物語がつまった宝箱
祥伝社ウェブマガジン

menu
  • 第一幕(7) 2023年6月1日更新
 二日目のワークショップは、冒頭で冊子を渡された。コピー用紙の束をホチキスで留めた冊子。名倉(なぐら)が説明する。
「お配りしたのは『撃鉄』の台本を、ワークショップのために短縮化したものです。帰る前に返却していただきますが、必要に応じて書きこみなどをしてもらっても結構です」
 初めて、本物の台本を目にした。指先に力が入る。
「今日のワークショップでは、この台本を元に芝居をしていただきます」
 まず、誰がどの役を演じるかが割り当てられる。昨日のエチュードと同じく、登場するのは男女二人ずつの計四名だった。三十分、台本を読みこむ時間を与えられ、その後演技に入る。何度か役を替えながら、これを繰り返す。
「本読みはしません。また、ぼくへの質問や確認は不可とします。登場人物の内面や状況などはすべて各自で読み取り、想像してください」
 名倉はどんどん話を進める。参加者からの質問は許さない雰囲気だった。実際の台本を使うせいか、まとっている空気が昨日よりも厳しい。照明の光を反射して、眼鏡のレンズが輝いた。
 名倉は参加者たちを男女に分け、さらに二つに分割した。それぞれのグループに役が割り振られる。
「このグループの皆さんは、〈遠野茉莉子(とおのまりこ)〉という人物を演じてください」
 まだ台本には目を通していないが、私たちのグループに与えられた〈遠野茉莉子〉の名前は、登場人物一覧の筆頭に書かれていた。つまりは主役だ。
「今から三十分後、それぞれの役柄からランダムにひとりを指名して、前で演じてもらいます。台本を読みながらでいいです。では、どうぞ」
 さっそく、周囲からページをめくる音が聞こえた。私もそれに倣(なら)う。
〈遠野茉莉子〉の出番は、冒頭からあった。台本は〈池田良(いけだりょう)〉という男性との会話のシーンからはじまる。

 ラブホテルの一室。舞台の中央にはダブルベッドがある。先に遠野が上手(かみて)から登場し、ベッドに倒れこむ。その後ろから来た池田は上着を脱いで、ネクタイをほどく。 遠野  ねえ。するの? 池田  なにを? 遠野  これから。 池田  しないつもりなのか? 遠野  違う。そっちにする気があるか、質問してる。 池田  なければこんなところ、来ない。  池田は遠野の隣に腰を下ろして髪をなでる。遠野はその手を振り払う。 遠野  触らないで。 池田  ごめん。 遠野  今日はこっちの手順でやらせてほしい。 池田  わかった。わかったから。
 台本を読みながら目まいを覚えた。はっきりと口にしていないだけで、この二人は明らかに男女の関係にある。そして、これからこの部屋で行為に及ぼうとしている。未経験の私にもそれくらいはわかる。  失敗した、と思った。行為そのものを知らないのに、どうやって演じればいいのか。やっぱり地元で経験しておくんだった。相手なんて誰でもよかった。  その後、遠野は池田の手足を縛りたいと言い出す。池田は渋るが、遠野は容赦なくベルトで手首足首を拘束し、ベッドに寝かせる。それから、スマートフォンの録音機能をオンにする。以後の会話や物音はすべて記録する、と言い出す。池田は動揺を隠せない。  物語は思わぬ方向へ動き出した。
 舞台上に扉をノックする音が響く。 遠野  入って。  男A、女Aが登場。池田はさらに動揺する。 池田  おい。誰なんだよ、こいつら。 遠野  する気があるんでしょう? 池田  はっ? 遠野  懺悔(ざんげ)。してくれるんでしょう?
