桂望実
1 「だから」鶴元大輔(つるもとだいすけ)は大きな声を上げた。「そういう考え方がダメなんだって言ってるだろ。ゴミで人は死なないなんて開き直ってる場合かよ。この部屋を見てなんとも思わないのか? なんとも思わないっていうなら鈍感過ぎだ」 妻の直子(なおこ)が反論する。「そりゃあ散らかってはいるけど、もっと酷(ひど)い家はあるわよ」 「どこの誰と比べて言ってんだ?」 「そんなに不満だったら自分で片付けたらいいじゃない」と頬(ほお)を膨らませた。 「俺が捨てようとすると、それはダメだとか言うから片付けられないんじゃないか。中村(なかむら)さん、うちのに言ってやってくださいよ。整理収納アドバイザーとしてビシッと」 中村真穂(まほ)が言う。「ご夫婦でお考えが違うというのは、よくあることでございますので、まずは旦那様と奥様それぞれの、このお家をどういう状態にしたいかというご希望を、お聞かせ頂きたいのですが」 大輔が口を開いた。「どういう状態って……俺は家にいる間じゅう苛(いら)ついてしまうんです。真面目に働いているっていうのに、どうしてこんなに物で溢(あふ)れたきったない家に、住んでなくちゃいけないんだろうと思って。家にいるのにリラックス出来なくて、ストレスが溜(た)まるって、おかしいじゃないですか。だからストレスが溜まらない状態にしたいですね」 この3LDKのマンションは三ヵ月前に、空き巣に入られた。やって来た警察官は部屋を見回して「随分と荒らされましたね」と言った。恥ずかしかったし情けなかった。部屋の景色はいつもと同じだったのだ。 そんな状態だったから盗まれた物があったのか、盗まれたとしたらそれがなんなのかは分からなかった。 ただ寝室に置いていた百万円が盗まれたことは、はっきりしていた。満期になったので利率のいい別の金融商品に預け替えるつもりで、一旦手元に置いていた百万円を、クローゼットの中の鞄(かばん)に入れていた。空き巣はそれを見つけて持ち去っていた。盗(と)られてショックではあったが、物が溢れかえったこの家で、現金をちゃんと見つける技には感心してしまった。 大輔と同じ五十五歳の直子は大雑把(おおざっぱ)な性格だった。なにもかもテキトーでそれでいいと思っている。だから注意しても一向に直さない。 なんでこんな女と結婚してしまったのか。交際中は大らかな人だと思っていた。細かい女よりこういう人の方が、一緒に暮らすのは気楽だろうと考えてしまったのは、人生最大のミスだった。明るいところや、へこたれないところも交際中には好ましく感じていた。だがこうした評価も間違っていたと結婚後に気付いた。ギャーギャーと煩(うるさ)く頑固なだけだったのだ。 いつからか気が付けば毎日喧嘩(けんか)するようになっていた。この喧嘩は部屋がとんでもなく散らかっていることを、大輔が責めるところから大抵始まる。直子が反省してくれればそれで終わるのに、開き直って逆ギレした上、片付けとは関係ない話を持ち出すものだから、大声で互いを非難し合うようになる。そして疲れたどちらかがトイレや寝室などに避難して、ドアを力任せに閉めて、ようやくその日の喧嘩が終わるのだった。 喧嘩するには体力がいる。心も疲れる。整理収納アドバイザーに、片付けを依頼出来るとネットで知り調べ始めた。アドバイザーに対する口コミをチェックした。平均評価が星五つの満点だったのは一人だけ。それが中村だった。コメント欄には感謝の言葉ばかりが並んでいた。中には人生が変わったなどと大袈裟(おおげさ)なものまであった。ネットの口コミに全幅の信頼を寄せている訳ではないが、他に技量を調べる手段はなかったので、ひとまず中村に電話をした。やたらに丁寧な言葉遣いをする人だった。感じが良かったので見積もりに来て貰(もら)うことにした。 直子にその話をしたら、プロに頼むのが一番ねなどと、すんなり了承したのは意外だった。 そして土曜日の今日、中村を自宅に迎えてリビングで打ち合わせを始めた。だがこんな状態にしている張本人が、生活していれば散らかるものだなどと言い出したため、大輔は黙ってはいられなくなった。他人様(ひとさま)の前だというのに、気が付けばいつもの口喧嘩がスタートしていた。 中村が尋ねる。「奥様はいかがでしょう。このお家をどういう状態になさりたいでしょうか?」 直子は少しの間考えるような顔をしてから「探し物が見つかる家がいいかも。見つからないのよ、必要な時に限って。そういうことってなぁい? うちはあるの」と答えてからハハッと笑い声を上げた。 笑ってる場合かよ。怒りが胸に溢れて呼吸を乱す。 大輔は一つ息を吐(つ)いてから中村に向けて言った。「この調子なんですよ。呆(あき)れるでしょ。なにかというと、忙しいんだからしょうがないじゃないと言うんです。子どもが小さい頃は、確かに忙しくて大変だったと思いますよ。でも子どもたちは大きくなって、とっくにここを出て働いています。世話なんてしてないんだから、忙しいなんて理由は通じやしないっていうのに」 すぐに直子が「忙しいのよ。私だって働いているんだから」と言い訳をする。 「パートじゃないか。午前十時から午後三時までだろ」と大輔は指摘する。 「料理や洗濯をしているのは私よ。労働時間はあなた以上に長いわ」 「大した料理を作りゃしないじゃないか。何時間も掛かってないだろ。洗濯だって洗濯機が洗ってくれるんだから、やることといったらボタンを押すぐらいじゃないか」 「これだもの」中村に対して「なんにも分かってないんですよ、この人は」と言い付けると、次に大輔に顔を向けた。「洗濯機は物干しに干してくれやしないのよ。私がやっているのよ。すべての洗濯物を一つひとつ広げて、干して、乾いたらすべての洗濯物を一つひとつ取り込むのも私よ。一つひとつ畳んで箪笥(たんす)に仕舞うのも私。洗濯機はやってくれないんだからね」 直子はうんざりしたような表情を浮かべて、わざとらしくため息を吐いた。 それから中村に愚痴る。「この人はこんなことも分からないんですから、嫌になっちゃいますよ」 お前という女は。 大輔が反論しようと口を開きかけた時、中村が割って入った。「家庭内別居をご提案させて頂きます」 えっ? 聞き間違えたのかと直子に目を向けた。 直子もびっくりしたような顔をしていた。 大輔は尋ねる。「今、別居と言いましたか?」 中村が頷(うなず)いた。「家庭内別居と申し上げました。希望する暮らし方が旦那様と奥様では違うようです。これを擦(す)り合わせるのは難しゅうございます。お互いにストレスがない暮らし方にしようとされるのであれば、生活する場所を分けるのが、一番シンプルな解決策だと思います。いかがでしょう。ご検討されてみては」 中村は真面目な顔をしている。これっぽっちも笑っていない。 ということは冗談ではなく本気で言っているのか……。家庭内別居なんて考えたこともなかったが。 直子に視線を向けた。 戸惑ったような表情を浮かべていた。 2 大輔は目を開けた。ベッド横のナイトテーブルに手を伸ばす。 時計は午前十時を指していた。 頬をペチペチと叩(たた)いてから上半身を起こした。伸びをしてからベッドを下りる。寝室を出ると、散らばっている物を避(よ)けながら廊下を進む。 トイレで用を済ませてから鏡を覗(のぞ)いたら、浮腫(むく)んだ顔をしたオッサンがいた。 昨夜は飲み過ぎた。同期入社の石井祐嘉(いしいひろよし)の送別会があったのだ。 食品の輸入会社に新卒で入社した同期の大輔と祐嘉は、営業部に配属になった。三年後に祐嘉は体調を崩して経理部に異動になった。ストレスで胃をやられたという話だった。それから祐嘉はずっと経理畑で過ごした。 たまに二人で飲みに行くと、営業畑で働き続ける大輔を、祐嘉は「お前は凄(すご)い」と褒(ほ)めた。そして「駆け引きが苦手なお前の方が、先に潰れると予想していたんだがな」と祐嘉は毎回のように言った。 確かに大輔は駆け引きは苦手というか、出来ない。しようとも思わない。正攻法で仕事をするのが自分のスタイルだった。嘘(うそ)を吐かず、ライバル社を貶(おとし)めたりせず、取引先からの理不尽な値下げ要求にも屈せず、正直な商売をすることをモットーとしている。 上司からは随分叱(しか)られた。だがやり方を変えなかった。そのうちにこんなやり方でも、他の営業部員たちより成績が良くなると、誰からもなにも言われなくなった。 祐嘉はN県に帰って親の介護をするらしい。 大輔はトイレを出ると廊下を進み、リビングのドアを開けた。 あぁ。 思わず声が出る。 休日の喜びを一瞬で台無しにさせるほどの景色が、広がっている。 ソファの背もたれには服が大量に掛けられていた。これから洗濯するつもりなのか、洗濯が終わったものなのか不明だった。ローテーブルの上には飴(あめ)の入った袋やチラシ、雑誌などが置かれている。そして壁際の棚の前には、ピンク色の大きなバランスボール、足踏み器、足湯をするための容器などが並んでいた。 