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  • 一 宇田巡(うためぐる)巡査 (1) 2016年6月1日更新
「このベンチってさ、俺が子供の頃からあるんだけどさ」
「そうなのか」
〈東楽観(ひがしらっかん)寺前交番〉の入口脇にはコカ・コーラの真っ赤な木製のベンチがある。
 ただ、元々の赤色のペンキは全部はげ落ちて何度も塗り替えているので、本当にコカ・コーラのオリジナルの木製ベンチなのかどうかはわからない。
 そう言ったら行成(ゆきなり)は軽く首を横に振った。
「いや、間違いなくコカ・コーラだった。それは覚えてる」
「そうなんだ。それで?」
「いや、俺が言うのもあれだが、交番の前にこういうベンチが置いてあるって珍しいんじゃないのか? そもそも何で置いてあるんだろうな」
 何で置いてあるのかも、交番の入口脇にベンチを置いていいのかどうかも調べないとわからないけれど、ここ〈東楽観寺前交番〉はいろいろと【特別地域事情要件】がある交番なので、全部がそれで許されているんだろう。
「なんだその【特別地域事情要件】っていうのは」
 そのコカ・コーラのベンチに座ってまだ五月だっていうのにアイスキャンディーを美味しそうに食べているのは、交番の後ろに控える〈東楽観寺〉の副住職だ。
 つまり、住職の息子。
 大村行成。
 昔は〈ゆきなり〉って呼んでいたのに、今はお坊さんになったので〈ぎょうせい〉って訓読みするらしいけど、友達の間ではそのままでいいって言ってる。
「要するに、〈交番〉というものはその地域にしっかりと根付いていかなければならないんだから事情を鑑(かんが)みて柔軟に対応せよ、ってことかな」
「なるほど」
 行成が頷(うなず)く。その拍子につるつるに剃り上げてある頭が光る。お坊さんになったんだからもうちょっとふくよかな感じの方がそれらしいと思うんだけど、行成の坊主頭と顔つきはあまりにもシャープすぎてコワイと思う。スーツを着たらどこかの暴力団の若頭みたいだ。
「たぶんこのベンチは昔に誰かが厚意で交番に寄付したものであって、本来ベンチなんか邪魔だから置けないんだけど、そういう地域の皆さんのご厚意を無駄にはするなってことだな」
「そういうことだねきっと」
 行成はベンチに座ってアイスキャンディーを食べているけれど、僕はもちろんその脇で、入口前に両足を肩幅に広げて真っ直ぐ立っている。腕は何が起きてもすぐに動けるようにわりと楽にぶらぶらさせている。ずっと同じ姿勢だと固まってしまうからだ。
 周囲を見回しながら立番。時刻的にもそろそろ通勤通学の時間なので無駄じゃあない。
 この交番では基本的には立番はしなくてもいいんだけど、まさか一緒にベンチに座って無駄話するわけにもいかないし、朝の境内(けいだい)の掃除を終えて道路向かいのコンビニでアイスキャンディーを買ってここで食べながら僕と話すのが行成の憩(いこ)いのひとときだっていうから、放っておくのもかわいそうだし。
「そうか」
 頷きながら行成が言う。
「なんだい」
「ようやく今納得した。どうしてうちの境内に掘っ建て小屋があってそこに交番のお巡りさんが入れ替わり立ち替わり住むのかが。それも【特別地域事情要件】ってわけだな」
「え、今さらそれを納得するの?」
「お前が来るまではただそういうものなんだって思ってたからな。それが日常だったから疑問を持つこともなかった」
「あぁ、なるほど」
 小さい頃からそれが当たり前だったから疑問を持つこともなかったっていうのは、わかる。その当たり前の中に、突然今までの見知らぬ警察官とは違う、僕という小学校の同級生が警察官になって飛び込んできたから意識したってことか。
 そうなんだ。
 ここ〈東楽観寺前交番〉はその名の通りお寺である〈東楽観寺〉の入口のすぐ脇にある。
 まるでお寺を守る守衛の詰所みたいになっていてどうしてここに交番ができたのかは調べてない。でも、この坂見(さかみ)町は元々は門前町として栄えた町みたいで、お寺を起点にして〈東楽観寺商店街〉が始まっている。何となくその辺の経緯なのかなって思う。
