物語がつまった宝箱
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  • 第二幕(序) 2023年6月15日更新
 舞台上の名倉(なぐら)は涙ぐんでいる。
 名倉は長々と、私との来し方を話していた。下北沢(しもきたざわ)での出会いから、『撃鉄』のオーディション、彼が信奉するメソッド演技。その主役にちなんで〈遠野茉莉子(とおのまりこ)〉という芸名を名乗りはじめたことまで。
「茉莉子に演技を指導したのはぼくです」
 切羽詰まった表情の名倉が、口の端から泡を飛ばした。
「ぼくだけが彼女の師だと言うつもりはない。そこまで思い上がってはいません。ただ、役者になるきっかけを作ったのはぼくだし、節目の公演では必ず彼女の力を借りた。最も濃い関係にあった劇作家はぼくだという自負があります」
 私としても、異論はない。
 遠野茉莉子という役者にメソッド演技を叩(たた)きこんだのは彼だ。取材でも、最も影響を受けた劇作家を問われれば名倉敏史(としふみ)だと答えてきた。彼がいなければ、五感の記憶を活用した演技にはなっていなかった。
「だからこそ、茉莉子の死には責任を感じています。実質的に、遠野茉莉子を殺したのはぼくなんですから」
 感傷的な沈黙は「ちょっといいですか」という声で破られた。声の主は蒲池多恵(かまちたえ)だった。
「ここまで黙って聞いていたけど、何が言いたいのかわかりません。名倉さんは思い出話をするために私たちを集めたんですか? さすがに迂遠(うえん)すぎる。いい加減、その意味深な台詞(せりふ)について説明してくれますか?」
「……すみませんが、俺も同意見です」
 舞台監督の渡部(わたべ)が挙手した。長い付き合いの彼は、名倉に意見できる数少ないスタッフの一人だった。
「名倉さんの話が要領を得ないのはいつものことですけど、今回は人が亡くなっているんです。しかも彼女を殺したのはぼくだ、なんて……順序立てて話してもらわないと、こっちも冷静に聞けませんよ」
 名倉はそういった抗議にいちいちうなずいた。
「失礼。言いたかったのはこういうことです。ぼくは茉莉子にメソッド演技を叩きこんだ。だから彼女には、舞台上で感情を表現するには、その元となる現実を役者自身が体験しないといけないという考え方が染みついていた。そこは、渡部くんにも同意してもらえると思う」
 渡部がうなずいた。彼もまた、私の芝居を近くで観(み)てきた一人だ。
「名倉さんの指導を受けた俳優は、多かれ少なかれその傾向があります」
「茉莉子は最たるケースだった。傷ついた女性を演じるために、現実でも自らを傷つけた。怒りを表現するために、現実でもやるせない状況へ自分を追いこんだ。それが今回の演目では仇(あだ)となった」
 客席の面々はまだ怪訝(けげん)そうな顔をしている。しかし私には、名倉の言いたいことがわかってきた。
「茉莉子の役柄は幽霊、つまり死者だった」
 やはりそうだ。私は誰にも見えない微笑を浮かべる。
「死者を演じるにあたって、最も忠実な体験は何か。それは自分自身が死ぬことです」
 客席から笑い声が起こった。蒲池が口の端を曲げ、露悪的に笑っている。
