物語がつまった宝箱
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  • 3(1) 2022年10月1日更新
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 土曜日の昼さがり、優三郎(ゆうざぶろう)と瑠奈(るな)が連れだって店へ入ってきたとき、恭四郎(きょうしろう)はボウルの中で卵と小麦粉をまぜあわせている最中だった。
「いらっしゃいませ」
 カウンター越しに、声をかけた。
 先客の後ろに並んだ瑠奈が、にっと笑って片手を上げた。ひとさし指と中指で挟んだ割引券を、ひらひらと振ってみせる。いつもながら薄着だ。まだ朝晩はけっこう肌寒いというのに、ぺらぺらしたブラウスにデニム地のショートパンツという思いきり夏を先どりした装いで、長い足をこれ見よがしに露出している。
 前の客を送り出した後で、恭四郎はあらためてたずねた。
「ご注文は?」
「あたしはいちご。優三郎は? いつもの?」
 瑠奈がカウンターの上に割引券を置いた。派手なラメをこってり盛った爪が光る。目の周りにもなにか塗っているようで、やたらときらきらしている。ほぼ金色といっていいくらいの、ごく明るい茶髪と相まって、なんというかにぎにぎしい。
「うん」
「じゃ、トリプルいちごとチョコバナナプリンね。あ、いちごは五割増しで。あと生クリームもね」
「追加料金をいただきますが、よろしいですか」
 わざと慇懃(いんぎん)に告げたものの、はなから断るつもりはなかった。瑠奈は実にうまそうにクレープを食べる。あの顔を見ているだけで、こっちまで幸せになってくる。
「いやいや、よろしくないし」
 恭四郎が本気でないのは伝わっているのだろう、瑠奈もふざけた調子で答えた。
「そのくらいサービスしてよ。大事なお得意様でしょ?」
「まあいいけど、太るよ?」
「うっさい」
 眉をひそめて一蹴し、瑠奈は優三郎のほうを振り返った。
「優三郎のも、チョコ多めにしてもらおっか?」
「僕はいいよ、普通で」
 恭四郎はそこでやっと、兄の顔色が冴(さ)えないことに気づいた。
「どしたの? 暗くね?」
「そんなことないよ」
 優三郎はかすれ声で答えた。やっぱり、暗い。
 なんなのこれ、と恭四郎は瑠奈に目で問いかけてみた。放っておいてやれ、と瑠奈のほうも目で答え、小さく首を振ってみせた。従わない理由もないので、恭四郎はおとなしくキッチンへ移動する。
 優三郎はときどきこんなふうになる。
 原因はおそらくストレスだ。よくいえば優しすぎ、悪くいえば気が小さすぎて、なにかあるとすぐ弱ってしまう。精神面ばかりでなく、体にまで不調をきたすことも多い。病は気から、というやつだ。病弱とまではいかないが、しょっちゅう腹を下したり熱を出したりして、たびたび学校も休んでいた。
 つらそうなのは気の毒だったけれど、みんなが授業を受けている時間にひとりだけ家で寝ていられるという特別待遇が、幼い恭四郎にとっては少々うらやましかった。恭四郎は体が丈夫で、風邪(かぜ)すらめったにひかないから、よけいにそう感じられたのかもしれない。病人用のおかゆやアイスクリームも魅惑的だった。部屋にこっそりしのびこみ、ひとくちちょうだいとねだると、優三郎は快(こころよ)く分けてくれた。病気がうつったらいけないからやめなさい、と父や母にはしかられたが、それで恭四郎までぐあいが悪くなったことは一度もない。
 そんな優三郎が、倉庫作業のアルバイトをはじめると言い出したときには、意表をつかれた。
 いかにも体力がいりそうな仕事なのに、やっていけるのだろうかと、恭四郎だけでなく家族みんなが心配したものだ。幸い、職場にはうまくなじめたようだった。働きぶりを認められて正社員に昇格できたのだから、たいしたものだ。日々体を動かしているせいか、心なしか筋肉もついて、十代の頃より健康そうになった。
