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  • 第二幕(2) 2023年7月1日更新
 幡ヶ谷(はたがや)の稽古場に着いたのは十時前だった。
 昔、打ち上げでベテランの俳優から「幡ヶ谷に住むと売れる」という噂(うわさ)を聞いたことがある。その場にいた別の誰かが「それは眉唾」と突っ込んだが、本人は「劇場がある新宿(しんじゅく)や渋谷(しぶや)が近いから、終電を気にせず稽古できる。だから売れるんだ」と力説していた。その説が正しいなら笹塚(ささづか)でも初台(はつだい)でもいい気がするけど、なぜか幡ヶ谷でないといけないらしい。
 もしかしたら、そのベテランが幡ヶ谷に住んでいたのかもしれない。芸歴は立派だが、売れているとは言いがたい人だった。最近は風評をとんと聞かない。
 スタジオにはすでにほとんどの演者が揃(そろ)っていた。足を踏み入れた私を、皆が意識したのが気配でわかる。たとえこちらを向いていなくても、他人の注意が自分に向けられているかどうかは察知できるようになった。
 この舞台の準主役であり、唯一の客演である私は、常にうっすら異物として扱われる。稽古がはじまるまで、スタジオの隅でじっと待つ。楽しげに雑談している他の団員たちは、私に目もくれない。私もその輪に入りたいとは思わない。
 この日は通しの立ち稽古だったが、演出家はしきりに演技を止め、「もっと動け」という指示を出した。他の俳優たちは言われるがまま、大仰に手を振り、足をばたつかせ、くどい表情で台詞(せりふ)を口にしている。それを見て演出家はまた怒る。
 私の出番が来た。私の解釈では、オーバーに動け、という指示ではない。観客席から観た時に適切な理解ができるように動け、と言いたいのだろう。
 ひとしきり演じた後で、演出家がまた止めた。
「今の感じ、いいですよ。他の人も遠野(とおの)さんを見習って」
 役者たちは黙りこみ、稽古場がしんと静まり返る。その静寂には妬みや不満、怒りや絶望が込められている。負の感情でできた剣山の上で、私は芝居に没頭する。そうしていれば気まずさを直視せずに済む。
 休憩中、ロビーの自販機で飲み物を買っていると、後ろから「遠野さん」と声をかけられた。振り返ると共演者の一人だった。私よりずっと年上の女性だ。役名は覚えているけれど、役者の名前は覚えていなかった。
「どうも」
 立ち去ろうとすると「ちょっといい?」と引き止められた。
「はい」
「もう少し、自分の立場を自覚したほうがいいと思うよ」
 またか。
 こういう〈善意の忠告〉をされるのは初めてのことじゃない。私が舞台に出る時は基本的に客演だ。例外は劇団バンケットで、あれは名倉(なぐら)個人の劇団だから全員が客演ということになる。普通は劇団どこそこの第何回公演、という形がとられることが多い。この舞台だってそうだ。私以外は演出家も含めて団員である。
 客演のやりやすさは劇団の持つ空気による。慣れている劇団であればすんなり溶けこめるし、排他的な集団であればやりにくくなる。ただ、客演という立場が人間関係の摩擦を引き起こしやすいことは確かだった。
