物語がつまった宝箱
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  • ダイヤモンドウォーター(1) 2019年1月5日更新
 昨日、姉さんに会った。きくち屋の前で私を待っていたのだ。
 会うのははじめてだったのに、なぜか見た瞬間に姉さんだとわかった。下校する生徒たちがたくさんその道を歩いていたのに、姉さんが私だけをじっと見つめていたせいかもしれない。姉さんは背が高くて、髪が長くて、鹿に似た顔をしていた。濃い黄色のコートを羽織って、赤いハイヒールを履いていた。私たちが消しゴムやノートや木工用ボンドを買うきくち屋の前で、姉さんはクリスマスツリーみたいに目立っていた。その姉さんが私に向かってニッコリ笑って手を振ったから、私までみんなの注目を集めた。
「どうしたの」
 私が聞くと、姉さんはウフフと笑って、
「予感がしたから」
 と答えたから、私はびっくりした。
「知ってるの?」
「たぶん」
「今日、メールに書こうと思ってたのに」
「ウフフ。超能力」
 それから私と姉さんは、大通りに面したカフェに入った。最近できたばかりの、ママが入りたがっていた店。ママが入りたがるような店に私は入りたくないと思っていたけれど、姉さんと一緒だと、そこは素敵な店だった。あかるくて床も壁もつるつるしていて、黒い服を着た店員たちが床を滑るように歩いて、店の真ん中に大きなガラスのテーブルがあって、テーブルの上には紫色の実をつけた白っぽい木の枝を差した大きな花瓶が置いてあった。でも、店の中でいちばん素敵なのは姉さんだった。店のひとたちはみんな、ちらちらと姉さんのほうを窺(うかが)っていた。
「シャルラ」という飲みものを姉さんが注文したから、私もそうした。シャルラは細長いラッパ型のグラスに入ったピンク色の液体で、光の加減でオレンジ色にも見えた。少し炭酸が入っていて、花みたいな果物みたいな、とてもいい匂いがして、マシュマロみたいなアイスクリームみたいな不思議なまるいものが、グラスの底にいくつも沈んでいた。
「いいこと教えてあげる。そのために来たの」
 と姉さんは言った。

「ダイヤモンドウォーター?」
 初音(はつね)が大げさに顔をしかめる。五年二組の教室の廊下側の列の、私は前から二番目で、初音は三番目の席だ。
「うん。出たことある?」
 私は言った。一時間目は国語で、はじまりのベルは鳴ったけれど担任の清家(せいけ)先生はまだ来ていなくて、教室内はざわざわしている。今日から十二月なのに暖かいというより暑いくらいで、窓を開けたいとか開けると寒いとか、校庭側の席の男子と女子たちがまだもめている。
「ないよー、そんなの。気持ち悪い」
「気持ち悪くないよ。きれいだよ。てゆうか、きれいなものなんだって、姉さんが言ってた。誰にでも出るものじゃないんだって。だから幸福の水、とも言われてるんだって」
「それが、出たの? オシッコじゃないの?」
「オシッコとは、全然違うよ。透明で、ねばねばしてるんだもん」
「今も出てるの?」
「ううん。昨日の夜、トイレで出ただけ」
「ふーん。ダイヤモンドウォーター、だっけ? ほかにも知ってるひとっているのかな」
「外国の呼びかただからね、日本のひとはまだ……」
 そのとき清家先生が教室に入ってきたので、私は急いで「ほとんど知らないんじゃないかな」と言ってから前を向いた。その瞬間、先生と目が合った。先生の目は吊り上がった。
「小此木(おこのぎ)さん、橋本(はしもと)さん。先生が来てもまだお喋りしているひとたちには、しばらく立っててもらおうかしらね」
 信じられない。私と初音はいきなり怒られて、立たされた。清家先生は気分屋で、ときどきささいなきっかけで、ヒステリーを起こしたりもする。今回もそれだったのだろう。
 ほかにもお喋りしているひとはいたのに、立たされたのは私たちだけだった。初音はそれから十分くらい、私は授業の半分くらいまで、立たされていた。立たされている子は、先生に質問を当てられて答えれば座ることができる。清家先生は私にはずっと質問しなかった。手をあげても無視された。わかってる。先生は私がきらいなのだ。私のパパはお芝居の演出家で、けっこう有名で、私がそのことを鼻にかけていて生意気だと先生は思っているのだろう。

