岩井圭也
「茉莉子(まりこ)さんは、そんな人じゃないです」 蒲池(かまち)の意見に真っ向から挑んだのは、城(じょう)だった。 「誰かを恨んで復讐(ふくしゅう)しようと思うほど、茉莉子さんは他人に執着していなかった。それに、蒲池さんから嫌味を言われたくらいで気に病むような人でもない。茉莉子さんはもっと根本のところで病んでたと思う」 すかさず神山(かみやま)がうなずく。 「意趣返しのために人前で死んだっていうのは、考えすぎだと思います」 「じゃあ何が理由だって言うの?」 蒲池がなかば怒りながら問う。だが、応じる声はない。 結局、生きている人たちは「遠野(とおの)茉莉子の死んだ理由」を好き勝手に考え、論じるしかない。本当の理由は私にしかわからない。だからどれだけ議論を交わそうが、永遠に結論が出ることはない。 ぱん、と手を叩(たた)く音がした。静寂を破ったのは、舞台に立つ名倉(なぐら)だった。 「この辺にしておきましょう」 名倉は居並ぶ役者やスタッフを見渡す。眼鏡のレンズが光を反射する。 「ぼくは別に、明確な答えを求めているわけじゃない。ただ、ここにいるメンバーで茉莉子のことを話したかっただけです。ぼくらは慌ただしさにかまけて、茉莉子と正面から向き合うことを避けてきた。ここでもう一度、彼女について話すべきだと思った。ぼくが茉莉子の死に責任を感じているのは事実ですが、それは、彼女について話すための呼び水に過ぎない。現実には答えは用意されていません。議論はしても、合意をする必要はないはずです」 客席は無言のままだった。誰もが名倉の次の言葉を待っている。 「茉莉子は今も、ここにいるはずです。本物の幽霊となって」 笑う人はいなかった。蒲池ですら、真顔で耳を傾けていた。 「理由はどうあれ、彼女は亡くなる直前まで演じていた。生粋(きっすい)の役者だった。そんな彼女が、『幽人(ゆうじん)』が公演中止になることを望んでいたと思いますか? 今ここでぼくらの話を聞いている彼女が、何を望んでいると思いますか?」 名倉はさらに声量を上げた。 「今度こそ、『幽人』を上演にこぎつけること。それこそが、幽霊となった茉莉子の本当の願いであり、最大の手向(たむ)けではないでしょうか」 客席は、しん、と静まった。 『幽人』の再演――正確には一度も上演はできなかったけれど――それこそが、どうやら名倉の目的だったらしい。 沈黙は劇場を隅から隅まで埋め尽くしている。城は宙を見つめ、神山は顔を伏せている。蒲池は瞑目(めいもく)していた。賛同する者はいないかのように思えた。それでも名倉は、舞台の上で待っている。 どれくらいの時間が経(た)っただろう。 「いいと思います」 最初に同意したのは、渡部(わたべ)だった。 「私は今も後悔しています。あの時、奈落を下げなければ、遠野さんが亡くなることはなかった。彼女がそう指示したからとはいえ、転落した一因は私にもあると言えます」 「渡部くんの落ち度じゃない」 名倉の慰めを、渡部は「そうだとしても悔いは残ります」と一蹴した。 「完璧な形であの舞台を上演したい。その思いは私だけじゃなくて、ここにいる全員が共有しているんじゃないですか。遠野さんの鎮魂のためだけでなく、残された私たちの問題として、『幽人』は上演するべきです」 「俺も賛成です」 神山が、緊張で引きつった顔を上げた。 「俺はまだ、茉莉子が死んだことをちゃんと受け止めきれていません。でも客前で『幽人』をやれば、けりをつけられる気がする。だから名倉さんがやるというなら、俺にもやらせてください」 その後、名倉に賛同する者が次々に続いた。舞台監督と主要キャストが名乗りを上げたことで、心理的ハードルが下がったのかもしれない。多忙なはずの蒲池も「追悼公演ってやつだね」と出演を同意した。 最後に残ったのは城だった。城はじっと何事かを考えているようだった。 「大丈夫か?」 名倉が呼びかけると、城は目だけで舞台を見た。 「ずっと考えてたんです。茉莉子さんだったらどうするか」 私は城を見つめた。どんなに見つめても、この視線には気づかないのに。 「茉莉子さんにとって、演じることは生きることと同じでした。そんな人にとって、公演が直前で中止になるなんて、耐えられないことだったと思うんです。だから」 城の瞳が輝いた。 「私にも、やらせてください」 その答えに名倉はうなずく。 次第に客席は盛り上がってきた。日程はどうする。会場は。稽古はどこまでやり直すべきか。返却した機材の再レンタルは。役者もスタッフも、目を輝かせていた。やはりこの人たちは、演劇の世界に生きる人間だ。 私は一人、劇場の隅でその熱気を眺めていた。 * 無人の劇場には、先ほどまでの余韻が漂っている。 舞台に立つ私の眼前には客席が広がっていた。つい数時間前まで、すべての座席が観客で埋め尽くされていたのだ。『幽人』は今日、一日限定で上演された。宮下(みやした)劇場の閉館が迫っているため、一日しか日程を確保できなかった。 舞台は、劇場の最終公演にふさわしい熱気に包まれていた。 遠野茉莉子に代わって幽霊の役を演じたのは、急遽(きゅうきょ)開かれたオーディションで選ばれた役者だった。まだ十九歳だという。私が初舞台を踏んだのと同じ年齢だ。彼女にはこれから先、長い役者人生が待っているのだろう。 舞台に立つ役者たちは皆、溌剌(はつらつ)としていた。どの稽古のときよりもいい演技をしていた。たぶん、彼ら彼女らは満足しているのだろう。自分たちは遠野茉莉子の鎮魂のため、演技を捧げている。本気でそう信じているのだ。だから、あれほどまでに生き生きと演じることができる。生きている人たちがそれで充足するなら構わない。勝手にやって、勝手に満たされていればいい。 もうすぐ日付が変わる。 今頃、名倉や城は打ち上げの最中だ。遠野茉莉子の話題も出ているだろうか。神山が元恋人だと明かしたため、当時のエピソードも解禁しているかもしれない。もはや、どうでもいいことだった。 私はもう、遠野茉莉子という役から降りた。 私は今、誰でもない、ただの〈私〉だ。生まれ持った名でもなく、遠野茉莉子という名でもない。私を表す名はない。だって、その必要はないから。誰にも見られず、誰とも話さない。そういう存在に名前は要(い)らない。 この劇場に集まったあの日、皆は口々に私が死んだ理由を言い当てようとした。 名倉は、幽霊を演じる私が、死の淵(ふち)を覗(のぞ)くために飛び降りたのだと言った。城は、自傷すらしなかった私が故意に落ちるはずがないと考え、事故だと主張した。神山は、私が前々から希死念慮を持っていたことから、衝動的に身を投げたのだろうと語った。蒲池は、精神的に追い詰められた私が身をもって抗議するため、皆の眼前で死んでみせたのだと推測した。 はっきり言おう。全員、外れだ。 私が飛び降りた理由はきわめて単純だった。 本物の幽霊になりたかったから。それだけだ。 私にとって、演じることと生きることは同義だった。それは、演じることが好きだったからじゃない。<演じないと視線に耐えられなかったからだ。>本当は、演技なんてせずに済むなら最初からしたくなかった。ずっとその事実にすら気がついていなかった。 誰にも見られず、のびのびと、思うがまま毎日を過ごす。そういう生活に憧れた。 でも、この世にそんな場所はない。生命ある限り、誰かと関わらなければいけない。視線から解放される手段は一つ。幽霊になることだ。それを教えてくれたのが、『幽人』という作品だった。 ゲネプロの最中に死のうと決めたのは、かすかに残った役者としてのプライドのためだった。役作りができていない状態で本番の舞台には立てない。ならば、上演前に死ぬしかない。奈落から落ちても絶対に死ねるとは限らないけど、その可能性に賭けるしかなかった。 賭けに負けて命を落とした、と名倉は言った。事実は真逆だ。私は賭けに勝ち、思惑通り死ぬことができた。そして望み通り、幽霊になった。私の望みはすでに叶(かな)えられている。追悼公演も、生きている人たちの感情も、どうでもいい。 たった一人の舞台で、私は踊った。 軽やかに足を上げ、高く跳び、音もなく着地する。腕を振り、腰をひねり、頬を撫(な)でる。一つ一つの動きに理由なんてない。そうしたいからそうする。ただ、それだけだ。 誰かにこの姿を見られる心配はない。美しいとか、演技が上手(うま)いとか、そういう陳腐な言葉で評されることもない。私だけが、私のことを見ていればいい。間もなく閉館し、壊されるこの舞台で、私はいつまでも踊り続ける。 あらゆる視線から逃れて――。 舞台には誰もいない。だが、そこには人知れず踊る幽霊がいる。触れることも、見ることもできない。生者にとっては存在しないも同然だった。彼女は二度と生きる喜びを感じられない。 しかし彼女の顔には、この上ないほどの歓喜が表れていた。(了) ご愛読ありがとうございました。この作品は2024年夏頃に単行本として刊行予定です。
1987年生まれ。大阪府出身。北海道大学大学院農学院修了。2018年『永遠についての証明』で第九回野性時代フロンティア文学賞を受賞し、デビュー。他の作品に『夏の陰』『プリズン・ドクター』『水よ踊れ』『この夜が明ければ』『竜血の山』『生者のポエトリー』『最後の鑑定人』『付き添うひと』『完全なる白銀』がある。