「気に障る点があったら、すみません」
 私は素直に頭を下げる。しおらしい若手女優、という役をとっさに演じていた。
「まだ、ここのルールがちゃんと理解できてないのかもしれません。気をつけます」
「うん。そういう心構えでいてくれるなら、構わないんだけど」
 相手の態度が軟化した。彼女は演出家の名を挙げて、えこひいきする癖があるから、と言った。
「特定の誰かを持ち上げて、この人を見習え、って言い方よくするの。それ自体はいいけど、言われたほうは勘違いするじゃない? 自分は他人より優(すぐ)れている、って。だからさ、遠野さんもあんまり真に受けないでほしいの。それで調子に乗って、潰れちゃった人もいるからさ」
「肝に銘じます」 
 そう答えると、ようやく相手は気が済んだのか、飲み物も買わずに去っていった。
 どっと疲れが押し寄せる。いったん舞台を下りれば、そこは「生活」の場になる。面倒くさいことの連続だ。
 後半の稽古では、演出家の指導がさらに熱くなった。発声の間(ま)を根本的に変更したり、ミザンス――舞台上の演者の立ち位置――をしきりにいじったりしていた。来週には公演だというのに、演出プランそのものが当初のものと変わっているように思える。経験上、土壇場で演出が変わるのはよくない兆候だった。
 だが私は余計なことは言わず、自分の役目を果たすことに集中した。また余計なことを言って、「生活」の厄介さに巻きこまれるのは御免だ。演技をする場さえあれば、私はそれで十分だった。
 稽古は夕方に終わった。何人か居残ることになったが、私はすぐに帰った。
 稽古場の外で、役者たちがたむろしていた。「お疲れ様です」と告げて立ち去ろうとすると、そのなかの一人に呼び止められた。
「これからご飯行くんですけど、遠野さんもどうですか?」
「すみません。予定があるんで」
 にこやかに答える。こういう時は隙を見せてはいけない。迷っていると強引に連れていかれて、陳腐な演技論や下世話な噂を聞かされる羽目になる。彼らを観客にして、従順な若手女優を演じるという手もなくはない。だが、たいてい深夜まで連れまわされ、翌日のコンディションを崩すことになる。稽古に影響が出ることは避けたい。
 幡ヶ谷駅へと歩き出した背中に、「嫌いだわぁ」とつぶやく声が届いた。私は誇り高い俳優を演じることで、その声をやり過ごす。
 あの役者たちは想像できないのだろう。私が自宅で声がかれるまで台本を読み返していることも、再現すべき感情の引き出しを無数に試していることも、姿見を前に表情や手指の動きを何時間も確認していることも。
 稽古で直接見えることなんて、役者の努力のほんの一部だ。優れた俳優は見えない場所でこそ努力している。諏訪(すわ)やあの人たちは、どうしてもっと努力しないのだろう。どうして演技にすべてを捧げようとしないのだろう。
 私にとって演じることは何よりの快楽だ。その快楽に少しでも長く浸っていたいと願うのは、異常なことだろうか?

