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  • 第四幕(4) 2024年1月15日更新
 山本明日美(やまもとあすみ)はマネキンのような女だった。
 スタイルがいいという意味だけではなく、顔がないという意味でもそうだった。セミロングの黒髪、起伏の少ない顔立ち、華奢(きゃしゃ)な体形。どれもが印象に残らない。名前からしてそうだろうと思っていたが、今日子(きょうこ)は彼女自身がモデルなのだと確信した。
「遠野茉莉子(とおのまりこ)といいます。よろしくお願いします」
「山本です」
 伏し目がちに、山本は頭を下げる。山本は名刺を持っていないのだと弁明した。私と同じだった。
 彼女の経歴はざっと調べていた。昨年、新人賞を受賞してデビューした駆け出しの小説家だ。デビュー作は読んでいないが、私小説だったらしい。『幽人(ゆうじん)』は作家としての第二作にあたる。年齢は非公開だが、三十代後半くらいだろうか。
 出版社の会議室にいるのは、私と名倉(なぐら)、山本、そして彼女の担当編集者の四人だった。担当編集者は山本と同世代で、人当たりのいい男性だった。打ち合わせは彼と名倉が中心となって進んだ。
「台本、拝読しました。私が気になったポイントは、すでに名倉さんにお伝えした通りですが……山本先生のご感想はいかがですか」
 名倉は無言で山本の反応に注目していた。その台本は私も一読していた。原作に忠実で、大きな不満はない。名倉には申し訳ないけれど、最近のオリジナル戯曲よりもずっと魅力的だった。
 山本はひと呼吸置いてから、「そうですね」と切り出した。
「特に、修正してほしい点はなかったです」
「それはよかった」
 名倉が子どものような笑顔を見せた。名の売れた劇作家も、原作者を前にして緊張していたらしい。
「そのうえで伺いたいんですが」
 山本の言葉はまだ続いていた。彼女は私のほうを振り向いて、「遠野さん」と呼んだ。正面から見ても、やはり彼女の顔は捉えどころがない。
「……なんでしょう」
「最初にこの本を読んだ時、どう思いましたか?」
 柄にもなく、私の顔は引きつっていた。いつもならもっとうまく取り繕えるのに。これじゃあ名倉と同じだ。作者を前に感想を口にすることが、これほど緊張するとは思っていなかった。
 口をつぐんでいる私に、山本が問いを重ねた。
「じゃあ、面白かったですか?」
 きっと彼女なりの助け舟だったのだと思う。その質問であれば、肯定か否定かで答えればいい。それなのに私はまだ躊躇(ちゅうちょ)していた。喉から出てくるのはか細い声だけだ。
「面白いと思いました……たぶん」
 たぶん、と言った途端、編集者と名倉が同時に私の顔を見た。二人の顔には、非難というより困惑の色が浮かんでいる。険しい表情の名倉は、お前が持ってきたんだろうが、と言わんばかりだった。動揺していないのは山本だけだ。
「正確にはどう思いましたか?」
「……ただ、すごい、私がここにいる、と。それが最初の印象でした」
 商店街の書店で『幽人』を手に取った時のことを思い出す。あの時、私は自分の内面を読まれた気がした。面白いとか面白くないとか、そんな呑気(のんき)な感想を考えている余裕はなかった。
「この小説のどういう要素から、そう感じましたか」
 質問は止まらない。もしかして、私は試されているのだろうか。答えが気に食わなかったら降板させるつもりか。まさか。
「擬態、という言葉が出てきますよね」
 それでも私は質問に答える。たとえ山本が気に入らなかったとしても、私の感想は私のものだ。たとえ物語の生みの親であっても、その権利を侵害されるいわれはない。
「自分を幽霊だと思っている今日子には、意志や野望がない。まったくの無です。それでも今日子は人並みの存在としてふるまわないといけない。そうしないと、生きる資格がないことを知っているから。だから、彼女は人間に擬態する」
 山本は視線だけで先を促した。
「私も同じなんです。高校生まで、母や周囲の人が言う通りに生きてきました。やりたいことも、なりたいものもなかった。でも母が死んで、急に無のなかに放り出されたんです。私にできるのは、それらしく演じること……擬態だけでした。だから役者になったんです。他人を演じている間だけは、ここにいていいんだと思える。気持ちよく呼吸ができる。今日子は私と同じです」
 一気に話したせいか、喉の渇きを覚えた。
 しばし山本は黙っていたけれど、編集者から「先生?」と言われ、ようやく口を開いた。
「やっぱり、私だけじゃないですよね」