こうしたダイエットのためだとか、身体(からだ)にいいからだとか言って直子が買った物は、すでに使われなくなって何年も経(た)つ。八畳しかないリビングには不用の物が溢れていて、物を跨(また)がずにはソファに辿(たど)り着けない状態が、長年続いていた。 整理収納アドバイザーに見積もりに来て貰ったのは、一週間前だった。だが中村からは家庭内別居を勧められ、それをするかしないかで片付け方が変わるので、見積もり額はそれが決まってから出すと言われている。結論を出していないため、片付けはまだスタートすらしていない。 大輔は足で床にある物をどかしながら、ダイニングテーブルに近付いた。 テーブルには食パンの入った袋が置かれ、その下にメモがあった。[冷蔵庫に竹輪(ちくわ)の煮物があります。フラダンスに行ってきます]と書いてあった。 どういう組み合わせなんだよ。パンを食わせたいなら目玉焼きぐらい作っておけって。夕べの残り物の竹輪の煮物を食わせたいなら、白飯を炊いておくべきだろうが。主婦業をサボり過ぎなんだ、あいつは。 ムカムカしながらインスタントコーヒーを作った。食パンをコーヒーで胃に流し込んだ。 着替えをしてから家を出た。 住宅街をしばらく歩く。黒いネットで覆われたマンションの角を左に曲がった。 外壁工事だろうか。 うちのマンションも建って二十五年になるので、大規模修繕の話が管理組合で議題に上るようになった。 十分ほど歩きヘアカット専門店のドアを開けた。勧められた手前の理容椅子に座った。 六十代ぐらいの男性店長がどうしますかと聞いてきたので、全体的に二センチ切って欲しいと頼む。 以前ここはぬいぐるみやら、エプロンやらを売る店だったが、十年ほど前にヘアカット専門店に変わった。それまではわざわざ電車に乗って、隣の駅まで行っていたので、ここが出来て助かっている。 大輔と同年代ぐらいの男性客が入ってきた。 練習帰りなのかゴルフのクラブバッグを持っている。 店長から待つように言われた客は、入り口横の長椅子(ながいす)に腰掛けた。 ケッ。ゴルフするヤツは嫌いだ。 高校生の頃、地元のゴルフ場でバイトをした。嫌な客ばっかりだった。性格が悪くないとゴルフをやってはいけないのか、ゴルフをやっていると性格が悪くなるかの、どっちかだと思っている。 あれは二年生の春だった。付いたパーティの一人が訛(なま)りが酷くて、なにを言っているか分からなかった。何度も聞き返していたら怒り出した。そいつがクラブを振り上げたので逃げようとした。その時にそいつのゴルフバッグを倒してしまった。俺は悪くなかった。暴力を振るおうとした向こうが悪い。クラブを避けようと、逃げた時のハプニングだから不可抗力だ。しかもゴルフバッグの中のクラブは無事だったというのに、客は更に怒った。興奮した客は早口になり、益々なにを言っているのか分からなかった。結局支配人に来て貰い一緒に謝った。だがそこまでしても許されず、クラブハウスに場所を移して怒られ続けた。そいつの顔、服装、名前、会社名を記憶に刻んだ。 五年前にそいつが経営している不動産会社を、ネットでチェックしたら倒産していた。ガッツポーズをした後でざまぁみろと声を上げた。長年に亘(わた)り定期的にそいつの会社の動静を、チェックしていた甲斐(かい)があった。俺はしつこい男なのだ。 ヘアカットが終わると三軒隣のパチンコ店に入った。 一時間で一万円が消えてしまい店を出た。 なんか食うかな。 腹を擦(さす)る。ふと、自分の腹部に目を落とした。 なんだかまた腹が出てきたような気がする。 去年の健康診断の結果にショックを受けて一念発起し、会社帰りに一つ手前の駅で降りて、自宅まで歩くことにしたのだが、一週間も続かなかった。 外食より、家にあるものを食べた方が身体にはいいんだろうが……竹輪の煮物って気分じゃないんだよなぁ。そういや俺は今日、食パン一枚とコーヒーしか口にしていない。一日に必要なカロリーが全然足りていないじゃないか。太るのはマズいが、カロリーが少ないのも身体には良くないはずだ。そうだな。外でしっかり食べよう。なににするか……よし、ラーメンにしよう。 急に楽しくなっていそいそと歩き出す。 駅の構内を通って北口に回り、ラーメン店の暖簾(のれん)を潜(くぐ)った。 カウンターに座り塩ラーメンを注文した。餃子(ギョーザ)とビールも。 五個の餃子を平らげたタイミングで、ラーメンが大輔の前に置かれた。 レンゲでスープを掬(すく)い啜(すす)った。 旨(うま)い。 ハマグリの出汁(だし)が効いている。小汚い店だが味は確かだった。 大輔が生まれた町は貝漁が盛んだった。だからだろう。母親の料理には貝を使ったものが多かった。大輔はその中でも特にハマグリが好きだった。 新婚当時、直子から今夜なにが食べたいかと聞かれると、ハマグリと答えたものだが、食卓には滅多に出てこなかった。「ハマグリとリクエストしたのに」と大輔が言うと、スーパーになかったとか、高かったと直子は言い訳をした。そのうち直子は食べたいものを聞いてこなくなった。 大輔は大満足でラーメン店を出た。 自宅に戻り玄関ドアを開けてため息を吐く。 シューズラックの上にはマフラーや手袋、使い捨てカイロなどが無造作に置かれている。三月だというのに。恐らく次の冬までこのままここに放置する気なのだろう。廊下には傘立てに入りきらなくなった大量の傘が、床に積み重なっていた。 せっかくご機嫌な土曜日を過ごしていたのに、一気に気分が下がる。 派手にげっぷをしてから廊下を進む。 リビングで映画を観ることにした。 二時間ほどして直子からラインが入った。 夕食は外で済ませるので、家にあるもので食事をしてくれと書いてあったので、了解と返事を出す。 それから大輔は立ち上がった。大きく伸びをしたら欠伸(あくび)が出た。 キッチンに移り冷蔵庫の中をチェックする。 食べたくなるような物はなかったので、床に直置きされているレトルト食品を見ていく。黄金色の派手なパッケージに目が留まった。 カレーだった。 夕食をこれに決めて次にパックご飯を探す。 シンク下の引き出しで見つけて一つ取り出した。 その瞬間、気付いた。 最高の休日になっているぞ。パチンコをちょっとやって、ラーメン食って、映画観て、カレーを食う。部屋がこんなじゃなかったら、俺は幸せを感じているところだ。それは……休日を直子と別々に過ごしているからでもある。側(そば)にいないから苛々しないし喧嘩もしなくて済む。だとしたら……家庭内別居はアリかもしれない。中村から提案を受けた時は驚いてしまい、そこで思考は止まった。話の流れで検討するということになったものの、ちゃんと考えようとしてこなかったが……うん。アリだな。家庭内別居。 後で直子にラインしてみよう。 そう決めると、大輔はカレーの箱の裏側にある説明書きを読み始めた。 3 「家庭内別居のレベルはどれくらいになさいますか?」と中村が質問した。 「レベルって……」思わず大輔と直子は顔を見合わせる。 中村の提案に乗っかり、家庭内別居をすることにした大輔たちは、彼女を再び招いた。 そして今、ソファに向かい合って座っている。 中村が言う。「最高レベルになりますと例えば食事の支度(したく)も洗濯も、それぞれが別々に行います。これですとコストは高くなります。それぞれが一人暮らしをしているような状況に近くなりますので。初めて家庭内別居にトライする場合は、緩(ゆる)めのレベルの担当制から、スタートされてみるのが宜(よろ)しいかと思います」 「担当制?」大輔は聞き返す。 「はい」中村が説明を始めた。「例えばですがお料理を奥様が担当すると決めた場合、お二人分の食事を作って頂きます。またキッチンの整理、管理も奥様にやって頂きます。洗濯を旦那様が担当すると決めた場合には、お二人分の洗濯をして頂きまして、洗濯機のある洗面所の整理と管理も旦那様にやって頂きます。と、こういった感じでございます。担当の方が決めた片付けのルールを、もう一方の方に守って頂くのが肝心でして、それが上手くいきますと、片付いた状態がキープ出来るようでございます」 「なるほどね。まぁ、俺たちは初心者なんだから、緩い別居でいいんじゃないか?」と尋ねる。 直子が「そうね」と頷いた。 そこでまず部屋の割り当てを決めた。長男の裕俊(ひろとし)が使っていた部屋を大輔の個室にし、夫婦の寝室は直子の個室にすることになった。次男の亮治(りょうじ)が使っていた部屋には、裕俊の部屋から出したものを収納することにした。それからキッチン、洗面所、浴室、トイレ、玄関、廊下の担当も決めた。 中村が言い出した。「次はリビングでございます。最大の難関でございます」 「あら、そうなんですか?」と直子が明るい声を出す。 「はい」中村が答えた。「ここを担当制にしますと、その担当者の負担がかなり大きくなりますので、不公平だと思う方が多いようでございます。ですが、担当制にせずに、お二人で整理と管理をするようにしますと、片付いた状態が続かずに、元に戻ってしまうケースが多くなりますので、どちらのスタイルがいいのか、決めるのは難しゅうございます」 「元に戻るのは困るな」と大輔は言う。