「まさか遠野茉莉子は幽霊を演じるために、幽霊になったと言いたいんですか? つまり事故ではなく、自分の意思で飛び降りたと?」
「ぼくはそう考えています」
 名倉は真剣だったが、蒲池は鼻で笑った。
「バカバカしい。死んだら演技も何もないでしょうに」
「彼女自身、必ずしも死ぬとは思っていなかったんじゃないでしょうか。高さ三メートルの奈落での転落は、確実に命を落とす、とまでは言えないものです。生き残る可能性も十分あった。茉莉子はそこに賭けたんだと思います。死の淵(ふち)の際を覗(のぞ)きこむために奈落の底へ身を投げた。結果、賭けに負けて命を落とした」
 名倉は一呼吸置いて、視線を引き付けた。
「彼女を殺したのはぼくです。ぼくの教えこんだ演劇理論が、茉莉子を死に誘(いざな)った」
 今度は、誰も何も言わなかった。名倉の推測の妥当性を吟味しているかのような沈黙であった。宮下(みやした)劇場は静まりかえっている。傍(はた)からその模様を見ている私には、退屈な時間が続いた。
「それはないと思います」
 小さいが、はっきりとした声で発言したのは城亜弓(じょうあゆみ)だった。名倉は眼鏡越しに、肩をすくめている彼女を見た。
「なぜ?」
「九死に一生を得たとしても、重傷は間違いないですよね。下手をすれば、二度と治らない後遺症が残るかもしれない。茉莉子さんは舞台に立つことを何よりも優先する人でした。そんな人が、重傷のリスクを負ってまで奈落へ飛び降りるとは思えません」
 そう。私には舞台に立つという使命があったから、自傷だけはやらなかった。無用な傷跡は演技上の夾雑物(きょうざつぶつ)になる。
「名倉さんの推測は的外れです」
 真正面から否定されても、名倉には動揺する気配がない。
「では城さんは、あれが事故だと考えているんですね。些細(ささい)な怪我にも注意していた遠野茉莉子が、奈落の位置を見誤って足を踏み外したのだと?」
 城は即答しなかった。
 彼女も迷っているのだろう。遠野茉莉子が奈落に落ちたのは不測の事態だったのか、それとも意図した行動だったのか。それは、私を知る人であるほど難しい問いだった。もちろん私は正解を知っている。けれどこの場にいる人たちにそれを教える術(すべ)はない。できるのは、こうして傍観することだけだった。
 空調がようやく効きはじめてきたのか、皆の顔に浮いていた汗が引いている。しかし城だけは額に脂汗(あぶらあせ)を滲(にじ)ませていた。彼女は絞り出すように言葉を口にする。
「あれは事故です」
 それが彼女の結論だった。
「茉莉子さんにとって、演じることは人生そのものでした。間違っても死ぬ可能性があるようなことはしません」
 黒目がちな彼女の双眸(そうぼう)は、まっすぐ名倉に向けられている。二人の視線は互いに物語っている。
 ――お前に、遠野茉莉子の何がわかる?
 私は、名倉や城の人生を好転させたのか。それとも食いつぶしたのか。二人のなかには、それぞれ異なる遠野茉莉子がいる。それは、私がずっと誰かを演じてきたからだ。私の本当の顔を知っている人は、どこにもいない。
 私が幽霊になった理由を知る人も。


