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  • 第5回 日本とトルコの〝命の絆〟(最終編) 2015年1月5日更新
 オスマン帝国が滅びトルコ共和国へと生まれ変わり、和歌山県東牟婁郡大島村だった住所が和歌山県東牟婁郡串本町に変わろうと、年号が明治、大正、昭和、平成に移ろうと、エルトゥールル号の遭難者のための追悼祭、そして5年ごとの慰霊の大祭を地元がずっと執り行なってきました。子どもたちも日本とトルコの絆を小・中学校で学び、学校行事の一環として年1回は犠牲者が眠る樫野崎の墓地公園の清掃をしています。また、半世紀以上、「トルコ使節艦エルトゥールル号追悼歌」(作詞:和泉丈吉・作曲:打垣内正)も歌い継がれてきました。
 地元民が先人を敬い、誇りとし、異国の命であっても区別することなく墓を守り、史実を伝承していく責任をバトンしてきたのです。さらにイラン・イラク戦争の際、トルコ航空(現ターキッシュ・エアラインズ)によって、1985(昭和60)年3月に救出された日本人の一部と、串本町との交流も始まっています。
 10年ほど前から始動している、日本とトルコとの共同作業による新たな試みも注目を集めています。エルトゥールル号の遭難現場、樫野崎沖の海底に沈んでいるはずの遺品調査と引き揚げ、復元、そして保存作業です。海底にひっそりと1世紀以上、とり残されてきた歴史が、ロマンと共に蘇ったのです。

日本トルコ友好の軍艦遺品引き揚げ  
 1世紀以上を経た中で、水中写真家や地元ダイバーらも加わる形で〝エルトゥールル号海底遺品発掘調査団″(以下、遺品調査団)が組織されました。その中心人物は、世界的な組織である航海考古学研究所(Institute of Nautical Archaeology INA)のトルコ人メンバーで、INAとパートナー関係にあるボドルム海中考古学研究所のトゥファン・トゥランル所長(当時)(以下、トゥファン団長)でした。 
 まず、多くの日本人には馴染みがない「航海考古学(Nautical Archaeology)」ですが、関連して「海中考古学(Underwater Archaeology)」という英語表現が多用されており、日本語訳には「海中」の他に、海洋・海底・海事・水中などが散見しているようです。
 トゥファン団長は、ボドルム海中考古学研究所の研究員として1975年より地中海をはじめ数々の海中考古学調査、特に歴史的な沈没船の発掘プロジェクトを手がけ、国内外の数々のドキュメンタリー・フィルムの制作にも撮影ディレクターとして携わり、2002年から2008年までは同研究所の所長でした。
 トルコの南西端に位置するボドルムは、古代は地中海交易の拠点で、中世は十字軍の要塞となり港湾都市として繁栄し、今は地中海・エーゲ海のクルーズが楽しめるリゾート地として人気が高く、ボドルム城内にある海中考古学博物館(The Bodrum Museum of Underwater Archaeology)には、難破船や古代の海中遺品のコレクションが展示されています。
 地元紙『紀伊民報』の報道をはじめ、トルコのメディア、プロジェクト関係者のブログなどを参考に、遺品調査の経緯や経過をご紹介していきましょう。
 2004(平成16)年1月、事前調査で樫野沖に潜り、海中の様子や潮の流れや透明度などを調べた際にも、すでに軍艦の遺品とみられる弾丸や食器の破片のようなものを発見しています。「初めて船甲羅に潜り、灯台のある丘の方を見た時、 大勢の水兵たちが自分を見ているような気がした」と、トゥファン団長は語っています。
 2006(平成18)年の『紀伊民報』(12月16日付)によると、トゥファン団長が所長を務めるボドルム海中考古学研究所から串本町へ連絡が入り、その時に「遭難120周年の式典が開かれる2010(平成22)年までの5年計画で調査、発掘、保存、復元、展示をしていくこと、展示はトルコ記念館はじめ巡回展示も考えている」などの計画案と、「深さ5~20メートルの海域を、船上から水中音波探知機と磁気探知装置で探査し、機関部やボイラー、マストなど軍艦の一部や遺品が沈んでいる場所を特定し、海底からサンプルを回収し、保存の仕方を研究する」といった発掘・保存の方法について伝えられたそうです。
