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  • 一 宇田巡(うためぐる)巡査 2018年10月1日更新
〈東楽観寺(ひがしらっかんじ)前交番〉の入口脇には、コカ・コーラの真っ赤な木製のベンチがある。
 元々の赤色は全部はげ落ちてもう何度も塗り替えているので、コカ・コーラのオリジナルの木製ベンチなのかどうかの証明はできないんだけど、行成(ゆきなり)は間違いなく置かれたときにはあのロゴがあったのを覚えているそうだ。
「暑いわ!」
「そりゃ暑いだろう」
 その真っ赤なベンチには凶暴な陽射しが真上から降り注いで、いやぶつけられるように落ちてきている。
 そこに座っているんだから暑いのはあたりまえだ。いくらアイスキャンデーを食べたって一瞬で涼しさは消えるし、早く食べないとあっという間に溶けていく。
「副住職が小学校の男子みたいに、そこでアイスキャンデーを食べてるってのは体裁悪くないか」
「坊主は衆生(しゅじょう)に親しまれてなんぼだぞ。親しみやすくていいだろう」
「まぁ一理あるけど」
 ただでさえ行成は顔がカミソリのように切れ味鋭そうで怖いんだから。
「ここにあのパラソルを置くっていうのはどうだ。ビーチパラソル。日陰ができて涼しくなる」
「そこまでしてそこに座る必要はないだろう。境内(けいだい)には日陰が山ほどあるじゃないか」
「境内は妙に涼しくて夏は逆にイヤなんだよ。暑くてナンボの夏だろう」
 まぁ気持ちはわかる。
 交番の裏に、いや交番がお寺の正面入口にあるんだが、〈東楽観寺〉の境内には背の高い木がたくさんある。境内の三分の二ぐらいは日陰になっているんじゃないかってぐらいに、夏の葉が生い茂り、風が吹くと葉擦れの音が四方にゆったりと響き渡る。
 そして境内は夏真っ盛りのこの時期でも本当に涼しく感じる。あくまでも風が吹けば、という条件付きだけど。
「どうしてお寺って木がよく育つんだろうな」
「それはお前、神社仏閣ってのはその土地でいちばん地味(ちみ)がいいところを選んで建てたからだ」
「ちみ?」
「地味と書いてちみと読む。土の持つ力だな。養分か」
「作物がよく育つような肥沃(ひよく)な土地か」
 そういうことだ、って行成は頷きながら小さなクーラーボックスから今度はペットボトルの飲み物を取り出した。小学生の遠足じゃないんだからさ。
「飲むか?」
「仕事中だけど、いただくよ」
 誰のせいでこうやって炎天下に必要のない立番をしてると思うんだ。お前がそこに座って僕と話をしたがるからだ。西山さんは優しいし、そもそも〈東楽観寺〉と〈東楽観寺前交番〉は【特別地域事情要件】で深い繋(つな)がりがあるから、そこの副住職さんが話をしに来たらきちんと相手をしなきゃならない。
「今年もエアコンは入らないんだな」
「今年どころかたぶんずっと入らないよ」
〈東楽観寺前交番〉にはエアコンがないんだ。奥の休憩室にはあるからそこのを動かして、間にある扉は開けているんだけど、雨風が強くなければ常に交番の入口の扉は開けっ放しなんだから効きやしないんだ。余程のことがない限り、交番というハコに新規予算を上げることなどしない。
「もちろん物品が壊れれば、堂々と請求できるんだけどね」
「あるいは車が飛び込んでくるかだな」
 どちらも決して起こってほしくはないけれど、そういうことになってしまう。行成が、ふと何かに気づいたように頭を捻(ひね)った。
「お前もここに来て丸二年が過ぎて、三年目だよな」
「そうだね」
 三回目の夏だ。
「交番勤務ってのは、三年やそこらで異動があるってどこかで聞いたけどな。その辺はどうなんだ」
「それは」
 答えようがない。
「明確な決まりがあるわけじゃないからね」
「ないのか」
「ないんだよ。あくまでも三年という目安みたいなものはあるけど、それはどんな職種でもそうじゃないかな? 三年もやれば昇進したりどこかへ異動したりするものだろう」
「まぁ、そうかもな」
 交番勤務もそうだ。
「三年と言いながら、十年も同じところで勤務している人もいるし、希望を出せばそのままずっと交番勤務だってあり得るんだ」
 西山さんがそうだ。もう十年以上ここにいる。
「そういうものか。じゃあ、お前はどうするんだ。辞令が出なくたってこの先のことを考えたら、昇任試験を受けたり、自分の希望みたいなものは出せるんだろう?」
「あぁ、もちろん」
 試験は受けたんだけど。
「言ってなかったっけ」
「何を」
「昇任試験は春に受けたんだよ。巡査部長のね」
「マジか。受かったのか?」
「筆記試験はね」
 筆記か、って行成はイヤそうな顔をする。
「ってことはその後に実技とか面接とか続くってことか。警察ってのもそういうシステムになってるのか」
