瀧羽麻子
*** 遊歩道で、蝉(せみ)が声を限りに鳴いている。 月曜日の昼休み、優三郎(ゆうざぶろう)は倉庫の通用口から外へ出て、いつものベンチをめざした。休み明けの常として、体調は万全とはいいがたい。起き抜けから腹具合がよくなかったので朝食は抜き、かわりに胃薬を飲んで出勤してきた。 午前中はどうにか通常の業務を進められたものの、依然として食欲はわいてこない。ベンチに座り、お茶だけ飲んで休憩する。ちょうど木陰になっていて、吹き抜けていく海風が心地いい。 外気にあたってだいぶ持ち直してきた気がしたけれど、休憩を終えて倉庫の中に戻るなり、また胸がむかむかしてきた。フォークリフトが細かく揺れるたびに吐き気がこみあげてくる。無理やりにでも、なにか胃に入れておいたほうがよかったのかもしれない。とうとう作業を中断して、トイレに駆けこむはめになった。 個室を出て、洗面台で口をゆすぎながら鏡を見たら、顔に血の気がなかった。持ち場へ戻る途中ですれ違った数人の同僚にも、大丈夫かと声をかけられた。今日はもう帰ったほうがいいと班長からもすすめられて、早退させてもらうことにした。 本来なら、現場の責任者である土屋(つちや)にもひとこと声をかけるべきところだが、幸い――というのも失礼な言いようだけれど、この体調でよけいな気力は使いたくない――今日は本社で会議があって、こちらには来ていなかった。班長が後で報告しておいてくれるというので、優三郎は礼を言ってロッカールームへ向かった。 着替えている間に、吐き気は多少おさまってきた。 どうも振動がよくないようだ。となると、自転車もやめておいたほうが無難かもしれない。バスも、急に気分が悪くなったときにすぐ降りられないのは困る。緊急事態だし、奮発してタクシーで家まで帰るしかないだろうか。しかし、自宅までいくらくらいかかるのやら見当もつかない。 検索しようとスマホを取り出して、瑠奈(るな)からのメッセージに気づいた。 〈元気? お盆休みはどうだった?〉 そういえば、瑠奈としばらく会っていない。なんてことのない内容からして、優三郎が休み明けで弱っているのを見越して連絡をくれたのかもしれない。 心細さがいくらか和(やわ)らいだ。元気だとうそをついてもしかたないので、実はこれから早退するところだと返信したら、折り返し電話がかかってきた。 「迎えに行ったげるよ」 ちょうど、車で買い出しに行こうとしていたところだという。 「え、それは悪いよ」 「いいって。どうせ、ついでだから」 瑠奈はとりあわない。 「あたしの車なら、気持ち悪くなったらすぐとめられるでしょ。タクシーの中で吐いたりしたら地獄だよ? 運転手さんにとっても大迷惑だし」 そんなことを言われたら、腰がひけてしまう。意地を張るほどの余力もない。近くまで来たら連絡してもらう約束をして、ひとまず通話を終えた。 どこで待とうか。ちょっと迷って、遊歩道のベンチがいいのではないかと思いつく。人目もないし、しばらく時間をつぶすにはもってこいだろう。 予想したとおり、ベンチの周りに人影はなかった。 昼休みと同じで、ぼんやり風に吹かれているうちに少し楽になってきた。ほどなくして瑠奈から電話を受けた。どこに車を停めたらいいかと聞かれ、駐車場のある裏門のほうへ回ってもらうように頼む。そのほうがここからも近いし、正面玄関では目立ってしまうかもしれない。 現金なもので、無事に家へ帰れるめどが立ったとたんに、じわじわと元気が出てきた。優三郎は来た道を戻り、車で七割がた埋まっている駐車場を抜けて、裏門をめざした。フェンス越しに見える表の車道に、瑠奈の車はまだ見あたらない。 どっちの方角から来るだろうかと左右をきょろきょろ見回していたら、いきなり名前を呼ばれた。 「東(あずま)くん」 優三郎は飛びあがった。 通用口のほうから、土屋が小走りに駆け寄ってきた。立ちすくんでいる優三郎の前で足をとめ、口を開く。 「大丈夫なの? ぐあいが悪いって聞いたけど」 本社で行われていた会議が予定よりも早く終わったので、先ほどこっちに戻ってきたという。 「車を停めたときに、そっちのほうに歩いてく背中が見えて」 土屋は遊歩道のほうを指さした。