 彼女の視線は私の目をまっすぐに射抜いていた。
「この小説、あまり売れていなくて。感想をもらう機会も少ないんです。でも、遠野さんの話を聞いてわかりました。擬態しているのは私だけじゃない。少なくとも、ここにいる二人は擬態しながら生きている。それがわかっただけでも、書いた甲斐(かい)がありました」
 山本の顔に明確な感情は浮かんでいなかった。ただ、下の瞼(まぶた)が痙攣(けいれん)している。彼女もやはり緊張しているのだ。
「今日子ではなく、幽霊を演じたい、とおっしゃったそうですね?」
 名倉が話したのだろうか。「ええ」と応じると、山本は同調するように頷(うなず)いた。
「私が遠野さんでも、同じことを言うと思います」
 会話にピリオドを打つように、山本は顔を伏せた。
 会う前からわかっていたけど、やっぱり私と彼女は似ている。私たちは、自分のなかに中身がないことを自覚している。私は芝居で、山本は小説で、その空洞を埋めようとしている。
 私は肉体がある限り、本物の幽霊にはなれない。だからせめて、ステージの上では幽霊になりたい。その切実な願いを真に理解しているのは、山本だけだった。
「……では、台本への修正依頼はなしということで話を進めますね?」
 編集者の問いかけに、山本は「どうぞ」と短く答えた。
 打ち合わせは滞(とどこお)りなく進行する。その間、私と山本は部外者のように黙りこくっていた。山本の役目は最初のバトンを渡すことで、私の役目は最後のバトンを受け取ることだ。中間の部分は名倉たちに任せておけばいい。
 二人の幽霊は、ただひっそりと、会議室の椅子に腰かけていた。

 五月に入り、台本の読み合わせがはじまった。
 私は普段着で、指定された新宿(しんじゅく)のレンタル会議室へ足を運んだ。ドアを開けると、すでにほとんどの関係者が揃(そろ)っていた。「おはようございます」と告げると、ぱらぱらと挨拶が返ってくる。今日は顔合わせを兼ねているから、初対面の面子(めんつ)も少なくないだろう。そのせいか雰囲気が硬い。
 テーブルが長方形を作るように並べられ、出入口から近い側に役者が、遠い側に裏方が集まっているようだった。最も遠い席には、ホワイトボードを背にした渡部(わたべ)が座っている。名倉は席を外しているようで、姿はなかった。
 ちょうど城(じょう)の隣の席が空いていたので、迷わず腰を下ろす。向かい側の並びには神山(かみやま)がいた。何食わぬ顔でスマホをいじっている。少しだけ肌がたるんでいる他は、最後に会った時と変わらない。
 その横に座る蒲池多恵(かまちたえ)は、ボールペンを手に、難しい顔で台本を睨(にら)んでいる。優しげに垂れた目元とは裏腹に、全身から放たれる雰囲気はとがっている。五十代なかばという年齢で、精気を失わずにいるのは異様だと言ってもいい。キャリアのある俳優でないと、この気配は身につかない。
「私、宮下(みやした)劇場でやるの初めてです」
 城は膝の上の台本に目を落としたまま、言った。
「そうなんだ」
「これが最初で最後になりますけど」
 名倉は作戦会議で言っていた通り、宮下劇場を押さえてみせた。会場以外のこともすでに諸々(もろもろ)が確定している。公演は八月下旬から九月上旬にかけての二週間。演者もスタッフも決まっていた。三か月足らずでここまで整えるのは相当大変だったはずだが、名倉はそうした苦労をおくびにも出さない。
 定刻を数分過ぎて、名倉が会議室に入ってきた。
「すみません。急な電話で遅れました。お集まりのようなので、早速はじめましょう」
 そう言って、司会役の渡部に目配せする。
 はじめに八名の役者が自己紹介をする。集まっているのは、相応に名の知れた俳優ばかりだった。共演経験はなくとも、舞台で観たことがあったり、名前を聞いたことがある人ばかりだ。
 スタッフが名乗り終えると、すぐに読み合わせに入った。名倉は、演出家自身による台本の読み聞かせ――いわゆる本読みをやらない主義だ。毎回、役者に台本を読ませたうえで演技プランを指示する。
 八名いる演者のうち、特に台詞(せりふ)の数が多いのは城、神山、蒲池、そして私の四名だった。今日子を演じる城は全員と関わりがあるけれど、幽霊役の私はもっぱら城との出番しかない。
 私は長い髪を下ろし、白い服を着て今日子の前に現れる。

今日子の自室。下手近くに幽霊がたたずんでいる。上手からやってきた今日子は、突如現れた幽霊を目撃して息を呑(の)む。身動きがとれない今日子のほうに、幽霊はゆっくりと振り返る。
幽霊  友達になりましょう。
幽霊が歩み寄り、今日子は無言で後ずさる。
今日子 誰?
