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  • 最終話 ちょい置きでカオスになったリビング 2024年12月1日更新
   1
   
 タクシーを降りた。そして浅田千栄(あさだちえ)は自宅マンションを見上げた。
 ここに帰って来た。今回はわたしの勝ちだ。
 両腕を素早く身体(からだ)に引き寄せて、その拳(こぶし)にぐっと力を入れる。
 よっしゃ。
 元気良く振り返った。
 支払いを済ませた高坂重里(たかさかしげさと)が、タクシーを降りるところだった。大きめのバッグを両手に一つずつ提(さ)げていた。
 その中には千栄が病院に持ち込んだ物が入っている。手術を受けた千栄は一ヵ月に及ぶ入院生活から、今日無事に帰還したのだ。
 陽射しが眩(まぶ)しくて、千栄は手で目の上に庇(ひさし)を作った。
 このマンションを後にしたのは夏が始まる前だった。千栄が病院で過ごしている間に季節は進んでいた。
 隣に立った重里が、千栄の顔を覗(のぞ)き込む。「眩しい?」
 頷(うなず)いた。「眩しい。外はこんなに夏だったんだね。一ヵ月隔離されていたから分からなかったよ。わたしにとっては突然の夏だからちょっと刺激が強い」
「なら、早くマンションの中に入ろう」
 そう言って重里が歩き出す。
 その丸っこい背中を千栄は眺めた。
 カーキ色のTシャツの背中には汗染みが出来ている。
 千栄はデブが好きだった。子どもの頃から好きになる人はいつも小太りだった。重里は身長百七十センチで八十キロの、理想的な小太りだった。千栄より十歳下の四十二歳だ。
 千栄が暮らしていたこのマンションに、重里が転がり込んできたのは十年前だった。それからずっと同居生活が続いている。
 重里が足を止めて振り返った。
 不思議そうな表情を浮かべている。
 千栄は手庇を下ろして大股で重里に近付いた。それから並んでマンションの中に入った。
 千栄が六〇二号室のドアを開けると、すっと冷たい空気を感じた。
 重里は小太り故に暑がりで他のことは忘れても、エアコンの冷房予約設定だけは忘れない。
 狭い廊下を進みリビングに足を踏み入れた。
 あぁ……なんて散らかってるんだろう。
 物が増える度に棚やケースを買って、そこに収納するようにしてきたが、どこも容量をオーバーしてしまっている。入りきらなかった物が、部屋のあちこちにちょい置きしてあった。千栄と重里は、このちょい置きする場所を見つける天才だった。またその場所を忘れる天才でもあった。だから爪切りや鋏(はさみ)などは、必要になった時に毎度探し回ることになった。そして大抵とんでもない場所で発見する。中には見つけられない場合もあった。風邪薬は何故(なぜ)かいつも発見出来ないで終わる。絶対に飲み残しがあったはずだから、どこかにちょい置きしたはずなのに、いつもその場所を突き止められず、新たに買う羽目になった。
 元々一人で暮らすつもりで選んだ部屋なので、二人で住むには手狭だというのもある。2LDKの五十平米。ひと部屋は千栄の仕事部屋で、もうひと部屋は二人の寝室として使っている。重里の個室はない。だからリビングには重里の物が結構あった。
 重里が尋ねた。「なんか飲む?」
「今はいい。少し横になるよ」
「分かった」
「今日は迎えに来てくれて有り難う。仕事休ませちゃってごめん」
 重里は彼の叔母がやっている婦人服の激安店で、働いている。
 重里が言う。「いいんだよ。夕飯だけど、肉野菜うどんでいい?」
「いいね。肉野菜うどんでお願いします」と言うと、千栄はリビングを出て廊下に戻った。
 寝室のドアノブに手を掛けたが、気が変わってくるりと身体の向きを変え、向かいの仕事部屋のドアを開ける。
 なんか……ちょっと……違う。
 六畳の部屋を見回した。
 入院前と変わったところはない。小さな窓が一つ。その下にデスクと椅子。デスクにはパソコンが置かれていて、椅子には黄色の座布団が敷いてある。デスク横には、プリンターとスキャナーが載ったラックが設置されている。棚には本や雑誌が並んでいた。
 千栄は椅子に腰掛け、もう一度部屋を見回す。
 一ヵ月前と同じ場所に同じ物があった。一ミリも動いていないという確信はある。それなのに、それまでとは違っているとの感覚も確かにあった。空気が穏やかになったような……一枚フィルターを掛けて見ているような……。
 中学一年生の時に新聞記者に憧れた。ペンの力で諸悪に勝つ。そういう映画を観たのだ。ペンの力で不正を暴けば世論が動き、国を、世界を変えられる。そう信じた。それから新聞記者になるのが唯一の望みとなった。だが新聞社の採用試験に合格出来なかった。仕方がないので劇団を立ち上げた。社会問題に真正面から向き合う作品を上演する劇団だ。千栄の担当は脚本と演出だった。劇団の運営を、軌道に乗せるまでのつもりで始めたバイト生活だったが、三十年経(た)った現在もバイトをしている。
 新作の脚本をこの部屋で書く時、千栄はいつも一発当てようと思っている。博打(ばくち)だ。客がいいと判断するか、駄作と判断するか。毎回博打を打っている。劇評の専門サイトでの評価平均が、星四つ以上だったら千栄の勝ち。三つは引き分け。二つ以下なら千栄の負けとしている。残念ながら勝率は高くなかった。
 勝敗を決める要素は色々あるが、大きなウエイトを占めるのはなんといっても脚本だ。その脚本を生み出すのがこの部屋だった。
 この部屋に入った途端、ゴングが鳴る。実際は鳴らないが千栄の耳には聞こえる。それを合図に千栄の戦闘心に火が点(つ)き「よっしゃ、いっちょやったろうじゃないの」といった気分になるのだ。
 でも今そんな気持ちは起こらず、ここはただの部屋になっている。尻がチリチリするような感覚もしないし。どうしちゃったんだろう。病み上がりだから? まだ本来のわたしに戻ってないから? 多分そう。何日かしたら気力も体力も復活する。そうしたらこの部屋の違和感も消えるだろう。
 千栄はすっくと立ち上がり仕事部屋を出た。

