原田ひ香
朝六時の表参道の空気は澄み切っていた。 タクシーを地下鉄の駅の近くに着けると、開店前の巨大なアップルストアが城塞(じょうさい)のようにそびえ立っている。 犬森祥子(いぬもりしょうこ)は、田端史江(たばたふみえ)の手を取るようにして車から降ろした。史江は手作りらしい巾着袋から小さなお財布を出して、タクシー代を払ってくれた。領収書もちゃんと受け取って巾着袋にしまう。年度末に確定申告をするそうだ。 「さ、あちらですよ」 祥子も事前にちゃんと病院の場所を確認してあったが、彼女の方が先に立って案内してくれた。小柄な上に背中が丸まっているから背は祥子の胸のあたりまでしかないけれど、病院を差す指先は定まっていた。すべての動作がゆっくりで確実だった。 ―――すごくしっかりしたお婆ちゃんだ、肉体以外は。 この時間はさすがに表参道でも人通りがない。豪奢(ごうしゃ)なブランドショップはどこも固く扉を閉ざしている。そのためだろうか。数日前から急に気温が上がった六月の蒸し暑さが、一時収まったかにみえた。 こんな時間には誰もいないだろうと思ったのに、自動ドアをくぐったとたん、ぎっしりと人が詰まっていて、待合室はすでにいっぱいだった。 ―――うわ、どこからわいたのか。これは確かに、六時に来る必要がある。 「必ず、六時に行ってね。必ずね」 史江の娘の、時江(ときえ)に、しつこいくらい念を押された。 「六時に行ってくれなくちゃ、あなたに頼む意味がないんだから」 スカイプの画面の先に見える彼女は、大きなメガネをずり上げながら言った。海外に長く住む人特有の、指図し慣れた口調だった。 「わかりました」 「病院のことはお母さんがわかっているはずだけど、あなたもちゃんと調べて」 「もちろんです」 「病院の名前に、『予約』とか『診察』とかで検索すれば、通っている人がブログとか書いていて参考になるから、それ熟読して。あそこはね、ちょっと受付に遅れると何時間も待つから、結局一日中病院の待合室にいることになるの。そうするとママがとても疲れて、前に何日も寝込んじゃったのね。だから、朝早いのはちょっとつらいけど、結局それが一番、楽なのよ」 「はい」 「駅から病院に一番近い出口は階段しかないから、渋谷まで電車で行って、あとはタクシーに乗ってね」 祥子がメモを取っているのを確認すると、時江は「よし」というようにうなずいて、やっと安心したらしかった。 吉祥寺の、公園の近くの一軒家に住んでいる、田端史江は甲状腺に異常があり、現在症状は落ち着いているものの、半年に一回、この病院で検査をする必要があるらしい。甲状腺の専門病院は日本でも数少ないから、自然、そこに患者が集まってしまうそうだ。 これまでは、パリに住んでいる娘の時江がその時期に合わせて帰国し、同行していたのだけれど(そのために帰国するというより、彼女が帰国する時期に来院していたという方が正しいかもしれない)、今回に限っては、義理の娘の出産が近づいていて帰国できない。 「夫の前の奥さんとの間の子なのね。でも、子供の頃から一ヶ月に一回は必ず泊まりに来てたから、私にとっても娘のようなものなの。彼女も『トキエ、絶対に立ち会って』って言うもんだから」 海外では義母も呼び捨てなんだな、と祥子は胸の中でうなずいた。それを話す、スカイプの中の時江の顔は、嬉(うれ)しそうというより、誇らしそうだった。 「こっちじゃそういうの、とても厳しいの。離婚してもちゃんと父親としての役割を果たさないと出世に響くくらい」 「へえ」 これには、お腹の底から感心した声が出た。日本もそうなればいいのに。そのくらい強制力があった方が、うまくいくことも多いだろう。自分みたいに、今の奥さんに気兼ねしてなかなか娘に会いたいと言い出せない人間には。 「彼女が十四になった頃、一時期、前の奥さん……本当のお母さんとうまく行かなかった時があってね。ほら、思春期特有の反抗期よね、あれは。いろいろ相談に乗ったの。向こうもちょっと年上のお姉さんみたいに慕ってくれて。だから、本当に家族なの、私たちは」 祥子が心底関心を持って聞いているのが伝わるのか、時江はそんなことまで話してくれた。 ふと、自分の娘が反抗期になったらどんな反応を示すだろう、と考えた。本当のお母さんのところに行きたいと言ってくれるかも。反対に会いたくないと言い出すかも……。 「……まあ、そういうわけで、今回は行けないわけだけど」 「了解しました。吉祥寺のご実家で史江さんを夜から見守りして、六時に病院にお連れすればいいんですね」 「ママは一人で行けるって言うんだけどね、最近、足下(あしもと)がおぼつかなくて転んだりしたら大変だから」 「わかりました」 「そんな早い時間に、介護やお手伝いの人も頼めないし、どうしようかと思ったら、こういう仕事があるって教えてくれた人がいて」 時江は、祥子の中学時代からの親友、幸江の紹介だった。