中田永一
4 駅前の交差点には傘をさした人が行き交っていた。車の交通量もおおく、母は緊張しながらハンドルをにぎっている。この時期はまだ日没の時間ではないけれど、雨雲が空をおおっているせいでうす暗い。両親には、急遽、駅前で友だちに会わなくてはならなくなったと説明する。時刻は午後六時を過ぎていた。駅ビルの入り口付近で車を一時停止してもらい、後部座席から外に出る。 「これを持って行きなさい」 助手席の父が傘をかしてくれた。 「あんまりおそくならないでね」 母は車を発進させる。テールランプが遠ざかって他の車にまぎれこむ。 私は駅ビルに入って蓮見恵一郎をさがした。彼が呼び出された詳細な場所はわかっていなかったので、あるきまわって見つける以外に方法はない。駅ビルは三階建てで、一階はスーパー、二階と三階には雑貨店や服飾店がならんでいた。しかし冷静になってみれば、それほど深刻なことだろうか。はしるのをやめて、あるきながら彼の姿をさがす。たしかに蓮見恵一郎は何者かに呼び出されたようだ。だれが何のためにそんなことをするのかわからないけれど、もしかしたら、ちょっとしたいたずらの可能性もある。彼を呼び出しておいて、実際はだれもそこにあらわれず、蓮見恵一郎が待ちぼうけをくらうというような種類のいたずらだ。それだったら、まあ、急ぐほどのことではないかな。 階段は人通りがすくなく、いつもひっそりとしている。フロア移動には、ほとんどの場合、エスカレーターが使用されるからだ。二階をさがし終えて奥まった位置にある階段をのぞきこんだところ、見下ろした先にある踊り場に、平均よりもちいさな体格の少年がいた。私服姿の蓮見恵一郎だ。しかし彼はひとりではなかった。三名のヤンキーに囲まれている。ヤンキーというレッテルを貼ってしまいもうしわけないが、そのように分類するのがもっとものぞましいとおもえるスタイルの少年たちだ。いわゆる不良である。染めている髪や、派手派手しい色合いの服装、周囲を威嚇するような立ち姿など、ヤンキーという言葉で画像検索したときに出てきそうな三名だった。彼らは蓮見恵一郎を壁際に追い詰めている。はたしてどういう状況なのかわからないけれど、険悪な雰囲気だ。 「蓮見くん!」 私は二階のフロアから声をかけた。蓮見恵一郎は私を見上げて、顔をくもらせた。見られたくない場面に私がやってきてしまったというような、気まずい表情だった。 「星野さん……」 「なにか、トラブル?」 「うん、ちょっとね。今、財布をとられそうになっているところなんだ」 そんなに冷静に今の状況を説明できるなんて余裕あるんじゃないのかとおもったけれど、彼の額には汗がうかんでいる。ヤンキーたちの背丈は高く、彼らに囲まれて壁を背にしている蓮見恵一郎は、まるで三匹の猫に追い詰められたちいさなねずみのようだ。 それよりも気になることがあった。蓮見恵一郎が私の名前を口にしたとき、ヤンキーたちがおたがいに視線をかわして、どうすべきかを思案するような表情を見せたのである。彼らは私の名前に聞き覚えがあるのだろうか。彼らは偶然にここを通りかかったのではない。私の友人を名乗って蓮見恵一郎を呼び出した人物と関わり合いがあるのでは? 結論から言うと、私の推測はあたっていた。後に判明したところによれば、彼らは雇われていた可能性が高い。三名のヤンキーたちは、この時間、この場所に蓮見恵一郎という少年が来ることをしらされており、彼に難癖をつけてひどい目にあわせることを依頼されていたようだ。「藤川だよ。きっとあいつが仕組んだの」。友人Aがそんなメールをくれた。しかし藤川が蓮見恵一郎に敵意を抱く理由が私にはさっぱりおもいつかない。 「あのう……」 私はおそるおそる、階段の踊り場に声をかけた。ともかくこのヤンキー包囲網を抜けださなくてはいけない。彼らが私をふりかえる。その隙に蓮見恵一郎がそっと壁沿いに移動して彼らのそばをはなれようとした。 「待てよ。話がおわってねえだろ」 ヤンキーのひとりが蓮見恵一郎の肩をつかんだ。彼が痛そうな顔をする。彼の首に腕をひっかけて、ヤンキーは私に言った。 「こいつに話があるんだ。おまえはどっかいってろ」 「やめてください」 蓮見恵一郎がその腕をふりほどく。