   2

 当たりだったよ、この人。
 千栄は大満足で真穂(まほ)に「凄(すご)いよ。最高」と声を掛けて親指を立てて見せた。
 真穂が言う。「ご満足頂けたようでほっと致しました」
 千栄はネットで見つけた整理収納アドバイザーに、リビングの片付けを依頼することにした。
 真穂に対する口コミ評価の点数は高かったが、プロフィール写真を見て躊躇(ちゅうちょ)した。巻き髪にカチューシャをして微笑(ほほえ)む姿は、保守派の政治家の妻といった感じで、なんかムカついたから。外見に引っ掛かりはしたものの、この人は大丈夫だとの勘が働いたので頼むことにした。何度かの打ち合わせを経て今日が本番と決まった。
 退院して日が浅いので、体力を使う作業は出来ないと事前に話してあり、今日千栄がやったのは捨てるか、捨てないかの判断だけだった。物の移動も、袋に入れた処分品を、一階のゴミ集積所に運ぶこともすべて、真穂が一人でやってくれた。
 千栄はスマホを摑(つか)んだ。そしてすっきりと片付いたリビングを撮影する。左隅に新たに作った重里専用のコーナーも写真に撮った。
 撮り鉄の重里は鉄道写真を撮るために全国各地に行く。そこで写真を撮るだけでなく、鉄道にまつわるグッズを買ってくる。そうした物はリビングのあちこちに散らばっていた。これらを一ヵ所にまとめたのだ。
 このコーナーを作るために、今日まずはリビングにある物の全部出しからスタートした。ブルーシートには様々な物が並んだ。その半分ほどが不用品だった。動かない時計、壊れたアイロン、菓子折りに入っていたリーフレット、雑誌の付録のバッグ……。なんで捨てずに取っておいたのか、我ながら理解出来ない物ばかりだった。風邪薬はたくさん出てきた。なにかの下や、奥や、隙間から。でもそれでもすべてではないだろう。きっと他の部屋にまだ隠れているはずだ。
 千栄は言う。「あなたのお蔭(かげ)で彼のコーナーを作ることが出来たよ。彼も喜んでくれるといいんだけど」
「旦那様を大切に思っていらっしゃるんですね」
 大切? まぁ、そうかも。
 千栄は重里が働く婦人服の激安店の客だった。公演で役者が着る衣装をよく買いに行っていたのだ。店はいつも混んでいた。そしてアイテム別や、サイズ別に並べるといった配慮はされていない店なので、片っ端から見ていくしかなかった。
 ある日、一着のワンピースを見つけた。役柄にドンピシャな物を。だが双子の設定だったため、まったく同じデザインの色違いも必要だった。何万着もある陳列商品の中から探すのかと思ったら、ため息が漏れた。
 すると「お困りですか?」と背後から声を掛けられた。重里だった。
 事情を説明して色違いの物が欲しいと言うと、即座にそれの色違いはないと言い切った。あまりに即答だったので適当なことを言って早々に諦めさせて、他の物を買わせようとする魂胆ではないかと疑った。
 半信半疑な顔をしていた千栄に向かって重里は言った。「仕入れは自分が担当しているのでなにを仕入れたか、仕入れなかったかは分かっています。それの色違いは仕入れませんでした」と。
 そして明日仕入れに行く予定だから、見つけたら連絡しますよとも言った。それで千栄は連絡先を教えた。
 翌日、見つけましたと重里から連絡が入った。そこにはワンピースの写真が添付されていた。その背景には大量の服が写っていた。床に積み上げられた、大量の服の山がいくつも見えた。たまたま発見したのではなく、そんな大量の服の中から、わざわざ探してくれたように思われて、申し訳ない気持ちになった。
 千栄はお礼のつもりで、主宰する劇団の公演チケットを渡した。重里は初日に小さな花束を持ってやって来た。
 わたしは出演しないと言ってあったのに。
 それがきっかけで付き合い始めた。
 二ヵ月後に、重里が借りていたマンションのエアコンが壊れた。エアコンが直るまでの間だけ、千栄のマンションで暮らすという話だったはずなのだが、重里は居着いてしまった。
 稼ぎが少ない千栄にとって、家賃を半分払って貰(もら)えるのは正直とても助かるので、追い出しはせず同居を続けズルズルと十年が経った。
 千栄が再検査の結果を聞きに病院に行った際にも、重里が同行してくれた。医者から説明を受けて診察室を出ると、重里はベンチにへなへなと座り込んだ。そして泣き出した。千栄だってショックを受けていたのに、重里があまりにさめざめと泣くものだから、慰める側に回るしかなくなった。
 それから重里は本を買い集めて病気の勉強をした。次に医者の前に並んで座った時には、専門的と思われるような質問を、いくつもするまでになっていた。
 いいヤツなのだ、重里は。
 個室をあげたいところだが、それが出来ないので、リビングに専用のコーナーを作ることにした。
 真穂が聞く。「旦那様は鉄道の写真を撮るのがご趣味とのことですが、千栄様のご趣味は?」
「ご趣味なんてない。バイトしながら舞台の脚本を書く生活なの。ずっとね。だからご趣味を見つける時間なんてなかったのよ」
 毎日生きるのに精一杯だったもの。一発当ててこんな生活から抜け出してやると言い続けて、三十年経っちゃった。これからもこの生活を続けるのかな……というか、続けられるのかな。手術は成功したと言われたけど再発するかもしれない。わたしの持ち時間はそんなに残っていないかもしれない。だとしたら、これまでのような生活に戻っていいのか……。他に考えがあるって訳じゃないんだけど。
 真穂が言う。「脚本家の方でしたら、今回の手術や入院といったご経験を、作品に活かされたりなさるのでしょうか?」
「それはない。わたしは社会問題をテーマにしているの。だから個人の、そういうのは書かないのよ。真穂さんは芝居を観たりする?」
「はい」と深く頷いた。「宝塚(たからづか)を観劇するのがわたくしの趣味でございます」
「あぁ。そんな感じよねぇ。いや、雰囲気が。特に深い意味はないけど。宝塚は関西と関東に劇場をもっていて、毎日公演してて、それが満席なんでしょ? 羨(うらや)ましい。すっごく」
 真穂に作業料金を支払い領収書を受け取った。
 真穂は使い心地などを確認するため、一ヵ月後に再訪すると言って帰って行った。
 すっきりと片付いたリビングと、新コーナーの写真を重里に送ろうか……いや、実際に見た瞬間の驚く顔が見たいから、送るのは止(や)めておこう。
 その時、スマホにメッセージが入った音がした。
 重里からで「夕食どうする?」と書かれていた。
 デブだけに常に次の食事を気にしている。
 千栄は冷蔵庫の中身をチェックしてから「今日はわたしが作るよ」と書いて送った。
 それから冷凍室の鮭(さけ)を冷蔵室に移した。
 ずっと肉が好きだったのだが、退院してからは魚の方が好きになった。手術で肉好きの魂も取られてしまったのかもしれない。いろんなことが変わるものだ。手術の前と後では。
 ぼんやりと冷蔵庫の扉に貼られた、宅配ピザのメニューを眺めた。