 翌2007(平成19)年1月8日、トゥファン団長が串本町役場で記者会見を開きました。その際、「遺品をすべて発掘したい」「事件を深く調査追究し、トルコと日本の友好親善をさらに強くしたい。救助に携わった日本人の誠意をトルコに伝えたい」「引き揚げた遺品が壊れると、これまで続いてきた友好も崩れる。慎重に取り組みたい。事故の時も住民に助けてもらったが、今回も同じように助けてもらうことになる」「乗組員を助けた、日本人の心を蘇らせたい」などの決意や、「思った以上に遺品はある。遺品がどのように分布しているかによってどのように沈没したかも分かる。そのような調査も進めていきたい」といった抱負を語りました。厳冬の海で、船上からの探査のみならず、ダイバーが潜っての遺品調査となります。

「期待」に胸を膨らませて
 エルトゥールル号の遺品調査プロジェクトの立ち上げについて、トルコの複数メディアは「ヤピクレディ銀行退職者基金のマネジャーであり、准教授ギライ・ヴェリオールが、旧友でボドルム海中考古学研究所のトゥファン・トゥランル所長に打診し、同基金の協力の可能性を示唆した」「ヤピクレディ銀行の会長でコチ財閥のラフミ・コチはダイビングが趣味で、全面的な協力を申し出た」などと後日、報じています。同銀行と基金の存在は我々日本人に馴染みがありませんが、トルコの大手民間銀行で、全世界の優れたPR活動を表彰するための国際PR協会(IPRA)開催による「IPRAゴールデン・ワールド・アワード」で「協賛」「消費者センター」の2カテゴリーで受賞したこともあります。
 遺品調査団はトゥファン団長、その妻であるベルタ・リエゾさんが保存処理の担当で、考古学の分野で世界的に著名な作家でありテキサスA&M大学のジェマル・プラク教授、水中写真家の赤木正和氏、約30年前と約20年前に遺品を探した経験があり地元の海を熟知しているベテラン・ダイバー榎本広志氏、スペインの海洋建築家など十数名で結成されました。和歌山県の県民や議員などからの協力も取りつけました。
 2007年1月の調査では、海岸から約200メートル離れた水深約11メートルの地点で、南方に向かい海底に幅50センチから10センチの谷間があり、その谷間にたくさんの遺品が散乱していることが確認できたそうです。木製の滑車、剣の柄、オスマン帝国時代の刻印が入った薬きょう、ランタンとみられる円筒状の物体など12点を、サンプルとして回収しました。
 ところで、漁師の間では半世紀前から「錨(いかり)を見た」「金庫が転がっている」など、遺品の噂はあったそうです。とはいえ、1世紀以上前の出来事です。「もう何もないのでは」という声も、地元では当初ありました。遺品調査団にとっても「少しでも何か、遺品が見つかれば……」との気持ちを混在させてのスタートでした。
 でも、もう迷いはありませんでした。それどころか、みな「期待」に胸を膨らませました。
 
118年の歳月を経て納棺された命
 『紀伊民報』のみならず全国紙、そしてトルコの日刊紙『Milliyet(ミリエット)』『ZAMAN(ザマン)』『H ü rriyet(ヒュリエット)』などの新聞やテレビが、遺品調査団の活動を度々報じるようになりました。赤木カメラマンら関係者も、さまざまな想いと共にブログにて経過を発信していきました。