 体力はついたはずなのに、こうしてまいっているということは、気持ちの問題が大きいのだろう。
「甘いもの食べたら、元気も出るよ」
 ガラスの向こうから、瑠奈の励ますような声が聞こえる。
 手は休めずに、恭四郎はちらりと目を上げた。優三郎はしょんぼりと肩をすぼめ、うなだれている。
 なんてわかりやすいんだろう。
 優三郎は周りに気を遣うわりに、自分自身の不調を無防備にさらけ出す。そして周りに気を遣わせる。
 恭四郎なら、こうはならない。たとえいやなことがあったとしても、人前であからさまに萎(しお)れるようなまねはしない。反対に、せいいっぱい空元気を出して、明るくふるまおうとしてしまいがちだった。心配をかけたくないというよりは、不用意に弱みをつかまれたくないからだ。
 かといって、優三郎を非難するつもりはない。当人だって、わざと他人の気をひこうとしているわけではないだろう。それだけ余裕を失っている証左にほかならず、むしろ同情する。
 けれど同時に、いいよな、ともちょっと思ってしまう。
 子どもの頃と同じだ。病気で苦しいのはかわいそうだけど、皆から優しくいたわってもらえてうらやましい。
 しかも、優三郎にはいつだって瑠奈がついている。
「お待たせしました」
 恭四郎は焼きあがったクレープをふたりに手渡した。片方は、いちごを入れすぎていびつにふくらんでいる。受け取った瑠奈が相好をくずした。
 そこで新たに客が入ってきてしまったので、さっきみたいに無駄口をたたくのはやめておいた。
「いらっしゃいませ」
 恭四郎はにこやかに声をかけた。例によって女子高生だ。似たような髪形と服装で、三人同時に喋(しゃべ)りながらカウンターのほうへ近づいてくる。
 かしましい会話は、優三郎とすれ違いざまに一瞬だけとぎれた。全員がはっとしたように目をみはり、互いにひじをつつきあって、もの言いたげな目くばせをかわしている。
 ぶしつけな視線に気づいたらしい瑠奈が、優三郎の背中に片手をあてがった。すました顔で、彼女たちの横をすり抜けていく。余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)だ。当の優三郎は物憂げにうつむいていて、女子高生たちの姿は目に入ってすらいないだろう。
 店先のベンチに、ふたりは仲よく並んで腰を下ろした。
 注文をすませた女子高生たちが、話の合間にちらちらとそっちを盗み見ている。気持ちはわかる。あのふたりは人目をひく。雰囲気はまるで違うのに、どういうわけかお似合いなのだ。
 開け放したドアから、穏やかな風が吹きこんでくる。ここ数日でめっきり春めいてきた陽ざしが、仲睦(なかむつ)まじげなふたりに降り注いでいる。

		***

 週末は、思いのほか穏やかに過ぎた。少なくとも、金曜日の深夜にタロットカードをひいて優三郎が危惧(きぐ)したようなことは、なにも起きなかった。
 あの晩、カードを片づけてふとんに戻った後も、優三郎は寝つけなかった。ぐずぐず考えをめぐらしているうちに、夜が明けてしまった。
 朝一番に、瑠奈に電話をかけた。
「塔のカードが出た?」
 瑠奈はいぶかしげな声を上げた。
「なんだっけ、まあまあやばいやつなんだっけ?」
 まあまあ、どころではない。塔のカードは、そうとう「やばい」。七十八枚のうち最凶ともいわれるくらいだ。
 図柄からして不穏(ふおん)きわまりない。暗雲のたれこめる空から降ってきた稲妻が、高い塔を容赦(ようしゃ)なく刺し貫いている。そこかしこが崩れて火の手が上がり、苦痛に顔をゆがめた人々がまっさかさまに地上へ落ちていく。阿鼻叫喚(あびきょうかん)、という日常的にはまず使わない四文字が脳裏をよぎる。
 この絵は旧約聖書に登場するバベルの塔の物語にちなんで描かれた、と解説書には書いてある。