   3

 劇団の事務方をしている山本智子(やまもとともこ)が尋ねた。「脚本はどんな感じ?」
「まぁ、頑張ってるよ」と千栄は嘘(うそ)を吐(つ)く。
 嘘がバレないよう智子から目を逸らし、グラスの中のストローを上下させてみたりする。
 二人は千栄の自宅近くにあるコーヒーチェーン店にいた。
 平日の昼間だったが、夏休み中ということもあって十代の子たちで店は混んでいた。窓越しに外を歩く人たちが見える。皆が一様に険しい表情を浮かべて、店の前を行き過ぎている。
 うんざりするような猛暑が連日続いていた。
 智子が確認する。「分かってると思うけど公演まで半年を切ってるからね。退院したばかりの人を急(せ)かすのは不本意なんだけど、脚本がないことにはなにも進められないからさ」
「分かってる」
 分かっているけど……全く書けないんだもん。ひと文字も。こんなの初めてだから自分でもちょっと驚いている。これまでは書きたいことがたくさんあって、その中からどれを選ぶか、芝居という形にどう落とし込むかで悩んだ。でも今は違う。書きたいことが消えてしまった。だけど、そんなこと……言えないし。劇団の立ち上げの時から、ずっと支えてくれている智子には。智子がいなかったら、とっくの昔に劇団は空中分解していた。そういう人だから、余計に。
「そう言えば」と智子が口を開く。「敬一郎(けいいちろう)君にばったり会ったのよ、ホテルのラウンジで」
 驚いて言った。「そうなの?」
「そうなのよ。すっかり白髪(しらが)になっててさぁ、オジサンになってた」
「へぇ」
「ちょっと話をしたんだけど、会社を早期退職して起業したって。AIがなんとかかんとかする会社って言ってたけど、私にはさっぱりだった」と言って笑った。
 敬一郎は千栄と智子と同じ大学の同期だった。大学二年の時に千栄と敬一郎は交際を始め、二十八歳の時に結婚式を挙げることになった。
 だが結婚式の一週間前になって、突然敬一郎がやっぱり結婚は止めたいと言い出した。
「はぁ?」と聞き返した千栄の声は、隣近所に聞こえそうなほどの大きさだった。
 他に好きな人がいたのだがその人からはフラれたので、千栄との結婚を決めた。だがどうしても彼女を忘れられなくて、その思いを伝えたら付き合ってもいいと言われた。だから結婚はなしにして欲しいと、敬一郎はほざきやがった。
 二回殺してやりたかった。
 式に出席するため上京予定だった両親、兄姉、親戚に電話をして中止になったことを話した。自分と同じように怒って貰っても、慰められても心は晴れなかった。惨(みじ)めだった。
 敬一郎は翌年、その女と結婚式を挙げた。だが五年後に離婚した。
 その話を聞いた日に飲んだビールの美味(おい)しかったことといったらなかった。
 智子が言う。「一応言っておくけど独身なんだって。再婚はしなかったんだね」
「そうなんだ」
 なんか……ざまぁみろとも思わない。あっそ、といった程度。選ばれなかった痛みは、とっくの昔に消えていたからだろうな。当時は口惜(くや)しくて、哀しくて、人生が終わったと思ったけど、そんなことは全然なかったし。
 歓声が上がり千栄は顔を右に向けた。
 高校生らしき四人の女の子たちが、大きな声を上げて盛り上がっている。
 千栄は彼女たちから視線を外して、ストローに口を付けた。
「なんか、千栄、変わったね」と、智子。
「えっ?」
「ああいう子たちを見掛けると舌打ちしていたのに、しないし、そんな、コーヒーに色んなものを載せたのを飲んでるし」
「…………」
「せっかくの美味しいコーヒーに、甘い物をごちゃごちゃ加える意味が、分からんと言ってた癖に」
「そうだったっけ?」と千栄は惚(とぼ)ける。
「ま、変わってもいいんだけどさ。で、体調はどうなの?」
「大分いいよ。ほとんど前と同じ生活っていうか、どっちかっていうと前より健康的な生活を送ってるしね。薄味にしたり、野菜をたくさん摂るようにしたり。お酒も飲んでないし。医者からはほどほどならばオッケーと言われてたから、ちょっとなら飲んでも大丈夫なんだけど、なんだか飲む気がしなくてね。重里もわたしに付き合ってお酒を飲まなくなって、我が家のアルコールが全然消費されなくなった」
「優しい彼がいて幸せだね、千栄は。警備員のバイトは? 再開したの?」
「まだ。人手不足らしくって、いつでもいいから戻って来てくれと言ってくれてるんだけど、どうしようかなって思ってる。これまでのバイトの中では結構気に入ってる方だったんだけど、もう少し体力を使わないものにしようかなって」
 さっさと働き出さないのは、銀行口座に預金があるせいかも。去年両親の遺産を貰ったのだ。兄と姉と千栄で三等分した遺産は、そこそこの金額だった。更に不安定な生活を送る千栄を見かねた兄と姉が、自分たちの相続分から一部を振り込んでくれた。こうして得た金のお蔭で勤労意欲が湧かなくても、生活には困らないのだ。しばらくの間は、だけど。
 兄と姉からは手術の前日にも現金を貰った。二人はなにくれとなく現金をくれる。バイト生活の妹を心配しているのだ。
 地元で兄は公務員を、姉は教師をしている。千栄以外の親族全員が公務員か教師だった。そういう家系だった。千栄は親族たちからは呆(あき)れられているが、兄と姉は何故か好きなことをやれと言って、ずっと応援してくれている。
「そうそう」と智子が言い出した。「坂口遥加(さかぐちはるか)にオファーが入って、テレビドラマが決まりそうなのよ」
 遥加はうちの劇団に入って五年目の役者だった。
 千栄は「そうなんだ」と相槌(あいづち)を打つ。
「主役が働く会社の先輩役。出番はそんなにないし、台詞(セリフ)も多くないけど、遥加がやりたがってるから」
「決まるといいね」
 千栄の顔を覗き込みながら「で?」と聞く。
「で? ってなに?」
「決まるといいねの後の言葉を待ってるんだけど」
「続きはないよ」
 目を丸くする。「決まるといいねで終わりなの? マジで? やっぱり千栄は変わったね。これまでだったら、テレビドラマに出たいなんて言うヤツは役者とは認めん、とか何とか言ってたのに。それから芝居とはっていう演劇論をぶつっていうのが、いつものパターンだったのに」
 そうだったかも。
 千栄は苦笑して窓外に目を向ける。
 右手で日傘を差して左腕にチワワを抱えた女が、窓の前をゆっくり歩いている。
 そのチワワは真っ赤な舌をだらりと出していた。

