瀧羽麻子
**** 不規則な水音で、東恭四郎(あずまきょうしろう)は目を覚ました。 雨かな、と思いながら重いまぶたをこじ開けたとたん、まぶしくて目がくらんだ。窓の向こうに青空が広がっている。おかしい。こんなに晴れてるのに、なんで雨の音がするんだろう。 寝ぼけた頭で考えても、答えは出なかった。明るすぎる日光を避けて寝返りを打つ。足もとがすうすうと寒い。足もとというか、腰から下が。 なにげなく腕を伸ばし、指先が太ももにふれたところで、眠気が飛んだ。閉じかけていた目を見開き、跳(は)ね起きる。 上半身のほうは、裸ではなかった。ただし、この長袖のTシャツは恭四郎のものではない。 ここはどこだ。 混乱しつつ、周囲を見回してみる。Tシャツだけでなく、半分ほど開いた水色のカーテンにも、体の上にかかっていたふとんにも毛布にも、見覚えはなかった。ベッドのそばの床に落ちているトランクスを発見し、そそくさと拾(ひろ)って身につけたあたりで、やっと記憶がよみがえってきた。 そうだ、ゆうべはここに泊(と)めてもらったんだった。 夕方から、ダンスサークルの練習に出た。その後は近所にある学生向けの安居酒屋に流れ、だらだらと飲み食いした。二時間ほどで店を出て、家に帰ろうとしていたら、先輩たちからカラオケに行こうと誘われた。 明日――すでに今日ということになる――はバイトもないし、結果はともあれ期末試験は終わったし、ひさしぶりに思いきり歌いたい気分にもなってきて、恭四郎はふたつ返事でついていった。一年生から三年生まで、男女とりまぜて七、八人で、カラオケボックスの個室になだれこんだ。二年生は恭四郎だけだった。 実家住まいなのもまた、恭四郎ひとりだった。 横浜(よこはま)の自宅から都心にある大学まで、どんなに乗り継ぎがうまくいかなかったとしても、通学時間は一時間を切る。地方出身の友人たちの、気ままなひとり暮らしがうらやましくないわけではないけれど、恭四郎には今のところ地元を離れる気はまったくない。 そうはいっても、終電がさし迫ったこの時間帯に、混みあった下り電車に乗るのは気が進まない。 十一時過ぎにカラオケボックスの前で解散し、とりあえず駅のほうへ歩き出したものの、家まで帰るのが面倒になってきた。運動した上に歌まで歌って、かなり体力を消耗してしまった。けっこう酒も飲んだせいか、体が重い。 誰か同期がいれば、そいつのところに泊めてもらえたのに。 ため息をつきかけて、あきらめるのはまだ早いだろうと思い直した。自慢じゃないが、友達はそれなりに多い。 そのうち数人の顔を思い浮かべながら、かばんからスマホを取り出そうとした矢先に、声をかけられた。 「東くんも、こっちのほうだっけ?」 三年生の先輩だった。道の先をあごでしゃくってみせる。 「どのへん?」 「いや、おれ、実家なんで」 「あ、そうだっけ」 先輩が隣に並ぶ。踊っているときに見せる、きびきびした力強いステップとは違う、ふわふわした足どりだった。酔っているのかもしれない。 「おうちは都内?」 「横浜です」 「なら、まだ電車はあるね」 のんびりと言う。 「ありますけど、だるいんで、誰か友達んちに泊めてもらおうかと」 「だったら、うち来る?」 ごく軽い調子で持ちかけられて、恭四郎はちょっと驚いた。先輩の横顔をさりげなくうかがう。 「近いよ、すぐそこ。ほら、あのコンビニの上」 先輩はなぜか得意そうに胸を張り、ななめ前を指さした。 異性の後輩を部屋に上げることに、妙な思惑はないようだ。半分は酔った勢い、もう半分は純粋な親切心からだろうと恭四郎はすばやく判断し、 「いいんですか?」 と、やはり軽い口ぶりで答えた。 濃いめのメイクと爆発したようなスパイラルパーマで、少々近寄りがたい雰囲気を漂わせているけれど、そういえば実はなかなか面倒見のいいひとなのだった。