物語がつまった宝箱
祥伝社ウェブマガジン

menu
  • 4(1) 2022年11月1日更新
	**

 星月夜(ほしづきよ)に入店したとき、真次郎(しんじろう)はすでにかなり酔っていた。カウンターに座っている恭四郎(きょうしろう)の姿をみとめて、見間違いかと一瞬いぶかしんだほどだった。
「なんで恭四郎がいるんだよ?」
「それはこっちのせりふだよ」
 恭四郎はいやそうに答えた。
「会食じゃなかったの?」
「もう終わった」
「お父さんは?」
「轟木(とどろき)さんと二軒目に行った」
 なんで真ちゃんは行かないの、と重ねて問われるかと思ったけれど、恭四郎はなにかを察したかのように口をつぐんだ。勘のいい奴(やつ)なのだ。
 しかたがないので、真次郎は自分から言った。
「ふたりだけで話したいこともあるだろうから」
 帰れと言われたわけではない。轟木の行きつけの老舗(しにせ)料亭での食事は和(なご)やかに進んだ。会話もそれなりに盛りあがった。
 ただ、轟木を前にすると、真次郎はどうしても緊張する。
 萎縮(いしゅく)する、というべきだろうか。楽しそうに談笑する轟木と父に挟まれていると、おとなの宴席にひとりだけ子どもがまぎれこんでしまったような、場違いな気分になってくる。そんな疎外感を察してか、ふたりのほうからもなにかと真次郎に話しかけてくれるけれど、そうやって気を遣わせるのもかえって心苦しい。
「まあ、長いつきあいだもんね、あのふたりは」
 瑠奈(るな)がとりなすように言った。真次郎はカウンターに近づいて、恭四郎の隣に腰を下ろした。
 父も轟木も、特に難しいことを喋(しゃべ)っているわけではない。社会情勢や景気の動向から、共通の知人の近況まで、どうということのない世間話だ。
 それでも、「真次郎くんはどう思う?」と轟木から話を振られるたび、肩に力が入ってしまう。
 単なる雑談にすぎない。占いの腕前を問われているわけでもない。構えずに率直な意見なり所感なりをのべればいいはずなのだが、試されているようで落ち着かない。轟木の目には、日常的に他者に対して評価を下している人間に特有の、冷徹な光が宿っている。他意はなくとも、無意識に相手を――敵か味方かの単純な二択ならまだしも、人間の器(うつわ)のようなものまで――品定めしている感じがするのだ。真次郎が轟木を失望させでもしたら、父にまで恥をかかせることになりやしないかと気が重い。
「どうぞ」
 瑠奈がおしぼりを渡してくれた。ひんやりと冷たい。まず手を、それから顔も、まんべんなく拭く。
「うわ、おやじくさ」
 恭四郎にはこれ見よがしにいやな顔をされたけれど、汗ばんでいた肌がさっぱりして人心地がついた。
 こんな天気のわりに、店はなかなか繁盛している。
 ボックス席はふたつとも埋まり、月子(つきこ)ママが客たちと歓談している。そのうちカラオケがはじまりそうな気配だ。互いに顔見知りの客も多いので、店中で大合唱になることもままある。
「ちょっと真ちゃん、おやじくさいだけじゃなくて、酒くさくない?」
 眉間(みけん)にしわを寄せたまま、恭四郎が鼻をつまんでみせた。
「そうか?」
 しかたない。父も轟木もよく飲むのだ。瑠奈もそれを承知しているので、訳知り顔でうなずいた。
「お年寄りに負けるわけにはいかないもんねえ」
「お父さんと張りあうことないのに」
 恭四郎にあきれられて、真次郎はどきりとした。酒量のことを言っているのだとわかっているのに、なんだか意味深に聞こえてしまった。
 父と張りあうつもりはない。
 父のことは尊敬している。願わくは、あんなふうに客から信頼され慕われる占い師になりたいとも思う。一方で、しゃにむに父を追いかけたらいいというものではないことも、理解している。
 真次郎は営業活動と勉強を兼ねて、大規模な占い関連のイベントに時折参加する。会場に集まってくる占い師たちは、まさに千差万別だ。百人いれば、百通りの占いがあるといっても過言ではない。めいめいが己のやりかたで占い、その見立てを、これまた己のやりかたで客に伝える。他人と競うよりも、自分自身を磨いていかなければならない。おれにはおれのやりかたがあるし、真次郎には真次郎のやりかたがある、と父自身もよく言っている。
