物語がつまった宝箱
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  • 第四幕(5) 2024年2月1日更新
 初回の立ち稽古は、例の幡ヶ谷(はたがや)にある稽古場で行われた。
 鏡張りの部屋に名倉(なぐら)と役者たち、裏方の一部が詰めている。さほど大きくはないが、一度に舞台に出る人数が限られているため何とかなる。蒲池(かまち)はテレビの仕事があるとかで、欠席だった。
「最初の稽古休むとか、ベテランだから許されることですよね」
 開始を待っている間、城(じょう)が小声でぼやいた。彼女の言うことは当たっている。裏を返せば、最初は休んでも問題ないという自負があるのだろう。多忙さは、役者としての需要の多さを物語ってもいる。
 名倉は、いつものように数分遅れて現れた。
「お待たせしました。やりましょうか」
 初回は台本を持ちながらの稽古だ。名倉は演出助手をつけず、すべて自分で指示を出す。特定の役者との会話に熱中し、稽古が滞(とどこお)ることもしばしばだ。
 序盤はスムーズに進んだ。中盤の山場、今日子(きょうこ)が夫と衝突する場面に差しかかる。

舞台中央のダイニングテーブルを挟んで、今日子と夫が向き合って椅子(いす)に座っている。二人は夕食を食べているが、会話はない。先に食べ終えた今日子が食器を手に席を立つ。
夫   待って。話がある。
今日子 いきなりどうしたの?
夫   いいから。
今日子は食器をシンクに置き、再び席につく。夫はためらいながらも、今日子の目をまっすぐに見て語る。
夫   最近の今日子、ちょっとおかしいよ。
今日子 どこが?
夫   どこ、って。どこか一つって話じゃなくて。前とは全然雰囲気が違う。
今日子 だから、どう違うの?
夫   前はそんなに刺々(とげとげ)しくなかったっていうか。もっと柔らかかったと思う。
今日子 私はずっとこうだけど。
夫   その反応。答え方だって、前はもっと優しかった。こっちが指摘したら、いったん素直に聞き入れてくれたし。他人の言うことに耳を傾けていたのに。
今日子 それは、あなたがそう望んでいたからでしょう。
夫   えっ?
今日子は深くため息を吐(つ)き、やっていられない、という風情で頭を振る。
今日子 あなたが、というのは言い過ぎだった。あなたを含むみんなが、そう望んでいたから。私にふさわしいふるまいを規定して、無難にやり過ごすように仕向けたから。その空気を無視できなかった私にも責任はある。けど、もうたくさん。そういうことは。
夫   仕向ける、なんて。そんなことしてないだろ。
今日子 あなたの意思はどうでもいい。それを判断するのは私だから。
「ごめん。ストップ」  今日子と夫の口論を、名倉が中断した。二人は肩から力を抜き、城と神山(かみやま)に戻る。 「今日子はもっとけだるく、投げ出すように」 「もっと、ですか」 「擬態していた自分から脱皮しつつあるわけだから。まだ擬態している感じが見えるな」 「これ以上けだるくやったら、客席に声が聞こえません」  城は正面から異議を唱えた。 「それに、この段階では擬態が残っていたほうがいいと思います」 「そうなんだけど、今日子を演じている城そのものが残っているというか……」  名倉は口ぶりこそ柔らかいが、譲歩する気はないようだった。議論は数分続き、見かねた渡部(わたべ)が「休憩にしましょう」と言った。話し込んでいる二人を残し、私はさっさと喫煙室へ移る。  一人きりの喫煙室で電子煙草(たばこ)を吸っていると、誰かが入ってきた。神山だった。 「吸う人だっけ?」  神山は隣に立ち、ペットボトルの水を飲んだ。 「そっちこそ」 「俺は吸わない。茉莉子(まりこ)と話したいだけ」  そういう言葉をさらりと口にするところも変わっていない。 「聞いてなくていいの? 名倉さんと城の話」 「途中からついていけなくなった。後で結論だけ教えてもらう」  神山はどこまでも自然だった。元恋人と再会した時、相手が変に意味ありげな行動をとることがある。目を見てにやにや笑ったり、妙に距離が近かったり。しかし神山にはそれがなかった。付き合っていたのは夢だったのだろうか、と思うほど。 「なんで最近、バンケットの舞台に出てなかったの?」 「つまらなくなったから」 「言うね」  神山は心から面白そうに笑う。 「じゃあ、最近演じてハマったなと思う役は?」 「ない」  迷う余地はない。 「一つも?」 「うん。どんな役を演じても、何かが違う気がする。もっと私に適した役があるように思える。自分でもワガママだってわかってるけど。でも違和感はごまかせない。全部、丈が足りなかったり、袖が余ってたりする」  誰もいないほうに向かって煙を吐く。話しすぎたかもしれない。そろそろ喫煙室を出ようと思ったころ、神山が「それって」と言った。 「名倉さんの作品がつまらなくなったんじゃなくて、茉莉子の感じ方が変わったんじゃないか」  一瞬、何を言われたのかわからなかった。 