桂望実
1 三森泰久(みもりやすひさ)は洗い終わったコーヒーカップを、逆さにして籠(かご)に載せた。それからカウンターの右端の席に目を向ける。 いつもならそこには常連客の小林光男(こばやしみつお)がいるのだが、今日はいない。 喫茶店の壁に掛けた時計に視線を移した。 午後一時半。 泰久はエプロンで手を拭(ふ)いてからスマホを摑(つか)んだ。光男の携帯に電話をする。 呼び出し音の後で留守電に切り替わったので、電話を切った。 バイトの植野隆司(うえのたかし)に言う。「ちょっと出てくる」 「もしかして光男さんの家に行くんですか?」 「あぁ。そういう約束になってるからな」 泰久は厨房(ちゅうぼう)の奥にある小部屋に移動し、フックに引っ掛けていたダウンコートに手を通した。マフラーを首に巻き裏口から外に出た。 背後から冷たい風が通り過ぎる。 思わず肩を竦(すく)めた。 年が明けてから一気に冬らしくなった。今週末は都心でも大雪の予報が出ている。 雪になれば客はやって来ないので、店を早じまいすることになるだろう。 泰久が雇われ店長をしている喫茶店『街の灯(ひ)』は、小さな商店街の中にある。 百メートルほど歩き、ペットショップの手前を右に折れた。 狭い道の両側には年季の入った住宅が並んでいる。 この先に光男が暮らすアパートがあった。 泰久と光男は六十四歳の同い年で、一人暮らしなのも同じだった。どっちかになにかあったら駆け付けて、いざとなったら後始末をする約束をしていた。だから互いのアパートの合鍵を持ち合っている。 毎週月曜と金曜の昼に、光男は店でピザトーストを食べる。何年前から始まったのかは覚えていない。ピザトーストを食べ終わると、ツボ押し棒で肩甲骨の辺りを押さえながら、コーヒーを飲むのが常だった。 十分ほどでアパートに着いた。 敷地を囲うブロック塀の上には風見鶏(かざみどり)が設置してある。誰かが曲げたのか、老朽化して曲がったのか、その鶏は思いっ切り頭を下げた前屈姿勢になっていた。 鉄製の階段を上り二〇四号室の呼び鈴を押した。しばらく待ってから合鍵を鍵穴に差し込んだ。 玄関ドアを開けて声を掛ける。「留守かい? 泰久だ。上がるよ」 灯(あか)りを点(つ)けて三和土(たたき)で靴を脱ぐ。 右には三畳ほどの台所があり、ダイニングテーブルが一つと、椅子が一つ置かれている。コンロにはヤカンが載っていた。 居室に繋(つな)がるドアを開けた。 あっ。 光男がうつ伏せで倒れていた。 泰久は駆け寄った。「おい、どうした。おい、しっかりしろ」 光男はピクリともしない。 「死ぬなよ。ダメだ、まだ」 ポケットからスマホを取り出して119に電話をした。 若い女性オペレーターの声が聞こえてくると、すぐさま言った。「友達を助けてくれ」と。 オペレーターに住所を告げたら、救急隊員が到着するまで、心臓マッサージをしてくれと言われた。 「分かった」と答えた声が震えていた。 スマホをスピーカーフォンに切り替えて、オペレーターの指示通りに光男を仰向(あおむ)けにした。オペレーターが「一、二、三、四」と言うのに合わせて光男の胸の真ん中を両手で押す。 くそっ。死ぬな。馬鹿野郎。俺より先に死ぬな。まだまだ観たい映画がたくさんあるんだろ。あの世に行ったら映画を観られないぞ。 泰久の目から涙が零(こぼ)れる。 一、二、三、四。 その時だった。 「ミッチャン、ガンバレ」とオウムが声を上げた。 はっとして顔を上げると、ケージの中に光男が飼っているオウムの銀次郎(ぎんじろう)がいた。止まり木の上で白い体を上下させている。 一、二、三、四。 オペレーターの声に合わせて胸を押しながら、泰久は心の中で言う。銀次郎も頑張れと言ってるぞ。 一、二、三、四。 死ぬんじゃない。死んだら許さねぇぞ。 一、二、三、四。 泰久は心臓マッサージをし続けた。 2 泰久はボールペンを握った。書けと言われた箇所に住所と名前を書く。そして名前の横にハンコを押して、書類を事務員の加茂清美(かもきよみ)に戻した。 加茂は小さな茶封筒からノートを取り出した。「小林光男さんから、三森泰久さんに渡すようにと言われていたノートです。オウムの飼育方法が書いてあるそうです」 泰久はそれをパラパラと捲(めく)った。 光男の丸い身体(からだ)にそっくりの、丸くて大きな字が並んでいる。罫線(けいせん)は無視すると決めたようで、二行や三行にまたがるほどの大きさの文字が、あっちこっちに出現していた。 数年前、光男は自分になにかあったら、オウムの銀次郎を泰久に引き取って欲しいと言った。そのためにきちんとしておくとも言った。その言葉通り光男はNPOを通して弁護士に依頼し、法的に問題なく、銀次郎を泰久が受け取れるようにしてあった。残された現金は、光男が事前に決めておいた、児童養護施設に寄付されるという。施設育ちの光男が決めた人生の閉じ方だった。 光男は死んだ。救急車で病院に運ばれたが助からなかった。 救急車を呼べないほど、俺に助けを求められないほど、突然の死だったのか……俺が連絡を取っていれば……せめてあの日、もっと早い時間にあいつの部屋に行っていたら、助かったのではないかと毎日悔(く)やんでいる。 泰久は店から借りてきた台車に、銀次郎のケージを載せた。 体長が四十センチほどの銀次郎が入るケージの高さは、一メートル近くあった。 エレベーターで一階に下りる。 雑居ビルから道路に出る時、段差で台車がガタガタと揺れた。 すると銀次郎が「ジシン、ジシン」と声を上げて羽をばたつかせた。 泰久が「すまん、すまん。地震じゃない。段差があっただけだ」と言うと、まるでその言葉を理解したかのように、銀次郎は落ち着き嘴(くちばし)を閉じた。 平らな場所を選んで台車を押して歩く。 通りの向こうから若い女がやって来た。 銀次郎に気が付くとぱっと顔を輝かせた。だがそれを運んでいる泰久をちらっと盗み見た途端、顔から表情を消した。 怖い顔をしたジジイとは関わりたくないのだろう。 泰久はよく顔が怖いと言われる。そのうえ口が悪いから仕事の時には黙ってる方がいいよと、光男からよく言われた。 そういや、光男からは「やっちゃんは、いじけ虫だ」とも言われたっけ。 高校を卒業した泰久は、両親が営んでいた小さな印刷会社で働き出した。十年後に社長を継いだが不運が重なり倒産した。それからレンタルビデオ店を開いたが、こちらも上手くいかずに閉店することになった。その後は仕事を転々とする生活だった。全部は思い出せない。それほど多くの仕事に就いた。こっちは真面目に働いているつもりでも、口が災(わざわ)いするのだ。