺(しび)れるのは、緊張のせいだろうか。上等だ。鏡のなかの自分に、挑むような視線を送る。
 ――楽しみにしていろ。
 もう一人の自分が、私を見つめ返していた。

 夫は優しい男だ。
 私の体調がすぐれない日には、いっさいの家事を引き受けてくれる。友達や同僚との飲み会で遅くなっても小言ひとつ言わず、身の回りのことは自分でこなす。誕生日や結婚記念日は忘れず、食事やプレゼントの準備をしてくれる。
 いい男性だと思う。私にはもったいないくらいに。
 けど、私は知っている。夫が愛しているのは、「人間に擬態している」私だ。どこまでも存在感がなく、主体性も意思もない、空虚な私ではない。公務員としてまじめに働き、たまに愚痴をこぼしながら、アクセサリーにときめいたり、アニメ映画に涙ぐんだりする普通の女性。そういう私だから、優しい男でいてくれる。それが擬態であることを知らないから――。
 時おり、すべて引きはがして素の私を見せつけてやりたい衝動に駆られる。
 無表情で出勤し、自宅に帰ってきて、無言でただじっとテレビを見ている私。食べているものをうまいともまずいとも思わず、生命を維持するためだけに摂取している私。どれだけ愛撫(あいぶ)されても眉ひとつ動かさない私。
 そういう私を知ったら、夫は絶対に愛してはくれない。
 だから私は今日も演じ続ける。平凡で、どこにでもいる二十代の女性を。