 状況が飲みこめないまま、舞台は進む。男Aは懐(ふところ)から拳銃を取り出し、遠野に手渡す。受け取った遠野は、拘束されて身動きがとれない池田のこめかみに銃口を向ける。
池田  やめろ! 遠野  安心して。モデルガンだから。 池田  ……なに? 遠野  よくできてるでしょう。実弾は入っていないから。 池田  …… 遠野  (舞台に金属音が響く)今、撃鉄を起こした。 池田  おい。やめてくれ、頼むから。 遠野  だから、モデルガンだって。
 遠野はモデルガンを手にしたまま会話を続ける。徐々に、池田が遠野の弱みを握って、性的関係を強要していたことがわかってくる。男Aと女Aは、その間も池田に侮蔑的な視線を送り続ける。  徐々に、遠野と池田の過去も明らかにされる。かつて池田は複数の女性との性行為を映像に収め、許可なく売っていた。遠野は謝礼欲しさに池田と女性を引き合わせていた、いわば共犯者であった。罪の意識を感じながらも隠し撮りへの加担を続けていた遠野だが、被害に遭った女性のひとりが自殺したことを知って、池田と縁を切ろうとする。しかし逆に「バレればお前も捕まる」と池田に脅され、遠野自身も関係を強要されたのだ。  後半では、遠野が連れてきた男女の正体が明かされる。ふたりはそれぞれ、自殺した女性の夫と姉だった。
男A  許してほしければ、償ってくれ。 池田  うん。わかった。罪は償う。約束する。 男A  どうやって償う? 池田  あの…… 男A  償えないよ、お前には。  女A、拳銃を取り出して池田に向ける。  舞台に金属音が響く。次の瞬間、発砲音。池田は絶命する。 遠野  (モデルガンを取り落とし)えっ?  女A、今度は遠野に銃口を向ける。
 復讐(ふくしゅう)を主導していた遠野だが、ここで状況が変わる。池田は死に、今度は遠野が命を狙われる。男Aと女Aは、最初から主犯の池田だけでなく、共犯の遠野も殺すつもりだった。突然弱い立場へと変わった遠野は、一転して男女に命乞いをはじめる。  三人の会話が続き、やがて男女は納得したようなそぶりを見せる。安堵(あんど)した遠野が背中を向けたところで、最後の台詞(せりふ)が放たれる。
男A  ところで、あなたには人殺しとして生きていく覚悟がありますか?  暗転。舞台に再度、撃鉄の金属音が鳴り響く。
 洟(はな)をすする音がして振り向くと、後ろにいた女性が号泣していた。台本を読んで泣いてしまったようだ。参加者たちの反応は人それぞれだった。目を閉じて腕を組む者。ぼうっとした顔で天井を見上げる者。両手で頭を抱えている者。自然体で台本に視線を落としている者。  最後まで読み終えた時点で、時間はほとんど残されていなかった。戯曲の読み方に慣れていないせいか、想定より手間取った。私は焦りを自覚していた。遠野茉莉子という人物を理解するどころか、物語の筋を頭に入れるので精一杯だ。  場面を行ったり来たりして、重要だと思うポイントをチェックする。  犯罪に加担していた罪悪感。池田への憤り。男女が実銃で発砲したことへの混乱。裏切られた絶望と、死を免れたことへの安堵。  ――無理だ。  これほど劇的な感情の引き出しを、私は持っていない。諦めきれずに台詞を目で追うが、一文も頭に入ってこない。 「はい、ここまでです。いったん本を閉じてください」  一斉に冊子が閉じられる音で、スタジオの空気が引き締まった。試験開始直後、問題用紙を表に向けた時のような緊張感。 「さっそく芝居に入りましょうか」  名倉は気負いのない雰囲気で、次々に参加者を指名した。私は一番手で呼ばれなかったことに安心する。そして、安心した自分の自信のなさに幻滅する。  四人の参加者がスタジオの片側に集められ、名倉や他の参加者は反対側に集まった。ダブルベッドや拳銃、ベルトといった小道具は用意されていない。ノックの音や撃鉄の音など、効果音だけは舞台監督の渡部(わたべ)がスマートフォンで流すことになった。 「じゃあ、いきましょう」  パイプ椅子(いす)に腰を下ろした名倉が、芝居の開始を宣言した。四人の男女がそれぞれの立ち位置に分かれる。中央に歩いてきた遠野役の女性が床に倒れこみ、その後ろから池田役の男性が続く。台本で見た通りのやり取りが、目の前に立ち現れる。  女性による遠野の演技は、私が想像していたよりもずっと色気があった。声色は低く、落ち着いている。