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  • 第10回〝親日国″〝知日国″の隠れ世界ナンバー1はポーランド(第5編) 2015年6月1日更新
 20世紀に突入して間もなく、欧米列強やオスマン帝国にとっては、「無謀」にしか見えない戦争に、日本は国家と国民の命運を賭けます。1904(明治37)年2月、老大国ロシア帝国を相手とする日露戦争の火蓋が切られたのです。この瞬間から、もしかすると日本人以上に戦況への関心を示し、日本の勝利を強く願い、喜んだのがポーランド人でした。
 そして独立活動家以外にも、捕虜として、研究者として、様々な理由により、精神的にも物理的にも日本に急接近しました。

「MATSUYAMA」が合言葉
 1905(明治38)年5月27日、28日、東郷平八郎元帥率いる連合艦隊とロシアのバルチック艦隊が日本海海戦で激突します。この海戦で、連合艦隊がロシア艦隊の大半の艦船を撃沈もしくは大破させました。
 「万歳!」「万歳!」「万歳!」
 このニュースが日本に伝わると、自国の勝利のごとく狂喜したロシア軍兵士がいました。前年2月からの日露戦争でロシア軍兵士として戦い、投降して愛媛県松山市の収容所などに送りこまれていたポーランド人捕虜たちでした。ロシアの敗戦が濃厚となる中、長い間待ち続けた祖国回復のチャンスが訪れたことに歓喜したのです。
 現在の『愛媛新聞』の前身となる一紙『海南新聞』の「俘虜彙聞」(明治38年7月12日)には、「……一番町収容所に居る波蘭人某将校は過日も日本海ゝ戦で我が軍の大勝利となつた事が新聞号外に出たと聞き手を打つて喜び狂せん計りに踴躍し所謂手の舞ひ足の踏事を知らぬ有様であつたが近頃又本国の内乱を大に悦び喜悦のあまり殆ど発狂せん計り……」と、捕虜のポーランド人将校が、日本海海戦での大勝利を知らせる新聞号外に「狂喜乱舞した」こと、旧ポーランド領内での近頃の内乱(おそらく、独立派によるデモ)にも「発狂せん計りの喜びようだった」と記されています。
 日露戦争時の捕虜については「ロシア人捕虜」と言いがちですが、当時のロシア帝国の陸海軍はロシア人兵士だけではなく、ロシア軍兵士として徴兵されたポーランド人やウクライナ人、タタール人、ユダヤ人、フィンランド人などが混ざった多国籍軍でした。ロシア帝国による従属民族への差別支配がロシア軍にも反映しており、内部の対立が激しく、そもそも日本と対戦する気持ちのない非ロシア人兵士が多かったのです。
 日露戦争が開戦した3カ月後の1904年5月15日から日本を訪れていた民族連盟のロマン・ドモフスキ(第4編に詳細を記載)は、外務省の通訳官の川上俊彦(ポーランド独立後の初代駐ポーランド公使)が同行する形で、6月に松山のポーランド人捕虜の収容所へ行き、前線の様子についても尋ねています。その際、「旅順に駐留する軍隊にはポーランド人の割合が多く、ハルビンに駐屯していた師団の中にもポーランド人が多数含まれていた」「ロシア人を敵視しているため、師団の士気は振るわず軍隊からの逃走を企てる者も少なくない」などと返答したとされます。政治犯としてシベリアへ流刑にされていた〝愛国者″のポーランド人が、旧満州にロシア軍兵士として大量に送られていたのです。
 同じく第4編で記したユゼフ・ピウスツキを指導者とするポーランド社会党は、ポーランド人兵士と予備兵に「敵の敵は友」であることを強調したビラを撒き、投降を呼びかけました。前線ではいつしか、ポーランド人兵士に限らず「MATSUYAMA」が投降への合言葉になりました。日本に収容された捕虜は7万2000人以上で、その中にポーランド人は4600人以上いたとされます。
 日露戦争開戦時に捕虜収容所が全国29カ所に設けられましたが、最初にできたのが愛媛県松山市(明治37年3月18日)でした。なぜこの地が選ばれたかについては、四国は海に囲まれているため逃亡が困難なこと、道後温泉が傷病者の慰安と治療に適しているなどが、その理由だったようです。松山の収容所は、戦地から送られてきた傷病捕虜の治療を最初に行なう場所とする役割があり、病室も開設されました。
 浜寺(現大阪府堺市)と千葉県習志野の収容所にも病室が開設されましたが、松山へは日本赤十字社の救護班が派遣されたため、陸軍の報告書の他に各救護班による『救護報告書』など様々な記録が残りました。ロシア軍捕虜と松山の収容所の記録については、その他『マツヤマの記憶―日露戦争100年とロシア兵捕虜』(2004年/松山大学編/成文社)『松山捕虜収容所日記-ロシア将校の見た明治日本―』(1988年/F・クプチンスキー/中央公論社)や『日露戦争と人道主義――松山俘虜収容所におけるロシア傷病者救護の検討――』(2014年10月/日本法学 第80巻第2号/喜多義人・日本大学講師)など、数々の文献や資料から詳細を知ることができます。

捕虜にも〝おもてなし精神″
 捕虜といえば「奴隷のような扱い」をイメージしがちですが、日本は敵国ロシアからですら「人道的」「国際法順守の模範国」などと称賛されました。