 そうはいっても、父は物理的にも精神的にも身近なので、ついつい比べてしまいがちなのだった。学ぶべきところも多い。とはいえ、気にしすぎて自分を見失ってしまっては、元も子もない。
 金子(かねこ)の件だって、もう気持ちの整理はついている。

 そういえば、あの直後にも、真次郎はひとりでここに飲みに来たのだった。ぱあっと酒でも飲んで、くさくさした気分を晴らしたかった。
 飲んでいるうちに、たまたま他に客がいなかったせいもあって、瑠奈に愚痴(ぐち)をこぼしてしまった。
「わかる、わかる」
 瑠奈は意外なほど親身になって、慰(なぐさ)めてくれた。
「うちにもときどきいるよ。月子ママがいないんだったら今日はやめとくかな、って帰っちゃうお客さん」
「ひどいな」
 真次郎は同情した。
「まあね。だけど、どうしようもないじゃん? お母さんはお母さんで、結局おばあちゃんにはかなわないって泣いてたこともあったしね」
 瑠奈の祖母が体調をくずしてしまい、もっぱら月子ママが星月夜を切り回すようになった当初、苦労している様子だったのは真次郎もうっすら覚えがある。父も何度か相談に乗っていたようだった。
「うちらはうちらなりに、がんばるしかないよ。古いお客さんをひきとめられなくても、その分、新しいお客さんに気に入ってもらえばいい」
「だな」
「やば、なんか語っちゃった。恥(は)ずいんだけど」
 瑠奈は顔を赤らめた。
「いや、元気出たよ。ありがとう」
 真次郎は素直に礼を言った。十代の頃は素行がいいとはいえず、学校でも問題児扱いされていた瑠奈だけれど、根は存外まじめなのだ。派手な身なりと厚化粧で損をしている気がする。
「やめてって。よけいに恥ずい」
 ていうか、と瑠奈はふざけた調子でまぜ返した。
「うちらって、めっちゃ親孝行じゃない?」
「親孝行?」
 意表をつかれ、真次郎は繰り返した。孝行どころか、父の足をひっぱりやしないかと日々ひやひやしている。
「だって、自分の商売を子どもが受け継いでくれるって、親的にはうれしくない? うちのお母さんもだし、真ちゃんとこのおじさんだって」
 瑠奈はもっともらしく断じ、不満げにつけ加えた。
「そのわりに文句が多すぎるけどね。もっと感謝してくれてもいいと思うんだけど」
 真次郎のほうは、父から文句というほどの文句を言われたことがない。では感謝されているのかといえば、それもちょっとしっくりこない。
 占い師になりたいと真次郎が切り出したとき、父は喜ぶというよりびっくりしているようだった。
 真次郎にしてみれば、自然ななりゆきだった。
 入院中、父に運勢を占ってもらったのをきっかけに、占いそのものにも興味がわいた。折しも時間はあり余っていた。父に頼んで持ってきてもらった入門書を読みふけり、わからないところがあればどんどん質問をぶつけた。単調でたいくつだった毎日が、にわかに充実した。
 真次郎の質問に、父は毎回丁寧に答えてくれたものの、後を継いでもらおうという発想はなかったはずだ。なんでもいいから、少しでも真次郎の気をまぎらわせてやりたい一心で、話し相手になってくれていたのだろう。あんなにも打ちこんでいた野球を断念せざるをえなかった息子のことが、親として不憫(ふびん)だったに違いない。
 ともあれ、退院する頃には、真次郎は占いの世界にすっかり魅了されていた。
 野球もそうだったが、元来ひとつのことにのめりこみやすいたちである。高校生活に復帰してからも、その熱は冷めなかった。ひまさえあれば父の蔵書を読みあさった。まもなく進路を考えなければならない時期を迎えて、大学には行かず父のもとで修業を積むことに決めた。
 学べば学ぶほど、占いは奥が深かった。