手に持った台本を読みながらではあるが、台詞もスムーズだ。反射的に、上手(うま)い、と思わせられた。  ただでさえ底をつきそうな自信が、さらに目減りしていく。  ラストシーンが終わると、撃鉄の音が鳴る。一連の芝居が終わったと同時に、名倉はすぐさま「遠野役の方」と声をかける。 「全体的に上滑りしていました。たとえば、髪を触られて振り払う動作が軽すぎる。観客にはじゃれあっているようにしか見えません。会話のテンポもよすぎる。漫才の掛け合いではないですから。するの、何を、これから、という台詞のやり取りに含まれた過去を、間(ま)や表情で立ち上げてください」  場の空気が一変した。これまで穏やかだった名倉が、本腰を入れて指導をはじめた。本性を現した感がある。女性は唇を噛(か)んで、長々と続く名倉の言葉にひとつひとつうなずいていた。 「冒頭、もう一度お願いします」  名倉の指示に従い、遠野と池田の二人が再び演じる。二、三分の短い芝居だったが、明らかにさっき見た時よりも空気が濃密になっている。それでもまだ名倉は満足しない。 「五感の記憶を使ってください」  椅子から立ち上がった名倉は、両手を広げた。 「この場面で遠野茉莉子は、復讐心をひた隠しにしている。根底に強い怒りがある。人としてのあなた自身の、怒りの記憶を掘り起こしてください。殺してやりたいと思うほど誰かを憎んだことがあれば、その時の感情を招喚してください」  女性の顔に、わずかだが困惑の色が浮かんだ。 「そんなに……殺してやりたいなんて思ったことはありません」 「なら、近い感情で結構です。場面と完全に合致する感情の記憶なんて、なくて当たり前ですから。ただ、あなたが強烈な怒りを覚えたことはあるはずです。その時の呼吸、空気の震え、体温、視界の狭さ、聞こえる音。五感の記憶すべてを活用して、演技に反映させてください」  女性は「はい」と応じたが、表情は曖昧だった。一方、私には腑(ふ)に落ちる感覚があった。そんなことでいいのか、とすら思った。  その後も何度か芝居をやり直していたが、名倉は最後まで納得できていないようだった。 「ありがとうございました。ここまでにしましょう。では、次の組み合わせ」  二番目の遠野茉莉子に指名されたのは、私だった。  名倉が池田役を指名しようとした寸前、諏訪(すわ)が「すみません」と挙手した。 「次、やらせてもらえませんか」  名倉は「どうぞ」とあっさり了承する。  諏訪が立ち上がりながら、こちらを横目で見たのがわかった。明らかに、彼は私を侮(あなど)っている。エチュードの経験から、私が相手役なら自分が芝居の主導権を握れると確信している。だから、このタイミングで手を挙げたのだ。  ――舐(な)めるなよ。  闘争本能に火がつく。身体(からだ)の内側で、演者としての私が膨張していく。自信のない素の私を飲みこんで、すっかり入れ替わってしまう。あの時と同じだ。高校の担任を前にした時。名倉に直訴した時。その場に適応するため、冷めた私は後退し、代わりに別の人格が前に出てくる。  それは拳銃の撃鉄を起こすのに似ていた。ストッパーが外され、私は発砲可能な状態へと変貌する。 「いきましょう」  名倉の合図で、舞台ははじまった。  最初に登場するのは私だ。存在しない架空のベッドに飛びこむ。後ろから諏訪――池田がついてきて、ネクタイをほどく。私はのそりと起き上がり、優越感をにじませた池田の顔を見上げる。 「ねえ。するの?」 「なにを?」 「これから」 「しないつもりなのか?」  会話は自然に流れる。演じる私を見て、もうひとりの私は思う。エチュードの時とは別人みたいだ。足を組んだ私は、遠野茉莉子そのものだった。隣に座り、髪に触れた池田を突き飛ばす。  頭のなかでは、小学生のころの「おしりタッチ」が蘇(よみがえ)っていた。あの瞬間の嫌悪感。反射的に身体が動く感じ。それを鮮明に思い出した。尻餅をついた池田は、あまりの勢いに毒気を抜かれながら「ごめん」と言った。  ――主導権は握らせない。  場を支配しているのは私だ。遠野茉莉子だ。ここはラブホテルの一室だったか、それともスタジオだったか。どちらでもいい。この男の運命は私が決める。  やがて二人組の男女が現れる。状況を飲みこめない池田に、私は告げる。 「懺悔。してくれるんでしょう?」  池田の姿に、複数の男たちが重なる。「おしりタッチ」の事実を都合よく忘れた同級生。