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  • 第一酒 武蔵小山 2017年1月5日更新
 犬森祥子(いぬもりしょうこ)は昼前の商店街を、ランチの店を探して駅方向に歩いていた。
 最近はめずらしくなった、アーケードの両側にぎっしり店が並んでいる。スーパーや八百屋はもちろんのこと、ドトール、マクドナルド、リンガーハット、上島珈琲、コメダ珈琲、てんや、ジョナサン、富士そば……日本の主だったチェーンで出店してない店はないんじゃないか、というくらいそろっているのも見事だ。
―――めずらしいのはアーケードじゃなくて、これだけ隙間なく建てられた店の方だろうな、今時は。
 店だけではない。平日なのに、人々が行き交っている。もちろん、老人が多いが、これだけの人通りがあるのは立派なものだろう。
 商店街にはところどころ脇道があって、その道に沿ってまた店が並んでいる。
 常設の店舗だけではなく、仮設店舗用のスペースがいくつかあり、そのどれもが物産展や珍味を売る店などでにぎわっていた。祥子がちらりとのぞくと、超高級とは言わないが、決して安くない品々に客が群がっている。無駄遣いしたり、散財したりはしないが、うまいものにはちゃんとお金を払うタイプの人たちなのだろう。
―――これはなかなかに裕福な町、と見た。
 祥子は軽くため息をつきながら、うなずく。
―――おいしい飯と、おいしい酒がある町、とお見受けした。
 しかし、あまりに店やレストランがたくさんあるためか、逆に目移りし、気がついたら駅前のロータリーまで来てしまった。小さめの駅ビルがあり、その中にもレストランが入っていそうだ。
―――駅ビルの中に入ってみるべきか、それとももう一度、アーケード通りに戻るべきか……。
 うーん。
 小さな声がもれてしまうほど、迷う。
 結局、祥子はそのどちらも選ばず、あえて駅の裏側を探索してみることにした。
―――こういう町は、商店街から離れたところにもいい店があるはずだ。
 犬森祥子には、ランチの店を選ぶ、明確な基準がある。
 酒に合うか合わぬかだ。
 夜の仕事をしている彼女にとって、ランチは一日の最後の食事となる。ならば酒を飲んで、リラックスしてから家に帰り、眠りにつきたい。
 駅の裏から街道沿いにしばらく歩いた。こじゃれた蕎麦屋などがあり、これは自分の目に狂いはなかった、と安心したら、急に店が少なくなる。ちょっと不安になった。
―――これはさっきの蕎麦屋に入るのが賢明かな。近頃の蕎麦屋にはいい日本酒とつまみがあるだろうし。
 そう思った矢先に、小さな立て看板が置いてある店が目に入った。肉丼、牛ステーキサラダ仕立て、五種の肉ちらし、ハンバーグステーキ……。びっしりとおいしそうなメニューが書かれている。
 肉に力を入れている店らしい。ちらりと中を見る。扉のガラス越しでは、あまりよく見えない。ただ、カウンター席があるのが薄っすらわかる。
―――肉は悪くないが、酒があるかどうか……。
 これだけの肉メニューがあって、酒がなかったら切ない。
 少し悩んで、祥子はポケットからスマートフォンを出す。
 こういう時はすぐに調べるのだ。店に入る前に食べ物関係のアプリを見るなんて、食べ歩き小説の主人公や通のグルマンでは失格かもしれないが、祥子にとっては大切な一食一酒。通じゃないから、勘に頼ったりせず、文明の利器を使うのだ。
―――なるほど、夜は居酒屋風になるのか。ならば、昼でも、最悪、ビールぐらいはあるだろう。
 ランチに酒を出してくれる店かどうかはっきりしないけれど、ええいままよ、と扉を押して入ってしまう。
「いらっしゃい」
 正午前、開店そうそうの店は、祥子が一番乗りだった。
 カウンターにはマスター、その奥さんらしい中年女性と若い女性の三人。カウンター席に案内される。一番端の、よい場所に陣取った。
 壁のメニューを見る。
 肉系メニューが充実している店だが、鯖(さば)焼きなどの定食もちゃんとある。
「あの、この肉丼のお肉は」
「牛肉です。うちの看板メニューです」
 中年女性が明るく答えてくれた。
「じゃあ、それ。ご飯少な目にしてください」
 とりあえず食べ物だけ頼んで、様子を見ることにした。
 カウンター席が多いが、小さなテーブル席も二つある。
 どことなく、バーやスナック風の造り。以前はそういう店だったのかもしれない。
 テーブルの上に、プラスチックの小型のメニューを見つける。伊佐美、しきね、黒伊佐錦……芋焼酎の名前がずらりと並んでいた。
 よっしっ。祥子は思わず、テーブルの下で小さくガッツボーズをした。