お愛想の一つも言えりゃ良かったんだろうが、相手が上司だろうと、得意先だろうと、おかしいことはおかしいと言っちまうので、クビになった。 俺の人生は失敗続きだった。これだけ失敗が続けば、いじけた性格になるのは当たり前ってもんだ。いじけるぐらい、いいだろ、別に。 十年前にたまたま入った喫茶店に、スタッフ募集の紙が貼ってあった。俺を雇って貰(もら)えますかと聞いたら、オーナーからうちの店名の由来は、なんだと思うかと聞かれた。だからチャップリンの映画の、タイトルからですかと質問したら、そうだと答えた。オーナーから観たかと聞かれたから、観たと答えると採用された。半年ほどするとオーナーはあんたに任せると言って、店に顔を出さなくなった。映画好きのオーナーの気まぐれで雇って貰い、今日まで続いている。 十五分ほどで泰久が借りているアパートに到着した。 築四十年のアパートの外壁には、何本ものヒビが入っている。 このアパートは建て替えるそうで、店子(たなこ)たちには二ヵ月以内に出て行くようにとのお達しが出ていた。 歩道とアパートの入り口の段差で、台車が大きな音を立てた。 銀次郎が羽ばたきをしたが声は上げなかった。 敷地の隅で大家の岡田宗伸(おかだむねのぶ)がベンツの洗車をしている。 大家は不思議なほど金回りがいいようで、いつも高級外車に乗っている。そして暇なのか毎日のように洗車をしていた。 銀次郎に気が付いた大家が鋭い視線を泰久に向けた。「それ、飼うの?」 「ええ」 「煩(うるさ)くさせないでよ。近所迷惑になるから」 「大丈夫ですよ」 「本当に? 煩いのは困るんだよね」 泰久はポケットから鍵を出しながら言う。「お宅のワン公よりは静かですよ」 ムッとしたような顔をする。「メルちゃんをワン公と言わないでくれる?」 「あれっ。猫でしたっけ?」と言うと、大家の目に怒りの色が浮かんだ。 メンドー臭(くせ)ぇ野郎だ。 泰久はドアを開けて隙間にスニーカーを噛(か)ませた。そうやってドアを開けたままにして、ケージを中に入れた。台車を畳んで下駄箱にもたせ掛けると、噛ませていたスニーカーを外す。ドアが閉まるまでの数秒間、仁王(におう)立ちしている大家の姿が見えた。 泰久が住む一〇五号室は手前に台所があり、その向こうに二つ部屋がある。左の四畳半には布団が敷きっ放しのため、空いているスペースはない。 右の六畳の居間にある卓袱台(ちゃぶだい)にひとまずケージを置いた。テレビの横に積んでいた雑誌を台所に移し、空(あ)いた場所にケージを据えた。 ステンレス製のケージの中には上と下に止まり木があり、銀次郎は上のに止まっていた。中央に大きめの扉が、その左右に小さい扉が付いている。その小さい扉の向こう側には、それぞれに餌入れと水入れの容器があった。 泰久はこの小さい扉を上に滑らせるようにして開けて、容器を取り出した。 餌と水を入れて元の場所に戻した。それから着替えをするため隣室に移る。よそ行きのセーターを脱ぎトレーナーを着た。セーターを畳んで箪笥(たんす)に仕舞うと台所に移動する。 急須に茶葉を入れようとした時だった。 「ハラヘッター」と言う銀次郎の声がした。 泰久は居間のケージを覗(のぞ)いた。「なんだよ、腹減ったってのは。餌、あるじゃねぇか」 「ハラヘッター」 「だから、餌、それだろ? 違うのか? 光男の部屋にあった餌を貰ったんだから、お前がいつも食べてるもののはずだぞ」 だが銀次郎は餌入れに見向きもしない。 おかしいな。 台所に戻り光男が残したというノートを開いた。 ページを捲る。 あっ、これか? [オウム専用の餌の他に、時々果物や生野菜をあげてください]と書いてあった。 果物や野菜って……どっちだよ。 流しの横のミカンに目が留まった。 実家から大量に送られてきたという客から貰った、ミカンだった。 一つを手に取り台所を出た途端、足が止まる。 銀次郎がケージの屋根の上にいた。 どうやって、そこに? 近付いてよくよく調べてみると、屋根も左右に開けられる作りになっていた。 そうではあるにせよ外側から開閉出来ても、内側からは開けられないようにしてあるもんだろうに。 泰久は尋ねる。「お前、自分で開けたのか? だよな。俺は屋根が開けられることも知らなかったんだから、いじりもしなかったはず。うっかり開けたままにしていたとは考えられないもんな。だとしたら、お前、いつでもどこにでも行けるんじゃないか。ケージの意味がないじゃねぇか」 「ハラヘッター」と銀次郎が繰り返す。 泰久はミカンを差し出した。 銀次郎は一瞬ミカンを見つめたが、すぐに「ハラヘッター」と声を上げる。 なんだよ。ミカンは嫌なのか? もしかして皮付きのままじゃダメなのか? 泰久はミカンの皮を剥(む)くと割って、そのうちのひと房(ふさ)を銀次郎の顔の前に差し出した。 銀次郎は少しの間それを見つめた後で、片足を伸ばした。そして摑んだ。その足を少し上げると背中を丸める。そうして前傾してついばみ始めた。 やっぱりひと房の状態で食いたかったのか。お前、お殿様並みに手が掛かるな。 銀次郎が「オイシー」と声を上げた。 「そりゃ、宜(よろ)しゅうございましたな」 泰久は卓袱台の前に座り、ミカンは何房まで食べさせていいのか書いてないかと、ノートを捲った。 銀次郎が言った。「ミッチャンハ?」 「あ? 光男のことか? 光男はいない」 「ミッチャンハ?」 「みっちゃんはあの世に行っちまったんだ。もう会えねぇよ。俺で我慢するんだな」 「ミッチャンハ?」 「うるっせぇな。何度も同じことを聞くんじゃねぇ。しつこいと焼き鳥にして食っちまうぞ」 銀次郎は足でミカンを握り締めたままで体を上下させた。 3 花立に菊を挿す。そして泰久は手を合わせた。 直径三メートルほどの円形の囲いの中央には一本のオリーブの木が生えている。土の下に光男の遺骨は合祀(ごうし)されている。 生前に光男が契約していたのはこの樹木葬だった。 今日は光男の月命日だ。 泰久は目を閉じて、心の中で光男に声を掛ける。来たよと。 遠くからバイクの走行音が聞こえてきた。 ゆっくり目を開けた。 手を下ろして、畜生と呟(つぶや)く。 胸いっぱいに広がる寂しさを、泰久は持て余す。 ハックション。 くしゃみを一つしてから歩き出した。 階段を上り、広場に辿(たど)り着く。 泰久はベンチに腰掛けた。 そこからは椀の底のような場所に並ぶ墓を見下ろせる。墓参の人たちのために寺が用意した場所のようで、広場にはベンチがいくつか並び、飲み物の自動販売機もあった。 