卑猥(ひわい)な言葉を投げかけてきた中学の教師。力ずくで行為に及ぼうとした男子たち。怒りで身体が震える。私は彼らに、涙を流して懺悔してほしかった。今すぐに。  架空のモデルガンを池田に向ける。 「やめろ!」  拘束された男たちが必死に抵抗するさまは、見ていて気分がよかった。これは報いだ。自分たちのしたことに責任を取らず、忘却してしまう男たちは罪人だ。  じきに罪が暴かれ、男女は池田を射殺してしまう。状況が理解できないうちに、今度は私に銃口が向けられる。男たちの姿は霧のように消える。  代わりに現れたのは、母だった。  部屋着の母が、握りしめた拳銃を私に向けている。恐怖で、自然と涙が流れる。 「許して……」  台本にない台詞が勝手に口からこぼれる。 「お願い。私は悪くない。だから殺さないで」  勝手に言葉が溢(あふ)れ出る。男女は戸惑っているようだが、ひとまず台本通りに話を進めてくれた。一度は罪を許され、私は安堵する。しかし最後に男が、いや、母が銃を向ける。 「ところで、あなたには人殺しとして生きていく覚悟がありますか?」  あるわけがない。母が死んだのは、私のせいじゃない。母を憎んでいた。けど、私が殺されるいわれはない。しかし無情に、撃鉄を起こす音は鳴る――  舞台は終わった。  スタジオに暗転はない。まばゆい照明を浴びながら、私は仁王立ちしていた。全身が汗でぐっしょりと濡れている。激しい動きはしていないはずなのに、肩が上下するほど呼吸が荒かった。 「遠野茉莉子さん」  名倉だった。さっきは「遠野役の方」と呼んでいたはずだが、たしかに「遠野茉莉子さん」と呼んだ。 「……はい」 「演技をしながら、何を思い出していましたか?」  前のめりになった名倉は、私を見据えていた。人ではなく、人型のロボットでも見るような視線だった。 「色々と……性被害のこととか……母親のこととか……」 「つらくはありませんか?」 「つらいです。とっても」  積極的に振り返りたくはない記憶ばかりだった。できることなら忘れていたい。でも、だからこそ、心の底から怒りや憎しみや恐怖が湧き上がった。これが名倉の指導に対する、私なりの解釈だった。 「最悪の気分ですか?」 「最悪です」 「すばらしい」  その瞬間、名倉は満面の笑みを浮かべた。楽しいおもちゃを見つけた少年のように、無邪気な笑顔だった。名倉敏史(としふみ)という人の本性が露わになり、ホームで諏訪に言われたことの意味がわかった。  この人は、悪魔だ。 「ありがとうございました。この組は以上で結構です」  演じ直しをさせられることもなく、私たち四人の芝居は終わった。諏訪の横顔は悄然 (しょうぜん)としている。見せ場を横取りされたとでも思っているのだろうか。私は鼻を鳴らす。飛びこんできたのはそっちのほうだ。  参加者たちが怯(おび)えたような顔でこちらを見ている。豹変(ひょうへん)した私を見て、驚きよりも恐れのほうが勝ったらしい。  私はその時、役者にできることはふたつにひとつだと悟った。狩るか、狩られるか。周囲の役者に拮抗する実力を持っていない者は生き残れない。舞台の上で惨めな姿をさらすしかない。  私は絶対、狩る側に回る。  身体の内側で、撃鉄を起こす音がした。  ワークショップが終わって帰ろうとした寸前、名倉に呼び止められた。 「少し残ってくれますか」  他の参加者はいなくなり、舞台監督も去り、スタジオには二人だけが残った。私と名倉は長テーブルを挟み、向き合ってパイプ椅子に座っていた。大きな鏡に、対峙(たいじ)する私たちが映っている。  名倉は眼鏡の奥の目を細めた。 「〈いずれ〉を〈今〉にします」  その言葉は、下北沢(しもきたざわ)のカフェバーで名倉へ直訴したことへの回答だった。 「どういう意味ですか」 「遠野茉莉子の役は、あなたに演じていただきます」  名倉は淡々と言う。そこには仰々しさも、恩着せがましさもなかった。 「あなただけ、一目見て演技が異質だった。他の演者はこれから決定しますが、遠野役だけは迷う余地がなかった。他には考えられない」 「ありがとうございます」  どう応じればいいかわからず、軽く一礼する。  私は舞い上がることもなく、落ち着いていた。さほど心を動かされなかった理由はわかっている。私の視線は出演の是非ではなく、すでにその先にあるステージの上へとそそがれている。  