遠目だったし、休憩時間でもないはずだから、見間違いだろうとそのときは思ったらしい。 「そしたら、東くんが体調不良で午後から早退したって聞いたから」 やっぱりあれは本人だったのかと思いあたり、様子を見にきたそうだ。 「おうちに帰るんだよね?」 「はい。今から帰ります」 内心ひやりとしつつ、優三郎は答えた。早退するほど調子が悪いのに、なにをぐずぐずしているのかと不審がられただろうか。仮病かと疑われたらたまらない。 が、土屋は優三郎をとがめるつもりはないようで、 「顔色悪いね」 と心配そうに言った。 「いいタイミングだったよ。車でおうちまで送ったげる」 優三郎は必死に辞退した。 「いえ、いいです。土屋さんもお忙しいのに、悪いです」 友達が迎えに来てくれる、と正直に言うのはためらわれて、中途半端な断りかたになってしまった。 「遠慮しないで。今日は一日本社にいるつもりだったし、急ぎの仕事があるわけじゃないから」 土屋はひきさがらない。 「たまには家で仕事しようと思って、その資料を取りに寄っただけなの。 どうせ帰り道だし、ついでに送るよ」 「でも」 優三郎は口ごもる。こんなことなら、迎えが来ると最初から言ってしまえばよかった。わざとごまかしていたようで、今さら言い出しにくい。 他になにか言い訳はないだろうかと懸命に頭を働かせていると、白いワゴン車が一台、駐車場に入ってきた。優三郎たちの横を通り過ぎて、来客用のスペースに停まる。スーツを着た中年男が降りてきた。見慣れない顔だ。取引先の関係者かもしれない。 軽く会釈されて、優三郎と土屋も目礼を返した。 「とりあえず行こう。こんなとこでもめてたら、何事かと思われちゃう」 土屋が低い声でささやいて、優三郎の腕を軽くひっぱった。 「ねえ、早く」 考えるより先に、優三郎は土屋の手をはらいのけていた。 記憶が、怒涛(どとう)のように押し寄せてくる。あの日もよく晴れていた。蝉の鳴き声がやかましかった。 小学校の通学路、照りつける陽ざし、指輪がいくつもはまった白い手、ひとけのない路地裏に停まった車、断片的な光景が目の前でめまぐるしく点滅する。 視界がぐらりと揺れて、優三郎はその場にうずくまった。目をつむり、両手で口をおさえる。 吐きそうだ。 「東くん?」 頭上から声が降ってくる。 「どうしたの?」 返事をしなければと思うのに、のどの奥に声がつかえて出てこない。大丈夫です、ひとりで帰れます、ときっぱり断らないといけないのに。 肩に手を置かれて、一瞬息がとまりそうになった。 「優三郎」 名前を呼んだ声は、土屋のものではなかった。 「お待たせ」 優三郎はそろそろと目を開けた。正面に瑠奈がしゃがみこんで、優三郎の顔をじっとのぞきこんでいた。 「帰ろう、優三郎」 **** 八月最後の日曜日、夜の繁華街は混沌(こんとん)としている。 千鳥足でふらつく酔っぱらい、路上にだらしなく座りこむ若者の群れ、居酒屋や風俗店の呼びこみ、雑多な人々を色とりどりのネオンが照らし出している。日中よりもいくらか気温は下がったものの、風がないのでじっとりと蒸し暑い。汗や下水やジャンクフードの油や香水や、その他もろもろが節操なくごちゃまぜになった、よどんだ臭気がまとわりついてくる。 酔いのせいか、それとも周囲の喧騒(けんそう)にかき消されまいとしてか、こぞって声高に喋(しゃべ)っている通行人たちに負けじと、恭四郎(きょうしろう)も声を張りあげる。 「なんか、いまいちだったな」 ごめん、と謝ると、瑠奈は歩きながら首を振った。 「ううん、おもしろかったよ。こういうの、ひさしぶりだったし」 軽音学部に入っている大学の友達に、ライブハウスで公演をやるので来ないかと誘われたのだった。 以前、こっちのダンスサークルのチケットを買ってもらったことがある手前、断れなかった。こういうのは持ちつ持たれつだ。チケット代をはらえば、最低限の義理は果たせる。気乗りしないなら顔を出さなくたってかまわない。 しかし、チケットを二枚受けとったところで、はたとひらめいた。日曜日なら、星月夜(ほしづきよ)は休みだ。 「だけど、あのボーカルなら恭四郎のほうがうまいかもね?」 「まあな」 うまくても下手(へた)でも、どっちでもよかった。瑠奈とふたりで出かける口実さえできるなら。 