物語がつまった宝箱
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  • 一 宇田巡(うためぐる) 巡査 2017年10月1日更新
〈東楽観寺(ひがしらっかんじ)前交番〉の入口脇にはコカ・コーラの真っ赤な木製のベンチがある。
 元々の赤色のペンキは全部はげ落ちて何度も塗り替えているので、コカ・コーラ、オリジナルの木製ベンチなのかどうかの証明はできないんだけど、行成(ゆきなり)は間違いなくあのロゴがあったのを覚えているって言ってる。
「そもそも何でコカ・コーラのベンチをここに置こうって思ったもんだかな」
 三月十一日土曜日のお昼。
 昨日の夜に降った雨が空気をきれいにしたみたいに、気持ち良く晴れ上がった青空の下。その青より濃い藍色の、おろしたばかりの作務衣(さむえ)を着た行成がベンチを雑巾で丁寧に掃除しながら言った。
 その脇で黙って立番(りつばん)をしていると、『お巡りさんは副住職さんが一生懸命お掃除をしているのに手伝わないのね』なんて通行人の皆さんに思われかねないので、僕も一緒になって丁寧にベンチを磨き上げている。
「いや、そもそも何で今頃ベンチの掃除を始めるんだよ」
 行成の一日はお勤めから始まる。
 お寺の、〈東楽観寺〉境内の掃き掃除からだ。家の周りの掃き掃除なんてしたことない人がほとんどだろうけど、実は細かい砂埃やらいろんなものが一日のうちに溜まっていく。僕も行成につきあって掃き掃除をしたことがあるけれど、本当にびっくりするぐらいの砂埃やいろんなものが集められるんだ。
〈東楽観寺前交番〉はお寺の入口のすぐ脇にあるから、当然のように行成は交番の周りも掃除していくんだけど、毎日毎朝砂埃がこんもりと溜まっていく。それだけベンチの上にも砂埃はあるってことはわかるけれど。
「よく歌なんかにあるじゃないか」
「何が」
「ずっと僕たちの日々を見つめてきたよー、とか、なんとか、とか」
 少し考えて言いたいことは理解できた。
「あるね。それがこのベンチだって話?」
「そう」
「誰の日々を見つめてきたって?」
「そりゃあ、お前」
 行成が雑巾をバケツの中に放り込んだ。
「あの子たちだろ」
 あの子たち。
「あおいちゃんと杏菜(あんな)ちゃんのこと?」
「その通り」
 うむ、と、行成はきれいになったベンチを見て満足そうに頷いて、それから空を見上げた。
「彼女たちは帰り道や休日によく二人でここに座って、アイスクリーム食べたりお喋りしたりしていたよな?」
「そうだね」
 交番の前に置いてあるベンチは公共のものだ。そこに誰が座ろうと何をしようと、公序良俗に反しなければオッケーだ。交番詰めの警察官はただそれを見守るだけ。
 あおいちゃんと杏菜ちゃんが二人揃ってそこにいるのは、もういつもの、毎日のあたりまえの光景になっていた。きっと絵心のある人なら、その様子は絵になると、描きたくなるんじゃないかといつも思っていた。
「天気は快晴。まさに彼女たちのこれから始まる新しい人生を祝福するような卒業式日和じゃないか!」
 それは確かにそうだけれども。
「その彼女たちの新しい門出の日に、こうして彼女たちが座るベンチを磨き上げてお祝いしてあげるんだよ」
「行成」
「何だ」
「お前、杏菜ちゃんと付き合い出してからキャラ変わったよな」
「そうか?」
 そうだよ。
「二十七にもなったお寺の跡取り息子が、女子高生の卒業式に何をそんなに浮かれているんだ」
「もう」
 行成が腕時計をちらっと見た。そのG-SHOCKは杏菜ちゃんがお前の誕生日にプレゼントしてくれたものだ。お年玉を貯めたお金とパン屋さんのアルバイトをして。本当に杏菜ちゃんは良い子だと思う。
「彼女たちはもう女子高生じゃないぜ」
 僕も自分の腕時計を見た。これは自分の初めての給料で買ったものだ。確かにもう十二時を回っている。
 彼女たちの卒業式は終わった頃だ。あと一時間二時間か、彼女たちが学舎に別れを告げて、卒業証書が入ったあの筒を抱えて〈東楽観寺商店街〉を小走りにまっすぐ進んで交番にやってきて、このベンチに座るんじゃないか。
 行成がニヤリと笑って、バケツを持った。
「俺が浮かれているのは、ようやくお前とあおいちゃんが堂々と付き合える日がやってきたのが嬉しいからだよ。この友情に涙しろ」
「勤務中に泣けないよ」