 牛肉の丼ならビールも合うだろうが、そして、ビールも大好きだが、ここはがっつり肉に芋焼酎を合わせたい。
 伊佐美、しきねなどもいい。でも、せっかくなので冒険して、初めての味を試そうか。
「すみません。この蕃薯考(ばんしょこう)というの、ロックでいただけますか」
 蕃薯考の下には「江戸時代の文献を元に再現」と説明書きがあった。なんと、心惹かれるコピーか。 
「あ、ええ」
 ちょっと意外そうな顔をしながら、でも、すぐにうなずいて、用意してくれた。
 こういう時に「えー、お酒飲まれるんですかあ」なんて、聞き返されないのも、ランチ酒のお店を選ぶポイントである。
 大人なのだ。祥子は大人なのだから、昼から酒を飲むこともある、ということをわかってほしい。
「あら、ちょっと入れすぎちゃった」
 つぶやくママと目が合って、自然、微笑(ほほえ)み合う。
 ことん、とカウンターの上にガラスのグラスが置かれた。小ぶりのグラスに「入れすぎちゃった」、たっぷりの焼酎。透明感のある、角のとれた氷が使われていて、窓からの光にきらきら輝いている。
 ああ。
 口に含んで、祥子は思わずため息をついた。
 芋の香りが強い、骨太の焼酎である。どのあたりに江戸を感じさせるのかはわからなかったが、素朴と言えば素朴と言えるかもしれない。
「今、丼、できますからね」
 先に、味噌汁と小皿が運ばれてきた。皿には、ぽっちりの香の物、のりの佃煮、小さな冷や奴が盛られている。
―――これは、つまみにありがたい。
 薄味の佃煮をなめながら飲んでいるところに、肉丼がやってきた。
―――はわわわわ。
 声を出さないように、必死で抑えた。
 花開いている。薄切りの牛肉が丼の上に隙間なく敷き詰められて、薔薇の花のように花開いている。その上に、がりりと黒コショウがたっぷり。
 美しい。こんな美しい丼は初めて見た。
「ご飯、少な目にしておきましたからね」
 これなら、白米と一緒に食べるだけでなく、酒のつまみにも十分なりそうだ。そのぐらい、肉が多い。
 牛肉と言っても、ピンク色のローストビーフ丼的なものではない。薔薇色のタタキだった。
 まずは真ん中の黒コショウのたっぷりかかった、一切れを口に入れ、芋焼酎を飲む。
「ああ」
 今度はたまらず、声を漏らしてしまった。
―――褒(ほ)めてやりたい、ここに決めた数十分前の自分を、力いっぱい抱きしめたい。
 ローストビーフ丼、というのが巷(ちまた)でちょっとしたブームを作っていることを祥子は知っているし、それも嫌いではないけれど、かなりしっかりと噛(か)みごたえのあるタタキは、肉のうまさをダイレクトに感じさせる。そして、それがまた、焼酎によく合う。
―――これ、ビールでもいいけど、軽い酒だと受け止められなかったかもしれないなあ。
 祥子は次に、端の肉を注意深くよけた。肉の下にはキャベツの千切りが薄く敷いてある。それとご飯を箸でつまんで肉でくるんだ。
―――肉の味が薄い分、たれに味がついているんだ。
 その甘めのたれも肉とご飯に合っていい。 
 もう一口、肉でご飯をくるんで口に入れると、今度は焼酎を飲む。
―――これもまたよし。
 故丸谷才一氏は「生魚は酒よりご飯に合う」と書かれ、さらに作家で下戸(げこ)の林望氏がそれに同調する随筆も読んだことがある。確かに、魚を日本酒にダイレクトに合わせると少し生臭く感じる時もある。そして、確実に刺身の脂っこさと白いご飯の甘みというのはとても合うのだ。
 けれど、ここで食通でもない祥子もちょっと言いたい(あくまで主張できるほどではない。ちょっと言うだけだ)。生魚+ご飯+酒も合いませんか? 先輩方よ、と。この三位一体が口の中で出会う時、かなりの幸せを感じる。と言うと、当たり前だろ、寿司を見ろ、と言われるかもしれないが、それはまた別の話だと祥子は思う。あの酢飯は白ご飯とはまったく別のものだ。
 刺身だけではなく、肉などにもこの法則はかなり当てはまる。焼肉はビール単体ではなく、ご飯と一緒に口に入れた方が確実においしいのだ。
―――けれど、さすがに白ご飯だけでお酒を飲む勇気はないなあ。
 ご飯少な目にしたおかげで、酒と一緒でもお腹がふくれすぎないのも正解だった。
 その頃になると、ランチタイムのサラリーマンなどが次々と店に入ってきた。皆、ほとんど、肉丼を頼んでいる。
 彼らの闊達(かったつ)な食べっぷりを見るのは気持ちが良かった。
―――皆、一生懸命働いているんだな。それなのに、昼から酒を飲んでいる、自分。
 祥子の頭にゆっくりとアルコールがまわってくるのを感じた。