考えてみれば、こうして瑠奈とふたりきりで外出するのははじめてだ。家や星月夜で偶然ふたりになることはあっても、誘いあわせてどこかへ遊びに行くとなると、決まって優三郎が一緒だった。というか、瑠奈と優三郎が遊びに行くところへ、恭四郎がまぜてもらっていた。 いかにもしろうとくさい、騒々しいばかりでぱっとしない演奏を聞き流しつつ、恭四郎はライブが終わった後の段取りばかり考えていた。 「なんか食ってく?」 用意してあったせりふを、さりげなく口にする。 「そうだね。おなかへっちゃった」 「肉がいい? 魚がいい?」 「んじゃ、肉で」 「なら、焼肉はどう? 安くてうまい店があるんだ」 「おお、いいね」 瑠奈が機嫌よくうなずいた。恭四郎の足どりも、おのずと軽くなる。段取りどおりの流れだった。しっかり店を調べておいた甲斐(かい)があった。 「ここから近いの?」 「うん、こっち」 さも知っている店のように言ったものの、実は恭四郎も行ったことはない。グルメサイトの評価を頼りに目星をつけた。 「や、違うな。そっちかも」 「どっちよ?」 瑠奈が笑い出す。恭四郎はいよいよあせって左右を見回した。だめだ。柄にもなく緊張している。 「ちょっと待って」 落ち着け、と自分に言い聞かせ、道の端に寄ってスマホで地図を検索した。 「この道をまっすぐ行って、交番の手前で右に曲がる」 「交番で、右ね」 さっそく歩き出した瑠奈の後を、恭四郎はあたふたと追いかける。 めあての店は、無事に見つかった。換気のためか戸口が少し開けてあり、肉の焼ける香ばしいにおいと店内のざわめきが外までもれてきている。評判がいいだけあって、盛況のようだ。 「すみません。ふたり、入れます?」 瑠奈が戸を開け、店員に声をかけた。大学では、こういうときには男子が率先して仕切るべきだと決めこんでいる女子も見かけるが、瑠奈は迷わず自ら動く。性格に加えて、頼りにならない優三郎と出歩く機会が多いせいもあるかもしれない。 運よく、奥にふたりがけのテーブル席が空いていた。予約しておくべきだったかとひやひやしていた恭四郎は、ひそかに胸をなでおろした。 手あたりしだいに肉を頼み、生ビールで乾杯した。 「優三郎、どうしてるかな?」 瑠奈が言った。 「家でごろごろしてるんじゃないかな」 「そうなの? ひまなんだったら、来ればよかったのに」 「一応誘ったんだけど、断られた。明日は仕事だし、休みたいんじゃない?」 恭四郎は言葉を選んで答えた。 うそはついていない。瑠奈とライブに行くことになったと報告したときに、「もしかして、優ちゃんも行きたかったりする?」とたずねてみた。 「今んとこ、チケットは二枚しかないんだけど。もし行きたいなら、追加で買えるか友達に聞いてみるよ」 案の定、優三郎はけだるげに首を横に振った。 「僕はいいや。ふたりで行ってきなよ」 優三郎は最近また元気がない。もしや例の上司とうまくいっていないのだろうか。真っ赤なスポーツカーも、あれ以来一度も見かけていない。 恭四郎としては、なるべく仲よくしていてほしい。優三郎に恋人ができれば、瑠奈がなにかにつけて世話を焼いてやろうとすることもなくなるだろう。もちろん、優三郎にも幸せになってもらいたい。 瑠奈なら、本人からなにか聞いているかもしれない。どうなっているのか、それとなく探りを入れてみようかと思案して、やっぱりやめておくことにした。せっかくふたり水入らずで過ごしているのに、話題が優三郎のことばかりではつまらない。 「もっと飲む?」 瑠奈のジョッキを指さした。相も変わらず豪快な飲みっぷりで、早くも空(から)になりかけている。 「飲む」 瑠奈が威勢よく答える。 「さすが、モテる男は気配りが違うねえ」 「別に、モテようとしてやってるわけじゃないし」 反射的に言い返してしまい、恭四郎は唇をかんだ。これまでだったら、「まあね」とそつなく受け流したはずのところだ。 瑠奈も虚をつかれたようで、きょとんとした。一拍おいて、気を取り直したようににやっと笑う。 「わかってるって。自然に気配りできるのが、恭四郎のいいとこだもんね」 「ま、自然じゃないけど。陰ではそうとう努力してるよ」 恭四郎も気分を切り替え、冗談めかしてまぜ返した。 