 その背景の1つとして、赤十字国際委員会が1864(元治元)年に採択した史上初の傷病者保護条約であるジュネーヴ条約に加盟していた日本は、その普及に尽力していたことが挙げられます。1899(明治32)年5月には、オランダの第1回ハーグ平和会議で「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」が採択され、「ジュネーヴ条約ノ原則ヲ海戦ニ応用スル条約」が適用された最初の戦争が、日露戦争だったのです。
 「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」は、捕虜の待遇に関して以下のように規定しています。一部を紹介しましょう。

■第四条第二項
俘虜は人道を以て取扱わるべし。
■第七条第二項
交戦者間に特別の協定なき場合に於ては、俘虜は、糧食寝具及被服に関し之を捕えたる政府の軍隊と対等の取扱を受くべし。

 食費を例に挙げると、将校には毎日60銭以内、下士卒には30銭以内と定められていました。肉とパンといった食材や食習慣を考慮したようですが、自国の兵卒の食費が1日あたり16銭前後だったことからも破格の厚遇だったのです。収容所についても高い塀や網に囲まれた牢屋のような建物ではなく、松山では寺院や公共施設、民間の建物を借り上げて、捕虜を収容し病室としても使っていました。送られてきた兵士がたとえシラミだらけでも、伸び放題の頭髪や髭のカットまで看護師ら救護員が行なったのです。
 治療は松山病院内に開設された日本赤十字社松山臨時救護所他、複数箇所で行なわれていましたが、看護師ら救護員は入浴できない重症者の身体を拭いてあげ、排泄物を処理し、夜の見回りでは冷えないよう布団をかけ、病室の清掃や下着などの洗濯まで行なっていました。さらに、勤務の合間にはロシア語の自習もしていました。
 こういった献身的な働きぶりが、負傷兵たちの猜疑心や警戒心を徐々に無くさせ、日本の医療技術についての信頼にもつながり、打ち解けていったようです。関係資料には「看護師の手厚い看護に捕虜が癒された」との記述が散見しています。また、温泉とマッサージによる治療は神経障害と機能障害に対して相当に効果があり、争うように入浴を希望し、病室側も可能な限りこの方法を採ったことも記録されています。
 病院に娯楽室や祈祷室が設けられたり、敷地内に庭園、テニスコート、ジム設備が設けられたり、コーヒーやチョコレート、パン、バター、カステラなどの販売が行なわれたりしました。一般国民も慰問に訪れ、日用品、飲食物、煙草、現金や遊戯具などが届けられました。収容所の1つ、公会堂では、捕虜がカナリアやジュウシマツなど小鳥を愛育していました。
 松山では県から「捕虜は罪人ではない。祖国のために奮闘して敗れた心情を汲み取って侮辱を与えるような行為は厳に慎め」と何度も訓告を発したとされます。そのため軍人はもとより警察官や役人、民間人にまで「人道的な対応」が浸透していたようです。
 1904年9月には、伊予鉄道の井上要社長(当時)はじめ有志たちの発案で、松山での捕虜を汽車の1等席に乗せて郡中(現伊予市)の彩浜館へ招待しています。彩浜館では婦女子が茶菓子の接待をしたり、庭で青年団たちが弓道の実技を披露したりしました。捕虜たちは、五色浜沖の鯛網漁も遠望しています。
 別の捕虜たちは、高浜で開催された松山中学のボートレースに参加したり、道後公園での第一尋常小学校の運動会を見学したり、日露対抗自転車競走に参加したりしました。この自転車競走は、道後湯之町の御手洗商店が下士卒を気遣っての発案でした。将校に対しては、慰問も物品の寄付も多く自由に散歩も許されていたのですが、下士卒はそうではないため同情を寄せたのでした。道後温泉の入浴も兼ねた競争会を、下士卒は特に喜んだとされます。

夏目漱石はじめ〝明治文学ゆかりの地″でもある
道後温泉(著者撮影)

 日本の勝利が決定的となり、日露両国代表が米国ポーツマスにおいて講和会議を始める頃、松山では、敵国に従軍した元兵士のために多種多彩な〝国際交流イベント″を催していたのです。  1906(明治39)年の赤十字国際会議の席上、各国の委員は日本の傷病者救護について「日本はジュネーヴ条約を厳守したのみならず、この条約が完全に実戦で適用されることを証明した」と絶賛し、敵国ロシアからも捕虜の厚遇について謝意が表せられました。  真面目な日本人らしく、上からの通達もあり国際法を順守したのかもしれませんが、それだけではなく、日本人のDNAの多くに包含するであろう人道主義と〝おもてなしの精神″が無邪気に発揮されたのではないでしょうか。日本の民間人にとって〝敵人″との感覚は希薄だったのでしょう。将校ら負傷者たちは帰国前、看護師や救護員、日赤社長に宛てた感謝状を贈っています。  なお、「負傷したロシア軍兵士に対して初治療を行なったのは、ロシア軍衛生部隊よりも日本軍衛生部隊の方が多かった」ことも調査資料から分かっています。