物語がつまった宝箱
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  • 第1回 2014年9月15日更新
             前口上

 最強の女について書いてみたいと思う。
 だが、最強の女とはいったい何なのだろう?
 現代的な基準だったら、案外、簡単である。美人で、スタイルがよくて、聡明で、仕事がバリバリできて etc. いろいろあるだろうが、私に言わせると、こういった現代的な条件には何かが決定的に欠けている。
 こう書くと、必ず次のような答えが出てくるはずだ。「わかった。男からモテなければいけない、でしょう」
 そう、たしかにそれはそうなのだが、私の考えでは、「男からモテる」だけでは「最強の女」とは言えない。たんにモテるだけでは、つまり、そこらへんのどうでもいい男にいくらモテても価値はないのである。価値があるのはその時代の最高の男にモテることである。それも、一人だけであってはいけない。その時代最高の複数の男たちから言い寄られ、しかも、そのうちの何人かとは深い関係になっていなくてはならないということだ。
 すなわち、女の価値は、深い関係になった男たちの価値の「総和」による、という観点を導入してみたいのである。深く付き合った男たちがどんな価値の男たちであったか、それによって女の価値も決まるということだ。
 もちろん、フェミニズム的観点からは、こうした価値の測り方それ自体が男性至上主義によるものだと非難されるかもしれない。男との関係なんか一切なくても女の価値は測れるのだという考え方である。
 たしかに、それも一理ある。とりわけ、近い未来において女が完全に男と同権となり、同じように現実に立ち向かうような時代が来たのなら、この価値観のほうが正しいということになるだろう。
 だが、男性至上主義がまかり通っていた過去においてはそうはいかない。というのも、そうした過去においては女の価値は「受け身」を前提にして測られていたからである。「自己主張しない」ことにプラス・ポイントが置かれていた点では、日本も欧米も変わりはない。女性は、結婚前も後も、「家庭の天使」として父親や夫を支えるのが理想だとされた。女性の自由が比較的許されていたフランスにおいてさえ、自らの意志において多くの男性と交際した女性は淫乱扱いされた。
 ところが、そうした風潮の真っ只中にあって、こうした価値観を断固として認めず、「わたしは付き合いたい男と付き合うの。そのことでだれからも文句は言わせないの」とばかりに、多くの男たちと交際し、そのなかから自分のお眼鏡にかなった選りすぐりのエリートだけを恋人・愛人、ないしは夫とした超例外的な女性が現実にいたのである。
 とりわけ、サロン文化という伝統があったために、既婚の女性が男性と付き合うことが公的に認められていたフランスにおいては、こうした自分のイニシアティブで男を選択した女たちがすくなからず存在していたのだ。
 そして、そうした「自主的基準で男を選ぶ女」の中から、ときとして、恋人、愛人、夫の名前を並べるとその時代の有名人の名鑑ができあがるような「最強の女」が登場したのである。
 と言っても、彼女たちは娼婦では決してない。「付き合った男たちの価値」を取り去ったとしても、言いかえると、彼女たちはいっさい男たちと付き合わなかったとしても十分に価値のある女、つまり、現代的な観点から見た場合にも、偉大な業績を残した価値ある女たちなのだ。
 ひとことで言えば、彼女たちは、自らの価値において自立しているばかりではなく、その価値にほれ込んで次々に言い寄ってきた男たちの価値においても卓越している二重の意味でのスーパー・ウーマン、ようするに「最強の女」なのである。
 だが、本当にそんな「最強の女」がいたのだろうか?