カルビとロースを運んできてくれた店員にビールのおかわりを二杯頼み、すかさずトングを手にとった。網の上に手早く肉を並べていく。 「どう? 自然?」 ふざけて聞いてみる。瑠奈を喜ばせたいという気持ちが、ごく「自然」にわいてくるのは確かだ。 「めっちゃ自然。ありがと」 瑠奈の視線は、網の上に釘づけになっている。白い煙がもくもくたちのぼり、したたった脂(あぶら)がじゅうじゅうとにぎにぎしい音を立てて食欲をあおる。 「よだれ、たれてるよ」 からかってやると、にらまれた。 自然というなら、瑠奈だってそうだ。この飾らなさも、少なくとも恭四郎にとっては、瑠奈の魅力のひとつである。虚勢を張らない。媚(こ)びもしない。ただまっすぐに潔(いさぎよ)く、しなやかで強い。 しこたま食べ、たらふく飲んで、ほろ酔いで店を出た。良心的な値段のわりに、味も量も申し分なかった。 ふたり並んで、駅までの道をゆっくりとたどる。 「いいお店だったね」 上機嫌で言う瑠奈の、白い腕が薄闇に浮かびあがっている。手を握りたい衝動をこらえて、恭四郎は答える。 「やっぱいいよな、肉は。元気出る」 もう少し一緒にいたいけれど、瑠奈を家まで送り届けたらぐずぐずせずに解散するつもりだ。気長にいこうと決めている。瑠奈に想いを伝えるのは、ふたりで会う時間を増やして、そういう雰囲気になってからでいい。これまで何年もやり過ごしてきたのだ。今さらあせってもしかたない。 「また行きたいね」 「うん、行こう行こう」 勢いこんで賛成した。 「ああ、おなかいっぱい。幸せ」 言葉どおり、さも幸せそうに瑠奈が笑う。 「おれも」 腹も心も満ち足りて、ふわふわと体が軽かった。瑠奈がよけいなひとことをつけ加えるまでは。 「そうだ、今度は優三郎も連れてってあげようね」 「優ちゃん?」 急に、足が重くなった。 「なんで?」 「だって、しっかり食べないと力も出ないでしょ?」 すたすた歩いていく瑠奈との間に距離が開く。すらりとした背中に投げつけるように、恭四郎は声を張った。 「過保護だね」 とげとげしい口ぶりになってしまったが、瑠奈は気づかなかったようだ。振り向きもせず、のんびりと応える。 「なんか弱ってるみたいだからさ。がつんと肉でも食べれば、ちょっとは持ち直すんじゃない?」 「優ちゃんはいつも弱ってんじゃん」 瑠奈が歩調をゆるめた。恭四郎のほうへ首(こうべ)をめぐらせる。 「厳しいね」 茶化すような声音とはうらはらに、当惑したように目をすがめている。 「瑠奈ちゃんが甘すぎるんだよ」 恭四郎は言い返した。 「放っときゃいいのに。ガキじゃないんだから、自分でなんとかするって」 「恭四郎、どうかしたの?」 瑠奈が完全に立ちどまった。眉根を寄せている。 「もしかして、兄弟喧嘩(げんか)でもした?」 「別に、そういうわけじゃないけど」 やめておいたほうがいいと頭ではわかっているのに、恭四郎の口は勝手に動く。 「前から思ってたんだよ。優ちゃんは瑠奈ちゃんに甘えすぎ。で、瑠奈ちゃんは甘やかしすぎ」 「なにそれ?」 瑠奈が唇をとがらせる。 「恭四郎、やっぱ今日はなんか変だよ?」 変じゃない、と恭四郎は叫び出したくなる。今日の恭四郎がいつもと違うように見えるという意味なら、これまでがずっと「変」だったのだ。 「喧嘩じゃないんだったら、なんなの?」 恭四郎は黙りこんだ。瑠奈がいくらか声を和らげる。 「話したいなら聞くよ?」 「なんでもない」 「うそ。じゃあ、なんでそんなにぴりぴりしてんの?」 気長に、あせらず、と何度となく自分に言い聞かせていたのも忘れて、恭四郎は憤然と答えた。 「瑠奈ちゃんのことが、好きだから」 *** 金曜日の七時過ぎ、ロッカールームは静まり返っている。 一日の仕事を終えて、私服に着替えた優三郎が廊下に出ようとしたら、ドアの向こう側にいた誰かとぶつかりそうになった。 「すみません」 優三郎は反射的に謝った。 「すみません」 向こうも謝る。隣の班に配属されている、春に入社したばかりの若手だった。相手が優三郎だと見てとるや、視線を避けるようにさっとうつむき、そのまま中へ入っていく。忘れものだろうか。 どうやら今晩は、同僚どうしの集まりがあるらしい。 らしい、とあいまいな表現になってしまうのは、優三郎は詳細を知らないからだ。