 父いわく、それは当然のことだった。古くから、占いは社会や政治と密接に結びついていた。西洋でも東洋でも、当代きっての才気あふれる賢人たちがこぞって研究し、発展させてきた。言ってみれば、その時代の最高峰ともいうべき知恵が結集して、洗練された体系が築きあげられたのだ。
 今でこそ、占いは非科学的だと謗(そし)る向きもある。しかしながら、かつて占いと科学は相反するものとはみなされていなかった。どちらも、この複雑きわまりない世界のしくみを読み解くための手段だった。
「でも、真ちゃんはえらいと思う」
 瑠奈にしんみりと言われて、真次郎は面食らった。
「なんで?」
「あたしはひとりっ子だから、継ぐっきゃないじゃん? だけど真ちゃんとこは四人もいるでしょ。自分から引き受けて、立派じゃない?」
「別にそんな、たいしたもんじゃないよ」
 瑠奈の言うような、責任感だか使命感だかに突き動かされたわけではなかった。最初はただ、占いというものの魅力に惹(ひ)きつけられただけだった。東泉堂(とうせんどう)を継ぎたいと明確に意識したのは、しばらく見習いとして働いてみた後だ。
「もしあたしが四人姉妹の二番目だったら、さっさと逃げ出してたかも」
「どうかな」
 真次郎は首をすくめた。
「どんな長女かにもよるんじゃないか?」

 二十歳(はたち)を迎えたのを機に、この仕事を続けようと真次郎はあらためて決意した。父とも今後のことを話しあった。
 その旨を兄にも報告したほうがいいかもしれないと思いいたったのも、このときだ。一応、腐っても長男である。筋は通しておくべきだろう。
 真次郎より八つ年上の朔太郎(さくたろう)は、大学進学を機に家を出て以来、九州に住んでいる。博士課程を修了した後も、研究員として大学に残った。研究一筋で、家を継ぐ意思どころか関心すらなさそうだけれど、黙っているのもおかしい。年齢差に加え、長らく離れて暮らしていることもあって、親密な兄弟とはいえないが、さりとて仲たがいしているわけでもない。
 急を要する話ではないし、対面で伝えたかった。次に会ったら話す心づもりでいたところ、結果的に半年ほど待つことになった。朔太郎はめったに顔を見せない。年に一度帰省すればいいほうで、しかも日帰りか、せいぜい一泊しかしない。それも、家ではなく空港近くのホテルに泊まる。
 年明け早々、実家に顔を出した兄を真次郎は自室にひっぱっていって、これからの展望と抱負を語った。
 朔太郎がどう出るか、内心では少々楽しみでもあった。ふだんは表情が乏(とぼ)しく、なにを考えているのか読みづらい兄も、今回ばかりはそれなりの反応を見せるだろう。曲がりなりにも長男として、また家族の一員として、家業の行方がまったく気にならないことはないはずだ。
 朔太郎に後を継ぐつもりがない以上は、悪い話ではないに違いない。弟に責任を背負わせてしまったようで申し訳ないと恐縮するだろうか。それとも、肩の荷が下りたと安堵(あんど)するだろうか。いずれにせよ、反対される心配はなかった。
 朔太郎は静かに聞いていた。話が終わるまで、一度も口を挟まなかった。
 真次郎の予想に反し、朔太郎は驚くことも、謝ることも、安堵の息をついてみせることもなかった。
「そうか」
 と、相変わらずの無表情で言った。
「真次郎の好きにしたらいい」
 真次郎は続きを待った。
 二十歳になったばかりの弟が、家を支えていくと決意表明したのだ。いくら淡泊な兄でも、激励なりはなむけなり、なにかしら言葉をかけてくれるだろう。たとえば「がんばれ」とか、「しっかりやれよ」とか、「父さんと仲よくな」とか。
 ところが、真次郎の期待はまたもや裏切られた。
 話はすんだとばかりに、朔太郎は踵(きびす)を返して部屋を出ていこうとした。真次郎はとっさに呼びとめた。
「ちょっと待ってよ」
 朔太郎が大儀そうに振り向いた。
「まだなにかあるのか?」
「そうじゃないけど……兄貴のほうこそ、なんかないの?」
「なんか?」
 目をすがめられると、こっちのほうが間違っているような気がしてくる。なんとか気を取り直して、真次郎は答えた。
