物語がつまった宝箱
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  • 第三話 服が溢れるクローゼット 2024年10月1日更新
   1

「こんな状態をお見せするのは恥ずかしいんですが」と長尾康代(ながおやすよ)は言った。
 クローゼットの前に立つ中村真穂(なかむらまほ)が「腕が鳴ります」と口にした。
 康代の寝室は八畳で、その壁一面に作り付けのクローゼットがあった。幅三メートルほどの大きなクローゼットではあったが、服が収まり切らず扉を閉めることは出来ない。その前には、キャスター付きのハンガーラックを置いている。積載量を超えているからなのか左に傾(かし)いでいて、一人では動かせなかった。三十個ほどのバッグはベッドの足元に並べてある。部屋の角にある姿見には、何枚ものスカーフが上から掛けてあり、足元にはアクセサリーの入ったケースが置かれているため、随分前から全身を見ることは出来なくなっている。
 真穂が言った。「ファッションがお好きなんですね」
 首を傾げる。「好きなんですかね。なんだか買ってしまうんです」
 勤務先の信用金庫では制服を着用するため、私服は自宅から職場までの、片道三十分の通勤時のものだった。こんなに服があっても奥の物は取り出しにくいため、手前の物ばかり着ている。
 あるサイトで、康代と同じ四十代のインフルエンサーの自宅が紹介されていた。プチプラ服を使って提案するコーディネートが好きで、彼女のSNSは定期的にチェックしていた。康代の何倍もの服をもっているはずの、そのインフルエンサーのクローゼットは、すっきりと整理整頓されていた。
 康代もそんなクローゼットにしたくて、片付けようとしたのだが、どこから手を付ければいいか分からなかった。結局ネットで評判の良かった整理収納アドバイザーに、依頼することにしたのだった。
 真穂がスマホでクローゼットの写真を撮り始めた。
 その様子を康代はぼんやり眺める。
 あのインフルエンサーのクローゼットのように、すっきりと服が収まり、扉を閉めることが出来るようになるといいのだけど……きっと大丈夫よね。中村さんはプロなんだし。ネットの口コミでは皆が褒(ほ)めていたのだから。
 真穂がメジャーで、クローゼットやラックのサイズを測ってから尋ねた。「お差し支えなければで結構なのですが、他のお部屋も拝見させて頂けますでしょうか?」
 康代は廊下を挟んで向かいにある、夫、大我(たいが)の寝室のドアを開けて真穂に見せた。それから娘の沙希(さき)の部屋、ランドリールーム、トイレ、浴室、リビング、ダイニング、キッチンを見せて歩いた。
 すべてを見終えた真穂は言った。「きちんとされていらっしゃいますね」
「そうですか? まぁ、そうかもしれませんね。私の寝室だけが問題なんです。私がちゃんとしていないから」と沈んだ声で答える。
 真穂は「量が多くて、ということだと思いますよ」と慰めてくれた。
 一週間以内に片付けの案と見積もりを提出すると告げて、真穂は帰って行った。
 リビングの置時計に目を向けると三時だった。
 コーヒーでも淹(い)れようとキッチンに足を向けた時、あっと思う。
 真穂にお茶の一杯も出さなかった――。気の利かない女だと思われたんじゃない? いっつも私はそう。気が回らない。だから私はマイナス評価を受ける。そしてそれを気にして凄(すご)く凹む。ぐずぐずといつまでも。これは関係性が深い人に限らなかった。店員や、宅配ドライバーなどといった、関係性が浅いままで終わる人たちからの評価までをも、気にしてしまうところが康代にはあった。
 ブルーな気分でコーヒーメーカーのスイッチを押した。
 食器棚の扉を開ける。三つ並んでいるマグカップの中から、自分用の白い無地の物を取り出した。
 大我のマグカップは、参加している草野球チームの創設十周年記念に作られたもので、チーム名が大きく印刷されている。
 土曜の今日も大我は朝からチームの練習に行っていた。
 沙希のマグカップは、一緒に韓国のアイドルグループのコンサートに行った時に、康代が買ってあげたもので、グループ名が記されている。
 沙希が塾から戻るまであと三時間。
 もうカレーの仕込みを始めた方がいいかしら。
 ついこの間までなにを食べさせても「美味(おい)しい?」と聞けば「美味しい」と答える子だったのに、最近は「イマイチ」などと言って残すことがあった。そうしてスナック菓子を食べたりする。
 それがどれだけ母親を傷付けるか、分かっているのかしら。
 沙希は中学生になってから急に大人びた。
 沙希が保育園に通っていた頃、康代は寝る前に絵本の読み聞かせをした。一番のお気に入りは『ぐりとぐら』だったが、次に好きだったのが、康代と大我が出会った時の話だった。何度も沙希から乞(こ)われるので、その度に康代は話して聞かせた。
 出会いの話はこうだ。
 一人暮らしをしていた康代が、出勤するためマンションのドアを開けた。同じタイミングで隣人が部屋から出てきた。それが大我だった。康代は「お早うございます」と言い、大我も挨拶(あいさつ)を返した。駅までの道順は一つしかない。駅に向かう間、少しだけお喋(しゃべ)りをした。
 翌日、康代はドアに耳を付けて隣の部屋の様子を探った。また駅まで一緒に行きたいと思い、隣のドアが開くのを待った。
 一方の大我も同じようにドアに耳を付けて、康代の様子を窺(うかが)っていた。
 二人は同じことを考え、同じ行動を取ったのだ。
 二十分間、二人は玄関ドアに耳を付けていた。
 遅刻したくなければ、もう家を出なければいけない時間になった。
 康代はがっかりした。
 そして今日大我は、もっとずっと早くに家を出たのだろうと考えた。
 康代が玄関ドアを開けると、隣室のドアが開いた。
 康代は大我に目を向けた。
 その顔を見た瞬間、大我も自分と同じように玄関ドアに耳を付けて、待機していたことを悟った。
 康代と大我は笑い合った。そして二人で駅まで走った――。
 幼い頃の沙希はこの話が好きだったはずなのに、忘れてしまったのか中学生になってから、康代たちの馴(な)れ初(そ)めを聞いてきた。だからあらためてこの話をしたのだが鼻で笑われてしまった。
 嘘(うそ)と見抜かれたのだろうか。ダサいと思われたのか。
 本当は失恋した康代が泥酔し、なんとかマンションまで帰り着いたものの、自宅の前の共有廊下で眠ってしまった。それを帰宅した隣人の大我が見つけた。康代に声を掛けたのだが、へべれけ過ぎて会話が成立しなかった。だからといって、そのまま共有廊下に放置することも出来ず、康代が握っていた鍵でドアを開けて、中に運んでくれたのだった。
 翌日激しい二日酔いに襲われながら起きると、テーブルにメモがあった。康代を部屋に運んだこと、鍵は玄関ドアに付いている新聞受けに入れておくことが、書かれてあった。最後に二〇四号室の長尾大我と、部屋番号と名前が記されていた。
 隣室の、しかも男性に醜態を晒(さら)した上に、部屋の中を見られたのが恥ずかしくて、引っ越そうかと痛む頭で考え始めた。やがていい人だったから良かったようなものの、危険な目に遭っていたかもしれないという点に気が付いた。それでコンビニに行き、インスタントコーヒーの粉を買った。そして隣室のインターフォンを押した。康代はお礼の言葉を述べて、インスタントコーヒーを差し出した。
 これが本当の馴れ初めだった。こんな恥ずかしい出会いは嫌だったので自分で作った。それで押し通すように大我に頼み、了承されたので、康代が創作した馴れ初めが、長尾家の公式エピソードとなったのだ。
 康代はコーヒーメーカーのスイッチをオフにし、サーバーの持ち手を握る。マグカップに出来たてのコーヒーを注(つ)ぎ、口に近付けた。そしてコーヒーにフーフーと息を吹きかけた。