飲み会かもしれないし、カラオケかもしれない。いずれにしても、参加する社員は少なくないようで、定時を過ぎると作業場は閑散としていた。 半月ばかり前にも、同じようなことが一度あった。 妙にひとが少ないな、とは思ったものの、それ以上は気にしなかった。仕事が順調に進んで、たまたま皆が早めに帰宅したのだろうと解釈した。いったいなにが起きたのか、あらためて疑問がわいてきたのは翌日になってからだ。 どうも空気がおかしいことには、出勤してまもなく気づいた。 誰も優三郎と目を合わせてくれないのだ。おはようございます、とこちらから挨拶(あいさつ)すれば、一応は返事なり会釈なりで応えてもらえるものの、その先が続かない。 最初は、偶然かと思った。考えすぎかもしれない、とも。思ったというより、思いたかったのかもしれない。 だが、偶然でも考えすぎでもないのは明白だった。みんな、優三郎以外の相手とはふだんどおり和やかに雑談をかわしている。ロッカールームのみならず、朝礼の場でも同じ調子だった。どういうわけか優三郎だけが避けられている。 ただ、理由がわからない。なにかまずい言動でもしたかと振り返ってみても、さっぱり心あたりがなかった。 もしや前日の晩になにかあったのかと察しがついたのは、朝礼が終わった後のことだった。それぞれの持ち場に向かう途中で、何人かが土屋に「昨日はごちそうさまでした」とくちぐちに礼を言っているのが聞こえてきたのだ。 以来、優三郎は挨拶と業務連絡以外は誰とも言葉をかわしていない。 優三郎のほうから皆に話しかける勇気も、その機会もなかった。ロッカールームであれ、手洗いであれ、優三郎が入っていくと、誰もがかかわりあいになりたくないと言わんばかりに目をふせて、そそくさと離れていってしまう。 土屋もまた、優三郎と目を合わせようとしない。 駐車場で土屋と瑠奈が思わぬ対面を果たしたあの日から、車で送ると持ちかけられることは一切なくなった。私的なメッセージもぱったりととだえている。作戦成功だね、と瑠奈は喜んでいたけれど、はたして成功と呼べるのかは微妙なところだ。 あれから土屋以外の同僚たちまでよそよそしくなったということは、瑠奈には打ち明けそびれている。責任を感じさせてしまったら悪いし、うじうじ悩んでしまう自分が情けなくもある。 気にせず、淡々とふるまえばいいのだ。仕事仲間は遊び友達ではない。飲み会の誘いがかからなくたって、会話の輪に入れなくたって、業務にさしつかえるわけではない。仲間はずれにされて傷つくなんて、女子高生でもあるまいし。 そもそも、飲み会にせよ、同僚との世間話にせよ、優三郎は今までどちらかといえば敬遠してきた。いざ実際にはずされたら動揺するというのも、勝手な話だろう。完全に無視されたり、いやがらせをされたりするのは困るけれど、今のところそういうこともない。ただ周囲が静かすぎるだけだ。それにしたって、うるさすぎるよりはいい。 頭では、わかっている。それでも、やっぱり疲れる。 長い一週間を乗り越えると、へとへとになっている。と同時に、とてつもない解放感で体が満たされる。 我が家をめざして、優三郎は一心に自転車をこぐ。 日が落ちてまもない空全体に、のっぺりと厚い雲が広がっている。そういえば台風が近づいているらしい。雨が降り出す前に家へ帰り着こうと、優三郎はペダルを踏む足にいっそう力をこめた。 週末は二日とも雨だった。 父と真次郎(しんじろう)は仕事へ、恭四郎はバイトへ、いやな天気だとぶつくさ言いながらも出かけていった。 日曜日の昼は、母のゆでてくれたうどんをふたりで食べた。食後の洗いものは優三郎がやった。土日の昼食は母と優三郎のふたりで簡単にすませることが多く、この役割分担がならいになっている。 流しに向かって立つと、カウンター越しにリビング全体を見渡せる。窓際に置かれたソファに腰を下ろした母が、テレビをつけた。優三郎の位置から画面は見えず、アナウンサーの明瞭な声だけが聞こえてくる。ニュース番組で台風の被害が報じられている。 「お茶、淹(い)れようか?」 食器を洗い終えて、優三郎はたずねた。母はテレビに集中しているのか、返事がない。お母さん、ともう一度呼びかけてみる。 