「散らかすのは直子なんだから、直子が担当しろよ」 「えー、嫌よ」と、直子。 「なんだよ、それ」大輔は中村に告げる。「ここにあるのは妻の物ばっかりなんです。こういう場合はやっぱり妻が担当するべきですよね?」 中村が尋ねた。「旦那様はリビングをどのようにしたいと、お考えでしょうか?」 「どのようにって」大輔は少し考えてから答える。「物を一掃したいですよ。妻しか使わない物は、妻の部屋に置くべきでしょ。ダイエット出来るとかいうグッズとか、冷え性対策の物とか、色々買っちゃあ、リビングに置くんですから」 直子が反論する。「テレビを見ながらやりたいからよ。テレビのある部屋に置いておいた方がいいじゃない」 「使い終わったら直子の部屋に戻せよ。これからは直子の個室が出来るんだから、必ずそうしろよ」と、大輔。 頬を膨らませた。「ここにはあなたの物だってあるわよ」 「なにがあるんだよ」 直子は首を左右に回して、辺りの物を片っ端から動かし始める。白い紙製の箱を持ち上げると、その下のDVDケースに目を留めた。 そして「あらっ。こんなところにあった。ずっと探してたのに」と言って自分の膝に載せた。 フラダンス発表会二〇二三年と書かれたシールが、ケースに貼ってあった。 直子が出演した発表会のDVDだろう。 直子が習いに行っている教室では、年に何度か発表会を開く。毎回大輔が観に来ると直子は思い込んでいて、今度の発表会はいついつだからと日にちだけを告げる。良かったら観に来てなどといった、慎ましさを感じさせる言葉は決して使わない。来るのが前提となっているところが、ちょっと気に入らない。酷い踊りなのだ。年のいった女たちが派手な揃(そろ)いの衣装を着て、ゆらゆらと左右に揺れるだけだった。 出演する演目が一つだけならまだいい。その時間に合わせて会場に行き、終わったら楽屋に顔を出して、観たからなとアピールしてから先に帰ればいいので、我慢は十分ぐらいで終わる。だがチーム編成を変えて何度も出演するのだ。午前十時と、午後一時と、午後四時の三回出演するなんて時は最悪だ。息子たちは仕事が忙しいだとか、予定が入ったなどと言って最近は観に来ない。だから大輔はたった一人で、この拷問に一日中耐え続けるのだ。 家庭内別居をしたら、もう発表会に行かなくてもいいのだろうか。夫としての義務から解放されるのだとしたら……別居、最高。 直子が「やだっ。こんなところにあった」トンカチを持ち上げた。 大輔は言う。「なんでここにそんなものがあるんだよ」 直子が首を傾(かし)げた。「なんでかしら。全然覚えがないわ。あなたじゃない?」 「俺は使ったら元に戻すよ」 「だったら私かしら。トンカチが退屈して自分で歩いてきたのかもよ。ハハッ」と笑い声を上げた。 直子は絶対にどこかのネジが緩んでいる。長年の疑いが今、確信に変わった。 4 直子がエコバッグからお握りを取り出した。 そして「あなたはこっちでしょ」と言って二個のお握りを大輔の前に置く。 それは直巻きのお握りだった。 大輔はお握りの海苔はしっとり派だった。 それで大輔用に、直巻きのお握りをコンビニで買ってきたのだろう。残り四個は全部手巻きタイプのお握りだった。 直子が「どうぞお好きなのを選んでくださいな」と言うと、中村は昆布と鮭(さけ)を選んだ。 片付け初日の今日はキッチンからスタートした。リビングをどうするかはまだ結論が出ていないのだが、その決定を待っているとなかなかスタートが切れないので、出来るところから始めることになったのだ。 キッチンにある物すべてを、ブルーシートの上に仕分けしながら出した。長年使っておらず不要と判断した物がとても多かった。大輔は処分すると決めた物をゴミ袋にせっせと詰め込み、マンションのごみ置き場に運んだ。何往復もした。 三時間後にキッチンは入居したばかりの頃の姿に戻った。物が溢れて半開き状態だった棚の扉が、すべてぴしっと閉じてあるだけでも印象は全然違う。 洗面所の片付けに取り掛かる前に、昼食を摂(と)ってしまおうということになり、直子がコンビニに走り、お握りとドリンクを買ってきたところだった。 中村がペットボトルの緑茶を飲み、それをダイニングテーブルに戻した。「お差し支えなければ、お二人の出会いをお聞かせ頂けますでしょうか?」 直子がお握りを頬張っていて喋(しゃべ)る気配がないので、大輔が答えた。「友人が絵をやっていまして、その彼が個展を開くというので観に行ったんです。その日たまたま妻も来ていたんです。画家の恋人が、妻の友人だったんです」 中村が期待を込めたような目でじっと大輔を見つめる。 なに? なんでそんな顔? 大輔は「なんですか?」と尋ねる。 「お話は終わりですか?」と中村が確認する。「個展会場にお二人がいたというのは分かりましたが、それだけで交際することにはならないと思うのですが。そこから先はシークレットでしょうか?」 「シークレットじゃないですけど」と言って大輔は苦笑いをする。「その画家の絵がですね、シュールレアリスムというんだったかな。分かり難(にく)い絵だったんです。エレベーターの中でシマウマが暮らしていたり、女性が自分の指に塩を振って食べようとしていたりなんですよ。そういう絵を観て俺は固まってたんです。観に行った訳ですから、画家から感想を聞かれるだろうと、予想出来るじゃないですか。そうなった時に、なんて答えたらいいかと困っていたんです。そうしたら会場で絵を熱心に見ている人に気が付いたんです。それが妻でした。真剣な様子で絵を観ていたので、不可思議な世界を理解して味わっているのかと思って、声を掛けたんです。その絵、好きですかと。そうしたら、なにがなんだか分からなくて、好きか嫌いかも分かりませんと答えて、ハハッと笑ったんです。理解出来ないのは自分だけじゃないと知って、少しほっとしましたよ。それから話をして、電話番号を交換してといった具合です」 あの時……直子の笑顔にノックアウトされた。真っ赤な口紅を塗った口を大きく開けて笑う姿が、とても魅力的に思えた。こんな風に笑う人が隣にいたら、毎日楽しそうだと思った。その時付き合いたいとは思ったが、結婚のことまでは頭になかった。当然ながら三十年後に、家庭内別居をすることになるとも予想していなかった。 中村が言う。「素敵な出会いですね」 「俺らは結婚しましたが、その画家と恋人は別れたんですよ。だったよな?」と直子に確認する。 直子が頷いた。「凄く仲が良かったので、別れたと聞いた時にはびっくりしました。一心同体といった感じだったんですよ。彼が描いた絵を、まるで自分が描いたかのように、説明するぐらいだったのに」 中村が尋ねた。「その画家の方は今は?」 大輔が答える。「タクシーの運転手をしているそうです。独身で」 直子が「彼女は別の人と結婚したんですけど、十年ぐらい前に別れたと聞きました」と伝えた。 中村がしみじみとした口調で「ご縁というのは不思議ですね。続くと皆から思われていたカップルが別れたり、すぐに別れると思われていたカップルが、長く続いたりしますね」と言った。 そういう中村はどうなのだろう。結婚しているのか、いないのか。一見お上品そうに見えなくもないのに、出してくるアイデアは突拍子もなくて、中村という人物を摑(つか)みかねているんだが。 お握りを食べ終わると、洗面所の整理に取り掛かった。 十平米ほどの洗面所の左奥には、洗濯機置き場があり、その横には浴室のドアがある。右サイドには洗面台があり、その隣には一・五メートルほどの高さのラックが、置かれている。その四段ある引き出しすべてから物が溢れていて、半開きになっている。また洗剤の在庫などは床に直置きされていた。 ここの担当に決まった大輔は、乾燥機能付き洗濯機に買い替えることにした。すると直子がキャンキャンと文句を言い始めた。「乾燥機能付きのにしたいと私が言った時には、高いと言って反対した癖に、自分がやるとなったら、乾燥機能付きのに買い替えるなんてズルい」と大声を上げたのだ。 確かに俺は言った。乾燥機能付きだと、普通の洗濯機の二倍くらいの価格だったからだ。太陽に乾かして貰えば電気代だって掛からないのだし、乾燥機能付きのは贅沢(ぜいたく)品だと思ったのだ。だがその時には洗濯は直子がやるのが前提だった。直子はパートなので朝は九時半頃に家を出る。だから洗濯を干す時間がある。だが新たに担当になった俺は、八時には家を出なくてはならない。帰りも遅い。部屋干しする場所もない。乾燥機能に頼るしかないじゃないか。他に選択肢はない。それまでとは前提条件が変わったのだから、違う結論を出したっていいじゃないか。 それなのに酷いだとか、あなたはいつもそうやって自分中心なんだとか言って、俺を責め続けた。そして「だったら自動食器洗い機も買ってよ」と言い出した。だが我が家のキッチンには、自動食器洗い機を置くスペースはない。どうしても採用するとなったら、キッチンを丸ごとリフォームするしかないことは、直子だって分かっているはずだった。