 そして、ここに越してくるにあたって住居を用意する必要はなかった。交番のすぐ裏側、くっつくようにしてお寺の境内にまるで六角堂のようなこぢんまりした建物があって、そこが交番勤務の独身警察官の住居としてあてがわれるんだ。
 内部は二階建てで一階が居間と台所とお風呂とトイレ。二階には八畳間と四畳半の二間の和室。窓を開ければそこはさほど大きくないけれど木々が立ち並んだ緑豊かなお寺の境内で、野鳥の声やリスの可愛い姿で毎日の激務の疲れを癒すことができる。
 おまけに僕は〈東楽観寺〉の跡取り息子である行成の小学校のときの同級生で、十何年ぶりで再会した行成のお母さんは懐かしがって喜んでくれて、毎朝一緒にご飯を食べなさいと言ってくれるので食費がすごい助かっている。
「二ヶ月ぐらい経ったか?」
 アイスキャンディーを食べ終わったあとの棒を、脇に置いてあるゴミ箱に入れた。このゴミ箱もたぶん【特別地域事情要件】で、交番の持ち物ではない。〈東楽観寺〉で用意してあるものだ。
「そうだね」
 僕がここに配属されて二ヶ月ぐらいが過ぎた。
「慣れたよな」
「慣れたね」
 意外にすぐに溶け込めたのは行成や、行成のお父さんである住職の成寛(じょうかん)さんやお母さんがいてくれたお蔭であると思うから、感謝してる。
「あれだな」
「なんだい」
「俺は寺の息子で僧侶のくせに、これまで人の縁なんてものをしみじみ感じるなんてことはなかったんだけどさ」
「それは、僕らがまだ若いからだろう」
「それもあるな。でも、まさかお前がここに来るなんてさ、縁以外の何ものでもないだろ」
「そうだね」
 僕と行成が同じ学校で同級生だったのは、小学校の三年間だけだ。三年生の冬休みに親の仕事の都合でこの町から引っ越してしまって、それっきり何の交流もなかったんだ。
 でも、その三年間に僕と行成の間にはある印象深い出来事がいくつか重なったことがあって、それで行成のお母さんも僕のことをしっかり覚えていた。覚えていたというか、おばさんによると忘れたことはなかったそうだ。
「行成」
「なに」
「仕事、じゃなくて御勤めに戻らなくていいのか。僕も暇だったらずっと喋っていてもいいんだけど生憎(あいにく)そうでもないから」
「それがな、巡」
「うん」
 行成が真正面を眺めながら言う。
「右側の電信柱の陰で女子高生がちらちらとこっちを見てるんだけど、あれが気になってさ」
 そうなんだ。
「実は僕も気になってたんだ」
 出勤や通学の時間。それのピークにはまだ少し早いかもしれないけど、女子高生が道にいても不思議じゃない。
 でも、明らかに隠れている。
 セーラー服の女の子が、たぶん本材(ほんざい)町にある榛(はしばみ)高校の生徒さんが、五メートルほど離れた電柱の陰に隠れてこっちの様子を窺(うかが)っているんだ。
 五分ぐらい前から。
「わかってたんだけど、行成の知ってる子?」
「いや、檀家の子だったら大体わかるんだけど知らない。でも確かに見覚えはあるな」
「カワイイ子は皆覚えてるんだろう」
「その通りだよお巡りさん。ここを通学路にしてる子だろうから少なくとも町内の子なんだろうけど、ああやってるのは危ないヤバい子かな。不思議ちゃんかな。放っておいて関わらない方がいいか?」
「いや、お坊さんがそんなこと言ってたら駄目じゃないか。どんな人でも受け入れて話を聞き説法するのがお坊さんだろう」
「警察官だってそうだろう」
「そう、だね」
 市民の安全を守り、犯罪を防止し、あらゆる事故を未然に防ぐ努力をしなければならないのが、地域課地域対策係の警察官の役目だ。そうやって考えるとお坊さんと警察官って似たところがあるかもしれない。
「声を掛けてみようか」
 一歩前に出て横目で確認した。また隠れてしまった。
 もう一歩前に出た。これで姿がはっきり見えた。セーラー服の女の子がこっちをちらっと見たところで、眼がバッチリ合ったのですかさず笑いかける。
「おはよう!」
 努めて快活に、優しい笑顔で。
 これにはちょっと自信はあるんだ。何たって僕は二十五歳になったっていうのに、私服だと高校生に間違えられるほどの童顔なんだ。お蔭で子供たちには絶大な人気がある、と、思ってる。