 しょうちゃんでよかった。
 昨夜、急に連絡が来て、新宿の託児所に迎えに行くと、二歳の横井華絵(よこいはなえ)ちゃんは眠そうにそう言った。
 二十四時間営業の託児所の先生たちも、もう祥子のことはよく知っていて「よかったねえ。華ちゃん、祥ちゃん迎えに来てくれたよ」と抱いている彼女に声をかけた。
「少し熱っぽくて、夕飯を戻しちゃったの。子供用の風邪シロップだけ飲ませてあります」
 抱きとめた華絵ちゃんは熱くて軽くて、そして、責任は重かった。
 華絵ちゃんの母親は近くのキャバクラに勤めている。シングルマザーだが、その事情を聞いたことはない。ただ、熱があったり、ぐずったり、どうしても託児所に預けられなくて、他の誰にも頼めない時だけ、祥子に、というか『中野お助け本舗』に連絡が来る。
 新宿から華絵を抱いてタクシーに乗り、目黒区と品川区の境目あたりにある高層マンションまで連れて帰るのだ。
「少しでも環境のいいところに住ませたくて」
 新宿区内ではなく、ここに引っ越したのだ、と母親は言っていた。
 どうせ、昼間だってほとんど外に出ることがないのだから、店の近くに住んで、少しでも早く帰れる方がいいのに、と祥子は心の中で思っても、口には出さなかった。
「華絵ちゃん、お腹空いてない?」
 タクシーの中で声をかけてみたけど、彼女は眠そうに首を振るばかり。
 祥子は何度か今夜と同じように横井家に行ったことがあって、そこにはほとんど食べ物が置かれていないことを知っている。何か食べさせるなら、家に帰る途中に買わなければならない。
 仕方なく、コンビニの前でタクシーを止めてもらい、ポカリスエットとみかんゼリー、バニラアイス、パックのおかゆを買った。
「お母さん、大丈夫ですか。もしも、必要だったら、自分、深夜もやってるスーパーとか八百屋とか知ってますから」
 タクシーに戻ると、運転手が心配そうに声をかけてきた。なんとなく事情を察したのだろう。しかし、さすがに、祥子が母親でないことはわからなかったようだ。
 高層マンションの上層階の部屋に行き、預かっている鍵を使ってドアを開けた。寝かしつけるまでもなく、子供部屋の小さなベッドに運んで横にさせてから、その部屋の片隅に、壁を背にして座った。
 椅子はない。読書用の持ち運びできる電灯を持ってきていた。どんな場所でも待っている間、本を読めるように。
「本を読んだり、スマホをいじったりするのはいい。だけど、絶対に寝るなよ。一晩中起きていることに、おれらの仕事の意味はあるんだから」
『中野お助け本舗』の社長であり、祥子の同級生の亀山太一(かめやまたいち)から最初に言われ、それからもいつもくり返し厳しく言われていることだった。
「じゃなかったら、誰がただ見守ってくれるだけの人間に少なくない金を支払う?」
 お助け本舗、といかにもなんでも屋のような名前をつけながら、自分の気に入らない仕事、最近は深夜の仕事以外はほとんど断ってしまう、勝手な社長だった。
「だいたいさ、営業時間深夜二十二時から朝五時って書いてあるんだから察しろよなあ」
 さらに、昼間の仕事どころか、本人が「見守り屋」と呼ぶ、深夜の見守り、付き添い業の他はほとんど仕事をしない。
「だったら、お助け本舗じゃなくて、見守り屋に名前を変えたらいいじゃないの」
 開業の時はどんなことの手伝いでもする「なんでも屋」をやるつもりで付けた名前だった。しかし、夜から朝まで「見守ります」という、思いつきの仕事を事業内容に加えたら、ぽつぽつと仕事が入るようになった。昼間は働くどころか、起きるのも嫌いな亀山はこれ幸いに「見守り業」だけを請け負うことになった。深夜、人の家に行くような仕事がすぐに受け入れられたのは、亀山家の威光が深く関係しているけれど、彼はそれを認めたくないらしい。
「しょうちゃん?」
 暗闇から、小さな声が聞こえてきた。
「華ちゃん?」
「しょうちゃん、いる?」
「ここにいるよ」
 すぐに華絵のベッドの横にひざまずいた。彼女はつぶらな瞳をこちらに向けている。
「よかった」
「なんか食べる? 飲む?」
 華絵は首を横に振ったが、祥子は彼女の体を少し抱き起して、ポカリスエットを飲ませてやった。
「これでよくなるよ。ちゃんと飲んだら汗をかいて、朝になっておしっこしたら、熱が下がる」
 華絵ちゃんは少し笑った。
「しょうちゃんはいいね」
「どうして」
 肩まで毛布を掛けてやりながら聞いた。
「いつも起きてるから。はなちゃんのママは寝ているよ。はなちゃんとたくじちょから帰ってからずっと」
「ママはお仕事で疲れているからね」
 安心したように、すぐに寝入ってしまった華絵の顔を見ながら、亀山がにやりと笑った顔が見えた気がして、祥子は首を振る。
 しばらくは目を覚まさないだろうと、そっとトイレに立った。
 最新式のTOTOのウォシュレットがついている大理石のトイレ、2LDKの家族世帯向けの間取り。華絵の母親が借りているのか買ったのかは知らないが、マンションの形態は賃貸用ではなく分譲だろう。
 玄関に大きな油絵が飾ってある。それも華絵の「知育」のために買った、小さい時からよいものを見せたいのだ、と自慢した。けれど、大型冷蔵庫はいつもからっぽで、「余計なものは置きたくない」と言う。
 ひどい母親だと言う人もいるかもしれない。見当違いな愚かな母親だとも。
 でも、祥子は、ちぐはぐだけど、必死の愛情をいつも感じた。だから、時にぶっきらぼうな態度を取られても、祥子は華絵の母親が好きだった。
 キャバクラは深夜に一度店を閉め、数時間休んでから、早朝また開店するらしい。その時間帯もまた、客がそこそこ入る、と聞いた。
 十時過ぎに帰宅した彼女と交代して帰ってきた。
「何か、買ってきましょうか。薬とか」
 一応、声をかけてみたが、疲れ切った母親は無表情で首を横に振った。渡された封筒には規定より少し多い、一万五千円が入っていた。それもまた、華絵ちゃんへの愛情だと思った。
「亀山さんに、お店の方にもまた来てよ、って言っておいて」
「わかりました」
 起きた華絵の顔を見ずに家を出た。いつも起きている、と言ってくれたのに。