 笑いながら、後でな、と手を上げて行成が境内(けいだい)を歩いていった。苦笑いして手を振って、一応また交番の前で立番の姿勢を取った。
〈東楽観寺前交番〉では立番しなきゃならない規定はない。でも、真正面に見える〈東楽観寺商店街〉を行き交う人たちをこうして眺めているのは、楽しんじゃいけないけど、楽しい。その光景は町の人たちが何事もなく普段の生活を送れている証拠だ。それは、僕たち地域課の警察官が何より大事にしなきゃならないものだ。
 ここに配属されて二回目の春。
 いや、配属された年の春を入れると、三回目か。
〈東楽観寺〉の境内に桜の木があればもう少ししたら桜色に染まる景色を眺められたんだろうけど、生憎と一本もない。商店街の向こうにある小さな公園の桜の木が、ここから見える唯一の桜だ。
「いつもの春なんですが」
 西山(にしやま)さんの声が聞こえた。ゆっくりと中から出てきて交番の入口に立ってニコニコしている。
「いつでも春という季節は格別だと思うよ」
「そう思いますか」
 うん、と頷いた。
「新しい制服やスーツや、そういうものが街に溢(あふ)れ出すのが手に取るようにわかるからね。たとえこちらが毎年変わらない暮らしをしていても、どこか心が湧き立ってくるよ」
 そういうものかもしれない。僕も、私服刑事ではなくなって警察官の制服を着てから三回目の春になるわけだ。
「ところで、宇田巡査」
「はい」
 西山さんが、にっこり笑ったかと思うといきなりお腹を拳で突いた。
「え?」
 びっくりして腰を引いた。
「卒業したら、あおいちゃんと手を繋ごうが腕を組もうが自由だけど、彼女が未成年だってことは忘れないようにね」
「了解しております」
 今まで、彼女と付き合っている、なんて公言はしていない。けれども、高校を卒業したら堂々とデートするよ、と約束はしている。
 何せ彼女は、楢島(ならしま)あおいは高三のときにマンガ家という職業を手にして、今日からは自分でお金を稼いでいる社会人になるのだから。
 同じ社会人同士、デートする分には社会的にも道義的にも何の問題もない。
 西山さんと二人で交番の中に戻ろうとしたときに、西山さんがおや、と声を上げた。
「市川(いちかわ)の公太(こうた)くんだね」
「公太?」
 振り返ると、確かに公太が向こうからこっちへ向かって歩いてくるのが見えた。僕の姿も向こうから確認したんだろう。軽く手をこっちへ向かって上げた。
 七三に整えた髪の毛にグレーの細身のスーツ。カバンも持っているからどこか取引先へ向かう途中だろうかと思ったけれど、いや、と、思い直した。
 表情が、妙に暗い。
「よっす」
 声が聞こえる距離になってすぐにそう掛けてきた声にも力がない。公太は良い意味でも悪い意味でもいつもある種の元気オーラを身体中から漂わせているのに、それがまったくない。
「おはよう」
 応えると、僕と西山さんを見て、公太が溜息をついた。
「仕事か?」
「具合でも悪いのかい?」
 西山さんと二人で交互にそう言うと、いや、と、公太は首を横に振った。
「中に入っていいか?」
 交番を指差してから、ものすごく微妙な顔をした。
「被害届、のようなものを出しに来たんだけどよ」
「被害届ぇ?」
 西山さんと二人で顔を見合わせてしまった。

「俺さ、わかってると思うけど、まともな人間なんだよな」
 パイプ椅子に座った公太にお茶を出してあげると、サンキュ、と言って一口飲んでからそう続けた。思わず、まともかな? と一瞬考えてしまったけど、まともと言えば充分にまともだ。
 ここに配属された年に、小学校以来の再会をしたときの公太を考えれば、今は本当にまともな、いや立派な一社会人だ。
 一社会人どころか、司法試験の勉強をしながらも、売れっ子ミュージシャンへの道を一歩踏み出した弟の泰造(たいぞう)くんのために個人音楽事務所を立ち上げて、社長としてマネージメントを一手に引き受けているんだ。
 努力している。今日のスーツ姿だって、どこかへ事務所社長として打ち合わせにでも行く途中なんだろう。
 奥さんと子供のために一生懸命働くお父さんでもある。
「どこからどう見ても、今の君はまともな人間だよ」
 西山さんが微笑みながら頷いてそう言った。
「いやそういう意味じゃないんすよ西山さん」
 公太が言って、僕を見た。
「宇田(うた)よ」
「うん」
「お前、幽霊とか妖怪とか化け物とかの存在を信じるか?」
「え?」
 幽霊とか妖怪とか化け物?