   4

「ハンコ、いる?」と千栄は尋ねた。
「いりません」と答えた男性配達員は、額にたくさんの玉の汗を浮かべていた。
「暑い中、大変ね」と声を掛ける。
 配達員は「仕事ですから」と言うとくるりと踵(きびす)を返した。そして共有廊下を走り去った。
 二十代ぐらいだろうか。最近ああいう肉体労働者を見ると、生き物として強いなと感じる。
 千栄は玄関ドアを施錠すると、受け取った小ぶりの段ボール箱を手に廊下を戻った。ダイニングテーブルの上に置き中身を出す。
 浴室洗剤とシャンプー、食器用スポンジ。
 ドラッグストアは家のすぐ近くにあるのだが、九月になってもまだ外は暑く、買い物に行く気にはなれないのでネット注文している。
 段ボール箱を潰していると、バタバタとヘリコプターのプロペラの音が聞こえてきた。千栄がいるマンションの真上を通過して、西方向へ飛んでいく。
 そちらの方角にある飛行場に向かっているのだろう。
 千栄は仕事部屋に戻り椅子に腰掛ける。
 パソコン画面には文書作成ソフトが立ち上がっていた。しかしその白紙画面に文字は一つも表示されていない。
 今日はかれこれ二時間、千栄はこの白紙画面を見つめている。昨日も一昨日も一日中眺めていただけだった。脚本のアイデアがなにも浮かばず、文字を入力出来ないのだ。
 デスクの上のハイチュウを一つ摘(つ)まんだ。包装紙を剥(は)がして口に放る。顎(あご)をしっかり動かして咀嚼(そしゃく)をした。
 顎を動かすと脳が働くという情報を、ネットで見つけたので、この三日ほどハイチュウを食べまくっているが、千栄の脳は一向に動き出さない。
 口の中で小さくなったハイチュウをごくりと呑み込む。
 アイデアが浮かばないうちに、また食べ終わってしまった。
 一つ息を吐いてから立ち上がった。棚からファイルを取り出して席に戻る。
 このファイルには、劇団のこれまでの公演の資料が保存されている。
 最初のホルダーには、旗揚げ公演を知らせるチラシが入っていた。
 日本人の青年が海外のある国に旅行に行き、そこでクーデターに巻き込まれる話だ。スパイと疑われた青年は、軍の幹部たちから政治思想を問われるが、それまでなにも考えて来なかったので答えられない。考えを述べないことで、青年は更に窮地に陥るという芝居だった。平和ボケした日本人に、喝を入れるつもりで書いた。
 ゆっくりとホルダーを捲(めく)っていく。
 閃(ひらめ)きを待つ――。
 ダメだ。
 パタンとファイルを閉じた。
 なんにも浮かばない。ちょっと懐かしくなっただけ。どうしよう。なんとかしようと努力はしている。新聞を読んだり、他の劇団の芝居を観に行ったりした。映画も観たし、書店の中をうろつきもした。だけど……心が動かされない。それでいて変な時に涙が出たりする。
 一昨日テレビを点けたらライオンが狩りをしていた。シマウマを倒し、その肉を食べているシーンを見ていたら、涙が出て止まらなくなった。
 わたしのメンタルはヤバいのか?
 回転椅子を一回転させてから、デスクの引き出しに手を掛けた。中から手鏡を取り出して覗きこんだ。
 服用中の薬のせいなのか肌荒れが酷(ひど)い。
 気持ちが急激にへこむ。
 ピンポーン。
 インターホンの音がして千栄は席を立った。
 モニターに映っていたのは真穂だった。
 千栄はマンションの正面玄関のドアを開錠する。
 少しして再びインターホンの音が鳴ったので、真穂を招き入れた。
 リビングを見渡して真穂が尋ねた。「片付けをしてから一ヵ月ですが、使い勝手はいかがでしょうか?」
「問題なし。彼にも確認したけど全然問題ないって」
 重里はリビングの一角に、自分の趣味の品を置く場所が出て来たことを、滅茶苦茶喜んだ。あまりにも幸せそうな顔をしたので、こんなことならもっと前にしてあげれば良かったと、思ったぐらいだった。
 千栄は真穂にソファに座るよう促し、キッチンに移動した。
 戸棚からハーブティーを取り出す。ティーバッグをカップに入れてポットの湯を注ぐ。
 このハーブティーは重里の叔母、好子(よしこ)が退院祝いの席でくれたものだった。その日は好子の婦人服店の近くにある割烹(かっぽう)店で、夕食をご馳走してくれた。
 好子は肝が据わった人で、店に強盗が入った時も怯(ひる)まなかった。刃物をちらつかせる覆面男に「あんたに渡す金はない。帰れ」と言い、追い返したという逸話をもつ。
 好子は退院祝いの席で「千栄さんが病気だと聞いた時には」と語り始めたのだが、言葉を詰まらせてしまった。そしてぽろりと涙を零(こぼ)した。
 千栄は仰天した。同時に気丈なこの人を、泣かせるほど心配させたのだということに気付かされた。
 千栄はハーブティーの入ったカップを真穂の前に置いた。
 真穂が褒める。「リバウンドしていませんね。ご立派です」
「真穂さんの教えを守っているからね。出したら、そこに戻す。それに物の住所を決めたでしょ。それが良かった。欲しい物があった時に探す場所が分かっているから、すぐに見つかる。そのお蔭で生活がシンプルになった感じで快適」親指を立てた。
「そう仰(おっしゃ)って頂けるとわたくしも嬉(うれ)しゅうございます。それではお困りごとはなにもないということでしょうか?」
「お困りごとは……脚本が書けなくなったことぐらいね」苦笑いする。「冗談よ。脚本が書けなくなったっていうのは本当なんだけど、それを真穂さんに解決して貰おうとは思ってないから、安心して」
 真穂が真剣な顔をした。「書けなくなったというのは一大事でございます。なにが原因なのでしょうか?」
「さぁねぇ。はっきりしたことは分からないけど、病気がきっかけのような気がしてはいる。病気が分かる前はスラスラとまではいかないけど、問題なく書けてたからね。手術は成功して無事帰還したけど、なにかが変わってしまったみたいで」
 なんでこんな話を、整理収納アドバイザーにしてるんだろう、わたし。
 真穂が言う。「以前漫画家様のお宅を整理収納したことがございます。その方は恋愛をテーマにした作品を描かれていたそうですが、失恋した途端、なにも描けなくなって困ったと仰っていました」
「失恋をテーマに描いたらいいのに」
 深く頷いた。「ご本人も最初はそう思われたそうなんですが、ストーリーが全く浮かばなくなってしまったと、仰っていました。恋愛から離れて、描きたいテーマを探してみたそうですが、興味をもてるものを見つけられないと、悩んでおいででした」
「その人、どうしたの?」
「今日あったことや、聞いた話を、一日の終わりに思い出してカードにメモをしたそうです。一枚のカードに、一つのことを書くようにされたとのことでした。そうしましたところ、あっという間にカードが溜まって、周りにドラマなどないと思っていたけれど、見えていなかっただけで、たくさんの感動的な瞬間が、潜んでいたことが分かったと仰っていました。それらを種にして広げたり、形を変えたりしてストーリーを作ってみたら、また漫画を描けるようになったということでした」
「そんなことで書けるようになるなら、わたしだってやるけど、今日あったことったって、昨日と同じよ。朝食摂って、洗濯して、そんなもんだもん。そこに感動的な瞬間が潜んでるようには、思えないんだけど」と、千栄は思わず反論する。
「話を聞いて回るというのはいかがでしょう。他の方のお話の中に、ドラマが潜んでいるかもしれませんよ」
「そう……かなぁ」首を捻(ひね)った。

