物語がつまった宝箱
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  • 4(2) 2022年11月15日更新
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「日曜の夕ごはん、やっぱり手巻き寿司にしようかな」
 珍しく家族五人がそろった夕食の席で、母はほがらかに宣言した。
 毎年、盆休みの時期に、東泉堂(とうせんどう)は夏季休業をとる。今年は、来週末の土曜から月曜にかけての三連休となった。
 休みといっても、特にどこかへ出かけるわけではない。両親ともに生まれ故郷とは疎遠なので、帰省の習慣もない。めいめい家でのんびり過ごすのが恒例となっている。すなわち、ふだんの休日と大差ない。
 今年の夏も、例外ではなかった。唯一の予定らしい予定といえば、朔太郎(さくたろう)が帰省してくることだ。昨年の正月以来で、一年半以上ぶりになる。
 連休の中日(なかび)に、こちらに来るという。朝早くに九州を発(た)って、昼過ぎには家に到着する。家族とともに夕飯を食べ、夜は空港の近くのホテルに泊まって、翌朝の始発便で自宅へ戻るそうだ。
「あんまり長いこと留守にはできないんだって」
 何年前だったか、母からそう聞いたことがある。
 ひとり暮らしのはずなのに、どういうことかと真次郎(しんじろう)はいぶかった。ペットでも飼っているのだろうか。だが、あの朔太郎が犬だの猫だのをかわいがる様子は想像もつかない。せいぜい熱帯魚あたりか、と勝手に想像を広げていたら、違った。
「苔(こけ)って、乾いちゃうとだめらしいのよね」
「コケ?」
 真次郎はそこではじめて、兄が苔類を研究しているということを知った。知ったところで、ふうん、としか言いようがなかったけれど、熱帯魚よりさらに兄らしいといえば兄らしい気はした。
「手をかけてやらないと、すぐに弱っちゃうんだってよ」
 野外で採集してきては、丹精こめて世話をしているという。
 仕事の一環でもあるのだろうし、真次郎がとやかく口出しすることではない。だが、苔なんかに愛情を注ぐくらいなら、家族に対してももう少し思いやりを示してくれてもよさそうなものだとも思う。
 父も母も、長男の帰省が決まると、何日も前からそわそわと浮き足立つ。夕食の献立をどうするか、三時のおやつにはなにを用意すべきか、真剣に話しあっている。朔太郎は家に泊まるわけではないから、もてなしたくてもそのくらいしか工夫のしどころがないのである。
「ひとり暮らしだと、生のお魚を食べる機会って少ないでしょ」
「もう一泊あればな、すき焼きもいいかと思ったんだけど」
 母と父はくちぐちに言う。
 手巻き寿司か、と真次郎は内心がっかりした。魚より肉のほうが断然好きなので、いまひとつときめかない。とはいえ水を差すのも悪いので、「いいね」とおざなりに相槌(あいづち)を打っておく。
「お兄ちゃん、元気かなあ」
 優三郎(ゆうざぶろう)がおっとりと言う。両親ほどではないにせよ、朔太郎の来訪をそれなりに楽しみにしているようだ。
 優三郎にとっては、真次郎もれっきとした兄なのだが、「お兄ちゃん」といえば朔太郎のことを指す。優三郎に限らず、恭四郎も、さらには母もそうだ。東(あずま)家で「お兄ちゃん」と呼ばれるのは、昔から朔太郎ただひとりなのだった。
「日曜はみんな家にいるのよね?」
 母が食卓を見回した。
「あ、おれバイト入れちゃった」
 恭四郎が悪びれずに言った。えっ、と母が眉を上げる。
「せっかくお兄ちゃんが帰ってくるのに」
「大丈夫、昼シフトだから。夕飯までには戻るよ」
 こんなに歓迎されているにもかかわらず、朔太郎はたった半日足らずで、義務を果たしたとばかりにそそくさと帰っていってしまう。つくづく愛想がない。両親だってもう若くない。日頃は遠くに離れているのだし、たまに会うときくらいは親孝行したっていいだろうに。
 朔太郎に対する両親の態度もまた、真次郎には腑(ふ)に落ちない。長男と会えるのを心待ちにしているくせに、いざ実際に顔を合わせると、もう少し頻繁に帰ってこいとか、もっと長く滞在すればいいのにとか、非難がましいことは一切言わない。
 もとより、自分の望みを子どもに押しつけるような親ではない。ただ、ふたりとも日頃はあけっぴろげに考えたことを口に出すにもかかわらず、どうして朔太郎にだけ遠慮するのかが解(げ)せない。
 食後、真次郎がソファでテレビを見ているところへ恭四郎がやってきたので、
「なんでなんだろう?」
 と疑問をぶつけてみた。
「あんまりうるさく言ったら、逆にうっとうしがられそうだからじゃね?」
 兄の隣に腰を下ろした恭四郎は、あっさりと答えた。
「それでよけいに帰ってこなくなったら、本末転倒だし」
 言われてみれば、その可能性は否(いな)めない。あの兄はとかく人情というものを解さないのだ。
「ま、いいじゃん。おれらも一緒にうまいもん食えるし。真ちゃんもそんな僻(ひが)んでないで、あたたかく迎えてあげようよ」
 なだめるように言われて、真次郎はむっとした。
「僻んでなんかない」
「そう? ぴりぴりしてるよ?」
 恭四郎は決めつける。
「お父さんもお母さんも、お兄ちゃんだけひいきしてるわけじゃないって。たまにしか会わないから、はりきっちゃうだけなんじゃない? 一年分の愛情を、一気に放出するっていうか」
「それはあるかもしれないけど」
 幼い子どもでもあるまいし、ひいきだのなんだのと目くじらを立てるつもりはさらさらない。むしろ、もはや子どもではないからこそ、親への配慮やいたわりも必要じゃないかと思うのだ。
「お兄ちゃんも、やっぱり緊張するんじゃないかな」
 そばで聞いていた優三郎が、とりなすように割って入った。
「ひさしぶりに会うひとって、どうしても緊張しちゃうでしょ。お互いにどんなテンションで接したらいいか、距離感つかむまでに時間がかかるっていうか」
「そうかな?」
 恭四郎は首をひねっている。
 この末弟には、距離感の自動計測機能とでもいうべき能力が生まれつき備わっているようなのだ。誰にでもひとなつこく、ぐいぐい近づいていく一方で、線をひくべきところはきっちりわきまえている。小学生にして「この子は客商売向きだね」と星月夜(ほしづきよ)の月子(つきこ)ママにも太鼓判を押された、ひとづきあいの達人である。
 真次郎はといえば、恭四郎ほど器用にふるまえるわけではないし、優三郎の言い分も理解はできる。店でもたまに、何年も姿を見せなかった客がひょっこり訪ねてくることがあるが、どこまで聞いていいのか、またどこまで話していいのか、腹を探りあうようなぎこちない空気になりがちだ。
 それでも、つい不服げな声がもれてしまった。
「家族なのに、そんな」
 もし「ひさしぶり」の相手が赤の他人だったら、いくらか緊張してしまうのもやむをえないことかもしれない。しかしながら、血のつながった家族に対してそんなふうに身構えるなんて、それこそ「他人」行儀すぎるんじゃないか。
「なんだかんだで家族愛が強いんだよなあ、真ちゃんは」
 恭四郎が腕組みして言う。感心しているんだか、小馬鹿にしているんだか、判然としない。
「あ、褒(ほ)めてるんだよ?」
 真次郎の内心を見透かしたかのように、恭四郎は調子よく続けた。
「おれらが三人ともお兄ちゃんみたいだったら、さすがに親もさびしいっしょ。なんだかんだ言って、真ちゃんががっつり東家を背負って立ってくれてるわけじゃん? そのおかげで、お兄ちゃんものびのびやれてるんじゃないの?」
 おれら弟もね、ともっともらしくつけ加えた。
「いわゆる、大黒柱ってやつ? ね、優ちゃん?」
 同意を求められた優三郎も、こっくりとうなずいた。
「うん、そうかも」
「大黒柱は父さんだろ」
「あ、そっか」
 顔を見あわせている弟たちを、真次郎は見比べた。巧(たく)みに言いくるめられてしまったというか、おだてられた感じはなきにしもあらずだが、悪い気はしない。
「楽しみだね、お盆休み」
 優三郎が言い、
「だね。みんなでのんびりしよう」
 恭四郎がうきうきと応(こた)える。
「恭四郎はいつものんびりしてないか?」
「そんなことないって。毎日めちゃくちゃ忙しいんですけど」
 この恭四郎とあの朔太郎が血のつながった兄弟だなんて、遺伝子というのは不可思議な働きをするものだ。
 しかし恭四郎の言うとおり、兄弟が四人とも同じふうだったら大変かもしれない。おのおの性格や価値観が異なっているからこそ、なにかと補いあい、うまくやっていけているところもあるのだろう。