   2

 康代は目覚まし時計を止めた。
 もう朝か。全然疲れが取れていない。
 ため息を吐(つ)いてからがばっと身体(からだ)を起こした。
 平日は午前六時に康代の一日が始まる。トイレを済ませ歯を磨いて顔を洗った。
 リビングのドアを開けると、身体が涼しい空気に包まれた。
 九月に入っても暑い日が続いていて、室内の温度は夜になっても下がらない。だから朝もすでに暑い。だが昨夜のうちに、エアコンをタイマー予約しておいたお蔭(かげ)で、リビングは快適な温度になっていた。
 テレビを点(つ)けてカーテンを開ける。それからキッチンに移動した。
 冷蔵庫からタッパーを取り出す。
 中にはタレに漬け込んだ牛肉の細切れと、くし切りの玉ねぎが入っていた。
 朝は時間がないため、下準備は前夜に済ませておくようにしている。
 三人分の弁当作りは大変なので、冷凍食品だけで構成したいところなのだが、それだとコストが高くなってしまうので、メインのオカズは手作りしている。冷凍食品は隙間(すきま)を埋める時に使う程度にしていた。
 フライパンに油を引く。菜箸(さいばし)で肉を押さえてタッパーを傾ける。そうして玉ねぎだけをフライパンに落とした。玉ねぎを炒(いた)め始めた。
 少しして玉ねぎが透明になったので、牛肉を投入して炒め続ける。
 完成すると三つのカップに分けてよそった。タイマー予約で炊いてあった白飯を三つの弁当箱に詰め、食中毒予防のために梅干しを載せた。炒め物を入れたカップはオカズのエリアに詰める。
 茹(ゆ)でて冷凍しておいたブロッコリーをレンジで解凍し、カップに入れて炒め物の隣に配置する。その隣にプチトマトを並べたら嫌な空間が出来た。
 何年も弁当作りをしているのに、弁当箱の容量と食材のサイズ感を合わせられなくて、入ると思った物が入らなかったり、丁度と思ったのに空きが生まれたりする。
 しょうがないので、冷凍室からミニオムレツの冷凍食品を取り出して、空きスペースに収めた。
 テレビに目を向けた。
 昨日のスポーツの試合結果を報じている。
 よしっ。今日はいい感じ。いつもより少し早く弁当作りが終わった。
 すぐに朝食作りに取り掛かる。
 キウイの皮を剥(む)き、小さくカットしてヨーグルトの上に載せた。目玉焼きを作っている間に、コーヒーの用意をして、パンをトースターに入れた。
 朝食をダイニングテーブルに並べていると、大我がやって来た。
「お早う」と言って席に着くとすぐにスマホを弄(いじ)り出す。
 白いワイシャツ姿でネクタイはしていない。
 大我が勤める会社では、今月いっぱいはノーネクタイが許されていた。
 大我がトーストにバターを塗り始める。
 康代も席に着きコーヒーに口を付ける。それからトーストにバターをざっと塗り、ブルーベリージャムを載せた。
 何口か食べ進めたところでようやく沙希が姿を現した。
 小さな声で「お早う」と言い席に着く。
 沙希も今月いっぱい着用出来る夏服姿だった。白い半袖(はんそで)のブラウスの襟元には赤いリボンを結んでいる。
 この制服は、都内の公立中学校でいつも人気ランキングの上位に入ると、学校説明会で校長が自慢していた物だった。
 沙希がスマホを弄りながら、ヨーグルトをスプーンで掬(すく)って口に運ぶ。
 康代は尋ねた。「今日は部活よね?」
 沙希はスマホに夢中でなにも答えない。
「今日は短歌部の部活がある日よね? 沙希、聞いてる?」と重ねて聞いた。
「ん? うん」
「部活が終わったら、どこにも寄らずに真っ直(す)ぐ帰って来るのよ」
「ん? うん」
 まったく。スマホに夢中で私の話を聞いちゃいないんだから。
 小学生の頃の沙希は、身体(からだ)を動かすのが好きなようだったので、中学では運動部に入るのだろうと予想していたが、意外にも短歌部に入った。俳句部とは仲が悪いらしい。
 最近ではスマホを使い過ぎだと注意すると、短歌を作っているのだと言い訳する。スマホに文字入力して短歌を作り、部員だけが参加出来る掲示板に、作品を発表しているのだと言う。ラインで感想を言い合ったりするので、スマホは創作活動に必要なのだとまで主張した。
 康代はテレビ画面の隅に映る時刻を確認してから、立ち上がった。
 冷凍室から弁当箱の蓋(ふた)を取り出す。
 三人とも蓋の中に、保冷剤が入っている弁当箱を使っていた。ひと晩冷凍室に入れて凍らせた蓋を弁当箱に被(かぶ)せれば、昼まで冷やし続けてくれる。
 蓋を弁当箱に被せると、その上に箸箱を載せた。ピンク色の風呂敷で包む。
 それを沙希の前に置いた。
 はっとしたように顔を上げた沙希は、弁当箱をスクールバッグに入れて立ち上がった。そして「行ってきます」と言うと玄関に向かった。
 その背中に康代と大我が「行ってらっしゃい」と声を掛ける。
 康代は食事を続け、食べ終わると皿の上で手をはたきパンくずを落とした。
 それから大我のマグカップ以外のすべての食器を、キッチンに運ぶ。
 康代が食器を洗っていると、大我が自分が使っていたマグカップを、キッチンカウンターに置いた。
 康代は水を止めて手をタオルで拭(ふ)き、冷凍室から黒い弁当箱の蓋を取り出した。
 それをカウンターに置くと、大我が自分用の弁当箱に被せる。
 そして箸箱を載せて風呂敷の両端を摘(つ)まむ。それから丁寧に結んだ。
 大我はいつもそう。朝の時間がない時でも丁寧にトーストにバターを塗り、丁寧にジャムを塗り、丁寧に風呂敷を包み、丁寧に靴紐(くつひも)を結ぶ。
 大我は全然悪くないのだけど、時々その丁寧さにイラっとする。
 大我が「行ってきます」と言ったので、康代は洗い物をしながら「行ってらっしゃい」と声を掛けた。
 洗い物を終えると自分の寝室に移動した。
 クローゼットの前に立ちどうしようと呟(つぶや)く。今日も暑くなると天気予報で言っていたから、半袖のカットソーでいいかな。
 傾いているハンガーラックからグレーのカットソーと、黒のプリーツスカートを取り出した。
 着替えを終えると化粧をした。
 家を出たのは八時だった。
 マンションの前の通りを左に進む。左にダイビングショップが見えてきた。
 その角を右に曲がれば海に、左に曲がれば駅に着く。
 康代は左に曲がった。
 海水浴客へのイメージ戦略なのか、ヤシの木が一定の間隔で植わっていた。
 すでに強い陽が射していて額に汗が浮き出てくる。自然と険しい顔になり眉間(みけん)に皺(しわ)が寄る。
 いったいいつになったら、夏が終わってくれるのかしら。年々夏が長くなっているように思えてしょうがない。
 暑さに弱いのは北国出身だからというのもあるかも。実家がある地域は夏でもそれほど気温は上がらないので、自宅に冷房がない家も多かった。暑さへの耐性が低いのかもしれない。
 今年のお盆は帰省しなかった。
 例年通り行くつもりでいたが、沙希から「行かなきゃダメ?」と聞かれてしまった。「いとこたちに会いたくないの?」と尋ねると、「話、合わないんだよね」と沙希は答えた。小学生の頃はじゃれ合うようにして遊んでいたのに。
 康代には姉と妹がいて、お盆にはこの三家族が実家に集合する。両親は小さな映画館をやっていて、書き入れ時には休めないので、第一回目の上映が始まる前に墓参りをして、最終の上映が終わってから、全員揃(そろ)って外食するのが常だった。その間には子どもたちを遊園地に連れて行ったり、川原でバーベキューをしたりした。どんな時でも、子どもたちは仲良く遊んでいるように見えていたのだけど。
 康代はなにかあったのかと質問したが、沙希は「なにもないけど、行っても退屈だから行きたくない」と答えた。
 それで康代は母親に今年は帰らないと電話をした。母親は少し寂しそうな声で「わかった」と言った。
 冷たい娘だと思われたのではないか。その日からひと月以上経っているが、未(いま)だに気にしている。
 十分ほどで駅に着いた。
 汗でカットソーが背中に張り付いていて、気持ち悪い。
 電車に乗り込むと冷房の冷気に一気に包まれた。
 吊(つ)り革に摑(つか)まり思わずふうっと息を吐いた。
 すでに体力の半分ぐらいを、使ってしまったような気がする。今日も午前六時からフル回転で働いたが、大我と沙希からお礼の言葉を言われていない。弁当を渡しても受け取るだけ。朝食を用意しても食べるだけ。有り難うと言って欲しいと思うのはいけないこと? 不満が一気に胸に溢(あふ)れる。
 バッグからスマホを取り出した。よく見ている通販サイトにアクセスする。
 あなたにお勧めだという商品の画像が並んでいた。
 綺麗(きれい)な水色のスカーフに目が留まった。画像にタップして商品の説明を読み始める。
 シルク百パーセントだというスカーフは、四十五センチ四方の小ぶりの物だった。白いオープンカラーのブラウスの首元に、そのスカーフを結んでいるモデルの写真が掲載されている。
 欲しい。いや、でも……片付けようとしているのに物を増やすのは……。いやいや、スカーフはセーフよ。畳んだら平らになって場所を取らないんだし。いいわよね、これぐらい。私は今日も頑張ってるんだし。
 康代はそのスカーフをカートに入れた。