   5

 千栄はホットサンドに齧(かじ)り付いた。
 パンの間からとろけたチーズがポタっと皿に落ちた。
 服に落ちたりしないよう、テーブルに上半身を乗り出すようにしてもうひと口食べた。それから一旦ホットサンドを皿に戻し、ストローを銜(くわ)える。アイスコーヒーを吸いながら、向かいの真穂へ目を向けた。
 パフスリーブにオーガンジー素材を使った黒いワンピースを着ている。カチューシャ、巻き髪、パールのピアス。
 まさしくこれが、宝塚観劇の正装なのかもしれない。それに引きかえ私は。
 自分の服装を確認する。
 Tシャツにジーンズだった。Tシャツの胸には<労働者>という三文字がプリントされている。
 千栄は尋ねる。「こんな格好で来ちゃったんだけど、宝塚劇場に入れるかな?」
「勿論(もちろん)でございます」
「宝塚を観劇するのに、ドレスコードみたいなものはないんだよね?」
「ございません。ご安心くださいませ」と答えた真穂は微笑(ほほえ)んだ。
 先週、千栄は真穂から連絡を貰った。書けるようになりましたかと聞かれたので、全然書けてないと答えると、新しい刺激が必要なタイミングなのではと言われた。
 新しい刺激に心当たりはあるのかと尋ねると、真穂は「ございます」と即答した。そして宝塚劇場に一緒に行こうと誘われた。
 秒で断るべきところだったが、何故か「じゃあ、はい、行きます」と言っていた。一文字も書けなくて藁(わら)にも縋(すが)る思いだったのかも。
 それで千栄は真穂と開演の一時間前に待ち合わせをして、劇場近くのセルフスタイルのコーヒーチェーン店でランチを食べているところだった。
 昼時の店内は混雑していた。真穂と同じ匂いがしていそうな女性客の姿がちらほら見受けられるので、彼女たちも宝塚に行く前の腹ごしらえをしているのかもしれない。
 千栄は口を開いた。「今日は誘ってくれて有り難う。整理収納とは全く関係ないのに」
「確かに整理収納とは関係がございませんが、わたくしは宝塚の素晴らしさを一人でも多くの方に知って頂きたいと常日頃思っておりますので、今日は布教活動のようなものでございますから、どうぞお気になさいませんように」
「チケット代は今、渡した方がいいですか?」
「観劇後で結構でございます」
「それじゃ、後で。宝塚を観るようになって長いの?」
「かれこれ四十年ぐらいになります。宝塚のお蔭で辛(つら)い人生を乗り越えることが出来ましたので、感謝しております」
 千栄はふと興味を覚えて尋ねる。「辛い人生だったの?」
「はい」頷いた。「順風満帆とは言い難いものでございました。実家は貧しくて、子どもの頃は四畳半に家族五人で住んでおりました。食事にありつけない日も多く、いつもお腹を空(す)かせておりました。わたくしが十二歳の頃に近所の人に誘われて、宝塚劇場に初めて参りました。夢の世界でした。その三時間はお腹が空いていることも、今度いつ食べられるか分からない不安も、すっかり忘れることが出来たのでございます。それからは空腹を感じる度に、宝塚の舞台を思い出すようにしておりました。王子様とお姫様のお話を繰り返し思い出して、現実逃避をしたのです。そうやって空腹を耐えました。
 高校を卒業してデパートに就職致しまして、給料を貰えるようになりました。毎日三食食べられる生活を有り難く思いました。同僚と結婚致しまして息子が生まれました。当時その職場には、育児をしながら働くための制度はなかったので退職致しました。息子が二歳の時に、夫が職場の複数の同僚と浮気をしていたことが発覚致しまして、悩みましたが離婚を決めました。ファミレスでウエイトレスとして働きました。深夜から早朝までの勤務をしながら息子を育てました。毎日忙しくて疲れていましたし、投げ遣(や)りになっておりました。時々宝塚劇場に行って現実逃避するのが、唯一の息抜きでございました。宝塚という逃げられる場所がなかったら、今頃わたくしはどうなっていたか。考えるだけで恐ろしいことでございます」
 なんか……意外。良家の出で、苦労知らずな人かと思っていた。
 千栄はもう一つ質問をした。「整理収納アドバイザーになろうと思ったのはどうしてだったの?」
「十年前に息子から、こんな汚い家にいたくないと言われまして、目が覚めたのでございます。離婚して一人で息子を育てている自分を、可哀想(かわいそう)だと思っておりました。それで忙しいのだから、大変なのだから、片付けなんて明日でいいと、自分を甘やかしていたのでございます。『どうせ』という言葉が口癖でした。片付けたってどうせすぐに散らかるのだし、どうせ誰かを家に招く訳でもないしと、言い訳ばかりしておりました。息子の言葉をきっかけに片付けをしようと決心致しましたが、どこから手を付けたらいいのか分かりませんでした。それでまずは、どうしたいのかをはっきりさせようと考えました。誰かを招待出来るようにしたいのか、物を処分したいのか。どちらも違いました。我が家をわたくしと息子が落ち着ける空間にするのが、やりたいことでした。
 こうしたいという目標がはっきりしたところで、実際に始めてみました。その中で気付いたのです。片付けはこれまでの自分を見つめ直し、これからの生き方を考える、とても大事な機会になるということに。捨てるのか、残すのかの判断に迷った時には、その物にまつわる思い出を、どうしたいのかで決めることに致しました。その思い出を物に閉じ込めたいのであれば、残すことに致しました。自分の胸の中に仕舞うだけでいいと思えれば、捨てることに致しました。日用品の買い置きなどの特に思い入れがない物は、これからの生活に必要かどうかで捨てるか、残すかの判断を致しました。そうやって片付けをしましたところ、終わった時には部屋もわたくしの気持ちも、すっきりしておりました。この体験を皆様にして頂きたいと思いました。わたくしと同じようにすっきりして頂きたいと考えたのでございます」
「ちょっと、なんていうか、予想外。読みが外れたって感じ。私が勝手に想像していた真穂さんの歴史と全然違った」と正直にコメントした。