 夫の役は神山一喜(かみやまかずき)に決まった、と電話で聞いた時、名倉のセンスのよさに驚いた。私も『幽人』を読んでいる間、彼のことが頭にあった。城と違って配役の希望を出さなかったのは、元恋人という関係がわずらわしかったからだ。
 別れてから、神山とは一度も会っていない。対面しても動揺が顔に出ない自信はある。ただ、向こうがうまく振る舞えるかどうかはわからない。舞台の上では器用に演じる俳優だけど、日常では別だ。
「茉莉子、聞いてる?」
 電話の向こうの名倉に呼ばれ、はっとした。
「すみません。大丈夫です」
「ならいいけど。あと、今日子の母親は蒲池(かまち)さんにお願いすることにした」
 蒲池多恵(たえ)。バイプレイヤーとして名高い、五十代のベテラン俳優だ。映画やラジオドラマの経験も豊富で、実力は間違いない。舞台は何度も観たことがあるけれど、共演するのは初めてだった。
 そうしてくれと頼んではいないのだけれど、名倉はすべてのキャスティングを教えてくれた。けど、肝心の役柄だけは後回しになっていた。焦(じ)れた私は自分から尋ねた。
「それで、今日子役は?」
「あ、悪い。言ってなかった。城は即答でオーケーだった」
 その答えに安心する。城が今日子を演じてくれるのなら、心配することはなさそうだ。その他の役者たちも手堅い実力者ばかりである。これで、舞台が破綻する恐れはまずないだろう。自宅のベッドで電話していた私は、仰向(あおむ)けに寝転がった。
「いい役者さんばっかりじゃないですか」
「当たり前だろ。ところで、相談なんだけど」
 名倉の声が低くなった。
「今、原作者の山本(やまもと)先生に台本チェックしてもらってて。今度、対面で打ち合わせするんだけど、茉莉子も来てくれないか」
「私、いりますか?」
 とっさにそう尋ねていた。名倉は「先方の希望でね」と言う。
「茉莉子が『幽人』に惚(ほ)れ込んだことがきっかけだって話したら、ぜひ一度お会いしたい、って先生が。演じるにあたって原作者の意見を聞いておけるのも悪くないと思うんだけど、どうかな」
 すぐには応じられなかった。あの小説を書いた本人と会う。嬉(うれ)しいとか光栄とかより、怖い、という感情が先に立った。『幽人』を読んだ時、あまりにも私に似た人がそこにいた。まるでドッペルゲンガーみたいに。もし会えば、私の内面をすべて見透かされてしまいそうだ。
 沈黙する私に、名倉はぼそぼそと言う。
「嫌なら断ってもいいんだけど。ただ、こっちも原作使わせてもらってる立場だし、どちらでもいいなら受けてくれると……」
「わかりました」
 恐れを断ち切るように、勢いで言い切った。どうせ実質的には拒めないのだ。それなら深く考えずに会ってしまったほうがいい。それに、山本明日美(あすみ)という人への興味もある。名倉は「よかった」と安堵(あんど)した。
「日程は別途、調整するから」
 電話が切れると、すぐに母の声が聞こえた。
「バカだねえ」
 身を起こして振り返ると、リビングの隅に積んだゴミ袋の横に母が立っていた。蔑(さげす)むような薄笑いを浮かべている。
「何が?」
「目の前に本物の幽霊がいるのに、どうしてこっちに訊こうとしないのか」
 母は自分の顔を指さした。私は鼻から息を吐く。
「幽霊じゃない、あんたは。私の妄想」
「幽霊も妄想も一緒だよ。触れられない、けど目には見えて、語りかけてくる。これが幽霊じゃないならなんだっていうの」
 知ったことか。これ以上、戯言(たわごと)に付き合ってはいられない。母に背を向けてベッドに寝そべり、強く瞼(まぶた)を閉じる。母の気配はすぐに遠ざかった。代わりに、誰かの話す低い声や、電子音が聞こえてくる。父の声がした。
「寝てるのか」
 ゆっくりと瞼を開くと、そこは総合病院の一角だった。私は自室のベッドではなく、待合室の長椅子(ながいす)に寝ていた。ああ、まただ。起き上がって長椅子に座り直すと、父が隣に腰を下ろした。私は口にすべき台詞(せりふ)を発する。
「……看護師さん、何か言ってた?」
「意識は戻っていない。処置が終わるまではここで待て、だと」
「それだけ?」
 いつも通り、父の返事はない。この後の展開はわかりきっている。ほどなく看護師が私たちを呼び、小部屋へ案内される。男性医師がやってきて、母の死を伝える。私は鼻水を垂れ流して号泣する。
 何度も、何度も、繰り返しなぞってきた記憶だ。舞台上で慟哭(どうこく)の芝居をする時、必ずと言っていいほどこの時のことを思い出してきた。身体(からだ)の一部になっていると言ってもいい。
「午後七時二十七分、お亡くなりになりました」
 男性医師の声がこだまする。それを聞くだけで勝手に涙が溢(あふ)れる。もはや悲しくて泣いているのか、反射で泣いているのかよくわからない。午後七時二十七分、という時刻は頭にこびりついている。
 飽きるほど泣いてようやく顔を上げると、そこはホテルの廊下だった。目の前にはドアがある。今度はここか。私は覚悟を決めて、勢いよくノックする。スーツを着た男がドアを開け、表情を緩める。
「いいねえ」
「指名してくださって、ありがとうございます」
「うん。かわいくてよかった」
 これから何が起こるか、私は知っている。シャワーを浴びて、ベッドへ移動して、この男に首を絞められる。思い出すだけで血の気(け)が引いて、その場にくずおれそうになる。しかし逃げることは許されない。この記憶も、私の肉体の一部だから。
 怒り、悲しみ、恐怖。そうした感情を表現するうえで、これほど都合のよい記憶はなかった。私は幻想のなかで数えきれないほど首を絞められ、生死の境をさまよってきた。そのたび、心のなかのほの暗い部分が刺激される。苦しめば苦しむほど、舞台の上の私は輝きを放つ。
 裸になった私の首に男の両手が伸びる。息ができない。爪を立てて引きはがそうとしても、男の手は離れない。視界がちかちかと点滅する。
「綺麗(きれい)だね」
 男のつぶやきを聞きながら、私は目を閉じる。いっそ殺して、と思いながら。
 首を絞めていた男の手が、ふっ、と緩められる。苦しさに激しく咳(せ)きこみ、目を開けると、私は自宅に立っていた。一つ前に住んでいたアパートだ。私はまた裸だった。右手に包丁を持っている。眼前には、怯(おび)えた顔の神山が立っていた。
「死にたい、って言ったよね。あれ、嘘(うそ)じゃないよ」
 逆手に持った包丁を下腹部へ向けた。肌は痣(あざ)だらけだ。
「変なことするな」
 神山の声は切羽詰まっている。私は次の台詞を口にする。
「するよ。うまく演技できないなら、生きていけないから」
 この後、私はさらに脅しを続け、神山に包丁を奪われ、押し倒されて顔を滅多打ちされる。すべては戯曲の通りに進む。手ひどく殴られ、床を這(は)って逃げる私に神山が問いかける。
「屈辱だったか?」
 惨めで、悔しくて、腹立たしい。そういう芝居をする時、私の脳裏にはこの時の記憶が蘇(よみがえ)る。殴られた痛みよりも、侮(あなど)っていた神山にすべて読まれていたという事実のほうが、私には屈辱的だった。
 伏せた顔を上げると、私はオートロックが完備されたマンションの一室に戻っていた。部屋着をまとった私は、冷たい床の上に寝転んでいる。心臓がどくどくと音を立てている。どれくらいの間、こうしていたのだろう。酒と睡眠薬が欲しい。今すぐに、何もかも忘れて眠ってしまいたい。
「バカだねえ。本当にバカだよ」
 足元には母が立っていた。
「演じなきゃ生きられないとか言ってるけど、結局、あんたは自分を壊してる。自分で自分の寿命を縮めてるくせに、それで立派に生きているつもりなんだから笑っちゃうね」
 母の言う通りだった。私は今のところ、まだ生きている。けど、それは自分の身体を食べて生き長らえるようなやり方で、いつまでも続くわけじゃない。食べる部分がなくなれば、飢えて死ぬしかない。
 床に仰向けに寝そべって、天井を見た。
 私の肉体からは、涙の跡も、首の絞め跡も、顔の痣も、全部消えてしまった。でも記憶は消えない。それどころか、日に日に深く刻まれている気がする。
 私はあとどれくらい、役者でいられるのだろう?

(つづく) 次回は2024年1月15日更新です。

著者プロフィール

  • 岩井圭也

    1987年生まれ。大阪府出身。北海道大学大学院農学院修了。2018年『永遠についての証明』で第九回野性時代フロンティア文学賞を受賞し、デビュー。他の作品に『夏の陰』『プリズン・ドクター』『水よ踊れ』『この夜が明ければ』『竜血の山』『生者のポエトリー』『最後の鑑定人』『付き添うひと』『完全なる白銀』がある。