昼休憩の時間を利用して泰久はここにやって来た。今、店は隆司が回してくれている。 泰久はコンビニで買ってきた稲荷寿司(いなりずし)の容器を開けた。指で稲荷寿司を摘(つま)み口に運ぶ。 あれは何年前だったか……泰久は大晦日(おおみそか)に近所のスーパーで買い物をしていた。午後五時頃だった。多くの人はすでに年末の買い物を終えていたようで、店はガラガラだった。 そこで光男と出くわした。『街の灯』に何度か来店した客だと気付いた泰久は会釈(えしゃく)をした。光男の方も泰久が喫茶店のスタッフだと気付いたようで、会釈を返してきた。 その時、光男の籠の中に目が向いた。日本酒パック、つまみ、レトルトカレー、カップラーメンなどが入っていた。 それは泰久の籠の中身とよく似ていた。 光男も泰久の籠の中を覗き察したようだった。こいつも一人で年末年始を過ごすのだと。 光男は言った。「良かったら一緒に年越しそばを食べませんか?」と。 泰久はびっくり仰天(ぎょうてん)し、すぐさま断ろうとした。だが何故(なぜ)か言葉が出てこなかった。 光男は「大晦日は一人じゃない方がいいですよ。せめて大晦日ぐらいは誰かと過ごした方がいい」と続けた。 泰久は不思議なことにこの時そうだなと思った。そして光男のアパートに行った。部屋には銀次郎がいた。大量の映画のDVDを観て、光男も映画好きだと知った。 一緒に年越しそばを食い酒を飲んだ。ずっと映画の話をした。翌日には光男が泰久のアパートにやって来た。そしてまた映画の話をした。それから毎年大晦日から三が日の間は、互いのアパートを行ったり来たりして、過ごすようになった。 あいつはもういないから……これからは一人で年末年始を過ごすのか。それは……ちょっと……しんどいな。俺も焼きが回ったもんだ。いい年こいて、一人がしんどいなんて思うようじゃ。昔に戻るだけだ。光男と知り合う前の頃に。昔は一人に慣れていたんだから出来るって。 泰久はペットボトルの緑茶を喉(のど)に流し込んだ。それをベンチに戻した時、自身が履いているスニーカーにチラシがへばり付いているのを発見した。手を伸ばしてチラシに目を落とす。 入居金がゼロ円の介護施設がオープンしたと書いてあった。楽しそうに笑うジジイと、若い女が、柔らかな光の中で話している写真が載っている。 インチキ臭ぇな。 そう思うものの、右下に書かれた地図を確認してしまう。 すぐ近くじゃねぇか。帰りにちょっと覗いてみるか。インチキ臭いが、いずれ厄介(やっかい)になるかもしれないからな。 出来るだけ自宅で過ごしたいが、そうはいかなくなった時には、同じ施設に入ろうと光男と約束していた。光男と一緒なら、介護施設も楽しそうだと思えていたのだが。 そういや、健康診断にも二人で行った。 当初、泰久は健康診断に行くのを面倒がった。 だが光男は「介護施設に入る日を一日でも遅くするには健康でいなけりゃならない」と言い、更に「やっちゃんは運動不足だし、食事も偏っているから、定期的に健康診断を受けた方がいい」と勧めてきた。 丸っこい身体で週に二回ピザトーストを食べる男がなに言ってんだと思ったが、何度も勧められたので、渋々行くことにしたのだ。 病院の前で泰久たちはジャンケンをした。どちらが先に受付をするかが、なかなか決まらなかったからだ。 通り掛かった看護師が小学生みたいねと言って笑った。 確かになと思って、泰久も笑った。 光男も笑った。 そんなことがあった。それが今は……一人になっちまった。 泰久は長い長いため息を吐(つ)いた。 それからまた稲荷寿司に手を伸ばした。 食べ終えると腰を上げた。 来た時とは違う道を歩いていると、チラシにあった介護施設の看板が見えてきた。 四階建ての施設は薄いクリーム色の外壁に、小さな窓が等間隔で並んでいる。 門扉(もんぴ)の前で泰久は足を止めて、中を覗く。 二重の自動ドアの奥から、青いセーターとピンクのスカートを身につけた女が歩いて来る。 八十代ぐらいだろうか。 女が自動ドアを抜けて出てきた。 ぎょっとして目を瞬(しばたた)いた。 女は靴を履いておらず、裸足だった。そして転んだのか右目の周りに黒い痣(あざ)が出来ている。 びっくりしている泰久の目を、女はじっと見返してくる。 女の背後からスタッフらしき男が走って来た。そして女の腕を摑んだ。 男は女に向かって「やちよさん、外に出ないって約束したじゃないですか。さ、部屋に戻りましょう」と言った。 女は抵抗することなく、最初からそのつもりだったかのように、ゆっくりUターンした。そして男に腕を取られながら自動ドアに向かって歩き出した。 何年後かの俺なのかもな。身につまされて胸がザラザラする。 泰久はその場を離れた。 駅前の銀行で店の売上金を口座に入金し、釣銭用の小銭を確保するため両替をした。 銀行を出ると商店街を進む。 左右に様々な店が並んでいる。駅へ抜ける道でもあるため、人の往来は結構多い。 パン店の前に行列が出来ていた。半年ほど前にオープンしたこの店は、店頭に天然酵母パンと書かれた幟(のぼり)を立てている。列は隣の書道教室と、その隣の美容院の前まで続いていた。 耳鼻咽喉科の出入り口に取り付けられた三つの監視カメラに、泰久は目を留めた。 窃盗被害に遭う度に監視カメラを増やしたのだという。他の店は無事なのに、何故かここばかりが狙われた。監視カメラは肝心の犯行時にはいつも故障しているそうで、院長以外の人たちは内部の人間が犯人だろうと噂(うわさ)しているらしい。 泰久は『街の灯』の裏口から小部屋に入った。小さなテーブルの前に着き、帳簿を広げる。 店番の隆司がカウンター席の客と会話している声が聞こえてくる。 「あそこ、閉店しちゃうんですか? 駅に近いいい場所なのに」と、隆司。 男の声がする。「いい場所だが下着屋だからな。たいして売れないだろう。それをなんとかしようとしたのか分からんが、仮想通貨ってあるだろ、最近の、なんだか得体のしれないもんが。あれに手を出したって話だ」 「投資が上手くいかなかったんですか?」 「そうだよ。貯(たくわ)えを全部突っ込んで、すっからかんだってさ。旦那が死んで二十年。奥さん一人で頑張ってたのにな。あんな目くらましみたいなもんに、引っ掛かるとはなぁ。なんでかなぁ」 「なんでですかねぇ」 隆司はこんな風にいつも客と気軽に話をする。泰久は敬遠されているので、それほど情報は入ってこないが、人付き合いが上手な隆司のところには、様々な情報が集まる。耳鼻咽喉科の窃盗被害の話も、泰久は隆司から聞いた。 帳簿付けを終えた泰久は小銭を手に、カウンターに足を踏み入れた。 