彼の反抗的な態度がゆるせなかったらしく、ヤンキーの一人が蓮見恵一郎の胸ぐらをつかんで威嚇してみせた。私はこわくなって一刻も早くその場を去りたくなってしまう。ふと横を見ると、壁に火災警報器が設置されていたので、それを押した。 ボタンが押しこまれた瞬間、けたたましい警報音が店内に鳴り響く。 「今のうち!」 私がさけぶと、蓮見恵一郎はうなずいて階段を駆けあがりはじめる。ヤンキーたちは警報器の音に気をとられていたが、すぐさま蓮見恵一郎に追いすがろうとする。念力をつかうことにためらいがあった。防犯カメラに映ってしまうかもしれない。しかしこの状況では仕方ない。私は透明な腕をのばして、先頭にいたヤンキーの足を引っかけた。がくん、とよろけて階段でつんのめる。先頭の一人がそうなったので、後続のふたりは通せんぼされた状態になり、すぐには追ってこられない。 私たちは二階のフロアを駆け抜けた。ちいさな店がひしめいている。警報器の音が鳴り響いていたので、客や店員が通路で立ち止まり、何事かと周囲を見回していた。はしりながら背後を確認すると、三名のヤンキーが追いかけてくるのがわかった。通りすぎざまに服飾店のハンガーラックを念力でうごかして彼らの前にひっぱり出す。店の人にもうしわけないけれど。ヤンキーたちは、突然に目の前にすべり出てきたハンガーラックを避けきれず、ぶつかってなぎたおしてしまう。今のうちにと、距離をかせぐ。 人をかきわけながらエスカレーターを駆け下りた。一階のスーパーを私たちは移動する。人混みではぐれないように、いつのまにか手をつないでいた。棚の間にかくれて様子をうかがっていると、ヤンキーたちも一階にやってきて手分けして私たちをさがし始める。ずいぶん怒っている様子だ。外に逃げようとしたが、途中で見つかってしまう。 「いたぞ!」 一人が私たちにせまってくる。そいつのすぐそばに特売の缶詰が積み上がっていた。私は透明な腕をのばして、缶詰をおもいきり突き飛ばす。いきなり横方向にふっとんできたいくつかの缶詰がそいつの側頭部に命中した。他の缶詰もたおれて、痛がっているそいつの足下に、騒々しくちらばった。 別方向からやってくる二人には、ちかくのカートをすべらせてぶつけてやる。ひとつを避けても、また別のカートがすべってくる。四方八方から飛んでくる隕石みたいに、彼らの周囲に店のカートがあつまって立ち往生させる。スーパーの客や店員は、けたたましい警報器の音や、ヤンキーたちの怒声や、缶詰のたおれる音や、ひとりでに進むカートなどにとまどっている。 スーパーの奥から私たちは駅ビルの通路に出た。駅の改札がある方と反対側なので、利用者のすくない出入り口だ。重たいガラス製の扉があり、私と蓮見恵一郎はそこを抜けてようやく外に出る。雨粒が空から降り注いでいた。私はずっと片方の手に傘を握りしめていたのだが、その手がふるえて傘をうまくさせない。ヤンキーの足を引っかけたときの感触が手にのこっていた。苦労して傘をひろげると、私と蓮見恵一郎は肩をよせあってその中に入る。 背後から声が聞こえた。三人が全速力で駅ビルの通路をはしってくる。ガラス扉が開きっぱなしになっていた。ロケットみたいにそこから飛び出して私たちにつかみかかるつもりだったのだろう。しかし彼らが外に出る寸前、私は透明な腕をのばし、分厚いガラス扉を閉ざした。ガラス扉は頑丈だった。ヤンキーたちがおもいきりぶつかっても壊れなかったのだから。 彼らが痛みでうめいているうちに、私たちは人通りのおおい交差点に移動する。傘をさした通行人にまぎれて、ようやく安堵の息を吐き出す。街灯の白い光が濡れた路面に反射していた。父が貸してくれた黒色の紳士傘に、ぱちぱちと花火の音みたいに雨粒が降り注ぐ。蓮見恵一郎は、不思議そうに自分の手のひらを見つめていた。さきほどまで、私とつないでいた方の手だ。彼の見ている前で派手にやらかしてしまった。念力のことをおしえるわけにはいかないので、また、幽霊がやったことにしてみようか。だけど彼は言った。 「幽霊の正体、星野さんだったの? 避難訓練の日、階段でたおれそうになった僕の体を、ひっぱってくれたのは幽霊じゃない。