「変わった? 私が?」 「前の舞台で、足怪我(けが)しただろ」  神山が言っているのは『火焔(かえん)』のことだ。左足首を骨折して、長い間入院した。 「あの時、もしかしたら茉莉子、役者辞めるんじゃないかな、って思った」 「へえ」 「あんな大怪我したら、心折れるんじゃないかと思って。茉莉子に限ってそんなことないんだけど。ただ、あの舞台を境に変わったことはあるんじゃないか。燃え尽き症候群じゃないけど……怪我を押して、あれだけの大役をやりきったんだから、もうよっぽどの舞台じゃないと満足できなくなってるんじゃないか」  神山の指摘は、今一つ腑(ふ)に落ちなかった。私は何も変わっていない。母が死んだ時から、私は同じ役を演じ続けている。でも、変わっていないと思っているのは私だけなのかもしれない。 「一度も観(み)に来なかったくせに」  つい、恨みがましい言い方になった。どうも神山の前だと擬態がところどころほつれる。別れてから数年経(た)つのに。 「実は千秋楽、行ってたんだ。内緒で」  神山は気恥ずかしそうにうつむいた。 「終わってから怪我してたって聞いて、驚いた。耐えられないくらい痛いはずなのに、平然と芝居していたから。少なくとも俺には見抜けなかった。それ知って、別れたほうがいいと思った。茉莉子への劣等感を見て見ぬふりしてたけど、認めるしかなかった。完璧に打ちのめされた」  煙を細く吐き出す。少し前なら、私は神山を見下していただろう。劣等感なんてくだらないものにこだわるところが、いかにも普通の男だ、とかなんとか。  けれど、煙草を吸わないくせに喫煙室までやってきた彼を、私はそれなりに立派な人間だと思いはじめている。神山は普通の男には違いないけれど、普通であることにも苦悩は伴う。そこから逸脱せず、目を背けることもなく、あえて「普通」に留(とど)まり続けている点は、認めてもいいのかもしれない。 「もう戻ろう」  返事を待たず、先に喫煙室を出た。振り返らずに稽古場へ戻る。話し合いは終わったらしく、名倉も城もスマホをいじっていた。パソコンに向かっていた渡部が顔を上げ、「神山さんは?」と訊いてきた。 「さあ。外じゃないですか」  しらばっくれるのは得意だった。私はずっと、知っているのに知らないふりをしている。そうやって自分のことも騙(だま)している。
母は椅子に座り、ダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいる。上手(かみて)から今日子が現れ、母に気がついた瞬間立ちすくむ。
今日子 なんで、いるの。
母   なんでって、ここの部屋借りる時に、合鍵渡してくれたでしょう。
今日子 あれは災害とか、非常事態が起きた時に使うって話じゃなかった?
母   非常事態でしょう。
母はゆっくりとコーヒーをすする。今日子は呆然(ぼうぜん)とそれを見ている。
母   このコーヒー、あんまりおいしくないね。
今日子 説明して。
母   説明するのは今日子でしょう。旦那が二日も無断外泊してるなんて、どう考えても普通じゃない。喧嘩(けんか)? それとも浮気?
今日子 ……どうして知ってるの。
母   うちに連絡があったの。今日子の様子がおかしいから、話を聞いてやってくれないかって。できることなら、私も夫婦の話に首突っこみたくないけど。でも当事者から頼まれたらしょうがないじゃない。今日子は私の娘なんだし。
今日子と母はしばし、無言で睨(にら)みあう。
今日子 出て行って。
母   いいから、落ち着きなさい。そこ座って、順を追って話して。
今日子 出て行けよ。
母   あのね、今日子……
今日子 消えろ!
今日子はテーブルの上のカップを手に取り、コーヒーを床にぶちまける。反射的に母は立ち上がり、怯(おび)えた顔で床と今日子を見やる。今日子は微動だにせず、冷淡な表情で母を見据えている。
今日子 私の視界から、消えろ。
 二度目の立ち稽古も、同じ稽古場だった。  私は鏡張りの部屋の隅で台本を見つめていた。過去の海に深く沈み、最も理想的な記憶を探り当てようとしていた。  幽霊の役には、感情を爆発させるシーンがない。強い怒りや屈辱が要らない分、消費するエネルギーは少なくて済む。しかし、だからといって過去の辛(つら)い記憶と向き合わなくていいことにはならない。  小説『幽人(ゆうじん)』では、幽霊の女性の素性や過去は一切明かされない。彼女が何をしていた人物で、どのような経緯で亡くなったのか、最後まで不明のままだ。台本も原作を忠実に再現しているため、同様である。  つまり、幽霊役の私は背景がない状態から役作りをしなければならない。だからといって言い訳は許されない。優れた役者は人間どころか無生物さえも演じられるという。  それに、これは自ら志願した役だった。私なら解釈できる自信がある。  ――どれだ?  片端から記憶をあてがってみるが、まだぴたりと当てはまるピースは見つかっていなかった。