その瞬間、カウンター席の客がぴたっと口を閉じた。そして金つぎが施されたカップを持ち上げてコーヒーを飲み干すと「お勘定」と言った。 そそくさと支払いを済ませた客を見送った隆司が、笑いながら「店長って、お客さんから怖がられてますよね。本当は全然怖くないのに。そういうの分かっているお客さんも何人かはいますけど、大多数のお客さんが店長を誤解してますよね。近寄りがたいところがあるって思っちゃってるんですかね」と言った。 4 「本当に来たのか」と泰久は言う。 中村真穂(なかむらまほ)が「参りました」と言って頷(うなず)き、隣の若い女を、新人の整理収納アドバイザーの高木瑞紀(たかぎみずき)だと紹介した。 しょうがないので泰久は二人を、アパートの中に招き入れた。 引っ越しをした時に、結構な量の物を捨てたと思っていたのだが、新居の収納場所が少ないせいで入りきらず、荷物を運んだ段ボール箱のまま部屋に積んであると、泰久は店でうっかり口を滑らせてしまった。常連客の中村が、その道のプロだということを忘れていたのだ。中村は「わたくしの出番ですね」と勝手にやる気になって整理すると言い出した。そんな金はないと泰久は断ったが、中村の友人の娘が、整理収納アドバイザーの資格を取ったばかりで、経験を積む段階なので無料でいいと言う。好きにしろと泰久が言うと、中村はその場で訪問日時を決めてしまった。どこまで中村が本気なのか半信半疑だったが、どうやら本気だったようだ。 中村はケージの屋根の上にいる銀次郎に気が付くと「銀ちゃんですね」と言って真っ直(す)ぐ向かう。 高木も「可愛(かわい)い」などと言いながら銀次郎に近付いた。 「ギンチャンデス ヨロシクー」と、銀次郎。 中村と高木が「わぁ、すごーい」と言って拍手をした。 中村が言う。「光男さんからよく話を聞いておりましたので、ずっと銀ちゃんに会いたかったんです。可愛いですねぇ。賢そうですし。放し飼いなんですね」 泰久は説明した。「いや、俺が放し飼いにしてるんじゃなくて、そいつ、自分でケージの扉を開け閉め出来ちゃうんだよ。出たい時は扉を開けて出て、寝る時には自分で中に入って扉を閉める。光男の家には何度も行ったが、銀次郎が自分で開け閉め出来ることは、気付かなかったんだがさ」 中村が「賢いんですね」と感心したような声を出した。 高木が「銀ちゃんの写真を撮ってもいいですか?」と聞いた。 泰久が許可すると、高木は銀次郎にスマホを向けた。 すると銀次郎が歌い出した。「バスヲー マツアイダニー ナミダヲ フクワー」 中村と高木が目を丸くする。 銀次郎のヤツ、はしゃぎやがって。女二人に可愛いなどと言われて調子に乗ってるな。 銀次郎の歌は続く。「シッテルダレカニ ミラレタラー アナタガキズツクー」 中村が首を傾(かし)げた。「どこかで聞いたことがあるような。これ、なんていう歌ですか?」 「『バス・ストップ』って歌だ」と、泰久。「機嫌がいいとこれを歌うんだ。光男が教えたんだろう」 中村が尋ねる。「銀ちゃんの機嫌がよい時というのは、どんな時なんですか?」 「女に可愛いと言われた時とか、腹がいっぱいになった時とか、水浴びをしている時だな。洗面器の周りをびちょびちょにしながら水浴びして、ご機嫌で今の歌を歌うんだ。お蔭(かげ)でこっちは片付けが大変だよ」 「また、そんな言い方を。本心じゃ可愛くて仕方ないくせに」 「なんだよ、それ。光男に頼まれたから仕方なく飼ってるだけだ。毎日ケージの掃除をして、水替えて、餌やって、大変なんだ」 「泰久さんは本当に素直じゃありませんね。本棚にオウムの飼い方という本があるじゃないですか。銀ちゃんのために勉強してるんですよね。銀ちゃんを可愛いと言うのは、恥ずかしいことではございませんよ」と言った中村は、今度は高木に向かって「こんな風にひねくれた物言いをしても、本当は優しい人だから大丈夫、安心して」と言った。 勝手なことを。大丈夫って、なにが大丈夫なんだよ。 中村が高木に指示をして部屋の写真を撮り始めた。同時にメジャーで押入れや棚のサイズを測る。 「段ボールの中を見せて貰っても宜しいですか?」と、中村。 「構わない」と泰久が答えると、中村が段ボール箱を開けて中を覗き込む。 六畳の居間の押入れの横に、段ボール箱が三つ積まれている。この他に五畳の台所、四・五畳の寝室にも段ボール箱はあった。 築三十年のアパートの二階の一室に落ち着いたのは、一ヵ月前だった。南西方向にあるベランダからは池が見えた。池は樹々でぐるりと囲まれていて、所々にベンチが配されている。 中村が言う。「映画のパンフレットがたくさんありますね」 「あぁ」と、泰久。「押入れに入れるつもりだったが、他の物でいっぱいで中に入らないんだ。だから捨てようと思ってるよ」 映画が見せる嘘(うそ)の世界が好きだった。嘘の世界に浸っている間は、浮世(うきよ)のことを忘れていられる。熱心に観るようになったのは中学生の時からだ。 近所に級友がいた。誘い合ったりはしなかったが、大体帰りの時間は一緒になるので、話をしながら帰路についた。そんな時にどんな話をしていたのかを覚えてはいないが、どうせくだらない話だったろう。 ある日、級友が「うちで遊んで行かないか」と誘ってきた。泰久は断った。なぜ断ったのかその理由も覚えていない。 級友は「そっか」と言い、泰久は「じゃ、明日ね」と手を振った。 翌日級友は学校を休んだ。担任が言った。亡くなったと。 泰久は衝撃を受けて固まった。 担任は、親から貰った大切な命を粗末にしてはいけないといった話をし出した。 自殺したのだと察し泰久は更に大きな衝撃を受けた。 級友になにがあったのか。なにに悩んでいたのか。泰久にはまったく分からなかった。そして自殺をする当日になぜ泰久を誘ったのか。普段の様子となんら変わっているようには見えなかった。それでも心の中では死を決意していたのか。 人の心が分からなくなって、それはやがて人間不信へと繋がった。泰久は取り敢(あ)えず人と距離を取るようになった。友人を作るのが怖かったのだ。 そして映画館に逃げた。映画は嘘の世界だと分かっているので、登場人物が理解不能な行動をしても、酷(ひど)い目に遭(あ)っても、幸せになれなくても、安心して見ていられた。その登場人物とは距離の取り方を考えずに、観ているだけでいいというのが気楽で良かった。映画が友となった。 継いだ印刷会社が上手くいかなかった時も、レンタルビデオ店を潰した時も、上司に啖呵(たんか)を切って辞めた時も映画館に行った。現実を忘れたくて。 中村が言う。