外資系企業の秘書の仕事をしている幸江の友達の友達なのだそうだ。ちなみに、祥子が勤める事務所の社長、亀山太一(かめやまたいち)とは、三人とも同級生だった。 時江に言われた通り、ちゃんと六時に来られてよかった、と祥子が考えていると、史江は慣れた様子で、受付用の機械に診察券を通して予約の整理番号を受け取った。 「さあ、どうしましょうか」 整理券を巾着に入れると、少し柔和な顔になって史江は言った。 「これから、病院が始まる九時まで、三時間あるわね」 「ここで待ちますか」 待合室はいっぱいだったが、二人分の席も離れた場所なら探し出せそうだった。 「ううん、病院の空気をずっと吸っているのも気が滅入るでしょう。ここはあんまり病院の臭いはしないけど」 確かに、まだ診療が始まっていないからか、それとも治療が普通の病院とは違うからか、病院臭は薄い。病院というより、銀行の待合室のような雰囲気がある。けれど、確かに同じ目的の患者が詰めかけているだけで、どこか重苦しい雰囲気があった。 「カフェにでも行きましょうか」 祥子はすでに、早朝から開いている、近所のカフェを探してあった。そのくらいは時江に言われなくてもできる。 「そうしてもらえるとありがたいわ」 史江はぱっと笑顔になった。 短大卒業後上京し、OLだった時に紹介された相手との間に子供ができたことで結婚した祥子は、同居の義父母と折り合いが悪く離婚した。 その後、仕事も行き場もなかった祥子を、同郷の友人、亀山太一が雇ってくれた。彼は祖父が大臣経験者、父は手広く事業をしている一族で、自分自身も「中野お助け本舗」という事務所を経営している。表向きは、なんでも請け負う「便利屋」だけど、実際には深夜、依頼人の家に赴いて一緒に過ごす「見守り屋」が主な業務内容だった。 深夜十時くらいから朝の八時くらいまで、顧客の要望に応じて、ただ、寝ずの番をするのが主な仕事内容だ。けれど、時間も内容もフレキシブルに変えることはできる。認知症状が出ている犬の見張りをすることもあれば、女性と一緒にいる感覚を味わいたい、と言う性格の悪い金持ち男の自慢話を聞くこともある。たいていのことは受け入れるが、性的サービスはいかなる場合でもお断りする(と、所長の亀山が、老年カップルのセックスを見守って欲しいと頼まれた時にとっさに決めた)。 半年ほど前、前の夫、杉本義徳(すぎもとよしのり)が再婚した。相手は同じ会社の後輩社員だった。 彼は再婚と同時に二世帯住宅の家を出、実家の隣町に居を構えた。 それは、祥子との結婚を教訓に同じ轍(てつ)を踏みたくない、という気持ちからの行動かもしれないし、新妻の強い要望からかもしれない。いずれにしろ、小学三年生になった娘の明里(あかり)が落ち着いた生活をするためにも、彼の現在の妻と元夫には幸せになって欲しいと祥子も願っていた。彼女に自分と同じようなつらい同居を味わわせたくない、というのも本心だ。けれど、自分の時も親との別居を考えてくれればよかったのに、というわずかな不満が心をよぎるのはいたしかたなかった。 とはいえ、新しい家庭はうまく行っているらしい。それは、時々電話で話す明里の声でもわかったし、元夫からの報告でも感じられた。 けれど、しばらく落ち着くまでは遠慮して欲しい、と月一回と決められていたはずの明里との面会をさせてくれないのはどうしても解せなかった。彼らが再婚してすぐには一回会った。しかしそのあとはずっと断られている。 もっと強く主張したら、と友人の幸江には言われる。祖父の事務所の弁護士、紹介しようかと亀山にもアドバイスされた。 「元夫と、娘の母親という関係をうまくやっていきたいというのと、こちらの権利を主張するのはぜんぜん別問題。主張することはしなくちゃ」 幸江が、一足早いビヤガーデンで生ビールを片手に語るのを、普段はおしゃべりな亀山が、うんうんと聞いていた。 二人は中学時代からくっついたり、離れたりしている。祥子のことがあって、最近、また関係を深めているらしい。 それがどこまでの関係なのかはわからないし、祥子もあえて聞いたりしない。 彼らが言うことはわかる。けれど、実際問題、「権利は権利、良い関係は良い関係」と線引きできないのが日本人……というか、人間というものではないだろうか。 「祥子が言いにくかったらさ、弁護士に言ってもらえばいいさ」 子供の頃から身近に弁護士がいる環境で育った亀山もあっさり言う。いきなり弁護士って……まあ、それは置いておいたとしても、祥子は心の中でつぶやいていた。 