あまりに落ち着き払っていたせいか、名倉は苦笑した。 「当然、という感じですか?」 「否定はしません」 「……ぼくもね、見てもらえばわかる、というのが事実になるとは思わなかった。ああいうのは九分九厘ハッタリですから」  その通り。あれはハッタリだった。私は自分の実力もわからないまま発言していた。ただ、演じたいという欲求しかなかった。 「名倉さんにひとつ、聞いてもいいですか」 「どうぞ。演出プランでも、なんでも」 「どうして私をワークショップに呼んでくれたんですか?」  ずっと不思議だった。何者かもわからない私を、名倉はなぜ招待してくれたのか。あの短いやり取りのどこに、その理由が潜んでいたのか。名倉は長テーブルを指でとん、とん、と叩(たた)いていたが、じきにぴたりと止めた。 「あの時のあなたは、よくいる役者志望の人とは微妙に違う空気を持っていた。具体的に言うなら、〈役者志望の人〉を演じている人、という感じがした」  図星だった。あの時たしかに、私は場にふさわしい役柄を演じていた。 「普通はまず役者になりたいという野望があって、そのために演技を磨く。でもあなたはそうじゃないと感じた。はじめの動機の部分で、演じたい、という欲求がある。あなたの目的は役者になることではなく、演技をすることそのものにある。そこが面白いと思ったから、試しに呼んでみた」  やはり、名倉敏史は悪魔だった。この男は、自らの野望と心中してくれる人間を、嗅ぎ分けることができる。 「ぼくは、豊かな人生経験のない俳優に豊かな演技はできないと思っている。自分が経験した以上のことを、人は演じられないから」 「……」 「あなたは記憶の引き出しを上手に開け閉めすることができる。後は、その中身を豊かにするだけです。経験してください、あらゆることを」  そして、もっと面白いおもちゃになってください。口にしていないはずの名倉の声が、鼓膜の奥で響いた。  気が付けば、私はスタジオの前の路上にいた。何を話して、どうやって外に出たのか記憶になかった。まあ、いい。遠野茉莉子を演じることが決まった。それだけ覚えていれば、十分だった。  どこからか、蝉(せみ)の鳴き声が聞こえた。まだ六月だというのに気が早い。しつこい求愛の訴えが、神経を逆なでする。苛立ちを覚えながらも、私はこの感情が〈使える〉ことに気が付いた。 『撃鉄』は性加害と性被害の物語だ。遠野茉莉子を演じるなら、やはり私は体験しておかなければならない。死ぬほど嫌悪している、男との交わりを。それによって、私は遠野茉莉子に肉薄できる。性を憎み、性に翻弄される女性を演じられる。  想像するだけで額に脂汗(あぶらあせ)が滲(にじ)む。それでも迷いはなかった。  立ち止まり、スマートフォンで昨日登録したばかりの諏訪の番号を呼び出す。相手はすぐに出た。 「……もしもし?」 「お疲れ様です。今日はありがとうございました」  諏訪は気まずそうに「ああ」と言った。私だけ居残りを命じられたことを、諏訪は知っている。 「役、もらえた?」 「はい。諏訪さんに助言してもらったおかげです」 「何もしてないよ」  拗(す)ねたような口ぶりだった。男が拗ねる姿は見苦しい。 「よかったら、二人でご飯食べに行きませんか。お礼したいんで」  心にもないことを口にした。諏訪は「ああ、そうね」とあまり興味のないような反応だったが、上ずった声には下心が見え隠れしていた。高校生のころに卑猥な視線を送ってきた男子生徒と同じだ。  一時間後、諏訪の家の近くにある居酒屋で会うことになった。 「楽しみにしています」  通話を終え、再び歩き出す。  楽しみにしている、というのは嘘(うそ)じゃなかった。今夜、私は別人になる。遠野茉莉子そのものになるのだ。それを思えば、ベッドでの苦行も耐えられる。  湿った空気が肌にまとわりつく。つがいの相手を求める蝉が、いつまでも鳴いていた。

(つづく) 次回は2023年6月15日更新です。

著者プロフィール

  • 岩井圭也

    1987年生まれ。大阪府出身。北海道大学大学院農学院修了。2018年『永遠についての証明』で第九回野性時代フロンティア文学賞を受賞し、デビュー。他の作品に『夏の陰』『プリズン・ドクター』『水よ踊れ』『この夜が明ければ』『竜血の山』『生者のポエトリー』『最後の鑑定人』『付き添うひと』『完全なる白銀』がある。