	***

 今年の盆休みを、優三郎は心から楽しみにしている。
 ひさびさに朔太郎と会えるのもうれしいが、それよりなにより、一週間も仕事に行かなくていいというのがありがたい。つまりその間、土屋(つちや)と顔を合わせなくてもすむということだ。
 様子見しているうちに、状況は悪化の一途をたどっている。
 連絡先を交換してしまったのが失敗だった。毎日、ひっきりなしにメッセージが届く。内容は総じて他愛のないもので、家まで送ってもらう車内やファミレスでの食事中に、土屋がつらつらと語っている雑談とほぼ変わらない。
 ただ、深夜も早朝もおかまいなしにじゃんじゃん送られてくるので、気が休まらない。うっかり返信しそこねてしまうと、さらなる連投が待っている。といっても、返事をしろと怒られたり責められたりするわけではない。「大丈夫?」「なにかあった?」などと文面だけを読めば優三郎のことを気遣ってくれているような雰囲気もあって、やめてくれとも言いづらい。
 例によって瑠奈(るな)に相談してみたところ、「出たね、女難の相」と訳知り顔で言われてしまった。
 女難の相というのは、以前真次郎に占ってもらったときに宣告されたことだ。独特の言い回しを瑠奈がなぜか気に入って、その後も愛用している。
「なんなんだろうね、優三郎のこれって。顔がきれいすぎるってのもあるんだろうけど、それだけじゃない気もするんだな」
 優三郎の顔をまじまじと見つめ、首をひねっている。
「あ、匂いかな? それでやばいのを引き寄せちゃってるってこと?」
 真顔で鼻をひくつかせているので、優三郎は不安になった。
「え、なに? 臭う?」
「いや、冗談だけど」
「おどかさないでよ」
 ため息がもれた。まいっているのが伝わったのか、「ごめんごめん」と瑠奈は謝ってくれた。
「うまくかわせないわけ?」
「かわそうとするんだけど、なかなか」
「優三郎、そういうのが下手だもんね」
 しかも、土屋のほうは「そういうのが上手」なのだ。かわそうとしても、逆にかわされてしまう。
「上司ってとこも面倒くさいなあ。これからも一緒に働くのに、ただ追いはらえばいいってもんじゃないしね」
「そうなんだよ」
 下手なことをして土屋の機嫌をそこね、仕事にさしさわりができてはまずい。
「どうしたらいいのかな。できるだけ刺激しないように、でもって、確実に優三郎から遠ざかってもらうってことだよね」
 瑠奈はしばし考えこみ、
「また、あの手でいってみる?」
 と言った。