以前検討した時にそれが理由で諦めたのだから。キッチンを丸ごとリフォームする金などないと分かっているのに、そんなことを口にするのだから嫌になる。 それで喧嘩になった。 いつもなら喧嘩をしても翌日になれば機嫌を直す直子が、今回は不機嫌な状態が続いた。昨日になってようやく、普通に会話が出来るようになったのだった。 中村と直子が洗面所にある物を、ブルーシートにすべて出している間、大輔は隅でラックの組み立てを始めた。中村のアドバイスに従い、買ったばかりの洗濯乾燥機の上部の空間を活かそうと、背の高いラックを用意した。 ポールを洗濯乾燥機の横に立てると、回しながら長さを伸ばす。そうして最上端を天井に付け、最下端を床に密着させて固定する。 そうやって四本のポールを、洗濯乾燥機の周りに配置した。次に横板を洗濯乾燥機のトップ部分から十センチほどの位置で、ポールに仮止めをした。 そして振り返った。 「そんなにあるのか」思わず大輔は大きな声を上げた。 ブルーシートには大量の物が載っていた。ブルーシートの上には〈残す物〉〈処分する物〉〈保留〉と書かれたカードが置かれていて、それぞれのカードの前に三つの山が出来ている。 大輔はピンク色の容器を持ち上げた。「これは化粧品だろ? 残す物が多過ぎだよ。ここは狭いんだから、処分しないなら直子の部屋に移せよ」 直子が口を尖(とが)らせる。「ここで使う物を、どうして私の部屋に置かなきゃいけないのよ」 「だから」大輔は声を上げる。「化粧は自分の部屋でしろって言ってんだよ」 直子が口を開くより先に中村が言った。「それは化粧品の中でも、基礎化粧品と呼ばれている物でございます。顔を洗った後にすぐに塗る物です。ですからお部屋ではなく、洗面台の近くにある方が便利なのです」 直子が「味方してくれて有り難う」と言うと、中村の腕に自分の腕を絡めた。 なんで男対女って感じになってるんだよ。 中村が説明する。「化粧品の中には色々種類がございまして、それぞれ役目が違っておりますので、使うタイミングも違います。こうしたことは使用されない方には、分かり難いと推察致します。この洗面所は旦那様が担当ではございますが、一つひとつの物を管理するのは至難の業(わざ)と思われます。このご用意頂きました百均ショップのケース単位で管理するのが、宜しいのではないでしょうか」白いケースを持ち上げた。「奥様だけが使う物はこのケースに入れて頂きます。この洗面所に、奥様が置けるのはこのケース一つと決めた場合、旦那様だけが使う物を入れるケースも、一つだけとなります。これで公平になります。ケースに入りきらなかった物は、それぞれのお部屋で、保管して頂くようにするのはいかがでしょうか」 大輔が「まぁ、それでいいですけど」と了承すると、直子が中村に向かって「いいですよ」と言った。 中村が提案する。「洗剤や日用品もケースに入るだけと決めますと、買い過ぎを防げますよ」 中村の視線の先を辿ると、大量の携帯用ウエットティッシュが積まれた山の一部で、雪崩(なだれ)が起きていた。 5 えっ。子ども? 大輔は驚いて足を止めた。それから隣の直子に顔を向ける。 直子も目を丸くして立ち尽くしていた。 長男の裕俊が「なにしてんだよ、入ってよ」と声を出した。 大輔は戸惑いながら、レストランの個室の中に足を踏み入れた。 裕俊が隣の女性を紹介する。「川瀬桃花(かわせももか)さん。それから桃花さんの娘さんの優杏(ゆりあ)ちゃん」 桃花が「初めまして」とお辞儀をすると、隣の優杏も「こんにちは」と言って頭を下げる。 大輔は「どうも」と口にするのが精一杯だった。 直子は無言で首を少し下げただけだった。 裕俊に促されて、彼らの向かいの席に着くや否や、ウエイターが水の入ったグラスを大輔の前に置いた。 大輔はその水をすぐさまガブガブと飲む。 裕俊から紹介したい人がいるので会って欲しいと言われたのは、二週間ぐらい前だった。レストランを予約するので、日曜のランチを一緒に食べないかというのだ。そんなことを言われたのは初めてだったので、真剣に付き合っている人なのだろうと思った。裕俊はまだ二十五歳だが、結婚を考えても不思議な年ではない。 直子は「どんな人なのかしらね。ワクワクするけど緊張もしちゃう」などと言って、今日の顔合わせを楽しみにしていた。 直子も聞かされていなかったのだろう。相手に子どもがいることを。 大輔はメニューを開いた。 色々書いてあるが一向に頭に入ってこない。 隣の直子に目を向けた。 メニューを開いてはいるものの、気持ちは別のところにあるようで、料理を選んでいるようには見えなかった。 大輔は「Aのコースにするよ」と声を出し、「直子もそうするか?」と尋ねる。 直子ははっとしたような表情を浮かべてから「ええ、そうするわ」と答えてメニューを閉じた。 注文を受けたウエイターが部屋を出て行った。 たちまち静けさに包まれる。 なんだか居心地が悪くて座り直した。 それから大輔は「優杏ちゃんはいくつ?」と尋ねた。 「六歳です」と優杏はハキハキと答えた。 六歳……そうか。六歳か。 優杏は猫のキャラクターが、胸にプリントされているトレーナーを着ていた。前髪を留めるピンにも、同じキャラクターの絵が付いている。 大輔が「小学一年生かな?」と重ねて聞くと、優杏は首を左右に振った。 ということは来年小学生か……桃花はいくつなのか。女の年齢を当てるのは難しいものではあるが、子どもが六歳なのだから、裕俊より大分年上なのは確実だろう。 直子がお絞りの袋を開けた。そして指を一本一本丹念に拭き始める。 大輔の聞きたいことを察したのか、桃花が口を開いた。「私は三十五歳で、裕俊さんより十歳年上です」 十歳年上……。 裕俊が説明する。「彼女は直属の上司だったんだ。今は僕が異動になったんで、上司と部下ではなくなったけど」 会社には他にも女がたくさんいるだろうに。年が近い社員が。未婚の人が。子どもがいない人が。会社の外ならもっともっと大勢の女がいる。だが裕俊は桃花を選んだ。厄介(やっかい)な話だ。こうして俺たちに紹介しようと場を設けるぐらいなのだから、真剣なのだろう。俺たちが反対したところで耳を貸さないに違いない。頑固なところのある子だし。 裕俊は中学生の頃はゲームばかりしていた。勉強をしろと言ってもやらなかった。そんなではあったが、成績はクラスの真ん中辺りをキープしていた。塾選びも、志望校も、裕俊は自分で決めた。大輔をはじめ、クラスの担任や塾の講師が、志望校だけでなく滑り止めとしての大学も受験するよう勧めたが、行きたくもない大学を、受験する意味が分からないと言って拒否した。 運良く志望の大学に合格すると、漫才サークルに入った。同級生とコンビを組みプロになると息巻いた。言い出したら聞かない子だから、漫才師になろうとするのを止められないだろうと、大輔と直子は観念した。大変な道を選んだ息子を見守るしかないと覚悟を決めた。 ところが大学三年生の時に方向性の違いだとかで、相方と喧嘩をしてコンビを解消した。それから裕俊は就活を始めた。同級生たちより周回遅れでのスタートだったが、なんとか広告代理店に就職することが出来たのだった。 サラダとスープが運ばれてきた。 優杏の前には、大人たちより一回り小さい器とカトラリーが置かれた。 優杏は桃花に「食べていいの?」と尋ねた。 桃花が「いいわよ」と許可すると、優杏は「いただきます」と言ってスプーンを握る。 そして真剣な表情でスプーンをスープの中に入れた。慎重に口の近くまで運ぶ。それから小さな口を開けると、ゆっくりとスプーンを傾けた。 裕俊がなにか言い始めたが、大輔の耳には入ってこない。 ひたすら優杏を見つめ続けた。 結局二時間ほどの食事中に喋っていたのは、裕俊だけだった。直子は黙りこくっていたし、大輔も黙々と食べるのみだった。桃花も優杏も、自分たちからはなにも話し出さなかった。 会計を済ませて店を出た。五人で駅に向かう。 改札の前で優杏が「バイバイ」と手を振る。 大人たちは「それじゃ」と言い合った。誰も「また」という言葉を口にしなかった。慎重にその言葉を避けているようだった。 大輔と直子は電車に乗った。 直子は沈んだ表情で黙っている。 一度乗り換えてからR駅で降りた。 小さな商店が並ぶ通りを歩き右に折れた。石塀にスプレーの落書きがある空き家の前を進む。 公園から子どもたちの歓声が聞こえてきた。 直子が足を止めて通りの向かいの公園に目を向ける。 大輔も立ち止まり、直子の視線の先を追うと、子どもたちが走り回っていた。 直子がぽつりと「胸が痛いわ」と呟(つぶや)いた。 「俺もだ」と大輔は言った。 直子は痛みを堪(こら)えるかのように顔を顰(しか)める。 大輔たちには娘がいた。玲奈(れいな)は二人にとって初めての子どもだった。難しい病気に罹(かか)り六歳で天国に行った。裕俊は幼過ぎて、姉である玲奈のことはほとんど覚えていないだろう。優杏が身に付けていた猫のキャラクターを、玲奈も好きだった。 玲奈を忘れたことはない。玲奈への思いは普段胸の奥の方に置いている。