 昔々、人間はどうにかして神に近づきたいと考えた。そこで技術の限りを尽くし、力を合わせて、天まで届く高い塔を建てようとした。天上をめざすその企(たくら)みは、身の程をわきまえない人間たちのとんでもない思いあがりとして、神の逆鱗(げきりん)にふれた。人々が結託(けったく)してこのような愚行を犯すことが二度とないように、神は意思疎通の手段である共通の言語を奪った。言葉が通じなくなった人間は、もはや互いに理解しあえず、あえなく散り散りになってしまったという。
 この悲惨な逸話に基づいたカードの代表的な意味あいとしては、災難、崩壊、失敗、破局などが挙げられている。雷は予期せぬアクシデントを暗示しているらしい。これまでに積みあげた物事や、ととのえてきた環境が、突然崩れ去ってしまうことを警告しているとされる。
 塔のカードをひいてしまったのは、ひさしぶりだった。
 これまでで一番印象に残っているのは、なんといっても大学受験のときである。優三郎は第一志望の公立大学に落ちた。高校の成績からも、模試の判定結果からも、ほぼ合格は確実だとみなされていたのに、よりにもよって試験の前夜から高熱を出したのだ。あの熱は、不合格の前ぶれというよりは、原因そのものだったととらえるべきかもしれないけれども。
「あ、あれも? 桟橋(さんばし)のとこのカフェがつぶれちゃったとき」
 瑠奈に言われ、もうひとつ思い出す。学生時代から気に入っていたカフェが去年閉店してしまったときも、その前に塔のカードが出たのだった。それも、小火(ぼや)で店舗の大半が黒こげになるという、悲劇的な顛末(てんまつ)だった。瑠奈ともよく一緒に行っていた店で、しきりに残念がっていた。
 今回は、いったいなんだろう。
「でも、絶対にあたるとも限らないんでしょ?」
 瑠奈が励ますように言った。
「うん、まあ」
 それはそうだ。ただ、こういう強烈なカードをひきあててしまうと、どうしても平静ではいられない。
「とりあえず、どっか遊びにいこうよ? 気分転換になるんじゃない?」
「いいね」
 優三郎は無理やり明るい声をしぼり出した。全身はどんより重たいけれど、寝こむほどではない。家に閉じこもっていても鬱々(うつうつ)とするだけだし、瑠奈の気遣いをむげにするのも悪い。
「そうだ、恭四郎んとこは? その後で買いものでもしようよ。あたし、サンダルがほしいんだよね」
 午後から落ちあってクレープを食べ、海べりのショッピングモールに出かけた。瑠奈が夏もののワンピースとサンダルを買い、優三郎は靴下と文庫本を買った。日曜は瑠奈がうちへ訪ねてきて、母と恭四郎もまじえて映画を見た。
 瑠奈の言ったとおり、気分転換にはなった。ひとりで悶々(もんもん)と過ごすよりは、はるかによかった。
 それでも、ふとした瞬間に、優三郎の脳裏には崩れゆく塔がちらついてしまった。モールの喧騒(けんそう)や、家族の会話や、映画のせりふがふっと遠のいて、優三郎の周りだけがしんと静まり返った。
 そのたびに、目ざとい瑠奈に見とがめられた。
「気にしすぎないほうがいいって。なるようにしかならないんだから」
 優三郎にもわかっている。なるようにしかならない。しかしながら、頭でわかっているからといってそう思えるかというと、また別の話なのだ。

 月曜日は、明け方から雨が降ってきた。天気予報によれば、午後にかけてさらに強まりそうだという。
「今日はバスにしたら?」
 と母に言われる前から、自転車で出勤するのはやめておこうと優三郎は決めていた。まさか雷に打たれることはないだろうが、用心するに越したことはない。
 母と一緒に家を出て、最寄りのバス停まで歩く。母は駅の方面、優三郎は港の方面へ向かうので、別々のバスに乗ることになる。
「週明けからいやな天気ね」
 ストッキングに泥がはねちゃう、と母は憂鬱(ゆううつ)そうにこぼしている。