   3

 とんでもなくドレッシングが美味しい。
 康代は感動して皿のサラダを見つめた。
 前にこの店でサラダを食べた時にも驚いたのだが、今日もやっぱり美味しかった。
 今夜もドレッシングを買って帰ろうと、頭の中にメモをした。
 この居酒屋は、康代が大学時代にバイトをしていたすき焼き店から、十メートルほどのところにある。
 大学生の時に四年間働いたすき焼き店は五階建てで、全フロアあわせて三百席ある大型店舗だった。当時バイトは三十名ぐらいいた。大学生が多く、サークル活動をしているような雰囲気の職場だった。面倒な幹事役を厭(いと)わない人がいたお蔭で、バイトを辞めて二十年以上経つのに、定期的に飲み会が開かれる。今日もその会が、ドレッシングの美味しい居酒屋で開催された。
 貸し切りの居酒屋には二十名ほどがいる。普段は別々に使っているであろうテーブルを、中央に寄せ集めて大きなテーブルとし、それを囲むように座っていた。
 康代は手を伸ばして、大皿に盛られたハムステーキを自分の小皿に移す。
 二センチはあろうかという分厚いハムの上には、パイナップルの輪切りが載せられ、粒マスタードのソースが掛かっている。
 ナイフでカットして、ハムとパイナップルを一緒に口に運んだ。
 食いしん坊が多いのか料理がテーブルに置かれると、あっちこっちから手が伸びて、あっという間に空になる。料理の皿が出て来たらお喋りは中断して、とにかく自分の小皿に移しておくのが、この会での鉄則だった。
 左隣の原田梓(はらだあずさ)もせっせと料理を小皿に載せている。
 康代はビールのグラスに口を付けて、参加者たちの顔を見ていく。
 ……いない。ちょっとがっかり。
 今回も初恋の人はいなかった。
 藤城遼(ふじしろりょう)は忙しいのかも。商社でバリバリ働いていると聞いたことがある。妻のひろみから。
 そのひろみは花柄のワンピース姿で、康代の斜め前に座っている。
 大きなダイヤの指輪を嵌(は)めた指を、これ見よがしに動かして隣の人と話をしている。
 遼は爽やかな笑顔の持ち主で、康代より三ヵ月前にすき焼き店で働き出したのに、すでにフロアリーダーをしていた。一浪をした遼は、康代より一つ年上だった。
「康代ちゃんの真面目なところ、凄くいいよね。フロアに康代ちゃんがいる日は安心して任せられるよ」と、遼から褒められたことがあった。
 子どもの頃から真面目だとよく言われてきたが、そこにはいつも否定的なニュアンスが含まれていた。白ける、いい子ぶってといった反感が透けて見えた。だから真面目だと言われる度に康代は凹んだ。だが遼は康代の真面目さを褒めてくれた。胸がじーんとした。
 その日を境に遼は特別な人になった。そして男性として意識するようにもなった。休憩時間が一緒になると心が弾んだ。だがドキドキし過ぎて、心臓の音が遼に聞こえやしないかと、ヒヤヒヤしているだけだった。遼から話し掛けられると、内心では飛び上がらんばかりに嬉(うれ)しかったが、緊張しているせいで、会話を長く続けられないことが多かった。
 休憩室で遼はいつも缶コーヒーを飲んでいた。そして缶コーヒーを飲み干すと「煙草(たばこ)いい?」と毎回康代に尋ねた。康代が「はい」と答えると、遼は休憩室の窓を細く開けて、店の制服のポケットから煙草を取り出した。一本抜き取り口に銜(くわ)えると、青い使い捨てライターで火を点けた。煙が沁(し)みるのか目を細めて吸った。煙草を挟むためにVの字にした人差し指と中指の爪が、大きくてしっかりしていた。灰が長くなると缶コーヒーの飲み口の穴に落とす。そうやっている時の遼は、一つしか年が違わないのにとても大人に見えた。そしてその一連の仕草が好きだった。ただ見ているだけで満足していた。
 半年ほど経ったある日、遼は缶コーヒーを飲み終えると、それをゴミ箱に捨てた。
 康代は「今日は煙草は吸わないんですか?」と尋ねた。すると「煙草を吸い続けるなら別れるって、ひろみから言われちゃってさ」と答えた。
 ひろみはそのひと月ほど前からすき焼き店で働き始めた、新人だった。
 ショックだった。必死で気持ちが顔に出ないようにした。そして「そうなんですか」という台詞(せりふ)をなんとか口にした。
 私の方が先に好きになったのに。よりによってひろみを選ぶなんて。
 ひろみとは何度か、スタッフ用のトイレで一緒になったことがあった。ひろみは手を洗うと濡(ぬ)れたその手で自分の髪を触り、乱れを直すフリをした。そうして自分の髪で手を拭いた。男の前ではレースのハンカチを膝(ひざ)に載せるくせに。そんな女を選ぶ遼のセンスにがっかりした。だが嫌いにはなれなかった。
 仮に今夜、この会に遼が参加していて、ひろみがいなくても、康代と彼の間にはなにも起こらない。それは十二分に分かっているけど見てみたかった。今の遼を。初恋の人だから。
 梓がトイレに立ち、康代はビールのグラスに手を伸ばした。
 その時、ひろみと目が合った。
 ひろみが言う。「康代ちゃんは銀行で働いているんだったよね?」
「信用金庫」
 毎回同じように間違うよね。性格が悪いから?
 ひろみが笑みを浮かべて「そっか」と言ってから「忙しい?」と聞いた。
「そうだね」
 私に興味なんてない癖に、どうして質問してくるんだろう。
 男性店員が二つの大皿を康代の前に置いた。
 麻婆(マーボー)豆腐と春巻きだった。
 康代はすぐに春巻きを一つ自分の小皿に移した。
 右隣に座る神永淳子(かみながじゅんこ)が康代に顔を寄せる。
 バイトをしていた時は淳之介(じゅんのすけ)という名だったが、五年ぐらい前に「これからは淳子なんで、よろしく」と言った。それ以降、彼を淳子と呼んでいる。
 淳子が小声で言った。「遼がニューヨークに栄転するんだって。ひろみもニューヨーク暮らしになるでしょ。それを自慢したくてしょうがないみたいよ。だからこっちからなにか聞いちゃダメよ。自慢話を延々と聞かされちゃうから」
「分かった。教えてくれて有り難う」
「どういたしまして」と言って淳子はウインクをした。
 飲み会は九時に終わった。
 康代は二次会には行かず、購入したドレッシングを手に駅に向かう。
 ホームへの階段を上っている途中で、発車ベルが聞こえてきた。
 駆け上がり電車に滑り込む。
 ふうっ。
 ほんの三、四メートル階段を駆け上がっただけで、息が上がっている。
 ドアの脇に立ちスマホをバッグから取り出した。ファッションサイトにアクセスし、「花柄のワンピース」と検索窓に入力する。そしてひろみが着ていた服と似ている物を夢中で探す。
 多分着ないけど私ももっていたい。そうしなきゃ、ひろみと同じになれない。向こうはお金があってニューヨーク暮らしだから、私と違うことばっかりだけど服なら同じ物をもてる。だから。
 康代は花柄のワンピースを探し続けた。