「お宝じゃないですか。捨てるなんて勿体(もったい)ないですよ。捨てずに済むよう収納の工夫をしてみます」 泰久は疑問を口にした。「整理収納アドバイザーってのは、客に捨てろ捨てろと発破をかけるのが仕事かと思っていたんだが、違うのか?」 「違います」と中村が否定した。「お客様に闇雲に捨てるよう促したりすることはございません。お客様が大切な物と、そうでない物を仕分けする際の基準の決め方を、ご提案することはございますが、あくまでもご提案です。発破をかけたりも致しません。大切な物をきちんと収納出来るようアドバイスさせて頂くのが、わたくしの仕事でございます」 「そうかい」 段ボール箱に片手を乗せる。「一番上に『グリース』のパンフレットがありました。『グリース』を映画館でご覧になったんですね」 「昔にな。知ってるのか?」泰久は尋ねる。 「ビデオで観たことがございます」 「あんたはミュージカル映画が好きだもんな」 「はい」頷いた。「光男さんは子どもが出てくる映画が好きでしたよね」 泰久の胸に痛みが走る。 そうだった。光男が好きだという映画は、大抵子どもが出てくるものだった。特に不憫(ふびん)な子どもが、境遇に負けずに頑張るような話が好きだった。施設出身だったから、そういう子どもと自分を重ね合わせたのかもしれない。 光男の女房は出産時に子どももろとも亡くなった。家族が増えると喜んで待っていた光男に、妻と子どもの死が知らされたという。天国から地獄に落ちたと言っていた。そんな経験もあって、子どもが出る映画が好きだったのかもしれない。 あいつは……もういない。映画の話をする相手がいなくなった。俺の方が先に逝きたかった。こんなに寂しい思いをするぐらいなら。汗っかきで小さなタオルで汗を拭(ぬぐ)いながら、店でピザトーストを食べてコーヒーを飲んでいた。陽気な男だったがその顔には時折翳(かげ)が差した。苦労をしてきたからか。もっと同じ時間を過ごしたかった――。 中村が高木を呼び寄せて、三森家の仏壇の前に並んで座った。 そして手を合わせる。 それから高木は立ち上がり、メジャーでの計測と撮影を再開した。 中村が顔だけを後ろに捻った。「泰久さんのご両親はどんな方だったのですか?」 「どんなって……普通の人だったよ」と泰久は答えた。 最後まで俺のことを心配していた。いい人、見つけろ。これが父親の最期の言葉だった。母親も電話を掛けてくる度に「いい人、いないの?」と聞いてきたから、二人とも泰久を心配していたのだろう。 いい人はいた。だがその女に捨てられたのだ。仕事を転々としていた泰久に、女は「お金の心配をしないで済む暮らしがしたい」と言って出て行った。 中村が台所の戸棚を開けて言う。「泰久さんはコーンが好きなんですね。コーンの缶詰がたくさんあります」 「大したものは作らないが、料理の上に最後にコーンを降らせりゃ、華やかになるだろ。それで安くなってると買っておくんだ」泰久は説明した。 「そうなんですね」と言いながら、中村が今度は冷蔵庫を開けた。 中を覗き「オカズを作り置きされているんですね。しっかりしていらっしゃいますね」と言った。 「なんだよ、しっかりって。子どもじゃないんだから。ジジイが一人で生きてるんだから、しっかりしなきゃならねぇんだよ。誰も面倒見てくれねぇからな」 銀次郎が声を上げる。「ヤッチャン ガンバレ」 中村と高木が声を揃(そろ)えて「銀ちゃん、賢い」と褒めた。 銀次郎は満更(まんざら)でもないといった顔をした。 そして頭を九十度横に倒して泰久を見上げた。 5 「いかがでしょう?」と中村が聞いた。 泰久は腕を組み自分の居間の棚を見つめる。 棚にはファイルボックスに収められた映画のパンフレットが、整然と並んでいた。二段目の棚板の上には陳列コーナーが出来ていて、映画館で貰った映画名の入ったボールペンやキーホルダー、クリアファイルなどが飾られていた。 部屋を引っ掻(か)き回されるだけではないかと疑っていたが、中村と高木はきっちりと仕事をした。段ボール箱の中身を押入れに収めただけでなく、飾ることまでしていた。 そもそもこの棚は台所に置き、鍋やらインスタント味噌汁(みそしる)などを載せていた。中村たちはそうした雑多な物を、百均ショップで買ってきたケースに入れるなどして、戸棚に収めきることに成功し、空いた棚を居間に移したのだった。 午前十時にやって来た二人は、途中昼休憩を挟みながらくるくると立ち働き、居間、寝室、台所、洗面所を三時間ほど掛けて片付けた。 中村が「いかがでしょう?」ともう一度言った。 泰久は「まぁ、いいんじゃないか」と答える。 中村は手を叩(たた)き高木に向かって「今のは最大級の褒め言葉です」と告げた。 高木が片付け終えた部屋の写真を撮ると言って、居間を出て行った。 銀次郎が「ハラヘッター」と声を上げる。 中村が「あらあら」と言った。 屋根の上に乗っていた銀次郎がもう一度「ハラヘッター」と大きな声で言った。 片付けが始まると、銀次郎は中村たちの後をついてちょこちょこ歩いていたが、うっかり踏んで、怪我をさせてしまいそうで怖いとの声が二人から出た。そこで泰久がケージを叩いて「終わるまでここにいろ」と言うと、銀次郎は恨めし気な表情を見せたもののケージに戻り、屋根に上った。そこから働く二人に「ガンバレ」と声援を送り続けていた。 泰久は台所に移動した。冷蔵庫から苺(いちご)を一つ取り出してへたを取る。水で洗いまな板に載せた。 包丁で二分の一にカットすると、半分を自分の口に放り込んだ。残りの半分を持って居間に戻る。そしてそれを銀次郎に差し出した。 銀次郎はじっと苺を見つめてから片足で受け取った。 啄(ついば)み始めたので、泰久は「いただきますはどうしたんだよ」と尋ねる。 銀次郎は苺から嘴を離して顔を上げた。 それから泰久に向かって「イタダキマス」と言った。 中村が床に正座をして「銀ちゃんは本当に賢いですねぇ」と褒めた。 泰久は言う。「おだてないでくれ。こいつ、すぐ調子に乗るから」 「調子に乗る銀ちゃんも可愛いです」と言った後で「こちらの片付けはこれで終了とさせていただきます」と宣言した。 「本当に金はいらないのか?」 「結構でございます。その代わりこちらの整理前と後の写真を、実例として彼女のサイトに掲載させて頂きますので、それで」首だけを左に捻った。「この映画コーナーは彼女とわたくしの力作でございます。ディスプレイする場所を設けまして、見せる収納に致しました。大切な物は仕舞い込むのではなく、目に触れる場所に置いた方が、宜しいのではないかと考えましたので」首を戻して泰久と目を合わせた。