 後で作業服に着替えるので、ラフな格好で通勤できる優三郎と違い、母はちゃんとスーツを着こんでいる。生命保険の営業職は、服装規定が厳しいそうだ。優三郎には絶対につとまらなそうな仕事だけれど、ひとなつこくて話し好きな母には向いているのか、支社の中でもかなり成績優秀らしい。何度か社内で表彰されたことまであって、家に賞状が飾ってある。
「優三郎、大丈夫? なんか元気ないんじゃない?」
 赤信号で立ちどまったとき、傘を傾けて顔をのぞきこまれた。
「週末、ちょっと寝不足だったから」
 優三郎はあいまいにごまかした。うそではない。
「ま、こんなうっとうしい天気じゃ、働く気も失(う)せちゃうよね」
 母がぼやく。確かに、週のはじめから出鼻をくじかれた感はある。
「そうだね」
 半ば上(うわ)の空で同意しつつも、優三郎の胸にはかすかな希望がきざした。タロットカードが予告していたのが、この天気だったらいいのに。
 悪天候が引き起こしそうな厄介(やっかい)事は、いくつも思い浮かぶ。
 道路が渋滞して、バスが遅れてくるかもしれない。そのせいで朝礼に遅刻するかもしれない。班長に怒られるかもしれない。どれも喜ばしい事態とはいえないが、耐えられないほどではない。その程度ですんでくれるなら、かえってありがたい。
 案の定、バスは定刻より遅れてやってきた。雨のせいで道が混んでいて、倉庫までふだんよりも時間がかかった。それでも、朝礼にはぎりぎりまにあった。従って、誰にとがめられることもなかった。
 雷は、朝礼の最後に落ちてきた。
「今日は、皆さんにお知らせがあります」
 所長が言った。ほがらかな声だったにもかかわらず、なぜだか優三郎の体は反射的にこわばった。
「主任」
 所長が呼びかけた。手招きされた主任が、かしこまった顔つきで前へ進み出た。
「このたび、本社に異動することになりました」
 おもむろに一礼する。
「皆さんには長い間、大変お世話になりました」
 優三郎は呆然(ぼうぜん)と立ち尽くす。主任の挨拶はまだ続いているけれど、言葉は意味をなさない音の連なりと化して耳を素通りしていく。

		**

 なにを言われているのか、とっさに意味をとらえそこねて、「はい?」と真次郎(しんじろう)は聞き返した。
「申し訳ありません。勝手なお願いだということは、こちらも重々承知しております」
 電話の向こうで、金子(かねこ)が恐縮しきった声を出す。
「ただ、もしもそういうことが可能であれば、と思いまして。念のために、おうかがいしてみようかと」
 もしもそういうことが可能であれば。念のために。
 遠慮がちな物言いが、彼女の切実な意思をかえって強調している。たとえわずかな可能性でも、賭(か)けてみたいのだ。
「まったく問題ありません」
 真次郎は答えた。ここまで言われて、はねつけるわけにもいかない。
「ご希望どおりに調整させていただきます。予約の空きを確認しますので、少々お待ちいただけますか」
「ありがとうございます」
 はりつめていた金子の声音が、ふっとゆるんだ。
「お手数をおかけしてしまって、恐れ入ります」
「とんでもありません。ご満足いただくことが、なによりですから」
「ありがとうございます」
 金子は繰り返し、いくらか声を落として言い添えた。
「これまでも、不満があったわけではないんですけど」
 口先だけの言葉でもないだろう。だからこそ、二回、三回と重ねて足を運んでくれていたのだ。
 しかしながら、満足度というのは相対的なものである。より深い満足を味わってしまったら、もう以前には戻れない。

 先月、金子は予約の日を間違えて来店したのだった。
 真次郎は接客中だった。かわりに、たまたまキャンセルの電話が入って手の空いていた父が応対してくれた。
 日々の予約状況はパソコンで管理し、真次郎と父で互いに共有している。金子が日にちを勘違いしていたことは、すぐに判明した。正しい予約日よりも、一日早く来てしまったのだ。