   4

「捨てる?」康代は聞き返した。
「はい」真穂が頷(うなず)いた。「何年も着ていない服はございませんか?」
「そういうのはありますけど……これから着るかもしれないから」
「クローゼットの中に吊り下げ式の収納グッズや、ケースを導入すれば、今より服を探し易(やす)くはなりますが、何分(なにぶん)服の量が多いので、今ある服すべてを中に収めるのは難しいです」
 難しいって、なによそれ。簡単にギブアップしないでよ。
 二人は康代の寝室に座っていた。
 見積もりと提案書はメールで送るという話だったのだが、直接会って説明したいと言われたため、再度真穂に来訪して貰(もら)ったのだ。
 大我は野球に、沙希は塾に行っているので、マンションには康代と真穂の二人だけだった。
 康代は言う。「でも、そういうのをなんとかするのが、プロなんじゃありません?」
「プロとは申しましても、物理的に不可能なことを可能にすることは出来かねます。この機会に服の全体量を減らすことに、チャレンジしてみるのはいかがでしょうか? 試しにここにあるセーターの仕分けをしてみませんか?」
 康代がなにも言わないでいると、真穂がバッグから大きな風呂敷を取り出して、フローリングの床に広げた。そこに〈残す物〉〈処分する物〉と書かれたカードを少し離して置いた。そしてクローゼットの横に積み上げてあったセーターを、自分の膝に載せる。一番上のセーターを康代に差し出した。
 受け取った康代はそれを〈残す物〉と書かれたカードの手前に置いた。次に真穂から渡されたセーターを、先程のセーターの上に載せる。その次のセーターもその上に載せた。
 十枚のセーターはすべて〈残す物〉に分類された。
 真穂が言う。「セーターそれぞれに、ストーリーや思い出があるからだとは存じますが、四枚の丸襟の黒いセーターを、一枚に絞るのは難しゅうございますか?」
「…………」
「康代様は整理と収納を、本当にしたいと思っていらっしゃいますか?」
「えっ?」
「整理整頓が苦手なお客様はいらっしゃいます。苦手ではないけれども、時間がないと言うお客様もいらっしゃいます。そういうお客様のお宅は、すべてのお部屋が混沌(こんとん)としている状態です。でもこちらは違います。他のお部屋は完璧に片付けておられます。康代様のお部屋だけが、このようになっておいでです。他のお部屋の片付けも康代様がやっていらっしゃるのに、です。フルタイムで働きながらも、他のお部屋はきちんと片付けをされていて、奥様としてもお母様としても頑張っていらっしゃる。これは凄いことでございます。大変でも出来る。やる。それが康代様です。そうわたくしはお見受け致しました。それではどうしてこのお部屋だけが、こうなっているのでしょうか。わたくしにはここに、康代様のお気持ちが現れていると思えてなりません」
 気に入らないわ。なんだって、そんなことを言われなくちゃいけないの? 私は客よ。どうして客の私が、追い詰められているような感じになってるのよ。ただの整理収納アドバイザーなんだから、黙って片付けてくれればいいだけなのに。でも……当たってるかも、なんて心のどこかで思ってしまう。
 真穂が続ける。「服を捨てるお気持ちになれないのは、その服への愛着とは違ってはいませんでしょうか。服を捨てれば、買ったというご自分の過去の行為を、否定することになるような感覚が、おありなのではないでしょうか?」
「…………」
「ご自分を否定したくないお気持ちが強いのは、他の人から否定されていると、感じていらっしゃるせいではないかと推察致しました」
 康代は真穂から目を逸らして、小さな窓の向こうの空を見つめる。
 少しの間、康代はその濁ったような空を眺めた。
 それからサイドの髪を留めていたヘアクリップを外した。手ぐしで髪の乱れを直す。
 そしてクリップを膝の上で弄りながら喋り出した。「私は大切にされていないんです。真面目にやってるんですけどね。やって貰って当然と思ってる人たちばっかりで。娘からも夫からも、有り難うなんて言って貰ったことないんですから。毎日お弁当を作って、朝食と夕食も作って、洗濯して、掃除をして、仕事をして頑張ってるんですけどね」一つ息を吐く。「娘がニキビを気にしてるんですよ。ニキビにいいという洗顔料の商品名を、ラインしてくるんです。買っといてって。私はなに? あなたの使い走りじゃないっていうのに。昨日は犬を飼いたいと娘が言い出したんです。冗談じゃないですよね。どうせ可愛がるのは最初だけで、散歩だったり餌(えさ)だったり、フンの後始末だったり、そういうやっかいなのは、結局私がやることになるというのが、目に見えているじゃないですか。これ以上面倒見る人――人じゃなくて犬でも増やさないで欲しいんです。夫はママがいいと言ったらいいよ、なんてラインに書いてくるんです。信じられます? 私がダメだと言ったら、娘の不満は私に向くに決まってるのに。わざとそう仕向けてるんです。自分は悪くないって位置にいたいから。ママは今だって大変なんだから無理だよと、娘を説得するべきでしょ?」
 真穂が真剣な表情で何度も頷く。
 なんでこんなことを整理収納アドバイザーに喋ってるんだろう、私。でもこんなに一生懸命私の話を聞いてくれる人は、いなかったから……。
 康代は訴える。「私、仕事も頑張ってるんですよ。ニューヨークとかじゃなく、日本の小さな町ですけど、真面目に働いているんです。信用金庫で営業しているんですけど成績はいいんです。たまに二番とか三番になることはありますけど、大抵一番なんです。それなのに全然昇進しないんです。いい成績なのに大切にされてなくて、新入社員の指導とか、面倒な仕事を押し付けられたりするんです」
 康代の目から涙が零(こぼ)れた。すぐに指で拭(ぬぐ)う。
 康代は言う。「私は一生懸命家族のため、信用金庫のために働いているのに、全然感謝されなくて。夫は野球やって、娘は短歌詠んで、楽しそうにしているんです。私には趣味なんかないですよ。そんな時間ある訳ないじゃないですか。私だけ二つも三つも四つも仕事しているんですから。服を買うのは時間が掛からないし、だから……」
 口惜(くや)しくてまた涙が零れる。
 真穂がハンカチを康代に差し出した。
 それはきちんとアイロンの掛かった白いハンカチだった。
 康代は首を左右に振って「汚しちゃうから」と言うと、膝立ちでヘッドボードまで移動した。そしてティッシュの箱に手を伸ばす。膝に載せて何枚か引き抜くと顔に当てた。
 真穂が質問する。「康代様。職場の有給休暇はどれくらい残ってますか?」
 驚いて振り返った。「えっ?」
「康代様がどれだけ掛け替えのない人かというのを、皆様に思い知らせてやりませんか?」
「…………」
 真穂がにやりとした。「ずる休みするのです。ご家族にも職場にも体調不良と言って、家事も仕事も放棄するのです。皆様はすっかりお困りになるでしょう。いい気味でございます。有給休暇は残っていらっしゃいますよね?」
「それは……えぇ」
「康代様に頼り切って、それを当たり前だと思っている人たちにひと泡吹かせてやりませんか?」
 この人はなにを言ってるの? 丁寧な言葉遣いだけど言っていることは無茶苦茶だわ。
 瞳をキラキラさせている真穂を康代は見つめた。

