物語がつまった宝箱
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  • 第一話 買い過ぎた家 2024年8月1日更新
   1

「どっこいしよ」と呟(つぶや)いて安達(あだち)タカ子は腰を上げた。
 壁のモニターを覗(のぞ)く。
 あら。こういう感じの人なの? ちょっと想像していたのとは違うわね。もっとなんていうか……まぁ、外見をどうこう言ってもしょうがないわね。
 タカ子は通話ボタンを押した。「はい」
 モニターの中の女性が口を開く。「こんにちは。整理収納アドバイザーの中村真穂(なかむらまほ)でございます」
 タカ子は「お待ちください」と言ってから玄関に向かう。
 ダイニングから玄関までの廊下には、ペットボトルが入った段ボールや米、新聞紙の束などが置かれていて、一人通るのがやっとの状態になっていた。
 転ばないよう注意深く足を進める。
 七十一歳のタカ子は、去年から左膝が少し動かし難(にく)くなっている。
 灯(あか)りのスイッチを点(つ)けてから、三和土(たたき)のサンダルに足を入れた。
 玄関ドアを開けると、二百パーセントの笑みを顔に貼り付けた真穂がいた。
 真穂が頭を下げた。「こんにちは。お電話を頂戴(ちょうだい)しまして有り難うございました。本日はどうぞ宜(よろ)しくお願い致します」
「見積もりですよ。今日お願いするのは見積もりだけですからね。お願いするかどうかはまだ決めていませんので」と念を押した。
「承知しております。本日は整理を希望されていらっしゃる場所を拝見しまして、作業料金の見積もりを出させて頂(いただ)くだけでございます。ご安心くださいませ」
 タカ子は「お上がりください」と言って真穂を招き入れた。
 五十代ぐらいに見える真穂は、かなり明るい栗色に髪を染めていて、カチューシャをしていた。そして肩より少し長い髪を綺麗(きれい)に内巻きにしている。白と青のストライプ柄のブラウスの胸には、フリルがたくさん付いていた。それに黒いフレアスカートを合わせていた。
 いくら見積もりだけとはいえ、そんな高級レストランに食事に行くような格好をする人は、ちょっと常識に欠けているのかも。この人――大丈夫かしら。常識のない人に頼んだりしたら、片付けどころか、家中がとんでもないことになったりしない? 不安だわ。用心しないと。
 先週、郵便受けにチラシが入っていた。〈整理と収納はプロに任せちゃいましょう〉と大きな文字で書かれたそれには、整理前と整理後の写真が載っていた。心魅(ひ)かれたが迷った。本当にその写真のように片付くのか分からなかったし、見積もりは無料と書いてはあったが、作業料金は物凄(ものすご)く高いかもしれないから。一人ではどうにもならないのだから、頼むしかないとの結論に達するまでに一週間掛かった。そしてチラシに書かれていた携帯の番号に、電話をしたのだった。
 真穂がまず上の部屋から見たいと言うので、階段を上った。
 タカ子は一番手前のドアを開けて説明をする。「ここは息子が使っていた部屋なんですが、今は物置き場になっています。冬用の布団とか、炬燵(こたつ)とかです。えっ? 押入れの中ですか? 中には……息子の物があるんじゃないかしら。小さい頃に描いた絵とか、通知表とか、そういうものが。しばらく覗いていないからはっきりしませんけれど。ここにある物をどかさないと、襖(ふすま)が開けられないでしょ、だから。それはゴミ袋。安くなっている時にまとめ買いするんですよ。腐る物じゃないから」
 真穂はタカ子に断ってから、スマホで部屋の写真を撮り始める。
 そして聞いた。「今回お電話をくださったのは、なにかきっかけがあったのでしょうか?」
「チラシを見たからですよ。やらなきゃと強く思っている時だったから、目に留まったんでしょう」
「そうでしたか。お電話を頂きまして有り難うございました。タカ子様はお家がどんな風になるのを、希望されていらっしゃいますか?」
「どんな風って……誰が見ても、片付いていると思って貰(もら)えるようにしたいです」
「誰が見ても……どなたか特に見せたい方がいらっしゃるのでしょうか?」
 タカ子は少し迷ってから答えた。「息子夫婦に。私はここで一人でちゃんと生活が出来ていると、思わせたいんです。少し物が多くて、片付けがちょっと追い付いていないだけなのに、息子夫婦は私をダメ人間扱いするんです。それで老人ホームに入所したらなんて言ってくるんです」
 哀(かな)しさと口惜(くや)しさが一気に蘇(よみがえ)る。
 息子は言った。「家をこんな酷(ひど)い状態にしてしまうっていうのは、もう一人じゃ暮らせないってことだよ。老人ホームに行く時期になったんじゃないか?」と。
 老人ホームで暮らすなんて絶対に嫌。抵抗しなくては。私はこれまで希望を口にしても、聞いて貰えないことが多かった。親も、夫も、そして今では息子までもが、私の気持ちを無視する。でもこのことだけは絶対に私の意志を通さなくては。
 真穂が言う。「それではご子息様とその奥様に、タカ子様がここで一人で暮らせることを納得させるのが、目的なんですね?」
 頷(うなず)く。「だからプロの人に手伝って貰うのは内緒なの」
 真穂は真面目な顔で「承知しました」と答えた。
 廊下の一番奥の部屋のドアを開けた。
 タカ子は説明する。「ここは主人の書斎でした。五年前に亡くなったんですが、主人が使っていた本や資料がたくさんあって、私にはどうやって片付けたらいいのか分からなくて、そのままにしてたんです。そのうちに置き場所に困った物なんかを、ここに運ぶようになってしまって、ここも物が溢(あふ)れる部屋になってしまったんです」
「失礼します」と言って真穂が中に足を踏み入れた。そしてぐるりと部屋を見回す。
 左右の本棚にはたくさんの本が並んでいて、デスクの上にも本が積み重なっている。押入れの前にはプラスチック製のワゴンが三台あり、その中央のキャスターの一つが壊れていて傾(かし)いでいた。そこには様々な大きさの小箱が載っていた。ドアの横には来客用の座布団があり、その上には大きな風呂敷包みが積んである。
 真穂が言った。「本がたくさんありますね」
「古典文学を研究していた人でしたから文献が色々と」
「貴重な本なんでしょうね」
「私には分かりませんが、そうかもしれませんね」
「旦那様とはどこで知り合われたのですか?」
 そんなこと……どうして聞いてくるのかしら。別に聞かれて困ることではないけれど。
「お見合いです」とタカ子は答えた。
「そうでしたか。どんな旦那様でしたか?」
「どんな……ですか?」
「はい。タカ子様のこれまでのこと、これからのことを教えて頂きたいのです。どんな風に生きていらしたのか、なにを大切にされてこられたのか、これからどうされたいと思っているのか。そういうことをお聞きした上で、タカ子様にとって最適な、整理と収納のアドバイスをさせて頂きたいと考えております。勿論(もちろん)、なにを処分して、なにを残すのかの判断はタカ子様にして頂きますが」
「……そういうものなんですか?」
「他の整理収納アドバイザーも、同じようなやり方をしているのかは分かりませんが、わたくしはそうさせて頂いております」
 なんだか……大変なことなのね。片付けるって。
 半信半疑ながらもタカ子は言う。「主人は……主人は静かな人でした。大きな声を上げたことは一度もありませんでした。息子がまだ小さい頃にね、二歳とか三歳とか、それぐらいの時の話ですけれど悪戯(いたずら)をするでしょ。そういう時にも主人は怒ったり、大きな声を上げたりはしないんです。いつもの静かな調子でやってはいけない理由を、小さな子どもに淡々と説明するような人でした」
「このようなことをお尋ねして恐縮なのですが、ご夫婦仲はずっと円満でいらっしゃいましたか?」
 タカ子は首を捻(ひね)る。
 円満だったのかしら。
 夫がなにかを決める時、タカ子に相談することはなかった。住まいも旅行先も、息子の習い事も進学先も全部夫が一人で決めた。タカ子が「ここがいいのでは」と意見を言っても、夫は冷たく微笑(ほほえ)んで「君はなにも考えなくていい。私に任せておきなさい」と聞く耳をもたなかった。
 家計の管理さえもタカ子は任せて貰えなかった。毎月決まった額の現金を夫から貰い、それで食材や日用品を買った。購入した日付や店の名、品名などを記したノートと、残金を月の最終日に夫に見せて、次の月の分を貰った。たまに服を買った時などには、それが必要だった理由を、一生懸命説明しなくてはならなかった。大した金額ではないのに、夫の許可を貰おうと必死になる度惨(みじ)めな思いをした。それは夫が五年前に入院するまでずっと続いた。鈍(にぶ)い女には任せられないと、夫は思っていたのだろう。
 タカ子は小さい頃から鈍いと言われてきた。考えをまとめるのに他の人より少し時間が掛かるし、話し方がややゆっくりだから。そうではあっても人様と同じくらい考えられるし、感情だってあるのに、タカ子の意見や気持ちは軽視された。
 真穂の視線に気付いて、タカ子はあっと思う。質問されてから随分時間が経(た)ってしまった。
 タカ子は答える。「別れ話が出たことはありませんでした」
 タカ子の答えからなにかを感じ取ったのか、真穂はそれ以上夫のことを聞いてこなかった。
 真穂はワゴンの上の箱を手で指した。「この箱の中も本ですか?」
「いえ、それは食器です。元々私は食器が好きで。でも主人がいる間は買えなかったんです。なんでこんな物を買ったんだと、言われてしまいますからね。主人が五年前に亡くなって、気兼ねせずにお金を使えるようになったもんですから、嬉(うれ)しくなってしまって。ちょっと買い過ぎてしまったんです。で、台所に置けない分を、そこに」
 それからタカ子の寝室に案内した。
 八畳の部屋の奥にはベッドがあった。その周りの床には服が山積みになっている。そして壁沿いの五段の箪笥(たんす)のすべての引き出しからは、服が溢れていた。いつの頃からか、引き出しを閉められなくなってしまった。洋服箪笥の扉も同じように服がいっぱいで、少し開いている。その右の取っ手にはハンガーが五本ほど掛かっていて、左のには近所の店で貰ったカーネーションの造花が、結び付けられていた。
 タカ子は言う。「こんな恥ずかしい状態でごめんなさいね。前はこんなじゃなかったんですよ。でも衣替えをするのだって、この年になると大変なもんですから」
「腕が鳴ります」と真穂は笑みを浮かべた。
 階下に下りて一階を一通り案内してから、ダイニングテーブルに向かい合って座った。
 真穂が質問した。「タカ子様はなにをしている時が楽しいですか?」と。
 タカ子は手を止めてしばし考える。
 楽しい時……楽しい……。
 ため息を一つ吐(つ)いた。
 そして言った。「楽しい時なんてありませんね。ただ生きているだけだもの。つまらない毎日を遣(や)り過ごしているだけなんですよ、私は」
 真穂が目を瞬(しばたた)いた。