 飲み会は基本的には面倒だけれど、千秋楽後の打ち上げだけはさすがに付き合う。
 名前を売るために最低限の顔つなぎはしておきたいし、あまり悪質な噂を立てられても余計に厄介だからだ。たぶん、どんな職場でも同じだろう。できるだけ波風立てたくないと考えるのは自然なことだ。
 明大前(めいだいまえ)の居酒屋を貸し切りにした打ち上げは盛り上がった。適当に役者たちの相手をした後、カウンターで休んでいると演出家が隣に座った。
「茉莉子(まりこ)ちゃん、一人で飲むのもサマになってるね」
 意識しているのだろうか、演出家は普段より低い声で話しかけてきた。小柄な男性で、シークレットブーツを履いているから稽古場に入ると身長が低くなると、もっぱらの噂だった。
「すみません、少し疲れちゃって」
「そうだよね。この数か月、駆け抜けてきたもんね」
 妙に格好をつけているのが気になったが、ひとまず同調する。
 しばらく、演出家の持論を拝聴する時間が続いた。他の人に絡まれてもいやなので適当に相槌(あいづち)を打ってやりすごす。小劇場界隈(かいわい)で二十年近く活動している人なだけあって、それなりに興味を引く話もあった。
「役者は本当に自然すぎると、駄目なんだよね」
「どういうことですか?」
「ノンフィクションを見せてるわけじゃないからさ。ものすごく巧(うま)いんだけど、同時にそれが演技であることが観客に伝わらないといけない。その最後の一線を越えると、逆に白けるんだよ。だから一流の役者は、存在感があって、違和感がなく、かつそれが演技であることも伝わる」
 わかるような、わからないような話だった。けど、それが事実だとするなら、元恋人から告げられた「うっすら嘘(うそ)をついてるような感じ」というのが、褒め言葉のようにも思えてくる。
「この後さ」
 演出家が顔を近づけてきた。
「別の店行こうか。仲の良いマスターがいて……」
「ごめんなさい。気分が悪くて。終わったらすぐ帰ります」
 こういう時はきっぱり断るに限る。私が男と関係を持つのは、喜びの感情を知りたいからだ。それ以外の理由で寝たところで、私には何の利益もない。演出家はあたかも冗談だったかのように「そっかそっか」とごまかした。
 宣言通り二次会には行かず、一人で帰路についた。井の頭(いのかしら)線の車両に揺られながら、これまで関係をもった男を数えた。七人。いや、八人か。
 最初に男としたのは、五年前、諏訪という役者と二人で飲んだ帰りだった。腕に絡みつくと、諏訪はこちらの思惑通り私を自宅へ誘った。そこからベッドに倒れこむまで一時間とかからなかった。
 性行為は不快以外の何物でもなかった。
 私の股間に諏訪が顔を埋めている間も、仕方なく諏訪のものに舌を這(は)わせている間も、私は苦い汁を飲まされたように顔をゆがめていた。気持ち悪さで、つながる直前、私はぽろぽろと涙をこぼした。そんな私を見て、諏訪は何を誤解したのか、狼狽(ろうばい)しながら「大丈夫だから」と繰り返した。その夜はそれで終わりだった。
 だが結局、翌朝になると諏訪はまた事に及んだ。
 結論から言うと、大丈夫ではなかった。
 事が終わるまで全身に冷や汗をかき、惨めな仕打ちに耐えた。気持ちよくもなんともない。諏訪の顔を見るのが嫌で、枕で顔を隠した。
 それは、待ち望んでいた体験でもあった。
 私は『撃鉄』で遠野茉莉子を演じるため、あえて男と交わることを選んだ。そこで生身の自分が味わった感情を、舞台で再現するために。そういう意味では、諏訪を利用した私の企みは成功した。
 諏訪とは何回か寝たけれど、じきに連絡を取らなくなった。向こうが飽きたということもあるだろうし、こっちも未練はなかった。毎回同じような展開で、新しい体験ができなくなったからだ。
 それからも相手を代え、経験を積んだ。不快さは次第に薄れていったけれど、その分、身体(からだ)を重ねる必要性を感じなくなった。いったい自分が何のために男と寝ているのか、わからなくなってきた。私の引き出しにはすでに十分、性行為の記憶が詰まっている。
 足りないのは、喜びだ。
 恋も愛も理解できない私は、人として欠陥があるのかもしれない。普通の人たちは特に意識することもなく、好きだ嫌いだという感情を抱き、他人と付き合ったり別れたりしている。それが羨ましい。きっとそういう人たちは、喜びの芝居が上手なのだろう。私もそうなりたい。
 ストックにない感情は演じられない。
 それは、遠野茉莉子という役者にとって最大の弱点だった。