「システムもシステム。何せ公務員なんだからね」
「そうだったな」
 僕には比較検討ができないからわからないけど、巡査部長の昇任試験がいちばんの難関らしい。
「先輩方は皆そう言うね。巡査部長になってしまえば、後はそれに比べたら楽だったって」
 なるほどね、って行成が頷く。
「実技とか面接とかはいつなんだ」
「もうすぐだよ。そこで受かったら受かったで今度はいろんなものを受講しなきゃならなくて、それが終わったら配置転換、つまり異動もあるんだ」
「でもな」
 顔を顰(しか)めて、行成が後ろの交番の中で書類仕事をしている西山さんを気にして声を落とした。
「お前の場合は、その最終面接とかで落とされたりするんじゃないのか」
 うん。
「その可能性はある」
 僕も小声で答えた。西山さんは、春に監察の柳(やなぎ)と僕の間にあったことを、僕がとんでもない汚職の証拠を握っていたことをほとんど何も知らないし、知らない方がいいことだ。
 間違いなくトップに近い誰かは僕がどんな人物かを知っている。その人たちが僕の昇任を阻(はば)むことは確かにあるかもしれない。
「じゃあ、何で受けたんだ」
「しょうがないんだ。昇任試験を受ける資格のある者は受けろって上からせっつかれるんだよ。それぞれの所轄ごとにノルマみたいにさ」
「ノルマぁ? そんなものがあるのか?」
 あるんだなそれが。
「昇任試験を受けて昇任する人間が多ければ多いほど、そこは優秀な警察官揃いってことだからね。お偉いさんの間ではそれがひとつのステータスになったり、出世争いに響いたりするんだってさ」
 はぁあ、って行成が声を上げながら首を横に振った。
「やだやだ。どこの世界に行ってもそんなのがあるなんて」
 宗教の、仏教の世界でもそんなのがあるらしい。宗派や地域によっていろいろらしいんだけど、お坊さんになっても煩悩(ぼんのう)はなくならないものらしい。
 それにしても、暑い。
 セミが我が世の春と、いや夏なんだけど、鳴きまくっている。
「これから忙しくなるんだろう。お寺は」
「まさしくその通り」
 お盆のときには、檀家(だんか)を回ってお経を上げるというのは聞いて知っている。思えば実家でもお坊さんが来ていたような気もする。
「あれはまさしく修行だぞ」
「何件ぐらい回るんだ」
「俺は、大体一日五十軒だ」
 五十軒って。
「そんなに回れるものなのか? 全部の家でお経を上げるんだろう?」
「上げるんだよ。そして回るんだ。住職と檀家を半分ずつに分担して回るんだけど、年々その比率は俺の方に偏(かたよ)っている。親父は去年は二十軒だからな」
 二十軒でも大変な話だ。
「お経を上げるってのも、けっこう体力がいるよね。十分やそこらずっと歌うみたいなものだものね」
 そうなんだよ! って行成は力を込めて言った。
「そこんところをわかってもらえないんだよな。お経上げるだけで金貰えるんだからいいよなってさ」
「確かにね」
 一軒だけで済むなら楽だって思えるかもしれないけど、それを一日五十軒も繰り返すっていうのは。
「ミュージシャンが野外フェスでワンステージやるようなものだよねきっと」
 交番の電話が鳴った。
「はい〈東楽観寺前交番〉です」
 西山さんが電話を取ったので、中に戻った。行成もついてきた。交番への電話はもちろん本部からの事務的な電話連絡もあるけれども、事故や事件現場への出動要請や、町内からの通報の場合も多い。
「はい、そうですよ」
 西山さんが僕に目線を送った。それで、これは緊急性のあるものじゃないってわかったので少し肩の力を抜いた。
「なるほど。〈グレースタワー〉ですね? 本材(ほんざい)町の。奈々川(ななかわ)駅前の。はい、わかりますよ」
 それは川向こうの奈々川駅前にある大きなマンションの名前だ。この辺では唯一と言ってもいいぐらいの高層マンション。
「はい、確かにそうですね。はい、はい」
 西山さんが顰め面を見せた。明らかに市民からの電話だってことは西山さんの口調でわかったけれど、これは何かの苦情のパターンか。
「わかりました。もちろん、そうです。市民の安全を守るのが我々警察官の使命です。はい、そうであるならばそれは由々しき事態ですね。はい、わかりました。いずれにしましても、こちらで調べてお伝えしますので、ご連絡先を。あ、そうですか。いやもちろんですよ。はい、はい。情報をありがとうございました。はい、失礼します」
 受話器を置きながら、小さく息を吐く。
「匿名(とくめい)の通報ですか」
「そうだね」
 立ち上がって、壁に貼ってある奈々川市の地図の前に立った。
「本材町の〈グレースタワー〉、知ってるよね」
「もちろんです」
 地図の前に進んだら行成も近づいてきた。