「次のご提案をさせて頂きたいのですが、宜しいでしょうか?」 泰久は驚いて尋ねる。「次の提案?」 「はい。『街の灯』の店内にも、映画コーナーを設けてはいかがでしょうか?」 「なんで?」 「オーナー様が映画好きで、『街の灯』という店名を付けたと伺っております。そうであれば映画を前面に出した方が、喫茶店の個性が強くなるのではないでしょうか。そのためには映画にまつわるコーナーを設けるのが、いいのではないかと考えました」 「コーナーったって。店にそんなスペースはないよ」 「小さな場所で構いません。カウンターの隅ですとか、トイレの手前の壁にニッチがございますね。奥行き十センチほどの窪(くぼ)んだスペースです。今、造花の一輪挿しを置いてあるあそこを利用出来れば、十分でございます」と、中村。 「あんな小さなところになにを飾るんだよ」 「ヒントでございます」 「は?」 「あの窪みに二つか三つ程度のヒントの品を置くのです。そのヒントから導き出される、映画のタイトルはなんでしょうといった、クイズを出すのです。答えが分かった人は泰久さんに告げて頂きます。一番早く正解した人に、コーヒーを一杯無料にするというのはいかがでしょうか?」 居間に戻って来た高木が、ぺたんと中村の隣に座った。 そして「それ、面白そうですね」と話に加わった。 泰久は言う。「なんだよ、それ。なんで、そんなことをやらなきゃいけないんだよ」 中村が説明した。「それをきっかけに、お客様と話が出来るようになるかもしれないからです。泰久さんは本当はとても優しい方なのですが、少々お顔が怖いので話し掛け難(にく)いところがございます。こういったきっかけがあれば、お客様が少し勇気を出してくださるかもしれませんから。泰久さんはなんと申しましょうか……口が悪いところがございます。でも映画の話をなさる時は目をキラキラさせて、本当の姿を見せてくださいます。そういうところをお客様に知って頂きたいのです」 急に日本語が分からなくなっちまったぞ。中村はなにを言ってるんだ? 泰久は「俺の本当の姿ってなんだよ」と尋ね、「本当もへったくれもないんだ。俺は見た通りの男だ」と続けた。 中村は「またまた」と言って微笑んだ。 笑うところじゃないっての。 中村が真剣な表情をした。「光男さんは、残される泰久さんのことを、心配していたんだと思うんです。お二人は仲のいいお友達でしたから。光男さんが泰久さんに銀ちゃんを託したのも、信頼出来る人にという思いはあったでしょうが、一人になる泰久さんが、寂しくないようにというお気持ちもあったからじゃないですか? わたくしも泰久さんを心配しております。お客様との関わり合いを増やそうとしているのは、それによって泰久さんの寂しさを、少しでも薄められたらと思うからでございます」 「……余計な……お世話だ」と泰久は言った。 「はい。わたくしは余計なお世話をする気満々でございます」 そう言って中村はまた小さく笑った。 6 泰久は店の灯りを点けた。 その刹那(せつな)、パッと店が目覚める。 この目覚めの瞬間に立ち会うのが、泰久は嫌いではなかった。 遅番のスタッフによって、椅子はすべてテーブルに逆さの状態で置かれている。 床を柄の長い箒(ほうき)で掃き始めた。紙ナプキンやストローが入っていた紙袋、ヘアピンなどを塵(ちり)取りに集めていく。 八十平米の店内には十五卓のテーブルがあった。 取りこぼしがないように、腰を屈めてテーブルの下に箒を差し込み念入りに掃く。次にモップを濡らし力を入れて床を擦(こす)った。押して引いてを繰り返す。 拭き終わった時、壁の窪みのスペースに目が留まった。 〈ここにある三つのヒントから連想される、映画のタイトルを当ててください〉と書かれたポップが置かれていた。 〈一番早く正解した方に、お好きなコーヒーを一杯無料で差し上げます〉ともあった。 昨日中村がやって来て置いていったものだ。 中村に押し切られて、この場所を使ってクイズをすることになった。やたら礼儀正しい言葉遣いをする女なのだが、ゴリ押し力が強いのだ。中村の提案を何度も却下するのが面倒になって、好きにしろと言ったら、本当に好きにしやがった。ま、どうせクイズを始めたことなんて、誰も気が付かないだろうから、こっちは構わないが。 中村から映画を一つ決めて、その映画を答えて貰うためのヒントを三つ出せと言われた。泰久が三つを挙げると、中村はどこからかそのミニチュアを調達してきた。 凧(たこ)と木製の橇(そり)と、黄色のバスだった。バスは泰久の言った通りのものがなかったので、中村自身でバスの下部を、オレンジ色に塗ったということだった。 誰も興味ないだろうに、こんなもの。なにが「泰久さんの寂しさを、少しでも薄められたら」だ。薄まらねぇよ。まったく。余計な世話を焼きたがる女だ。 水拭きを終えた泰久はトイレの掃除に移った。便器を使い捨てのトイレブラシで擦る。それから除菌シートで、タンク回りや洗浄ハンドルを拭いた。 二十年も使っているというトイレはいかにも古めかしい。店内の古めかしさはレトロということに出来るが、トイレだけはリフォームした方がいいと、事あるごとにオーナーに進言しているが、毎度シカトされている。 トイレ掃除を終えると、椅子をテーブルから下ろしていく。 それが済むとテーブルの拭き掃除を始めた。 ドンドン。 裏口のドアをノックする音が聞こえてきた。 泰久は納品に来たパン店のスタッフから、パンを受け取った。パンを厨房に置きテーブルの拭き掃除に戻る。 次にカウンターテーブルに取り掛かった。 こげ茶のカウンターテーブルには、色が薄くなっている箇所があるし様々な傷もあった。 開店準備をすべて済ませると、店のドアに〈営業中〉と記された札を掛けた。 厨房の作業台に置いてあったコーヒーカップを、手に取った。首から下げている老眼鏡を鼻に載せて、じっくりとカップを見つめる。 あぁ、ここか。 縁(ふち)が一ミリくらい欠けていた。 カップの横には遅番スタッフが残したメモがあった。 [洗っている時に指が引っ掛かって欠けに気付きました。いつからなのか、自分がやってしまったのか、お客さんのせいなのかは分かりません]と書いてあった。 『街の灯』では客の雰囲気に合わせてカップを選び、それとセットのソーサーに載せてコーヒーを出す。 厨房の背後の棚には、五十種類ほどのカップとソーサーが並んでいた。オーナー夫人が好きで集めたようで、中にはアンティークの物もあった。 泰久は欠けたカップを古新聞でそっと包む。 