だが今日優杏と対面して、玲奈への思いが胸の最上部に一気に上がってきた。気が付けば失った時の痛みがぶり返していた。ランチはその痛みに耐え続ける二時間となった。 直子が口を開く。「いつもの痛みとは少し違うの。小さい女の子を見掛けて感じる気持ちと、今日は違ったのよ。どうしてかしら」 少しの時を置いてから大輔は言った。「俺もいつもとは違う痛みを感じているよ。急に現れて……玲奈が天国に行った時と同じ年の女の子が、俺たち家族の中に入って来るかもしれないと知って、驚いて、拒否反応みたいなものが出てきて、動揺して、胸の中が引っ掻(か)き回されて、いつもは奥の方にあるものが上に出てきて……それでいつもとは違う痛みだったのかな。俺自身もよく分かってる訳じゃないんだが」 しばらく考えるような顔をしてから口を開いた。「今の、合っているような気がするわ。なんていうか……しっくりきたから」 「そうか」 大輔は玲奈を失った日から、哀しさと痛みを抱えて生きてきた。直子も自分と同じように、痛みを抱えて生きているのは分かっていた。また直子の方も、大輔の気持ちを分かっているであろうことを確信していた。他のことでは、相手がなにを考えているのか見当が付かなかったし、理解したくもなかったが、このことだけは別だ。辛(つら)い経験をした大輔たちは、同じ痛みを共有する者同士だった。 大輔は直子から公園に目を移す。 滑り台の上に女の子がいた。 その子が滑り降りるのを見守った。 大輔の口から一つ息が漏れた。 6 スマホ画面の中の中村が質問した。「洗面所の使い心地はいかがですか?」 「とてもいいですよ」と大輔は答える。「問題は出てません。決めたルールを妻も俺も守っているので、散らかったりしてませんし。洗濯もちゃんと担当の俺がやってます。外に干していた時よりフワフワなんですよ。乾燥機能付きのを導入して正解でした」 大輔と中村はWEB会議用のアプリを使って、オンラインで打ち合わせをしていた。 ダイニングテーブルにスマホスタンドを置き、そこにスマホを載せている。横にはインスタントコーヒーを入れた、マグカップを用意していた。 本当は中村に来訪して貰い、直子も加えた三人で話をするはずだったが、直子が急遽(きゅうきょ)フラダンスの練習に行くことになり、二人だけのリモートミーティングとなった。 フラダンスの発表会が間近に迫る中、一緒に踊る予定だった仲間のうち三人が、感染症に罹ったそうで、内容を大幅に変更する必要があり、その練習に向かったのだ。 片付けが残っているのは夫婦の寝室とリビングだった。 中村がにっこりと微笑(ほほえ)んで「気持ち良くお使い頂いているようで良かったです」と言った。「リビングを担当制にするか、それとも担当制にはしないか、結論は出ましたでしょうか?」 頭を掻(か)く。「それがねぇ。話し合いは全然進んでいないんですよ。どっちも担当制にした方がいいとは思っているんですが、どっちも担当にはなりたくないもんで」 「担当を決めるのが難しい場所でございますからね。それではご夫婦の寝室と、旦那様の個室の方を先に進めるように致しますか?」 「そうですね。それでお願いします」 「それではまず、旦那様がこれから、個室としてお使いになるお部屋のお話をさせて頂きます。ご長男様のお部屋だったということで、お部屋にはご長男様の物と、使わなくなった家電品や、健康グッズなどがあるとのお話でございました。こうした物の取捨選択はどういたしますか?」 「家電品や健康グッズは妻にジャッジして貰いましょう。残したい物は妻の部屋に移して、それ以外は処分で。息子の物は……全部捨てていいと言うように思いますが、一応聞いておきますよ」 返事がくるかどうかは分からないが……。レストランでの食事会以降、互いに連絡を取っていない。なんだかあの日を境に、裕俊との距離が開いたように感じている。 中村が「お願い致します」と言った。「ご長男様が残したいと思われた物は、ご次男様が使っていらしたお部屋に、移動させて頂くことも併せてお伝えください」 「分かりました」 「ご長男様がお使いになっていたベッドはそのまま残して、旦那様がお使いになるということでしたが、変更はございませんか?」 「変更はありません。俺が使います。古い物なのでマットがちょっとへたっていますが、ベッドは結構しますからね。買い替える予算はないのでそのままで」 「承知しました。勉強机はいかが致しましょうか?」 「勉強机……あれがなければ部屋を広く使えますよね。でもこれから、なにか机を使ってすることがあるかもしれないし……迷いますね」と、大輔。 「迷われているのでしたら、今回は残されておかれてはいかがですか?」 「そう、ですね。そうします」 画面の中の中村がノートになにかを書き付ける。 そうしてから顔を上げた。「次はご夫婦の寝室のことをお聞かせください。そこにある旦那様の物をすべて、個室に移すと伺っておりますが、どういった物がありますでしょうか。お洋服と、他には?」 どこまで中村に話すべきか――。ただの整理収納アドバイザーに個人的な話をするのは……ちょっと嫌だ。だがもうすでにプライベートを曝(さら)け出しているような……いや、やはりこのことは別だ。第三者に触れられたくない。 大輔は口を開く。「寝室に俺にとって大切な物があります。押入れの中に。それは妻にとっても大切な物なんです。だから全部を俺の部屋に移すことは出来ないので、半分を俺の部屋に移したいと考えています。俺の個室の押入れの中に他の物とはきっちりと分けて、特別な場所を作って仕舞いたいんです。そういうの、お願い出来ますか?」 「ご夫婦にとって大切な物を二つに分けて、別々の場所に保管することを、奥様は了承されていらっしゃいますか?」 「いえ。まだ話していないので」 「そうですか。それはどれくらいのサイズの物でしょうか?」 「色々なサイズの物があって、今それらをまとめて段ボール箱に入れています。確か段ボール箱は二つだったと思います」 中に入っている物のサイズは色々だった。ビデオテープ、絵、ぬいぐるみ……。 中村が聞く。「旦那様のお部屋の押入れに、特別な場所を作って保管されたいというお話ですが、見える場所に飾ったりはしなくて宜しいのでしょうか」 飾る……そんなの、耐えられない。だから俺たちは押入れに仕舞っていたのだ。玲奈が描いた絵が視界に入れば、喪失感と向き合うことになってしまう。ホームビデオだって、玲奈が亡くなってから一度も見ていない。 最後に玲奈を撮影したのは、病院内で行われたイベントの時だった。 玲奈が通っていた幼稚園では、母親たちが手作りした揃いの衣装を着て、踊りを披露(ひろう)する行事があった。玲奈はこのお遊戯発表会をとても楽しみにしていて、熱心に練習をした。母親譲りなのか踊るのが好きな子だった。 だが発表会の前に入院が決まった。玲奈は発表会に参加出来なかった。その話を聞いた看護師が、小児科病棟内のイベントで披露したらと、声を掛けてくれた。喜ぶかと思いきや、玲奈はイヤイヤと首を左右に振った。一人ではなく皆と踊りたかったのだと言った。すると二人の看護師が、教えてくれたら一緒に踊ると申し出てくれた。玲奈はとても喜んだ。 直子は急いで大人用の揃いの衣装を二人分作った。そして看護師たちは、直子のママ友からダビングさせて貰った、発表会を映したビデオを見て練習を重ねた。 ある晩、大輔が病院の廊下を歩いていたら、玲奈が踊ることになっているアイドルグループの曲が、聞こえてきた。看護師の鼻歌だった。その看護師はカートの上の器具を確認しながら、左手をゆっくり左右に振った。四回振ってからトンと左の踵(かかと)を床に付けた。フリの練習をしていたのだ。大輔は有り難くて有り難くて胸がいっぱいになった。看護師に近付き、感謝の気持ちを口にしようとしたのだが、言葉が出てこなかった。胸の真ん中が波打っていた。大輔はただ頭を深く下げた。看護師は「恥ずかしいところを見られちゃった」と言って照れたような顔をした。そして続けた。「玲奈ちゃんは痛くて、辛くて、怖いでしょうに治療を頑張ってます。それは凄いことですよ。だから応援してます」と。大輔は気が付いたら泣いていた。 イベント開催の一週間前になって、玲奈の体調が悪化した。大輔と直子は、玲奈を失ってしまうのではないかという恐怖で身を竦(すく)めた。玲奈は高熱で怠(だる)そうにしているにも拘(かかわ)らず、踊りの練習をすると言って聞かなかった。良くなったらたくさん練習をしようと説得し続けた。熱が引いたのはイベントの前日だった。 当日、玲奈と二人の看護師は病棟内のホールで踊りを披露した。椅子を並べた客席で見守っていた他の患者や、その家族、医師やスタッフたちから大きな拍手を貰った。玲奈は最高の笑顔を見せた。ぴょんぴょんと飛び跳ねて幸せそうにしていた。 その姿を映したビデオテープが、寝室の押入れに眠っている。 大輔は言う。「飾りません。