これは日本軍が戦場でも積極的にロシアの負傷者を収容し、治療したことを示しています。 日本人女性と結婚して帰化したい  『海南新聞』(明治37年7月10日)には、「今日迄に松山に収容されたる露國俘虜兵中には約1割のポーランド人……波蘭人に次ぐ異人種は猶太人……」との記述があります。早々に、日本軍へ投降したポーランド人、ユダヤ人が多くいたことが分かります。  ポーランド社会党のユゼフ・ピウスツキと民族連盟のロマン・ドモフスキ両者は、日露戦争の最中、日本政府にそれぞれ接触して同様のことを要請していました。それは「日露戦争で捕虜となったポーランド人兵士を、ロシア人兵士と分ける配慮をしてほしい」という処遇についてでした。日本政府は、その要望を基本的に受け入れています。  松山では、雲祥寺がポーランド人兵士の主な収容所として使われました。『海南新聞』(明治37年7月20日)には、「波蘭人ばかりで新来俘虜中の八名と昨日退院の下士一名を加へて九十二名」と記されています。また、ポーランド人について、「ロシア人と比べると性格が柔和なようだが、怠惰なようにも見える」「慎み深い」といった印象が記されています。  ところが1カ月半後の9月5日の晩、日本軍が遼陽を占領し戦況が有利になっている中で提灯大行列が行なわれたのですが、そのことを知っていた雲祥寺のポーランド人捕虜一同は、大行列を見学しながら「喜び叫んでいた」そうです。  育ちの良さなのか若さなのか?を思わせるエピソードも残っています。ポーランド人のリウドーウク・クラウゼ中尉(後述)他1名は、市街地を自由に歩ける許可が出たにもかかわらず、一向に外出したがらなかったそうです。理由を尋ねると、「ボロボロの軍服とボロ靴のままでは、女性たちの目も気になり恥ずかしい。服と靴を新調してから、外に連れ出してほしい」との返事でした。  しかも、監督委員の陸軍池田中尉の茶色の夏服を触りながら「立派で綺麗で粋だから、そっくりそのまま同じ服を新調してほしい」と希望したそうです。仕立屋に来てもらい、完成するまで「今日、服は届く?」「明日?」と待ちきれない様子だったといいます。  「雲祥寺収容所内ニ於ケル下士以下ノ祈祷」(日本赤十字社愛媛県支部提供)(1904年6、7月)には、〝笑点のネタ″に使われそうなエピソードも残っています。捕虜の中で下士卒は飲酒を許されていなかったのですが、ポーランド人の捕虜に、洋酒のコニャック(当時は「コンニャック」と記しました)を買うよう頼まれた雲祥寺の僧侶が、近くの店で「こんにゃく」を買ってしまったという話です。  「俘虜取扱規則」第6条には、「俘虜ハ軍紀風紀ニ反セサル限リ信教ノ自由ヲ有シ且其ノ宗門ノ礼拝式ニ参与スルコトヲ得」と記されていたことから、カトリック松山教会がカトリック教徒のポーランド人のために雲祥寺で毎週ミサを行なっています。病死したポーランド人兵士の葬儀も、フランス人宣教師シャロンが執り行ないました。  「収容所が寒くて風邪が治らない」「バラック病舎(臨時の収容施設)を、患者らは『牛小屋』と呼んでいる」などファシリティの問題も多々あったようですが、ポーランド人を筆頭とする非ロシア人兵士にとって、松山での捕虜生活は総じて〝悪くない環境″だったのでしょう。捕虜の中には看護師を慕い、収容所の移転を嫌がる者、帰国したくないから戦争が当分続くことを願っている者、1905(明治38)年9月5日にポーツマス条約が締結され捕虜引き渡しが始まったのですが、日本帰化を望む者が少なからずいたことも記されています。  ポーランド人将校の1人は、日本人女性との結婚すら考えていたようです。『海南新聞』(明治38年7月12日)には、「……其将校は頗(すこぶ)る好色家であるが相当の教育ある人間で慎み深く容易に色に現はさゞれども何とかして日本の相当教育ある女を我が妻とし平和克復の後には日本に帰化して一生を送りたいなどゝ心私かに期し抵(いた)る処で適当の女を得んと漁り居るとの事である」との記述があります。  「好色家」との表現は色キチガイや変態のようなニュアンスで可笑しいですが、現代的に綴れば、「女性への関心が強いようだが、相当に知的でなおかつ謙虚なポーランド人将校が、教養ある日本人女性と結婚して一生を日本で送りたいと願っており、候補を真剣に探している」といった話なのでしょう。   日ポ共同調査で御霊の〝出自回復″

松山市内のロシア兵墓地。(提供:山本俊秀)