   2

 バスに乗り込んだタカ子は、運転手にシルバーパスを見せた。
 横向きの優先シートの端に座る。
 午前十時の車内は空(す)いていて、乗客は四人しかいない。
 タカ子は肩から斜め掛けしているポシェットのファスナーを開けて、中に手を入れた。今日買う物を書き付けたメモ用紙を取り出して広げる。書き忘れている物がないか、しばらく考えてからポシェットに戻した。
 五つ目のバス停で降りた。
 バス停から大型商業施設までは、二十メートルほどの真っ直(す)ぐな道が通っている。歩道の両側には花壇があり、それは施設の入り口まで続いていた。
 タカ子はエントランスホールに足を踏み入れた。
 三階までの吹き抜けには紐(ひも)が張り巡らされていて、そこにカボチャのお化けや魔法使いの人形などが、何体もぶら下がっている。その下に置かれたテーブルには、様々なお化けの格好をした子どものマネキンが置かれていて、『ハッピーハロウィン』と大きく書かれたポップが、掲(かか)げられていた。
 タカ子はホールを横切りエレベーターに乗り込む。
 四階で降りると通路を進んだ。
 イベント会場の前を通り掛かった時、馬の写真に目が留まった。思わず足を止めた。
 馬の写真展が開かれていて、その入り口に大きな一枚の写真パネルが置かれている。
 馬の顔だけを正面から捉えたその写真は、どうしてだか少し笑っているように見えた。
 興味を覚えてタカ子は中に入った。
 白いパーテーションに、写真パネルが等間隔に飾られている。首を曲げて地面の草を食(は)んでいる馬の写真の隣には、子馬が隣のおとな馬の首に頭を持たせかけて、甘えている写真があった。
 一枚一枚味わいながらゆっくりと足を進めていたタカ子は、疾走中の姿を切り取った写真の前で立ち止まった。
 それは全身の筋肉が波打っていて、力強さと躍動感が伝わってくる写真だった。
 楽しそう――。
 タカ子は心の中で呟いた。
 馬に乗って走った日の記憶が蘇る。
 あれはタカ子が十歳ぐらいの頃だった。当時住んでいた家の近くに厩舎(きゅうしゃ)があった。近所の子どもたちは普段、遠巻きに馬を眺めるだけだったが、時折、そこの主(あるじ)から「乗りたいか?」と聞かれることがあった。「乗りたい」と手を挙げるのは男の子ばかりだった。女の子は皆怖がって乗ろうとしなかったが、タカ子だけはいつも手を挙げた。
 タカ子は馬と一緒に風を切って走るのが最高に気持ち良くて、大好きだった。普段トロいとか、鈍いとか言われているタカ子が、他の子どもたちの誰よりも速く走るので、皆驚いていた。自分を馬鹿にしている子どもたちが目を丸くするのを見るのも、小気味良かった。
 あの頃……タカ子は確かに幸せだった。そう思えたのは七十一年間生きてきて、あの頃だけだった。
 厩舎の主は言った。これまで女を雇った経験はないが、お前を雇ってもいいよと。
 タカ子は有頂天で両親に、大きくなったらあそこの厩舎で働くと宣言した。だが父親はそんなことは許さんと怒り、母親は厩舎の仕事はキツいからお前には無理だよと言った。
 タカ子は両親に内緒で厩舎に通い馬に乗った。
 ある日、それが両親にバレた。父親はタカ子の頬(ほお)を張り、二度と厩舎には近付くなと言った。お前の人生は俺が決めてあるのだから、大人しく学校に通っておけと続けた。
 泣きじゃくるタカ子に母親は「お前には大した頭もないし、器量がいい訳でもないのだから、家長の言う通りに生きていくのが一番なんだよ」と諭した。
 口惜しかったが、タカ子にはどうすることも出来なかった。そしてタカ子は、幸せも喜びも感じない人生を過ごすことになった。
 写真展の会場をゆっくり一周してから通路に出た。
 それから手芸店に向かう。
 フロアの一番奥の手芸店は、三百平米ぐらいの広さがあった。
 出入り口横のテーブルには、お化けの扮装(ふんそう)をした三十センチほどの背丈のぬいぐるみが、四体並んでいる。オレンジ色の毛糸で、カボチャの形に編み上げたオブジェもあった。
 タカ子は左の壁沿いに進む。
 毛糸売り場コーナーのワゴンの前で足を止めて、中を覗いた。特価品の毛糸を物色した。
 タカ子はセーターを編む。趣味ではない。編んでいても楽しくもなんともないから。暇つぶしをするためだけに編んでいる。編み物歴はもう五十年ぐらいになる。
 完成したセーターを息子に着せていた頃もあったが、成長すると着て貰えなくなった。その後孫に何着かプレゼントしたが、着ているのを一度も見たことがない。だから随分前に誰かのために編むのは止(や)めた。
 ただ編む。一目一目に不満を編みこむようにして。編み終わったら押入れの中に仕舞うだけだった。
 タカ子はワゴンの下の方から袋を引っ張り出した。
 透明の袋には深緑色の毛糸玉が十玉入っている。
 顔を近付けてその色合いを確認した。