飾りませんが、他の物と同じようには仕舞いたくないんです」 「ご夫婦のどちらにとっても大切な物ならば、それぞれの部屋に二分するのではなく、蓋(ふた)付きの桐(きり)製の箱に入れて、リビングの棚の中に仕舞うのはいかがでしょうか。共有スペースのリビングの一ヵ所に、すべてを仕舞うのであれば、これまで寝室に置かれていた状況と同じになりますので、奥様の抵抗感も少なくて済むように思いますが」 あぁ……その方がいいか。二つに分けるのは難しいもんな。だが……直子は自分の側に置きたがるかもしれない。 考え込む大輔に中村が声を掛けた。「今決める必要はありませんので、まずは奥様とお話をなさってください。お二人の意見が違うようでしたら、次回の打ち合わせの際に改めてお話を伺うということで、いかがでしょうか」 「そうですね。そうさせて貰います。なんだかなかなか前に進まなくて、時間ばかり掛かっててすみません」 「とんでもありません。片付けは、ご自身の過去と未来を再編成する作業でございます。時間が掛かって当然です。一日で一気に片付けを行う整理収納アドバイザーもおりますが、わたくしは違うスタイルを取っております。時間を掛けて少しずつがモットーでございます。だからこそ時間制ではない料金制度を取っております。片付けをしている途中で、お考えやお気持ちが変わるお客様はとても多いです。勢いで片付けてしまっては、後悔する可能性が高くなります。お客様に片付けたことを後悔されてしまうのは、わたくしにとっても辛いことでございます。これまでの人生の棚卸(たなおろ)しをして、これからどういう生活をしたいかを考えて、捨てる物と、残す物を、ゆっくり決めて頂くのが、宜しいのではないかと思っております。もう一つ申し上げるならば残す物をどこに、どのように置くのかもとても大事でございます」 人生の棚卸し……。そんな大事(おおごと)だったのか、片付けは。なんだか大変なことに、首を突っ込んでしまったような気分になる。 大輔はマグカップに手を伸ばした。コーヒーをひと口飲みその苦さを味わった。 7 大輔は腰に手を当て右足を後ろに引いた。そして右のアキレス腱(けん)を伸ばす。回れ右をして今度は左のアキレス腱を伸ばした。 ピーと鋭い笛の音が階下から聞こえてきた。 玉入れ競技の終わりを知らせる笛だった。 体育館では大輔が勤める会社の運動会が開かれている。五十年前の創業以来ずっと続く恒例行事で、毎年五月の第三日曜日に行われる。部門同士が対抗戦で様々な競技の点数を競う。社員は絶対参加で、契約社員は不参加だと、来期の契約が更新されないとの噂(うわさ)があるほど、社長はこの運動会を重視していた。そのためパートの面接の際には、運動会に参加すると誓った人しか採用しないと、人事部長が言っていた。 午前九時にスタートし二時間ほどが経った。 大輔が出場する四方綱引きの開始まで、あと十五分ほどとなり、二階の観覧席の最後列にある通路で、準備運動を始めたところだった。 去年総務部の課長が徒競走に出場し、アキレス腱を切る怪我(けが)をした。大輔より十歳も年下なのに。他人事では全然ない。気を付けなくては。 「お疲れ様です」と言いながら、経理部の山地正洋(やまちまさひろ)が近付いて来た。 腰を捻(ひね)りながら大輔は「お疲れ」と答える。 山地が尋ねた。「今日、奥さんは?」 「今日は来てないんだ。フラダンスの練習に行かなくちゃいけなくて」 「そうなんですか。残念です。僕、部長の奥さんのファンなんですよ」 「なんだよ、それ」 「明るくて、元気で、素敵な奥さんじゃないですか。物の値段に詳しいし」と、山地。 大輔は苦笑いを浮かべる。 運動会には社員の家族だけが参加出来る競技もある。その一つが『がっちり貰いましょう』という名の競技で、床にばらまかれた品々から、設定された金額になるように選び取るものだった。 スナック菓子や缶詰、トイレットペーパーなどの日用品の価格をどれだけ知っているかが、勝利の鍵だった。この競技が直子は滅法(めっぽう)強かった。四年連続で一位を取っている。物の値段に聡(さと)く記憶出来る能力があるのだろう。人はなにに才能を発揮するか分からない。一位になった人は、選び取ったものをすべて貰えることになっていて、直子は毎回とても喜んだ。 山地が立ち去ると、大輔は肩をゆっくり回し始めた。ポキポキと関節が鳴る。音が鳴りはするが回すことは出来た。 四十代になったある日、突然肩を動かせなくなった。これが四十肩かと愕然(がくぜん)としたが、五十代になったら、何故(なぜ)か以前のように動かせるようになった。身体の老いは謎めいている。 準備体操に熱中しているうちに、気が付いたら二人の部下に挟まれていた。 五十嵐豪(いがらしごう)が質問する。「奥さんはどちらにいらっしゃるんですか?」 大輔がフラダンスの練習に行っていて、今日は来ないと伝えると、五十嵐は残念そうな顔をした。 そして「それじゃ、『がっちり貰いましょう』の連勝記録が途切れてしまうんですね」と言い、新入社員の松本卓也(まつもとたくや)に向けて競技の内容や、直子の例年の活躍について説明した。 一通り話を聞いた松本は「凄いっすね」とコメントした。 大輔は五十嵐に尋ねる。「社長のお連れの方についての注意点を、松本君に話した?」 五十嵐はしっかりと頷き「今日一番で話しました」と答えた。 松本が神妙な様子で「気を付けます」と言って顔を左へ向ける。 その視線の先には社長と、連れの女がいた。 社長の愛人だった。 長い黒髪が印象的な細身の人だった。二十代と思われるが、いろんなことを知っていそうな雰囲気があり、また妖艶(ようえん)さを全身から発していて、見つめられると汗が出てくる。 社長は例年妻を連れて運動会に来ていたのだが、二年前から突然愛人の方を同伴するようになって、社員たちはざわついた。 その女を奥様と呼んではいけないこと、目が合って手を振られても、振り返したりしないことなどの注意点が、社員間で秘密裏(ひみつり)に申し送りされた。 社長たちの一列後ろの席には、副社長が一人で座っている。 三年前に離婚したからだが、結婚している時も、妻を運動会に連れて来たことはなかった。 副社長の斜め後ろにいるのは、取締役とその家族だ。妻と、その彼女に体型も顔もそっくりの二人の娘が、並んで座っている。 家族の形は色々だな。 松本が口を開く。「四方綱引きをするの、初めてなんですが、うちのチームはどういう戦術で戦うんですか?」 大輔は両手に力を入れて握り、その拳(こぶし)をぱっと開く。 手の運動をしながら聞き返した。「戦術?」 「はい」松本が頷いた。「ネットで調べたら二組で対戦する綱引きとは違って、一度に四組で戦う四方綱引きは、戦略が大事って書いてあったんです」 グーパーするのを止(や)めて、その手を松本の肩に置いた。「真っ向勝負するだけだ。こっちが戦略を立てたって、他の三組がどう出てくるか分からないんだから、その通りになんかならない。隣のチームが近付いてきたり、逆に遠ざかったり、色々仕掛けてくるかもしれないが、うちは正攻法でいく。四人で息を合わせてとにかく引っ張る。後ろに置かれた紙風船に近付くことにだけ、集中すればいい。それで大抵勝ってるから」 松本は「分かりました」と言った。 素直な新入社員で良かった。 予定通り午前十一時十五分に四方綱引きが始まった。正攻法で戦ったのが功を奏したのか、それとも四人の合計体重が重かったお蔭(かげ)か、大輔たちのチームは二勝し十点を獲得した。 客席に戻ると、営業部の社員と家族たちが拍手で迎えてくれた。 笑顔で労(ねぎら)われているのに何故か少し寂しい。どうしてだろう。あっ。直子か。直子の声がないからだ。いつも凄い凄いと大袈裟に褒める直子の声が今日はない。だからだろうな、多分。そんなことで寂しいと思ってんなよ、俺。自分が導き出した寂しい理由にちょっと動揺する。家庭内別居しているってのに。 午後五時にすべての競技が終わった。優勝は総務部にもっていかれた。 自宅に戻ったのは六時を過ぎていた。直子はまだ戻っていなかった。 玄関の灯(あか)りを点(つ)けて廊下を進む。 洗面所の灯りを点けたら、洗濯乾燥機が回っていた。 帰りがもっと遅くなると予想して、仕上がり設定時間を七時にしておいたのだ。 誰もいない家で洗濯を始めていたマシンを健気に感じて、「ただいま」と声を掛けた。 それからリビングの灯りを点けた。 ダイニングテーブルに置かれた、直子が残したメモを読んでから冷蔵庫を開ける。 中を確認するとすぐに扉を閉じて目を擦(こす)った。疲れていて少し眠い。 夫婦の寝室に移動してクローゼットから部屋着を出した。 ベッドに置き、ふと、押入れに目を向ける。 昨日の中村との打ち合わせで、押入れの中の大切な物をどうするか、直子と話をして決めるということになったのだが、まだ出来ていない。 押入れの扉をちらちら見ながら着替えを終えた。 それから意を決して押入れに近付いた。扉を開けて中を覗く。 大量の物が乱雑に押し込まれている。 上の棚に載っている大量の雑誌をまずは外に出した。以前使っていた置き時計も取り出す。