「清家先生って、岡(おか)先生とできてるんだよ」
 それで、お昼休みに私はそう言った。このことは言わないようにしようと思っていたのだが、頭にきたからだ。私はパパのことを鼻にかけてなんかいないし、ああいうパパじゃなく、もっとふつうのお勤めとかの家に生まれたかったと思っているのに。
「できてるって?」
 千聖(ちさと)が聞く。給食を食べ終わって、私と初音と千聖は音楽室へ行く渡り廊下の手摺(てす)りに、中庭のほうを向いて並んで座っている。中庭には小さな池とそれを囲む背が低い植え込みがあって、植え込みは今真っ赤に紅葉していてきれい。ここは私たちのお気に入りの場所だ。
「セックスしてるってことだよ」
 私が言うと、千聖と初音は口々に「げー」「おえー」と言った。
「マジ? どうして琉々(るる)が知ってるの?」
 私のパパはふつうのひとじゃないから、私には琉々なんていうヘンな名前がついている。
「姉さんから聞いたの」
 姉さんのことはふたりにも少しだけ話してある。離れて暮らしていること。毎晩メールのやり取りをしていること。
「お姉さんはどうして知ってるの?」
「見たんだって。清家先生と岡先生が一緒にいるところ」
「一緒にいるだけじゃ、セックスしてるかどうかなんてわかんないじゃない」
「わかるんだって、姉さんには。超能力みたいなのが、姉さんにはあるの」
 だから清家先生と岡先生を見たとき、それが私のメールにときどき出てくるひとたちだっていうことも姉さんにはわかったの、と私は説明した。
 その日の帰り、私と初音と千聖、それに杏(あんず)——杏は千聖の隣の席の子で、千聖が「できてる」話をしてしまった——は、体育館の裏の駐車場へ行った。そこに岡先生の車が停めてあることを知っていたからだ。
 職員用駐車場への生徒の立ち入りは禁止されているから、私たちは裏門から学校を出る子たちに交じって近くまで行き、ひと気がなくなったのを見計らって、岡先生の車を探した。音楽専任の岡先生は車が好きで、ときどき授業のあとなんかに男子たちと車の話をしているから、先生が「空色のワーゲンビートル」に乗っていることを私たちも知っている。
 駐車場に停まっている車は三台だけで、空色の車は一台だけだったから、すぐにわかった。私たちは何気なく近づいて、車の中を覗(のぞ)いた。清家先生と岡先生が「できてる」証拠を見つけるためだ。運転席の横のドリンクホルダーにスターバックスのカップ(ストロー付き)が入っていて、助手席には黒いセーターがまるめて置いてあり、後部座席には何もなかった。助手席の足元にはゴミ箱があって、私はそれに注目したけれど、のど飴(あめ)の空き袋が入っているのしか見えなかった。
「なんにもないね」
 と杏がつまらなそうに言い、
「やっぱり、外から見ただけじゃわかんないよね」
 と初音が私の弁護をするみたいに言ったから、
「あっ」
 と私は助手席のセーターを指差した。
「あれって清家先生の髪の毛じゃない?」 
 どれ? と口々に言って三人が私の後ろから車の中を覗き込む。あれだよ、ほら、あのぐしゃってなってるとこに一本くっついてるの見えない? と私は言った。三人には見つけられないようだった。そのうち私にも見えなくなってしまった。きっと光の加減で、さっき一瞬だけ見えたのだ。
「でも、それが清家先生の髪の毛だってどうしてわかるの?」
 髪の毛を探すのに飽きたらしい千聖が言った。だよねー、と杏も声を合わせる。
「なんとなくわかるの。私にもちょっとだけ遺伝してるんだよね、姉さんの超能力」
 と私は言った。