 それが、こうして酒を飲みながらもずっと気になっていた。
―――仕方ないか、結局、身内でもないわけだし。
「何か、もう一杯、飲みますか」
 小さくため息をついたところに、店のママが声をかけてきた。
「じゃあ、今度は伊佐美を。また、ロックで」
 声のかけられ方が絶妙で、つい注文してしまう。昼間に酒を頼む時、他にたくさん客がいるとちょっと頼みにくく、こうして向こうからうながしてもらえると、結構、嬉しい。
―――二杯は飲みすぎかなあ。でも、ランチは私にとっては夕食みたいなものだし。
 残っていた酒を飲み干した。氷がとけていて、水に近くなっている。それもまた、祥子は嫌いでない。チェイサーのようにすっきりする。
―――伊佐美って、少し前までなかなか飲めない希少酒だったのに、わりに見かけるようになった。
 そう思っているうちに、新しいグラスが置かれる。薄くなってしまった酒も好きだが、やっぱり新しいグラスは心が躍る。
―――つまりまあ、酒ならなんでもいいわけだ。
 牛肉とご飯、そしてたれの一体感を楽しみながら、丼の中間地点は楽しんだ。最後に、五、六枚の牛肉のタタキが残る。
 それをつまみに伊佐美を飲んだ。

 店を出ると、亀山から電話がかかってきた。
「今日もありがとう、って横井さんから連絡が入った」
「お店にも寄ってほしいって、言ってたわよ」
「それはもう聞いた。犬森に今夜も来てほしいそうだ」
「そう」
「熱が下がらないから、予約しておきたいって。よろしく」
「まいど」
「あと、今週中に、一度事務所に顔出せよ」
「はいよ」
 電話が切れた。
―――今夜も華絵ちゃんに会えるのか。
 ちょっとほっとした。
 また、スマートフォンが震えた。亀山からまだ何かあるのか、と画面を見たら、メールが来ていた。
『ママ、今度、いつ会えるの?』
 娘からのメールだった。
 心がきゅっと震える。それには返事をせず、スマホをポケットに突っ込んで、一人暮らしの自宅に帰るため、武蔵小山(むさしこやま)駅に向かって歩き始めた。

この続きは11月発売予定の『ランチ酒』(四六判)でお読みになれます。 この原稿は連載時のものです。刊行に際し、著者が加筆・修正しております。

著者プロフィール

  • 原田ひ香

    1970年神奈川生まれ。大妻女子大学卒業。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞最優秀賞作受賞。07年「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。著者に『東京ロンダリング』『母親ウエスタン』『彼女の家計簿』『ミチルさん、今日も上機嫌』『三人屋』『虫たちの家』『失踪.com 東京ロンダリング』などがある。