「感想とか、意見とか」
「別に」
 別に、というのは朔太郎の口癖である。
 真次郎が物心ついた頃から、朔太郎はおそろしく無口だった。語彙(ごい)は「うん」か「ううん」か「別に」の三種類にほぼ限られていて、真次郎が話しかけるたびに、面倒くさそうにそのいずれかを口にした。両親や周りのおとなたちも、同じようにそっけなくあしらわれていた。
 子どもらしからぬ不遜(ふそん)な態度におとなは鼻白んだだろうが、幼い真次郎はさほど違和感を覚えなかった。八つ上の兄は、ほとんどおとなと同じようなものだったし、そういうものだと受け入れていた。我こそはと自分のことばかりまくしたててくる同年代の友達と比べれば、興味なさげとはいえこっちの話をじゃましない朔太郎は、聞き役としてむしろ好ましかった。話をしてもらうことよりも、聞いてもらうことのほうがはるかに大切だったのだ。子どもというのは概してそんなものだろう。
 そう考えると、やはり朔太郎はずいぶん風変わりな子どもだった。
 内気だったり、恥ずかしがり屋だったり、うまく喋れない子どもならいるだろう。優三郎(ゆうざぶろう)なんかはそうだった。というか、今もその気がある。でも朔太郎の場合は、コミュニケーションの得手不得手とはまた別の次元で、他者とコミュニケーションをとるという行為自体の必要性をはなから感じていない様子だった。
「わかった。もういい」
 真次郎はあきらめた。別に、と言い放たれてしまえば、そこで会話はおしまいだ。もう子どもではないのだから、かまわず喋り続ける気にはなれない。
 しかしこのときは、朔太郎はもうひとことだけ言い添えた。
「おれには関係ないから」

	****

 真次郎はカウンターにつっぷして寝てしまった。
 関係ないふりをして帰ってしまいたい衝動にかられつつ、星月夜に迷惑をかけるのも気がひけて、恭四郎は兄の肩を乱暴に揺さぶった。
「真ちゃん、起きてよ」
 真次郎はうっとうしそうに恭四郎の手を払いのけ、むにゃむにゃ言っている。瑠奈が見かねたのか、カウンター越しに声をかけてくれた。
「そっとしといたげれば? 疲れてるんでしょ」
「ごめんな」
「いいのいいの、どうせ今日はもうお客さんも来なさそうだし。ひと眠りしたら元気になるかもよ」
 お言葉に甘えることにして、恭四郎はカウンターに向き直った。ハイボールを頼む。今晩の代金は、全部まとめて真次郎に支払わせよう。
 酔客のがなりたてる調子っぱずれのカラオケが響きわたるこの店内で寝落ちするなんて、瑠奈の言うとおり、そうとう疲れているのは間違いないだろう。柄(がら)にもなくしょげているふうでもあった。
「仕事でなんかやらかしたのかな?」
「さあ」
 瑠奈が肩をすくめる。どちらからともなく、安らかな真次郎の寝顔を見下ろした。いびきまでかいている。
「まあ、こんだけ眠れりゃ大丈夫か」
 特段やつれている様子にも見受けられない。豪勢なごちそうを食べてきたばかりだというのに、食欲も旺盛だった。それにしても酒は飲みすぎだが。
 真次郎は基本的に健やかだ。
 むろん人並みに悩みはあるのだろうが、自力で対処できそうなので、周りはさほど不安にならない。優三郎みたいに危なっかしくて、傍(はた)で見ていてはらはらしてしまうというようなことはまずない。これまで真次郎に関して気をもんだといえば、高校時代に試合中のけがで野球をあきらめなくてはならなくなったときくらいだ。あれはさすがに家族中が心配したけれど、本人は予想外に早く立ち直っていた。
 そういう意味では、四兄弟のうち――といっても、十五歳も年上の長兄のことはそこまでよく知らないが――最も恭四郎と近いのはこの次兄かもしれない。
 性格はあまり似ていない。恭四郎は真次郎ほど馬鹿正直ではない。暑苦しくもないし、頭が固くもない。ただ、なんというか、世界との向きあいかたのようなものが、重なっている気がする。恭四郎も、ままならないことについてくよくよ思いわずらうくらいなら、潔(いさぎよ)く前を向いて新たに道を切りひらいていきたい。