   5

 ガチャ。
 大我の寝室のドアの開く音がした。
 康代は思わず息を止める。
 廊下を歩く音。だがそれはすぐにぴたっと止まった。
 リビングの灯(あか)りが点いていないと気付いたんだわ。
 康代はベッドの中で身体を固くする。
 落ち着きなさい。大丈夫。私は上手くやれる。真穂からきちんと指導を受けたのだから。
 リビングのドアを開ける音が聞こえてくる。
 心臓がバクバクいってる――。
 今、大我はダイニングテーブルに康代が置いたメモを、見ているはず。
[体調が悪いので、今日は仕事を休んで寝ていることにしました]と書いた。真穂から指示された通りの文面だった。真穂から言われたのだ。「悪いんだけど、申し訳ないんだけど、などと言ってしまえば、康代様が悪いということになってしまいます。違います。康代様はなにも悪くないのですから、謝罪の言葉は絶対に言っても書いてもいけません」と。
 廊下を戻って来る足音がした。その足音は康代の寝室の前で止まった。
 遠慮がちのノックの音。コンコン。
 康代が返事をしないでいると「入るよ」と声がして大我がドアを開けた。
 大我が「どうした?」と聞いた。
 康代は壁に向いていた身体を、寝返りをしてドアに向けた。「体調が悪い」
 ベッドの横まで進み康代を覗(のぞ)き込む。「救急車呼ぶか?」
「そこまでじゃない。多分今日一日寝たらましになると思うから、大丈夫。だから会社に行って」
「本当に? 病院に一緒に行こうか?」
「病院に行くかどうかは分からないけど、行くとしても一人で行けるから大丈夫」
 大我が尋ねる。「信用金庫には?」
「後で私から連絡する。まだ早過ぎるから」
「そうか」と言った大我は心配そうな表情をした。
 え? ちょっと……意外。ひと通り自分が手助け出来ることはないかと、聞いてくるとは思っていたけど、そんな心配そうな顔をするなんて。
 大我はなにかあったらすぐに連絡してくれと言うと、部屋を出て行った。
 ふうっ。
 康代は息を吐き出す。仮病なんて生まれて初めてで緊張してしまった。上手く出来たかどうかは分からないけど、多分大我には通用した。次は沙希だ。なんとなく大我より難敵な気がする。注意しなくちゃ。
 しばらくしてノックの音がした。
 ドア越しに「なに?」と康代が尋ねると、「入っていい?」と沙希の声がした。
 康代が「いいわよ」と答えると、沙希がドアを開ける。
 沙希はベッドの脇に屈(かが)むと「具合悪いの?」と聞いた。
「そうなの。今日は寝てるわ。沙希は学校に行って頂戴(ちょうだい)」
「私が側(そば)にいなくて平気?」
「平気よ。大丈夫」
 沙希は掛け布団カバーの端に人差し指を当てた。そしてその指を左に、右にと動かして、カバーを撫(な)で続ける。
 康代は声を掛けた。「大丈夫だから学校に行きなさい」
 小さな声で「うん」と答えて手を止めた。
 沙希の瞳に怯(おび)えのようなものが走った。
 康代はごめんねと口にしそうになって、慌てて掛け布団を引っ張り上げて口元を隠す。
 沙希は「じゃ、行ってくるね」と言うと立ち上がった。
 ドアの前で立ち止まり手を振った。
 康代は掛け布団から左手を出して左右に振った。
 ドアが閉まり沙希が廊下を歩く音が聞こえる。
 よしっ。沙希にもバレなかったみたい。良かった。
 三十分ほどして廊下を歩く二人の足音が聞こえてきた。その足音は玄関に向かう。
 二人一緒に家を出ることにしたようだ。
 玄関ドアを施錠する音がしたので、康代は上半身を起こした。耳を澄ます。
 静かだった。
 少ししてトラックの荷台の扉が開く音が聞こえてきた。
 向かいのマンションの一階にあるコンビニに、納品にきた車だろうか。
 ヘッドボードのスマホに手を伸ばした。真穂から貰ったアドバイスをメモしたアプリを開く。
 何度も読んだのだが今一度目を通して確認する。二人が家を出ても、忘れ物を取りに戻る可能性がゼロではないので、三十分はベッドでじっとしているべきと書いてあった。真穂のアドバイスは細部に亘(わた)っている。
 真穂のアドバイス通りそれから三十分間、ベッドの中でスマホを弄って過ごした。
 頃合いをみて職場に電話をした。上司に体調不良で休みたいと言うと、康代の今日予定していた業務を聞かれたので説明をした。面談予定だった人にはアポイントを別日にして貰うか、誰かに代わりに行って貰うかの判断は、上司に任せると康代は言った。上司は一拍置いてから分かったと答えた。そして上司は電話を切る寸前に、思い出したようにお大事にと言った。
 怒ったのかもしれない。査定に響くだろうか。どうしよう。違う。どうもしない。私が普段どれだけ貢献しているかに気付け。私の代わりを出来るものなら、やってみろ、と思わなくちゃ。そう真穂は言ってたから。でも……やっぱりちょっとビビっちゃう。
 寝室を出てリビングに移動した。
 カーテンが閉じられていて部屋は暗い。
 家を出る前に閉じたのか、それとも開けることさえしなかったのか。
 康代はカーテンを開けて灯りを点けた。
 ダイニングテーブルには康代が置いたメモが、そのまま残っていた。シンクには使った皿とマグカップが、汚れたままで置かれている。
 二人は食パンとコーヒーだけの朝食を、摂ったようだった。タイマー予約をしておいた白飯は炊き上がっていたが、丸々残っているので弁当は作らなかったのだろう。
 コンビニで調達するのかしら。お握りぐらい大我が作ればいいのに。そこまで頭が回らなかったのかも。ま、いずれにせよ、仮病はお金が掛かるものだわね。
 キッチンの戸棚から雑炊のレトルト袋を取り出した。
 取引先の新商品だと言って、担当の職員から十袋ほど貰ったものだった。
 体調が悪い人が食べそうなものを、食べるようにしなくてはいけない。余ってしまった白飯を使った簡単な料理もご法度(はっと)。それに汚れ物が溜(た)まっているシンクも、片付けてはいけない。私は体調不良なのだから。
 袋の裏の説明書き通りに端をカットして、そのままレンジに入れた。マグカップに緑茶を入れて、完成した雑炊をリビングのローテーブルに運ぶ。
 テレビを点けた。
 テレビ局のスタジオにいるタレントたちが、両手を左右に広げて片足立ちをしていた。
 身体のどこかが良くなる体操だろう。
 雑炊は十分ほどで食べ終わった。
 緑茶を飲みながらぼんやりとテレビを見る。
 手に入れた時間をどう使ったらいいのか……分からない。
 テレビを消して立ち上がった。両手を高く上げて伸びをする。ふいに思い付いてキッチンカウンターに近付いた。端に置いたトレーからハンドクリームを持ち上げた。チューブを絞って両手の甲にクリームを出すと、それを塗り広げる。そうしてからしげしげと甲を見つめた。酷使してすっかり老け込んだ手を。