「そういえば」と真穂が言い出した。「カードにメモを取ることを、お試しになりましたか?」
「聞いたことを書くってやつだっけ?」
「はい。わたくしが今話したことを、カードに書いて頂いて結構でございますよ。千栄様の脳への刺激となって、着想になにがしかの貢献が出来るのであれば、光栄なことでございますから」
 千栄は「それはどうも」と口先だけで礼を言い、二個目のホットサンドに取り掛かる。そして窓越しに外を窺(うかが)った。
 トラックが一台停まっていた。車体に擬人化した魚のイラストが描かれている。直立姿勢のその魚はウインクをして、笑みを浮かべていた。
 鮮魚でも運んでいるトラックなのだろうか。
 ふいに鮮魚の加工会社の作業場が頭に浮かんだ。
 千栄は魚を捌(さば)くバイトをしたことがある。二十代の頃だった。魚が傷(いた)まないよう作業場は低い温度設定がされていて寒かった。作業中水を使うこともあり、ゴム手袋をしていても身体の芯から冷えた。そうした過酷な職場環境の中で、先輩のパート女性たちは安い時給で黙々と作業をしていた。昼になると彼女たちと一緒に小さな休憩室で弁当を食べた。
 千栄は「どうしてこんなところで働くことになったんだい?」と五十代ぐらいの女性に聞かれた。
 劇団を主宰していて、脚本を書いているが、そっちじゃ食えないので、バイトを転々としていると答えた。
 女性は遠い目をして言った。「夢があるっていいね。まだ若いんだから、夢を叶えるまで頑張りな」と。
 そして自分の弁当の中からエビフライを一つ取り出して、千栄が食べていた弁当の上に載せた。
「たくさん食べな」と言って。
「有り難うございます」と千栄は殊勝な顔で礼の言葉を発したが、心の中では反発していた。
 夢なんかじゃない。あと数年すれば脚本が評価されて、次々にオファーが舞い込んで有名になって、脚本家の名前で客を呼べるようになるのは絶対なのだから。少し先に待っている未来は分かっている。そう思っていた。あの頃は。
 今振り返ると……自分の才能をあんなに過大評価出来たのは、どうしてだったのか。若かったからかな。
 結局身体がきつくて、二ヵ月でそこを辞めた。エビフライをくれた女性は、最後に頑張ってと言ってくれたような気がするが、記憶がはっきりしない。
 千栄はホットサンドを食べ終わり、紙ナプキンで口元を拭った。それからアイスコーヒーを啜(すす)る。
 真穂が聞く。「以前千栄様は色々なバイトをなさってきたと仰っていましたが、どういったお仕事が多かったのですか?」
「本当に色々やったからなぁ。節操がないって感じで。勤務条件が合うものだったらなんでもいいからね。交通量の調査とか、試験監督とか、工場とか」
「接客のお仕事もございましたか?」
「やったけど、数でいうと少ないかなぁ。なるべくなら避けてたから」
「それはどういう理由なのでしょうか?」
「理由……」少しの間考えてから千栄は答えた。「ほら、接客仕事って大変なのに、時給が他のと比べると高くないから」
「確かにそういうところはあるかもしれませんね。それでは特に人間に興味がないということではないのですね?」
「ん? まぁ、そうね」
「職場の同僚の方たちには色々な方がいらしたのではないでしょうか。そうした方たちのお話の中にドラマが隠されてはいませんでしたでしょうか?」
「それって、またカードに書くとかって話のこと?」
「はい」真穂が頷いた。
 エビフライをくれた女性とどんな話をしたっけ。覚えていないなぁ。そこら辺にいるその他大勢って感じだったから、ドラマチックな話をもってそうでもなかったし。
 千栄は告げる。「同僚たちと話ぐらいはしたけど、脚本の発想に影響をくれそうな強烈なエピソードを聞いた記憶はないんだよね」
「そうですか」と言った真穂は掌(てのひら)で窓外を指示した。「あちらにゴミ収集車がございますね。作業員の男性は六十代ぐらいでしょうか。千栄様があの作業員の方を主役にしたお芝居を書くとしたら、どういったストーリーになさいますか?」
 千栄はゴミの袋をかったるそうに収集車に放り込む男性をしばし眺めた。
 そして考えを口にした。「彼を主役にするなら……処遇改善を求めて立ち上がる話になるかなぁ。組合を設立して会社と……あ、公務員か。組合は認められないかもしれないね。だったらとにかく酷い上長とか、区長とか、知事とかと戦うストーリーにするんじゃないかなぁ」
「それは面白そうですね」と言って、真穂はアイスティーに口を付けた。
 それから「宝塚の場合ですと」と言い出した。「あの男性は記憶喪失という設定にしそうです。自分が何者だか分からなくなって彷徨(さまよ)っているところを、娘さんに助けられるのです。その娘さんの実家で暮らすようになって、ゴミ収集車の作業員となります。ある日、男性が実は王子様だったと判明します。娘さんは身を引こうとするのですが……、といった展開になりそうな気が致します」
 千栄は笑う。「まだ宝塚を観たことないけど、そういう展開にしそうっていうのは、分かるなぁ。ハーレクイン・ロマンスとか、コミックのストーリー展開に近いのが好きなファンが多そうだもの」
「他にもアプローチの仕方は色々あるでしょうが、例えばあの男性の今日に至るまでの人生に光を当てるというのはいかがでしょうか?」
「あの人の人生?」と窓外に人差し指を向けた。
「はい。どんな子ども時代だったのか、どんなご両親なのか、どんなきょうだいがいるのか、どんな学生生活だったのか、どんな人を好きになったのか。きっと色々なことがあったと思うのです」
「芝居になりそうなほどのことが?」
「はい。望むと望まざるとに拘(かかわ)らず、どんな人の人生も波瀾万丈(はらんばんじょう)でございますから」
 やけに自信たっぷりに言うのね。ただの整理収納アドバイザーなのに。依頼した仕事はもう終わったし、アフターサービスだって済んだっていうのに、なんでこの人はこんなに客とがっぷり四つになるんだろう。まぁ、不快ではないんだけど。
 千栄はストローを銜えた。そしてアイスコーヒーを思いっ切り吸い、飲み干した。
 奥歯に少し痛みを感じた。