紙袋に入れると厨房の奥の小部屋に運んだ。そして自分のロッカーの中に仕舞った。 持ち帰って自宅で金つぎをするつもりだ。 オーナーが店で働いていた頃は、カップが欠けたり割れたりすると、金つぎをしてくれる業者に依頼をしていた。戻ってくるまでに何週間も掛かるのが嫌だったのだろう。オーナーが言い出した。「金つぎをやってくれたら、三森君に作業代を支払うよ」と。断っても良かったのだが、泰久は気まぐれを起こしてやってみますよと言った。 図書館で本を借りて勉強してみたら、結構な手間暇が掛かると分かって、請け負ったことを後悔した。だが取り敢えずやってみた。完成した時、嬉(うれ)しさのようなものが湧き上がって来てちょっと驚いた。それから泰久は金つぎ担当になった。 繰り返し金つぎをするうちに、割れた食器に自分を重ね合わせるようになった。人生を失敗してしまった自分は、割れたカップと同じようなものだったから。くっつけても傷は消えないしむしろ目立っている。一度割れたということは一目で分かってしまう。それでもまた使い、それまでと同じ役目を果たさせるのが金つぎだった。金つぎをして修復した食器は、傷だらけでなんとかやっている自分を見るようで、大切にしたくなる。 そんな埒(らち)もない話を店で光男にしたことがある。 すると光男はしげしげとカップを見つめてから言った。「真っ新(さら)なのより、俺は金つぎしてある方が好きだな」と。 そして「ちょっと味わいがあるじゃないか、こっちの方が」と続けた。 光男の何気ない言葉は、泰久の胸に沁(し)みた。 客が一人、二人とやって来た。 泰久はパンをトーストしコーヒーを淹(い)れた。 午前十一時に隆司が出勤してきた。 「お早うございます」と言った後でふわっと欠伸(あくび)をする。 泰久は尋ねた。「また朝まで描いてたのか?」 「はい」と答えて頷いた。 漫画家を目指している隆司は二十三歳で、バイトで生活費を稼ぎながら深夜に漫画を描いている。そのせいでいつも眠そうだった。夢中になると食べるのを忘れる男で、ひょろっとしている。 一時間ほどで満席になった。 泰久が食器を洗いながらふと顔を上げると、男性客が壁の窪みの前でじっとポップを見つめていた。 学生だろうか。グレーのセーターにジーンズを穿(は)いている。 男はスマホでヒントを撮影すると壁から離れた。そしてトイレに入った。 洗い物を終えた泰久はレアチーズケーキ作りを始めた。ボウルにクリームチーズを入れてへらで練る。 根気よく練り続けて滑らかになったところで、手を止めた。そこに砂糖を加える。 ハンドミキサーのプラグをコンセントに差し込んだ時、さっきスマホでヒントを撮影していた男が、レジの前に立った。 隆司は客のグラスに水を注(つ)ぎ足していたので、泰久はエプロンで手を拭きレジ前に移動した。 電子マネーでの支払いを終えると男は言った。「正解者がなかなか出なかったら、ヒントが増えたりしますか?」 訳が分からなくて「えっと、なに?」と尋ねた。 男は店の奥を指差して「あれです。クイズです」と言った。 「あぁ、あれのことか。正解者が出なかったら……出ないとは思ってなかったから、ヒントを増やすかどうか考えてなかったな。結構簡単だろ?」 男が目を剥く。「簡単じゃないですよ。僕、結構映画観てる方だと思うんですけど、分かりませんでした。凧があったから『君のためなら千回でも』かなと思ったんですけど、違いますよね?」 「違う」 「やっぱり。『君のためなら千回でも』は好きな映画なんです。だから結構細かいところまで覚えていると思ってて、橇やバスが出てくるシーンはなかったって、分かってはいたんですけど」 ぼそっと言う。「あれはいい映画だ。少年二人の友情が切ない」 目を輝かせた。「ですよね。この友情がずっと続くといいなと思いながら観てるんですけど、きっとそうはいかないんだろうなって、分かってる自分もいる、みたいな」 「二人の人生が離れて、またそれが違う形で近付くんだが、その時には痛みが伴っているからな」 男が何度も大きく頷いた。「そこがこの映画のキモですよね。なんか、ここ、やっぱり映画の話が出来るお店だったんですね。『街の灯』という店名だから、もしかしてと思ってこの間入ったんですけど、映画のポスター一枚貼ってる訳じゃないし、店名だけなんだって思って、ちょっとがっかりしたんですよ。でもピザトーストが美味しかったから、今日また来たんですけど、難しい映画のクイズがあるから、楽しくなっちゃいました。店長さんと映画の話をしても良さそうだし。また来ます。下宿先がこの近くなんで。出来れば正解をもって」 男はペラペラと喋(しゃべ)った後で「それじゃ」と言ってドアを開けた。 泰久は「有り難うございました」と声を掛けて見送った。 7 タウン雑誌のライター、花井千結(はないちゆ)が聞く。「こちらのお店のお勧めポイントはなんですか?」 カウンター席に座る郵便局員、杉本孝昌(すぎもとたかあき)が手を挙げた。 花井が「どうぞ」と発言を促す。 孝昌が「コーヒーが旨(うま)いところです」と答えた。 隣席の眼鏡(めがね)店店主、林正秀(はやしまさひで)が「そんなの、当たり前だろ」と指摘した。 孝昌がムキになって言う。「だけどさ、喫茶店っつったって、酷(ひど)いコーヒーを出す店は多いよ」花井に向けて「ここはちゃんと旨いんですよ」と訴えた。 花井が頷きながらノートに書き付ける。 タウン雑誌からこの地域の特集をするので、『街の灯』を取材したいと連絡が入ったのは先週だった。その電話を受けた時、店に中村がいた。中村は「それではお店のことを語れる人を揃(そろ)えなくては」と言った。「なんでだよ」と泰久が尋ねると、「いつもの調子で泰久さんにお話をされてしまいますと、取材者に悪い印象を与えてしまいかねません。そうなればいい記事にはして頂けないでしょう」と答えた。それから勝手に常連たちに連絡を取って皆を集めた。そして今、彼らはカウンター席に陣取っている。 正秀が言う。「ピザトーストが旨い店です。違うな。ピザトーストも旨い店です」 今度は孝昌が「トーストは商店街のパン屋で売ってるパンなんだぞ。ウリとしちゃ弱いよ」と指摘した。 大学生の長谷川烈央(はせがわれお)がゆっくりと手を挙げた。 ヒントを見て『君のためなら千回でも』ではないかと言ってきた青年だった。あれ以来時々店に姿を現すようになっている。 花井が烈央に「どうぞ」と言った。 「お勧めポイントは店長さんと映画の話が出来ることです」と、烈央。 孝昌と正秀が「それだ、それ」と言って大きく頷いた。 烈央が説明する。