 女の子が、ぴょん、と跳び上がるように背筋を伸ばした。伸ばしたと思った瞬間にこっちに走り出したと思ったらもうすぐ傍(そば)に来ていて、その瞬発力とスピードに思わず僕は身構えてしまったし、行成はベンチから跳び上がるようにして立ち上がった。
「おはようございます!」
 すごい勢いでお辞儀をする。長い黒髪がまるで生き物のようにうねった。
「はい、おはようございます」
 行成もちょっと動揺したのを隠してお坊さんらしく手を合わせて挨拶を返す。その様子に女の子も慌てたように手を合わせた。
「何か交番に用かな? 落とし物とかあった?」
「それともお寺に用事かな?」
 二人でにこやかに笑って交互に言う。僕の笑顔は二十五の男にしてはカワイイと自負してるけど行成のはコワイと思う。
 交番には入り難いという声ももちろんある。それは理解できる。僕も警察官になる前は何にも悪いことをしていなくたって、警察官がそこにいるだけでついつい緊張したりした。
「いえ、お寺には用事はありません」
 さっき行成はカワイイと言ったけど、カワイイよりはきれいと言った方がいい顔立ちをした子だ。立ち姿も背筋がすごくしゃんとしている。これは何かそういうスポーツをやっていたのかなって思わせる女の子だ。
 警察官は、まずその人を観察する。そういう訓練をして眼を養う。観察することによって、その人物がどういう人物なのかを推察する。いい警察官っていうのは、一瞬でその人のある程度のことを見抜いてしまうものなんだ。
 自慢じゃないけど、年の割には観察眼には長(た)けていると思ってる。それが大卒で警察官になった理由でもあるんだけど。
 この子は、その凛(りん)とした姿そのままに、強い女の子だ。目的のためにきちんと確実に自分の力で進んでいくような女の子。
「実は、写真を撮らせていただけないでしょうかと思ったのですがいかがでしょうか」
 丁寧ではあるけどちょっと変な言葉遣いなのは緊張しているからかもしれない。
「写真?」
 訊いたらもう彼女はデジタルカメラを構えていた。
 この子、動きがいちいち素早い。そしてスマホじゃなくてちゃんとしたデジタルカメラだったんだけど、さっきは確かに持っていなかった。どこから出したんだ?
「写真って、俺?」
 作務衣(さむえ)、と、本人は言ってるけどどう見ても古くなった剣道着にしか見えない着物を着ている行成が笑顔で訊いた。
「いえ、副住職さんではなく、お巡りさんの方で」
「僕の」
 写真を撮られてはいけないという規則はないけれど。
「別に構わないけど、どうして僕の写真を?」
 彼女は、ちらっと辺りを見回した。それから、半歩近寄ってきて小声になった。きれいな眼をしている。まるで小さな子供の瞳みたいに透明な感じだ。
「実は私、マンガを描いているんです」
「マンガ」
 なるほど。マンガ家志望の女の子なのか。それはちょっと意外だった。受ける印象からはあまりそういうイメージはない。
「それで、ですね。交番のお巡りさんを主人公にしたマンガを描きたいと思いつきまして」
「お巡りさん」
「その資料として、あの、制服を着ている立ち姿などを写真に撮らせていただくと非常に助かるのですが」
 資料写真か。そうか。僕も若者だしマンガだってそれなりに読む。マンガ家さんがどうやってマンガを描いているかも、資料写真がどんなに重要かってこともなんとなく一応は知ってる。
 後ろの交番の中で西山さんが立ち上がって入口に立ったのが気配でわかったので、振り向いた。
「構わないでしょうか西山さん」
「いいんじゃないんですかねぇ。写真ぐらい、いくら撮らせてやっても」
 西山さんが笑顔で頷いた。もうここに十年勤務しているベテランの巡査部長。交番詰めを十年っていうのは、とんでもない田舎の駐在所ならいざ知らず、この辺ではありえないぐらいにかなり珍しいって話だ。
「あ、でもあれですよ。SNSとかで変なことには使わないって約束してくださいね」
「ありがとうございます!」
 女の子が、また思いっきり頭を下げて髪の毛が盛大に揺れる。
「それじゃ、いいですか?」
「どうぞ」
 どうぞと言って写真を撮られるっていうのも、少し恥ずかしい。どういう顔をして撮られればいいものか。
 シャッター音が響く。