 異国で帰らぬ人となった兵士もいます。傷病等や松山へ来る船内で亡くなった捕虜98名は、旧陸軍が妙見山の山頂(現在は松山大学御幸キャンパス)に作った墓地に埋葬されましたが、1960(昭和35)年に現在の松山市御幸1丁目へ墓地が移りました。  墓地の名称は長らく「ロシア人墓地」でしたが、近年「ロシア兵墓地」に改称されました。それは、2008(平成20)年よりワルシャワ大学東洋学部日本学科長のエヴァ・パワシュ=ルトコフスカ教授と日露関係史が専門の稲葉千晴・名城大教授らが日本各地の外国人墓地などを巡る共同調査を行なった際、ポーランドの当時の資料と名簿を照合することで、松山の「ロシア人墓地」への埋葬者のうち12名は、ポーランド人であることが判明したためです。ポーランド人兵士の捕虜収容所の1つとして使われた松山市の寺に、ポーランド人の101名の名前が記された名簿が残っていたのです。  数年にわたる日ポの共同調査の結果、北海道から奄美大島までの15都道府県で94人のポーランド人捕虜の墓を確認し、そのうちの37人が〝ロシア人″として埋葬されていることも分かりました。1世紀を経てしまいましたが、御霊の名誉回復ならぬ〝出自回復″ができたのです。  ロシア兵墓地は、ゴミ1つなく整然としています。それは、今日に至るまで地元の市立勝山中学校の生徒や墓地保存会のボランティアなどが、清掃活動や献花を行なってきたためです。市による主催で、慰霊祭も毎年実施しています。   日本人に出会ったら親切にして恩返しをしてほしい  1993年から1997年まで駐ポーランド日本大使館の大使を務めた兵頭長雄元大使の著作『善意の架け橋』(文藝春秋)の第1章「日露戦争とポーランド」に記された、関連するエピソードをご紹介しましょう。  兵頭氏が外務省に入省後の1961(昭和36)年、英国の陸軍学校へ入学した頃の話です。ロシア語の専門家をめざしていた兵頭氏の希望が受け入れられ、戦後初めての日本からの研修生として送られたそうです。初めて踏む異国の地で緊張の毎日を送る中、父親のように親切にしてくれる1人の老人がいました。  陸軍学校のロシア語担任の先生で自称グラドコフキ、第一次世界大戦後にポーランドが独立を取り戻した時代にポーランド陸軍の将校でしたが、第二次世界大戦でドイツとソ連に分割占領された後、ロンドンに亡命し、時のポーランド亡命政権に参加して終戦後そのまま英国に住みついて、同職に就いていました。  グラドコフスキ先生は兵頭氏を自宅に何度も招き、奥さんの手料理をご馳走してくれ、「分からなかったらいつでも来なさい」と声をかけてくれたそうです。  「なぜ、こんなにまで私に親切なのでしょうか?」  ある時、兵頭氏が思い切って尋ねてみたところ、先生の父親は日露戦争に召集されて参戦し、捕虜となり日本――おそらく松山へ、送られたとのことでした。周囲の日本人から痒い所に手が届くほど親切にされ、深い感銘を受けた父親は、温かい心と数々の善意が生涯忘れられず、息子(=グラドコフキ先生)に捕虜時代の想い出話をして、「お前も父親のために、日本人に出会ったらできるだけ親切にして恩返しをしてほしい」が口癖だったそうです。  幼心にもそれが深く刻み込まれた先生は、機会があれば日本に行きたいと考えており、日本に関する文献を集めては読み、また、第二次世界大戦中にポーランド独立運動に加わりソ連で抑留されていた時には、シベリア経由で日本亡命を企てたこともあったそうです。  グラドコフキ先生は、兵頭氏に「父親が受けた日本人からの親切を、貴君を通じてお返しできることは嬉しい」と語ったといいます。  松山をはじめとする日本各地での捕虜生活から帰国した、数千人のポーランド人兵士の日本への好印象は、ポーランドの親日感情の原点と言っても過言ではなさそうです。ロシア人に長らく虐げられ、極寒の地シベリアへ流刑にされたりして生活環境が劣悪な中、本意ではない戦争にまで駆り出されたわけですが、その分、異国の日本で感じた〝情″や〝心豊かな生活″は、砂漠の中でオアシスに出会った気分だったのかもしれません。  そして日露戦争での日本の勝利は、先が見えない暗闇のトンネルの中でもがき続けてきた不屈の民ポーランド人にとっての、一筋の希望の光となり、日本研究へと駆り立てたのです。 国家再起の想いに〝点火″した日本  開国そして近代化に着手してわずか40年余りの日本が、ポーランド人の宿敵で強大なロシア帝国との戦いに挑み、しかも大勝利という結果はポーランド人に強いインパクトを与えました。そして1904年から1905年にかけて、ポーランド社会では日本関連書物の出版ラッシュとなったのです。  タイトルを列挙すると、「日本」「日本と日本人」「日本の印象」「東洋事情-日露紛争-」「当代戦争に関する考察」「戦争-日露戦争のために出版された小冊子-」「士官-日露戦争の結末とは何か-」「日露戦争アルバム」「日露戦争の歴史」「東の国-日露戦争」「東と戦争」「剣を夢見る」「日本-その国と法律-」「日本-その政治的、経済的、社会的特徴」「日本への旅、日本社会」「日本からの手紙」「現代日本」「東アジア、日本、朝鮮、中国、そして極東ロシア」「サムライの女たち」「日本、土地と人」「日本人の鍛錬法」「日本女性の鍛錬法」、「Kokoro(こころ)」など。  テーマは戦争関連のみならず、経済や社会、日本人論、日本の歴史や文化など多岐にわたり、欧州言語で書かれた作品の翻訳版や日本を訪問したポーランド人を含む作家や学者、有識者による著書や新聞記事など、長短様々な出版物とその翻訳などでした。欧州におけるジャポニズムの流行とも相まって、芸術方面でも日本がキラ星のごとく注目されていました。  