「JR奈々川駅の向かい側ですよね」
「マンションとしては絶好の立地だよな。けっこう高いんだろう? 高さだけじゃなくて値段も」
 そう聞いている。
「そこのね、最上階にある部屋が、暴力団の事務所になっているんじゃないかっていう通報だったんだよ」
「暴力団の?」
「事務所?」
 行成と二人で交互に言ってしまった。
 西山さんが頷いた。
「何でもね、それらしい男たちが出入りしているのを最近になってよく見かけるらしいんだよ。明らかにそういう雰囲気の怪しい男たちだって」
「通報してきたのは同じマンションの住人でしょうかね」
 たぶんね、って西山さんが言う。
「でも、本人はそう言わなかったね。名前を訊(き)こうとしたら怒られたからね。自分に何かあったら責任を取れるのかって」
「いるよねー。そういう人」
 行成が唇を歪(ゆが)めてから続けた。
「それで、警察でちゃんと調べて何とかしろってことですか?」
「そうだね」
 確かに、本当に暴力団が事務所を勝手にマンションの一室に構えていたりしたなら、それを調べたり排除の方向性を示したりするのは警察の仕事ではあるんだけど。
「怪しい男たちというのは、具体的に何かあったんでしょうか」
「そこの部屋に住んでいるのは一人暮らしの女性らしいんだけど、今までそんなことはなかったはずなのに、急に危なそうな男たちが出入りするようになったってね」
「ってことは、まぁ通報者の言うことを信じるなら、その出入りを見られる人なんだろうから、明らかに同じフロアの住人ってことですよね」
 行成が言って、西山さんも頷いた。
「たぶんそうなんだろうけどね」
 そこはまぁ匿名にしたい気持ちはわかる。
 わかるけれども。
「大きな疑問がありますよね」
 そう言いながら振り返って電話を見た。
 西山さんも、行成も同じようにした。
「どうしてそれをここに伝えてきたんでしょうね?」
 本材町には、奈々川警察署がある。そこに電話すればいい。何故隣町であるここ、坂見町の交番にわざわざ電話を掛けてきたのか。
「そこなんだよねぇ」
 西山さんが腕を組んで頭を捻った。
「どうしてなんだろうねぇ? 考えられる可能性は?」
「ひとつは、110番ではなくて、直接警察へ連絡するときの電話番号として、ここの交番の番号を控えていたってことですよね」
「そうだね」
「あれじゃないのか」
 行成が、軽く手を打った。
「元々はこっちの坂見町のしかもこの交番の近くに住んでいた人じゃないのか。何らかの事情で〈グレースタワー〉のマンションを買って引っ越したって」
「その可能性はあるね。声に聞き覚えはないんですよね?」
 ないね、って西山さんは頷いた。
「中年の女性の声だったね。声の雰囲気から判断するなら三十代から四十代。目立つ特徴はなかったね」
 普通の中年のおばさんってことだ。
「穿(うが)った見方をするなら」
 あまり考えたくはないけれど。
「ここに電話をすることに何らかの目的があったってことも考えられますね」
「何だ、その目的って」
 それはわからない。
「でも、〈東楽観寺前交番〉の人間をそのマンションへ向かわせる、もしくは関わらせるってことが、目的なのかもしれない」
「いやでも」
 行成が軽く手を上げた。
「そうならない可能性もあるよな? ってかその方が高いよな。交番としては順序として奈々川警察署に連絡しなきゃならないだろ? じゃあこっちで調べるからってなるんじゃないのか?」
「そこは」
 西山さんを見たら、頷いた。
「初期段階では、こちらの裁量に任される部分もあるね。緊急性のない案件だから、まだ上に報告する状況までもない」
「じゃあ、行くのか」
「どうしますか」
 訊いたら西山さんが顔を顰めた。
「通報者に何らかの意図を感じるけど、それが本当に意図的なものなのかどうかも動いてみなきゃわからないね。とりあえず、〈グレースタワー〉の管理会社を調べて、会って話してみようか」
「そうしますか」
「会うのか」
 行成が言うので頷いた。
「近頃は電話で『警察ですが』って言っても誰も信用してくれないんだ」
「直接行ってもコスプレかって思われるんだろ」
 その通り。

(つづく)

このつづきは2019年10月刊行の単行本『夏服を着た恋人たち マイ・ディア・ポリスマン』でお読みになれます。

著者プロフィール

  • 小路幸也

    広告制作会社勤務などを経て、2002年『空を見上げる古い歌を口ずさむ』で第29回メフィスト賞を受賞し、小説家デビュー。13年「東京バンドワゴン」シリーズがテレビドラマ化される。著書に『うたうひと』『さくらの丘で』『娘の結婚』『アシタノユキカタ』「マイ・ディア・ポリスマン」シリーズ(以上小社刊)など多数。