 本格的な遺品引き揚げが始まった2008(平成20)年1月、トルコの日刊紙『Milliyet』(1月4日付)は、「118年後、日本で沈んだエルトゥールル号の関係者の子孫がイスタンブルで集合」と報じ、「ヤピクレディ銀行退職者基金と海中考古学研究所の協力により、2007年初頭に始まったプロジェクト『エルトゥールル号:日本にあるトルコ船舶』の集会が、1月3日にイスタンブルのラフミ・コチ博物館にて行なわれた」「ヤピクレディ銀行退職者基金の尽力により、エルトゥールル号の関係者の家族25組と連絡がついた」「同集会に、艦長オスマン・パシャの親類で俳優のセッラ・ユルマズ他が参加」「ボドルム海中考古学研究所、カリヤ文化芸術振興財団の代表で、遺品調査団の団長を務めるトゥファン・トゥランルが音頭を取り、エルトゥールル号の遺品引き揚げ作業の開始を決めたことが、遺族と新たにコンタクトを取るきっかけになった」などと詳細を記しています。
 同様の内容は、前日1月3日付のトルコ紙『ZAMAN』にも記されています。オスマン・パシャの曾孫で弁護士のオスマン・テキタシュさんが、式典の最後にスピーチもしたそうです。
 本格調査となった初年度、2008年1月から2月にかけての調査発掘作業では、士官の軍服のものとみられるボタンやライフル銃の台座、望遠鏡のレンズなど、計1171点を引き揚げています。
 頭蓋骨の一部、とみられる破片も見つかりました……。
 118年の歳月を経て、弔うことができずにいたことに対する懺悔のような、言葉にできない重い空気に関係者たちは包まれました。
 エルトゥールル研究センター(串本町が提供した作業場)にて、その頭蓋骨の一部は納棺され、エルトゥールル殉職者墓地へ運ばれました。東京ジャーミー(渋谷区代々木上原にある回教寺院で、トルコ共和国在東京大使館の所属)の導師・副導師が駆けつけ、棺をトルコ国旗でくるみ、しばらくの間、葬儀の祈りが捧げられ、人々の肩の上に乗せられて棺が運ばれ埋葬されました。

1時間の発掘作業後に脱塩や保存処理20時間
 遺品は順調に引き上げられつつありましたが、遺品調査団は別の壁にもぶち当たっていました。それについて、赤木カメラマンがブログ「水中写真家 赤木正和の海の食&水中映像制作日記」(2009年1月9日付)で吐露しています。
 ――当時の資料や引き上げられた遺物が展示されている。ところがその昔引き揚げられた遺物は、そのまま展示されているため、大部分がぼろぼろに風化したような状態になっている。僕が3年前に発見(ママ)引き揚げた遺物もそのままぼろぼろになっていて悲しい状態に……。日本では海洋考古学という分野の研究、処理技術の発達が遅れていて、引き揚げたままそーっと置いてあるだけというのが、ほとんどの引き揚げ物の現状だ。実は水中にある遺物は、そこにある限り、そうとう昔の木材であっても形状を保っている。これはその細胞膜や組織の中に海水が満たされているから崩れないでいるわけだ。これを空気中に持ち出して乾燥させてしまうと細胞膜の隔壁だけになってしまい、ぼろぼろになってしまうのだ。これを防ぐために脱塩処理を行ない、要所要所にセルロースを注射器で注入したり、プラスティックや樹脂を注入して保存処理を行なわねばならない。
 それ以外に、異種の金属やパーツが組み込まれている場合など保存処理が難しいのだ。したがって引き揚げる作業自体はそれほど時間がかからないのだが、この陸上の作業が(ママ)根気よい工程が必要になる。

 トゥファン団長も、その頃「1時間発掘したら、脱塩や保存処理など20時間分の後処理を施す必要がある」と語っています。2009年からは、旧西区民会館がエルトゥールル号研究センター(ERC)となり、地元ボランティアの高校生10人ほどが保存処理を手伝ってくれる態勢も整いました。海中遺品保存の輪、ノウハウの共有も始まったのです。
 その頃のトルコ紙『Milliyet』(2009年11月6日付)は、「弾丸、錨、金庫、日本の貨幣などが発掘された」「1週間でダイバー45人が、海深50メートルを調査」といったことや遺品調査団の名前や肩書き他、「生存者69人が保護された樫野埼灯台を30万ドルかけて修復した」などの内容を報じています。

ダイバーによって引き揚げられる銅製の大鍋(串本町提供)