「俺はさ、今までそういうものを見たとかいう話はさ、ネタとしてはそれなりに楽しむけど、実際に見たんだとか霊能力があるんだと言い出す奴はまともな奴じゃないって思ってたんだ」
 そうか、と、頷くしかない。
「僕は見たことないから、何とも言えないけどね」
 警察官はおおむね幽霊や妖怪より人間が怖いと思っている。
「俺さ」
 公太の眼がマジだった。
「昨日、幽霊だか妖怪だか化け物に会っちまったんだ」
 また西山さんと二人で顔を見合わせた。
「いやわかってるって。勤務中のお巡りさんにそんな与太話をしに来たんなら帰れってな。仕事帰りに飲み屋で聞いてやるとか言うんだろ」
「公太」
 僕を見た。
「それはひょっとして、幽霊だか化け物だか妖怪に出会ってしまってそこから逃げ出したんだけど、荷物をその場に落としてなくしてしまったから、被害届を出しに来たって話なのかい?」
 公太が背筋を伸ばした。
「よくわかったな? 何でだ?」
 これは。
「西山さん」
「うん」
 二人で顔を顰(しか)めてしまった。洒落にならなくなってきたかもしれない。
「三件目なんだ」
「三件目?」
「幽霊とか妖怪とか化け物に出会ってしまったっていう届けがね」
 この十日間で、三件目。
「マジでか」
「マジだ」
 出来事は、二件同じようなものが続いても偶然ということも考えられるし、経験上その可能性の方が大きい。でも、三件も同じような出来事が続くと、これは偶然では片づけられない。
 西山さんがボールペンを持って、ノートを広げた。正式な届けじゃなくて、交番にやってきた人の話を聞きとるためのメモだ。
「公太くん。詳しく話してごらん」
 西山さんに言われて公太が大きく頷いて、また一口お茶を飲んだ。
「昨日の夜だ」
「できるだけ時間は正確に」
「夜の十一時三十分過ぎだった」
 東京で取引先の会社に行き、仕事を終わらせてそのまま飲みに行ったと公太は続けた。
「新宿でな。可愛い姉ちゃんのいるところでさ」
「そこの店は話に関係あるの?」
「いやない」
「なかったら飛ばしていいよ。あと、そういうことやってるとまた美春(みはる)さんとケンカになるよ」
「ちょっとだよ。ちょっとの気晴らし」
 本当にちょっとの気晴らしだったらしくて、電車に乗ったのは十時前って続けた。そしてこっちに帰ってきて、酔いざましに歩いて家まで帰ろうとした。駅から公太の住んでいる飯島(いいじま)団地までは歩くと三十分以上掛かるけど。
「昨日はいい陽気の夜だったよね」
「そうなのさ。夜桜にはまだ早いけど、春の気配を感じながらのんびりと歩くかってさ」
 本当にのんびりと歩いて帰っていたらしい。
「で、高架下を抜けて行こうとしたんだよ」
「高架下か」
 飯島団地へ向かう途中の高架下は、街灯も何もなくて昼なお暗いって感じのところだ。夜はなおさら真っ暗で、若い女性に限らず歩かない方がいい場所のひとつ。ガラの悪い奴らやあぶない連中がたむろしていたりするから、僕たちも必ず一日一回はパトロールしている。環境が悪くなるので行政の方にきちんと整備をしてほしいと署から進言はしているけれど、少なくとも僕が来てからもきれいになったことは一度もない。
 でも、公太が歩く分には、平気だ。何せ元々はそのガラの悪い奴やあぶない連中とは顔なじみになるような商売だったんだから。
「そしたらさ、そこに出たんだよ」
 嫌そうな顔をして言った。
「化け物が?」
「そう」
「どんな姿だったんだ。お前、絵が得意だし例の記憶能力ではっきり思い出せるよね。描いてみて」
 おう、と言って渡した鉛筆を持ってノートに描き始めた。
 公太と泰造の市川兄弟は、記憶に関しては人より優れたものを持っている。自分の視野に入っていたものなら、その時点でははっきりとは見ていなくても、後からビデオを巻き戻して精査するみたいに思い出せるんだ。
 もっとも公太の場合は、その記憶保持時間は泰造くんよりかなり短いらしいんだけど。
「びっくりしてさ、そして何でだかはっきりとはしなかったんだよ。とにかく、白かった」
「その白っていうのは、身体の色ってこと?」