ダンスの振りつけもいつも丁寧に教えてくれる。 「うん。ちょっと飲み足りないし、つきあってよ」 「それじゃ、お言葉に甘えて」 ふたりでコンビニに寄り、酒とつまみを調達した。ついでに明日の朝ごはんも買っとこっか、と先輩が食パンやヨーグルトもかごに放りこんで、レジ袋ひとつには入りきらないほどの量になった。 「持ちますよ」 割り勘で会計をすませ、恭四郎が袋をふたつとも手にとると、 「そういうとこがモテるんだね」 と、先輩は感心したように言った。否定するのもつまらないので、恭四郎はわざと軽薄にまぜ返す。 「あれ、惚(ほ)れちゃいました?」 気が利く、とはよく言われる。感謝されることが多いが、計算高いだのあざといだのと非難されることも、なくはない。褒(ほ)められても貶(けな)されても、さほど気にはならない。生まれつきこういう性分(しょうぶん)なのだから、今さら変えようもない。 大きな声では言えないけれど、批判的な態度で威圧(いあつ)してくるのはたいてい、「モテる」とはいえない連中だ。 恭四郎にしてみれば、彼らの思考回路のほうが理解できない。一緒にいる相手がなにを望んでいるか、どんなふうにふるまえば喜ばれるか、少し注意すれば自然にわかるはずなのに、なぜ自分のことしか考えようとしないのだろう。 むろん、自分を殺してまで他人の意向を優先する必要はない。恭四郎だって、無理して相手に合わせるのはごめんだ。できる範囲でいい。ちょっとした心配りで空気が和(なご)み、お互いに気持ちよく過ごせる。 恭四郎はなるべく楽しく、機嫌よく生きていきたい。 そのためには、周りにいる人間の機嫌もいいに越したことはない。これも計算といえば計算なのかもしれないが、生活の知恵と呼ぶほうがしっくりくる。 「惚れないよ」 先輩はきっぱりと断じた。 「あたし、こう見えて、まじめな男がタイプだから」 「なんだ、がっかりだな」 肩を落としてみせたものの、恭四郎の胸に広がったのは落胆ではなく安堵(あんど)だった。 ややこしい事態は、なるべく避けたい。ただでさえ身辺が不穏(ふおん)にざわついているところなのだ。この不寛容な世の中では、「なるべく楽しく、機嫌よく」を貫き通すのも容易ではない。 先輩も恭四郎の本音はお見通しなのだろう、ふふんと鼻で笑った。 「そっちこそ、あたしみたいのは好みじゃないでしょ?」 質問の意味するところは明快だった。翻訳するとこうなる――念のため確認しとくけど、下心はないよね? 「すいません」 恭四郎はすかさず頭を下げた。下心はないのでご心配なく、を可能な限りセンスよく言い換えてみる。 「おれもこう見えて、まじめな子がタイプなんで」 「なんだ、がっかりだな」 先輩は満足そうにうなずいて、行こっか、と先に立って歩き出した。 あの時点では、こんなことになるつもりはまったくなかった。恭四郎にも、たぶん先輩にも。 シャワーの音はまだ続いている。 ** 真次郎(しんじろう)は一歩先に立って、奥の部屋まで金子(かねこ)を案内した。 「どうぞ、おかけ下さい」 ソファをすすめ、自分は向かいの椅子(いす)に腰かける。 小ぶりのテーブルを挟んで向かいあう。ブラインド越しにさしこむ陽光のせいか、それともようやく腹を括(くく)ったからか、金子の表情は先刻より幾分(いくぶん)やわらかく見える。遠慮がちに周りを見回しているのも、気持ちに余裕が出てきた証(あかし)だろう。 あるいは、室内の様子に、いささか戸惑っているのかもしれない。来店前に思っていたイメージと違った、と他の客からもよく言われる。 その「イメージ」がどんな代物か、真次郎にも見当はつく。 漫画やアニメに登場する占いの館のたたずまいは、たいがい似通っている。カーテンを閉めきった薄暗い小部屋で客を待っているのは、魔女のような黒装束に身を包んだ占い師だ。