第二幕(1)

 別れよう、という言葉がすぐには認識できなかった。
 目の前の男が見知らぬ人に見えてくる。聞きなれているはずの声が遠く、見なれているはずの顔がぼやけている。
 数秒後、私は自分の置かれている状況を認識する。私が座っているのは吉祥寺(きちじょうじ)の商店街にある喫茶店のソファ。正面に座っている男性は一歳上の恋人。知人の劇団員の紹介で知り合った、大手メーカーの営業部に勤める会社員。フリーターで日銭を稼ぎながら役者をやっている私より、よっぽど安定した職についている。
 恋人は思い詰めた顔つきでテーブルの一点を見つめていた。どうやら聞き間違いではないらしい。
「……なんで?」
 おずおずと切り出すと、恋人は目尻を吊(つ)り上げて私を見た。
「お前と付き合ってると、どこに本心があるのかわからない。気味が悪い。どこまでが素で、どこからが演技か区別がつかない」
 返す言葉に詰まった。
「演技なんて……」
「してるよ。無意識かもしれないけど。喜んでるふり、楽しいふり。女優だからって……俺がわからないと思ってたのか」
 隣の席の女性二人組が、ちらちらとこちらを見ている。私は他人に見られていることを意識しながら、「そんなことない」と声を潜めた。しかし恋人は構わず大声で言い募る。
「なら、なんで俺と付き合おうと思ったの?」
「えっ?」
 動機ははっきりしている。私は女性らしい喜びが知りたかった。同年代の女性なら、きっと皆が知っているはずの喜びの感情を。
 私には、喜びの体験が欠けている。皆無であると言ってもいい。それはここ二、三年抱き続けている、役者としての悩みであった。
 私の芝居は、メソッド演技と呼ばれる手法に基づいている。一人の人間としての実体験を、舞台の上で再現するのだ。悲しむ場面であれば悲しかった記憶を、苛立つ局面では苛立った記憶を自在に引き出す。そうすることで、真実に迫る演技を披露できる。
 しかし私には、喜びを表現するための記憶がなかった。どれだけ記憶をひっくり返しても、心から喜びを感じた瞬間が見当たらなかった。舞台では、喜びを表現することをたびたび求められる。片思いの相手から愛を告げられた時、愛する人との子を授かった時、などなど。それなのに、私の身体(からだ)のどこを探しても、女としての喜びが見つからないのだった。
 私は喜びを演じるため、幾人かの異性と交際してきた。世間並みに男性と交際すれば、いずれ女の喜びというものがわかるはずだと思っていた。
 アウトローな遊び人とも、まじめな勤め人とも付き合ってみた。恋人がいることで楽な面はあった。独り身だとお節介な知人が男を紹介しようとしたり、眼中になかった異性から唐突なアプローチを受けて困惑したりすることがある。そういう意味では、付き合うことで生活が楽になるというメリットはあった。
 けれど誰が恋人になっても、喜びの感覚を得ることはできなかった。なんとなく、上っ面だけで調子を合わせているような感じがして、一緒にいるとむしろ気疲れする。それは目の前にいる彼が相手でも同じだった。
「それは……好きだからに決まってる」
 私は嘘(うそ)をついた。本当は、好き、という感情すらいまだにわからなかった。かけがえのないたった一人の相手。運命の人。恋人にそんな感慨を抱いたことはなかったし、これから先も抱くとは思えない。
 でも、この場面ならそう答えるのが普通なんだと思う。私の反応は間違っていなかったはずだ。それなのに、恋人は首を横に振る。
「それが本音かどうかわからない」
「ひどい。本音かどうかなんて、証明しようがないのに」
「別に証明しなくていい。たぶん、俺が疑いはじめた時点で終わってるんだよ。恋愛って二人でするものだろ。どっちかが相手を信じられなくなったら、終わりにしたほうがいいと思う。証明とかなくても」
 そうなんだろうか。それなりに恋愛を経験しているはずなのに、私はいまだに恋愛がどういうものかわからない。隣席の二人組はひそひそと話していた。その二人に声をかけて、今すぐに訊(き)いてみたい。
 彼はああ言っているんですけど、普通はそうなんですか?
「ごめん。俺はもう無理だわ。別れてくれ」
 生真面目に頭を下げる恋人のつむじを見ながら、もう修復することはできないんだろうと悟った。いつもこうだ。付き合いはじめて数か月経(た)つと、向こうから別れを切り出される。今回も同じだった。
「何がよくなかったの?」
 顔を上げた彼に正面から尋ねてみた。つらく当たったり、無茶な要求をした記憶はない。下品な態度も、過剰な浪費もない。もはや元恋人になりつつある彼は、しばし目を閉じてから答えた。
「いつも、うっすら嘘をついてるような感じがする」
 その言葉に偽りがないことは、彼の気まずそうな表情を見ればわかる。
 そうか。私はいつも、うっすらと嘘をつきながら暮らしているのか。
 でもそれって、他の女性も同じなんじゃないだろうか?