 中学時代、東優三郎ファンクラブなるものが結成されたことがあった。
 もちろん、優三郎自身は一切かかわっていない。優三郎のファンを自称する女子たちが数人、勝手に集まってはしゃいでいただけだった。
 はじめは、とりたてて実害はなかった。校内で「会員」から注目を浴びるのが落ち着かないくらいで、学校生活に支障が出たわけではない。ところが、会員たちがいよいよ盛りあがり、会長だの副会長だのが選出され会報まで発行されるようになったあたりから、雲ゆきが怪しくなってきた。
 それまで遠巻きに眺めているだけだった彼女たちが、積極的に話しかけてくるようになったのだ。ぞろぞろと連れだって優三郎のところまでやってきては、一緒に写真を撮ってほしいだの、子ども時代の話が聞きたいだのとせがむ。
 熱に浮かされているかのような、どこか焦点の定まらない目つきをした女子の群れに取り囲まれると、優三郎の身はすくんだ。勇気をふりしぼって断ろうとしても、「なんでだめなの?」と詰問(きつもん)される。
「集団心理ってやだね。群れると頭がおかしくなるんだよ。本人がいやがっているのに、ほんと最低」
 瑠奈はいまいましげに吐き捨てた。
「そうだ、お金とれば? 推(お)しに課金するのがファンの務めじゃないの?」
 おおまじめに言われて、優三郎は力なく首を振った。
「お金なんかいらないから、そっとしといてほしいんだけど」
「だよね」
 瑠奈は気の毒そうにうなずいて、おもむろに言った。
「よし。解散させよう」
「どうやって?」
「なるべく穏便に……そうだ、好きな子がいるって言えば?」
 瑠奈の提案に、優三郎はたじろいだ。
「え、いないけど」
「いなくていいんだって、別に。いるって言うってだけ」
 瑠奈は平然と言ってのけ、探るように優三郎の顔をのぞきこんだ。
「念のために聞いとくけど、ほんとにいないの?」
「いないよ。いたこともない」
 さらに言葉を重ねるべきかどうか、優三郎は少々ためらった。
 思いきって言い足すことにしたのは、幼なじみを助けたい一心で知恵をしぼってくれている瑠奈には、正直に話すのが筋だという気がしたからだ。
「僕、女のひとがこわいんだ」
「そっか」
 瑠奈は思いのほか驚いていなかった。
「小二のときから?」
「うん、まあ」
 おかしいよね、と優三郎は遠慮がちに言い足した。
「あんな大昔のこと、いまだにひきずってるなんて」
「全然おかしくないよ」
 即答だった。
「普通だよ。誰だって、あたしだって、きっとそうなる。知らないおじさんに車にひっぱりこまれたら、こわいに決まってるし、引きずるに決まってる」
 過去を思い返すかのように宙をにらみつけた瑠奈は、「あっ」と声を上げた。
「じゃあ、あたしも? あたしのことも、こわい?」
「いや、瑠奈は大丈夫だよ。あと、お母さんも」
「よかった」
 瑠奈がほうっと息を吐いた。
「てことは、女だって意識しなければいいのかな?」
 おそらく、「女だから」だめだというわけではないのだろう。興味や好意を示されると、それがいつかねじくれた欲望に変わってしまうのではないかと本能的に恐怖を感じてしまうのだと思う。瑠奈や母は安心だとわかっているから、平気なのだ。
 逆にいえば、問題ないと確信できるまでは、どんな相手に対しても警戒心がわいてしまうことになる。自意識過剰と言われてしまえばそれまでだが、条件反射のようなもので、優三郎自身にも手の打ちようがない。
「とにかく、今度あの子たちにからまれたら、やめてくれってきっぱり言ってやりなよ。好きなひとがいるって言えば、向こうだって文句は言えないはず」
「信じてもらえるかな?」
「それは優三郎の演技力しだいじゃない?」
「自信ないな」
 優三郎の悪い予感は、的中した。ファンクラブの面々は、血相を変えて優三郎を問いただした。
「好きなひとって、誰?」
 優三郎がしどろもどろになっていると、「でも、別につきあってるってわけじゃないんだよね?」「てことは、片想い?」「なんだ、じゃあうちらと同じじゃん」「片想いするのは自由だもんね」と矢継ぎ早にたたみかけられ、あっさりと論破されてしまった。優三郎の言い分が方便にすぎないと見抜かれたのかもしれない。
 優三郎はすごすごと退散し、瑠奈に一部始終を報告した。
「やっぱだめか」
 やっぱ、ということは、あまり期待していなかったのだろう。
「しょうがないな。こうなったら、最後の手段を出すしかないね」
「最後の手段?」
 もはやこれまでかと頭を抱えていた優三郎にとっては心強い言葉だったが、続きを聞いてたじろいだ。
「あたしとつきあってるってことにしよう」
「へ? 僕と瑠奈が?」
「そ。あたしから会長に言う。あたしの優三郎にちょっかいかけたら、ただじゃおかないって。どうよ? これなら、うまくいきそうじゃない?」
 自信ありげに言う。とっぴな案にあっけにとられていた優三郎も、少しばかり心が動かされた。
「でも、瑠奈はいいの?」
「いいよ、あたしは別に。誰かとつきあってるわけでもないし」
「今はよくても、この先は?」
 瑠奈にそれこそ「好きなひと」ができたとしたら、優三郎の存在によって迷惑をかけてしまうんじゃないか。
「そうなったらそうなったで、そのとき考えればいいって」
 瑠奈は励ますように言った。
「なんとかなるよ。ていうか、優三郎はあたしの心配する前に、まず自分のことを心配しなよ」