謎めいた水晶玉に手をかざし、あるいは思わせぶりにタロットカードを並べて、厳(おごそ)かにお告げを言い渡す。 昔はそういう店も多かったのかもしれない。ひょっとしたら、今でも存在しないわけではないかもしれない。 でも、うちは違う。 壁も天井もさっぱりと白く、うららかな陽ざしがあふれている。小さな五階建ての雑居ビルは、駅前の通りに面していて、最上階は抜群に日当たりがいい。壁際の書棚には本とファイルが並び、デスクの上にはノートパソコンが置いてある。この部屋の真下、四階に入っている税理士事務所のオフィスと、見た目はさほど変わらない。真次郎自身の服装にしても、糊(のり)のきいた白いシャツに紺色のジャケットをはおり、ネクタイこそしていないものの、税理士に負けないくらいの清潔感はあるんじゃないかと思う。 このビルは、フロアごとにひとつずつテナントが入っている。一階はパン屋、二階は小学生向けの学習塾、三階は眼科で、階によって客層ががらりと異なる。ビルの入り口には案内板がはめこまれ、それぞれの名前が記されている。 一度、塾に子どもを迎えに来た母親が数人、その前で立ち話をしているところに出くわしたことがある。 「五階のこれ、なんだろ?」 真次郎はとっさに階段の陰に身を隠し、耳をそばだてた。 「気にしたことなかったな。トウセン堂……? って読むの、これ?」 ご名答だ。東の泉と書いて、東泉堂と読む。 「なんかのお店だよね? 古道具屋さんとか?」 こちらは、正解にはいたらなかった。本屋、薬局、文房具店、と他にもとりとめなく推測が飛びかっていたものの、ほどなく子どもたちが二階から下りてきて、話はそこでとぎれた。 五階まで確かめに上がることもなく、わが子を引き連れてあわただしく帰っていったから、本気で正体を知りたかったわけでもないのだろう。仮に上がってきたとしても、そっけない表札が出ているだけで、ドアの向こうでどんな商売が行われているのか言いあてるのは難しいはずだ。 「今日はご予約ありがとうございました。どうぞよろしくお願いします」 真次郎は居ずまいを正し、金子に向かってあらためて頭を下げた。きょろきょろしていた彼女のほうも、膝(ひざ)の上に手をそろえて正面に向き直る。 「こちらこそ、よろしくお願いします」 「今日は、どんなことについて占いましょうか?」 真次郎が水を向けると、金子は深刻なおももちで答えた。 「ここ最近、なにもかもうまくいかないんです」 「なにもかも、ですか」 真次郎も負けずに神妙な顔を作り、おうむ返しに言う。それでは答えになっていないと指摘するわけにもいかない。 はじめての客は、こういうあやふやな物言いをすることがある。占い師たるもの、くどくどと説明などしなくても、顔をひとめ見ただけで問題の本質をたちどころに見抜き、最善の策を教えてくれるはずだと思いこんでいるのだ。 占いの世界に慣れていない初心者にありがちな、勘違いである。 それは占いではない。超能力だ。そういう特殊な力――この業界では霊感とも呼ぶ――を備えていたり、もしくは備えていると言い張ったりする占い師もいるにはいるが、ごく少数派にすぎない。 真次郎たちも含めて、ほとんどの占い師は、まずは客の話に耳を傾けるところからはじめる。 彼らを苦しめている悩みごとについて、ぶつかっている壁について、とことん聞く。心療内科のカウンセリングみたいだと言われたこともある。心の内をありのままに吐露(とろ)してもらうという面では、通じるところがあるのかもしれない。 医者は心理学の理論を手がかりに、患者の精神分析を進める。一方、占い師のよりどころとなるのは、おのおのが身につけた占術である。 占術とひとくちにいっても、文字どおり千差万別だ。 