 真次郎の手が空くまで待たせてもらえないかと金子は父に申し出た。翌日は別の予定が入ってしまっているという。ところが折悪(あ)しく、その日はいつになく予約が詰まっていた。店じまいの時間まで、枠はすべて埋まってしまっていた。
 父がその旨(むね)を伝えると、金子は悄然(しょうぜん)として言った。
「わかりました。また他の日に予約を取り直すことにします」
 落胆のせいもあってか、ずいぶんくたびれた顔つきだった。肩を落とし、そのまま帰っていこうとする。
「よかったら、かわりに鑑定させていただきましょうか?」
 父は気を回して提案してみた。ずいぶん意気消沈(いきしょうちん)しているようだったので、追い返すのもしのびなかったそうだ。
 閉店後、真次郎は父から事の次第を聞かされた。
 せっかくだから違うアプローチも参考になるのではないかと考え、金子の了承も得て、四柱推命(しちゅうすいめい)で占ったらしい。おおまかに確認した限り、西洋占星術に基づく真次郎の見立てと齟齬(そご)はなかったようだ。
 ありがとう、助かった、と真次郎は父に礼を言った。
 金子は相変わらず義母の介護で忙しい。余裕のない中で時間をやりくりして来てもらったのに、本人の思い違いとはいえ、また出直させるのは気の毒だ。予約の日を間違えたのも、疲れがたまっているせいかもしれない。そうだとしたら、誰かとゆっくり話すだけでも、多少は息抜きになっただろう。父の見たところ、帰るときには金子の顔色はだいぶよくなっていたという。
 鑑定結果を聞くことよりも、自ら喋ることのほうに夢中になる客は、存外多い。日頃、自分の話に耳を傾けてくれる相手がいないのかもしれない。
 むろん、客と相対する上で、基本的な情報収集は欠かせない。相手を深く知ることによって占いの精度も高まる。ひとりひとりが置かれている状況をしっかり理解してこそ、占いで示された結果を正しく解釈し、この先とるべき行動を具体的に見定めることができるのだ。
 そうわかっていても、一方的に客の話を聞かされるばかりでは、真次郎はいささか物足りない。
 漫然と聞くばかりではなく、こっちの意見も伝えたい。それに、単に話したいだけなら、聞き手は誰でもいいわけだ。占い師としての存在意義がない。安くはない鑑定料だって受けとっているというのに。
 だが、客の話はとにかく傾聴すべし、というのが父の教えだ。鑑定そのものに役立つのみならず、客とのきずなを深める効果もある。人間は、己の話を真摯(しんし)に聞いてくれる相手に悪感情は抱かないものだ。信頼関係を築けば、こちらの言葉も受け入れてもらいやすくなる。
 そしてなにより、客のためになる。
「占いは、結果を出したらそこで終わり、ってもんじゃないんだ」
 と父は言う。
「お客さんに少しでも幸せになってもらわないと、意味がない」
 幸せになれるかどうかは、そのひと自身がどう動くかにかかっている。どんなに腕のいい占い師でも、どのように動けばいいか、助言するところまでしかできない。動くのは、本人だ。
 動くためには、気力がいる。体力もいる。占いにやってくる客が、それらを十全に持ちあわせているとは限らない。ほとんど、もしくはまったく持ちあわせていないことも、珍しくない。
 そこで手助けをすることも、占い師の仕事の一環だと父は説く。
 胸の裡(うち)にわだかまった鬱憤(うっぷん)を吐(は)き出せば、多少なりともすっきりする。どういう問題を抱えているのか、順を追って説明しているうちに、頭も整理される。そうやって、困難な状況に立ち向かう準備をととのえてもらおうというわけだ。
 金子の場合、そこまで自分のことばかりやみくもにまくしたてるタイプではない。それでも、「聞いていただけて楽になりました」とは言っていた。「こんなみっともない話、誰にもできなくって」と、恥ずかしそうに。