 作戦は功を奏した。
 弊害がなかったわけではない。瑠奈のもとにいやがらせの手紙が舞いこんだり――本人はまるで動じていなかった――、恭四郎にまでうそをつくはめになったり――せっかく万事まるくおさまったのに万が一秘密がもれたらだいなしだと瑠奈に説得された――、そこから双方の家族にまで勘違いが広がってしまったり――うるさいことを言わない親たちで助かった――、それでも、おおむね平穏な日々が戻ってきた。
 その後、真次郎には本当のことを打ち明けた。
 確か、高一か高二のときだった。瑠奈もまじえて三人で、進路の話になった。その流れで、話題が将来全般のことにまでおよんだのだ。
「優三郎たちはいつ結婚すんの?」
 ごく軽い調子でたずねられ、優三郎はぎくりとして瑠奈を見やった。機転を利かせてはぐらかしてくれるかもしれないと期待したのだけれど、不意打ちだったせいか、瑠奈も露骨に顔をひきつらせていた。
「なんだよ、今さら照れなくてもいいだろ」
 なにも知らない真次郎は、にやにやしてふたりを見比べている。
 どうしよう、と瑠奈が優三郎に目で問いかけてきた。ごまかすのもそろそろ限界だと観念したのだろう。優三郎が小さくうなずくと、瑠奈もうなずき返した。
「実は、つきあってないんだ。あたしたち」
 瑠奈がふたりを代表して言った。
「へっ?」
 真次郎は目をまるくした。
「別れてたのかよ? いつのまに?」
「そうじゃなくて。そもそもつきあってなかったんだよ」
 優三郎がこれまでのいきさつを白状すると、真次郎はおおいに悔(くや)しがった。
「まじかよ? 完全にだまされてたな」
 ぶつくさ言われて、瑠奈は懸命に言い訳していた。
「しょうがなかったんだって。他に方法がなくて」
「事情はわかったけどさ。おれらにまでうそつくことなくないか?」
「敵を欺(あざむ)くにはまず味方から、っていうじゃない?」
「ごめんね」
 優三郎も謝った。真次郎にはむくれられてしまったが、家族を「欺く」後ろめたさから解放されて、ずいぶん心は軽くなっていた。

	*

 小さく息を吐いてから、朔太郎は玄関の呼び鈴を押した。
「おかえり」
 すぐさまドアが開いて、母が顔をのぞかせた。
 廊下の奥から、父もやってくる。ここ数年、両親と顔を合わせるたびに、老けたなと思う。
「ただいま」
 無難に応えてみたものの、朔太郎の感覚では「おじゃまします」のほうが断然ふさわしい。そんな本音をもらそうものなら、真次郎あたりに責められそうだが。
 その真次郎も、父の後ろからのっそりとついてきた。
「おかえり」
 弟たちのことは、大きくなったな、と毎回思う。家を離れた当時の印象が強いからだろう。
 九州の大学に進学したのを機に、朔太郎は実家を離れた。
 十八歳のときだ。真次郎も優三郎もまだ小学生で、恭四郎にいたっては、たったの三歳だった。それがいつのまにやら、三人とも二十代になってしまった。時の流れはすさまじく早い。
 洗面所で手を洗ってから、リビングに入った。
 テレビの前の三人がけのソファに、父と真次郎が並んで座っていた。どんどん似てくるな、とこれまた毎回同じことを思う。傍(かたわ)らの、ひとりがけのソファは空いている。空いているというより、あえて空けてくれているのだろうが、朔太郎は食卓の椅子(いす)をひいて腰を下ろした。
 実家への帰省は、朔太郎の勤める大学で義務づけられている年に一度の定期健康診断に、少し似ている。
 採血もレントゲン撮影も問診も、耐えがたいほど苦痛なわけではないけれど、どうも気が進まない。日頃は仕事であれ家のことであれ、やらなければならないことがあれば早く片をつけてしまいたい性分なのに、こればっかりは往生際が悪くぐずぐずしてしまう。先延ばしにするうちにいよいよ気が重くなってくるところ、長く放っておくと催促されるところ、いざ受けてもいまひとつ効果を感じづらく達成感が薄いところ、共通点はいくつもある。
「今、優三郎がケーキを買いにいってくれてるから」
 母がキッチンのカウンター越しに話しかけてくる。
「もうすぐ戻って来るから、みんなでおやつにしようね」
「うん」
「駅前に新しいお店ができてね、ずっと気になってたのよ」
「うん」
 おざなりな相槌を連発していると、真次郎からとがめるような視線を向けられた。ひさびさに会うのに、もっと愛想よくできないものかと不服なのだろう。
 言うべきことがあるなら言うが、なにも思いつかないのだからどうしようもない。それにしても、真次郎は考えていることがすぐ顔に出る。客商売なのに、仕事に支障はないのだろうか。
 母のほうは、朔太郎の生返事に気を悪くするふうでもなく、にこやかに続ける。
「恭四郎は夕方までアルバイトだけど、夜は一緒に食べるって」
「うん」
「クレープ屋で働いてるんだよ。知ってたっけ?」
 真次郎も口を挟んだ。うん、と惰性で答えそうになったが、踏みとどまった。
「いや」
「仕事は忙しいのか?」
 父がたずねる。これは、「うん」で間違いない。
 ここで「そっちは?」と問い返せば、多少は会話がはずむのだろう。父だけでなく、家業を手伝っている真次郎も乗ってくるかもしれない。
 しかし、父や弟の仕事について、朔太郎はあまり聞きたいと思わない。というか、ちっとも聞きたくない。
「体に気をつけてな。毎日暑いから」
「うん」
「九州も暑いんだ?」
「うん」
「朔太郎の仕事だと、外も出歩くんでしょ。熱中症にならないようにね」
「うん」
 天気の話題は便利だ。万人に通じる上、個人の価値観や思想にまで踏みこんでしまうおそれがない。
 占いというものを、朔太郎は頭から否定するつもりはない。といって、手放しに肯定もできない。
 真次郎は誤解しているふしがあるが、朔太郎は父のことや、ひいては実家のことを、きらっているわけではない。ただ適切な距離を保ちたいだけだ。その距離が、真次郎や父のそれに比べてかなり遠いせいで、違和感を覚えるのだろう。
 玄関のほうで物音がした。父が膝に両手を置き、首を伸ばす。
「お、帰ってきたかな」
 隣の真次郎もそっくり同じ体勢をとっている。やっぱり似ている。
「お兄ちゃん、おかえり」
 優三郎がリビングに入ってきて、手にぶらさげた紙袋をかかげてみせた。
「ただいま」
 幼い頃の面影の残る、はにかんだ笑顔をほほえましく感じつつも、しかし朔太郎は早くも帰りたくなっている。