 これがいたのである。それも一人ではなく、複数の「最強の女」が。
 というわけで、この連載では、単独でも「すごい」が、関係のあった男たちを並べるともっと「すごくなる」女たちを何人かとりあげて、その列伝を書いてみたいと思うのである。


第一章  ルイーズ・ド・ヴィルモラン

二十世紀前半 最強のミューズ
 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ、アンドレ・マルロー、ジャン・コクトー。こう並べると、二十世紀フランス文学史の話でも始めるつもりかと言われるかもしれない。事実、この三人はプルースト亡き後のフランス文学を代表する最も偉大なる作家であった。  だが、私がこれから語ろうとする物語においては、三人の文学者は主役をもり立てるための脇役にすぎない。言い換えると、サン=テグジュペリもマルローもコクトーも、ミューズたる惑星に引きつけられて周りをグルグルと回った「恋する三つの衛星」であって、主役はあくまで、例外的に強烈な拘引力をもった惑星のほうなのだ。  実際、この惑星が男たちを捕らえて衛星にしてしまうその拘引力はすさまじい。近くに寄ったら最後、どんな抵抗を示しても無駄で、気づいたときには脱出不可能な引力圏に取り込まれていて、ひたすら惑星のご機嫌を伺う衛星に成り果てているのである。  ためしに、三人以外にも衛星となった男たちの名前を挙げてみよう。  ガリマール書店社長ガストン・ガリマール、イギリスの有名な外交官でタレーランの伝記作者でもあるダフ・クーパー、ヴィクトル・ユゴーの曾孫で画家のジャン・ユゴー、名作『青い軽騎兵』を残した作家ロジェ・ニミエ、戦後の一時代を築いた詩の出版社セゲルス社社長ピエール・セゲルス、それに『市民ケーン』の監督オースン・ウェルズ。そして、正式に夫となった二人の大富豪、アメリカ人のヘンリー・リー=ハントとハンガリー人のパウル・パルフィ。その他、多少とも名を知られた有象無象の男たち。まさに、二十世紀前半の著名文化人と社交人士総なめといった観がある。  では、いったい、無数の衛星を従えたこのミューズ惑星は、どうしようもない妖婦(ヴァンプ)であったのかというと、決してそんなことはない。写真で見る限り、知的で清純そうな美人というほうがふさわしく、いったい、この楚々とした美女のどこが男たちの恋心を激しく揺り動かしたのか容易には測りかねるほどだ。だが、さまざまな写真を子細に観察すると、少しずつではあるが、謎が解けてくる。そして、それと同時に、写真であるにもかかわらず、思わず魅きつけられそうになってハッとする。とはいえ、その魅力の淵源についてはいずれ解き明かすことにして、とりあえず、この「最強の女」に最もふさわしい惑星の名前を告げてみよう。  その名をルイーズ・ド・ヴィルモランという。  ヴィルモラン商会  フランス人のほとんどは、ルイーズ・ド・ヴィルモランの名を知らなくとも、ヴィルモランという苗字には反応するだろう。園芸好きならだれでも、十八世紀からパリのメジスリ河岸に店舗を構えていた老舗の育種業者ヴィルモラン商会のロゴを冠した種子の袋のお世話になったことがあるからだ。現在は買収されてEU系コングロマリットのリグマグレイン・グループの一員となっているが、企業名としてはあいかわらず「ヴィルモラン株式会社」と旧社名を引き継いでいることからも明らかなように、ヴィルモランはヨーロッパでは最も通りのよい有名ブランドの一つなのである。  ヴィルモラン商会が産声をあげたのはルイ十五世治下、場所はパリのメジスリ河岸においてである。ヴァンドーム公フランソワ・ド・ブルボンに仕える武人貴族であったギ・ルヴェスクの流れを汲むフィリップ・ヴィクトワール・ルヴェック・ド・ヴィルモランがパリに上り、医学校に通うかたわら農業・林業用種子学に興味を寄せ、メジスリ河岸に種子店を持つピエール・アンドリューと知り合ってその娘のアデライードと一七七四年に結婚し、義父の家業の跡取りとなって、ヴィルモラン=アンドリュー商会を興したことがそもそもの始まりである。  この初代ヴィルモラン=アンドリュー商会の当主については、当時フランスでは食用に供されていなかったジャガイモを庶民の食卓に載せるため、農学者のパルマンティエと協力してルイ十六世とマリ・アントワネット妃にジャガイモ料理を試食してもらったときのエピソードが知られている。