星占い、四柱推命(しちゅうすいめい)、数秘術(すうひじゅつ)、宿曜(すくよう)、九星気学(きゅうせいきがく)、タロット、易(えき)、ルーン、手相に顔相、風水、姓名判断、それぞれに専門家がいる。硬貨を投げて裏表で判断するコイン占いや、コーヒーを飲んでカップに残った跡を読むコーヒー占いなんてものまである。 真次郎が主に扱っているのは、西洋占星術だ。 あとは客の要望しだいで、タロットカードを使ったり、手相を見たりもする。父が得意としている四柱推命や易といった東洋系の占術も、自由自在に使いこなせるところまではいかないものの、ひととおり勉強して基礎は頭に入っている。客の中には、何人もの占い師のもとを渡り歩き、豊富な知識を蓄えている事情通もいる。プロとしては負けるわけにいかない。 金子の場合、そういう意味ではだいぶ気が楽だ。 「ご家庭のことで、なにかお悩みですか」 真次郎は慎重に探りを入れてみた。金子が目をみはる。 「ええ、そうなんです」 と、大きくうなずく。「お悩み」がいくつもあることを訴えようとしているかのように、何度も。 あたりだ。 これもまた、占いではない。金子が専業主婦だということは、彼女を紹介してくれた常連客からあらかじめ聞いている。なにもかもうまくいかないと嘆(なげ)く専業主婦がいれば、うまくいっていないのはほぼ間違いなく彼女の家庭だ。 「実は、うちの夫が……」 金子は切々(せつせつ)と語り出した。 なにもかも、という言いぶりは、あながちおおげさでもなかった。金子家は厳しい苦難の時期を迎えているようだった。 ほんの半年前までは、なんの問題もなかった。正確にいうなら、なんの問題もないと金子夫人は信じきっていた。 大企業に勤める夫、一男一女に恵まれ子育て中の長女、父親と同じく一流企業に就職した次女、難関大学をめざして勉強に励む三女、家族全員のことをこよなく愛し、誇りにも思っていた。二世帯住宅に暮らす姑(しゅうとめ)も、健康そのものだった。 それこそ「なにもかも」が順調に回っていたのだ。 「幸せだと思ってました。自分で言うのもなんですけど、うちはなんて恵まれてるんだろうって」 自慢ではなく自嘲(じちょう)の口ぶりで、金子はつぶやく。 「おめでたいですよね」 夫が早期退職制度に応募していたことを、妻は退社日当日まで知らなかった。心配させたくなかったのだと言い訳された。 「心配して当然でしょう? 家のローンだって残ってるし、末の娘はまだ高校生なんですよ」 その翌月、義母が倒れた。 夫の再就職のめどは立っていない。今後の家計のことも考えれば、施設に預けたりはせず、可能な限りは自宅で介護するほうが現実的だ。せめて夫が手伝ってくれれば助かるが、おろおろするばかりで、てんで役に立たない。義母のほうも息子の手をわずらわせたがらない。 「かわりに家事を任せようとしても、信じられないくらい手際が悪くって。いちいち説明したり、後でやり直したりする手間を考えたら、最初から自分でやったほうが早いんですよね」 娘たちにも頼れない。 長女は亭主に浮気され、離婚調停でもめている。精力的に働いていた次女は、ある朝を境に突然自分の部屋から出てこなくなった。休職扱いにしてもらえているのか、それとも正式に辞めてしまったのか、こわくて聞くことすらできない。 そんな中、つい先日、三女の妊娠が発覚したという。 「まだ十七歳ですよ」 金子は涙ぐんでいる。 「しかも、どんなに聞いても、父親が誰なのか教えてくれないんです」 真次郎はテーブルの上に置いたティッシュの箱を、金子のほうへ押しやった。 話の途中で泣き出してしまう客はそれほど珍しくない。新米の頃はどぎまぎしたものだが、もう驚かない。 「大変でしたね」 平静に、しかし心をこめて、声をかける。実際のところ同情に値する。 「すみません」 金子が目もとをおさえて洟(はな)をすすった。 