   3

 シンクの上にある吊(つ)り棚の扉を真穂が開けた。
 中をスマホで撮影すると、メジャーで棚のサイズを測り出す。
 真穂は今日もフリルがたくさん胸に付いた白いブラウスと、ピンクのフレアスカート姿で、片付けには不向きな服装をしていた。
 だが今日も実際の作業はしないというのだから、構わないのだろう。
 先週初めて真穂が来訪した時に、整理収納作業の見積もり額を出して貰った。丸ごとお任せパックのLタイプになるそうで十万円だという。
 真穂からは、整理収納は掛かる時間で料金を決めるところがほとんどで、その相場は一時間あたり五千円だと教わった。通常一ヵ所の片付けに三時間掛かると予想することが多いそうで、そうすると真穂のお任せパックの方が割高になるが、この三時間で作業を進めようとすると、かなりの速度で捨てる、捨てないを決めていかなくてはならず、随分慌ただしいものになるという。またよそでは別料金になっているコンサルティング料や、アフターフォロー料金などもすべて含んで十万円なので、真穂のお任せパックの方がお得だし、自分のペースでゆっくり片付けることが出来ると言われた。
 タカ子は真穂に頼むことにした。
 今日はどういう片付けがいいか案を練るために、もう少し細かく部屋を見たいという真穂が再訪していた。
 台所は四畳ほどの広さしかない。ステンレス製の水切り籠には、朝食で使った皿やマグカップが載っている。そのマグカップは息子が海外旅行に行った時の土産の品で、白地に赤いアルファベットで、"アイ・ラブ・ニューヨーク"とプリントされていた。
 真穂が尋ねる。「こちらに入っているのはどういった物か、お分かりになりますか?」
 少し背伸びをして棚を覗いてから答える。「普段使わない物ですね。お弁当箱とか、水筒とか、ホットプレートとか。それは……ストローですね。もう使いませんから捨ててしまっていい物です」
「お弁当箱はご子息様の物ですか?」
「息子のと、主人の物です。お弁当が必要なくなって何十年も経つのに、残してあったんですね。そのうちに処分しようと思って入れたのに、それを忘れていました」
 真穂が隣の扉を開けた。
 カップラーメンとレトルト食品の買い置きが、大量に詰まっていた。
 真穂が言う。「カップラーメンがお好きなんですか?」
「大好きよ。簡単で美味(おい)しいんですもの。日持ちするし、自分で作るより安いし。安くなっているのを見つけた時に、たくさん買っておくんです。そこだけじゃないのよ。確か……どこか……その辺りの箱にもあるはず」台所の床に物が直(じか)置きになっている辺りを指差した。
 タカ子が指し示す方に目を向けてから真穂が尋ねた。「昔からお好きだったんですか?」
 首を左右に振った。「主人が亡くなって、ようやく食べられるようになったの。主人はそういう物をなんていうのか……怠ける……そう、主婦が怠けるための食事と考えていたから」思い出し笑いをする。「息子がいくつの時だったか……中学生の頃かしら。息子の誕生日が近付いてきたから、当日はなにを食べたいって聞いたのね。そうしたらカップラーメンと答えたんです。どうもお友達が家で食べた話を聞いて、羨(うらや)ましかったみたい。それで息子の誕生日の夕食のテーブルにね、カップラーメンを出したんです。主人は目を剥(む)いたわ。でも息子が大喜びしていて、僕が三分を計るよなんて言って、ワクワクした顔をしているでしょ。なにも言えなくなってしまったみたいなんです。主人はぶすっとした顔でラーメンを食べていたわ。あの時の主人の顔……今思い出しても可笑(おか)しいわ」
 つまらない毎日を重ねてきただけだと思っていたけれど……楽しかった時間もあったのね。
 翌年の息子のリクエストは違うものだったから、我が家でカップラーメンを食べたのは、その時一度だけだった。
 タカ子は言う。「反動かもしれませんね。主人が亡くなって、インスタント食品を食べても良くなったから、色々と買ってみたくなってしまって」
「便利ですものね」
「中村さんの台所はさぞかし綺麗なんでしょうね。整理収納アドバイザーなんだもの」
「今は、はい。でも以前はとんでもない部屋に住んでおりました。ゴミ屋敷とまではいきませんが、ちょっと大変なレベルでした」
「そうなの?」
「はい」
「意外ね。お仕事は楽しい?」
「楽しい……楽しいというよりは、遣り甲斐(がい)を感じております。片付けは自分の過去と未来を再編成する作業でございます。再編成をするお客様のお役に立てたと思えた時、深い喜びを覚えます」
 自分の過去と未来を再編成……そんな大層なことなのかしら。そんな難しいことが私に出来るのか、心配になってしまう。
 真穂が他の部屋に置かれている食器の量を知りたいと言い出したので、夫の書斎に案内した。食器は書斎のワゴンの上だけだと思っていたが、押入れの中にも結構あった。そこに仕舞ったのをすっかり忘れていたのだ。
 真穂が押入れの中の箱を指差す。「この中はなんでしょうか?」
 それは……なにを入れていたかしら。あっ。
 タカ子は答えた。「年賀状です。すっかり忘れていたけれど捨てるきっかけがなくて、箱に収めてここに置いていたんだわ。いい機会だから捨てます。もう最近では年賀状もほとんど来ないんですよ。主人が亡くなったし、親戚付き合いもほとんどなくなりましたからね」
 するりと一つの記憶がタカ子に落ちてきた。
 タカ子が三十代の頃だった。親戚が新居を構えたというので、夫婦で祝いの品を持参した。そこからの帰り道で夫から小言を言われた。ああいうことを言うものじゃないと、タカ子の発言を窘(たしな)めたのだ。ダメだと言われた発言がどんなものだったのかは、もう覚えていない。
 夫は時々まるで保護者のように、こうすべきではないだとか、こういう風に言うのが常識だとか言って、タカ子に説教することがあった。そんな時はいつもため息混じりに「もっと、しっかりしてくれよ」という台詞(セリフ)で締め括(くく)った。反論してもタカ子の意見に耳を貸しては貰えないし、言い負けるのは分かっていたので、タカ子はいつものように押し黙って耐えた。
 それからひと月後に、別の親戚の結婚式に夫婦で招かれた。当然のようにタカ子も参列すると思っている夫に告げた。参列しませんと。理由を尋ねられたタカ子は「また言ってはいけないことを言ってしまうでしょうから、もう親戚付き合いは遠慮します」と答えた。夫は呆(あき)れたような顔をした。
 夫はタカ子が本気だとは思っていなかったのだろう。当日出掛ける仕度(したく)をしないタカ子に「早く仕度をしなさい」と言った。「行きません」とタカ子が断ると、夫は長いこと顔を顰(しか)めていた。それから「勝手にしなさい」と口にすると一人で家を出た。夫が玄関ドアを閉めた音を聞いた時には、晴れやかな気分になった。タカ子にだって心があって傷付くし、腹を立てるのだと、夫に知らせてやったという達成感も覚えた。
 それからは親戚の集まりがある度に、夫はタカ子に、参加するかどうかを尋ねるようになった。タカ子はその時々で参加、不参加を自分で決めた。行かないとタカ子が言っても、もう夫が無理強いすることはなかった。
 真穂がタカ子の寝室をもう一度見たいというので、書斎を出た。
 タカ子の寝室にある押入れの右扉は、前に物が積み上がっているため開閉が出来ない。
 タカ子は左扉を開けて中を真穂に見せた。
 真穂が押入れの奥行をメジャーで測ってから言った。「この上の棚にある箱の中身はなんでしょうか?」
「そこにある物は全部捨てますから、丸々ここは空きますよ。セーターが入っているんです」
「セーター……全部ですか?」
 タカ子は手前の箱の蓋を少し開けて中に手を入れる。
 一枚取り出して見せる。「こういうセーターがたくさんあるんです」
「これ、凄く素敵ですね。タカ子様の手編みですか?」
「ええ、そう」
「新品に見えますが、この手編みのセーターを全部処分されるんですか?」
「ええ。いいんです。自分で着ようと思って編んでいないし、誰かに着せようと思ってもいないので。暇つぶしのために編んでいただけなんです。それがこんなに溜(た)まっちゃって」
「失礼します」と断って真穂が箱の中に手を入れた。
 そうして別のセーターを取り出して広げた。「これも素敵ですね。これは模様が複雑ですから、編むのが大変だったのではないですか?」
タカ子は頷き「そうですね。それはちょっと凝ったデザインだから」と答えた。