 *

 ゴールデンウイーク明けの夕方。私は下北沢(しもきたざわ)の喫茶店にいた。
 向かいの席に座っている名倉は、ブレンドに口をつけて「あちっ」とつぶやく。
 年齢は四十前後で、丸眼鏡に口髭(くちひげ)という風貌。見た目はしっかりおじさんのくせに、隙だらけだったり妙に物を知らなかったりする。たまに中学生の男子と会話している気分になるけど、そうやって油断していると、急に鋭利な刃物で刺してきたりもする。
「いきなりなんだけど」
 名倉はおしぼりで口元を拭ってから、切り出した。
「次の公演に出てほしい」
 呼ばれた時から、その話だろうと予想していた。
 五年前の『撃鉄』にはじまり、劇団バンケットの公演には五回出演してきた。これまで与えられた役柄は、すべて主役か準主役だった。実質的には団員といってもいいほどの常連だが、名倉は頑なにバンケットを個人で運営している。
 バンケットは、私が出演するようになってからさらに勢いを増した。舞台芸術の口コミサイトには賞賛の声が投稿され、地方の演劇賞も受賞した。集客力は高まり、より客席の多い劇場を使うようになった。それに伴って遠野茉莉子にも多くの視線がそそがれるようになった。
 バンケットの公演は、遠野茉莉子のはじまりでありすべてだ。舞台に立つきっかけをくれたのも、役者としての評価を高めてくれたのも名倉だった。
 名倉は「まだ初稿だけど」と言いながら、ブリーフケースから手製の薄い冊子を取り出した。一目でそれが戯曲台本であることを悟る。表紙には『落雷』とだけ記されていた。
「一人芝居だ」
 名倉の声音が一段と冷たくなる。冊子を開くと、登場人物の欄にはたった一人しか記されていなかった。出演者は遠野茉莉子だけ。
「一時間半、出ずっぱり。精神的にも体力的にも、簡単な仕事ではないと思う」
 台本をぱらぱらとめくるうち、肌が粟(あわ)立ってくる。また、他人の人生を演じることができる。自分ではない何者かになることができる。喜びと安堵(あんど)で震えそうになる。
「バンケットにとって勝負の公演になる。そろそろ、ぼくらも次のステージに進む頃合いだと思うんだよな」
 名倉が告げた日程は、三か月後の八月初旬だった。箱は下北沢一帯で最大のキャパを持つ太田(おおた)劇場。勝負の公演という言葉に嘘はないみたいだ。背もたれに肘をついた名倉が、あさっての方角を見つめながら言う。
「茉莉子にしか頼めない。やってくれるかな?」
「やります」
 迷う余地はなかった。
 一人芝居には、いつか挑戦したいと思っていた。舞台の上に私しかいなければ、自分の演技を全体の出来に直結させられる。純度百パーセントの、遠野茉莉子の舞台を観客に観せられる。
 私が承諾するとわかっていたくせに、名倉はわざとらしくほっとしてみせた。
「断られたら公演ごと中止するところだった」
「愛想が上手になりましたね」
「本音だよ。これ、当て書きだからね」
 たぶん、『落雷』が私だけのために書かれた台本だというのは事実なのだろう。演劇に関して嘘をつくような男でないことは、よくわかっている。
「まずは読んでみて。気づいたことがあったら言って」
「ないと思いますけど」
 読みたいあまり逸(はや)る気持ちをこらえて、バッグに台本をしまう。それを見て名倉が苦笑した。
「茉莉子っていつもそうだよね」
「何が?」
「台本に絶対文句をつけない」
 役者のなかには、たまに劇作家に対して猛烈な抗議をする人がいる。いや、たまにというより、役者と作家の会話はほとんどが台本の内容に関するものだと言ってもいい。この登場人物はこんな台詞を言わない、こんな行動を取らない。程度の差はあれ、そう主張する役者の姿はどんな舞台でも見かける。
 しかし私に言わせれば、文句をつけるほうがどうかしていると思う。
 役者の仕事は、作家や演出家の意図を可能な限り忠実に再現することだ。私たちは駒なのだ。駒が指し手に対して抗議していたら対局は成立しない。どんなに不自然に見える言動でも、そこには必ず意図がある。そうでなければならない。
 私は名倉という指し手を信頼している。気を配るべきは台詞の確かさではなく、どれだけ忠実に作品世界を再現できるか。その一点だ。
「私の仕事は芝居することなんで」
 意識して、涼しい顔をつくる。自信に満ちた女優を演じる。
「さすがだね」
「名倉さんが教えてくれたことです」
 お世辞ではない。私の役者としての方法論は、大半が名倉の理論に拠(よ)っている。彼は一度も明言していないが、血の通った駒になることを演者に要求する。体験の引き出しを自在に開け閉めすることで、まだ見ぬ世界を目撃したいと願っている。彼は才能に恵まれた劇作家というだけでなく、私が知る限り、最も貪欲な観客でもあった。
「怒りが必要なんだ」
 念入りに息を吹きかけてから、名倉はブレンドを啜(すす)る。
「今度の舞台では、嵐みたいな怒りを表現しないといけない。喜びは要らない。茉莉子には、荒れ狂う怒りの権化(ごんげ)になってほしい」
 名倉の演出はメソッド演技に立脚している。彼の言を借りれば、人生経験が豊富になるほど、再現できる感情が増えることになる。怒りを表現するためには、生身の私が怒りを経験していなければならない。
「大丈夫かな?」
 窺(うかが)うような名倉の視線に、私は微笑を返す。
「……もちろんです」
 そう答えなければ、役を奪われてしまいそうだったから。

(つづく) 次回は2023年7月15日更新です。

著者プロフィール

  • 岩井圭也

    1987年生まれ。大阪府出身。北海道大学大学院農学院修了。2018年『永遠についての証明』で第九回野性時代フロンティア文学賞を受賞し、デビュー。他の作品に『夏の陰』『プリズン・ドクター』『水よ踊れ』『この夜が明ければ』『竜血の山』『生者のポエトリー』『最後の鑑定人』『付き添うひと』『完全なる白銀』がある。