前編で紹介した日本美術コレクターで評論家のフェリクス・ヤシェンスキは生涯、日本の土を踏むことが叶いませんでしたが、この時代を生きていた1人です。ルヴフ大学の動物学者シモン・スィルスキ、南洋群島研究者のヤン・クバリなど、シベリア経由で日本近辺に辿り着いたポーランド人の報告書も発表されるようになりました。  日本語文献の翻訳では、新渡戸稲造の『Bushidō』(原題『武士道』)、徳富蘇峰の弟、徳富蘆花の『Namiko』(原題『不如帰(ほととぎす)』)、岡倉覚三の『Księga herbaty(茶の本)』(原題The Book of Tea)などが紹介されました。ブシドウ、サムライといった単語は、この時代から、そのままの音でポーランド社会にも広まったのです。  日本関連書物の出版ラッシュについて、ワルシャワ大学東洋学部日本学科長のルトコフスカ教授は、「日露戦争が20世紀前半の日波関係に与えたインパクトについて」で以下のように総括しています。  ――作品は概して日本を好意的に捉えているものであり、日本人に対して尊敬の念を示してさえもいる。戦争中、日本は強い国になるために必要な気風の手本を示した。その気風は国土分割に苦しむポーランドがまさに必要としていたものだった。ポーランド人は日本人の勇気に感銘を受けた。近代化の道を歩み始めてわずか数十年の国が、西洋の強国と比較して経験が不足しているにもかかわらず、強大なロシア帝国と戦って勝利したのだ。  ポーランド人はまた、日本人が他の文化から適切な手本を受け入れ、自らの固有の文化に融合させ、自らの力とする能力に感心した。また、日本人の自国を愛する心や、社会全体そして国のために自らを犠牲にする心、忠誠心そして勇気の他に、個人主義および利己主義の欠如についても多く書かれた。    ルトコフスカ教授の論文には、実証主義期のポーランドを代表する作家でジャーナリストの一人、ボレスワフ・プルス(1847~1912)が「日本と日本人」と題した雑誌シリーズの記事などで言及した日本人の国民性も紹介しています。  15歳にして1月蜂起に参加するなど、少年時代から愛国独立運動に目覚めていたプルスは、日本に関する文献をもとに、ポーランド人が日本人の国民性を手本にして意識を変化させることを望んだとされます。ワルシャワ大学の隣の公園にプルスの銅像があり、正門前の書店の名前になっている著名な作家です。  ……日本人の魂の奥深くにある特質は、個人の尊厳といった偉大なる感覚であり……その尊厳の柱となっているのは勇気である。それは、あえて強調する必要もないが、先の戦争で日本人が頻繁に証明したものである。……死をものともしない点において、日本人を超える国は存在しない。そしてそれが彼らの本当の強さを形作っている。……日本人のその他の偉大なる美徳として、自己抑制が挙げられる。自らの怒りや悲しみ、喜びを制御できない者は、日本では野蛮人と見なされる。……日本人は常に礼儀正しい微笑で会話をする。しかし、たとえ拷問されたり殺されたりしても、秘密を明かさないだろう。同様に素晴らしいのは彼らの社会的美徳であり、その中で最も優れているのは愛国心である。日本人の愛国心は外国人への憎しみや軽蔑に根ざしたものではなく、己に属するすべてのものに対する愛情に基づいている。軍のために何人かの者がその命を犠牲にして任務を遂行する必要が生じた場合、何人かではなく、何千人もの者が自らその任務に志願するだろう……これが、つい2年前にはヨーロッパ人に「サル」と呼ばれていたにもかかわらず、今は敵国からも尊敬を集める国の姿である。尊敬されたいと思うなら、皆、彼らを手本として努力しなければならない。  日本人が西洋列強から「サル」と侮蔑的に呼ばれていたことは残念ですが、いわゆる欧州人特有のアジア人差別なのでしょう。プルスは、「日本人の勇気、名誉、個人の尊厳、自己犠牲の精神、忠実性は、ポーランド人が模倣すべき気質である」「友人の意見は、えこひいきの場合があるが、敵国ロシアからも尊敬されたことは、その価値が本物であることを意味している」などとも記しています。  兎にも角にも、ポーランド人の国家再起への強い想いに、意図せずして〝点火″したのは日本だったのです。   〝複数言語使用者″としての日本観察  ポーランドという国家は地図上から姿を消してはいましたが、同化ユダヤ人を含めポーランド人は、それが故に〝複数言語使用者″でした。教育を受けた人々は占領国のロシア、ドイツ、オーストリアの言語の他に、母語(ポーランド語、イディッシュ語、ヘブライ語など)を身に着けていたのです。  ポーランド人はそもそも優秀な民族であり、識字率も高く、最低2カ国、3カ国の文化的背景を有する民族としての〝進化″を遂げ、しかも愛国者たちの政治活動の拠点が英国やフランスなどにもあったことから、複数言語に裏付けされた情報と、ロシアやプロイセンなど周辺諸国に虐げられ、辛酸を舐めてきたからこそ芽生えた複雑な情緒で、日本を理解する能力が際立っていたのではないかと推測します。  