岩井圭也
夏休みが終わり、二学期がはじまった。 長い休みを無為に過ごしていた私は、まだ上京の目的を見定められていなかった。進路を尋ねられたら、適当にごまかすつもりだった。東京に行くつもり、なんて言ったら噂(うわさ)の的になる。 登校すると、友達や同級生はこちらの反応をうかがうような、形式だけの挨拶をしてきた。予想通りだ。急に母を亡くした私をどのように扱っていいのか、決めかねているようだった。気にしないで、とは言わない。言えば、周囲は余計に気を遣う。 教室はざわめきに包まれていた。久しぶりに会う友達同士、会話が盛り上がっているようだった。そのざわめきに私はふくまれない。ただ自分の席について、ホームルームがはじまるのをじっと待っている。沈黙のベールをまといながら。 少し離れた場所でひそひそと話していた女子二人が、意を決したような表情で近づいてきた。いやな予感がする。二人とは割と仲がいいほうだが、私の親友と呼べるほどの間柄ではない。 正面に立った二人は、つらそうな表情で私を見ている。 「聞いたよ。お母さんのこと」 「遅くなってごめんね。私、部活とかで忙しくて知らなかった」 二人は示し合わせたように、慰めの言葉を交互に口にする。元気出して。しんどかったら私たちに言って。力になれるかわからないけど。私も少し前におじいちゃんが亡くなって。一人だと考えこんじゃうから。今度高崎(たかさき)にご飯食べに行こう……。 私は休む間もなく繰り出される言葉の波に、呆然(ぼうぜん)としていた。 彼女たちに悪意はない。オス蝉(ぜみ)たちのように、性欲で動いているわけでもない。私が心配だという気持ちは本物だろう。 ただ、あまりにも二人が発する言葉は軽かった。なぜなら、彼女たちが私を慰めているのは私のためではなく、彼女たち自身のためだから。母を亡くした同級生という異物をうまく消化できないから、慰め、励まし、勇気づけることで、消化できる存在に引きずりこもうとしている。悲しみから立ち直ってくれれば、彼女たちはその後、普通に接することができる。 私は、異物でなくなることを要求されている。この教室に溶けこみ、風景の一部となるよう強制されている。そういう意図が透けて見えるから、彼女たちの言葉はどこまでも軽く、響かない。 「だから、あの、すぐには無理かもだけど、元気になってほしい」 真剣な表情で、二人は話をしめくくった。たぶん、励ましてくれる友人がいるというのは幸せなことなんだろう。けれど私がほしいのは孤独だった。 すうっ、と深く息を吸って、ささやかな笑みを浮かべた。暗さは引きずったまま、派手になりすぎない程度に、しかし友人からの励ましにはきちんと感動している、内向きの人間にだけ許された微笑。 「ありがとう」 感謝を伝えると、二人は満足したように離れていった。机に突っ伏して顔を隠す。微笑をやめた瞬間の顔を、誰にも見られたくなかった。きっと醜いだろうから。 やっぱり私は、普通の人とは頭のなかの作りが違うらしい。いい意味じゃない。物事の裏面ばかりが気になって、目の前の現実を素直に受け取ることができない。悲しみも、喜びも、心の深いところまで浸透しない。 徹底的に本心で生きていいのなら、二十四時間、無表情だと思う。無関心。無感動。なんにも入っていない空(から)の器。それが私の正体だ。 固く閉じた瞼(まぶた)の内側で、閃(ひらめ)くものがあった。 ああ、わかった。 私は、私という役を演じることに飽きたんだ。でもこの土地に留(とど)まっている限り、私という役からは逃れられない。だから東京へ行きたいんだ。まったく新しい、別の役を演じるために。 最初に東京の舞台裏を見たのは、偶然じゃなかった。私が興味を抱いているのは、浅草(あさくさ)や東京タワーではなく、海と倉庫とトラックだった。それが東京のすべてであり、それで十分だったんだ。 始業式の後で、担任の教師に呼び出された。社会科を担当する、三十代の男だ。職員室まで連れていかれ、部屋の隅にあるパイプ椅子(いす)に座らされた。 「お母さんの件、大変だったな」 はい、と素直に答える。教師の質問に、はい、と答えるのは反射みたいなものだ。大変なのは父だけで私はぼんやりしていました、とは言えない。まだ、自分がどうして呼ばれたのかわかっていなかった。 教師は煙草(たばこ)の臭いをまとった息を吐く。 「受験とか、大丈夫なのか。差し障りないか?」 なんだ、そんなことか。やっと呼ばれた理由がわかった。