「お茶、飲む?」 「うん。ありがと」 母は画面から目を離さずに答えた。 ふたり分のほうじ茶を淹れてから、優三郎も母の隣に座った。テレビには増水した川の濁流が映し出されている。 「この付近一帯に、避難勧告が出ています」 たたきつけるような激しい雨の中、アナウンサーが緊迫したおももちで繰り返す。合羽(かっぱ)が暴風にあおられ、今にもちぎれてしまいそうにはためいている。 「どこ?」 「岡山だって」 雨も風も、このあたりの比ではないようだ。西日本には秋雨前線まで停滞していて、その影響も大きいという。 水びたしの道路、すさまじいしぶきを上げて走り去る車、防波堤にぶつかって砕け散る荒波、次々に切り替わる画面の上端に、警報の発令を知らせるテロップがずらずらと流れていく。各地で河川が氾濫(はんらん)するおそれがあるほか、太平洋側の沿岸部で高潮、九州北部や山陽地方の山間(やまあい)では土砂くずれも警戒されているとのことだった。 「大変だね」 優三郎が言ったのと、 「大丈夫かなあ」 と母が心配そうにつぶやいたのが、ほぼ同時だった。 そこでようやく、なぜ母がいつになく熱を入れてニュースを注視しているのか、優三郎にも合点(がてん)がいった。 母は中学を卒業するまで、岡山県の養護施設で育っている。その後、就職のために上京して、父と出会った。 生後まもなく、施設の門前に置き去りにされていたところを保護されたという。出生にまつわる記録は見つからず、両親のことはもちろん、いつどこで生まれたのかも正確にはわからない。「だからホロスコープを描いてもらえないのよね」と母は冗談まじりに残念がってみせる。それより重大な問題が山ほどあったに違いないのに、苦労話は口にしないのが母らしい。 優三郎は居ずまいを正し、あらためてテレビに向き直る。大変だね、なんて他人(ひと)ごとのように言ってしまったのが、今さらながら恥ずかしい。 聞き慣れない名前の町で、住民たちが体育館に避難しているようだった。皆あわてて逃げてきたのか、部屋着のような格好で、心細げにインタビューに答えている。 「ああ、気の毒に。しかも、お年寄りばっかりじゃない」 身を乗り出して見入っていた母が、顔を曇らせる。 「早くおさまるといいね」 優三郎は遠慮がちに言った。 「うん。ほんとに」 母はうなずくと、優三郎のほうへ首をめぐらせた。 「優三郎、無理しないでね」 わけがわからず、優三郎は問い返した。 「無理って?」 「このニュース。がまんして一緒に見なくていいんだよ」 母が言い直した。 「こういうの、苦手でしょう?」 言われている意味を、優三郎も遅れて理解した。 こういうの、は確かに得意じゃない。自然災害に限らない。凄惨(せいさん)な事故やら残虐な事件やら異国の戦争やら、この世界がいかに危険や暴力や不条理に満ち満ちているかという事実を、こういう報道番組は生々しく突きつけてくる。 子どもの頃には、大地震にも通り魔にも外国から飛んでくるミサイルにも、優三郎はいちいち震えあがっていた。自分の身にもこんな不幸が起きたらどうしよう、と心底おびえた。食事がのどを通らなくなったり、夜になってもなかなか寝つけなかったりもした。おぞましいニュースの数々に、おとなの両親が動じないのはともかく、真次郎や恭四郎もけろりとして受け流しているのが信じられなかった。 とはいえ、優三郎も成長するにつれ、根拠もなく悲観的になりすぎないだけの分別はついている。 「大丈夫だよ」 答えたのは、まんざら強がりでもなかった。幼少期とは違って、やみくもになにもかもがおそろしくてたまらない、ということはもうない。 「そう?」 「うん。もう子どもじゃないんだし」 ただし、おとなになった今では、また別の問題が生じている。 「優三郎は優しいからねえ」 真顔で言われると、いたたまれなくなってくる。 悲惨な出来事を見聞きすれば、心は痛む。一方で、結局は自分のことばかり考えている気もする。 見ず知らずの誰かが直面している苦難が、そのまま自分にも降りかかってくる可能性がさほど高くはないことを、優三郎はもう知っている。背負っている苦しみや痛みは、ひとそれぞれなのだ。 その、めいめいが抱えるほかない苦しみや痛みを、優三郎はつい比べてしまう。