 それでたいがい、うまくいった。ごく一部の例外を除けば。

 小学四年生のとき、クラスの女子に誘われて、学校の帰りに家へ遊びに行ったことがある。
 その子には中三の姉がいた。姉妹は仲がいいようで、恭四郎たちにまじっておやつを食べながら、あれこれと話しかけてきた。妹の連れて来たボーイフレンドに興味をそそられたのかもしれない。
 ただし途中から、興味の方向性は少しずれた。恭四郎が雑談ついでに、中三の兄がいると話したからだ。
「うそ、まじで? きみ、東(あずま)優三郎の弟なんだ?」
 友達の姉は頓狂(とんきょう)な声を上げた。彼女と優三郎は同じ公立中学に通っていたのだ。じろじろと恭四郎の顔を観察して、首をひねってみせた。
「ちょっと似てるかな?」
「あんま似てません」
 恭四郎はかちんときて言い返した。
「東くんのお兄ちゃんって、そんなに有名なの?」
 妹が姉にたずねた。
「有名ってか、目立つから。ファンクラブまであるし」
「ファンクラブ?」
 それは恭四郎も知らなかった。
「ああ、でも最近解散したらしい。詳しくは知らないけど」
 瑠奈がいやがったのかもね、と姉はひとりごとのようにつぶやいた。思わぬ名前が飛び出してきて、恭四郎は硬直した。
「それ、彼女?」
 妹がわくわくした顔つきで身を乗り出した。女子というのは、年齢を問わずこの手の話に目がない。
「うん。その子とつきあいはじめてから、みんな遠慮してるっぽいんだよね。ちょっと不良っぽいっていうか、怒らせたらこわそうな子でさ……」
 姉は中途半端に言葉を切った。恭四郎のひきつった表情から、なにかしら察したのかもしれない。
「もしかして弟くん、会ったことあったりとかする?」
 その後、姉妹となにを話したかは覚えていない。
 覚えているのは、帰宅してからのことだ。うわさのふたりがリビングにそろっていた。ソファに並んで座り、のんきにテレビを見ていた。
 恭四郎はふたりの正面に立った。
「なんなの? 見えないよ」
 瑠奈に文句を言われたのを無視して、切り出した。
「優ちゃんと瑠奈ちゃん、つきあってるんだって?」
 ぽかんとしているふたりに、一息にたたみかけた。
「友達のお姉ちゃんから聞いたよ。優ちゃんたちと同じ中学なんだって」
 瑠奈と優三郎がぎょっとしたように顔を見あわせた。
「実は、そうなんだ」
 と答えたのは、瑠奈だった。
 あの瞬間を、恭四郎は今でもよく覚えている。瑠奈が腹を括(くく)ったように恭四郎をまっすぐに見据えていたことも、その隣で優三郎がきまり悪そうにうつむいていたことも、胸を貫いた得体の知れない痛みも、全部ありありと思い出せる。

 真次郎が目を覚ましたときには、日付が変わろうとしていた。
「あれ? おれ、寝ちゃってた?」
 むっくりと顔を上げた真次郎は、ねぼけまなこできょろきょろしている。
「いびきかいてたよ」
「まじ? やっべ」
 真次郎が一時間近くも爆睡していた間に、ボックス席の客たちはとうにひきあげていった。月子ママも一足先に帰ってしまい、店内には恭四郎たち兄弟と瑠奈の三人だけが残っている。
「ごめんな、遅くまで」
 真次郎は瑠奈に平謝りした。頭を下げた拍子に額をがつんとカウンターにぶつけ、「いてっ」と悲鳴を上げる。騒々しいことこの上ない。
 会計をすませ、店を後にした。瑠奈もおもてまで見送りに出てくれた。
「兄弟水入らずで飲むってのも、いいもんだな」
 真次郎は上機嫌で言う。よく寝たせいか、元気そうだ。
「恭四郎も二十歳になったことだし、ちょいちょいやろうや。そうだ、次は優三郎も誘ってみるか」
 恭四郎は瑠奈のほうをうかがった。瑠奈もこちらを見ていた。
「気にしてくれて、ありがとね」
 にっこりして言う。
「大丈夫だから。心配しないで」
 また来てね、と手を振られて、恭四郎と真次郎は並んで夜道を歩き出した。雨はやみ、あちこちに水たまりができている。そこに飲食店のネオンが反射して、うらぶれた路地に幻想的な趣(おもむき)を添えていた。