「何枚も撮っていいですか?」
「いいですよ。学校に遅刻しないようなら」
「じゃ、すみません横からも後ろからも撮りますので、ちょっとその場で動かないでもらえますか」
「はいはい」
 西山さんがそれを見てニコニコしながら交番の中へ引っ込んでいった。地域住民との触れ合いも、交番勤務の警察官の重要な仕事だ。行成はまたベンチに座ってにやにやしながら見てる。
 女の子は。
 そうだ。
「別に詮索するわけじゃないんだけどね」
 女の子に言うと、カメラのディスプレイから眼を離して僕を見る。
「はい」
「榛高校の子だね?」
「そうです。あ、ごめんなさい。名前は楢島(ならしま)あおいと言います。あおいはひらがなです。二年生です」
 楢島あおい。
 楢島さんという名字は珍しい。僕の記憶が確かなら、ここから自転車で五分ぐらい、夕陽公園の付近、弥生(やよい)二丁目にそんな名字のお宅があったはずだ。そこの子供だろうか。
「住所は弥生二丁目?」
 訊いたら、シャッターをバシバシ切りながらあおいちゃんは頷いた。
「そうです! 夕陽公園の向かい側です。あ、すみませんお巡りさん」
「そいつの名前はね」
 行成だ。
「宇田巡っていうんだよ。巡は巡査の巡だから、宇田巡巡査って書くとジュンジュンになるんだ」
 余計なことは言わなくていいから。
「ジュンジュン?」
 ほら、あおいちゃんの眼が何かキラッと光ってしまったじゃないか。
「じゃあ、ジュンジュンって呼んでいいですか?」
 どうして女子高生って皆いきなりフレンドリーになっちゃうんだろう。
「そんな呼び名で呼ばれたことはないので勘弁してください。普通に〈宇田〉でお願いします」
「うたのお巡りさん」
「いやそれもちょっと」
 子供番組じゃないんだから。
「うたさん、ちょっとしゃがんでもらっていいですか」
「はいはい」
 しゃがむ。何で僕は朝っぱらから女子高生の言いなりになっているんだろう。シャッター音がたくさん響く。
「あおい」
 また女の子の声。気づかなかったけど顔を上げるとお寺の入口のところに女子高生が立っていた。境内を裏から抜けてきた子かな。
「おはよう杏菜」
「おはよう。お巡りさんひざまずかせて朝からそういうプレイ?」
 プレイって。
「写真撮らせてもらってるんだよ。ちょっと待ってて」
 シャッター音。
 あんなちゃんと呼んだね。きっと同級生の女の子なんだろう。そして境内を抜けてきたってことはこの子も坂見町の子なんだな。
 あおいちゃんとは正反対のショートカットの女の子。日焼けした肌が健康そうだから、部活はきっと外で行う競技の運動部だ。この子もあおいちゃんに負けず劣らずスラリとした肢体だ。涼しげな眼が印象的だけど、その眼で僕を見ている。
「お巡りさん」
 あんなちゃんが呼んだ。
「はい」
 まだ僕はしゃがんだままなので、あんなちゃんにも見下ろされている。女子高生二人に見下ろされたのはたぶん人生で初だと思う。
「先日は父がお世話になりました」
 ぺこん、と頭を下げた。
「お父さん?」
「はい。タイヤの空気を抜かれた件で」
 あぁ。
「確か、鈴元さん」
「そうです。娘です」
 そうだったのか。〈鈴元整備〉の娘さんだったのか。それなら確か、杏菜ちゃんだ。菜っ葉の菜、と、お父さんが言っていたので覚えている。
 二週間ぐらい前だった。〈鈴元整備〉という小さな車の整備工場の敷地内の車のタイヤが、三台分パンクさせられていた。明らかに尖った錐(きり)のようなもので刺されていた。嫌がらせか何かということで届け出があったんだけど、その後に解決したと連絡があった。近所の子供の悪戯(いたずら)だったことが判明して、それは厳重注意ってことで処理したんだ。

この続きは2017年7月発売予定『マイ・ディア・ポリスマン』(四六判)にてお読みになれます。

著者プロフィール

  • 小路幸也

    一九六一年北海道生まれ。広告制作会社を経て執筆活動へ。二〇〇二年『空を見上げる古い歌を口ずさむ』で第二十九回メフィスト賞を受賞しビュー。 「東京バンドワゴン」シリーズはベストセラーとなり、ドラマ化もされた。著書に『うたうひと』『さくらの丘で』『娘の結婚』(すべて祥伝社文庫)など多数。