   6

 運転席の真穂が聞く。「昨日はいかがでしたか?」
 助手席に座る康代は答えた。「仮病はバレませんでした。夫も娘も心配そうな顔をしていましたから。騙(だま)していることが、ちょっと……後ろめたくて」
「後ろめたさを康代様が感じる必要はございません。堂々とずる休みするべきです。ずっと長い間毎日働き詰めでいらしたのですから。職場の方はいかがでしたか?」
「今日も休むと電話をしたら体調を気遣われました。昨日はそういうことは言われなかったんですけど」
 満足気に頷く。「いい傾向でございます」
 ずる休みの二日目。真穂から連れて行きたい場所があると言われ、迎えに来た彼女の車に乗り込んだところだった。
 車は住宅街をゆっくり進む。
 公園にでも行くのか、二人の女性が一台ずつお散歩カートを押していて、それぞれに五、六人の園児たちが乗っている。その中の一人の園児が好奇心いっぱいといった瞳で、康代たちが乗る車を見つめた。
 大通りに出た車は赤信号に捉まった。
 康代は尋ねた。「運転はよくされるんですか?」
「そうですね。収納ケースのような、結構嵩張(かさば)る物を運ぶことが多いものですから。わたくし、整理収納アドバイザーなんです」
 そうだった。この人は整理収納アドバイザーだった。クローゼットの片付けは全く進んでいないけど。この人に整理収納を依頼したら、ずる休みすることになって、今はどこかに連れて行かれようとしている。少し前の私だったら、ちょっと考えられない事態に陥っている……それが嫌ではないのが自分でも不思議なんだけど。
 今日の真穂は白いニットのアンサンブルを着ている。カーディガンの胸元には、パールやビーズなどがたくさん付いていた。張りのある黒い布地のフレアスカートを穿(は)き、いつものように巻き髪にカチューシャをしている。
 康代の方はグレーのセーターに、ジーンズとスニーカーという、カジュアルな格好をしていた。
 二十分ほど走り、真穂は車をコインパーキングに上手に止めた。
 エンジンを切った真穂が言う。「病人のフリをするために、粗食で過ごされていたでしょうから、まずは美味しいものを、たっぷり食べて頂こうと思っております。参りましょう」
 車を降りて細い道を進む。文房具店の手前を左に折れた。
 十メートルほど歩いたところで真穂が足を止めた。
 白地の暖簾(のれん)には〈ゆきこ〉という店名が、細い墨文字でプリントされている。
 真穂に続いて康代は店内に足を踏み入れた。
 カウンター席が六つあるだけの小さな店だった。一番奥にテーブルがあり六品の料理の大皿と、保温器に入った味噌汁(みそしる)が置かれていた。
 バイキング形式だという。
 真穂の推測通り康代は昨日から雑炊やうどんなど、消化が良さそうなものを少しだけ食べるようにしていたので、身体は栄養を摂りたがっていた。
 それで皿に料理を山盛りにして席に着いた。卵焼きも鶏の唐揚げも、きんぴらごぼうも、なにもかもが美味しかった。ここぞとばかりにバクバク食べた。
 康代が食事を終えて、満腹感に浸りながら緑茶を飲んでいると、真穂がバッグからスマホを取り出した。
 そしてスマホの画面を康代に見せる。「このアプリ、ご存じでしょうか? お勧めでございます。まず好きなキャラを選んで頂きます。この時点で不満の点数千点が付きます。ご不満をテキストか音声で入力しますと、康代様に代わってそのキャラが、敵役のキャラに石を投げたり、藁(わら)人形に五寸釘を打ってくれたりします。セロハンテープの最初の位置を分からなくさせたりとか、眠っている敵役のキャラを無理矢理起こして、ボタン付けをさせたりといった、細かい嫌がらせもします。そういうことをキャラにさせていると、点数はどんどん減っていきます。キャラになにかさせなくても、時間が経っただけでも点数は減っていきます。減り具合は緩やかですが。その点数がゼロになると少し気が晴れます。そういうアプリです。むしゃくしゃした時にお勧めでございます。服を買いたくなった時に、まずはそのアプリで遊んでみてはいかがでしょうか。ストレスの発散をキャラが代行してくれることで、服を買わずに済むかもしれません」
「それ、いいですね」
 康代はそのアプリの名を教えて貰い「ダウンロードしてみます」と言った。「教えてくださって有り難うございます。そういうアプリを知っているということは、中村さんもむしゃくしゃすることが、あるんですか?」
「ございます」
「即答ですね」
「はい」腕時計に目を落とした。「予約時間まであと少しですので出ましょうか」
「これからどこへ行くんですか?」
「当たらない手相見のところへ」
 康代は目を丸くする。「手相? 当たらない?」
「一応虫眼鏡(むしめがね)で手相を見るような真似事(まねごと)はするのですが、占いはテキトーなんです。手相は掌(てのひら)に現れる線などで占うのですから、そうそう変わらないと思うのですが、一ヵ月前と全然違うことを言ったりするのです。先月は二回結婚すると言ったのに、今月になると、あなたは結婚はしないと言ったりします。ですから占いの腕は大したことはないのでしょう。余興程度と思っておいてください。ただ話し相手としては最高なんです。それでなかなか予約が取れない状況になっております」
「…………」
「料金は六十分で七千七百円です。彼女は怪しい人ではありません。スピリチュアル的な話もしません。なにかを買えと言ったり、投資の話をしたりもしません。そこはご安心ください」
 安心って……今の話を聞けば全然安心出来ないけど……まぁ、ここまできたら、真穂を信じて乗っかるしかない気がするし、その当たらない占い師に会ってみたい気もする。
 康代は「分かりました。行きましょう」と言った。
 それは雑居ビルの三階にあった。
 碁会所の隣のドアに〈手相見 石舘(いしだて)ハルコ〉と書かれた、長さ二十センチほどの表札が付けられている。それは小学生が書いたような、下手くそな手書きの文字だった。またその表札の周りに配されたビニール製の薔薇(ばら)の造花が、インチキ臭さを増すのに貢献していた。
 慣れた様子で真穂が中に入り、康代は続いた。
 左に小さなデスクがあり陰気臭そうな男性が着いている。六十代ぐらいのとても痩(や)せている人だった。
 真穂が「こちらが長尾康代様です」と男性に紹介すると、「わたくしは一階の喫茶店でお待ちしております」と言った。
 康代は慌てて「同席してくれないんですか」と聞くと、「プライベートな話になるでしょうから遠慮致します」と答えた。
 急に心細くなる。でもまぁ、中村さんに聞かれたくない話もあるかもしれないから……しょうがない。
 男性に促された康代は一人で別室に足を踏み入れた。
 八畳ほどの部屋の中央にテーブルが一つあり、そこに女性が座っていた。
 六十代……いや、七十代かもしれない。定規をあてて描いたような一直線の眉と、真っ赤な口紅が目を引く。
 ハルコが「ようこそ。さぁ、どうぞ掛けてくださいな」と向かいの席を勧めた。
 指定された席に康代は座った。
 ハルコの背後には六十センチ四方程度の窓があった。そのガラスはでこぼこしていて窓外の景色はよく見えない。テーブルには場末の洋食店で見掛けるような、ビニール製のカバーが掛けられていて、大きな虫眼鏡が一つと、BICのボールペンが一本置いてあった。
 ハルコが言う。「それじゃ、手を見せて貰いましょうかね」
 康代は両手を差し出した。
 ハルコが虫眼鏡越しに康代の掌を丹念に見る。
 こんなに熱心に手相を見るのに当たらないのだろうか。
 しばらくしてハルコが顔を上げた。
 そして虫眼鏡をテーブルに戻した。「問題なさそうよ。大金持ちにはならないけど、貧乏にもならない。ほどほどの金運」
「……そう、ですか」
「不満?」
「不満という訳では……手相は金運の他にどんなことが分かるのでしょうか?」
「大抵のことは分かるわよ。大雑把にだけど」
「大雑把に……ですか」
「今日仕事は休み?」
「ずる休みしました」
 楽しそうな顔をする。「いいわねぇ、ずる休み」
 康代は昨日からずる休みをすることになった経緯を説明した。
 そして言った。「ずる休みなんて生まれて初めての経験で、なんだか落ち着かないんです。家族から私の身体を気遣う言葉をかけられる度に、騙していることが後ろめたいですし」
「はっ」と笑い声を上げた。「よっぽど真面目に生きてきたんだね。一日か二日ずる休みしたぐらいで、もぞもぞしちゃうんだから。ま、そういう性格は持って生まれたものだから、変えるのは大変なんだろうけどさ。手相にもそういうの、出てるよ」
 自分の手を見下ろす。「どこにですか?」
 ハルコはボールペンを摑むと、そのキャップの先で康代の右の掌に円を描いて「この辺」と答えた。
 囲った円が広過ぎてどこの線のことか分からない。この人、やっぱりテキトー?
 ハルコが言う。「真面目な人は生き難(にく)いでしょ」
「そうかもしれません」
「感謝されたいってことは、人からの評価を気にするタイプってことかしらね」
「…………」
「真面目な上に人からの評価を気にするんじゃ、生きていくのは難儀ね」
「…………」
「人から付けられた通信簿なんてさ」ハルコが語り出す。「見る必要ないのよ。あなたは、あなたで、誰かから認めて貰うために、生まれてきたんじゃないんだから。そうでしょ? あなたのことは、あなた自身が認めてあげればいい。それだけ」
「私自身が認めてあげればいい……」
「そう。自分がちゃんと認めてあげてないから、他の人に認めて欲しくなっちゃうんじゃない?」
「……そうかもしれません」
「大丈夫よ。そのうち自分を認めるようになるって手相に出てるもの」
「えっ? 本当ですか?」康代は尋ねた。
「本当よ。この辺りにね」と言って康代の左の掌に、ボールペンのキャップで円を描いた。
 康代は思わず苦笑した。