	****

 夕食が終わると、朔太郎はそそくさと帰っていった。コンビニに行くという優三郎も一緒に家を出て、他の家族はそろって玄関口で見送った。
「おつかれさま」
 母がドアを閉めると、恭四郎は誰にともなく言った。
 気の張る来客ならともかく、実の兄を送り出した後の言葉としては少々おかしいかもしれないが、現に両親も真次郎も「おつかれ」の様子である。単なる疲労だけではなく、なんというか、ひと仕事やり終えた充実感のようなものも漂っている。
 朔太郎の帰省は、東家ではちょっとしたイベントなのだ。
 恭四郎が三歳のときに、朔太郎は実家を離れた。以来、年に一度か二度しか顔を合わせないままに、かれこれ十五年以上が経過している。
 真次郎や優三郎にならって「お兄ちゃん」と恭四郎も一応は呼んでいるものの、兄というより遠い親戚といったほうがしっくりくる。おそらく向こうもそうだろう。もっとも、一緒に過ごした時間の長短も、そこまで関係ないのかもしれない。両親や弟たちに対しても、朔太郎は他人行儀な態度をくずさない。今回の帰省中も、ろくに口も利かず、所在なげにぼうっとしていた。いかにも世事にかまわなさそうな、ああいうのを学者肌というのだろうか。
 こうして家族が集まるとき、恭四郎には無邪気な末っ子として場を盛りあげるという任務がある。
 誰から頼まれるわけでもないが、年齢の面でも性格の面でも、自分はそういう役回りだと心得ている。もう慣れているし、ことさら肩に力が入ってしまうようなこともない。ただ、時と場合によっては、それなりに気疲れも感じる。特に、朔太郎をまじえると、家族のそれぞれがふだんとはどこか違う言動をとりがちなので、なんとなく調子が狂ってしまう。
 でも今夜は、けっこううまくやれた気がする。
 ここのところ、恭四郎は心身ともにいたって快調なのだ。長年の思い違いが正されて以来、ずっと。