そして愕然(がくぜん)とする。 苛酷な境遇にもくじけず、理不尽な立場に甘んじず、果敢に生きていこうとしているひとたちが世の中にはいくらでもいるのに、自分はなんてちっぽけな悩みで汲々(きゅうきゅう)としているんだろうと思い知らされてしまうのだ。なんというか、人間としての器の小ささを、とことん実感する。 「ま、とりあえず、このくらいでやめとこうかな」 母がリモコンを操作して、テレビの電源を切った。 「え、いいのに」 やはり気を遣わせてしまっただろうか。反省している優三郎をよそに、母はさばさばと言う。 「ここでじっとニュースを見てたって、なにができるわけでもないから。後で施設に連絡入れてみる」 ほうじ茶をすすり、ソファの背にもたれかかった。 「優三郎も、のんびりして。せっかくのお休みなんだから」 疲れてるでしょ、とついでのようにつけ加えられたひとことに他意は感じられなかったものの、優三郎はぎくりとした。 「疲れて見える?」 「仕事、忙しいの?」 母は質問に質問で返してくる。 「まあ、それなりに」 優三郎はソファの上に両足をひきあげて膝を抱えた。真正面の、暗くなったテレビの液晶画面に、並んで座る母と息子がぼんやりと映りこんでいる。 「でも、ぜいたく言ったらバチがあたるよね」 優三郎がつぶやくと、けげんそうに顔をのぞきこまれた。 「ぜいたく? どこが?」 「さっきの避難所じゃないけどさ。世間には、もっと大変な目に遭ってるひとたちがいっぱいいるのに」 日頃ひとりでもやもやと考えこんでしまっていることを、こうして口に出すのははじめてだった。 「誰がどれだけ大変かっていうのは、比べられるもんじゃないでしょ」 母はぴんとこないようで、首をかしげて応えた。 「そうかな」 「そうよ。少なくとも、お母さんはそう思うな。比べられないっていうか、比べても意味がなくない?」 言葉を探すようにいったん口をつぐみ、静かにつけ足す。 「だってみんな、自分の人生を自分で生きてくしかないんだもの」 優三郎はしばし無言で、母の言葉をかみしめた。自分の人生を、自分で。わかるような、わからないような。 「それに、なにがどのくらい大変かって、結局はひとりひとりの主観じゃない? 他人にははかり知れないよ」 母は遠くを見るように目を細めている。「大変」だった過去を思い返しているのかもしれない。 たぶん母は、優三郎には想像も及ばないような困難を経験しているはずだ。他人と比べても無意味だというのは、その末にたどり着いた境地なのだろうか。 「さてと。夕ご飯はどうしようかな」 母がソファから腰を浮かせた。 「今日はみんな早いよね。こんな天気だし、あるもので作ろうか」 「手伝うよ」 優三郎も立ちあがる。窓の外では雨音が続いている。 ** 十日ほど家を留守にすると母が言い出したのは、九月下旬の大型連休がはじまる直前のことだった。 半月ばかり前の集中豪雨で、西日本を中心に各地で被害が出た。母がかつて世話になった養護施設も被災した。 ライフラインや公共交通機関はおおむね復旧した一方で、水びたしになってしまった施設の建物や庭はまだ荒れたままだという。職員が手の空いた時間に少しずつ片づけを進めているそうだ。 「けが人とかは出なかったらしいんだけど、みんな疲れがたまってるみたい。スタッフも、あと子どもたちも」 そんな現地の実情を聞いて、母はいても立ってもいられなくなったようだった。手伝いに行こうかと申し出たところ、とても喜ばれたらしい。 子育てが一段落して以来、母はちょくちょく施設に足を運んでいる。子どもの相手がうまいので歓迎されるという。もっとも、せいぜい一泊二日程度で、こんなに長く滞在するのは今回がはじめてだ。 当初、息子たちのうち誰かひとりくらいは付き添うべきではないかと真次郎は考えた。被災地には、男手が重宝されるような力仕事もあるかもしれない。ところが母に打診してみたら、そこまでしなくていいと言下に断られた。 「みんな忙しいでしょ。それに、お母さんだけなら身内みたいなもんだけど、家族まで来るってなったら向こうだって気を遣うだろうし」 それは一理ある。勝手のわかっていない人間がいきなり押しかけて、足手まといになっても悪い。 