   7

「ご免ご免」と大我の声が聞こえてくる。
 康代はベッドの中で耳を澄ます。
 ずる休みの五日目の朝だった。
 大我がランドリールームのドアを開ける音がした。
「信じらんない」と言う沙希の声も流れてくるのは、リビングのドアを開けているからだろう。
 大我が「なに?」と大きな声を出した。
「朝ご飯は?」と尋ねる沙希の声がする。
 大我が「パンかなにかあるだろ。あるものを食べてくれ。パパは急いで沙希のブラウスに、アイロンを掛けちゃうから」と言った。
 制服のブラウスに今アイロンを掛けているの? 昨夜のうちにやっておくのを忘れたのかしら。
「なんにもないんだけど」と言う沙希の声が近くで聞こえるので、廊下に出てきたようだ。
「なにも? 冷凍のパスタとかもないか?」と、大我。
「朝に冷凍のパスタ? 昨日の夜も冷凍のパスタだったじゃん」
「好きだろ? パスタ」
「毎回食べたいほどじゃないんだけど。ニキビが酷(ひど)くなってるの、食事のせいだと思う」
「そうか? 酷くなっているようには見えないがな。それじゃ、今夜は肌に良さそうな弁当を買って来るよ」
「肌に良さそうなお弁当ってどんなの?」沙希が質問する。
「それは分からん」
「パパ、テキトー過ぎる」
「パパだって一生懸命やってるんだぞ」
「お昼代と塾の参考書代を頂戴」と、沙希。
「いくら?」
「お昼が千円で、参考書は二千五百円」
「アイロンが終わったら――あっ、現金がないな。そうしたら一緒に家を出て、駅前のATMで下ろして渡すよ」
 沙希の返事は聞こえてこない。
 少しして大我が「ほら、出来た」と声を上げた。
「襟に皺が寄っている」と言う沙希の冷めた声がした。
「皺? ここか? これぐらい見逃してくれよ。大丈夫だよ、誰も気が付かないさ」
「気付く。ママならこんな皺を襟に作らない。夜のうちにやっておいてくれるし」
「仕事してるからさ、帰って来てからの数時間で、あれもこれも出来ないんだよ」
「ママだって仕事をしてるじゃん。でもちゃんとやってくれるんだけど」
 大我が言う。「ママはスーパーウーマンなんだ。同じことをパパは出来ない。パパは出来が悪いからな。スーパーウーマンのママに頼り過ぎて、甘えてしまったと反省しているよ。ママは仕事も家のこともフルで頑張って、頑張り過ぎて心が疲れてしまったんだろう。ママは心が、風邪(かぜ)を引きそうになっているんだって話したろ。これからはママが頑張り過ぎなくてもいいように、パパが頑張るつもりだ。だから沙希も協力してくれ」
「そうしたら元のママに戻る?」
 大我の答えは聞こえてこなかった。
 二日前、大我は康代を医者に診せようとした。往診を依頼すると言い出したのだ。だから康代は告げた。「心が風邪を引きそうになっているだけだから、医者に診察して貰う必要はない」と。仕事を休み寝室にいる日が続けば、大我がそういう行動に出ることは予想していたので、用意していた言い訳だった。
 しばらくすると廊下を歩く二人の足音が聞こえてきた。三和土(たたき)で靴を履く音。
 ドアが開き、閉まり、錠を掛ける音に耳をそばだてた。
 そして訪れる静寂。
 ぴりっとした孤独を感じる瞬間だった。同時に自由も感じるのだけど。
 上半身を起こして上司に電話を掛けた。今日も休むと告げ、来週の月曜から復帰するつもりだと言うと、上司は「それは良かった」とほっとしたような声を出した。
 続けて上司は「助かるよ」と言った。「いや、勿論(もちろん)、長尾さんの体調が良くなったことが、なによりなんだがね。なにせ、長尾さんの代わりは誰にも出来ないからさ、復帰を待ち侘(わ)びていたんだよ」
「お客さんとトラブルにでもなったんですか?」
「トラブルじゃないんだけどさ、私らから説明しても、話なら長尾さんから聞くからという人ばかりでね。他の者が行っても相手にしてくれないんだよ。長尾さんへの信頼がとても厚いんだな。長尾さんの日頃の頑張りがあってこそ、うちはお客さんと商売が出来ているんだと、改めて思い知った訳だ。だからさ、復帰して貰えると助かるなと思ってさ」
 耳が……こそばゆい。
 電話を切って康代はスマホを眺める。
 ずる休み作戦は成功だった。気付いて貰えたみたいだもの。私がやってきたことの大変さに。人からの評価を気にしないようにするというのを、これからの目標にしたんだけど……やっぱり評価して貰えるのは嬉しい。
 ベッドから下りて寝室を出た。リビングのドアを開ける。
 カーテンが開いていて穏やかな陽が射し込んでいる。ローテーブルには食べ掛けのスナック菓子の袋が、三つ置いてある。どの口も輪ゴムで縛られていた。
 トマトソースらしき染みが付いた、ダイニングテーブルの横を通り過ぎてキッチンに入った。
 コーヒーメーカーのスイッチを入れた。
 棚からマグカップを出してカウンターに置く。ふと、左の掌を眺める。
 私は私を認めてあげる――そう心の中で呟いた。