 あの翌日も、恭四郎は再び星月夜に足を運んだ。
 前日とは違って、あらかじめ瑠奈に連絡を入れた。営業中だとゆっくり話しにくいかもしれないので、夕方、開店の少し前に足を運ぶことにした。
 挨拶もそこそこに、「なんか、ごめんね」と瑠奈のほうから謝られた。
「恭四郎、ずっと勘違いしたままだったんだって?」
 例によって、優三郎から話が通っていたようだ。
「鬼だよね。ふたりそろって、いたいけな小学生をだますって」
「あのときは、そうするしかないと思ったんだよ」
 優三郎も同じことを言っていた。
「おれ、言いふらしたりしないのにな」
「恭四郎を信用してなかったわけじゃないんだって」
 あせったような早口で、瑠奈は弁解した。
「ただ、せっかくうまくいきかけてたとこだったから。ほとぼりが冷めたらちゃんと話すつもりだったのに、ついそのまんまになっちゃって」
 それも、優三郎から聞いている。
 一応は抗議してみせたものの、恭四郎もそこまで腹を立てているわけではなかった。もし同じ状況に立たされたとしたら、恭四郎だってうそをつき通すことを選ぶだろう。ふたりで力を合わせ、ようやく事態が好転しかけているのに、無責任にひっくり返すようなまねはできない。
「あ、ちなみに、黙っとこうって言い出したのはあたしだから。優三郎はあたしにひっぱられただけで、そもそも乗り気じゃなかったんだよ」
 そこは初耳だったが、そうだろうなと恭四郎は納得した。
 あの日、恭四郎がクラスメイトの家から帰宅したとき、もしも瑠奈がリビングに居あわせなかったとしたら、はたしてどうなっていただろう。優三郎ひとりであれば、恭四郎の剣幕にうろたえて、真実を打ち明けたかもしれない。
「だから、優三郎をあんまり責めないであげて。ね?」
 手を合わせられ、恭四郎は少々鼻白む。この期(ご)におよんでも、瑠奈は優三郎をかばうつもりらしい。
 元をただせば、瑠奈は巻きこまれただけなのだ。すべての発端は優三郎なのに、ちょっと過保護すぎやしないか。
「別に、責めてない」
 恭四郎が短く答えると、瑠奈は表情をゆるめた。
「そう? よかった」
 優三郎がうそをつくのをためらっていたというのは、おそらく本当の話なのだろう。それは優三郎の誠意であり、弟への思いやりでもある。しかし同時に、弱さともいえるんじゃないか。
 優三郎は悪者になりたくないのだ。その度胸がない、と言い換えてもいいのかもしれない。
「こんなことで兄弟仲にひびが入っちゃったら、どうしようかと思ったよ」
 瑠奈が冗談めかして言い足した。
「んなわけないだろ」
 恭四郎は意地の悪い考えを頭から追いはらう。瑠奈がからむと、どうしても優三郎に対して手厳しくなってしまう。弟想いで心根の優しい兄を、決してきらっているわけではないのに。
「いいよ、もう昔の話だし」
 なるべく軽い口ぶりで、恭四郎は話を切りあげた。
 そうだ、過去は今やそれほど重要ではない。恭四郎の頭の中を占めているのは、これからのことだ。
 事の次第を真次郎に聞かされたときには、もっと早く知りたかったと思った。どうして教えてくれなかったのか、兄たちを恨みそうにさえなった。でも、よくよく考えてみたら、このタイミングでかえってよかったのかもしれない。
 恭四郎が十歳のとき、瑠奈は十五歳だった。小学四年生の男児が中三の女子に想いを告げたとしても、受け入れてもらえる可能性は限りなく低い。
 冗談だとみなされて適当にあしらわれでもしたら、つらい。仮に恭四郎の本気が伝わったとしても、瑠奈を困らせてしまいそうで、それもまたつらい。そのせいで関係がぎくしゃくしてしまうのもつらい。つらすぎて、くじけてしまったかもしれない。この恋心を、どこかで手放さざるをえなかったかもしれない。
「なんか飲む? お詫(わ)びのしるしに、好きなのおごったげる」
 瑠奈が言う。
「まじで? なら、なんでもいいから高いやつちょうだい」
「なんでもいいから高いやつって、雑すぎない?」
 瑠奈はボトルキープの焼酎がずらりと並んだ背後の棚を見渡してから、最上段に手を伸ばした。
「じゃあこれ、とっておきのやつ。お母さんには内緒だよ」
 瓶をかざして、いたずらっぽく微笑(ほほえ)む。焼酎ではなくウィスキーだ。
「やった」
 恭四郎は声をはずませた。正直なところ、高級ウイスキーの味なんてよくわからないけれど、いかにも渋いおとなの飲みものという感じでかっこいい。なにより、瑠奈がそれを恭四郎のために選んでくれたことが、うれしかった。
「十八年ものだよ」
 黄色いラベルに書かれた数字は、熟成にかけた年数を意味しているという。
「すげえな、おれとそんなに変わんないじゃん」
 あれから十年もの歳月を経て、恭四郎は二十歳に、そして瑠奈は二十五歳になった。
 十代においては致命的だった五歳の差は、今となってはそんなに問題ではない。少なくとも、恋愛対象としてありえないとはねつけられるようなことはないはずだ。しかもこの先、たとえば三十代や四十代にでもなれば、たった五歳の差くらい、さらに気にならなくなるだろう。
 十年や二十年も先のことを考えるなんて、気が早すぎるだろうか。でも恭四郎は、三十代になっても四十代になっても、ずっと瑠奈と一緒にいたいのだ。
「どうぞ」
 カウンターに置かれたグラスの中で、大ぶりの氷がからんと音を立てた。
 これから、どうしようか。カウンターの内側でてきぱきと立ち働く瑠奈を眺めつつ、恭四郎は考えこむ。今回ばかりは、優三郎に占ってもらうわけにもいかない。
 琥珀色(こはくいろ)の液体をなめると、舌がじんとしびれた。