A4サイズのファイルを十冊ほど取り出したところで、段ボール箱の側面が見えた。 多分これだ。 注意深く引っ張り出して床に置いた。ガムテープに手を掛けたところで迷いが生まれた。だが迷いを振り払ってガムテープを剥(は)がした。フラップを開ける。 あぁ。声にならない声が零(こぼ)れた。 一番上に玲奈のお気に入りだった、猫のキャラクターのぬいぐるみが載っている。 枕元に置きいつも一緒に寝ていた。 ぬいぐるみをそっと持ち上げて床に移した。 スケッチブック、折り紙で作ったメダル、幼稚園の制服。次々に取り出して床に並べる。 制服のブラウスがあまりに小さくて胸が波打つ。 それから瓶(びん)を取り出した。 横置きにした透明な瓶の中にはジオラマがあった。 大輔の手作りだった。入院中の玲奈を喜ばせようと作ったうちの一つだ。玲奈が好きな絵本の主人公の家を再現している。 初めて作った瓶の中のジオラマを玲奈にプレゼントすると、それはそれは喜んだ。そんなに喜んで貰えたことが嬉(うれ)しくて、大輔は寝る間も惜しんで次々に作った。玲奈のためにしてあげられることがないのを、口惜(くや)しく思っていたので、ようやく役目を与えられたようで、制作に夢中になったのだ。 あの頃……玲奈の前で自分の不安な気持ちを隠すのに苦労した。それに比べて直子は立派だった。大輔と同じくらい不安だったろうに、そんな素振りは一切見せずに玲奈と接した。いつものように明るく、元気で、パワフルだった。 玲奈の病室に入る前に、直子は持参したウエットティッシュで、念入りに自分の手を消毒した。その姿はなにかの儀式のように厳粛だった。使い終わったウエットティッシュをバッグに仕舞うと、くっと口角を上げて笑顔を作った。それからおはようと大きな声を上げて、病室のドアを開けるのだった。そうやって玲奈の前では、なにも心配していない元気な母親を演じ続けた。見事だった。この人が玲奈の母親で良かったと、大輔は何度も思った。 病院での直子はそんな風だったが、自宅では本心を見せた。毎日ポロポロと涙を零していた。裕俊を寝かしつけながら、歯を磨きながら、食事をしながら。呼吸をするように泣いていた。あまりに泣き過ぎて、もう泣いていることに気が付いていないようにも見えた。大輔もそうだった。しょっちゅう泣いていた。 直子が泣いていて、大輔も涙が止まらない時には、どちらからともなく手を繋(つな)いだ。そうして哀しみに耐えた。当時、それが不安から逃れる唯一の方法だった。 瓶を目の高さまで持ち上げた。 絵本に描かれていた主人公の少女の部屋が、そこにはあった。犬を探す旅に出ることを決意した少女が、鞄に荷物を詰め込んでいる場面だった。 目を輝かせて、このジオラマを見つめていた玲奈の顔が浮かぶ。 たちまち記憶の断片が一気に蘇(よみがえ)ってくる。 エスカレーターに乗る時の真剣な横顔。 マヨネーズが好きで、オレンジジュースにまで入れようとしたので、慌てて止めた時のきょとんとした顔。 幼稚園に通う友悟(ゆうご)という名の男の子と、玲奈が両想いなのだと直子から聞いた大輔は、それが気に入らなかった。それで玲奈の誕生会に友悟を呼ぶなと言った。その時玲奈が見せた、ショックを受けたような顔。 胸にきゅうっと絞られるような痛みを感じて、大輔は拳で胸を叩いた。それから深呼吸をした。 玲奈が天国に行った後すぐに、直子が妊娠しているのが判明した。それから数ヵ月後のある日、直子が段ボール箱に玲奈の物を入れ始めた。直子が玲奈を忘れたくて仕舞おうとしているのではないことは、大輔には分かっていた。忘れられっこないのだから。二人の子どもの育児に注力するためには、視界に入らないところに仕舞うしかないと、直子は考えたのだろう。大輔は直子を手伝い、この押入れに一緒に仕舞ったのだった。 どうするかな、これを。 大輔は独り言を呟いた。 8 思いっ切り伸びをしたら欠伸が出た。大輔は首を回して肩の凝りをほぐす。 直子のフラダンスの出番がすべて終わったため、会場の貸しホールから外に出たところだった。 出入り口前の広場には、案内板がニョキニョキと一定の間隔で立っていて、そこにはフラダンス発表会のポスターが貼られている。大師匠だという女が、一人で踊っている写真が使われているものだった。 腕時計に目を落とすと午後四時だった。 直子はいつものように、これから仲間らと打ち上げをして、帰宅は深夜になるだろう。わざわざ来たのだから、踊りは見たぞというのをラインで直子にアピールしてから、帰るとするか。 鞄からスマホを取り出した。 その時、直子から電話が入った。 スマホを耳に当てた。「はいはい」 「今どこ?」 「会場の前。出たところだ。出番は全部終わったんだろ?」 「怪我しちゃって。一人じゃ帰れないから楽屋に迎えに来てくれない?」 マジかよ。 大輔は電話を切ると楽屋口に向かった。 大部屋に入ると、直子が大勢のフラダンサーに囲まれて椅子に座っていた。 大輔が「どうした?」と声を掛けると、物凄い濃い化粧をした直子が顔を顰め「足を痛めちゃって」と答えた。 年々化粧が濃くなるな。客席から眺めている時には感じなかったが、付けまつ毛はもうなにかの生き物のようじゃないか。 大輔は尋ねた。「痛めたっていうのは両足か?」 「動かすと左足が痛いの」直子が説明する。「ゆっくり引き摺(ず)れば歩けるけど、電車に乗って家に戻るのはちょっと無理。腕を貸して貰えたら、タクシー乗り場までは行けると思う」 「だったらタクシー乗り場まで頑張って貰って、タクシーで近くの救急外来に行って診(み)て貰おう」と大輔が言うと、周りのフラダンサーたちが口々に賛成した。 大輔はスマホで近くの救急外来を探してから、直子のボストンバッグを肩に掛けた。 「お大事に」と言うフラダンサーたちに見送られて楽屋を後にした。 直子は両手で大輔の左腕を摑み、左足を引き摺ってゆっくり歩く。 タクシーに乗り大学病院に向かった。 待合室は大混雑していた。多くの病院が休診してしまう日曜日のせいだろう。五十平米ほどの待合室には、三人掛けの長椅子が二十脚ほど並んでいて、そこに四十人以上の人が座っていた。 受付を済ませた大輔と直子は、中ほどの椅子に並んで腰掛けた。 前に座っている男二人と女一人が打ち合わせを始めた。車の貰い事故に遭ったようで「きっちり請求してやる」とか「証拠が大事だ」といった言葉が聞こえてくる。 大輔は直子に言った。「こんなに大勢の患者がいるんじゃ、順番が来るまで相当待たされそうだな」 「そうね」 「痛くてたまらないという演技でもしたら、先に診て貰えるんじゃないか?」 「やってみようかしら」と答えた直子は、自分の胸を押さえて苦しそうな顔をした。 大輔は小さく笑った。「フラダンサーの顔でやると全然苦しそうに見えない」 「あっ。メイクを落とすの忘れてた。トイレで落としてこようかしら」 「トイレまで連れて行こうか?」 「どうしよう。んーと、いいわ。歩くの大変だから。化粧が濃い人は診察しませんと言われたら落とすわ」と言って笑った。 「その怪我、いつしたんだ? 最後の踊りが終わった後か?」 直子が首を左右に振った。「最後の出番の直前。ステージに向かっていた時に廊下で滑っちゃったの。凄く痛かったんだけど出番の直前だったから、止めるって訳にいかなくて」 「えっ。それじゃ、最後の踊りはその足の状態で踊ってたのか?」 「そう」 「全然気付かなかったぞ。足を引き摺ったりしてなかったろ」 「痛いのを我慢して踊ったのよ」 感心して言う。「直子は根性あるよな」 直子が格闘家のように拳と手を合わせて「おす」と低い声を出した。 足は痛いらしいが普段の直子だった。片付けのことで喧嘩をしていない時は、こんな風にくだらない軽口を叩き合う。 一歳程度の赤ちゃんを抱えた母親らしき人が、斜め前方の椅子に座った。 その赤ちゃんの額には冷却シートが貼られていた。 大輔は尋ねる。「あれから裕俊と連絡は取ったか?」 「取ってないし、来てもいない。あなたは?」 「俺もだ。連絡を取ってもいないし、来てもいない」 「あの人、嫌い」 「桃花さんのことか?」大輔は尋ねた。 「そう。あの人、悪い人よ。裕俊の上司だったんでしょ。部下を言いなりに出来るじゃない。あの人からちょっかいを出したに違いないもの。そういうの、犯罪よ」 「その気持ちは分かるよ」 直子が満足そうに頷いた。 「だが俺たちが反対したって、裕俊は結婚したければ、するだろう」 直子が唇をへの字に曲げた。 大輔は話し始める。「亮治だってそのうち結婚したい人を連れてくるだろう。俺たちがその人のことを気に入らなくても、反対しても、親族は増えていくぞ。そう思ったらなんていうか……増えていく親族の中で、玲奈の存在をちゃんとしてやりたくなった。俺たちは玲奈のことを隠そうとしてきた。そうじゃなかったら耐えられなかったからな。だがこのまま隠し続けていくのは、玲奈が可哀想に思えてきてさ。鶴元家の中で存在感を与えてやりたいっていうか。うちの小さな仏壇はリビングの棚の中に置いてるだろ。扉を閉じて隠すようにしてきたな。