「店の奥にコーナーがありまして、そこに映画のクイズが出されるんです。ヒントが三つ出て、そこから導き出される映画のタイトルを当てるクイズで、一番早く正解すると、好きなコーヒーを一杯タダで飲めるんです。難し過ぎて一回目も二回目も、今の三回目も正解者が出てないぐらいなので、もうちょっと分かり易いヒントにして欲しいと、個人的には思ってるんですけど、とにかく店長さんと、映画の話が出来るのがお勧めポイントで、僕はそれを楽しみにここに来ています。僕、大学生で、周りに映画を観てるっていうのが結構いるんですけど、そうはいっても、最近の話題になった映画だけなんですよ。でも店長さんは昔の映画とか、マイナーだけどいい作品をたくさん知っていて、話を聞いて、その映画を借りて観たりして、その感想を言いにここに来たりって感じなんです」 正秀が言った。「俺もさ、この店に何年も通ってるんだけど、店長と話すことなんてなかったんだよ。顔が怖いしさ、ちょっと人を寄せ付けない雰囲気があるからね。それが急にクイズなんかをやり始めちゃって驚いたんだけど、俺も映画を割と観る方なんだよ。それで話し掛けたんだ。クイズの答えをさ。ま、それは外れだったんだけど、それがきっかけっつうか映画の話をするようになって、そうしたら見た目ほど怖い人じゃないと分かったんだよ」 「そうそう」と孝昌が同調し「わたしも同じ」と告げた。 なにをペチャクチャと。大体客が取材に答えるっておかしくないのか? 花井が真面目な顔でメモを取ってるのだって変だって。 泰久がカウンターの端に座る中村に目を向けると、ニヤニヤしていた。 あんたのせいで最近は周りが賑(にぎ)やかになってるんだがな。 泰久と目が合うと、中村はにっこりとした。 厨房で泰久の横に立つバイトの隆司が手を挙げた。 そして花井に促されて口を開いた。「店長手作りのレアチーズケーキが旨いっていうのは、書いて欲しいんですけど大丈夫ですか?」 正秀が「女の人が結構注文するよな?」と隆司に確認した後で、花井に向けて「女性に大人気の手作りチーズケーキと書いてください」と注文を出した。 すると孝昌が「レアチーズケーキです。レアね」と花井に言った。 結局質問にはすべて客らが答えた。営業時間や定休日についての質問まで。 最後に店長の写真を撮りたいと花井が言い出すと、客たちが一斉に渋い表情になった。泰久の怖い顔が掲載されたら客が来ないというのだ。 花井が来店してから初めて泰久は口を開く。「この人たちがコーヒーを飲んでいるところの写真にしてくれ」と。 すると孝昌が慌て出した。郵便局の仕事をサボってここに来ていることが、バレるというのだ。花井が撮影日については記載しないので、日曜日だということにしたらどうでしょうと言うと、孝昌はそれで安心したようだった。 カウンター席に並ぶ四人を花井のカメラが狙う。 四人ともやや緊張した面持ちでカメラを見つめていたが、何枚か撮られるうちに肩の力が抜けたのか、酒の入ったグラスで乾杯する時のように、コーヒーカップを持ち上げて見せるほどの余裕を、出すようになった。 居酒屋じゃないっての。 花井が帰ったのは三時過ぎだった。 カウンター席の客たちは皆、雑誌の発売日を自身のスマホのスケジュールアプリに入力し、どんな記事になるか楽しみだと言って帰って行った。 泰久は午後六時になると、遅番のスタッフに任せて店を出た。 湿った空気が全身に纏(まと)わりついてくる。雨が降りそうだった。 スーパーで買い物をしてからアパートに戻った。 玄関ドアを開けると銀次郎が「オカエリー」と声を上げた。 「ただいま」と言いながら靴を脱ぐ。 銀次郎がケージを下りて床をゆっくり歩いて来た。 銀次郎は飛ばない。移動する時は歩く。 泰久は尋ねる。「今日はビワを買ってきたぞ。食うか?」 銀次郎は台所の真ん中で立ち止まり、首を九十度倒して泰久を見上げる。 だがなにも言わない。 腹は減っていないようなので、泰久は自分の食事の準備を始めた。 作り置きのオカズを皿によそっている時、銀次郎が言い出した。 「ギンチャンハ カシコイネ」 「自分で言ってんのかよ」 「ヤッチャン トモダチデ イテクレテ アリガト」 手が止まった。「お前、今なんて言った?」 銀次郎は体を左右に揺らすだけでなにも答えない。 泰久はじっと銀次郎を見つめる。 少しして銀次郎が声を上げた。「ヤッチャン トモダチデ イテクレテ アリガト」 泰久は手を持ち上げた。そして自分の目許(めもと)を押さえた。 光男のやつ、銀次郎にそんな言葉を覚えさせて。俺がいつか聞くように教えたのか? それともお前の独り言を銀次郎が覚えたのか? どっちだっていいが……こっちこそ有り難うだよ。 銀次郎が言う。「ヤッチャン ダイジョウブダヨ」 あぁ、そうだな。俺は大丈夫だ。世話が掛かる銀次郎がいるし、客に絡(から)まれるようになったし。どっちも嫌じゃないんだ。分かるだろ、光男なら。大丈夫だよ、俺は。泰久は心の中で光男に告げた。 泰久は指で涙を拭うとふうっと息を吐いた。 それからオカズと白飯を盆に載せて居間に運んだ。 銀次郎が後を付いてくる。 泰久が卓袱台の前に胡坐(あぐら)を掻くと、その隣に銀次郎が陣取った。銀次郎は泰久の食事中にはいつも横にいたがる。 その時、ドドンと大きな音がした。 雷だった。 途端に銀次郎が羽を大きく広げてバタバタとさせる。そして「ピカピカ」と大声で言いながらその場で一周した。それから泰久の太腿(ふともも)に突撃した。太腿にぶつかると、その勢いのままジャンプをして太腿を乗り越えた。そうやって泰久の股の間に収まると「ピカピカ」とまた声を上げる。 ドドンと再び雷の音がした。 銀次郎は泰久の股の間で蹲(うずくま)った。 泰久は声を掛ける。「大丈夫だ。雷はお前に悪さはしねぇから。雷が収まるまで、そこにいりゃいいさ」 泰久は銀次郎の背に手を当てた。その背をゆっくり撫(な)でた。 そして言う。 大丈夫だ、お前は。大丈夫だ、俺たちは。 泰久は銀次郎の背を撫で続けた。(つづく) 次回は2024年12月1日更新予定です。
1965年、東京都生まれ。大妻女子大学卒業。会社員、フリーライターを経て、2003年、『死日記』でエクスナレッジ社「作家への道!」優秀賞を受賞しデビュー。05年刊行の『県庁の星』が映画化されベストセラーに。他の著書に『恋愛検定』『僕は金になる』『残された人が編む物語』(すべて祥伝社)、『息をつめて』『就活の準備はお済みですか?』など多数。
【著者公式HP】 https://nozomi-katsura.jp/