	***

 ひきあてたカードに目を落として、優三郎は考えこんだ。
 盆休みの終わりは、あっというまにやってきた。序盤の数日はめいっぱい朝寝坊をしたし、中頃は朔太郎が帰ってきたので気がまぎれて、それなりに充実した一週間だったけれども、最終日はこれといった予定もなく家で過ごしている。
 朝から全身がだるくてしかたがない。本を読んでも、テレビを見ても、さっぱり心が動かない。これは不吉な予兆というより、休みの終わりにつきものの憂鬱(ゆううつ)が原因なのだろうが、結局はタロットカードに手がのびてしまった。
 手もとの一枚には、目鼻のついた月が描かれている。
 考えにふけっているようにも、痛みをこらえているようにも見える、物憂(う)げな表情だ。その月をあおいで吠(ほ)える犬と狼も、不穏な気配を漂わせている。カードの下端には、川なのか池なのか、水面から這(は)い出してくるザリガニが描かれている。この水は潜在意識を、ザリガニは秘められた本心を暗示しているという。心の中に隠したうそや不安が表に浮かびあがってくるような状況が、ほのめかされているらしい。
 月のカードは、ものの輪郭があやふやにぼやけてしまっているような、はっきりしない状態を意味する。神秘的な月あかりのもとでは、なにが起きるかわからない。先の見通しがつかず、すべてが茫漠(ぼうばく)としてつかみどころがない。
 あたっているといえば、あたっているのかもしれなかった。
 今後、土屋と首尾よく距離を置くことができるか、タロットに問うてみたのだった。中学時代と同じ作戦でいこうと瑠奈には持ちかけられたけれど、まだ具体的な計画は立てられていない。
 そもそも、あの土屋に、中学生に使ったのと同じ手が通用するだろうか。
「うまくいくと思うけどな」
 瑠奈はあくまで楽観的だった。
「あなたは特別、って言ってくるんでしょ? 優三郎に特別な相手が別にいるってわかったら、一気に醒(さ)める気がする。向こうだってプライドがあるもの」
「そうかな」
 女心はよくわからない。まだ半信半疑の優三郎をよそに、瑠奈は俄然(がぜん)やる気が出てきたようだった。
「ともかく、あっちの夢をぶちこわさなきゃ。優三郎から話せる? それか、あたしが会いにいこっか?」
「いいよ、そんな」
 瑠奈だって忙しいのに、そこまで手をわずらわせるわけにはいかない。それに、土屋と瑠奈が対決している図なんて、想像するだけでそらおそろしい。
「そっか。じゃ、おいおい段取りを練ってこう」
 瑠奈は言った。
「ありがとう」
 ごめんね、と優三郎はつけ加えた。瑠奈の親切心に甘えて、またしても面倒な事態にひきこんでしまって申し訳ない。
「いいよ、こういう悪だくみってきらいじゃないし」
 瑠奈はすまして切り返した。
「優三郎にちょっかい出すな、ってあたしが直談判してあげてもいいよ? 中学のときみたいに」
「それはさすがにちょっと……」
 優三郎は尻込みした。中学生ではあるまいし、あからさまに喧嘩(けんか)腰でのぞむのはまずいだろう。
「じゃあ、本人にあたしを紹介するとか? 実はこんなにかわいい彼女がいるんですよ、って見せびらかしちゃう?」
「うーん……もうちょい、さりげないほうがよくない?」
「そう? びしっと言ってやったほうがいい気がするけど」
 瑠奈は首をひねっていた。
「ああでも、向こうも具体的なことは言ってこないんだっけ? 好きだとか、つきあってほしいとか」
「それはない」
 だからよけいに、対処しづらい。
「そばに置いといて、愛(め)でたいってことなのかなあ。にしても、執着してるのは間違いないよね。はっきり言葉にしないのは、断られたくないからかも」
「弱みは見せたくない、ってよく言ってるけどね」
「いるいる、そういうひと。見栄張ったって意味ないのに」
 瑠奈が顔をしかめる。
「だとすると、完全に面子(めんつ)をつぶしちゃうのはまずいか。こっちから強制するんじゃなくて、自分からひきさがってくれるといいんだけど」
 自分から、というところが肝要なのだろう。なるべく土屋の面目を保ったままで、優三郎から自然に離れていってもらえればありがたい。
「じゃあさ、あたしと優三郎が一緒にいるとこを見せればよくない?」
 瑠奈がぱちんと手を打った。
「呼び出すとかじゃなくて、偶然っぽい感じで目撃させちゃえないかな? それなら角も立たないでしょ」
「いいと思う」
 優三郎はうなずいた。
「でも、どうやって?」
「それは、これから考える」
 月のカードを、優三郎はもてあそぶ。名案がひらめくまでには、今しばらく時間がかかるのかもしれない。