なぁ、あの棚の扉、開けないか?」 「…………」 「それでさ、寝室の押入れの中にある玲奈の物を、リビングに移さないか? 桐の箱に入れて仏壇の近くに置くんだ」 「…………」 「リビングのチェストの上に、家族の写真を何枚か飾っているだろ。あの中に玲奈の写真も加えたいと思うんだが、どうかな?」 直子は膝に置いた自分の手をじっと見つめる。 大輔も眺めた。皺(しわ)が刻まれ血管が浮き出た直子の手を。 しばらくして直子が小さな声を発した。「寂しい気持ちが強くなるんじゃない?」 「そうかもしれない。だが寂しさが増しても、いなかったように振る舞うのはもう終わりにしたい。玲奈がいたこと、俺たちの子どもとして生まれて精一杯生きたことを、もう隠したくない」 「…………」 「直子は最高の母親だったな。玲奈が最期の日まで笑顔で過ごせたのは直子のお蔭だ。それまで通りの明るく、元気のいい母親が側にいたからだ。そうすることが、どれだけ辛いことだったか、俺は分かるよ。直子は偉かったな。これっぽっちも不安な気持ちを玲奈に見せなかった。入院していた時、玲奈に大きくなったらなにになりたいかと、聞いたことがある。おもちゃ屋さんか、ケーキ屋さんと答えると思っていたんだが、玲奈はママみたいになりたいと答えた。ママのことが大好きなんだと言った。ママのどういうところが好きなのかと聞いたら、全部と答えたよ。ママの好きなところを挙げて貰った。一緒に踊ってくれるところ、一緒に歌を歌ってくれるところ、優しいところ、美味(おい)しい物を作ってくれるところ、可愛い服を買ってくれるところ、ぎゅっとしてくれるところ。そんな風に言ってたよ。それからママの笑い方も好きだと言った。ママが笑うと、玲奈も楽しくなるからだそうだ。それでママの笑い方というのを真似(まね)してくれた。大きく口を開けてハハッと声を上げた。それが直子にそっくりでさ。親子だなぁと感心したんだ」 「…………」 「有り難う。玲奈の最高の母親でいてくれて」大輔は感謝の気持ちを言葉にした。 「なんでそんな……そんなこと突然言い出すのよ」 「裕俊と亮治の子育ても、直子は頑張ってくれた。二人ともちょっと頼りないところはあるが、見方によっては素直ないい子たちだ。玲奈を失って寂しくて哀しいのに、二人を立派に育ててくれた。直子は根性があるんだ。直子のいいところだよな」 直子が人差し指で涙を拭(ぬぐ)った。 「中村さんがさ、片付けは過去と未来を再編成する作業だって、言ってたんだよ。これまでの人生の棚卸しだとも言っててさ、言われた時はピンとこなかったんだが、色々考えているうちに、確かにそういうところがあるのかもしれないと、思うようになった」 直子はしばらくの間、前に座る三人組を見つめていたが、突然「バッグ」と言った。 大輔は直子のボストンバッグを、彼女に渡した。 すると直子はボストンバッグに手を差し入れてごそごそとする。そしてポケットティッシュを取り出すと涙を拭った。それから大きな音をさせて洟(はな)をかんだ。 9 大輔は自分の個室のドアを開けて灯りを点けた。それから身を引き、中村を先に入室させる。 中村が二、三歩足を進めてから立ち止まった。 そうして部屋全体を見回す。「すっきりした状態をキープされていらっしゃいますね。素晴らしいです」 大輔は満更でもなかったのでニンマリした。「やっぱり片付いている部屋だと落ち着けますからね」 すべての部屋の片付けが終わったのは六月だった。 中村のところの丸ごとパックにはアフターサービスが含まれている。片付け作業が終了した一ヵ月後に不便なところなどをヒアリングして微調整するという。 その来訪日となった今日は、直子と二人で中村を迎えるつもりでいた。だが直子のパート先の同僚に不幸があったそうで、店長に出社を請われた彼女は急遽職場に向かったため、家には大輔一人だった。 中村が「ご不便なところはございませんか?」と尋ねた。 「大丈夫です」と大輔が答えると、中村は「それは宜しゅうございました」と言った。 大輔は廊下に出てから、直子の個室のドアノブに手を掛けた。「いいですか。開けますよ。覚悟してくださいね」 大輔はドアを開けた。 中村がまず顔だけを中に入れた。それから足を一歩踏み入れた。そして周囲を見回す。 夫婦の寝室として使っていた頃より散らかっていた。 リビングにあった直子の健康グッズなどのうち、残したいという物は亮治が使っていた部屋に収納した。担当を置かず、二人で整理と管理をすることにしたリビングでは、他の部屋からここに持ち込んだ物は、使い終わったら元に戻すのがルールとなったが、直子はそれを守らない。リビングに出しっ放しにした。そこで大輔は見つける度に、それらを敢(あ)えて直子の部屋に運んだ。その結果、直子の部屋に健康グッズが溢れ、足の踏み場もない状態になった。 ルールを破り、リビングに持ち込んだ健康グッズを出しっ放しにしたのを、悪いとは思っているようで、大輔がせっせと直子の部屋に運ぶのを、彼女から非難されたことはない。ただ鋭い目で見つめられるだけだった。 大輔は言う。「ここは一ヵ月でこんな状態になりました」 「奥様はなんて仰(おっしゃ)っていますか?」 「私は平気。中村さんにそう伝えてくれと頼まれました」 「奥様がそう仰っているなら、これで宜しいのでしょう」とコメントした。 受け流すのか。がっかりした顔の一つでもするのではと、思っていたのだが。まぁ、せっかく片付けたのに客に台無しにされても、咎(とが)めだてることは出来ないか。 それから大輔は中村を洗面所に案内した。 中村はぐるっと見回してから言った。「整ってますね。お見事でございます」 「俺の担当場所はバッチリです。在庫を適量にして使ったら元の場所に戻す。これを続ければこの状態を維持出来ると分かりました」 「使いにくい場所などはございませんか?」 「大丈夫です」と大輔は答えた。 廊下を進みリビングに中村を誘(いざな)った。 中村がリビングを見回す。 床に積み上がっていた雑多な物を処分したので、フローリングが見えている。またソファに置かれていた物もなくなり、好きな所に座れるようになった。ローテーブルにはテレビのリモコンだけが載っている。 壁際にある棚の左の扉が開け放たれていて仏壇が見えた。チェストの上に並ぶ写真立てが以前より増えている。三歳の玲奈が七五三の晴れ着でジャンプしている写真と、六歳の玲奈が口をすぼめて、バースデーケーキの火を吹き消そうとしている写真が、新たに加わったのだ。 中村が言う。「こちらもお見事でございます。リビングを片付いた状態で維持するのは、他の部屋よりも大変なはずですが、旦那様も奥様も頑張っていらっしゃいますね」 それから大輔は中村にキッチンを見せた。 大輔は告げた。「奇跡という言葉を、簡単に使いたくないと思っている方なんですが、このキッチンに関しては、奇跡というしかありません。維持出来ているんですよ」 中村は「失礼します」と断ってから棚の扉をどんどん開けていく。 すべての棚をチェックし終えると、感心したような声を出した。「素晴らしいです。奥様、とっても頑張っていらっしゃいますね。使い勝手が悪いところについて、なにかお聞きになっていらっしゃいますか?」 「収納場所がはっきりしたせいで、無駄な動きをしなくて済んでいるそうで、以前より使い易(やす)くなって困っているところはないと、言っておいて欲しいと言付(ことづ)かっています」 「それは宜しゅうございました」と言って微笑んだ。「担当についてはいかがでしょう。変更しないでこのままで大丈夫そうでしょうか?」 「妻はなにも言ってませんでしたから、文句はないのでしょう。俺も今の担当で構いません。家庭内別居を始めて……中村さんから提案された時には結構びっくりしましたが、実際やってみたら、良かったです。それぞれが個室を手に入れたというのが大成功でしたね。妻の部屋が散らかっていても、俺は全然構わないので腹も立たないですし。俺は自分の部屋で快適に過ごせますしね。妻も俺にガミガミ言われなくて済むので、満足しているんじゃないかな。喧嘩しなくなったんですよ、俺たち。それに俺たち……少し強くなった気がします」 大輔はリビングのチェストの上にある写真に目を向けた。 しばらくの間眺めてから口を開く。「中村さんにお願いして良かったです。有り難うございました」 「ご満足頂けたのでしたら、わたくしも嬉しゅうございます。こちらこそ有り難うございました」と言って深く頭を下げた。(つづく) 次回は2024年10月1日更新予定です。
1965年、東京都生まれ。大妻女子大学卒業。会社員、フリーライターを経て、2003年、『死日記』でエクスナレッジ社「作家への道!」優秀賞を受賞しデビュー。05年刊行の『県庁の星』が映画化されベストセラーに。他の著書に『恋愛検定』『僕は金になる』『残された人が編む物語』(すべて祥伝社)、『息をつめて』『就活の準備はお済みですか?』など多数。
【著者公式HP】 https://nozomi-katsura.jp/