日露戦争最中の『海南新聞』の「俘虜彙聞」に頻出する捕虜の1人で、松山市の公会堂の収容所にいたポーランド人、「夏服の新調を希望」した前出のリウドーウク・クラウゼ中尉(当時33歳)は「風彩と云ひ言語と云ひ実に立派なもの」「独乙語でも仏蘭西語でも澳地利語でも英語でも巧みに話せる」との評価が残っており、捕虜を監督する陸軍中尉や記者との会話などにおいてキーパーソンだったようです。  外国語新聞の購読を許されたので『ジャパンタイムズ』を読んでいたため、戦況にも詳しかったのでしょう。また、雲祥寺の方だったようですが、折々、ポーランド語の新聞(おそらく社会党が発行)も送られていました。  「欧州各国の諸地方で農業を見ている」と語っているクラウゼ中尉は、松山近郊の農家を参観した際、その農業技術の水準の高さ――水田の給水や引水システムにまず感服し、その上で、「支那や朝鮮は無論のこと、他のどこの農民もボロボロなのに、松山の農村部はいずれも田植時の忙しい時でも内外の掃除が行き届き清潔で、しかも豊かに見える家が多い」と絶賛しています。  松山での捕虜生活の最中、将校ら8名が松山中学校を参観していますが、その際も、ウエンジヤゴリスキーというポーランド人将校が「日本の教育水準の高さ、武事教育だけでなく文事教育も進歩していること、国語には古文もあり、さらに同盟国の英語も学んでいること、全国に同一の教育過程が浸透し、貴族も平民も比較的廉価な学費で高い水準の教育を受けられる環境が整っていることなどを羨ましく素晴らしいと賞賛していた」ことが『海南新聞』(明治38年6月28日)に記されています。将校8名の多くはロシア人だったはずですが、記者が「ポーランド人将校が興味深い感想を語っている」として記した内容です。  松山で捕虜生活を送ったポーランド人将校もそうですが、「日本人の愛国心は、外国人への憎しみや軽蔑に根ざしたものではない」と綴る作家のプルスにしても、なぜこれほど的確に日本社会や日本人を理解したり、共感したりできるのでしょう? これは世界広しといえども、まったく容易なことではないと考えます。 〝牢獄の島″でアイヌ研究  アイヌ研究に没頭し、戦後の日本人研究者にとっての原点であり起爆剤となったポーランド人もいました。極東民族の言語・文化研究の世界的な第一人者で民族学者の、ブロニスワフ・ピウスツキ(1866~1918)です。  ロシア帝国に併合されていたリトアニアの首都ヴィルニュス北東60キロに所在するズーウフ(現ザラヴァス)で、没落したポーランド貴族の家庭に生まれた彼は、ポーランド社会党の指導者ユゼフ・ピウスツキの兄です。ペテルブルグ大学法学部に進学して間もない1887年3月、ロシア皇帝アレクサンドル三世暗殺未遂事件への関与の嫌疑で逮捕、サハリン(旧樺太)へ流刑にされ、その数年後から樺太原住民の実地調査を行なっていたようです。  1896年の刑期満了(本来の刑期は15年で、恩赦により3分の2に軽減)に伴い、南サハリン・コルサコフの測候所に勤務し、そこでアイヌ民族に接したことが本格的にアイヌ研究を始めるきっかけになったとされます。コルサコフのかつての地名は「大泊町」、日本領だった時代は港湾都市として栄えていました。  日露が1875(明治8)年に樺太・千島交換条約を締結するまで日本領だったサハリンには、アイヌ、ウイルタ、ニヴヒといった北方少数民族が先住民として暮らしていました。1902年7月、ピウスツキはウラジオストクからサハリンへ向かいアイヌ他原住民の調査をしている最中に、ペテルブルグの地理学会と科学アカデミーが作家で民族学者のヴァツワフ・シェロシェフスキ(1859~1945)を中心に組織した北海道アイヌ調査があり、それに帯同する形でピウスツキはサハリンから合流し、1903年6月に室蘭より入港して函館、白老、平取、札幌などでアイヌ民族の調査を3カ月ほど行なっています。  作家のシェロシェフスキは帰国途中に東京、京都、神戸、大阪へと立ち寄りました。その後は、発行部数の多い文化誌に「極東へ-旅の手記-」を発表したり、時事や歴史、旅行を扱う雑誌に日本の情報や印象を寄稿したりしています。彼の印象は、「恐れを知らない武士の国」「純潔で美しい女性の国」だったようです。  一方、運命のいたずらで20歳そこそこから極東での生活をすることになったピウスツキは、独学から始まりアイヌ語に精通する稀有な研究者でした。傷や通常の疾病をできるだけ治療し、さらに、「識字学校」を開校し教育を行なうことまで考えました。西海岸のマウカ(真岡)のアイヌが日本語に堪能だったことに驚いたピウスツキは、ロシア語を教えても上手くいくはずだと確信したのです。  そこで、サハリン軍司令官兼サハリン島軍務知事のリャプノフに開学を陳情し、友人の医師らを教師に据えて、子供たちにロシア語と算術・算盤を教え始めました。また、アイヌ部族の利害を代表して陳情書を執筆したり、原住民の見解を説明したりするなど、彼らの弁護人や代弁者としても振る舞ったとされます。アイヌ部族の族長の娘チュフサンマと結婚し、一男一女をもうけました。  