 いずれにしても、父が金子の相手をしてくれてよかった、と真次郎は思っていた。そのときは。
 次の予約については後日また連絡をもらうことになった、と父からは申し送りを受けていた。その言葉どおり、ひと月後の今日、電話がかかってきた。
「先日は失礼しました」
 真次郎はまず、応対しそこねてしまったことを詫(わ)びた。
「いいえ、こちらこそ」
 金子も申し訳なさそうに応えた。
「お騒がせしてしまって、すみませんでした。日にちを間違えるなんて、自分でも信じられません。ちゃんと手帳にもひかえてあったのに」
 小さくため息をつき、あのう、と口ごもる。
「実はそのことで、お願いがあるんですけれども」
 ためらうような間をおいて、おずおずと言葉を継いだ。
「次回もまた、豊泉(ほうせん)先生にご担当いただくことはできませんか?」

		***

 居酒屋の細長い座敷の、ひとつだけ空いていた隅っこの席に、優三郎はおずおずと腰を下ろした。
 酒と料理が雑然と並べられた、これも細長いテーブルを囲んでいるのは、総勢二十人足らずだろうか。社員ばかりでアルバイトはおらず、ふだんの勤務中に比べて平均年齢が高めだ。
 送別会と歓迎会を兼ねた飲み会は、なかなか盛りあがっている。
 六時から二時間制の飲み放題つきコースを予約してあるので、できるだけ時間どおりに集まるようにと幹事から事前に言い渡されていた。にもかかわらず、優三郎が小一時間も遅刻してしまったのは、高速道路の事故で渋滞に巻きこまれたというトラックの到着が予定より大幅に遅れ、定時までに荷物の搬入を終えられなかったせいだ。
 もっと遅れてくれてもよかったのにな、と優三郎はフォークリフトを運転しながら思っていた。そうすれば、欠席する言い訳ができたのに。
 このまま帰ってしまいたいという誘惑に抗(あらが)いつつ、会場へ向かった。主任には何年にもわたって世話になっているのに、いくらなんでも不義理すぎる。行かずにすむ方法はないかと考えてしまう時点で、じゅうぶん薄情かもしれないが。
 塔のカードが予言していたのは主任との別れだったらしいと伝えると、
「よかったじゃない、その程度ですんで」
 と瑠奈は言った。その程度、と軽く片づけられるのは不服だったが、確かにそうともいえる。カフェの閉店に比べればダメージは大きいけれど、大学受験の失敗よりはましだろう。優三郎自身が異動になって、慣れない環境で一からやっていかねばならないわけでもない。
「しかも栄転なんでしょ? 逆に、主任のために喜んだげるとこじゃない?」
 もっともな意見だ。でも、置き去りにされるこっちの身としては、万歳三唱(ばんざいさんしょう)で見送る元気はない。
「おつかれ」
 腰を下ろした優三郎に、近くの数人から声がかかる。おつかれさまです、と優三郎が返すと、めいめい元の会話に戻っていく。
 本日の主役のひとりである主任は、テーブルの反対の端の、いわゆるお誕生日席に座っていた。ビールを片手に、楽しそうに談笑している。主任が持っていると、大ぶりのジョッキがさほど大きく見えない。
 優三郎は一応頭を下げてみた。主任は周りと熱心に話しこんでいて、気づきもしない。なんだ、といじけた気分で目をそらした。こんなことなら、無理して来なくたってよかったかもしれない。
「東(あずま)さん、なに飲みますか?」
 向かいの席に座っていた、優三郎と同年代くらいの女性社員が、飲み放題のリストを渡してくれた。事務職なので業務上の接点はないが、ときどき社内ですれ違うし、こういう飲み会でも何度か同席したことがあり、顔は知っている。ただし名前は出てこない。
「ありがとうございます」
 飲みものの選択肢はさほど多くなかった。空いた食器を片づけにきた店員をつかまえ、優三郎はウーロン茶を注文した。
「あ、ついでにビールのおかわりもひとつ下さい」