幽霊は今日子にとって無二の理解者だ。つまり彼女もまた、今日子と同じように擬態する女だったと考えられる。  必ず、どこかに突破口を開く鍵があるはずだ。  人知れず悶(もだ)えているうちに、休憩になった。城はフロアにぐったりと横になっていた。一部しか出演しない私や神山、蒲池と違って、彼女は全編出ずっぱりだ。疲れきったのか、水を飲むのも億劫(おっくう)そうだった。  ――ごめんね。  心のなかでひそかに謝る。名倉には、私の推薦であることは伏せてもらっている。余計な恩義を感じてほしくはなかったから。知り合いだとかいう事実を抜きにしても、今日子は城にしか演じられない。後になって気付いたけれど、城も今日子も同じ二十七歳だった。偶然の符合とは言え、やはり彼女が演じる運命だったのだと思う。  喫煙室ではスタッフが談笑していたため、外で吸うことにした。今は雑談の相手をする気分じゃない。  外に出て、電子煙草を取り出したところで「やめなさい」と声をかけられた。振り返ると、ペットボトルの飲料水を手にした蒲池が立っていた。追いかけてきたらしい。 「路上喫煙は駄目。くだらないことして、舞台の評判落とさないで」  私はすぐさま煙草をしまった。苛立ちを隠して「すみません」と頭を下げる。屋内へ戻ろうとすると、「遠野(とおの)さん」と引き止められた。 「少しくらい付き合ってよ」  正直、面倒くさかった。ろくな話じゃないのは目に見えている。説教めいたことを言われるのだろう。空気でわかる。それでも無視できず足を止めたのは、本能が働いたせいだ。ひとまずその場は丸く収める、という本能。  蒲池は水を飲み、しばし宙を見ていた。私はその隣でただ突っ立っている。通行人は一人もいなかった。カラスが頭上を飛び、救急車のサイレンが聞こえた。蒲池の横顔を盗み見るのにも飽きたころ、ようやく彼女は切り出した。 「あなたの演技は認められない。役者を辞めたほうがいい」 「……はい?」  さすがに予想外だった。  稽古場でのふるまいにケチをつけるのか、そうでなければ独りよがりな演技論を語るのだろうと踏んでいた。まさか、芝居そのものを否定するとは思っていなかった。役者を辞めるよう勧められたのは、生まれて初めてだ。 「今まで、あなたみたいな役者を何人か見てきた。皆、いい役者だった。上手(うま)いだけじゃない、人の心に印象を焼き付ける芝居をする人たちだった。私がどんなに焦がれても、手に入らないものを持っていた」  賞賛しているはずなのに、蒲池の目にはなぜか哀れみが浮かんでいた。 「でもそういう人たちは、揃(そろ)って潰れる」 「潰れる、って?」 「芝居を辞めるか、さもなくば、死んでしまう」  蒲池は思考を見透かすように、じっと私の目を見た。 「あなたみたいなタイプは、舞台に立つたびに命を磨(す)り減らしている。余命を捧げて芝居をやっている。でも、人の命は永遠じゃない。いつか尽きる時が来る。このまま役者を続けるのは危険すぎる」 「……蒲池さんに何がわかるんですか?」 「三十五年も役者やってたら、それくらいのことはわかる」  彼女の発言は、ハッタリと切り捨てるには的を射すぎていた。私自身、何か大事なものと引き換えに演技をしている自覚はある。でも、だからといって、役者を辞めることはできない。 「役者を辞めることは、それこそ死ぬことと同義です」  蒲池は「そうでもないよ」と軽やかに言った。 「人は演技なんかしなくても生きていける。確かに他者との衝突はあるかもしれないし、生きにくさは感じるかもしれない。でも、それは演技していても一緒でしょう? だったら、自分が楽だと思うほうを選べばいい」 「嘘(うそ)です。そんなの、建前に過ぎない」  テレビやネットでよく耳にする、ありのままのあなたでいいとか、偽りの姿を脱ぎ捨てようとか、そんな言説はすべて耳障りのいい虚言だ。誰もが、演技をしなければ社会に受け入れられないと直感的に知っている。だから演技をする。  だいたい、ありのままの人間って何?  偽りの姿を捨てた私のなかには、何も詰まっていない。空洞であることそのものが私だとするなら、そんなものは死ぬまで直視したくない。 「まあ、考えてみて」  蒲池は話を打ち切り、さっさと稽古場に戻ってしまった。休憩はそろそろ終わりだ。私は結局、一本も吸えなかった。舌打ちをして蒲池の後を追う。  ――役者を辞める。  現実味のなかった選択が、ほんの少しだけ、手触りのあるものになった。

(つづく) 次回は2024年2月15日更新です。

著者プロフィール

  • 岩井圭也

    1987年生まれ。大阪府出身。北海道大学大学院農学院修了。2018年『永遠についての証明』で第九回野性時代フロンティア文学賞を受賞し、デビュー。他の作品に『夏の陰』『プリズン・ドクター』『水よ踊れ』『この夜が明ければ』『竜血の山』『生者のポエトリー』『最後の鑑定人』『付き添うひと』『完全なる白銀』がある。