瀧羽麻子
** この世界には、二種類の人間が存在している。 占いを信じる者と、信じない者である。 世間一般において、それぞれの比率がどうなっているのか、東真次郎(あずましんじろう)にはわからない。半々くらいだとしたらありがたいけれども、いささか楽観的すぎるだろうか。三対七か、いや二対八か、ひょっとしたら一対九程度かもしれない。 ただし、それはあくまで世の中全体での平均値にすぎない。真次郎の仕事相手に限っていえば、まったくあてはまらない。 チャイムが鳴った。 真次郎は椅子(いす)から腰を上げた。壁際まで歩み寄り、インターホンの液晶画面をのぞく。ビルの共同廊下を背景に、見知らぬ顔が映っている。長めの髪と首に巻かれた花柄のストールで、女性であることはかろうじて見てとれるものの、画質が粗(あら)い上にやや逆光になっていて、人相も年頃も判然としない。 もっとも、彼女の年齢を真次郎はすでに知っている。予約を受けるときに、氏名と連絡先に加えて、生年月日も聞いておくことになっている。 彼女は五十五歳らしい。真次郎の母親と同い年だ。 通話ボタンを押し、はい、と応答しつつ腕時計を見やる。きっかり十時、約束の時刻だった。 「お電話で予約させていただいた、金子(かねこ)と申します」 スピーカー越しに、かぼそく上品な声が届いた。 「お待ちしておりました。すぐに参ります」 言い置いて、真次郎は通話を切った。 短い廊下を進んで角を曲がり、こぢんまりとした玄関ホールに出る。タイル張りの床に、天井からぶらさがったランプが玉子色の光を投げかけている。 ホールを挟んで反対側にも、廊下がのびている。そちらは父の仕事部屋に通じている。それぞれの客が鉢あわせしてしまうのを避けるため、予約の時間枠はずらしてある。時間厳守で来店してもらうように、念を押してもいる。 玄関のドアは閉まっていた。鍵はかかっていないので、通い慣れた常連客は出迎えを待たずにさっさと中へ踏みこんでくることも多いが、勝手を心得ていない金子は律儀(りちぎ)に外で待っているようだ。 真次郎はスライド式のドアに手をかけた。小さく息を吸いこんだ拍子に、かすかな香のにおいが鼻腔(びくう)にふんわりと広がった。 ほんのり甘くてわずかに苦い、この独特の芳香を、真次郎は幼い頃から好きだった。 その正体が、こうして父の仕事場に焚(た)きしめられている香だと知ったのは、ずいぶん後になってからのことだ。当時は、父自身の体臭だと思いこんでいた。弟たちと競(きそ)いあうように、帰宅した父にまとわりついては、仔犬(こいぬ)のようにくんくん嗅ぎ回ったものだった。なぜだか自然に体の力が抜け、気持ちが和(やわ)らいだ。父の存在を感じて安心できるのかと思っていたが、もともとリラックス効果もあるという。 お客様にリラックスしてもらうことは、とても重要だ。 香だけではない。室内には落ち着いた品のいいアンティーク家具をそろえ、照明や温度にも気を遣い、父と手分けして隅々まで丁寧に掃除している。すべて、来客に少しでもくつろいだ時間を提供するための心配りである。 そしてもちろん、なにより大事なのは、真次郎自身が相手にどのような印象を与えられるかだ。 「お待たせしました」 真次郎はドアを開け放ち、にこやかに声をかけた。 金子がはじかれたように顔を上げた。目が合うなり、すぐにまた下を向いてしまう。眉間(みけん)にはしわが寄り、口もとはひきつっている。ハンドバッグの持ち手を握りしめた手の甲が、力を入れすぎて白っぽくなっている。 どう見てもリラックスとは程遠い。 「はじめまして。東です」 真次郎はかまわず微笑(ほほえ)みかけ、一歩下がってドアをおさえた。 「本日はようこそいらっしゃいました。どうぞ、中へ」 金子はおずおずと足を踏み出しかけ、ためらうように動きをとめた。共同廊下と玄関ホールをへだてる引き戸の溝に、じっと目を落としている。 真次郎はあえて急(せ)かさず、無言で彼女を見守った。 予約の電話で、プロの占い師に鑑定を依頼するのははじめてだと聞いている。つまり彼女は今ここで、境界線を踏み越えようとしているわけだ――言うなれば、一対九の、九の側から一の側へ。 