「身体だか何だかもはっきりしないんだ。高さは、高架の天井に届きそうだったから三メートル近いか。白い、なんかよくわかんねぇ獣のような姿なんだけど、その真ん中は血が噴き出してるみてぇに赤くてよ。あと、足がなかったようにも見えた」
 こんなんだ、と、公太が描いた絵は確かに獣のような、でも妖怪のような、とにかく形容しがたいもの。あえて似たものを探すと、ゲームに出てくるサボテンの化け物のような感じか。
「こいつが、音もなくすーっ、と現われて動きやがるんだよ。もう何がなんだかわかんなくて驚いてさ、手に持ってた荷物も放り出して逃げてさ。とにかく無我夢中で走って松宮通りから家に向かって走ったけど、途中でようやく落ち着いてさ。何だったんだありゃあってんで戻ったんだよ」
「それで、そいつはもう消えていた」
「そう」
「荷物も、なかった?」
「その通り」
「荷物は何だったんだい?」
 西山さんが訊いた。
「CDなんすよ。泰造の」
「泰造くんの? 新譜?」
「そうだ」
 新しい四曲入りのミニアルバムだそうで、見本盤が上がってきたのでそれを引き取ってきて、これから関係各方面へ郵送をする予定だったと。
「それを入れた紙袋が消えていたんだね?」
「そう」
「カバンは?」
「持って逃げたので平気だ」
 ひょい、と足下に置いていたカバンを手にして上げた。西山さんと、むぅ、と二人で考え込んでしまった。
「ほぼ、同じ状況ですね」
「そうだね」
「俺と同じものを見た奴が他に二人いるのか」
 それが、違うんだ。
「詳しくは教えられないけど、形も違うし、見た場所も違う。でも、化け物のようなものであることと、その場に置いてきた荷物が消えたのは共通している」
 これを、同一犯による犯行かもしれないと思わない警察官は、いない。
「じゃあ、本部に連絡して捜査をするのか」
「いや、まだできないんだ」
 あぁそうか、って公太は頷いた。
「まだ窃盗であるという証拠は何もないんだな? 俺の件も含めて他の二件も」
「そういうこと」
 さすが弁護士になろうと勉強しているだけある。
「まだ単に、公太が落とし物をしてなくしてしまったという届けがあった、だけになるんだ。化け物にしても、それが何であるか、本当に驚かせて荷物を奪うという目的だったのかを確定はできない」
「まったく別のことかもしれないんだもんな、化け物と、荷物がなくなったことは。だから警察は、そいつの遺失物届を受理するだけだと」
「そういうこと」
 意地の悪い警察官なら、ただの酔っ払いの勘違いだなんて言われてしまう。
「そういうことになるかぁ」
 公太が煙草を取り出そうとして、おっと、と気づいてやめた。
「でも、お前は俺を信じてくれるよな。酔っ払いがただの幻を見たなんて思わないよな」
「思わないね」
 西山さんも、うん、と頷いた。
 公太は、弟である泰造くんを大事にしている。その泰造くんのアルバムの見本盤を酔っぱらって紛失したからってこんな嘘を言うはずないし、ましてや警官で友人である僕を騙そうとするはずもない。
 化け物みたいなものは、本当に存在しているんだ。
「でも、現実問題、ゲームの世界じゃないんだから、そんなのはいないから」
「どっかの馬鹿が起こしている騒ぎ、だよな」
「そう考えるのが妥当だね」
 今までの二件は届けを出してきた人の話にどこかあやふやなところがあったので、単純に遺失物届を受けただけだったけど、今回は違う。
「公太、これから時間はあるかい?」
「あるぜ」
「西山さん、公太を連れて現場を見てきます。他の二件の現場も含めて」
 西山さんが頷いた。
「そうしておくれ」

(つづく) この続きは発売中の単行本『春は始まりのうた マイ・ディア・ポリスマン』でお読みになれます。

著者プロフィール

  • 小路幸也

    1961年北海道生まれ。広告制作会社を経て執筆活動へ。2002年『空を見上げる古い歌を口ずさむ』で第二十九回メフィスト賞を受賞しビュー。 「東京バンドワゴン」シリーズはベストセラーとなり、ドラマ化もされた。著書に『うたうひと』『さくらの丘で』『娘の結婚』『アシタノユキカタ』(以上すべて祥伝社刊)など多数。