幽霊  誰だっていいじゃない。
今日子 何のつもり?
幽霊  私はただ、あなたの友達になりたいだけ。わかってるんでしょう? あなた以外の誰にも、私の姿は見えない。声も聞こえない。ここで話すことは二人だけの秘密。
 私が台詞を読み終えたところで、城が挙手した。 「あの、確認なんですが。今日子はこのタイミングで、話している相手が幽霊だと確信するんですよね?」  名倉が「うん」と応じる。台本の意図を確認するのは、読み合わせの重要な目的だ。 「何をもって、今日子はそう判断するんですか?」 「雰囲気、かな」  城は明らかに戸惑った様子で「雰囲気?」と問い返す。 「そう。相手の身体(からだ)にまとわりつく温度とか、発している声のいびつさとか」 「それって……」 「幽霊を幽霊だと信じ込ませるのは、茉莉子の仕事だから」  名倉をふくめた、皆の視線が私にそそがれる。城は私を横目で見ている。神山は口元を引き締めて、目を細めた。私は視線を浴びながら即答する。 「もちろん」  この舞台の出来は、私次第で決まる。  私がいかに、幽霊を幽霊らしく演じられるか。そのリアリティこそが要(かなめ)だった。失敗すれば、観客たちはたちまち冷めてしまう。求められているのは幽霊のふりをした人間ではなく、幽霊そのものだった。  リアリティと言っても、本物の幽霊を目にしたことはない。存在しないものを存在するように見せる。私は芝居によって、その不可能を可能にしなければいけない。 「すごい自信」  小さい声だがはっきりと聞こえた。つぶやいたのは、蒲池多恵だった。蒲池はこの役の難しさを理解している。だからこそ漏れ出た感想なのだろう。  手練(てだ)ればかりが揃っているだけあって、読み合わせは滞ることなく進行する。  今日子は最初こそ戸惑っていたものの、たびたび現れる幽霊に少しずつ胸のうちを吐露しはじめる。自分が擬態しながら暮らしていること。常に嘘(うそ)をついているような感覚に囚(とら)われていること。目が覚めるたび一日がはじまることに絶望し、一日が終わるとまた明日が来ることに絶望する。果てしない擬態の毎日。  幽霊は、今日子のそういう内面を正確に言い当てる。
幽霊は下手から近づき、ベッドに仰向(あおむ)けに寝転ぶ今日子に語りかける。
幽霊  時間とお金があったら、どうしたい?
今日子 なに?
幽霊  有り余る時間と、使いきれないくらいのお金があったら、何をしたい?
今日子は上体を起こして考えこむ。やがて、独り言のようにつぶやく。
今日子 擬態しなくていい場所に行きたい。幽霊が、幽霊のままでいられる場所に。
幽霊  それって、どこ? 田舎町? 外国? 人里離れたジャングルの奥地?