それって、お高いんでしょ? 彼にとっては自分の事務所の顧問弁護士だから、ちょっと使うくらいかまわないと思っているのだろうけど、そういうわけにもいかない。 まあ、普通の家庭である、杉本家だって、いきなり弁護士が意見してきたら態度を硬化させるかもしれないし。 それでも、他人から見たら本来ならそのくらいしてもいい事項なのかもしれないと思え、そう言ってもらえるのは心強かった。けれど、自分の存在で、娘の新しい家庭に波風を立てたくない、自分が我慢すればいいだけならば、と迷っている。 ―――こういうところが、結局、自分の今の状況を作ってきたんだろうな。 どこか他人事のように、祥子は考えている。 こういうところ、こういう状況……つまりは言いたいことをはっきり言えず、なんとなく飲み込んでしまったり、相手の気持ちを勝手に思いはかって身をひいてしまう。そして、気がつくと本当に大切なものは皆、なくなってしまうのだ。 ―――どうしたらいいのかな。 毎晩、考えている。けれど、結論は出なくて、結局、今月は我慢しよう、と決め、気がついたら半年が経っていた。 祥子が探してきたのは、ハンバーガーチェーンが出店しているカフェだった。表参道にあるといってもそうおしゃれなわけでもない。ただ、簡素なテーブルとイスに、照明がどこまでも明るく、病院の待合室にいるよりずっといい。 史江はモーニングのトーストセット、祥子はハンバーガーのバンズにトマトとハムがはさまったBLTセットを頼んだ。飲み物は二人ともカフェオレだった。メニューにハートランドの瓶ビールがあった。これなら早朝から飲めるなあ、と祥子は口には出さず考える。 祥子がトレーを運ぶ間、史江はもの珍しそうにきょろきょろ店内を見回していた。こんな時間でも客が結構いる。史江と同じ病院に通っていると思しき中年女性や、テーブルに本を広げて熱心に勉強している女子学生。朝の人たちは皆、清潔そうに見えた。 「こんなところがあるのね」 「はい。今までは病院で待っていたんですか」 「そうね。じゃなければ、表参道の街を歩いて、もう少し先のスターバックスまで行ったり」 「確かにスタバもありますけど、少し遠いので」 「ここなら朝ご飯も食べられるわね。次もここに来ますよ。あの子に教えてあげよう」 「時江さんにメールで場所を送っておきます」 昨夜、史江の家に着いた時、ドアをノックしてもなかなか開けてくれなかった。 家の中に人の気配はあった。けれど、なぜかドアを開けてくれない。何度も何度もノックして、もしかしたら、中で倒れているのでは、と心配になったところでやっと少しだけドアが開いた。五センチほどの隙間から、老女がこちらを見ていた。 「すみません。私、犬森祥子です。時江さんに依頼されて、こちらに来ました。今日の夜からご一緒して、明日の朝、一緒に病院に……」 説明しても何も答えてくれない。耳が悪いのかと思って、もう一度同じことを声を張り上げてくり返した。 「……そんな大声を出さなくても聞こえてますよ」 「あ、すみません」 やっとドアが大きく開いた。その時、祥子は、史江がのぞき穴を使ってじっと自分を観察していたのだ、と気がついた。 いろいろな客を相手にしてきたが、ここまで警戒されたのは初めてだった。 そのあとも、史江はほとんど話さなかった。ただ、客間(と思しきソファのある部屋)に向かい合って座り、じっと息詰まるような時間を過ごした。 「あの、そろそろお休みになりませんか。明日の朝は早いですし」 そう言うと、ぎろりとにらまれた。私が寝ている間に、あんた、何をするつもりだ、と言いたげな瞳だった。 「……いえ、どちらでもいいんですけど、でも、明日は五時にはここを出ますから」 「あなたは?」 「私は起きています。見守り屋ですから」 さすがに十一時を過ぎると、史江はふんっというように鼻を鳴らして、「じゃあ、ここの部屋から一歩も出ないでね」と言って部屋から出た。 「あの、トイレは?」 祥子が尋ねると、「そのくらいいいわよ。自分で考えなさい」と言った。(つづく) 次回は2018年8月15日更新予定です。
1970年神奈川県生まれ。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞最優秀賞作受賞。07年「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。著者に『東京ロンダリング』『母親ウエスタン』『彼女の家計簿』『ミチルさん、今日も上機嫌』『三人屋』『虫たちの家』『失踪.com 東京ロンダリング』『ラジオ・ガガガ』『三千円の使いかた』などがある。