「お母さんは施設の子たちから慕(した)われてるみたいだからな。急に実の息子が出てきたりしたら、みんな戸惑うかもしれない」 父からも、やんわりととめられた。確かに、親と離れて暮らす子どもたちのもとへ、母にくっついてのこのこ出向くのは無神経かもしれない。 せめて自分にできることをやろうと、出発の朝、真次郎は母を新幹線の駅まで車で送っていった。 連休初日とはいえ、早朝なので道は空(す)いている。車を走らせながら、真次郎は念のために釘をさした。 「あんまり無茶はしないでよ。年齢も年齢なんだから」 テレビやネットで見る限り、現時点ではもう特に危険なことはないようだが、はりきりすぎて体調をくずしても困る。 「はいはい、わかってます」 母は軽い口ぶりで答える。 「悪いけど、家のことはよろしくね」 「うん、みんなで手分けする」 「仕事もがんばってね。書き入れどきなんでしょ?」 「まあね」 東泉堂(とうせんどう)の客には勤め人も多い。世間の休日は、真次郎たちにとっては繁忙期ということになる。 「お母さんのほうは大丈夫なの、こんなに休んで」 「うん。ちょうど先週、大きい仕事が片づいたとこだから」 母は飛び石連休と有給休暇を組みあわせて、十日間の休みを捻出した。 「こんなにぴったりタイミングが合うって、行くしかないってことじゃない? めぐりあわせっていうか」 「かもね」 機会を逃さずに行動を起こす、というのは占いの世界にも通じる発想だ。占い師の夫と息子を持つ母が、「めぐりあわせ」を重んじるのは自然といえば自然なことなのかもしれない。 運勢には波があるという考えかたは、数多(あまた)の占術に共通している。その波にうまく乗るにはどうしたらいいかを、占い師は客に進言することになる。 真次郎の目から見て、母は波に乗るのがかなり得意だ。 間がいいというのか、引きが強いというのか、一度なにかを決めると、とんとん拍子に物事が進んでいく。本人はこうして「タイミング」とか「めぐりあわせ」とか、時には「野生の勘」とか言ったりもするが、要はどれも同じことだろう。加えて、持ち前の行動力と物怖(ものお)じしない性格も、一役買っているのかもしれない。 父との結婚もそうだったらしい。「会った瞬間に、お互いぴんときたのよ」と母は照れもせずに胸を張ってみせる。親の恋愛なんて、息子としては気恥ずかしくて極力考えたくないけれど、ロマンチックではあるのかもしれない。いつだったか、その話を聞かされた瑠奈がうっとりしていた。それにつけても、母の出生にまつわる情報が手に入らず、ホロスコープを描けないのが残念でならない。なかなか個性的な星回りではないかという気がするのに。 駅の周辺は、さすがに多少混みあっていた。バスやタクシーのゆきかうロータリーに車を停める。 「ありがとう。助かった」 母が助手席から降り、後部座席に積んであったキャリーバッグをひっぱり出した。差し入れの品をあれやこれやと詰めこんだので、そうとうな大荷物だ。 「じゃあ、気をつけて。向こうに着いたら連絡してよ」 「うん。真次郎も、帰りの運転気をつけてね」 全開にした窓越しに、母は最後につけ足した。 「みんなのこともお願いね」 子どもの頃から、何度となくかけられてきた言葉だった。頼りにならない長兄にかわって、弟たちを守り支える役目は真次郎が担っている。 「わかってる」 子どもではなくなった今も、母に信頼されていると思えば、やっぱり誇らしい気分がわいてくる。 母は重たい荷物をものともせず、きびきびした足どりで駅舎に向かっていく。小柄な背中を見送ってから、真次郎はアクセルを踏みこんだ。(つづく) 次回は2022年12月15日更新予定です。
2007年『うさぎパン』で、第2回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞し、デビュー。19年『たまねぎとはちみつ』で第66回産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。作品に『ふたり姉妹』『あなたのご希望の条件は』(いずれも祥伝社)、『女神のサラダ』『ありえないほどうるさいオルゴール店』『もどかしいほど静かなオルゴール店』『博士の長靴』など多数。