 翌朝、浅い眠りから目が覚めた。
 カーテンの隙間から見える四月の空はまだ暗い。布団(ふとん)のなかでぐずぐずと再入眠を試みるが、眠気は一向に訪れない。諦めて、部屋の照明をつけた。LEDの蛍光灯が室内をしらじらと照らし出す。洗ったけれど畳んでいない洗濯物。未整理のレシート。からまったイヤフォン。
 五年前に住みはじめた吉祥寺の女性限定アパートに、私は今も住み続けている。
 のっそりと布団を抜け出し、シャワーを浴びる。寝不足のせいで頭が重い。シャンプーを使って、中身がなくなりかけていることに気が付く。詰め替えを買わないと。それと、柔軟剤も。面倒くさい。
 もうすぐ二十四になるというのに、私はまだ「生活」に慣れていなかった。
 日用品を買いそろえて、掃除や洗濯をして、料理をして食べて、規則正しく働いて、眠る。そういう当たり前の「生活」が、こんなにも難しいことだなんて、一人暮らしをするまで知らなかった。
 シャンプーや洗剤はしょっちゅう切らすし、自炊は一か月近くやっていない。日雇いのアルバイトは場所も時刻も毎回違うから、リズムも不規則になる。何より、眠るのが下手になった。最近は三、四時間しか続けて眠れない。かといってショートスリーパーでもないから、日中、異常に眠くなる。そこに月経の周期が重なると指一本動かせなくなる。
 普段の「生活」では、他人を演じることができない。与えられた役柄ではない、素の自分として生きなければならない。それがたまらなく面倒くさい。台詞も挙動も、全部自分で決めないといけない。
 演技をしている間だけ、私は生き生きと動くことができる。
 ひとたび舞台に上がれば、頭の重さも、全身のだるさも霧消する。爪の先まで神経が通い、炎のように感情がほとばしる。その瞬間、私は「生活」のうっとうしさを完全に忘れる。劇場に「生活」は存在しない。
 浴室を出て、バスタオルで髪を拭きながらリモコンでテレビのチャンネルを変えていく。通販番組、ニュース番組、ゴルフの中継。どれも興味が湧かない。ふと、一昔前の時代劇が映し出される。そこでチャンネルを止める。
 人相の悪い侍が、町娘をさらっている。そこに鮮やかな衣装を着た青年が現れ、一刀の下に悪党を切り伏せる。全裸のまま一連の演技を観ていた私の心はかゆみを覚える。肌の上を虫が這(は)うような、言いようのない不快感だった。
 俳優たちが、役柄を生きていないからだ。
 テレビの時代劇は、上手な演技を見せることが目的ではない。大事なのはそれっぽさだ。舞台演劇とは求められる芝居の質が違う。でも、それを差し引いても、出演者たちの演技は大仰すぎた。役者自身の体験に基づいていない、借り物の演技だった。これでは、役柄を生きる快楽を得られないのではないかと不安になる。
 それとも、私は根本的な思い違いをしているのだろうか。
 私の目的は他人の人生を生きることだ。面倒な、素の自分というしがらみを脱ぎ捨てるために。しかし普通の俳優はそういう動機ではないのかもしれない。名声や収入を得るため、あるいはなりゆきで。そうだとすれば、実体験に立脚した忠実な演技など要らない。その枠に必要十分の演技をすればいいのだから。
 あらためて散らかった部屋を見回す。そこには、逃れようのない現実がある。管理費込みで月四万六千円のワンルームが、私の小さい根城だった。
 遠野茉莉子は、昨今勢いのある若手俳優として舞台ファンたちに認知されつつある。思い上がっているわけではない。私を目当てに劇場へ来る観客が増えていることは、アンケートやネットの評判から明らかだった。この二、三年はオファーをもらって出演する機会も増えた。
 それでも、世間的にはテレビの時代劇に出演する役者たちのほうがよほど成功したといえる人たちであり、小劇場でくすぶっている私は一人前未満ということになるのだろう。いまだに月の半分は日雇いで働いている。父親からの仕送りはとっくに打ち切られていた。
 別の誰かを演じることを、生業(なりわい)とする。それが役者を目指した動機だった。それなのに、私は演技で食べていくどころか、演技のためにしたくもないアルバイトを続けている。役者になってもうすぐ五年が経つというのに。
 安物の下着だけ身につけて、ベッドに寝転がる。今日は来週の舞台の稽古だ。十時までに幡ヶ谷(はたがや)の稽古場に行けば間に合う。スマホをいじっていると、女性向けサイトの記事が目についた。
〈四月は体調を崩しやすい時期!〉
 記事によれば、四月は気温や湿度の変化が大きいだけでなく、進学や就職、異動など、環境の変化も起きやすい時期だという。心身の疲れがたまりやすく、だるさが続いたり、不眠になったりすることもあるらしい。
 もしかすると、最近の不調は春のせいなのだろうか?
 いや、違う。
 俳優として大成できないことへの焦り。経済的な不自由さ。学歴も職歴もないことへの不安。そうしたものがいっしょくたになって襲いかかってくるせいだ。
 まだ、足りないのか。私の演技は未熟なのだろうか。
 役者として未熟なのであれば、それは人生経験が乏しいせいだ。私のなかに、まだ十分な喜怒哀楽が蓄積されていない。魂がひりつくような体験がほしい。

(つづく) 次回は2023年7月1日更新です。

著者プロフィール

  • 岩井圭也

    1987年生まれ。大阪府出身。北海道大学大学院農学院修了。2018年『永遠についての証明』で第九回野性時代フロンティア文学賞を受賞し、デビュー。他の作品に『夏の陰』『プリズン・ドクター』『水よ踊れ』『この夜が明ければ』『竜血の山』『生者のポエトリー』『最後の鑑定人』『付き添うひと』『完全なる白銀』がある。