   4

 真穂がリビングとダイニングの間に、ブルーシートを広げた。
 それは二メートル四方ぐらいのサイズのものだった。
 片付け本番の一回目の今日は、台所とリビング、ダイニングの三カ所を片付けることになっている。
 これから始まる作業では、まず真穂が台所にある物を次々に取り出す。タカ子はそれらをブルーシートに移す。ブルーシートには〈残す物〉〈処分する物〉〈保留〉と書かれたカードが一枚ずつ置かれているので、それぞれ該当するカードの所に物を置いていくのが、タカ子の役目だった。
 今日の真穂はさすがにこれまでとは違って、動き易(やす)そうな黒のパンツを穿(は)いている。カチューシャと巻き髪はこれまで通りだったが。
 真穂が台所の戸棚を開けた時、ドアフォンが鳴った。
 タカ子はモニターを覗いた。
 えっ。どうしよう……。
 タカ子は振り返って言った。「大変。嫁が来てしまったわ。どうしましょう。片付けをプロに手伝って貰うことは、知られたくなかったのに」
「そうでしたよね。それではわたくしはタカ子様の友人で、遊びに来たことに致しましょう。今ブルーシートを片付けますね」
 真穂は戸棚を閉じると急ぎ足でダイニングに移り、ブルーシートをくるくると巻き始めた。
 タカ子はモニターに目を戻す。
 なかなか応じないからなのか、嫁の敦子(あつこ)がカメラにぐっと顔を近付けていた。
 タカ子は再び振り返った。
 真穂がブルーシートを大きなバッグに押し込んでいる。ファスナーを閉じると顔を上げた。そしてタカ子に向かって、親指と人差し指で丸の形を作った。
 タカ子は通話ボタンを押す。「はい」
「お義母(かあ)さん、こんにちは。敦子です。近くに来る用事があったもんですから、ご機嫌伺いに参りました」
 なんだって今日なのかしら。
 タカ子は「ちょっと待ってね」と言ってから通話ボタンをオフにした。
 振り返ったタカ子に真穂が「今からわたくしたち、友人ですから」と言い、「乗り切りましょう」と両の拳(こぶし)を胸の前で小さく上下させた。
 タカ子は頷いてから一人玄関に向かう。
 ドアを開けるとマスク姿の敦子がいた。
 埃(ほこり)アレルギーだという敦子は、タカ子の家に来る時にはマスクをしている。昔からじゃない。夫が亡くなってからだ。夫がいた頃には埃がなかったけれど、亡くなってからは埃があると言いたいのよね、恐らく。私が掃除をサボるようになったと仄(ほの)めかしているんだから、嫌味なことをする人。嫁からも軽んじられていて哀しくなる。
 敦子を招き入れたタカ子は先にリビングに戻る。
 後からリビングに入った敦子は、先客に気付くと目を見開いた。
 タカ子は紹介する。「こちらはお友達の中村真穂さん。こちらは嫁の敦子です」
 真穂がお辞儀をした。「こんにちは。お邪魔しております」
 敦子もお辞儀を返し「こんにちは。お友達がいらしているとは思わなくて」と言うとじっと真穂を見つめてから、タカ子に向いた。「お義母さん、随分お若いお友達がいらしたんですね」
「ええ」とタカ子は答えた。
 敦子が紙袋を少し持ち上げた。「きんつばを持って来ましたのでご一緒にいかがですか」
 真穂が「お誘い頂きまして有り難うございます」と丁寧に頭を下げてから言う。「残念ながらわたくしはもう行かなくてはいけませんので、失礼させて頂きます。ちょっと寄らせて頂いただけでしたので」
「あら、そうなんですか?」と応じた敦子の声には不審そうな響きがあった。
 すると真穂がショルダーバッグから封筒を取り出した。その中から紙片を一枚抜くと、ダイニングテーブルに置いた。
 そして「タカ子さん、これがチケットです」と言うと敦子に顔を向ける。「明日知人と宝塚(たからづか)劇場に観劇に行く予定だったのですが、その人の都合が悪くなりまして、一枚チケットが余ってしまいました。それでタカ子さんをお誘いしました。明日のチケットなので、今日のうちにタカ子さんに渡しておこうと思いまして伺いました。チケットを渡せましたので、もうわたくしの用事は済みました。これから仕事なのでわたくしはこれで失礼致します」
 えっ。そういうことにするの? そうね。それはいいわね。自然な感じがするもの。真穂は機転が利(き)く人だわ。
 敦子が「そういうことだったんですか」と納得したような声を出した。
 良かった。信じてくれたみたい。タカ子は胸を撫(な)で下ろす。
 真穂が様々な大きさの三つのバッグを、両肩に掛けると言った。「それではタカ子さん、明日の開場は午後一時で、開演は一時半ですので、それまでに劇場にいらしてください。わたくしはギリギリになってしまうかもしれませんが、必ず参りますので」
 タカ子はチケットを摑(つか)んだ。
 それは本物のチケットのように見えた。
 タカ子は「有り難う」と言うと、真穂の目を見て一つ頷き「明日が楽しみだわ」と続けた。
 真穂を見送るため、タカ子と敦子は玄関に向かう。
 別れの挨拶をしてタカ子が玄関ドアを閉じた瞬間、敦子が「中村さんとはどこで知り合ったんですか?」と質問した。
 タカ子は廊下を戻りながら「友達の友達よ」と答えた。
 タカ子の背後から「よく遊びに来るんですか?」と敦子が問う。
「たまによ」と答えたタカ子は台所に逃げた。
 敦子は台所にまでは追いかけて来なかったので、タカ子はほっとする。
 タカ子は茶筒の蓋を開けてそこに緑茶葉を移す。
 敦子が真穂のことを色々と聞いてきそうで……困ったわ。上手く質問をかわせればいいけれど。出来るかしら、私に。
 緑茶葉を急須に入れてからポットの前に移動した。ボタンを押して湯を急須に注ぐ。
 敦子は油断ならない人だから、絶対に真穂が整理収納アドバイザーだと、バレないようにしなくては。バレたら、どんなに私が内緒にしてと頼んでも、必ず息子の和久(かずひさ)に告げ口する。
 四年ぐらい前のことだった。敦子がここに来た時に、リビングに置いていたバッグに気が付いた。それは高級ブランドの物だった。目ざとく見つけた敦子が素敵なバッグですねと言ったので、デパートで買ったと説明した。
 デパートのショーウインドーに飾られていたバッグに、一目惚(ぼ)れをしたのだ。夫がいた頃ならば、そうした高級店に入ることさえなかったが、当時は好きに買える状況を楽しんでいた。だから高かったが奮発して買った。
 敦子が「高かったでしょう」と言ったので、タカ子は答えた。「確かに安くはなかったけれど素敵だったから」と。そして「和久には内緒にしてね」と頼んだ。和久にタカ子が買い物をする喜びが分かるとは思えなかったし、値段だけで散財していると思われるのは嫌だったから。
 敦子は「分かりました。和久さんには言いません」と約束した癖にその日のうちに和久に告げた。
 その夜に和久から電話があり「金は計画的に使わないとダメだよ。もっと、しっかりしてくれよ」と、まるで教師が生徒に指導するかのような口を利かれた。
 口惜しかった。嫁に裏切られたことが。ダメな人だと思われたことが。
 タカ子は緑茶を入れた湯呑(ゆの)み二つを盆に載せた。
 ゆっくり息を吐き出してから台所を出た。

   5

「とっても楽しかったわ」とタカ子は告げた。
 真穂はとても嬉しそうな顔をした。「そうですか? そうでしたら良かったです。宝塚を自分とは遠い世界のものだと思われて、食わず嫌いと申しましょうか、見ず嫌いの方が結構多いのですが、それはとても勿体(もったい)ないことでございます。一度ご覧になればその素晴らしさを分かって頂けると、わたくしは信じております」
 タカ子たちは宝塚を観劇した後で、劇場近くの紅茶専門店に移動してお茶をしている。
 昨日真穂が機転を利かせ、二人で宝塚を観劇するという話にして、整理をプロに頼んでいることが、敦子にバレないようにしてくれた。
 敦子が帰った後で真穂に連絡を取ったら、せっかくだから本当に、一緒に宝塚を観に行きませんかと誘われた。同行予定だった友人とは別の日に行くから構わないのだと言う。それではお友達に申し訳ないとタカ子は遠慮したが、同じ公演を何度も観に行く人なので、一回ぐらい誰かに譲っても全然構わないだろうと、真穂は説明した。宝塚未経験の人を連れて行くと真穂が言えば、寧(むし)ろ喜んで行ってらっしゃいと、手を振ってくれるとまで言うので、思い切って誘いを受けることにしたのだ。
 タカ子はウェッジウッドのティーカップに口を付けて、ダージリンティーを飲む。
 今日の真穂が着ている黒のブラウスの袖山には、ギャザーがたっぷり寄せられていて、ふんわりしていた。
 タカ子はカップをソーサーに戻した。「なんだか夢の中にいるような三時間でした。キラキラしていて綺麗なものばかりが溢れていて……上手く言葉で表現できないのだけれど、とにかく違う世界を旅行しているような感じで、面白かったです」
 大きく頷いた。「仰(おっしゃ)る通り、宝塚は夢の世界に連れて行ってくれます」
「昔から宝塚を観ているんですか?」
「かれこれ四十年ぐらい前からです」
「まぁ、そんなに。結構長いんですね」
「はい。長いです」真穂はそう答えてから聞いた。「今日のお芝居はモテモテな浮気性の夫のお話でしたが、タカ子様の旦那様は浮気はされませんでしたか?」
 タカ子は首を捻る。「どうだったのかしら。主人は学問のことにしか興味がない……そういえば、一度だけ女子学生が家に来たことがありました。学生さんが訪ねてくることなんて、後にも先にもその時一度だけだったわ。私が取り次いだら、主人は目を真ん丸にして驚いた顔をしたんです。その学生さんを書斎に案内して紅茶を用意していたら、喫茶店に行くからいいと主人が言って、二人で出て行ったのよ。一、二時間ぐらいして主人が一人で戻って来てね、私が聞いてもいないのに、論文に行き詰まって指導を仰(あお)ぎに来たんだと、説明していました。あれはなんだったのかしら」
「その方は浮気相手だったのでしょうか?」
「分からないけれど、もしかしたらそうだったのかも」
「旦那様に確認はなさらなかったのですか?」
「ええ。そんなこと思いもしなかったから。だけど主人が浮気をしていても構わなかったわ。本当よ。主人を独り占めしたいなんて思っていなかったもの。もしだけれど、あれは不倫相手だと主人に言われたとしても、そうですかと答えただけだと思います。離婚も考えなかったでしょう」
「タカ子様は大人ですね」と、真穂。
「そんなんじゃありませんよ。諦めているの。どうせ私がなにを言ったってなにも変わらないのよ。だから」
 タカ子はカップを持ち上げると、ダージリンティーをひと口飲む。
 真穂がミルフィーユの載った皿をタカ子に近付けた。「宜しかったらひと口いかがですか?」
「あら。いいの? それじゃ、真穂さんもこちらをどうぞ」とガトーショコラを勧める。
 二人はそれぞれひと口分ずつを取り分けて口に入れた。
「美味しい」と二人の声が揃(そろ)う。
 二人で微笑み合った。
 なんだか懐かしい。こんな風に誰かと注文したものをひと口分交換して、お喋(しゃべ)りしたのは……いつ以来かしら。もう覚えていないくらい久しぶり。こういう楽しさをすっかり忘れていた。
 タカ子は自分のガトーショコラに手を伸ばした。
 