 2010(平成22)年1月からの調査では、乗組員の食事をまかなった巨大な銅製の調理鍋、香水瓶、骨笛とクラリネットの部品、日本の貨幣などが続々と引き揚げられました。その中で注目されたひとつは、明治天皇が贈ったことを示す菊の紋章入りの白い陶器製の皿の破片でした。直径は約27センチあったとみられ、花弁が12枚の菊の紋章があり、周りには、ツルとみられる鳥などの模様が描かれていた跡がありました。ちなみに、これまでの5年間の潜水日数は計64日、約527時間だそうです。  なお、120周年を迎える同年、エルトゥールル号乗組員の遺族から、「今も串本への感謝の気持ちでいっぱい」という言葉が添えられた銀のプレートが、串本町と樫野地区代表に贈呈されました。   120年を経てトルコへ里帰りした遺品  イスタンブルの海洋博物館には、関連資料や犠牲者プレートなどが展示された「エルトゥールル号事件」の展示コーナーが設けられており、史実を継承してきましたが、トゥファン団長を中心とする遺品調査と発掘のプロジェクトが稼動して以来、遭難関係者の子孫が集ったりメディアが注目したりと、再びトルコ国民の関心が、この史実と日本へ向けられることになりました。  そして予定していた通り、大海難事故が起きて120周年となる2010年には、トルコ各地で様々なイベントが開催されました。  「失われた文化遺産の保護」が目的の機関であるトルコ海中考古学研究所、ボドルム海中考古学研究所、カルヤ芸術文化振興財団、そして串本町議会などが主催や協賛となり、イスタンブルのトルコ海軍・陸軍士官学校にて「軍艦エルトゥールル・国際シンポジウム」(3月9日~11日)が開催されました。  さらに2010年9月からは、引き揚げられた遺品の一部が「遺品里帰り展」としてトルコの各都市を巡回しました。マニサ地方紙の『ÖNDER(オンデル)』(10月20日付)、ニュースサイト『Sondakika(ソンダキカ)』などによると、遺品展は10月31日までイスタンブル、首都のアンカラ、ブルサなど20の県で開催され、各会場で遺品830点が展示されました。オープニングには、トゥファン団長はじめ関係者が多数参加しています。  展示品には磁器プレート、香水瓶、1856年製のビクトリア女王の絵画などもありました。日本へ到着するまでの長い航海中、寄港中の町でオスマン・パシャ、艦長のアリー・ベイ、海軍大佐ジェミール・ベイはじめ亡くなった士官たち、乗組員が家族や恋人のためのお土産として買い求めたものなのでしょうか……。  ちなみに、香水瓶について日本側では「艦長の奥さんへの土産ではないか?」と推測したそうですが、トルコでは「涙を瓶にためて、夫に渡した」との説が有力だそうです。もしかしたら全然別の、さらにロマン溢れるドラマがそこに隠されているのかもしれません。 洋上での追悼式  2010年の「エルトゥールル号遭難慰霊120周年記念式典」は、日本とトルコの両国で時期をずらして開催されました。串本町の姉妹都市のメルシン市では、同年9月、120周年の記念式典と「2010年トルコにおける日本年」を重ねたイベントが盛大に行なわれました。式典にはエルトゥールル・ギュナイ文化観光大臣、ハサン・ギュゼルオール・メルシン県知事、マジト・オズジャン・メルシン市長が参加した他、トルコ海軍からヌスレット・ギュナル海軍地中海司令他、海軍関係者が多数出席しました。  日本側は田中信明駐トルコ日本国大使はじめ、仁坂吉伸・和歌山県知事、田嶋勝正・串本町長、そして一般から200名弱がこのツアーに参加しています。メルシン港へ寄港した海上自衛隊練習艦隊から、徳丸伸一海上自衛隊練習艦隊司令官および乗組員なども出席しました。  先駆けて、同年6月3日の午前中に串本町で開催された120周年記念式典は、洋上での追悼式となりました。参列者は港から海上保安庁の巡視船「みなべ」に乗船し、沖に停泊している海上自衛隊護衛艦「せとゆき」に乗り換えました。寛仁親王殿下と長女の彬子女王殿下がご臨席され、駐日トルコ共和国セルメット・アタジャンル特命全権大使ら約90名が参列しました。