星野さんだったんだね。だって、手の感触がいっしょだ」 友人Aにメールで相談してみたところ、黒幕は仲良しグループのイケメン藤川ではないか、との推測がなされる。 藤川は顔が広く他校のヤンキーともつきあいがある。そして、私に気があって蓮見恵一郎に嫉妬しているらしい(と友人Aは少女漫画じみた妄想をしている)。藤川はしりあいの女の子にでもたのんで私の友人をよそおってもらい、蓮見恵一郎の実家に電話をかけて呼び出したのではないか。彼を痛めつけて胸をスカッとさせるために。だけどそのことを藤川に問いただすのは得策ではない、とも友人Aはメールに書いていた。クラスの仲良しグループにおいて藤川の影響力は大きかった。彼はいつも場の中心だったし、敵対すればもうグループ内にはいられないだろう。 だけど私は友人Aほど理性的ではない。翌朝、教室で藤川の顔を見つけると、さっそく私は彼のところに駆け寄って、そばにあった椅子を踏み台にジャンプし、彼の頭を手のひらではたいたのである。すでに登校していた友人Aは唖然とした表情で私の行動を見ていた。 「何すんだよ!」 藤川は頭をさすりながら私を見下ろす。 「あんたがやったの?」 「何のことだ?」 「昨日のこと!」 「しらねーよ。何なんだよ。わかんねーよ」 しらないふりをしているだけなのか、それともほんとうにしらないのか、判断できなかった。昨日のことを説明してやると、藤川は腕組みをして目をつむり、ぐるりと首をまわす。それから、友人Aに目をむけた。 「おまえの仕業だろ」 藤川に名指しされて、友人Aは虚をつかれたような顔になる。私がおどろいているところに、蓮見恵一郎が登校してきた。彼は私のほうをちらりと見て、すこしだけ会釈して、自分の席へとむかう。 「蓮見くん」 彼に声をかけたのは藤川だった。 「財布、見せてくれないかな」 「……なんで?」 蓮見恵一郎は怪訝そうな様子である。おそらくこの二人はほとんど会話もしたことがないはずだ。警戒するのは当然だろう。藤川は言った。 「きみは星野から十円玉をあずかっていただろう。こっくりさんをやったときの十円玉だ。その日の話、星野から聞いてるんだよ。そのときの十円玉を見せてくれないか。確認したいことがあるんだ」 蓮見恵一郎は私の方をちらりと見る。私がうなずいたのを確認して、財布から例の十円硬貨を取り出して藤川に差し出す。指先につまんで藤川は硬貨の裏表を子細にながめる。友人Aをふりかえって彼は言った。 「おまえがほしかったのはこれだろ。ヤンキーにおそわせて、財布ごと盗む気だったんだよな」 私がお守りにしていた十円硬貨には刻印ミスがある。藤川はその硬貨の存在に気付いていたらしい。以前にゲームセンターで私の財布をひろったときのことだ。勝手に自販機でジュースを買おうとして、その硬貨を偶然に見ていたという。 「そのときは気にしなかったんだけどよ、この前、テレビでやってたんだ。そういうミスコインはプレミアがついてるって」 私の十円硬貨には、表面に刻印されているはずの平等院鳳凰堂が見当たらなかった。そのかわりに【10】という数字と製造年が鏡像になって刻印されている。藤川によればこれは陰打ちと呼ばれるミスコインらしい。十円硬貨を製造する際、ひとつ前の硬貨がプレス機からはがれずに、くっついた状態で次の硬貨をプレスしてしまったのだ。このようなミスコインは愛好家の間で数十万円で取引されているという。私はおどろいた。 友人Aはその価値に気付いていたのではないかと藤川は言った。私が財布をなくした際、彼女だけが親身になってさがしていたのはそのためではないのかと。 「いつか隙をみて自分のものにしようとたくらんでたんじゃねえの?」 しかし、私がその十円硬貨でこっくりさんをおこない、蓮見恵一郎に貸したことによって、狙いは彼の財布へとむけられたというわけだ。 「ふうん、でも、証拠は?」 友人Aがあきれたように言った。 「ねえよ、そんなもんは。全部、俺の想像だ」 「想像力、たくましいんだね」 藤川は肩をすくめて、世にもめずらしい十円硬貨を蓮見恵一郎に返す。それから私をふりかえり、頭をなでくりまわした。 「さっき俺の頭をはたいたバツだ!」 「やめろって!」 