   6

 タカ子は「こんなに買ってたのね」と言った。
 真穂が口を開く。「ちょっと多いですかね」
 ブルーシートには大量の食器とインスタント食品、紙袋、日用品が置かれている。
 仕切り直しとなった今日、整理作業をするために真穂が午前十時に来訪した。まず真穂が台所とダイニングにあった物をすべて出していき、タカ子はそれらを残す物、処分する物、保留する物の三つに分けて、それぞれのシートに置いていった。すぐにスペースが足りなくなり、上に物を積み重ねた結果、八畳のリビングには小山が三つ出来た。その高さはいずれも一メートルを超えていた。
 さすがに買い過ぎだわね。同じ物がいくつもあるし。自分の裁量で物を買えるのが楽しくて、つい。でも楽しかったのは初めの頃だけだった。夫がいなくなって、いつ、なにをしてもいいという自由が楽しかったのも、最初だけだった。
 真穂がまず処分する物をゴミ袋に入れましょうと言うので、一緒に四十五リットルサイズの袋に詰めた。十袋になったそれを一旦庭に出した。
 真穂が尋ねた。「今日はまだ仮置きですが、トイレットペーパーや洗濯洗剤などを、それぞれの場所に置かせて頂いて宜しいでしょうか?」
「トイレも洗面所も狭いんです。置く場所がなくて、それでついここに」
「分かります。わたくしもそうでした。ストック品は使う部屋の中で保管するのが、お勧めでございます。離れていますと、それを取り出すためだけに部屋を移動しなくてはなりませんので、ご面倒だと思いますし。使う部屋に収納出来る分だけを、ストックするという風になさると、物を減らすことに繋(つな)がります」
 そう言うと真穂は残す物の山からいくつかを選び、他の部屋に運んで行った。
 戻って来た真穂が言う。「この前お願いしておりました、タカ子様が編まれたセーターですが、本当に頂戴しても宜しいですか?」
「ええ、勿論」
「それでは今日全部頂戴致します」
「全部?」
「はい。全部はダメでしょうか?」
「欲しいとこの前言っていたから、どうぞと答えましたけれど、全部とは思っていなかったわ。ダメじゃないんですよ。ただ物凄い数があるから、持って帰るのも大変だろうと思って」
 真穂がにっこりとした。「今日は車でお邪魔しておりまして、近くのコインパーキングに停めてあります。段ボール箱も用意して参りました」
「まぁ、そうなの? 用意周到なんですね」
「はい。タカ子様が編まれたセーターを、待っている人がいらっしゃいますので」
「待っている人?」
「はい。ホームレスの支援をしている団体のいくつかに、寄付の話をしましたら、とても喜んでいらっしゃいました。それから養護施設の職員の方も、とても喜んでくださいました。子どもたちに着て貰うと仰ってました」
 タカ子はびっくりする。
 言葉が出て来なくてタカ子は真穂を見つめ続けた。
 すぐに反応出来ない自分がもどかしい。
 しばらく経って、ようやく言葉が浮かんできたタカ子は口を開いた。「それは……それは……寄付するなんて、これまでちっとも頭に浮かばなかったわ。暇つぶしに編んでいたものだから……でも喜んでくださる人がいるのなら私も嬉しいわ。人様のお役に立てるような気がするもの」
 真穂が再びにっこりした。
 それからタカ子は真穂に促されて、保留にした物が積み上がっている山の前に座った。
 真穂が言う。「ここからが大事なところでございます。保留分の物をどうするか決めて頂きます。残されるのか、処分されるのかの二択でございます」
「大変だわ。決められないから保留にしたんですもの」
「お手伝いした方が宜しいでしょうか?」
「ええ。是非お願い」
「それでは」と言うと真穂が箱を手に取った。蓋を開けて「お重ですね。お正月のお節(せち)料理でお使いになっている物でしょうか?」と尋ねた。
「そうなの。主人がいた頃は毎年正月に料理を詰めていたんです。全部手作りして。でも亡くなってからは一度も使っていないの。お節料理自体を作らなくなったから。スーパーで数の子と栗きんとんの出来合いのを買って、お皿に載せるだけ。後は普段の料理を食べるだけなんです。そんなお正月なの。息子や孫が訪ねてくる訳でもないですし」
「そう致しますと五年前から使わなくなったお重を、残す方でも、捨てる方でもなく、保留にされたのはどうしてでしょうか?」
「どうしてって……どうしてかしら。そんなに高価な物ではないんだけれど……」
「片付けは過去と未来を再編成する作業でございます。迷われていらっしゃるならば思い出のある品なので、捨てがたいというお気持ちか、或(ある)いはこの先もしかしたら使うことがあるかもしれないとのお考えが、おありなのかもしれません。どちらもということもあり得るかと思います。思い出のある品だという場合にはその物自体を見て、思い出したい記憶かどうかを、考えてみるようお勧めしております」
「物自体を見て思い出したいか……」
「はい」真穂が頷く。「この先使うことがあるかもしれないとのお考えがある場合には、もしその時にこれがなかったら、どうするかを想像してみるようお勧めしております。例えば来年のお正月に、息子さんが遊びに来ることになったとします。お重はありません。どうなさいますか?」
「お節料理を作ったとしたら……いえ、作らないわね。大変だもの。お節料理を作らないなら息子が来ても、冷蔵庫にある物でなにかを作って出すぐらいね、多分」
 真穂は口を閉じて、タカ子が決断するのを待つような顔をする。
 タカ子はじっとお重を見つめた。
 朱色のお重の蓋には扇が三つ描かれている。
 タカ子は「捨てるわ」と言ってブルーシートの上に置いた。
 次に真穂が保留の山から、透明のビニール袋を一つ取り出した。そしてタカ子に差し出した。
 タカ子はビニール袋から紙を取り出す。
 小学生だった和久が、タカ子の誕生日にくれたお手伝い券だった。
 A4サイズほどの画用紙の上部には、サインペンで大きく、お誕生日おめでとうと書かれている。下半分には手書きの〈お手伝い券〉がいくつも並んでいる。右隅の一角が切り取られていた。
 真穂がタカ子の手元を覗く。「お手伝い券を一枚使われたようですね」
 頷いた。「すっかり忘れていたけれど、これを見て思い出しました。料理を手伝って貰うことにして一枚使ったの。主人が息子を台所に入れるのを嫌がったものだから、普段は全く手伝わせていなかったのね。いい機会だと思って包丁を持たせてみたのだけれど、全然ダメでした。初めてなのだから出来ないのはしょうがないのだけれど、センスの欠片(かけら)のようなものが見えてくれたらと期待したんですが、息子は不器用だと分かっただけでした。だから頼めたのは私がカットしたジャガイモを、まな板から鍋に入れることとか、掻(か)き回すことぐらいでしたね。完成したカレーライスを三人で食べたの。主人が、おっ、今日のカレーは特別旨(うま)いなぁと言い出してね、私も本当に特別美味しいわと言ったら、息子はとっても誇らしげな顔をしたの。忘れていたけれど……我が家にも人並みな思い出があったのね。また次の機会にと思って台所に取っておいたのね、きっと」
「有効期限が書かれていませんね。まだ使えるのではないですか?」
「ええ? あぁ、そうね。これを息子に出してトイレ掃除をやってと言ったら、どんな顔をするかしら」
 タカ子は思わずくすっと笑ってしまう。
 あ……今、私、笑った。笑うなんて凄く久しぶり。いつ以来なのかしら。
 タカ子は手元のお手伝い券を見つめる。
 少ししてそれを残す物の山の前に置いた。

   7

 真穂がエレベーターの呼び出しボタンを押した。
 扉の上部にあるインジケーターの数字が、ゆっくり増えていく。
 タカ子は真穂の隣でその数字を見上げる。
 ピンと遠慮がちな音がしてから扉が開いた。
 タカ子は先に乗り込み扉を開けておくボタンを押す。
 真穂がカートを押しながら中に入ってきた。
 そのカートにはたくさんの収納ケースが入っていた。
 だがすべての品が百円なので、合計金額は大したことはない。百円ショップは有り難い。
 今日は収納ケースを買いに、大型ショッピングセンターに真穂と二人でやって来た。台所とダイニング、リビング、洗面所にあった物の取捨選択が終わり、残す物は分類した上で、それぞれの保管場所に紙袋に入れて仮置きしてある。これによって必要なケースのサイズと数を割り出せたので、それらを買いに来たのだ。
 真穂によれば片付ける際に、先に収納ケースを買う人が多いのだが、物の量や必要なスペースを予測するのはとても難しいので、やめた方がいいという。
 地下二階でエレベーターが停まった。
 タカ子は扉を開けておくボタンを押して、真穂がカートを降ろすのを手伝う。
 そして二人並んで駐車場を歩き出す。
 真穂が尋ねる。「お疲れじゃないですか?」
「大丈夫です」
 向かいから赤い軽自動車が走って来る。
 タカ子たちは少し左に寄って足を進める。
 タカ子は言った。「ここにはよく来るようですね」
「百円ショップのことですか?」
「ええ。お店のどこになにがあるか、把握しているようだったから」
 頷く。「はい。結構利用させて貰っております。百円は助かりますので」
「実は私ね、初めてあなたに電話をした時、ちょっと心配だったんです。物を減らさなきゃダメだと言って、ポンポン捨てられてしまうんじゃないかと思って。片付けたくてお願いするのだけれど、なにもかも捨ててしまうのは、ちょっとって。でも違いました。残したい物は残しましょうと言ってくれるでしょ。だからね、ほっとしたの。まだまだ先は長いけれどよろしくね」
「こちらこそ宜しくお願い致します」と言って真穂は頭を下げた。
 真穂の車の前で足を止めた。
 買った物をトランクに移していく。入りきらなかった物は後部座席に置いた。
 空(から)になったカートを戻しに行こうとした真穂が「そういえば」と言い出した。
「お礼のメッセージが届いておりました」
 真穂が肩に斜め掛けしたバッグからスマホを取り出して、操作を始める。
 そうしてから画面をタカ子に向けた。「タカ子様のセーターを、ホームレスの方が着用なさっている写真です」
「えっ?」
 そこには二人の男性が写っていた。年齢は……分からない。左の男性はグリーンの毛糸で、なわ編みのデザインを入れたセーターを着ている。襟口と袖口にだけ白の毛糸を使ってあった。右の男性が着用しているのは、胸のところに犬の顔を編みこんだ、赤いセーターだった。その人は肩の辺りを両手で摘(つ)まみ、カメラに向けてセーターを誇示するような、ポーズを取っている。そして前歯のない口を大きく開けて笑っていた。
 真穂が養護施設から届いた動画もありますというので、それも見せて貰う。
 職員らしき男性が段ボール箱をテーブルに置くと、子どもたちがわっと集まってくる。中学生か高校生ぐらいの少女と少年たちだった。彼らは我先にとセーターに手を伸ばし、たちまちバーゲン会場のようになる。カメラは「これがいい」と大きな声を上げる少女を映し出した。戦利品を自分の胸に当てて笑う少女がアップになる。すると「どっちがいいと思う?」と尋ねる少年の声が聞こえてきた。「喧嘩(けんか)しない」と注意する大人の声も流れてくる。
 タカ子は自分の口に手を当てた。
 私が編んだセーターを欲しがってくれている……喜んで着てくれる人なんていないと思っていた。それが……こんな……嬉しい。凄く。
 真穂が口を開いた。「海外にも送りました」
「海外?」
「はい。難民を支援する団体に相談しましたら、他の救援物資と一緒に現地に送りたいと仰いましたので、渡しました。スタッフの方はとても喜んでいらっしゃいましたよ」
「真穂さん」真っ直ぐ真穂の目を見つめる。
「はい」
「私のセーターが役に立ったんですね?」タカ子は確認する。
「はい」
「また……また編んだ物を贈ってもいいのかしら?」
「勿論でございます。これが、今回セーターを送付した先のリストでございます。ある程度数をまとめて送った方がいいようです。それと送付される場合は、先に先方にご連絡をされてからの方が、宜しいと思います」
 タカ子はリストを受け取ると、ショルダーバッグの奥の方に仕舞った。
 それから宣言した。「私、編むわ。暇つぶしじゃなく着てくれる人たちのために。それでね、今すごく毛糸を買いたい気分なの」
「それではショッピングセンターに戻りましょう。手芸店にレッツゴーでございます」
「いいんですか? 整理とは関係ない買い物に、真穂さんを付き合わせてしまって」
「毛糸はタカ子様の未来を再編成するのに、必要な物だと思いますので、片付けの業務範囲内でございます」と言って真穂は微笑んだ。
 タカ子と真穂はエレベーターに向かって歩き出した。
 タカ子はウキウキしていた。