   8

 真穂が説明する。「四種類のカードを用意致しました。一軍というカードのところには、よく着る服を置いてください。二軍のカードのところには、一軍に比べると出番が少ない服を置いてください。三軍のカードのところには、特別な日にだけ着る服を置いてください。喪服ですとか、入学式などのセレモニーに着る服でございます。四枚目のカードには処分する物と書きました。このカードのところには捨てる服を置いてください」
 康代は頷き「分かりました」と答えた。
 康代の寝室の床には、大きなブルーシートが敷かれている。だがそれでも置き切れないと思われたため、もう一枚のブルーシートは廊下にセットされていた。
 先週康代は仕事に復帰をした。上司も同僚も気持ち悪いほど康代に親切になった。顧客からも心配したよなどと声を掛けられた。こうしたことは康代の気分を良くした。今なら服の整理が出来そうに思った康代は、真穂に再訪を依頼した。そしていよいよ、整理作業に取り掛かろうとしているところだった。
 土曜日なので大我は野球の練習に、沙希は塾に行っている。
 真穂が言う。「処分の方法なのですが、フリマアプリなどを使って売ることも出来ますが、どうされますか?」
「前に一度売ってみたこと、あるんです。結構手間が掛かって面倒でした。服の写真を撮ったり、素材とかデザインの特徴とかの説明を、書いたりしなくちゃいけないでしょ。それに質問してくる人とか、値切ってくる人とかがいて、そういうのに対応するのも大変でしたし。そうそう、梱包とか発送も不慣れなせいか手間取りましたね。そういうのをこなせる時間はないです」
「ご自身でするのではなく、フリマアプリへの出品を、代行業者に任せることも出来ますよ」
「えっ。そんな業者があるんですか?」
「はい。服の撮影から出品手続きは勿論発送まで、丸ごとやってくれる業者がございます。手数料は取られますが、普通に捨てれば〇(ゼロ)円のところを、いくらかは現金になりますので、ご検討頂いても宜(よろ)しいのではないでしょうか。新品タグ付きの物やブランド品などもおありのようですし、そうした物はそこそこの値が付くかもしれませんので」
 康代は処分品を代行業者に依頼することにした。
 真穂が立ち上がった。クローゼットの前にあるハンガーラックから、スカートを取る。ボトムハンガーからスカートを外すと、康代の前に置いた。
 康代はそのスカートを〈一軍〉と書かれたカードの右に置いた。
 次に康代の前に置かれたのは花柄のワンピースだった。
 ひろみが着ていたのと似た物を探して買ったのだけど、結局一度も着ていない。私の好みじゃないから。似た物を買うなんてバカみたい。もう二度とこんな愚かな買い物はしない。多分私はもう大丈夫だから。
 康代はワンピースを〈処分する物〉と書かれたカードの右に置いた。
 ハンガーラックに掛かっていた服の仕分けが終わると、クローゼットの下部に置いたケースに取り掛かった。引き出しからは香水の瓶やポーチが大量に出てきた。
 真穂にポーチの中を確認してから、仕分けをした方がいいとアドバイスを受けたので、一個ずつファスナーを開けていく。
 どうしてこんなにポーチを集めることになったんだか。買った物だけじゃなく、どこかからオマケで貰ったりした物も、交じっているんじゃないかな。
 ピンク色のポーチを手に取りファスナーを開けた。中に入っていた小さなカードを引っ張り出す。
[ママ お誕生日おめでとう]と書かれていた。
 はっとした。
 やだ、これ、沙希がプレゼントしてくれた物だ。引き出しに仕舞ってその存在を忘れてしまっていた――。なんて酷い母親なんだろう。
 康代は「これ、娘が私の誕生日にくれたプレゼントでした。小学生の時にくれた物です。仕舞い込んでしまって忘れてました。ダメな母親ですね」と言うと立ち上がった。
 そしてそのポーチを、日常使いしているバッグの中に収めた。
 康代は言う。「娘はこれからは家の手伝いをしてくれるそうなんです」
「それは心強いですね」
「夫もそう言ってくれました。ま、いつまでその気持ちが持続するかは、分からないんですけどね。一週間私がお休みしたでしょ。仕事も母も妻も。それが相当こたえたみたいなんです。ママの大変さに気付いたよなんて言ってましたから。だからね、ずる休み作戦はやって良かったです。中村さんのアドバイスのお蔭。有り難うございました。あの占い師のところに連れて行って頂いたのも、感謝しています。手相についてはよく分からなかったんですけど、凄く大切なことを教えて貰いました」
「お役に立てたのでしたら、わたくしも嬉しゅうございます。それではクローゼットの整理を頑張りましょう」と言うと、両手の拳を自分の胸の前で小さく上下させた。
「はい」と康代は元気よく答えた。

(つづく) 次回は2024年11月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 桂望実

    1965年、東京都生まれ。大妻女子大学卒業。会社員、フリーライターを経て、2003年、『死日記』でエクスナレッジ社「作家への道!」優秀賞を受賞しデビュー。05年刊行の『県庁の星』が映画化されベストセラーに。他の著書に『恋愛検定』『僕は金になる』『残された人が編む物語』(すべて祥伝社)、『息をつめて』『就活の準備はお済みですか?』など多数。

    【著者公式HP】 https://nozomi-katsura.jp/