私におこられて、イケメン藤川は他の男子のところへ逃げていった。そしてまた普段通りに、グループでたのしそうに盛り上がる。友人Aもいっしょだ。気の利いた言葉で会話のアシストをおこなう。おしゃべりの最中、彼女は私をちらりと見て微笑をうかべた。背筋がひやりとして、寒気がする。 「今、何の話してたの?」 蓮見恵一郎が首をかしげていた。財布に十円硬貨をもどすところだった。私は頭を整理して、ひとつの真実にたどりつく。 「蓮見くん! その十円、か、返せー!」 放課後に私は蓮見家をおとずれた。玄関は引き戸タイプで、土間に靴がならんでいる。私は緊張しながら彼のお母さんと対面した。お母さんは繊細な雰囲気の美人だった。色が白く、長いまつげの影が目元に落ちている。 「おかえりなさい、恵一郎」 「ただいま、お母さん」 息子の手をとり彼女は言った。まるでお芝居のひと場面のようだ。蓮見恵一郎は私を紹介してくれる。 「こちらは、星野泉さん」 私は頭をさげる。彼が女の子の友だちを家に招くのはめずらしいことらしく、お母さんもすこしだけ身構えているのがわかった。 「よろしくお願いします」 「よろしく、星野さん」 靴を脱いで玄関にそろえる。蓮見恵一郎の部屋に案内されて、二人でいっしょに心霊写真をながめた。合成だとおもわれる写真もあれば、これはやばい代物だという写真もあった。それにしても彼の部屋は整理が行き届いている。家族から魔境と呼ばれている私の部屋とは正反対だ。彼のお母さんが紅茶と切り分けたロールケーキを持ってきてくれた。私の前に広げられた心霊写真の本に気付いて、お母さんが心配そうに言う。 「そういうの、こわくない?」 「平気です。それに私、すこしだけ霊感があるんです」 「霊感?」 「日常的に、見えるんです」 蓮見恵一郎と視線を交わす。自分に霊感がないことはすでに白状している。だけど今日は、そういう設定の日なのだ。お母さんが退室すると、蓮見恵一郎のパソコンで調べ物をしてもらった。インターネットで十円玉のミスコインの相場について検索する。ネットオークションのサイトによれば、たしかに私の十円玉には、数十万円の値段がつきそうだった。オークションの出品のやり方を二人で勉強しているうちに一時間ほどが経過する。 私はお手洗いを借りた。手をあらって廊下に出てみると、窓から差しこむ西日が壁をくっきりと赤色にかがやかせている。しんみりとした、しずかな気配が家の中にたちこめている。蓮見恵一郎の部屋にもどる途中、妹さんの部屋を発見する。入り口の襖が開いていた。立ち止まり、室内をのぞく。勉強机とクローゼットがあるだけの畳部屋だ。窓にさがっているカーテン生地が夕日を透かしている。生前に使用されていたであろうランドセルや、家族写真の入った写真立てが勉強机に置かれていた。 廊下の床板をふむ音がちかづいてくる。お母さんの声が背後から聞こえた。 「華のこと、恵一郎から聞いてる?」 私はうなずく。 「九歳のときね、交通事故で亡くなったの」 彼女は私の横で娘の部屋を見つめる。色白の顔は、はかない睡蓮のようだ。姓に蓮という字が入っているからなのか、そんな想像をしてしまう。娘が目の前でひかれてしまい、それからこの人は、幾度も心のバランスをくずしているという。蓮見恵一郎が心霊現象を信じていたのも妹の死が関係している。蓮見華の魂が、その日に完全消滅したのではなく、今もそのかけらがかすかにでもただよっているのだと彼は願っていた。だけどもしかしたら、彼は母親のためにもそう願っていたのかもしれない。 私はひとつ深呼吸すると、すこしふらつくような演技をして、蓮見華の部屋に入った。部屋の真ん中に立って、周囲に視線をさまよわせる。お母さんが、とまどったように声をかけた。 「どうしたの? だいじょうぶ?」 そのとき、部屋のカーテンがすこしだけゆれた。窓は閉ざされているため、風が入ってくるはずもないのに、カーテンが波打ったのである。お母さんがそれに気付いたらしく、はっとした顔をする。私は胸に手をあてて呼吸をあらくさせた。 「……ちかくにいます」 お母さんが問いかけるようなまなざしをする。私は、勉強机に置かれたランドセルへと視線をむける。 