   8

 クレセントを回して窓を閉める。
 タカ子がカーテンを閉じると、夫の書斎はたちまち暗くなる。
 タカ子はドアに向かって歩き出した。
 廊下に一歩足を出したところで気が変わり、足を引き戻す。そして書斎の灯りを点けた。
 置く場所に困り放り込んでいた雑多な物がなくなり、床が見えている。そして本棚からは本が消えて空っぽになっていた。
 真穂に専門書を扱う古書店を紹介して貰った。先週訪れた店主が査定した金額は、タカ子が想像していた額より一桁多かった。タカ子は承諾し、大量の本はその日のうちに運び出されたのだ。
 処分する大型家具は後でまとめて専門業者に引き取りに来て貰うことになっているので、それまでここに置いてある。
 スカスカになった部屋は若返ったような感じがした。
 押入れの扉を開けると、その前のカーペットの上に斜め座りをする。
 押入れの下段には、黒いハードカバーのノートが五十冊以上あった。
 古書店主が見つけた夫の日記帳だった。
 夫が日記を付けていたことをタカ子は知らなかった。
 古書店主が帰った後タカ子は同じ場所に座り、日記に手を伸ばし掛けた。だがその手をすぐに引っ込めた。他の人が書いた日記を読むなんて、やっちゃいけないことだから。妻であっても、すでに夫が亡くなっていたとしても。それはやっぱり、超えてはいけない一線のように思えたのだ。
 結局、日記には触れず、この押入れに一週間置いたままにしていた。
 でも……ほんのちょっとだけなら。ほんの少し読むだけなら大目に見て貰えるんじゃない? 亡くなって五年経つんだし、プライバシーを侵す罪は免除されるような……。
 どうしよう。
 タカ子はしばらくの間迷った。
 ノートに手を伸ばしては引っ込める。これを何度も繰り返した。
 そうしてから徐(おもむろ)に一番上のノートを引き寄せた。
 それは夫が亡くなった年のものだった。
 パラパラとページを捲(めく)る。
 薄いクリーム色の紙に、青いインクの万年筆で書かれていた。見覚えのあるカクカクした字が、行の幅いっぱいの大きさで並んでいる。
 最後のページを開いた。
 入院の前日の四月九日の日付けが入っている。

 四月九日
 明日は入院。タクシーは午前八時に来る。夕食は鯖(さば)の味噌(みそ)煮。入院前の最後の夕食だから、タカ子が私の好物を作ってくれたのだろう。自宅に戻って来られたら、その日の夕食も鯖の味噌煮にして貰おう。戻れるだろうか。病気になったのがタカ子ではなく、私で良かった。もし逆の立場になり、タカ子を失うかもしれないとなったら、私はその不安に耐えられない。

 えっ。
 タカ子は目を見張る。
 これは……なに? どういうつもりで、こんなことを?
 タカ子は混乱する。
 ページを捲りその前日の日記に目を落とす。

 四月八日
 書斎の片付けを始めたが、縁起が悪い気がして途中で止める。午後九時、居間でタカ子の居眠りを発見。しげしげと眺めた。老婆だ。年々萎(しぼ)む。見合いの席でしおらしく俯(うつむ)いていた当時の面影(おもかげ)はない。年老いたタカ子の姿を目に焼き付けた。そうしておくべきだとの気持ちになったからだが、その理由は分からない。

 タカ子はもう一日前の日記が書かれたページを開いた。

 四月七日
 今日も死後の世界について考える。色々な人が色々なことを言っているが、私は浄土があるとする考え方が一番気に入っている。だが生まれ変わるという説も捨てがたい。生まれ変わったら、今度はどんな人生を送ろうかと考えるのは気が紛(まぎ)れる。ここのところ手術のことを考えて気持ちが塞(ふさ)ぎがちだったから、丁度いい気分転換になる。次は和久のような会社員になってみるのも、一興ではないか。特に営業職が遣り甲斐がありそうだ。営業職は職場の花形といっても過言ではないのだから、一度やってみる価値はあるだろう。どんな職業になるにせよ、妻はタカ子になって貰いたい。

 タカ子は驚き思わずノートをパタンと閉じた。
 息が苦しい。
 ゆっくり顔だけを後ろに捻った。椅子を見つめる。
 夫はいつもそこに座って本を読んでいた。
 本にしか興味がなくて……私のことなんか……違ったの? そうじゃなかったの? 
 タカ子は時間を掛けて息を整えた。
 そうしてから今一度ノートを開いた。

 三月三十一日
 今日は締め日。タカ子から一ヵ月分の支払い明細を記したノートを受け取る。入院する私のために下着を買ったとの報告を受ける。病院で恥ずかしい思いをしないよう、私には新しい下着が必要だったし、セールをしていたからいつもより安く買えたので、いい買い物だったとタカ子が力説した。月に一度このようにタカ子から報告を受ける時間を、私は気に入っている。私はなにかに集中すると、他のことが目に入らなくなるところがある。家族の一員であるのを忘れて、文学の世界に没頭してしまう。だが月に一度のタカ子からの報告で、家族の一員であると思い出させて貰える。またタカ子のお蔭(かげ)で、生活がつつがなく回っていると認識出来るので安堵(あんど)もする。私に理解させようと、一生懸命話をするタカ子の様子も好ましい。今月も有り難う。入院するので、来月からは金の管理すべてをタカ子に任せる。タカ子は問題なくやるだろう。

 タカ子は胸にノートを押し当てた。
 涙が零(こぼ)れる。
 こんな風に思っていたなんて……私が鈍いから、お金を任せたくないのだろうと思っていたのに……。私は……大切に思われていた? 言ってよ、だったら、そう。今更どうしたらいいのよ。こんなの……嫌よ。
 哀しくて、哀しくて、胸が痛い。
 タカ子は泣き続けた。