	*

 飛行機と電車を乗り継いで、たっぷり半日もかけて自宅に帰ってくると、朔太郎は心からほっとした。
「ただいま」
 われ知らず、声がもれていた。
 実家でも何度か繰り返した言葉だけれども、比べものにならないほど実感がこもっている。正直なものだとわれながら思う。
 おかえり、と返事が聞こえてくるわけではない。ここで朔太郎を待ってくれている相手は、声を持たない。
 上がり框(がまち)に荷物を放り出し、玄関脇の洗面所で手を洗ってうがいをすませると、朔太郎はすぐさま奥へ向かった。
 築五十年の平屋に、朔太郎は八年前から住んでいる。
 それまでは、学部生時代から十年近く、大学に併設された学生寮で暮らしていた。博士課程を修了すると同時に学生の身分を失い、退去しなければならなくなって、引っ越し先を探していた折に、担当教授がここを紹介してくれた。
 県外に住んでいる友人の実家だという。両親が亡くなった後は、しばらく空き家になっていたそうだ。無人の家は不用心だし傷みやすいので、誰かに住んでもらえればむしろ助かるという話だった。
 家主とは、入居する前に一度だけ、教授もまじえて顔を合わせた。
 両親ともに病院で最期を迎えた、すなわちこの家で息をひきとったわけではない、という話をながながと聞かされて、朔太郎はきょとんとしてしまった。自然死は事故物件の定義からはずれるはずだし、そこを強調される意図がのみこめなかった。後から教授に聞いてみたところ、「化けて出やしないから安心しろってことじゃないか?」と言われた。どうやら、間借り人を不安がらせまいと気を遣ってくれたようだ。
 親切心はありがたいが、そんな配慮は無用だった。
 朔太郎は研究者の端くれとして、科学的に立証できないものは信じない――幽霊しかり、怨念しかり、そして占いしかりだ。面倒なので、家具も食器も故人のものを使わせてもらっている。
 そんなことより、家の老朽化のほうが問題だ。あちこちがたがきていて、雨漏りするし虫やねずみも出る。とはいえ、研究のために国内外でフィールドワークを進め、僻地(へきち)での野宿も数多く経験してきた朔太郎には、さほど苦にならない。不具合があれば、都度、最低限の手当てをしてしのいでいる。ひとりで住むには広すぎるけれど、家賃はびっくりするくらい安い。
 廊下を突きあたりまで進む。昨日の朝から閉めきっていたので、むっと熱気がこもっている。
 縁側のガラス戸と雨戸を順に開け放つと、湿気を含んだぬるい風が室内へ吹きこんできた。
 朔太郎がなにより気に入っているのは、この庭である。
 沓脱(くつぬぎ)のひらたい石にそろえてあるサンダルをつっかけて、庭に下りる。あふれる緑が押し寄せるように視界を満たし、旅の疲れが一気に癒(いや)されていく。
 片隅の水道からホースをひっぱってきて、ざっと水をまいた。長期の出張で留守にするときは研究室の院生に水やりのアルバイトを頼んでいるが、実家への帰省ではそこまでする必要はない。出発前にもたっぷり水をやっておいたので、茂った草木はどれも生き生きと元気そうだ。
 母屋(おもや)にこだわらないかわり、庭には愛情を注いでいる。朔太郎が引っ越してきてから、ずいぶんみちがえた。
 といっても、万人受けするような、いわゆる美しい庭ではない。四季折々の花が咲き乱れているわけでも、剪定(せんてい)された植えこみが整然と並んでいるわけでもない。雑草――この言葉はあまりに人間本位でどうしても好きになれないが――が伸びすぎたら適当に抜く程度で、むしろ手をかけすぎないように心がけている。
 水やりに来てくれる院生たちには、「庭っていうより野原っぽい」だの「ジャングルみたいですね」だのと言われる。一般家庭で好まれる、かわいらしい花やおいしい実をつける品種も少ない。庭全体を見回してみても、ほぼ緑一色に近い。
 朔太郎は苔を研究している。
 苔といえば、岩や木の表面にへばりついている地味なやつ、という認識が一般的だろう。身近といえば身近だが、おせじにも注目を集める存在とはいいがたい。しかし苔類は地球上におよそ二万種、日本国内だけでも約二千種が生息すると目される、奥深く研究しがいのある世界なのだ。
 また、地味だからこそ、研究の余地が大きいともいえる。
 花や実をつける、いうなれば華やかな植物は、人目をひくだけあってすでに研究が進んでいる。研究しつくされつつある、と言い換えてもいい。それに比べて、苔類にはまだまだ解明できていないことが残されている。そもそも専門家も多くない。新種の発見だって夢じゃない。
 そのためには、とにもかくにも観察を重ねるほかない。
 野山に出ては、珍しいものを探して採集し、持ち帰って顕微鏡でひとつひとつ形態を解析していく、それが朔太郎たち研究員の主な仕事である。マイクロメートル単位のわずかな違いで、別種と分類される場合もある。注意力と根気は、ともに苔類学者にとって欠かせない資質だ。
 来る日も来る日もそんなことを続けていると、当然ながら標本は増える一方である。
 この家で暮らすようになって、庭と並んで喜ばしかったのは、採集標本の保管に使う一室を確保できたことだった。寮生活ではスペースに限界があったので、気になったからといって片っ端から持ち帰るのはためらわれた。それが今や、いくらでも心おきなく採集できる。しかも、万が一おさまりきらなくなってしまったとしても、空き部屋はまだある。恵まれた環境のおかげで、いよいよ歯どめがきかなくなっているわけだが、研究者としては本望だ。
 ホースをくるくる巻いて片づけると、朔太郎は縁側に腰かけた。首都圏とは明らかに違う、すがすがしい空気を、胸いっぱいに吸いこむ。
 もちろん、この庭にも多種多様な苔が共生している。
 こちらは、研究のためというよりは、純粋な趣味である。学術的な視点はさておいて、日々のささやかな変化や生長をただ眺めているだけで楽しめる。調和に満ちた濃淡の緑は、いつだって朔太郎の心を安らかにしてくれる。苔に限らず、どんな植物も、あるべき居場所にしっくりとおさまって健やかに息づいている。
 連日の早起きのせいか、はたまた緊張がゆるんだからだろうか、だしぬけに眠気がさしてきた。
 朔太郎は上体を倒し、あおむけになった。手足の力を抜いてまぶたを閉じる。聞こえてくるのは、単調な蝉(せみ)の鳴き声とかすかな風の音ばかりだ。
 たった一日離れていただけで、この静けさがことのほか心地いい。
 二日間にわたって都会の雑音にさらされてきた心身が、いかに疲弊(ひへい)していたかが実感できる。耳の底に澱(おり)のようにこびりついていた残響が、洗い流されるようにみるみる薄れて消えていく。

(つづく) 次回は2022年12月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 瀧羽麻子(たきわあさこ)

    2007年『うさぎパン』で、第2回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞し、デビュー。19年『たまねぎとはちみつ』で第66回産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。作品に『ふたり姉妹』『あなたのご希望の条件は』(いずれも祥伝社)、『女神のサラダ』『ありえないほどうるさいオルゴール店』『もどかしいほど静かなオルゴール店』『博士の長靴』など多数。