 数分で県道につきあたった。赤信号で立ちどまったところで、真次郎がだしぬけに口火を切った。
「なんのことだ、あれ?」
 藪(やぶ)から棒に聞かれても、こっちこそ「なんのこと」だかわからない。恭四郎は戸惑いつつ問い返した。
「え、なに?」
「さっき、瑠奈が礼を言ってたよな? なんか困ってたりするのか?」
 涼しい夜風で酔いが冷め、頭が回り出したのだろうか。
「実は、優ちゃんがちょっと変でさ」
 謎の女のことを、恭四郎は真次郎にざっと説明した。
「瑠奈ちゃんが言うには、職場の上司らしいんだけど。でも、ただの上司じゃなさそうだったんだよ」
 勢いこんでそこまで話したところで、真次郎が考えこむように押し黙っていることに気づいた。
 まずかっただろうか、と遅ればせながらひやりとする。真次郎は浮気が許せないタイプなのだ。瑠奈のために憤激してもおかしくない。
「本人は、そういうんじゃないって言い張ってたけどね」
 公平を期すためにつけ加えてみた。
「ふうん。気になるな」
 真次郎が腕組みしてうなった。声にも表情にも、怒りは感じられない。むしろ、好奇心をくすぐられているようだ。
「ま、いいんじゃないか。恋愛がらみかどうかはともかく、上司とは仲よくするに越したことないだろ」
 平然と言われて、恭四郎は拍子抜けしてしまった。
「え? いいの?」
「だって、おれらが口出しすることじゃなくないか?」
「そうだけど」
「あっ、でも、年上って言ったよな? もしかして結婚してるとか?」
 それはやばいな、と眉根を寄せる。
「いや、そこまでは知らない」
 独身どうしだったらかまわないと言いたいのか。それなら不倫ではない。でも、浮気は浮気だ。瑠奈はどうなる。
「どうなんだろうな。優三郎は女難の相があるしな」
「ジョナン?」
「女に難しいで、女難だよ。女がらみで苦労するってこと」
「優ちゃんは女運が悪いってこと?」
 恭四郎は眉をひそめた。まるで瑠奈が悪い女であるかのような言いぐさは、聞き捨てならない。
「いわゆる女運とはちょっと違うかな。いや、かぶってるのか?」
 どうもはっきりしない。本人が望んでもいないのに女が寄ってきてしまうというような意味あいだろうか。それは確かに災難といえるかもしれない。
「とにかく、うまくいくといいな。優三郎には幸せになってほしいよ」
 真次郎がとんでもないことを言い出したので、恭四郎は耳を疑った。
「ちょっと待ってよ、瑠奈ちゃんはどうなるの?」
「どうなるって、普通に喜ぶんじゃないか?」
「喜ぶ?」
「だって、友達だろ」
 足がとまってしまった恭四郎を置いて、真次郎はすたすた歩いていく。
「単なる友達を超えてるか。親友だよな、あのふたりは。そう考えたら、ちょっとさびしかったりもするのかもな」
 したり顔で、うんうんとうなずいている。恭四郎は真次郎を追いかけて、横に並び直した。
「あのふたり、つきあってるんじゃないの?」
 おそるおそる、たずねた。
「へっ?」
 真次郎は一瞬目をまるくして、それから笑い出した。
「そうか、恭四郎は知らなかったのか」
 恭四郎は今度こそ絶句した。

	***

「優ちゃんと瑠奈ちゃんって、つきあってなかったの?」
 前置きもなくたずねられて、優三郎は絶句した。
 恭四郎は深刻なおももちで部屋へやってきて、話があると切り出した。またなにか厄介(やっかい)なことが起きて、どう対処すべきかをタロットで占ってほしいのかと思ったが、優三郎の予想とは違う意味で「厄介」な話が持ちこまれた模様だった。
「つきあってないよ」
 正直に答えてから、
「言ってなかったっけ?」
 と、つけ足した。
「聞いてない」
 恭四郎は言下に否定し、皮肉っぽく言い添えた。
「つきあってる、って言われたことはあったけどね。大昔に」
 そうだった。
「あれは、いろいろ事情があって」
 優三郎は弁解した。知ってる、ともどかしげにさえぎられる。
「さっき、真ちゃんに全部聞いた」