   9

 タカ子は真穂の腕を摑んだ。「緊張しちゃってるわ、私。またトイレに行きたいような気がしているし」
 真緒が尋ねる。「トイレに行かれますか?」
 首を左右に振る。「本当に行きたい訳じゃないの。ここから逃げ出したい気持ちがあって、それに身体(からだ)が反応しているだけだわ」
「タカ子様の緊張を幾分か和らげるために、わたくしがサクラになりましょう。わたくしも編み物をやってみたいと思っておりましたので、ちょうど良かったです」
 真穂が歩き出し、タカ子は通路に取り残される。
 真穂は少し先に置かれた椅子に座ると、テーブルの上の手芸雑誌を開いた。そしてタカ子に笑顔を向けた。
 困ったわぁ。どうしてこの話を引き受けてしまったのかしら。もっとよく考えれば良かった。
 自宅の片付けは先週無事に終わり、以前の姿を取り戻した。最終日に支払いを済ませると真穂が言い出した。働いてみませんかと。聞き間違えたのだろうと思った。だが、そうではなかった。知り合いがやっている手芸用品店で退職者が出て、後任を探しているという。「お客様から編み物の相談を受けたり、編み方を教えたりするお仕事だそうで、タカ子様にぴったりだと思いました。いかがですか?」と真穂は言った。
 断るべきだった。そんなの無理よと言えば良かったのだ。これまでの私であれば絶対に断っていたはずなのに……出来るかもしれないなんて思ってしまった。どうかしていた。
 そして七十一歳の新人が、今日仕事デビューすることになった。
 タカ子が与えられたのは、毛糸売り場の中の通路に置かれたテーブル席だった。
 勤務時間や日数は、タカ子の自由にしていいと店長からは言われている。勤務前と勤務後にタイムカードを押せばいいだけだった。こうした勤務スタイルで働く高齢の専門アドバイザーが、複数いると聞いている。
 店は八階建てで、布を始め、様々な手芸用品が各フロアに分かれて陳列されている。毛糸の売り場は三階にあった。
 タカ子は自分の胸元に目を落とす。
 スタッフ専用のエプロンの胸には〈編み物アドバイザー 安達〉と書かれた名札を留めてあった。
 人差し指でそっと名前を撫でる。
 この年になってこんな挑戦をすることになるなんて。あの人が生きていたらなんて言ったかしら。反対した? どうかしらね。あの人の気持ちを理解するのが私は下手だから……分からない。でも……頑張りなさいと言ってくれたような気もする。
 タカ子はゆっくり息を吐き出した。それから覚悟を決めて、真穂が着くテーブルに向かって足を動かした。
 そうして真穂の向かいに座った。
 真穂が小声で言う。「わたくしはサクラですから、客としてふるまわせて頂きます」
 タカ子が頷くと、真穂が言い出した。「全くの初心者なのですが、こういうセーターに挑戦するのは難しいでしょうか?」
 真穂が開いた雑誌のページを覗いてから、タカ子は答える。
「そうねぇ。えっと、そうですね。初めてであればマフラーのような、真っ直ぐ編むだけで済むものの方がいいと思います」
「やはりそうですか。でしたら、息子のマフラーを編むことにします。マフラーの編み方が載っている本はありますか?」
 タカ子は上半身を捻って、背後の棚に並ぶ手芸雑誌をチェックする。三冊を選び出してページを捲った。
 そうしてから真穂の方にページを向けた。「これはどうかしら。あっ、ダメね、こんな言い方は。お客様、こちらなどいかがでしょうか。ガーター編みのマフラーです。編み方を一つ覚えれば、それだけでいいので、初心者にはお勧めです。一色だけで編んでもいいですし、何色かの毛糸を使って、ストライプにしてもいいと思いますよ。色を増やすのはそれほど難しくないですから。配色や線の太さで仕上がりが全然違うので、個性を出せますよ」
 真穂が真剣な顔で考え始める。
 タカ子は紙を差し出して、色鉛筆の入った円筒ケースをその横に置いた。「イメージを絵で描いてみたらいかがでしょうか?」
 真穂はすぐに「そうします」と言うと色鉛筆を手に取る。
 その時だった。
「あの、いいですか?」と声が掛かった。
 三十代ぐらいの女性だった。
 タカ子は慌てて「ええ、はい、えっと、いらっしゃいませ」と口にする。
 女性は真穂の隣の椅子に腰掛けた。そして大きな紙袋から編み掛けのセーターを取り出した。
 テーブルに広げて言う。「セーターを編むの初めてで、ここまでは動画を見てなんとか出来たんですけど、襟の拾い方が難しくって」
 タカ子は驚く。「セーター初めてなんですか? 凄く上手に出来てますよ」
 顔を綻(ほころ)ばせた。「本当ですか? 凄く頑張ったんですよ、私。いい年なんですけど、生まれて初めてカレが出来たんです。カレが出来たら、手編みのセーターをプレゼントしたいとずっと思っていて、それでやっとその時がきて、だから嬉しくって編み始めたんですけど、ここまできて躓(つまず)いちゃって」
「拾い方は隙間が開かないようにするというのが、基本なんです。編み棒は持って来ていらっしゃいますか?」
「はい」と元気よく答えると紙袋から編み棒を取り出した。
「難しく考えなくて大丈夫ですよ。隙間を作らないようにと意識すると、自然と拾う場所はここしかないと、分かるようになりますから」タカ子が編み棒の先でセーターの一ヵ所をさす。「スタートはここ。ここに編み棒を入れてください」
 女性が慎重に編み目に編み棒をさす。
 視線を感じてタカ子は顔を上げた。
 二十代ぐらいの女性が立っていた。
 その女性は言った。「ゲージというのを編んだんですけど、本に書いてある標準の数字と、私のが全然違っていて、どうやって計算したらいいのか教えて欲しくて」
 タカ子は「計算は難しいですからね」と言うと「どうぞそちらにお掛けになってお待ちくださいね」と椅子を勧めた。
 こんな風にお客さんが重なることもあるのね。大変だわ。面接の時に店長からは暇な時は暇だけど、忙しい時は忙しいと言われていた。でも忙しいなんてことがあるのかしらと疑っていた。どうやら本当だったみたい。お金を頂くからにはきちんとお仕事をしなくては。頑張らないと。
 タカ子は先の客のセーターに目を戻し、次に拾う目の場所を編み棒の先でさした。「次はここですね」
 女性がタカ子の指示通りに目を拾っていく。
 タカ子は女性の手元から真穂に視線を移した。
 真穂は集中したような表情で、七色ぐらいを使ったストライプ柄を描いていた。
 想定外のデザインに目を見張る。
 随分と派手だけれど……まぁ、人それぞれだものね。最初はこの人に片付けを頼んでも大丈夫なのかと、心配していたのだけれど……真穂にお願いして良かった。部屋が片付いたのは勿論だけれど、思いもしなかった世界に私を引っ張り込んでくれた。そのお蔭で私の毎日は変わった。感謝の気持ちでいっぱい。後でたくさんお礼の言葉を言っておかないと。
 ふいに真穂が顔を上げた。タカ子と目が合うとにっこりとした。
 タカ子も微笑み返した。

   10

「宜しい?」と大きな声で木村成子(きむらせいこ)が尋ねた。
 タカ子は「どうぞ」と答える。
 成子がタカ子の斜め前に座った。
 手芸用品店のスタッフの休憩室には、十台ほどのテーブルがある。昼時のせいか混んでいてどのテーブルにも人がいた。
 働き始めて十日。タカ子は先週から、自宅で作ったお握りを持参するようになっている。
 一昨日ここでお握りを食べている時、成子と相席になり少しお喋りをした。
 三年前からここで働いているという成子は、刺繍(ししゅう)のアドバイザーだった。タカ子と同世代に見える成子は地声がとても大きい。声だけでなく成子は様々な音を発生させ、それがどれも大きかった。それほど体重があるようには見えないのに、ドタドタと大きな足音を出すし、ペットボトルをテーブルに、ドンと音をさせて置いたりするのだ。音は出すが雑な性格ではないようで、自分で刺繍をしたというハンカチを見せて貰ったら、気が遠くなるほどの緻密さだった。
 成子がファストフード店のロゴが印刷された紙袋を、ビリビリと大きな音をさせて引き裂いた。それを広げてランチョンマットのようにすると、フライドポテトを一本摘まみ上げた。そして口に押し込み咀嚼(そしゃく)をする。
 それから大きな声で「慣れましたか?」と質問した。
 タカ子は「まだ毎日緊張しています。緊張しながら楽しんでいる、そんな感じです」と答えた。
「緊張は直になくなるわよ。楽しいのはなによりね」
 タカ子は小さく頷く。
 本当に。仕事が楽しいと思う日が来るなんて、思ってもいなかった。
 成子が尋ねる。「この前、毛糸売り場でお見かけしたんだけど、もしかして娘さんがいらしてる?」
「私に娘はいませんが」
「あら、そう。だったらお客さんだったのね。安達さんと親しそうに話をされていたから娘さんかと。小綺麗な格好をした方だったのよ」
「もしかしてカチューシャをして、髪の先をカールさせた人でしょうか?」
「そうそう、そういう人だった」
「娘じゃありません。あの人は……友人です。年の離れた友人で、彼女の紹介でここで働くことになったんです。それで心配して、ちょくちょく顔を見せに来てくれるんです」
「そうだったのね」と言うと、成子は口をがばっと開けて、ハンバーガーにかぶり付いた。
 成子は生きる力が漲(みなぎ)っているといった感じで……ちょっと眩(まぶ)しい。同世代なのに。
 タカ子は聞いた。「木村さんがここで、刺繍のアドバイザーをすることになったのは、どういう経緯だったんですか?」
「夫婦で喫茶店をずっとやってたのね。夫が亡くなって一人で続けていたんだけど、大家からビルの建て替えをするから、出て行ってくれと言われてしまったの。それが三年前の話。これからなにをしようかと考えたんだけど、なんにも浮かばなくってねぇ。定休日以外毎日店に立って、それで満足していたから、他の生き方なんて考えたことなかったんだもの。もう年だしね、余生はぼんやりとテレビでも見て生きていくんだろうなと思ってたら、常連さんが刺繍のアドバイザーを探しているお店を知っていると、言い出したのよ。喫茶店が暇な時にね、まぁ、大概暇だったんだけど、カウンターで刺繍をしていたの。上手くいった作品は、額に入れて喫茶店に飾っていたから、私が刺繍を好きなことを知っていたのね。その常連さんの紹介でここの面接を受けたら、合格しちゃった」と言ってにまっと笑った。「そうそう。近いうちにタカ子さんの歓迎会をやるから、そのつもりでいてね」
「えっ、本当ですか?」
「本当よ。アレルギーとか、嫌いな食べ物とかある?」
「そういうのはないです」
「なんでも食べるのね」
「はい。なんでも食べます」と、タカ子。
「素晴らしい。食べるのは生きる基本だものね」思い出し笑いをする。「夫との見合いの場所が料亭だったの。天婦羅(てんぷら)が出たのよ。うちは裕福じゃなかったから、天婦羅なんて滅多に口に出来なかったのね。それで嬉しくなっちゃってバクバク食べちゃった。後で親からはしたないと怒られてね。そんなだったから断られると思っていたのに、縁談を進めたいと言っていると聞いて、びっくり仰天よ。どうしてかと後で夫に聞いたらね、食べっぷりに感心したからと言ったのよ」
 成子は紙コップに刺さっているストローを銜(くわ)えた。頬を凹(へこ)ませてドリンクを啜(すす)る。
 口を離すと今度はしんみりとした口調で言った。「うちの人、七十歳の時に胃を悪くしてね、手術で半分取っちゃったのよ。若い頃は大食漢だったのに、ほんのちょっとの量を、時間を掛けて食べるようになっちゃって。可哀想だった。亡くなる前の日にね、病院に行ったら、あの人、ベッドから窓越しに外を眺めててね、生まれ変わったら、今度は食の細い女と一緒になるかなって言ったの。そういう憎まれ口を叩(たた)く人だったのよ。だからね、私、そうしなさいよと言ったの。食費が掛からないからいいじゃないって。そうしたらあの人、でも食の細い女は情が薄いというから、どうしようかなぁって言うのよ。だからね、だったらよく食べる女にしといたらと私、言ったの。よく食べる女に悪い女はいないって言うわよって。そうしたら、そうしようかな、だって。素直じゃないからそんな言い方しか出来ないのよね。でもあの人なりの精一杯の愛情表現だったんだと思うの。それからあの人、笑ったの。しわしわの顔で。それが最後に見たあの人の笑顔だったわ」
「お二人は心が通じ合えていたんですね。だから言葉通りじゃなくて、言葉の裏にある本当の気持ちを理解出来たんですね」
「タカ子さんは? 生まれ変わってもまたご主人と一緒になりたい?」
 タカ子は考え込む。
 しばらくしてからタカ子は口を開く。「私は鈍いので、二周目でようやく幸せに気付けるように思います。だから次も主人で」
 自分の出した答えに納得したタカ子は一つ頷いた。それからお握りを口にした。