今日子 それは……
今日子は絶句し、幽霊と目を見交わす。
 今日子の夫や母は、次第に変貌していく彼女に戸惑い、それまでと同じ今日子像を押し付けようとする。目立たず、穏やかで、平凡な女性像を。今日子は家庭や職場でたびたび摩擦を引き起こすようになる。擬態していた皮が剥(は)がれはじめる。  夫を演じる神山の芝居は堅実だった。あいかわらず、どんな役でも器用にこなす。とりわけ今回の役はうってつけだった。悪人ではないが、演じることから逃れられるという特権を自覚していない男。ほとんど芝居の必要がないんじゃないかと思うくらい、神山にはぴったりだった。  蒲池の力量もさすがだった。上手(うま)い役者は、読み合わせの段階からはっきりと違う。絞り出すような彼女の声音は、娘に理解を示しつつも、古き良き家庭像を捨てることができない壮年女性そのものだった。  いったん最後まで読んだところで、今日はお開きとなった。  渡部以下の裏方組は、居残って確認することがあるという。役者たちは次の集合日時を告げられ、先に解放された。真っ先に会議室を出ようとしたところ、名倉から「茉莉子」と呼び止められた。 「少しいいか」  私は廊下に連れ出された。城や神山がさっさと帰っていくのが見える。名倉は会議室から離れた自販機の前で立ち止まった。 「何か飲む?」 「結構です」 「そっか……あのな。無理はしてもいいけど、無茶はするなよ」  言われたことの意味がわからなかった。黙っていると、名倉はその続きを語った。 「公演で茉莉子が無理しているのはわかってた。でも、ずっと黙認してきた。というより、ある程度の無理が必要な時は、役者には必ずある。劇作家がこういうこと言うと傲慢だと思われるかもしれないけど」 「いえ。事実だと思います」  私は芝居のため、無数のおぞましい記憶と向き合ってきた。それを無理と呼ぶのなら、公演のたびに私は無理をしてきたことになる。 「ただ、今回は踏み込んじゃいけない気がする。あの役は危険だ。のめりこめば、一線を越える。無茶はするな」  やはり、名倉の言うことはよくわからない。私はとっくに一線を越えているつもりだった。演技のために身体を、尊厳を、傷つけ続けている。 「どうして、今回に限ってそう思うんですか?」 「死者を演じるからだ」  名倉の横顔が、自販機の強い光に照らされていた。 「今まで茉莉子は、どんなに辛(つら)く苦しくても、生きている人間を演じてきただろう。ぼくが書く戯曲には生者しか登場しない。死んでしまえば、人生は終わるから。でも今回は違う。茉莉子が演じるのは死者だ。書いている最中から不安だった。もしかしたら、茉莉子が幽霊を完璧に演じるために……」  途切れた言葉を、私が補足した。 「死ぬんじゃないか、って?」  名倉は真顔のまま、黙りこくっている。私はあえて大げさに笑い飛ばした。 「勘弁してくださいよ。死んだら舞台に立てないじゃないですか」 「そうだね」 「舞台に立つために骨身を削るのはいいですよ。でも死んじゃったらおしまい。私の代わりに誰かが舞台に立つってことでしょう? そんなの、耐えられるわけがない。名倉さんも面白いこと言いますね」  私がどんなに顔を歪(ゆが)めても、名倉は笑わない。  ――演じなきゃ生きられないとか言ってるけど、結局、あんたは自分を壊してる。  先日、母の幻影がそう言っていた。名倉も同じことを思っているのだろうか。 「大丈夫です。演じることを手放すほど、浅はかじゃないんで」  名倉はまだ疑わしそうな顔をしていたが、気が済んだのか、「それだけだ」と言った。 「お疲れ様でした」  私はとびきりの笑顔で挨拶をしてから、名倉に背を向けて廊下を進んだ。演じる必要がなくなり、自然と無表情に戻る。少ししてから、がこん、と自販機の飲み物が落ちる音がした。

(つづく) 次回は2024年2月1日更新です。

著者プロフィール

  • 岩井圭也

    1987年生まれ。大阪府出身。北海道大学大学院農学院修了。2018年『永遠についての証明』で第九回野性時代フロンティア文学賞を受賞し、デビュー。他の作品に『夏の陰』『プリズン・ドクター』『水よ踊れ』『この夜が明ければ』『竜血の山』『生者のポエトリー』『最後の鑑定人』『付き添うひと』『完全なる白銀』がある。