 リストを渡してくれた女性が空のジョッキをテーブルの隅にすべらせた。
「あたしはハイボール」
 と彼女の隣に座っている、ひと回りほど年上の先輩も便乗した。テーブルには、女性は彼女たちを含めて三人しかいない。あとはみんな男だ。
 もうひとり、主任のななめ前に座っている三人目の女性が、先月新しくやってきた後任である。同じ「主任」ではまぎらわしいので、目下のところは「土屋(つちや)さん」と名前で呼ばれている。
 今日をもって、主任から土屋への引継ぎが完了した。主任はいよいよ来週から正式に本社勤務となり、倉庫からは完全に離れることになる。

 優三郎のウーロン茶は、女性陣の酒と一緒に運ばれてきた。
「車ですか?」
 三人でかたちばかり乾杯しながら、質問された。
「いや、自転車で」
「ああ、自転車でも飲酒運転になるんですよね?」
「最近は厳しいみたいだもんね」
 女ふたりは気の毒そうに言う。
 自転車で来たから酒を飲めないというより、飲みたくないから自転車で来たわけで、気の毒がってもらうことはない。と正直に言うわけにもいかず、優三郎はあいまいに微笑(ほほえ)んでやり過ごす。よく見たら、ふたりとも顔がずいぶん赤い。けっこう飲んでいるのかもしれない。
 優三郎は酒があまり好きではない。アルコールをまったく受けつけない体質というわけではないが、少しでも飲みすぎると眠くなってしまうし、味そのものも特においしいとは思えない。飲み会の騒々しい雰囲気も苦手だ。妙にはしゃいだり、執拗(しつよう)にからんできたり、しらふのときと全然違うふるまいをする同僚も扱いに困る。たとえ優三郎に実害はなくても、他人の豹変ぶりを見ているだけで疲れてしまう。
「東さん、どうぞ」
 料理の少しずつ残った大皿が何枚か、優三郎のもとに回ってきた。どうも残飯めいていて食欲はそそられないけれど、優三郎はとりあえず箸を割った。
 冷めたからあげと、レタスだけになったシーザーサラダを小皿にとって、時間をかけて咀嚼(そしゃく)する。食べものが口に入っているという体でいれば、黙っていても不自然ではない。大人数の飲み会は、たいがいこうやって乗り切る。それでも気を遣って話しかけられることもあるので、できるだけ気配を消すのもコツだ。
 今日はすでに場があたたまっているせいもあってか、作戦はうまくいった。女性ふたりは優三郎が食べはじめたのを見届けた後、こちらをかまうでもなく額を寄せあって自分たちの会話を続けている。
「土屋さん、かっこいいですよね」
「未来の幹部候補生だもんね」
 土屋は入社以来ずっと本社で働いていたらしい。将来を見据え、一度は現場も経験させておこうという上の意向で、今回の異動が決まったという。
 まだ土屋が赴任してくる前から、そのうわさは社員の間に広まっていた。優三郎もロッカールームで着替えているときに、班の先輩たちが話しているのを耳にした。
「あれだろ、女性活躍推進プロジェクトとかいう」
 優三郎が入社した年からはじまった、全社的な取り組みだ。倉庫業界はこの点で遅れているそうで、時流をふまえて積極的に女性の登用を進めたい、と入社式でも聞かされた。活躍云々(うんぬん)の前に、倉庫の現場には女性の人数そのものが圧倒的に少ない。この飲み会の顔ぶれを見ても一目瞭然だ。優三郎の同期にも女子は何人かいたけれど、全員が本社に配属された。
「いいよなあ。男性活躍推進プロジェクトもやってくんないかね」
 並んだロッカーの向こうから聞こえてくる声音には、揶揄(やゆ)の響きがあった。
「てか、どんな女なんだろうな」
「どうせブスだよ」
 意地の悪い笑い声がはじけた。
 優三郎は足音をしのばせて、出口へと向かった。他人の容姿についてとやかく言いたがる輩(やから)は、男女を問わず、かかわりあいになりたくない。
 土屋が異動してきたら、その手の陰口はぱったりとやんだ。
「なんていうか、オーラが違いますよねえ」