1905年4月には、「樺太アイヌ統治規定草案」をリャプノフへ提出しました。同草案の主旨は、樺太アイヌの自治と自立を法的に担保することを通じて、伝統文化を維持しながら彼らの公民化を図ることでした。原住民の自治、教育、医療、社会・公共福祉をめぐって完璧に推敲を凝らした制度だったとの評価があります。  ところが日露戦争の勃発で、ピウスツキの運命はまた翻弄されます。日本軍の勝利を目前に、サハリン島のロシア人住民らが自発的および強制的に島外に移され、ポーツマス条約によりサハリン(樺太)の北緯50度以南は、日本統治下に入ることが決まったのです。アイヌ民族は、南樺太に居住していたので、再び〝国籍"が変わることになります。  まさにその転換期にピウスツキは東京を訪れ、8カ月ほど本土に滞在しています。滞在中に、社会主義者の片山潜や横山源之助、婦人運動家の福田英子など左翼活動家とも知り合ったとされます。最も親密だったのが、ロシア文学者・翻訳家として知られ、後にポーランド文学の翻訳にも携わった二葉亭四迷でした。二葉亭はピウスツキに物心両面で援助をし、大隈重信や板垣退助などにも引き合わせたとされます。両者はいつしか「日本・ポーランド友好協会」の設立構想を抱いていましたが、政治情勢の悪化と1909(明治42)年に二葉亭が死去したことで頓挫してしまいました。  二葉亭はピウスツキの人となりについて、「アイヌ救済を一生の一大責任と心得て、東京まで出て来た。ところが世間があまりに冷淡なので、大いに憤慨していたようだ」「衣服などは粗末で、食物などは何をも選ばぬ、生命さえ継げば、それで充分だ。どうしてもアイヌの如き憐れむべき人種を保護しなければならぬと考えて居る」(横山源之助著『真人長谷川辰之助』)などと語っていたようです。  樺太アイヌの「救済」と「自治」にピウスツキが人生を賭けるようになった原動力は、抑圧され、差別され、敗者と宣告された民族への心情的な連帯感であり、権力に翻弄されてきた亡国のポーランド民族の命運と重なる部分があったからだと考えられます。彼にとっては、ロシアであれ日本であれ、太古からの居住地としてきた民族の権利を破壊し身勝手に弄ぶ者たちは「心許せない」存在でしかなかったはずです。一方、アイヌ民族が彼を全知全能と考え、絶大な信頼を寄せてくれたことは、故郷から遠く切り離された孤独な人生においての、大きな励みだったのでしょう。  「故郷へ戻ることを常に希求しながら、自身が囚われの身の追放者であること、自らにとって最も大切な人たちのすべてから切り離されていることの苦痛を、なるべく忘れようと努めた」「彼らの言葉で語り合うことに深い喜びを覚える」といったピウスツキの心情も残されています。  〝牢獄の島″に自らの活路を見つけたピウスツキの稀有な能力、聡明さ、我慢強さ、生き抜く力、優しさ、そして人間愛には、筆舌に尽くしがたいものを感じます。   札幌で誕生したピウスツキ業績復元評価委員会  アイヌ研究において、ピウスツキが唯一無二の卓越した第一人者であるのは、『アイヌの言語・フォークロア研究資料』『サハリン島におけるアイヌの熊祭にて』(ロシア語版)他、「アイヌのシャマニズム」など数々の文献や論文を残したことのみならず、民具を収集し、当時では珍しくカメラとエディソン式蝋管蓄音器を携えてのフィールドワークを実施したことが挙げられます。数々の文献に写真が掲載されていることから、本人自身が「カメラを携えていた」と考えられており、蝋管は200~300本あったと推測されています。  民族学、シベリア研究、ピウスツキ研究で著名な井上紘一・北海道大学名誉教授の講演記録「ブロニスワフ・ピウスツキの足跡を尋ねて40年―就中、その極東滞在の究明―」には、英文著作の『アイヌの言語・フォークロア研究資料』について、「同書はアイヌ語を正確無比に記録した傑作として、今なお多くのアイヌ研究者が座右の銘にしています。またウイルタ語、ウリチ語、ナーナイ語に関しても優れた研究成果が残されていて」と記されています。  研究者が研究を深める原動力、機動力につながったのは言うまでもありません。最新技術を非常に早い段階で駆使し、樺太アイヌが独自の生活様式・習慣・儀礼・言語・伝統を堅持していた時代の「初めてで最古」の肉声を蝋管蓄音機に残したピウスツキについて、北方文化の研究者たちは、さらに「独特の観察力、洞察力、言説も特筆に価する」と絶賛しています。  研究者たちは戦後、ピウスツキの研究遺産つまり〝宝物″を、彼の自宅や旧ソ連、フィンランドのヘルシンキ大学図書館などで見つけていきます。ポーランド人学者らは、サハリンからポズナンに至る蝋管の数奇な運命の旅路をたどり、蝋管を収めたケースの蓋の上書きから録音内容を3種に分類し、蝋管蓄音機での再生を試みたものの、どうしても上手くいかなかったようです。  アダム・ミツキェヴィチ大学からの派遣で1976年より京都産業大学に留学していたアルフレッド・F・マイェヴィチが、京都産業大学の村山七郎教授(故人)に説得され、ピウスツキの蝋管に関する論文を、北海道大学・北方文化研究施設の紀要へ投稿しました。