その中には、オスマン・パシャの曾孫で、パリ在住の弁護士オスマン・テキタシュさん(当時67歳)の姿もありました。  トルコ軍楽隊が、オスマン帝国以来の伝統の軍楽「メフテル」を披露。セルメット大使が「串本町民が遭難者を献身的に介抱し、殉職者の魂を弔ったご恩を我々トルコ国民は永遠に感謝の念をもって胸に留めるでしょう」との追悼文を読み上げ、参列者が艦上から次々と海に白い菊を投げ入れました。  3日の午後は樫野埼灯台前の広場に設置されたアタテュルク像の除幕式典が開催され、その後、陸上での追悼式典が執り行なわれ、トルコ関係者、地元民他約600人が参加しました。大島小学校・中学校の児童・生徒と地元民が追悼歌を歌ったのですが、その中には、エルトゥールル号遭難の第1発見者とされる漁師、高野吉翁の親類の子孫、また曾祖父が乗組員を治療した医者だったとされる子孫もいました。  洋上式典には、「中編3」で紹介したイラン・イラク戦争の際にトルコ航空(現ターキッシュ・エアラインズ)で救出された「イラン戦友会」メンバーの沼田凖一氏、そして会社から快く送り出されたという高星輝次氏も参列しました。高星氏は回想録で「6月2日、羽田空港の32番ゲートには、南紀白浜行きの飛行機なのに大勢の外国人!」「白浜空港は空港全体がエルトゥールル号の120周年記念イベント、日本・トルコ友好120周年記念イベント一色」と感嘆。式典関係者専用の待合室が用意された白浜空港には、串本町のみならず和歌山県県庁職員など大勢が出迎えており、観光バスも待機していました。   串本町ふるさと納税の第1号  港では、地元メディアをはじめ少なからぬ人々が「沼田さんですね!」と取り囲みました。『紀伊民報』が、「1985年のイラン・イラク戦争時、トルコ政府が出した航空機によってイランから脱出した東京都羽村市の元会社員、沼田凖一さんが、『エルトゥールル号の遭難時に、献身的にトルコ人を助けた串本町の方々のお陰』と感謝し、故郷や応援したい自治体に寄付するふるさと納税制度で、同町に寄付をしていたことが分かった」と報じていたのです。  イズミットの大地震とその後をずっと気にかけていた沼田氏が、在日本トルコ大使館へ直接、御礼を言いに行った後、義援金の送り先を探す中でトルコと親交が深い串本町でスタートしたばかりの「ふるさと納税制度」に寄付をしたのでした。意図せずして、串本町ふるさと納税の第1号となりました。  「イラン戦友会」の高星氏は、洋上追悼式典の船上でのことをこのように記しています。  ――「120年前にエルトゥールル号が遭難した現場を見て、海上自衛隊海将武田(寿一)様の1985(昭和60)年3月のイラン・イラク戦争の開戦に伴う、邦人215名のトルコ航空機によるイランからの救出などは、100年来の貴国のわが国に対する深い思いを物語る証左でもあります」という追悼の言葉を聞いた時はもう涙をこらえられませんでした。いくら悲惨な海難事故だったとはいえ、120年も前の出来事であります。その追悼式典でボロボロと涙を流している中年男性2人(沼田と私)の姿は、他の人にはきっと奇異な光景に見えたのではないでしょうか。  「海」に消えてしまったオスマン帝国時代の方々を弔う、「空」からの脱出で九死に一生を得た日本人(沼田氏・高星氏)……。その揺るぎない原点となっている大島村樫野(現串本町樫野)の方々……。言葉では表現し尽くせない善意や謝意が、国境そして時代を超えてブーメランのように戻ってきているのです。  6月4日には、イラン・イラク戦争時にトゥルグト・オザル首相(当時)にテヘラン在住日本人215名の救出を直談判した、森永尭(たかし)・伊藤忠商事イスタンブル元支店長を招いてのシンポジウムも開催されています。なお、その頃、全国各地で講演会にも招かれた森永氏でしたが、2014(平成26)年5月22日に永眠されました。 明治から平成まで……史実を伝承してきた串本町の努力  海中遺品の調査発掘作業が本格始動することになり、串本町も2007(平成19)年より、エルトゥールル号の遭難者の捜索や遺体の埋葬作業に従事した島民の子孫などから情報を募り、資料収集を進めることにしました。