民衆にジャガイモは毒ではないことを示すため、国王はジャガイモの花をボタンホールに刺し、マリ・アントワネットはコサージュにジャガイモの花束をあしらって食卓についたと言われる。  以来、ジャガイモはフランス料理になくてはならない穀類野菜の一つとなった。大革命の食糧危機をフランスが乗り切れたのもジャガイモのおかげだと言われるが、それ以外の農業分野でもヴィルモラン一族の活躍はめざましく、種子学や農芸化学の専門家を次々に輩出して、農業アカデミーの議場の壁には九人のヴィルモランの名前が刻まれているという。  一九〇二年、我らがヒロイン、ルイーズ・ド・ヴィルモランはヴィルモラン本家五代目当主フィリップ・ルヴェック・ド・ヴィルモランとメラニー・ド・ゴドフリディ・ド・ドルタンとの間に生まれた。  ルイーズの上には一歳違いの姉のマリ=ピエール=アデライード=ジャンヌ=メラニー(通称マピー)が、下には年子の四人の弟、アンリ、オリヴィエ、ロジェ、アンドレがいた。つまり、母のメラニーは一九〇〇年にフィリップと結婚するや一九〇一年から六年間、毎年一人ずつ子どもを産んだ計算になる。  こう書くと、メラニーは子沢山の、日本でいう「糠味噌くさい女房」と思う読者がいるかもしれないが、事実はまったく逆である。  ヴィルモラン家のように貴族階級から事業家に転じた家系では、一族で事業を固めて一つの「王朝(ディナスティ)」をかたちづくることが多かったので、本家の長男に嫁いだ嫁は若くて健康的なうちにできる限りたくさんの子どもをつくることが一つの至上命令とされていた。そのためにメラニーは六人も続けざまに出産したのだ。  しかし、ひとたびその「義務」を果たし終えたあとは、本家の嫁はそれに見合うだけの「権利」を有するとされていた。では、その権利とは何か?  パリの社交界で「サロン」を開く権利である。  だが、なぜ権利なのか? サロンの主催者たる既婚の女性は、サロンに出入りする男たちを、夫の許可なしに「選ぶことができる」という不文律が存在していたからである。  これがサロン文化のない日本ではなかなか理解しにくい点であり、バルザックやフロベールの恋愛小説がなにゆえにすべて不倫小説なのかという肝心なところを説明できない理由でもある。文化のほとんどは不文律から成り、外側からはいくら不可解に思えても、中に入っている人間には当たり前のことだから、説明は不要とされるのだ。   というわけで、メラニーも出産の義務を履行したあとは、当然の権利行使として華やかなサロンを開いた。 両親不在の上流階級 「メラニーには積極性もユーモアも欠けてはいなかった。社交界から強いられたわけではなく、気づいたときには社交界にいたのである。当時の偉大なデザイナーであるワースの店で誂えた衣装をまとった彼女は、金泥塗りの天井のもとで人がどのように振る舞うかを先刻承知しており、警句のひねり方も知っていたし、お愛想や悪口を適当にふりまき、どんなゲームでも表面を損なうことなく針を抜き取るすべを心得ていた。ようするに、彼女は社交人士の理想となったのである。メラニーは成功に値したのだ。ルイーズもいずれそうした才能を受け継ぐことになるだろう」(ジャン・ボトレル『ルイーズ あるいはルイーズ・ド・ヴィルモランの生涯』拙訳)  このような記述を読むと、現代の読者は「子どもはどうしたんだ。これが六人も子どものいる母親のすることなのか」と眉をひそめるかもしれないが、当時はまったくそんなことは問題とはならなかった。上流階級においては、子どもを産むここと育てることは別のことだったからである。  すなわち、子どもは生まれるとすぐに住み込みの乳母に預けられ、言葉がしゃべれるようになると専任の養育係がつくというのが伝統であり、両親は育児や教育には関知しないのが普通だった。だからこそ、六人の子どもを産み終えたメラニーは水を得た魚のように、子どものことなど一切考えることなく、サロンの女王という役柄を引き受けることができたのである。  もちろん、ヴィルモラン家だけが例外だったわけではなく、裕福な階級に属する家庭はどこも似たりよったりだった。だが、親は同じように振る舞っても、子どもは一人一人違った反応を示す。親から見捨てられたと感じとる繊細な神経の子どもも存在していたからである。  そこから、上流階級の子どもの悲劇が生まれる。