「いたんです、さっき、女の子が」 ぱたん、とひとりでに写真立てがたおれる。私はちかづいて、それを立て直した。旅行先で撮影されたものらしい写真には、両親と二人の兄妹が写っている。蓮見華はお母さんに顔立ちの似た美少女だ。 お母さんが部屋の入り口で息をつめて私の行動の一部始終を見ている。何が起きているのかを理解しようと努めているような表情だ。私は彼女にちかづいて、その手をとった。彼女の手は指先まですっかり冷たい。怯えている様子だったが、私をふりほどこうとはしなかった。手をひくと、部屋に入ってきてくれる。 「ここに座ってください」 勉強机の椅子へお母さんを誘導する。彼女は腰かけて私を見上げる。安心させるように、彼女の両肩へ手を置いた。 「私、声が聞こえるんです。亡くなった人の声が」 お母さんは首回りのひらいた服を着ている。ほっそりした鎖骨を見て、私は胸が痛んだ。目の前で娘を失って、どれほどのかなしみが、彼女の骨格におそいかかったのだろう。肩に置いた私の手に、お母さんが、手をかさねる。 そのとき、クローゼットの中から、かり、かり、と音がした。だれかがそこにひそんで、クローゼットの扉の裏側を爪でひっかいているような音だ。お母さんが声をかける。 「恵一郎?」 息子がかくれているのではと想像したらしい。もちろん、そうではない。廊下の方から足音が聞こえて、蓮見恵一郎が部屋の入り口にあらわれる。椅子にすわっているお母さんと、その肩に手を置いた私を見て、首をかしげる。 「どういう状況?」 その間にもクローゼットの中から音がする。かり、かり、とひっかくような音のほかにも、衣類のかかったハンガーのゆれる音まで聞こえる。私はクローゼットにちかづいて、おそるおそる扉を開けた。お母さんが息を呑む。だれもいなかった。蓮見華の服がならんでいるだけだ。音は途絶えてしまったが、すこしだけ衣服がゆれている。 私はクローゼットの奥を見つめて、想像をふくらませた。そこに、ちいさな女の子が膝を抱えてかくれんぼしている様子をおもいえがく。視線の高さをあわせるみたいに、私は膝をおりまげ、身を屈ませた。私は想像の女の子に呼びかける。 「こんにちは、どうしたの、こんなところで」 蓮見華。そこに彼女がいる。そのように自己暗示をかけた。交通事故によって即死状態でこの世を去った少女。写真立ての中で笑顔を見せている少女。その子がクローゼットの奥で膝をかかえて、私に何かをうったえかけている。 「……うん、わかった。つたえておくね。だから、もう、だいじょうぶよ」 私がうなずいてあげると、蓮見華は、立ち上がった。 バチン、と音をたてて窓のクレセント錠が開く。勢いよく窓が開かれると、風が部屋に入ってきて、カーテンがふくらんだ。お母さんが悲鳴をあげる。蓮見恵一郎もおどろいていた。二人はまるで、蓮見華の幽霊が手に触れていったかのように、自分の右手を見つめる。私は息を吐き出してその場に崩れ落ちた。緊張の糸がきれて全身の力が抜けたかのように見えただろう。 蓮見恵一郎に肩をかしてもらい、ダイニングに移動する。三人でテーブルを囲み、温かいお茶を飲む。湯飲みから立ち上る湯気を見つめながら、さきほどあったことを私は話す。蓮見華の部屋で彼女の幽霊を見たこと。クローゼットに彼女がいて、お母さんあての伝言をたのまれたこと。すべて作り話だったが、お母さんは信じた。 「あの子は、こう言ってました。お母さん、私のことは気にしないで。だいじょうぶ、いつもそばにいるよ、だそうです」 涙をこらえるような表情で、お母さんはうなずいていた。 家を後にするとき深々と頭をさげる。「また来てね」とお母さんに言われてうれしくなった。帰り道、駅まで蓮見恵一郎が見送ってくれる。彼は自転車を押して私の横をならんであるいた。街灯の下を通りすぎるときだけ、からからと車輪の影がアスファルトにできる。蓮見恵一郎から礼を言われた。今日のは二人でついた嘘だ。嘘はよくないことだけど、ついていい種類の嘘だったと信じている。 駅がちかくなって、わかれるのがなごり惜しい。雑踏の狭間で私たちは立ち話をする。人が大勢、行き来していた。空は深海のような暗い青色だ。 「星野さんがうらやましいよ。全員にそんな超能力があればよかったのに。