 大通りの角で三人と別れて、カフェの前を通り過ぎたあたりで、お腹が痛くなってきた。
 昨日の夜もこんなふうになった。昨日よりも痛い気がする。マンションのエレベーターを降りたところで、きゅうっと下腹が絞(しぼ)られるみたいになって、思わずしゃがみ込んだら、そのとたんに熱いものがどろっとパンツに落ちたのがわかった。急いで家に入って、トイレに直行する。パンツを下ろすと、ねばねばした透明なものがついていた。ダイヤモンドウォーターだ。昨日よりも多い。私はトイレットペーパーでそれを拭き取った。オシッコをしてからそれが出てきた場所も拭いて、パンツを穿(は)くと、濡れていて気持ちが悪かった。穿き替えようと考えていたら、「琉々ちゃんなのぉー?」というママの声がした。
 ママはいつも家にいるけれど、私が学校から帰ってきたことに気がつくのはめずらしい。行きたくなかったけれど、こういうとき行かないとママは拗(す)ねて、面倒くさいことになるのはわかっていたから、私はパンツを脱いでデニムのスカートのポケットに突っ込むと、そのままママのところへ行った。
 ママはリビングにいた。ソファの背凭(せもた)れの上にボサボサの髪が覗いている。ママはたいていはダイニングにいるから、これもいつにないことだった。もしかしたら今日はお酒を飲んでいないかもしれないとちょっと期待したけれど、回り込んでみるとママの手にはやっぱり缶チューハイがあった。コーヒーテーブルの上にも空き缶が三つ。テレビがついていて、ぽん酢のコマーシャルが流れていた。
「ちょうどよかった、琉々ちゃんも見てぇ」
 ママは呂律(ろれつ)の回らない声で言った。飲んでないどころか、いつもよりたくさん飲んでいるらしい。いつものTシャツを長くしたみたいな部屋着を着ていて、そんな格好でも必ずつけるマスカラと口紅が、汚らしく目の下に落ちたり剥(は)げたりしていた。
「もうすぐコマーシャル終わるから。行かないで見ててぇ。ね?  ね?」
 ママのふにゃふにゃした手が私の腕に巻きついて、自分の隣に座らせようと引っ張った。いやな予感しかしなかったけれど私は座った。何も穿いてない下半身がスカートの布地に触れて、ぞわぞわした。ぽん酢のコマーシャルが終わって自動車保険のコマーシャルになって、それが終わると番組がはじまった。トーク番組で、今日のゲストの顔がアップになる。テロップで出てきた名前を私は知らなかったけれど、ときどきテレビで見たことがある、頭にはりついたみたいなショートカットの、きれいな女の人だった。
「ホントなんですよ、硬直しちゃうんです。ずうっと女子校だったから……。相手が男の人だと、年下でも敬語になっちゃうんです、それも緊張してすごくへんな、武士みたいな。かたじけない、とか言っちゃうんです」
 その女のひとが言い、かたじけない! と相手のひと——有名なお笑いタレント——が繰り返して、画面にも「かたじけない」というテロップが出て、笑い声が起きた。テレビの笑い声と、ママの笑い声。ハハハハ、ハッハッハーア、とママは笑った。テレビの画面を指差しながら。
「信じらんない、嘘ばぁーっか。硬直しちゃうだって。よぉーっく言うわよねぇー」
 ママは上半身をぐるんと傾けて、私の膝の上に自分の頭をのせた。私が小さい頃、ママに耳掃除をしてもらっていたときみたいな格好だ。あの頃のママはまだこんなふうなママじゃなかった。ママは私の顔を下から見上げた。
「琉々ちゃんもよぉーく見といて。あれよ。あーれが、パーパと、できてる女」
 もう一度画面を指差すために、ママが大きく振り上げた腕が顔に当たりそうになるのを、私はどうにか避けた。そのまま画面の女のひとを見た。口に手を当てて笑っている。左手の中指に、青いガラスの、猫の顔がついた指輪を嵌(は)めている。
「ほぉらあれ。あの指輪、ぜったいパパが買ってあげたやつよ。こうやってテレビに出るときなんかに、さりげなく嵌めるの。それでふたりでこっそり愛をたしかめ合ってるの。あたしにわかっちゃってるから、ぜんぜんこっそりじゃないけど」
 アハハハーァ、とママが笑って、
「えー、そんなの、してたって言うわけないじゃないですか。みなさん正直におっしゃるんですか? いや、だから私は処女ではないですよ、たぶん」
 と女のひとが言って、「たぶん!」とお笑いタレントが叫び、「処女ではないですよ、たぶん」というテロップが出た。
 ママはその番組が終わる前に寝室へ引き上げた。毎日午後五時にやってくる家事ヘルパーさんに、酔っ払っている姿を見られたくないからだ。うちはずいぶん前から週に一回お掃除や整頓をしてくれるヘルパーさんに来てもらっていて、最近、毎日夕方にごはんの用意をしてくれるひとも来るようになった。
 私はそのひとのために玄関のドアを開けたけれど、二時間後に彼女が帰るまで、ずっと自分の部屋にいた。ひとりでうろうろしていると、ヘルパーさんがちらちら気にして、何か言いたそうにするから。実際に一度言われたこともあって、でも「お母さん、大丈夫?」とか聞かれたって私には「さあ」としか答えられないから、本当にいやなのだ。
 部屋にこもっている間、姉さんにメールを書いた。テレビで女のひとを見たことは書かなかった。あの女のひとがパパと「できてる」ひとだとすれば、姉さんのお母さんだということになるけれど、いくらなんでもちょっと若すぎるから。もちろん姉さんにそのことを伝えれば、きっとうまい説明をしてくれるだろうけれど。今日はほかに聞かなければならないことがあった。ダイヤモンドウォーターで濡れたパンツをどうすればいいか。昨日、あれがはじめて出たときは、あんまりびっくりしたから、パンツはトイレットペーパーにくるんで生ゴミ用のゴミ箱に捨ててしまったのだった。でもあれが姉さんの言う通りダイヤモンドウォーター(幸福の水)なら、パンツを捨ててはいけない気がする。洗濯機にも入れたくない。
 どうしたらいい? 姉さん。
 姉さんからの返事はすぐに来た。ヘルパーさんが私の部屋のドアをノックして「お食事の支度ができました」と言いに来る前に。私と姉さんはパソコンのメールソフトなんか使わない。頭の中でメールのやりとりをすることができるのだ。私はパンツをスカートのポケットに入れたまま下に降りて、ヘルパーさんが作ったごはんをひとりで——パパは平日は夜中まで帰ってこないし、パパがいない日、ママは食事というものをほとんどしないから——食べた。
 それから姉さんの言う通りにした。

(つづく) この続きは2020年10月刊行の単行本『ママナラナイ』 (『ダイヤモンドウォーター』より改題)でお読みになれます。

著者プロフィール

  • 井上荒野

    東京生まれ。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し作家デビュー。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞を受賞。08年『切羽へ』で第139回直木賞を受賞。11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞を受賞。 16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞を受賞。18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。他の著書に『綴られる愛人』『あなたならどうする』など多数。