すると、「明治二十四年二月二十六日」付で、石井忠亮・県知事(当時)から贈られた、遺体の捜索に尽力したことや、埋葬場所を提供したことなどに対する感謝の言葉が綴られた感謝状3通が寄贈されたのです。  寄贈したのは、和歌山県新宮市在住の斎藤泉氏でした。当時、大島村樫野区の区長だった斎藤半之右ヱ門氏(明治24年に死亡)の子孫で、半之右ヱ門氏は曾祖父に当たるそうです。10年ほど前に父親の遺品を整理していて感謝状を見つけた斎藤氏は、四つ折りにして和紙に包み大事に保管していたそうです。「立派な先祖を持ち、誇りに思います」と語り、松原繁樹町長(当時)は「トルコ軍からの感謝状はあるが、国内から贈られたものが確認されたのは初めて。大変貴重な資料です」と礼を述べています。なお、3枚の感謝状はトルコ記念館に展示されることになりました。  そのような中、週刊誌『ニューズウィーク日本版』(2007年10月17日号)の特集「世界が尊敬する日本人100人」の「100人」に、串本町がエントリーされました。「100人」は個人だけでなく団体やキャラクターも選ばれますが、自治体は珍しいようです。地元民による、トルコとの史実継承のための真摯で地道な活動への賛辞だと考えられます。  両国の首脳陣にとっても、外交手段として欠かせない一手になっています。  前年の2006(平成18)年1月12日には、トルコを訪問した小泉純一郎首相(当時)がトルコ航空のアリ・オズデミル元機長と面会し、謝意を表しています。そして2008(平成20)年6月、即位の礼を除き、2国間の公式訪問としては初のトルコ元首の訪日となるアブドゥラー・ギュル大統領の訪日が実現しましたが、その際、ギュル大統領は串本町で行なわれた慰霊式典にも参加しています。  また、レジェップ・タイイップ・エルドアン首相が訪日した2014年1月には、日本トルコ友好協会会長他、遭難者の救助活動にあたった日本人の子孫を招いた会食会を催しています。安倍晋三首相も同年3月7日、首相官邸においてトルコのイスメト・ユルマズ国防大臣の表敬訪問を受け、その席上で前年2月24日に亡くなったトルコ航空のパイロットでイラン・イラク戦争の〝命の翼″の第1機長を務めたオルハン・スヨルジュ機長に対する弔意を表明しています。  スヨルジュ元機長は、もうひとりのアリ・オズデミル元機長と共に2006年春、旭日小綬章を受章しました。同年同時期には元駐イラン大使のイスメット・ビルセル氏が旭日重光賞を、旭日中綬章に元トルコ航空総裁が、そしてトルコ航空機関士と客室乗務員らも旭日双光章や旭日単光章などを得ています。    翌2007年10月、中近東文化センター大講堂で開かれたシンポジウム「イランからの脱出:日本人を救出したトルコ航空」では、スヨルジュ元機長がパネリストの一人として参加しています。  その際に語られた内容のごく一部ですが、ご紹介しましょう。 「トルコ国境に入った時点で、『Welcome to Turkey!』とアナウンスを入れました。テヘラン空港で、皆さんが乗り込む切迫した姿も見ましたし、イスタンブルに到着した際の拍手も聞きましたので、その時に感じた幸福感はとても大きかったです。ただ、残念ながら操縦席におりましたので、直接、お目にかかってご挨拶することはできませんでした。トルコ航空に26年間勤務した者として、この業務を任されたことを大変に誇りに思っておりました。今日は皆様のお話を伺い、その任務が非常に重要であったことを再確認いたしました。この機会に、感謝の気持ちを表わしたいと思います」  それから4年後の2011(平成23)年、80歳代半ばの晩年にもスヨルジュ元機長は日本へ訪れ、串本町で交流をしています。 遺品が日本トルコの友好・親善の再出発点に

トゥファン・トゥランル団長(左)と特別メニュー。 和歌山県立博物館の喫茶室にて(著者撮影)