「もう、どうしたらいいのか、混乱してしまって」 「大丈夫です。一緒に考えていきましょう」 金子が落ち着くまで待ってから、真次郎はティッシュの箱をのけ、かわりに準備してあった紙を広げた。 「これは?」 まだ目を潤(うる)ませながらも、金子がわずかに身を乗り出した。 「ホロスコープ、といいます」 西洋占星術で用いられるホロスコープとは、ある特定の時点での天球上における星の配置を示した図表のことである。 正方形の紙いっぱいに、天球を模した大きな円が描かれ、内側に十二等分の線がひいてある。まるいホールケーキを十二人分に切り分ける要領だ。そこに、惑星のマークが散らばっている。言うなればケーキの上に飾るいちごだ。 いちごなら、均等に並んでいるのが普通だろうが、こっちはかなりばらつきがある。ひときれ分にふたつや三つが集中しているところもあれば、空っぽのところもある。もしこれが本物のケーキだったら、不公平だと文句が出るだろう。 「天上には十二の星座があって、その間をいくつかの惑星が回っている、というのが西洋占星術の基本的な概念です」 もの珍しげにホロスコープを眺めている金子に、真次郎は説明を続ける。 「ご存じのとおり、星々は常に動いています。その動きや位置関係が、世界の動向や人間の運勢にも影響を及ぼしていると考えられています」 そこで、天体の配置や運行をたどりつつ、個人の背負う運命を読み解く。過去を見つめ直し、未来を予測していく。 「雑誌やテレビなんかで、誕生日ごとの星座占いをご覧になったことはありますよね? あれも、同じ考えかたをもとにした占いのひとつです」 ひとつというより、一部と表現すべきかもしれない。身近な十二星座の占いは、西洋占星術で扱う十惑星のうち、太陽の動きのみに注目しているのだ。 「さっきも申しあげたように、すべての星は刻々と動いていて、空の見えかたも変わっていきます。当然、ホロスコープも。いつの時点を基準とするかは目的しだいです。個人の運勢を占う場合は、出生時のものを使うのが一般的です」 この世に生まれ落ちてくるというのは、どんな人間にとっても唯一無二の、特別かつ重要な出来事に違いない。その瞬間の星々の配置は、個人の持って生まれた性格や資質、またそこから幕を開ける人生にも、影響を与えるはずだ。 「ああ、それで、予約のときに誕生日とかを聞かれたんですか」 金子が口を挟んだ。 「はい」 生年月日に加えて、出生時刻と出生地も関係している。たとえ同じ誕生日でも、時間や場所がずれれば、見える星空も違ってくるからだ。 昔は電卓をたたいて複雑な計算をこなし、地平線の上にある星座、惑星、地平線の下にある星々、それらの角度関係などを割り出した上で、手でホロスコープを描きあげなければならず、手間がかかったらしいが、今はパソコンで簡単に作れてしまう。ネット上には無料で使えるソフトもそろっている。 ホロスコープを作るだけなら、誰にでもできる。 難しいのは、そのホロスコープが示している意味を、正しく解釈することだ。星からのメッセージを読む、と言い換えてもいいかもしれない。 そのメッセージを、それを必要としている相手に届けるのが、占いだ。すなわち、真次郎の仕事である。(つづく) 次回は2022年8月1日更新予定です。
2007年『うさぎパン』で、第2回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞し、デビュー。19年『たまねぎとはちみつ』で第66回産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。作品に『ふたり姉妹』『あなたのご希望の条件は』(いずれも祥伝社)、『女神のサラダ』『ありえないほどうるさいオルゴール店』『もどかしいほど静かなオルゴール店』『博士の長靴』など多数。