金子がそろそろと片足を上げる。ようこそ、と真次郎は心の中でもう一度言った。こっち側の世界へ、ようこそ。 *** 一旦停止の黄色いラインの手前で、東優三郎(ゆうざぶろう)はブレーキをかけた。 左右を確認して、再びゆっくりと発進する。背の高い棚に挟まれた通路は、このフォークリフトがぎりぎり通れるくらいの幅しかない。車体や運んでいる荷物をぶつけてしまわないように、細心の注意をはらって運転しなければならない。 倉庫の中では他にも幾人(いくにん)もの作業員が働いているが、隙間なく積みあがった段ボール箱に視界をはばまれて、姿は見えない。孤独な仕事だとこぼす同僚もいるけれど、他人の声や気配にわずらわされず、黙々と作業をこなせるこの職場を、優三郎はむしろ気に入っている。 入庫された荷物を持ちあげ、運び、あるべき場所に格納する。あるいは、出庫すべき荷物を持ちあげ、運び、運送トラックに積みこむ。 果てしなく続く、その単調な繰り返しも、単調だからこそ心が落ち着く。作業そのものには変化がなくても、倉庫の中身は着実に入れ替わっているわけで、それなりに達成感もある。 ただし、フォークリフトの前に広がっている景色は、見たところほとんど変わっていない。 今朝からも、昨日からも。もっとさかのぼるなら、優三郎がはじめてここに足を踏み入れたときからも。 七年前のことだ。 大学に入って初の夏休みは、とにかくひまだった。部活にもサークルにも入らず、とりたてて趣味もなく、おまけに友達も少ないときたら、どうしたって時間を持て余す。日がな一日家でごろごろしていると、家族にもあきれられた。 「ひまそうだな」 と真次郎には皮肉っぽく言われ、 「普通、大学生活ってもっと充実してるもんじゃないの? 優ちゃんももうちょいがんばれば?」 とまだ中学生だった恭四郎(きょうしろう)にまで眉(まゆ)をひそめられるしまつだった。 せっかくの時間を有意義に使うべきだという兄弟たちの意見にも、一理あった。勝ち気でしっかり者の真次郎や、社交的で要領のいい恭四郎なら、このモラトリアムを満喫(まんきつ)できるはずだった。受験勉強と就職活動の狭間(はざま)にぽっかりと浮かんだ空白を、色とりどりに塗りあげてみせるだろう。 現に今、大学生となった恭四郎は、サークルだの飲み会だのと日々忙しく飛び回っている。 同じ家で暮らしているにもかかわらず、顔を合わせる機会は少ない。血のつながった兄弟なのに、どうしてこんなに性格が違うのか、優三郎たち兄弟も、両親も、昔から首をひねっている。 その父からは、 「うちを手伝ってみるか?」 とも持ちかけられたが、それも気が進まなかった。 高校生の頃から父の跡を継ぐと宣言していた兄とは違って、優三郎には家業にかかわりあう気はなかった。占いを信じていないわけではないけれど、仕事にしたいとはとうてい思えない。 どうせアルバイトをするなら、違うことがやりたい。 そこで、ネットで求人情報を検索してみた。居酒屋やコンビニの店員、家庭教師に塾講師、単発で働ける工事現場の交通誘導や引越業者の作業員などなど、同級生たちの間でも定番のアルバイトが勢ぞろいしていたが、どれも優三郎につとまるとは思えなかった。接客業には絶対に向いていない。さりとて頭脳や体力に自信があるわけでもない。 消去法で選んだのが、倉庫内の軽作業だった。 担当したのは、ピッキング作業だ。伝票をもとに在庫の棚から商品を探し出し、出荷に向けて梱包(こんぽう)する。 最初のうちは、てんてこまいだった。広大な倉庫の中で迷子になりかけ、遅いと怒られてあせり、あせるあまり品物を間違え、また怒られた。 泣きそうになりながらも、どうにかこうにか続けているうちに、じわじわとコツがつかめてきた。 これまた単調といえば単調な作業だけれど、ひとりで働けるという点で、優三郎の性(しょう)には合っていた。バイト仲間とも、業務上で必要な連絡を除けば、めったに言葉をかわすことがない。そのせいもあってか、スタッフどうしの人間関係も淡泊だった。アルバイトの入れ替わりが激しいのも、親しくなりづらい一因だったかもしれない。優三郎にとって快適な労働環境は、万人受けするものではないようだった。 