 2012(平成24)年9月8日~10月11日まで、和歌山県立博物館秋の特別展「よみがえる軍艦 エルトゥールル号の記憶」が開催されました。同博物館とトゥファン団長が代表を務めるボドルム・カリヤ文化芸術振興財団(Bodrum Karya Culture Art and Promotion Foundation)による共同主催で、後援は串本町、駐日トルコ共和国文化観光省、トルコ航空などでした。  日本で初めて開催される同特別展では、海中発掘調査で引き揚げられた遺品、約7000点のうち、ウインチェスター銃、弾丸、釘、コイン、巨大な銅製の調理鍋、菊の紋章入り磁器の破片、将校のボタン・バックル、皿、香水瓶など950点あまりが展示されました。両国の関係者の熱意と海中考古学の進歩によって、脱塩・保存処理で復元された遺品が120年以上を経て蘇ったのです。  トゥファン団長は、「発掘調査だけが目的ではない。日本とトルコの友好・親善の出発点とし、子どもたちに引き継ぎ、エルトゥールル号事故の遺族・子孫との交流を進めたい」と語っています。遺品調査団も厳冬の海と格闘、次世代に新たなバトンをつなぎました。  翌2013(平成25)年も、トゥファン団長と妻で保存処理主任のベルタさんが串本町に滞在し、旧養春小学校の理科室で遺品から塩分を取り除く作業を続けました。大島小学校の児童も、遺品の引き揚げ作業の映像を見たり遺品を保存する意義を考えたり、ベルタさんの説明を聞いた後、ブラシなどを使って作業を手伝ったりしたそうです。  海中の遺物は、保存処理に数十年かかることもあるとされます。鉄はとりわけ厄介で、錆が進行すると、周りの遺物や砂利、貝殻などを取り込み膨れ上がり、天ぷらの衣のようになります。カチカチとなった天ぷらの衣のような塊に遺物が詰まっている可能性があるため、そのまま陸へ引き揚げ、根気よく保存処理、解体作業、復元処理を進めていきます。つまり、発掘してから何年も経た後に貴重な遺物が見つかる場合もあるのです。  遺品調査団は、「前年に引き揚げた凝固物(高さ約25センチ・幅約50センチ・奥行約30センチ)の中から、コーヒーミルが見つかった」と2011年1月に発表しています。引き揚げた当初、金属製皿状の物体(直径約12センチ)は蒸気機関の一部ではないかと考えられましたが、2010年5月に鑑定依頼先のテキサス州の研究機関より「コーヒーミルの一部(ホッパー)」との結果が伝えられたのでした。その後の復元処理で約14センチ四方の箱形の本体台座部やハンドル部分も見つかり、トゥファン団長と妻ベルタさんらが「形やサイズを示す数字の4などから、イギリス製のコーヒーミルと確認できた」と発表しました。  さて、和歌山市議会議員や経営者、税理士など幅広い分野の有志100人ほどが参加しての、プロジェクト支援グループも結成されました。遺品発掘調査はまだ終わっていません。再開する見通しで、史実という〝航海″はこれからも続いていくのです。その他、串本町のエルトゥールル号研究センターを充実させる計画や、海中遺品展覧会を続けていくことなどが提案、予定されています。遭難海域を一般ダイバーに公開する「海中博物館構想」も以前からあります。串本町の姉妹都市メルシン市も、「さらに絆を深めたい」と協力を申し出ています。   日本人を助けてくれてありがとう  同年には悲しい知らせもありました。前述の通り、イラン・イラク戦争の〝命の翼″の第1機長だったオルハン・スヨルジュ元機長が2月24日、肺癌により87歳で亡くなったのです。1周忌(2014年)に合わせ、「エルトゥールル号殉難者と共に追悼することで両国の絆をより強くしよう」と呼びかけたのは、南紀国際交流協会(西畑栄治会長)でした。トルコ・日本国交樹立90周年記念事業「友情のともしび」を開催することとしました。  キャンドル・イベントには約500人が参列し、スヨルジュ元機長と遭難者587人の魂を慰めるため、588本のキャンドルが灯され、黙祷を捧げたあと、両国の国歌が流れました。