   11

 あらっ。鍵が開いてる。ヤだわ。閉めるのを忘れちゃったのかしら。
 タカ子は鍵穴から鍵を引き抜き玄関ドアを開けた。
 三和土に男物と女物の靴があった。
 あぁ。和久と敦子が合鍵で入ったのね。
 タカ子が靴を脱いでいると、和久が廊下を急ぎ足でやって来た。
「どこに行ってたんだよ。何度もメッセージ送ったんだよ」と和久が言う。
「そうだったの? 仕事中はスマホを見ないし、今日は帰り道でも見なかったのよ」
「えっ? 今仕事って言った?」
「言いましたよ。働いているし忙しいんだから、今度来る時は事前に連絡をしてからにして頂戴」
 きょとんとしている和久の横をすり抜けて、タカ子は廊下を進む。
 リビングには敦子がいた。
 タカ子は言う。「敦子さんも来てたのね。いらっしゃい。今日はマスクはしてないのね」
「えっ? えぇ、はい」と敦子が答える。
 タカ子を追いかけてきた和久が尋ねる。「働いているってどういうこと?」
 タカ子は説明する。「手芸用品店で編み物アドバイザーの仕事をしているの。凄く楽しくて遣り甲斐があるのよ」
 和久が言った。「なんだよ、それ。そんな話、聞いてないよ」
「息子の許可を取る必要はありませんからね。言わなかったのよ」
「それは……」和久が一瞬唇を歪(ゆが)めてから声を発した。「もう年なんだから働かなくたっていいじゃないか」
「働きたいのよ。楽しいんだもの」
「…………」
「それで? 今日はなんの用なの?」
 和久と敦子は顔を見合わせた。
 さては。私を老人ホームへ入れるために、説得に来たってところかしらね。タカ子は心の中で秘(ひそ)かに笑う。この前和久が来た時には、部屋を片付けることも出来ないんじゃ、一人で暮らすのは限界なんだよと言っていたものね。今日もその台詞(せりふ)を言うつもりでいたのに、すっかり片付いた家を見て、言えなくなってしまって困っているんじゃない? 片付けておいて良かったわぁ。真穂が言っていた通り、自分の過去と未来を再編成する作業を、しておいて良かった。そのお蔭で今の私があるんだもの。ずっと仕事を続けられはしない。それは分かっている。でも無理だと思う日までは頑張る。いずれ施設に入所する日は来るでしょう。しょうがない。でもその日は私が自分で決める。誰かに決められたくない。絶対に。
 二人がなにも答えないので、タカ子は「夕飯食べてく?」と別の質問をした。
 またしても二人はなにも言わない。
 タカ子は言う。「来ると分かっていたら用意しておいたんだけれど、今日は材料があまりないからお寿司の出前でも取る?」
 反応がない。
 タカ子が「そんなに難しい質問はしていないんだけれどねぇ」と呟くと、「食べてくよ」と和久がぼそりと言った。
「そう。じゃ、注文するわね」と口にしたタカ子は、バッグからスマホを取り出して操作を始めた。
 すると敦子が聞いた。「お義母(かあ)さん、もしかしてスマホから注文するんですか?」
「そうよ。電話より早いしポイントが多く付くのよ」と答える。
 和久と敦子が再び顔を見合わせた。
 タカ子は注文を済ませると和久に声を掛ける。「宅配便で送りたい物があるんだけれど、帰る時にコンビニに持って行って、出して貰える?」
 和久が「いいよ」と言うので、タカ子は「準備しちゃうわね」と告げてから二階に上がった。
 書斎の灯りを点けて中に入る。押入れの扉を開けた。下段から段ボール箱を引っ張り出す。
 夫が使っていたデスクの前には、作業台をくっつけるように設置してある。
 タカ子は作業台に載せた書類ケースの引き出しを開けた。宅配便の伝票を取り出して椅子に座る。
「デスクと椅子だけ残したんだな」と和久の声がした。
 和久が書斎の出入り口に立っていた。
 タカ子は答える。「そう。これがあるとここにお父さんがいるみたいでしょ。だから残したの。最近は編み物はここですることが多いのよ」
「なんだか全然違う部屋みたいだ」
 本棚はすべて撤去した。夫の日記はケースに収めて押入れの下段に仕舞った。そして夫が使っていたデスクと椅子だけ残し、新たに白い作業台を入れた。編み物の道具や毛糸の買い置きなどは、押入れの上段に入れたプラスチックチェストに、種類別に収納してある。
 和久が聞く。「編み物アドバイザーってなにすんの?」
「編み物のアドバイスよ」
「まんまだな」
「目の減らし方が分からないとか、編み図の通りに編んでいるつもりだったのに、出来上がっていく模様が、完成写真と違っているのはどうしてかとか、そういう相談が持ち込まれるの。こうしたらいいのよと助けてあげるのが私の仕事。いい娘さんが多くてね。あ、男性のお客さんもいるから、いい人が多いと言った方がいいわね。この間のお礼ですなんて言って、クッキーを持って来てくれたりするのよ。同僚も親切な人が多いし、アドバイザーたちは私と同世代だから、とっても居心地がいいの」
「身体はしんどくないの?」
「大丈夫よ。働く時間は自分で決めていいところなの。だから今日は二時間だけとか、今日は休みとか、体調に合わせて働かせて貰ってるわ。働くのがちょうどいい運動になっているみたいで、左膝の調子なんて良くなっているぐらいなのよ」
 タカ子は立ち上がると段ボール箱のフラップを開けた。
 上部に隙間があった。
 タカ子は押入れから緩衝材を取り出す。
 和久が段ボール箱の中を覗いて言った。「これ、母さんが編んだセーターだろ? どうすんの?」
「施設の子どもたちにプレゼントするの。マフラーと手袋もあるのよ。とても喜んでくれるから嬉しくって、頑張ってたくさん編んだの」
 タカ子は緩衝材をセーターの上に載せてから、フラップを閉じた。
 ガムテープで留めて宅配便の伝票を貼った。
 タカ子は尋ねる。「どうしてそんなに不満そうな顔をしているの?」
 和久がぎゅっと唇を引き結んだ。
 それから言った。「僕が知ってる母さんじゃないから落ち着かないんだ」
 タカ子は笑い声を上げた。
 和久が驚いたような表情を見せる。
 タカ子は「今度はそんなびっくりした顔をして、なに?」と聞いた。
「そんな風に笑うのだって……僕が知ってる母さんはそんな風にケラケラと笑ったりしない」
 タカ子は再び笑い声を上げてから「さ、これを下に運んで頂戴」と言って段ボール箱を叩いた。
 和久が段ボール箱を持ち上げた。先に部屋を出る。
 和久に続いて部屋を出たタカ子は振り返った。
 革張りの椅子をしばし見つめる。
 微笑んでから灯りを消した。

(つづく) 次回は2024年9月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 桂望実

    1965年、東京都生まれ。大妻女子大学卒業。会社員、フリーライターを経て、2003年、『死日記』でエクスナレッジ社「作家への道!」優秀賞を受賞しデビュー。05年刊行の『県庁の星』が映画化されベストセラーに。他の著書に『恋愛検定』『僕は金になる』『残された人が編む物語』(すべて祥伝社)、『息をつめて』『就活の準備はお済みですか?』など多数。

    【著者公式HP】 https://nozomi-katsura.jp/