一年が過ぎる頃には、もはや古株とみなされるようになっていた。複雑な棚の配置を覚え、梱包の腕を上げ、効率的に動けるようにもなった。 さらに一年後には、アルバイトをとりまとめている社員からも、一人前の戦力として認められるまでに成長していた。 そして、卒業したらうちに就職しないかと打診されたのだった。 入庫作業が一段落ついたところで、昼休みに入った。 昼食は、敷地内のコンビニで買うこともあれば、朝の通勤途中に調達しておくこともある。倉庫には広い駐車場が併設されていて、マイカー通勤をしている同僚も多いが、優三郎は自転車を愛用している。多少の雨なら、レインコートでしのげる。どうしようもない荒天の日だけ路線バスを使う。 フォークリフトを所定の位置に戻し、おにぎりとペットボトルが入ったコンビニ袋をぶらさげて、ひとりで倉庫を出た。駐車場をななめにつっきる。隅の裏門から、海べりの遊歩道に出られる。 海を眺められる向きに、ベンチが等間隔に並んでいる。気候のいい時季であれば、近隣に建つ倉庫や工場の従業員でそこそこにぎわうが、この寒さで閑散(かんさん)としている。さびしげな波音の響く小道を、潮風がびゅうと吹き抜けていく。 いつものベンチに腰を下ろし、さっそくおにぎりにかぶりついた。 ここで働くようになって、食べる量がめっきり増えた。半日過ごしただけで、異様に腹が減る。太りこそしないものの、腕にも足にもまずまず筋肉がついた。健康的になったと家族や友達にも褒(ほ)められる。 四個のおにぎりをあっというまに食べ終えてしまうと、これもいつものとおり、ぼんやりと海を眺めた。対岸の埠頭(ふとう)に大きな貨物船が何艘(なんそう)も停泊し、巨大なクレーンが積み荷を降ろしている。 あれは運転が難しそうだなあと見入っていたら、突然背中をはたかれた。 「おい、東」 手に持っていたペットボトルを取り落としそうになった優三郎の隣に、主任がどすんと腰を下ろす。 「お前、またひとりでたそがれてんのかよ」 たばこをくわえて火をつける。 前を通りかかった、砂色の作業服を着た若者が、ちらっとこっちをうかがった。心配してくれているのかもしれない。客観的に見れば、強面(こわもて)の中年男にからまれている、かわいそうな青年の図である。 実際には、主任こそ優三郎のことを心配してくれているのだが。 「このくそ寒いのに、こんなとこでなにしてんだ。風邪(かぜ)ひくぞ」 以前に比べてたくましくなったといっても、こうやって主任と並んでいると、優三郎はいかにもひ弱そうに見えるに違いない。長年の肉体労働で鍛(きた)えあげられた、屈強な体つきの大男である。おまけに眼光がいやに鋭い。新米の学生バイトなどは、ひとにらみされただけで震(ふる)えあがっている。優三郎も例外ではなく、現場で彼の姿を見かけるたびにびくびくしていた。 でも、こうして一対一で話してみると、見かけほどはこわくない。 仕事には人一倍厳しいが、その分、まじめにがんばっていれば公平に評価してくれる。若いアルバイトたちを怖気(おじけ)づかせている容赦(ようしゃ)のない物言いも、口が悪いというよりは正直すぎるのだ。 「こいつは使いもんにならねえだろうって思ってたんだよな、実は」 アルバイトをはじめて半年ほど経(た)った頃だったか、感慨深げに言われたことがある。 「体はひょろひょろだし、女みたいにきれいな顔して。それが、こんなに骨があるやつだったとはな。悪かったよ、見た目で決めつけちまって」 第一印象で誤解していたのは、お互い様だったらしい。 その後も、なにかと目をかけてもらってきた。正社員への昇格をお膳立てしてくれたのも主任だ。 「悪いようにはしないよ。うちはこう見えて大手だし、安定して働ける」 物流の需要は高まる一方で、会社の業績も順調に伸びている。おかげで従業員の待遇も悪くない。 「しかも東は大学出だろ。高卒のおれなんかより、ずっと早く出世できるぜ。何年かここで経験積んで、本社勤務だってねらえるんじゃないか」 優三郎としては、出世にも本社にもさほど興味はない。できることなら、この先もおとなしく倉庫で働いていたい。