その論文に興味をそそられた北海道大学・北方文化研究施設の黒田信一助教授(故人)が、ピウスツキ蝋管の国際的共同研究の構想を漠然と描き始めたとされます。  ピウスツキ研究を推進することを目的として、1979(昭和54)年春頃には、ピウスツキ業績復元評価委員会(CRAP)が札幌で誕生しています。発起人は前出の北大助教授の黒田先生と井上先生でした。その喫緊の課題は、ポズナンのアダム・ミツキェヴィチ大学が所蔵するピウスツキ採録の蝋管を日本へ運んで、日本の最先進技術を駆使して収録音声を再生することにありました。  ポーランドからのバトンを、日本が受け取ったのです。  CRAPは多方面の専門家を結集する、学際的かつ国際的研究プロジェクトとして発展していく道をたどり、1981 (昭和56)年以降は、ピウスツキ業績復元評価国際委員会(ICRAP)に昇格しました。北海道大学・応用電気研究所の朝倉利光教授を中心とする工学チームによって、ポズナンから送られてきた蝋管65本の再生にも成功しました。その成果はICRAP が1985(昭和60)年9月に北大で開催した「ピウスツキ蝋管とアイヌ文化」と題する国際シンポジウムで報告されています。  ICRAPプロジェクトの反響は、「ペレストロイカ」を掲げたミハエル・ゴルバチョフ時代の旧ソ連のサハリンにも届きました。同地でもブロニスワフ・ピウスツキが学者として、島の卓越した探検者として高く評価されるようになり、南サハリンの一山は、「ピルスツキー山」として地図にも明示されたのです。  1990年、ピウスツキ生誕125周年を記念するサハリン会議では、サハリン州郷土史博物館の前庭における彼の記念碑の除幕式も行なわれました。1937年に築造された同博物館は、樺太庁博物館として日本人が設計した建造物です。  京都産業大学の留学生で前出のマイェヴィチは、アダム・ミツキェヴィチ大学東洋学・バルト学科長を務めていた時代に「ポーランドの日本研究」という論文を英文で記しています。  その一部を、以下にご紹介しましょう。    ――学生時代の私は、1ダースを優に超すヨーロッパの諸言語を流暢に操ることでも比較的有名で……修士論文では言語学専攻に転じて、英語をはじめ日本語、中国語、スワヒリ語、エスキモー語のように系統を異にし、また時には相互に極端に異なる75種の言語を取り上げて、動詞句構造を精査した。 私が大学を卒業した1973年には、母校のアダム・ミツキェヴィチ大学に言語学研究所が新設され、私は説得を受け入れその末席を汚すことになった……日本学関係文献目録をかなり手広く渉猟した際に、アイヌ研究に関わるポーランド人の名前があまた記録されている事実を発見して驚愕を禁じえなかった――    「ポーランド人は複数言語使用者」と前述しましたが、20歳前後で12種の欧州諸言語を流暢に操っていたという、ミツキェヴィチ青年の卓越した言語能力にまず驚きます。さらに、アイヌ研究に関わるポーランド人が「あまた」いたということは、たとえ光が当たらないものにでも深い興味を覚えれば追究する、言語を含め文化を理解しようと努める、そして資料を残すといった、ポーランド人気質、民族の特長が分かる事実ではないかと思います。

2013年に北海道胆振総合振興局管内白老町のアイヌ民族博物館に寄贈された ブロニスワフ・ピウスツキの胸像と両国関係者(提供:ポーランド大使館)

 2013(平成25)年10月には、北海道胆振総合振興局管内白老町のアイヌ民族博物館において、ブロニスワフ・ピウスツキ像除幕式が行なわれました。銅像除幕式への参列のために、ポーランドからはボグダン・ズドロイェフスキ文化・国家遺産大臣が訪日しました。ツィリル・コザチェフスキ大使、中曽根弘文「参議院日本・ポーランド友好議員連盟」会長、アイヌ民族博物館代表理事らが参列した除幕式には、ピウスツキの孫でピウスツキ家唯一の男系子孫にあたる木村和保氏の姿もありました。その先の曾孫、玄孫も日本人です。ピウスツキは家族を引き取るつもりで、サハリンに戻ったようですが、それが叶わず愛妻はサハリンで亡くなりました。長男長女は戦後、北海道へ移住したそうです。  1887年のサハリン流刑に始まるプロニスワフ・ピウスツキの流転の生涯は、1918年5月、パリのセーヌ河への投身自殺で幕を閉じました。

(一部敬称略) 次回は2015年7月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 河添恵子

    ノンフィクション作家。1963年、千葉県生まれ。名古屋市立女子短期大学卒業後、86年より北京外国語学院、遼寧師範大学へ留学。主な著書に『だから中国は日本の農地を買いにやって来る  TPPのためのレポート』『エリートの条件-世界の学校・教育最新事情』など。学研の図鑑“アジアの小学生”シリーズ6カ国(6冊)、“世界の子どもたち はいま”シリーズ24カ国(24冊)、“世界の中学生”シリーズ16カ国(16冊)、『世界がわかる子ども図鑑』を取材・編集・執筆。