 うまいことを言うな、と優三郎はフライドポテトをつまみながら思う。
 なんともいえない独特の存在感が、土屋にはある。年齢は三十代後半だとこれもうわさで聞いたが、二十代にも四十代にも見えなくはない。特に無愛想なわけでも高圧的なわけでもなく、むしろ物腰はやわらかいのに、目が合っただけでひとりでに背筋が伸びるような、ある種の迫力のようなものを漂わせている。
 その迫力に気圧(けお)されたのだろう、本人に会う前は斜(しゃ)に構えていた男性社員たちも、おとなしくなった。かといって歓迎するとまではいかず、お手並み拝見というのか、遠巻きに様子をうかがっている気配がある。
 しかし女性の立場からしたら、希望の星なのだろう。
「これで、うちらもちょっとは働きやすくなるかもしれませんよね」
「だね。この男社会をがんがん改革してほしい」
 ふたりでうなずきあっている。ビールもハイボールもほぼ空だ。
「まあでも、主任もいなくなったらいなくなったで、ちょっとさみしいかも」
 含みのある口ぶりがひっかかる。優三郎は手もとの小皿に目を落としたまま、思わず耳をそばだてた。
「さみしいですか? もういろいろ言われなくてすみますよ? 子どもがいなきゃ老後がつまんないとか、高齢出産は危ないから急いで産んどけとか」
「あれね。ほんと、よけいなお世話だよね。独身の間は、早く結婚しろしろってうるさかったし」
「わたしも言われてますよ。まじで勘弁してほしい、親戚のおじさんかよって感じ」
 どんどんヒートアップしてきた会話は、「お待たせしました」と威勢のいい店員の声で打ち切られた。
「わ、チャーハン。おいしそう」
「とりわけちゃいましょうか?」
 そこで、ふたりとも優三郎の存在を思い出したようだった。ちらっとこっちを見やり、微妙なやりとりを聞かれていたと悟ったようで、口調をあらためる。
「いや、でも、悪気はないんだよね?」
「ていうか善意ですよ。うちらの人生を心配してくれて」
「仕事に関しては公平だし。女だからどうこうって言わないもんね」
「ああ、そこ大事。資格の勉強してるときも、めっちゃ応援してくれましたよ」
 優三郎は目をふせて、よそってもらったチャーハンを黙々と口に運ぶ。
「前の所長なんかひどかったんだよ。これだから女は、とか平気で言っちゃって。あと、女のくせに、も口癖でね」
「うわあ最悪」
 いつだったか、「女みたいな顔」と主任に言われたことがあったなと思い出す。そんな話をしたら、この女たちにどんな「顔」をされてしまうだろう。
「おう、東。飲んでるか?」
 うわさされている気配を察してか、主任がこちらへ近づいてきた。女ふたりがすばやく目くばせをかわし、話題は唐突に海外ドラマに切り替わった。
「おれがいなくなっても、がんばれよ」
 主任が優三郎の傍(かたわ)らに膝をつき、肩をもんでくる。息が酒臭い。
「後は頼んだぞ」
 優三郎は後を頼まれるような器ではない。しかし、こうして酔っぱらっているときの主任に反論してもからまれるだけなので、「はあ」と優三郎は生返事でごまかした。指の力が強すぎて肩が痛い。

(つづく) 次回は2022年10月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 瀧羽麻子(たきわあさこ)

    2007年『うさぎパン』で、第2回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞し、デビュー。19年『たまねぎとはちみつ』で第66回産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。作品に『ふたり姉妹』『あなたのご希望の条件は』(いずれも祥伝社)、『女神のサラダ』『ありえないほどうるさいオルゴール店』『もどかしいほど静かなオルゴール店』『博士の長靴』など多数。