追悼式典には、田嶋勝正町長やセルダル・クルチ駐日トルコ大使と両夫人、トゥファン団長、エルトゥールル号の物語を題材に、史上初の日ト合作映画を製作する田中光敏監督、岩谷知道樫野区長なども参列しました。  スヨルジュさんの妻ヘルガさんからの、「夫は、日本人救助の話になると決まって『今、任務を与えられたら、当然すぐに駆けつけるだろう』と話していました。今日に灯された明かりが全世界に平和をもたらし、両国の素晴らしい友好関係が次なる世代にとって、よき例となることを願っています」というメッセージも紹介されました。   慰霊碑の横に設置されたドームには、地元の大島小学校と大島中学校の児童・生徒が「トルコのパイロット、日本人を助けてくれてありがとう」「友情が深く長く続きますように」などと書いたメッセージ・キャンドルが吊り下げられました。  なお、スヨルジュ元機長の出身、イスタンブル市と姉妹都市関係にある山口県下関市でも、火の山公園トルコチューリップ園に「オルハン・スヨルジュ記念園」の名を冠し、1周忌の4月11日に、記念碑の除幕式としだれ桜の記念植樹式を行なっています。記念碑には故スヨルジュ機長、トルコ航空救援機の写真と顕彰文が記されています。  日本人を救出したトルコ人の〝逞しい魂″が、これからも我々を見守ってくださるはずです。 世界で唯一無二の、究極の〝命の絆″  「イラン戦友会」の沼田氏は、「スヨルジュやクルーの皆さん、トルコ政府関係者の決断と勇気と家族愛にも勝るとも劣らない行動を一生忘れません。両国の友好関係が一層深まるよう努力していくので、どうぞ安心してごゆっくりお休みください」と感謝の言葉を贈っています。高星氏はイスタンブルの駐トルコ日本領事館領事の計らいで、25年の時を経て、元機長との再会も果たしていたそうです。回想録に以下のように綴っています。  「優しい目で私たちを迎えてくれました。温かくやわらかい手で握手をしてくれました。そして、『テヘランからの日本人救出の際のクルーは最強のメンバーが集まった』と胸を張って言っておられました。私たちの命の恩人です」  日ト合作映画プロジェクト(田中光敏監督・小松江里子脚本)も進行中です。両国から、製作のための資金もたくさん集まりました。また、2013(平成25)年度より刷新された高校英語の教科書『ランドマーク』(啓林館)には、日本とトルコの1世紀を越える劇的な物語が8ページを割いて掲載されています。タイトルは「Friendship over Time(時を超えた友情)」です。『新しい歴史教科書』(自由社)にも、エルトゥールル号の遭難事件と大島の島民の献身的な救助救難活動について紹介されています。  日本とトルコは、国を超え、民族を超え、時を超え、世代が変わろうと、記憶を風化させるどころか様々な立場と時節で史実の探索を続け、新たな真実をそこに加え、記憶のみならず丹念な記録を残しながら〝絆″を深め合ってきました。  その起点は、まぎれもなく和歌山県東牟婁郡串本町(当時の和歌山県東牟婁郡大島村)なのです。史実の伝承のみならず、「生と死」という極限に遭遇しても、日本とトルコは困難なことを共に乗り越えていく〝勇気の絆″〝無私の絆″があるようです。魂の部分で深くつながり、感謝の熱い心を届け合う関係……。世界で唯一無二の究極の〝命の絆″が、ここに存在しているのです。

(敬称略) 次回は2015年2月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 河添恵子

    ノンフィクション作家。1963年、千葉県生まれ。名古屋市立女子短期大学卒業後、86年より北京外国語学院、遼寧師範大学へ留学。主な著書に『だから中国は日本の農地を買いにやって来る  TPPのためのレポート』『エリートの条件-世界の学校・教育最新事情』など。学研の図鑑“アジアの小学生”シリーズ6カ国(6冊)、“世界の子どもたち はいま”シリーズ24カ国(24冊)、“世界の中学生”シリーズ16カ国(16冊)、『世界がわかる子ども図鑑』を取材・編集・執筆。