   6

 千栄は「三ヵ月後にまた来ます」と医者に言ってから診察室を出た。
 よっしゃ。今回もわたしの勝ちだ。
 右の拳にぐっと力を入れる。
 今日は定期検診を受けに来た。
 検査結果に問題なしと言われた千栄は、軽い足取りで通路を進む。
 左手に持っているのは、受付時に渡されたクリアファイルだった。中には血液検査の結果表と処方箋(しょほうせん)が入っている。
 エスカレーターの手前で、看護師の斉藤香織(さいとうかおり)と出くわした。
 香織が「定期検診ですか?」と聞いた。
 千栄は頷きピースサインをする。「問題なしって言われました」
「良かったですね」と笑みを浮かべた。
 香織は千栄が入院していた時の担当看護師だった。
 太い眉が印象的な人で、縁なしの眼鏡(めがね)によって理知的な雰囲気が増大している。見た目は千栄より十歳ぐらい年下と思われるが、十歳ぐらい年上のような落ち着きがあった。
 手術の前日、千栄はトイレの個室で泣いていた。病院には一人で泣ける場所がトイレしかなかったのだ。重里や兄姉が病室にいる間は心配を掛けないよう、元気なフリをしていた。だが三人が帰ると恐怖心でいっぱいになった。仕切りの薄いカーテンを閉じて、ベッドの上で膝を抱えた。やがて涙が溢(あふ)れてきて声まで出そうになった。慌てて口を押さえた。同室の患者たちに泣き声を聞かせてはいけない気がした。それでトイレに駆け込み個室で泣いていたのだ。
 トイレに誰かが入って来た音がしたので、千栄は口を手で覆い声が漏れないようにしたのだが、聞かれてしまった。
 ドアがノックされ「大丈夫ですか?」と問われた。
 具合が悪いのではなく、ただ泣いているだけだとドア越しに答えると、「だったら出てきてください」と言われた。
 千栄が個室のドアを開けると、そこに香織がいた。
 香織は言った。「心配になっちゃいましたよね。皆そうです。手術の前の日は特に。大丈夫です。先生たち、頑張りますから」と。
 そして千栄が泣き止むまで背中を撫(な)で続けてくれた。
 千栄は医者に感謝しているが、それ以上に香織にも感謝している。
 千栄は尋ねる。「三ヵ月後にまた検査を受けるので、その時は香織さんに会いに五階に行っていいですか?」
「三ヵ月後……次の検査は三ヵ月後なんですね。実は私、来月いっぱいでここを辞めるんです」
「えっ。そうなんですか?」
「地元に帰るんです。O県出身なんですが、そこの小さな診療所に看護師がいなくて、住民の人たちが困っているもんですから」
「そうなんですか……香織さんに会えなくなるのは寂しいですけど、香織さんが決めたことなら、応援しなくちゃいけませんよね。頑張ってください」
「地元が嫌だったんですよ。凄く狭い世界だから窮屈で。一刻も早く地元を出たいと思って、親からは反対されたんですけど、東京の専門学校に入学して。医療の最先端のところにいたくて大学病院で働き始めて、満足してたんです。でもお正月に実家に帰ったら親戚や近所の人が、診てくれと言って集まって来ちゃって。私は医者じゃないと言ったんですけど、痛みとか、体調不良の愚痴とかを、聞いて貰うだけで満足するみたいなんです。最先端じゃないところだけど、私を必要としてくれる場所で働くのも、アリかなと思うようになったんです」
 千栄は改めて世話になったお礼を言い、お元気でと声を掛けた。そして香織に手を振って別れた。
 千栄は下りのエスカレーターのステップに足を乗せる。
 あっ、これか。今聞いた話をカードに書けばいいのか。
 真穂から勧められたカードに書くという手法を、千栄は未だに試したことがなかった。だが、今聞いた香織の話なら、アイデアの元になってくれるかも。
 一階に下りると、会計の窓口前に出来た列の最後尾についた。
 前に立つ二十代ぐらいの女性からは、柔軟剤の甘ったるいにおいがした。その前に立つ七十代と思(おぼ)しき男性は、脇に新聞紙を挟んでいた。
 千栄は中学校で新聞委員をしていた。それで充分だったのだが、部活にも必ず入らないといけない学校だったため、しょうがなく文芸部に入部した。文化祭で演劇部が上演する脚本を、文芸部員が書く慣習があった。文芸部員全員が脚本を書き、その中から演劇部員たちが、やりたい作品を選ぶというスタイルだった。
 初めて書いた千栄の脚本が選ばれた。脚本を選ばれた生徒は、演劇部の練習を、いつでも見学していいことになっていたが、千栄はどうでも良かったのでしなかった。
 文化祭の前日になって、文芸部全員で演劇部の最終リハーサルを観に講堂に行った。そこで初めて自分の脚本の芝居を観た。鳥肌が立った。自分の頭の中で作ったキャラクターたちに、命が吹き込まれていたから。妄想の中にだけ存在していた世界が、くっきりとした輪郭をもった状態で目の前にあった。感動で言葉を失くした。
 翌年もその翌年も千栄の脚本が選ばれた。そして本番を観て毎回同じように感動した。
 新聞記者になる夢が断たれた時に、脚本家になろうと決めたのは、この時のことを覚えていたからだろう。
 やっと千栄の番になり、会計のスタッフにクリアファイルを渡す。それとひきかえに書類と番号が書かれた紙を受け取った。ベンチに座り、大きな掲示板に自分の番号が表示されるのを待つ。
 掲示板の左横にはコーヒーチェーン店があり、二十人ほどがそこでお茶をしていた。
 十五分ほどで千栄の番号が表示されたので立ち上がった。空いていた精算機に診察券を差し込む。
 その時、隣の精算機から、もう一度最初からやり直せというアナウンスが聞こえてきた。
 精算機からやり直しを命じられているのは、七十代ぐらいの女性だった。困ったような顔で画面を覗いている。
 それからぺちっと軽く精算機を叩(たた)くと、くるりと踵を返してその場を離れた。
 スタッフを探しに行ったのか、それとも支払うことを投げ出すのか。
 千栄は精算を済ませると、自動販売機で飲み物を四本買って、南側にある警備員室に向かう。
 警備員室のカウンターには築山雄二(つきやまゆうじ)と、見知らぬ若い男性が着いていた。
 千栄は築山の前に飲み物を置いた。「差し入れ」
 築山が「おっと」と言い、「これからシフト?」と聞いた。
「違うって。まだ復帰してないっていうか、ここのバイトを続けるかどうかもまだ決めてないし。今日は検査だったから」と千栄は上を指差す。「築山さんが暇して船を漕(こ)いでんじゃないかと思って、ブラックコーヒーを買ってきた」
 冗談じゃなく本当に、この築山は仕事中に居眠りをする。どうしてクビにならないのか不思議なのだが、この病院に派遣されている警備員の中では一番の古株で、二十年以上になるという。
 六十二歳の築山は背が高く、顔も長く、全体としてひょろ長かった。
 築山が「さすが、千栄姐(ねえ)さん、優しいな」と言い、隣の男性に「千栄姐さんの差し入れだ」と缶コーヒーを渡した。
 築山は男性を新人の川淵駿哉(かわぶちしゅんや)君だと千栄に紹介した後で「こちらは千栄姐さん。今は休んでいるがここの警備員の一員。花札が滅法強いから心しておくように」と彼に教えた。
 川淵は小さな声で「いただきます」と言って缶コーヒーのプルトップを開ける。
 築山が川淵に見えないよう指を自分の身体で隠しながら、彼を指差し、声は出さずに口の動きだけで「カモ」と言った。
 警備会社から派遣される警備員たちには、この警備員室の奥にある休憩室があてがわれている。この病院内の休憩室は医者用、看護師用、事務スタッフ用など職務ごとにきっちり分かれている。病院側は職場を風通し良くしようとは考えておらず、むしろ階級の違いを、各自の頭に刻もうとする魂胆のようだった。
 警備員たちは専用の畳敷きの休憩室で、食事や仮眠を取る。ここで花札を始めたのは千栄だった。劇団の合宿でも必ず花札タイムを設けるほど、このゲームを気に入っているのだ。
 最初は築山しか付き合ってくれなかった。だが築山への貸しが五万円を超えた頃から、参加者が増え始めた。気が付いたら医者や検査技師、薬剤師などが警備員用の休憩室を訪れるようになり、千客万来となっていた。花札は階級差を吹っ飛ばした。
 缶コーヒーをちびちび飲んでいる築山に尋ねた。「築山さんはどこの出身?」
「俺の出身地を聞いてどうすんだよ」
「わたしが貸してるお金を踏み倒して、築山さんがトンズラしたら、捜さなくちゃならないでしょ。そういう時、故郷に逃げそうだから出身地を聞いておこうと思って」
「あなたは時々そういう、怖いことを言うね」
 千栄は笑う。「で、どこなのよ?」
「Y県」
「へぇ。いいところ?」
「どうかな。もう何十年も帰ってないよ。海の近くだから漁をやってるのが多くてさ、親父(おやじ)も漁師だった。だが俺が十二歳の時に漁に出て、親父も船も戻って来なかった」
「大変だ」
「あぁ、大変だ」築山が繰り返した。「兄貴が学校をやめて漁師になって、家計を支えてくれたよ。まだ十六歳だったってのに。だからだろうが兄貴が親面(おやづら)し出してさ。それが気に食わなくてしょっちゅう喧嘩(けんか)してた。俺が十七歳の時にいつものように兄貴と喧嘩して、だがその日はどうにも腹の虫がおさまらなくてさ、家を飛び出したんだよ。貯めていた小遣いを持って電車に乗って、東京を目指したんだ」
「それで?」
「上野駅に到着だ。さて、これからどうするかだよな。高校生が駅に一人でいたら、誰か声を掛けてくれるんじゃないかと考えて、立ってることにしたんだ。改札の前で」
「無茶苦茶だね、考え方が」
「そうだな。一日中立ってたんだが誰も声を掛けてくれないんだよ。しょうがないから近くの公園で野宿した。で、次の日、また改札の前に戻って立ってたんだ。そうしたら女の人が声を掛けてきた」
 千栄は驚いて尋ねる。「本当に?」
「本当だ。大きなつばの帽子を被った人で、三十代ぐらいに見えたな。坊や、そこでなにしてるのって聞かれたから、家出をしてきて、誰か声を掛けてくれないかと、昨日からここに立っていると答えた。お腹は空いているの? って言うから、ペコペコだって答えたら、美味しいものを食べさせてあげるから、ついていらっしゃいって歩き出した。だからその人の後をついて行ったんだ。まぁ、そんなこんなで、その人のヒモ暮らしがスタートしたんだよ」
「ちょっと待ってよ。展開が早過ぎるでしょ。『そんなこんな』のところ端折(はしょ)り過ぎだし。ちゃんと詳しく聞かせてよ」
 なんだか今日はカードに書くことがたくさんある。今日はそういう日? それとも元々わたしの周りにいつもあったの? こんなドラマチックなことが? 
 築山が首を反らして缶コーヒーを飲み干した。それから缶を背後のゴミ箱に放り投げた。