うちの母も、華をたすけてやれただろうな。車にひかれそうになっている華の背中を、超能力で押してあげるんだ。そうすれば、車とぶつからなくて、すんだかもしれない」 蓮見恵一郎の長いまつげの下で、目がすこしだけ赤くなっている。あまりその顔を見つめたら呼吸がくるしくなるので、私は空に目をむけた。星がかがやきはじめている。私は彼に念力のことを白状していたが、ひみつをしった者がどうなるのかという説明はまだしていない。口封じで消されないように、彼を守るための唯一の方法がある。だけどその話をするのは、非常に気まずい。だって脅迫みたいではないか。ことわったら、口封じのために消されるだなんて。 「そういえば、ひとつだけ、気になってることがあるんだ」 私は彼に聞いてみた。 「さっき華さんの部屋で、窓が開いたとき、二人とも手を見てたよね」 演技を終える寸前のことだ。私が透明な腕をつかって窓を開放し、風が室内に入りこんでカーテンをはためかせた。その際、蓮見恵一郎とお母さんは、おどろいた表情で自分の右手を見つめていたのである。私にはそれが不思議でならなかった。 「あれにはすっかりおどろいたよ。だって星野さん、超能力で僕たちの手に触れたでしょう?」 蓮見恵一郎はそのときのことをおしえてくれる。 「……そのときの感触、おぼえてる?」 「ちいさな手が、さわったみたいだった。まるでほんとうに華のやつが、触れていったみたいに」 「ふうん……」 星を見ながら私はかんがえる。奇妙なことだ。私は、そんなこと、していないのだから。 親戚のお姉さんが無事に出産をおえたので、産まれたての赤ん坊を見に出かけた。産婦人科の駐車場で黒塗りの車から出てくる大叔父に遭遇した。大叔父は私の顔を見ると、「派手にやったな」と豪快にわらった。私が蓮見恵一郎と手をつないでスーパーの店内を移動している様子が監視カメラによって撮影され、動画共有サイトに投稿されていたのである。私たちの顔にはぼかしが入っていたけれど、勝手にたおれる缶詰や、ひとりでにうごく買い物カートなど、念力を使用した形跡もばっちり映っていた。しかし世間の人々は、CGを使用した作り物の映像だろうと判断し、話題にもなっていなかった。私と両親は、そのことにほっとしている。場合によっては、たくさんの人々が口封じのために消されていたかもしれないからだ。 おそるべし血塗られた家系。こんな能力はいらないし、もっとふつうの家に生まれたかったと、常々、私はおもっていた。だけど最近、すこしだけそのかんがえも変わりつつある。透明な腕がなければ、蓮見恵一郎と出会うことはなかった。彼のお母さんの心のわだかまりを解消することもできなかっただろう。今回の一件を経て、仲良しグループとも適度な距離を保つことができるようになり、天然キャラを割り切って演じるようになった。どんなにいじられても、ふしぎと平気だ。彼らとの会話は表面的なおつきあいだという自覚が生まれた。ほんとうの自分をしっている存在が、私にはちゃんといる。それだけで、社会生活を営む上でどんなことがあってもへっちゃらだ。 親戚のお姉さんはまだ入院しており、赤ん坊は保育器に入っていた。この産婦人科の病院はうちの一族が経営にかかわっている。看護師の中に親族も何人かいて、新生児が透明な腕で周囲にいたずらをしても、だれもおどろかない。赤ん坊はまだちいさくて、泣くと真っ赤になり、私たちのように言葉もしらず、むきだしの生命体という印象だった。母と私は透明な腕をのばし、保育器の中の手をにぎりしめる。 「ようこそ」 母が赤ん坊に声をかけた。赤ん坊の透明な腕がのびてきて、私たちの頬を不思議そうにぺたぺたとさわっている。保育器越しに声が届くのかよくわからなかったけど、私も話しかける。これからはじまる人生にありったけの祝福をこめながら。 「ようこそ、この世界へ」END ご愛読ありがとうございました。 この作品は2015年末、刊行予定の単行本に収録されます。
2008年、『百瀬、こっちを向いて。』で単行本デビューするや、各方面で話題に。14年には映画化され、再び注目を集める。著書『吉祥寺の朝日奈くん』『くちびるに歌を』もまた、映画化されている。