 今晩ふたりが星月夜に行ったことは、優三郎も知っていた。つい十分ほど前に、今お見送りしたとこ、と瑠奈からメッセージが届いていたからだ。
 それを読んだときにも抱いた疑問を、優三郎は口にしてみた。
「真ちゃんはお客さんと会食じゃなかったっけ?」
「一次会が終わった後で来たんだよ」
「星月夜で待ちあわせしてたの?」
「いや、たまたま鉢あわせしただけ」
 優三郎は恭四郎たちより小一時間ばかり早く帰宅し、シャワーを浴びて少し人心地がついたところだった。
 夕食は外ですませてきた。残業を終えて帰ろうとしていたら、ちょうど土屋(つちや)も出るところで、ついでだから家まで送ると言われたのだった。
 これでもう何度目になるだろう。
 あの嵐の夜以来、土屋と帰りの時間が重なるたびに、車に乗って行くようにとすすめられるようになった。晴れていれば自転車があるので、穏便に断ることができるが、雨だとそうもいかない。何度かやりとりを繰り返すうちに、土屋もそれをのみこんだようで、声をかけてくるのは雨の日だけになった。
 一度、朝は晴れていたのに夕方から降り出した日があった。雨の中を自転車で帰ろうとしていたら、土屋に呼びとめられた。
「今日は自転車なので」
 優三郎は断った。以前から、小雨程度ならレインコートを着て乗ることもあった。そのときは小雨といわず中雨くらいだったけれど、がんばればいけるんじゃないかと踏んだのだ。多少濡れても、家に帰ってすぐ着替えればいい。
「ええっ、こんなに降ってるのに?」
 土屋は眉をひそめた。
「危ないから、やめたほうがいいって。視界も悪いし、すべりやすいし」
 例によって有無を言わさぬ勢いで、食いさがる。
「これで東くんに万が一なにかあったら、責任感じちゃうよ」
「でも」
 それでも優三郎がぐずぐずしていたら、とどめを刺された。
「もしかして、迷惑?」
 軽い口ぶりとはうらはらに、目は笑っていなかった。
「いえ、まさか」
 優三郎は観念するほかなかった。それ以外に、なんと答えようがあるだろう。
 今回はじめて、途中でファミレスに寄って食事をした。もっといいお店に行きたいけど、お酒が飲めないんじゃねえ、と土屋は残念がっていた。もちろん優三郎もウーロン茶で通した。
 しかし恭四郎のほうは、けっこう酒が回っているようだ。顔がほんのりと赤らみ、目も据わっている。
「てか、真ちゃんのこととか、どうでもいいから」
 いらだたしげに、話を戻す。
「ねえ、なんで教えてくれなかったの? ひどくない?」
「いや、もう知ってるとばっかり思ってたから」
 まんざら、うそでもない。
 ひょんなきっかけで真次郎に真相を知られてしまったのは、かれこれ十年近くも前のことだ。事の次第は説明したものの、厳重に口どめしたわけではなかったし、そのうち恭四郎にも伝わるだろうと考えていたのは事実である。
 ただ、こんなにも時間がかかるとは予想外だった。
「悪かったよ。そんなに怒らないで」
 実のところ、ひょっとしたら恭四郎はまだ知らないんじゃないかと感じたことは、これまでにも何度かあった。
 しかしながら、弟を相手につきあうだのつきあわないだのというような話をするのも気が進まない。やむをえなかったとはいえ、一度うそをついてしまった手前、蒸し返すのもきまりが悪かった。
 そこで、とりあえず静観することにしたのだった。
 こちらから訂正するまでもなく、いずれ真次郎が話すだろう。それで恭四郎が文句を言ってきたら、謝ればいい。
 つまり、静観というより放置である。困ったときに、こうして消極的にやり過ごそうとしがちなのが、優三郎のよくないところなのだろう。
 そうしてとうとう、十年越しで謝罪の機会がめぐってきたわけだ。
「怒ってないけどさ」
 兄の誠意は伝わったのか、恭四郎がいくらか声を和(やわ)らげた。
「だけど、水くさいじゃん? 真ちゃんが知ってておれが知らなかったってのも、なんか腹立つしさあ」
 冗談っぽく口をとがらせている。
「つうか、おれのほうもごめん。勝手に早とちりして、やいやい言っちゃって」