逆に言えば、社交生活に明け暮れて子どもを顧みない母親が多くの文学作品を生み出す酵母となったのである。プルーストが『失われた時を求めて』の冒頭に置いた「就眠の儀式」のエピソードはそうした文化的背景をよく物語っているのではなかろうか?  ヴィルモラン家でも事情はまったく同じだった。パリ十六区の高級住宅街ボワシエール通りの自宅の三階に子ども専用のフロアーがあったが、子どもたちがそこで母親の姿を見かけることは極めてまれで、子どもたちは母親に会わない日がどれくらい続くのかを数えておもしろがった。メラニーは頻繁に旅行に出掛け、パリにいるときには社交生活でスケデュールが塞がっていたため、子どもたちのことを気にかけている暇はなかったのである。  両親不在の家庭で、養育係をつとめたのはティスネ神父だった。ティスネ神父は毎朝ミサが終わると、巨大なオランダ製の机のまわりに子どもたちを集め、読書、作文、歴史、地理といった初級の学科を教え、男の子たちが大きくなるとギリシャ語とラテン語の手ほどきをした。子どもたちは中流階級の子女のような学校教育は受けなかったのである。  ルイーズはティスネ神父のお気に入りの生徒だったが、こうした自宅学習者の多くと同じように、その知識には大きな片寄りがあった。好きなことには熱中するが、嫌いなことには見向きもしないという傾向である。その結果、ルイーズは、同じ年頃の子どもたちと比べて、ある分野では進んでいたが、別の分野ではひどく遅れることになる。  ルイーズがとりわけ打ち込んだのは読書だった。バンジャマン・ラビエの漫画風の挿絵本から始まって、ジョッブの挿絵の入ったモントルグーユの歴史ものへと進んでいった。こうした読書好きの傾向は、ルイーズの夢見がちな性格をいっそう助長した。ジャン・ボトレルはこうした夢想と身の回りのオブジェとの関係を次のように巧みに表現している。 「感受性が強くロマネスクなルイーズの場合、オブジェは孤独の友であり、いつでも憂鬱をやわらげてくれる特権的なパートナーだった。ごく幼いときから、彼女は古いオブジェに対する好みをもつようになる。というのも思い出の影がからみつくとしたら、それは古いオブジェしかないからだ。いずれ、こうした古いオブジェは彼女の小説や詩に登場して世界を満たすことになるだろう。苦しいときの心の支えとなり、眠れぬ夜には絵本の代わりとなるのだ」(ボトレル 同書)  こうしたオブジェのなかでもルイーズの偏愛の対象となったのは、リリィという金髪の人形だった。おそらく、リリィという名前は、児童書出版のパイオニアであるP-J・エッツェルが自分の娘をモデルにして書いた『マドモラゼル・リリィ』シリーズの絵本(挿絵はロレンツ・フルーリッヒ)から来ているのだろう。ルイーズは、このシリーズを読み、人形にヒロインの名前を与えることで自己の分身としたのだ。どこへ行くにも、どんなことをするにもルイーズはリリィと一緒だった。 母との葛藤  ところが、ルイーズ九歳のとき、悲劇が起きる。母親のメラニーが自宅を訪れた貧しい娘にリリィを与えてしまったのである。ルイーズにとって、リリィは本物の姉妹や友達以上の存在であったから、リリィを無理やり奪われたことは回復不能なトラウマとなって残った。 「それは彼女の最初の大きな悲しみであっただけではない。抑圧しても、いずれ目印、痕跡となって残るあの苦い思い出の一つとなり、人生が盛りを迎えたときに、人はその隠された影響を探そうと試みることになるのだ。  母親がこのような軽率で意地悪で無関心な振る舞いに出るとは、ルイーズとこの母親のあいだに何が起こっていたのだろうか? 二人ともお互いに対する嫌悪にとりつかれていたのだろうか? 母と娘の間にあったのは、失敗した出会いだけであった」(ボトレル 同書)  まことに不思議なことだが、文明が進化し、生活が豊かになり、女性が家事から解放されるようになると必ず現れてくるのが、この母と娘の抜き差しならぬ対立と相互憎悪である。それは、現代日本の文芸雑誌にのる女性小説家の作品を読めばわかる。母親への憎悪とアンヴィヴァレントな愛情。この意味では、時代に先駆けた家庭環境に身をおいたルイーズは時代に先行するかたちで母娘関係の葛藤に苦しまなければならなかったのだ。  想像するに、ルイーズと母親との複雑な関係は、最初に生まれたのが女の子だったこととかかわりをもっている。