要は、この教師は進学への影響を確認するために私を呼んだのだ。どういうお達しがあったのか知らないが、最近、この学校は卒業生の進学実績をいやに気にしている。特に、大学へ進むかどうかが重要らしい。 変わりません、という答えが出かかったが、喉元で押しとどめた。 ここで地元の私大に行くと宣言すれば、この担任教師はその通りに報告するのだろう。校長だか教頭だか学年主任だか知らないけど、とにかくそれ相応の人に。一度宣言すれば、後で撤回するのは厄介だ。考えなおせ、と余計な口出しをされかねない。 「どうした?」 黙りこんだ私の顔を、教師は覗(のぞ)きこんできた。 「いえ」 「不安でもあるのか。学費の心配なら、給付型の奨学金があって……」 「東京に行くつもりです」 言ってから、もう一人の私が「言っちゃったな」と思う。私はまた、無意識のうちに演じていた。東京に憧れる女子高校生を。 教師はあからさまに渋い顔をしていた。口の下に皺(しわ)が寄る。 「なんだ、いきなり。東京の大学に行くのか」 「大学には行きません」 勘弁してくれ。頭の片隅では冷静に嘆息しているのに、口は勝手に動く。もはや、主導権を握っているのは演じているほうの私だった。その目に映っているのは、極彩色と灰色に塗り分けられた都会という舞台。 「だったら何のために行くんだ?」 「この私ではない、他の誰かを演じるためです」 もう止まらない。教師は困惑を通り過ぎて、呆(あき)れていた。 「役者にでもなるつもりか」 教師は私の発言を履き違えたのか。あるいは、冗談のつもりだったのだろうか。 しかし、役者という提案は悪くなかった。自分以外の役柄を演じることが、そのまま存在意義になる仕事。片田舎(かたいなか)に根を張った女ではない、別の誰かになれる。そして演じるのが上手ければ上手いほど賞賛される。 演技なら得意だ。生まれてから十八年間、私という人間の演技を続けているのだから。 「そうです。役者になりたいんです」 前のめりになった私を遠ざけるように、教師はのけぞった。 「本気で言ってるのか?」 「当然です。役者になるなら、やっぱり都会に――東京に行かないといけないと思うんです。劇場の数も劇団の数も比べ物にならないし、一流の役者も東京にはたくさんいます。やるからには悔いのない環境で挑戦したい。だから、東京に行きたいんです」 自分のものとは思えないほど、舌も唇も滑らかに動く。こんなに熱をこめて何かを語ったのは初めてだった。私は別の人間に生まれ変わろうとしている。いや、正確には、演じる役柄が変わろうとしている。 「それでいいのか。夏休み前は、進学希望じゃなかったのか?」 「心境が変わったんです、母の死で」 故人を持ち出したことで、教師が怯(ひる)んだ。一気に畳みかける。 「母が急死して、思い知ったんです。人はいつ死ぬかわからない。明日が来るかも確実じゃない。だから、やりたいことはたとえ無茶でもやらないと後悔する。それが、最後に母が教えてくれたことだと思っています」 全部、口から出まかせだった。よくこんな思い付きをすらすらと話せるものだ。傍観しているもう一人の私が横から茶々を入れた。演じている私が言い返す。 この町から出られるならいいでしょう。私にできるのは演じることくらいなんだから。 演技の勉強なんかしたこともないくせに、役者になれるの? 何言ってるの。女はみんな、役者だよ。 「わかった。気持ちはわかったから、もう少しだけ考えてみろ。大学に行きながらでも演劇は勉強できるだろ」 「中途半端は嫌なんです。私だっていつ死ぬかわからないんですよ」 教師は肩をすくめた。そのカードを切られたらお手上げだ、と言わんばかりに。 ホームルームを開始すべき時刻はすでに過ぎている。「放課後、また話そう」と教師は一方的に話を終わらせた。しかし何度話しても、結論を変えるつもりはない。こっちは最良の理由を見つけてしまったんだから。 別の誰かを演じることを、生業(なりわい)とする。これが私の目的だ。 ようやく私は、上京のための大義名分を手に入れた。(つづく) 次回は2023年5月1日更新予定です。
1987年生まれ。大阪府出身。北海道大学大学院農学院修了。2018年『永遠についての証明』で第九回野性時代フロンティア文学賞を受賞し、デビュー。他の作品に『夏の陰』『プリズン・ドクター』『水よ踊れ』『この夜が明ければ』『竜血の山』『生者のポエトリー』『最後の鑑定人』『付き添うひと』『完全なる白銀』がある。