 どうやら機嫌は持ち直してきたようだ。優三郎はほっとして、「いや、そんな」と首を横に振った。
「そもそも僕が悪いんだし」
「違うって、この話じゃなくて」
 恭四郎はにやりとした。
「こないだの、あの車のこと。もしや浮気? とか疑っちゃって。はは、お前が言うなって感じだね?」
 自分で言って自分で笑い、ふとまじめな顔になる。
「逆に、がんばってよ。もう口出しとかしないから。優ちゃんには幸せになってほしいって、真ちゃんも言ってたよ」
「だから、ただの上司なんだって」
「いいから、いいから」
 ちっともよくないのだが、恭四郎は聞いていない。
「おれらも陰ながら応援してるからね!」
 嬉々(きき)として言い渡され、優三郎は反論するのをあきらめた。この調子では、なにを言ってもむだだろう。
「ちなみに、相手は既婚者じゃないよね? 真ちゃんがそこだけちょっと気にしてたけど」
 土屋は独身だ。目下のところ恋人もいないという。
 土屋の身の上について、今や優三郎はかなり詳しくなってしまった。毎回、優三郎が助手席のドアを閉めるやいなや、土屋が饒舌(じょうぜつ)に語り出すからだ。
 話題はもっぱら、自分自身についてだ。はじめのうちは仕事がらみの話が多かったけれど、しだいに私生活にまで踏みこむようになってきた。
 恭四郎は隙あらば色恋に持ちこみたがるが、そういう感じではない。現に土屋自身が、忙しすぎて恋愛しているひまもないとこぼしていた。おそらく、新しい配属先でプレッシャーを抱え、鬱憤(うっぷん)を吐き出せる相手を求めているだけなのだろう。
 ひとり暮らしだというし、職場には早々になじんだとはいえ、まだ日は浅い。気を許せる仲間を作るには、それなりに時間がかかる。大勢の部下を束ねる立場としては、気軽に腹を割って話すというわけにもいかないのだろう。
「弱みはなるべく見せたくないの。なめられるもの」
 と、本人も言っていた。
「こんなこと話せるの、東くんだけだよ」
 どうして優三郎が選ばれたのかは、いまだに謎だ。
 瑠奈は「人柄を見こまれたんじゃないの?」とからかうけれど、それはないだろう。前主任の評価がきっかけで、土屋は優三郎に興味を持ったようだが、初日に話してみて頼りにならないことはわかったはずだ。その証拠に、仕事にまつわる意見や助言を求められることはあれ以降ない。
 いずれにしても、上司をぞんざいにはあしらえない。こちらから頼んだわけではないにせよ、家まで送り届けてもらったり食事をごちそうになったりしている以上、話し相手くらいはつとめるのが礼儀だろうという気もする。
 というわけで、さしあたり様子を見るしかなさそうだ。
「独身か。じゃあ問題ないな」
 恭四郎はほがらかに結論づけた。
「おやすみ」
 言い残して部屋を出ていく。どっと疲れを覚えて、優三郎は畳の上にあおむけに寝転がった。
 問題ない、とまでは言いきれない。でも、致命的な問題はない。ないはずだと思う。どこかで会社の人間に目撃されてしまうんじゃないか、相変わらず車に乗ると決まってぐあいが悪くなるのはどうしたものか、いったいいつまでこの状況が続くのか、気がかりを数えあげるときりがないけれども。

(つづく) 次回は2022年11月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 瀧羽麻子(たきわあさこ)

    2007年『うさぎパン』で、第2回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞し、デビュー。19年『たまねぎとはちみつ』で第66回産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。作品に『ふたり姉妹』『あなたのご希望の条件は』(いずれも祥伝社)、『女神のサラダ』『ありえないほどうるさいオルゴール店』『もどかしいほど静かなオルゴール店』『博士の長靴』など多数。