母親は、跡継ぎの男の子を産まなくてはというプレッシャーを受けていたので、二番目に生まれたのがまた女の子だったことから、愛情を注げなかったのだろう。長女にはミドル・ネームがたくさん与えられ、その一つが母親と同じメラニーだったのに対し、ルイーズにはミドル・ネームなしのルイーズだけ。この事実ひとつをもってしても、母親の愛がルイーズにはむかわなかったことをよく示している。  では、ルイーズと父親との関係はどうだったのだろう?  言うまでもなく、ルイーズは聡明な女の子によくあるように、典型的な「お父さん子」だった。幼いときから歴史や地理に興味を示したルイーズを父親は大人扱いして、植物の標本採取の旅先から、娘の夢をかきたてるような文面とともに絵葉書を送ってよこした。一九一一年に世界一周旅行に出た父親から受け取った絵葉書には娘に対する愛情が溢れている。社交的な母と相いれなかった分、ルイーズは父親を深く愛していたのである。 二人の父を失う  一九一四年に第一次大戦が始まっても、ルイーズから父親が奪われる恐れはなかった。若き日に受けた徴兵検査で不合格となっていたし、六人の子持ちということで動員の対象からも外されていたからである。  ところが、一九一五年六月二九日、思わぬ悲報が留守宅にもたらされる。イギリス軍の通訳としてベルギー戦線に志願していた父親が過労のせいで帰らぬ人となったのである。  兄弟姉妹の中で父親から一番愛されていたルイーズにとって、十三歳で父親を失ったことは人生最大の悲劇となった。  一九一八年の十一月に長かった戦争が終わったが、それと前後して大流行を見せていたスペイン風邪に感染し、父親代わりだった養育係のティスネ神父も帰らぬ人となってしまった。ルイーズは大戦によって一挙に二人の父親を失ったのである。  あとに残された母と六人の子どもは、ボワシエール通りの広すぎる邸宅を離れ、七区のシェーズ通りとグルネル通りの角にある十八世紀の邸宅に移ったが、生活のレベルが落ちたわけではない。引っ越しは、むしろ、未亡人となって「自由」を得たメラニーの社交生活の便利のために行なわれたと見たほうがいい。  アプレ・ゲールの解放感の中で、女盛りを迎えた美しいメアリー・ウィドー(陽気な未亡人)は社交界の女王の一人となり、その家業と有名なデパートにからめて「ベル・ジャルディニエール(美しい女庭師)」と呼ばれた。求愛者はひきもきらず、モンパンシェ公爵のような王侯貴族もその列に加わった。ある日、メアリーはサロンで次のように告白したという。「夫を裏切ったことは一度もないわ。王様を勘定にいれなければね」  しかし、当然ながら、一段と家庭を顧みなくなった母親に対して子どもたちは厳しい目を向けた。とりわけ、相いれない関係にあったルイーズは奔放な母親を激しく憎み、行き場を失ったその余る愛情を弟たちに注いだ。  この時点では、いかに慧眼の持ち主でもルイーズの中に将来の「最強の女」の萌芽を認めることはできなかったに違いない。社交界に生きる奔放な母親はルイーズは反面教師の最悪のモデルにすぎなかったし、また、弟たちとのアンティームな生活は、社交生活に不可欠な男あしらいを学ぶ場としては最低の環境であった。しかも、なお悪いことに、もともと病弱だったルイーズは、この頃、股関節と腰部の結核性関節炎に冒されて寝たきりの状態になり、ヴィルモラン家がサン・ジャン・ド・リューズに所有していたヴィラ《マイタガリア》で三年間の療養生活に入ることになる。  ところが、まことに面妖なことに、こうしたマイナスの総和は、どこかで逆転してプラスの総和となり、「最強の女ルイーズ・ド・ヴィルモラン」を生み出すきっかけとなったのである。人生はわからないものである。  そして、その大転換は一人の若者がサン・ジャン・ド・リューズに姿をあらわすことによって始まるのである。

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著者プロフィール

  • 鹿島茂

    仏文学者。明治大学教授。専門は19世紀フランス文学。『職業別パリ風俗』で読売文学賞評論・伝記賞を受賞するなど数多くの受賞歴がある。膨大な古書コレクションを有し、東京都港区に書斎スタジオ「NOEMA images STUDIO」を開設。新刊に『ドーダの人、森鴎外』、『ドーダの人、小林秀雄』がある。