誘いを受けた最大の理由は、会社の魅力にひかれたというより、主任の熱意におされて断りづらかったからだ。 とはいえ、後悔はしていない。 主任の言っていたとおり、会社の福利厚生はしっかりしている。フォークリフトの免許も社費でとらせてもらった。業務内容にしても、給料にしても、さしあたり大きな不満はない。 そうでなければ、ここまで長続きはしていないだろう。 アルバイトとして四年足らず、正社員になってからも三年近く働いて、再来月にはもう七年目にさしかかる。優三郎なりに、この職場になじんでいるつもりだ。少なくとも浮いてはいないと思う。 しかし、これまた見かけによらず心配性の主任の目には、そうは映っていないようなのだった。 「吉田(よしだ)とか中島(なかじま)とか、同期だろ? あいつら毎日のように、休憩室に集まってわいわい食ってるぞ?」 仲間に入れてもらえと言いたいらしい。だが、その「わいわい」が、優三郎はどうにも苦手だ。 「ハブられてるわけじゃないんだな?」 「まさか」 確かに、仕事以外の場で同僚とのつきあいはないが、ひとりだけ疎外(そがい)されているというわけでもない。幸い優三郎の班は、班長以下ほぼ全員がマイカー通勤で、仕事あがりに軽く一杯、というような展開もない。社員どうしで飲むといえば、忘年会と歓送迎会くらいのものだ。 優三郎も気乗りはしないながら、ちゃんと出席している。組織の一員としてそのくらいは参加すべきだろう。そこまで空気を読まない人間ではない。二次会にも参加するほどは、読まないとはいえ。 「なら、いいけど。困ったことがあったら、いつでも相談しろよ」 これまでにも何度となく言われていることだ。熱心に入社をすすめた手前、責任を感じてくれているのだろう。 「ありがとうございます」 優三郎は素直に頭を下げた。 「いつも、すいません」 なんだかんだいっても主任には感謝している。 優三郎が他の同僚たちとほどよく距離をおき、自分のペースを守って働いていられるのも、主任の存在があってこそだと思う。いくら群れるのが得意でないといっても、もしも職場にこうして親しく口を利ける相手が誰もいなかったとしたら、さすがにきついに違いない。入社以来ずっと、業務面でも精神面でも支えてもらっている。 「なんだよ、急にあらたまって。なんもでないぞ」 主任がもぞもぞと居心地悪そうに身じろぎした。ポケットから携帯灰皿を出して、たばこをもみ消す。 「そろそろ行こうぜ。いつまでもこんなとこにいたら、凍(こご)えちまう」 「すいません」 「なんで謝ってんだ。寒いのはお前のせいじゃねえだろうよ」 「いや、でも」 寒いのは優三郎のせいじゃない。だが寒い屋外まで主任を出てこさせてしまったのは優三郎である。それも、貴重な休憩時間を割いて。 「たばこ喫(す)いに来たんだよ、おれは。そしたら、たまたまお前がいたからさ」 主任はぶっきらぼうに言い捨てて、勢いよくベンチから立ち上がった。ふと振り返り、 座っている優三郎をまじまじと眺め回す。 また説教が始まるのかと優三郎が身構えていると、 「しかし、男前は得だよな」 と、主任は感心したように息をもらした。 「なにやってたって絵になっちまうんだもんな。風に吹かれて海なんか眺めてると、どっかの俳優みたいだ」 優三郎は返答に困った。主任も特段答えを期待しているわけではなかったようで、言いたいことだけ言い終えると、回れ右してすたすたと歩き出した。 優三郎もベンチから立って、主任の後を追いかける。寄せては返す波の音が、少しずつ遠ざかっていく。(つづく) 次回は2022年7月15日更新予定です。
2007年『うさぎパン』で、第2回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞し、デビュー。19年『たまねぎとはちみつ』で第66回産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。作品に『ふたり姉妹』『あなたのご希望の条件は』(いずれも祥伝社)、『女神のサラダ』『ありえないほどうるさいオルゴール店』『もどかしいほど静かなオルゴール店』『博士の長靴』など多数。