   7

 千栄は小声で尋ねた。「本当にご馳走になってもいいの?」
 重里が「僕たちのために用意してくれたんだから、食べなきゃ失礼になるよ」と言うと、台所のシンクで丁寧に手を洗う。
 千栄の二倍以上の時間を掛けて手を洗った重里は、台所を出た。
 千栄はその後に続いて居間に移動した。
 卓袱台(ちゃぶだい)にはカレーライスが盛られた皿が三つ、置いてあった。
 この家の主(あるじ)、北村(きたむら)やよいの手料理だ。
 先週、鉄道写真の撮影に同行したいと千栄が言うと、重里はとても驚いた顔をした。同時に嬉しそうな表情も浮かべた。
 これまで一度も千栄が同行を希望しなかったのは、鉄道に興味がなかったというのもあるし、重里の大切な趣味の時間を、邪魔したくないとの思いがあったからだった。だが重里のいろんなことを知りたくなって、今日は初めて彼について来た。
 てっきり電車で現地に向かうのだろうと思っていたが、重里は彼の叔母から車を借りてきた。その車で三時間掛けて着いたのが北村家だった。
 北村家の庭からだと、目当ての電車の映える写真が撮れるそうで、年に一、二度訪問しているという。
 重里は北村家に到着すると、やよいに手土産の菓子折りを渡した。そしてやよいから請われるままに電球の交換をし、水道のナットを締めて蛇口からの水漏れを止めた。次に庭の雑草を抜き始めた。
 それなら出来そうだと、千栄も雑草取りを手伝うことにした。
 二人で雑草と戦っていると、台所からカレーライスの匂いが漂ってきた。
 しばらくしてやよいが「お昼だ」と大きな声を上げたので、千栄たちは雑草取りの手を一旦止めて、手を洗うために台所にお邪魔したのだった。
 千栄は「いただきます」と言ってからカレーライスを口に運んだ。
 懐かしい味がした。子どもの頃に、お母さんが作ってくれたカレーライスに近いかも。
 千栄は告げた。「美味しいです。本当に凄く美味しいです」
 隣の重里は同意を示すように頷きながら、物凄いスピードでカレーを口に運んでいる。
 やよいが「都会の人の口に合うか分からんかったけど、そいじゃったら良かったわ」と言った。
 やよいは七十代ぐらいだろうか。白髪の前髪を耳の上辺りにピンで留めている。カーキ色のチュニックのポケットには、猫のアップリケが付いていた。
 六畳の部屋の壁には、演歌歌手の大きなポスターが貼られている。窓は十センチほど開けられていて、風をはらんだレースのカーテンが揺れている。そのカーテンには直径五センチほどの穴が開いていた。箪笥(たんす)の上に置かれたラジオからは、三十年ぐらい前に流行(はや)った歌が流れてくる。
 初めて訪れた場所なのに懐かしく居心地が良かった。
 カレーライスを食べ終わると重里は庭に三脚を立てた。その後ろには折り畳み椅子を二つ置いた。
 千栄は右の椅子に腰掛ける。
 重里は真剣な表情でカメラを三脚にセットし、なにやら調整を始めた。
 しばらくして重里が言う。「モニター覗いてみて」
 千栄は立ち上がりモニターを覗く。
 左右に線路が走り、その手前に茂るススキが映り込み、線路の向こう側に並ぶ樹々も、しっかりとフレームに収まっていた。
 重里が説明する。「ここを黄色い車両の電車が通るんだ。ススキがいい感じだから秋っぽい写真が撮れそうだよ」
 椅子に座り直してから聞いた。「ここの場所はどうやって見つけたの?」
「どこから撮ろうかとここら辺をウロウロしている時に、たまたま台車に肥料を載せて運んでいたやよいさんを、見掛けたんだ。大変そうに見えたから、運びましょうかって声を掛けたら、お願いって言うんで運んでさ。なにしてたんだって聞かれたから、鉄道の写真を撮りに来て、いい場所を探していたと言ったら、うちの庭からならよく見えるというんで、お邪魔させて貰ったんだ。そうしたらここだよ。ベストアングルが撮れる最高の場所だったんだ。この庭から写真を撮らせて貰えないかと頼んだら、いいと言ってくれて、それから通うようになったんだ。ここからの写真は僕にしか撮れないから、結構撮り鉄仲間から羨ましがられているんだ。どこから撮るかが、勝負の分かれ目ってところがあるからね。ここの電車に関しては僕はいつも勝てるんだ」
 勝てるなんて言葉を重里から聞くの初めてかも。わたしはしょっちゅう言うけど。重里にそんな一面があったなんてね。
 千栄は空を見上げた。
 一羽の鳥が羽を広げて、ゆっくり円を描くように飛んでいる。
 千栄は振り返り、縁側の奥へ目を向ける。「やよいさんは?」
「多分畑に行ったんだと思う。また帰りに、たくさん野菜をくれるつもりなんじゃないかな」
「そうなの? 大量の野菜のお土産を持って帰って来た重里の記憶、ないんだけど」
「ここに来る時に叔母さんの車を借りるでしょ。だから返す時に叔母さんに野菜をあげるんだ。でも少しは持って帰ったことあるよ。冷蔵庫に入っているのに、千栄ちゃんが気付かなかったんじゃないかな」
「そっか」千栄はもう一度振り返る。「やよいさんはどんな人生を過ごしてきた人なんだろうね」
「さぁ。やよいさんはそういう話をしないから分からないな」
「重里も話さないよね。子どもの頃の話とか。話したくないなら別にいいんだけど」
 重里がちらっと自分の腕時計を見てから、千栄の隣に座った。「十歳の時に叔母さんが僕を救い出してくれたんだ」
 千栄は重里の横顔を見つめて次の言葉を待つ。
 少しの間を置いて重里が語り出した。「僕は覚えてないんだけど、当時風呂に入ってなかったから、かなり汚れていたらしい。ガリガリに痩せてて、髪はボサボサだったって叔母さんが言ってた。あと、僕はずっと電車の模型を握りしめていたとも言ってたな。親から買って貰った唯一のオモチャだったんだろうね。叔母さんの家で暮らすようになって、戸惑うことばかりだった。そのことは覚えているんだ。大人から無視されることに慣れていたからね、誰かに心配されたり、怒られたり、楽しいかと聞かれたりっていうのに、どう対応したらいいか分からなかったんだと思う。慣れるまでに一年ぐらい掛かった」
 話さないのは、なにかあるんだろうなと思ってはいたけど……そんな子ども時代だったなんて。わたしは重里のことをなんにも知らなかった――。
 千栄は尋ねた。「ご両親は今は?」
「いつだったか……四年か、五年ぐらい前かな。叔母さんのところに金の無心に来たって。で、叔母さんが叩き出したらしい」
「そういうところ、格好良くて好き」
「うん」頷いた。「千栄ちゃんは叔母さんに似てる」
「うっそ。わたしは強盗を追い返したりは出来ないよ」
 重里が声を立てずに笑う。
 千栄は質問する。「叔母さんに似ていると思って、わたしと付き合うことにしたの?」
「どうかな」
「わたしで良かったの? もっと若い人にしてたら子どもをもてたよ、きっと。今からだって間に合うよ。まだ重里の年齢なら」
 ゆっくり頭を左右に振った。「僕は千栄ちゃんがいいんだ」
「……ありがと」
 重里が立ち上がった。モニターを覗き、またなにかを調整した。
「もう電車来る?」と、千栄。
「まだ。三十分後」
 そんなに先なのにスタンバってるのか。撮り鉄をやるのも大変だ。
 重里が聞く。「脚本が書けないって言ってたけど、どうなの調子は?」
「えっとねぇ、なんとなく書けそうな気がしてきてる。まだ予感があるって程度なんだけど、なんとなくね。多分これまでとは違うテーマになるかな。身近にあるドラマに光を当ててみようかなって、思ってるんだよね」
「そうなんだ」
「そうなのよ。それでね、兄ちゃんと姉ちゃんに、会いに行ってこようかなと思ってる。二人には手術の時に心配かけたし、お金貰ったりもしたから顔を見せに行こうかなって。それで二人の話を聞いて来ようかと思ってるんだよね。多分……いや、多分じゃなくて絶対二人にもドラマはあるはずだから。兄ちゃんと姉ちゃんのドラマをね」
 重里が頷き、モニターを覗いた。
 その丸くて大きな背中を眺める。
 しばらくしてガタンゴトンと、電車の走行音が聞こえてきた。
 千栄はその音に耳を澄ませた。

(おわり) ご愛読ありがとうございました。 この作品は来年春、単行本として小社から刊行予定です。

著者プロフィール

  • 桂望実

    1965年、東京都生まれ。大妻女子大学卒業。会社員、フリーライターを経て、2003年、『死日記』でエクスナレッジ社「作家への道!」優秀賞を受賞しデビュー。05年刊行の『県庁の星』が映画化されベストセラーに。他の著書に『恋愛検定』『僕は金になる』『残された人が編む物語』(すべて祥伝社)、『息をつめて』『就活の準備はお済みですか?』など多数。

    【著者公式HP】 https://nozomi-katsura.jp/