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  • 第6回〝親日国″〝知日国″の隠れ世界ナンバー1はポーランド(前編) 2015年2月1日更新
 中欧に位置するポーランド共和国は人口3800万人強、国民の約97%がポーランド人(西スラブ族)で、その他はウクライナ人やロシア人など、公用語はポーランド語(スラブ語派)です。地理、民族、宗教(約95%がカトリック信者)において日本と〝お隣さん″と言うにはあたらないポーランドですが、私自身が世界40カ国以上を取材した中で、実は〝親日国″〝知日国″の隠れ世界ナンバー1だと感じています。
 それはなぜ? 一体どんなきっかけ、根拠から?
 前編は、世界の巨匠アンジェイ・ワイダ監督が心に秘めてきた長年の想い、具現化させた〝マンガ″、そして、その鍵となる〝陰の主役″のご紹介から進めていきましょう。
 〝日本を再発見″する物語の始まりです。

 第2次世界大戦中、浮世絵で開眼したワイダ少年 
 中世の街並みが美しいポーランド南部の古都クラクフ。かつて欧州の大国として繁栄したヤギェウォ王朝時代(1386~1572)の首都でしたが、第2次世界大戦中にはナチス・ドイツの司令部が置かれました。1978年、「ユネスコの世界遺産に登録された第1号の都市(12都市の中の1つ)」に選ばれたこの地に、通称〝マンガ″と呼ばれる施設があります。
 日本語では「日本美術・技術センター」などと記されていますが、ポーランド語での正式名称を直訳しますと、「日本美術技術博物館マンガ(Muzeum Sztuki i Techniki Japońskiej Manggha)」(以下〝マンガ″)となります。
 〝マンガ″は「日本」を紹介する博物館として、日本語学習はもちろん、様々な定期講座や歌舞伎、能、三味線演奏、剣術、盆栽などのイベントを行なう場として老若男女に親しまれています。和カフェ(カフェ・マンガ)もあります。

クラクフ市にある「日本美術・技術センター」。通称〝マンガ″(著者撮影)

 2014(平成26)年7月、安倍政権は日本政府の対外政策や文化・情報を世界に発信する「ジャパン・ハウス」を海外に建設していくこと、「日本ブランド」の発信力を高め、売り込んでいく方針などを発表しましたが、その20年前となる1994年11月に開館した〝マンガ″は、「日本をこよなく愛する」「日本の文化や伝統、芸術を最も理解している」外国人の1人であり、ポーランドが生んだ世界的な映画監督、アンジェイ・ワイダ監督(1926~)の発案によって実現した日本館です。しかも、2005年以降、〝マンガ″では日系企業による先端技術展示なども行なっており、安倍政権が打ち出した構想のまさに先駆的な存在と言えそうです。  ポーランド東北部のスヴァウキ県(現ポドラシェ県)スヴァウキに生まれ、15歳頃より画家を目指していた17歳(本人の最近のメッセージに「19歳」との記述もあり)のワイダ少年は、クラクフ織物会館で浮世絵など日本美術品と出会いました。その時のことを、「衝撃的な感動だった。これまで目にしたことのない、明るさ、光、規則性、調和……。それは、私の人生における真の芸術との最初の出会いでした」などと回想しています。その数年前の1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻により第2次世界大戦の火ぶたが切られ、国内軍兵士となったワイダ少年が、反ナチス・ドイツ抵抗運動に従事し始めた頃のことです。  なぜ、戦時中に日本美術が展示されたのでしょう?   ワイダ監督はこの疑問について、「日本はドイツの同盟国だったから、ヴァヴェル城に本部を置いていたドイツ軍の総督が、日本に敬意を表するため展示を決めたのだろう。私は危険を承知で織物会館に紛れ込んだが冒険だった。その時のことは、今でも細部にわたって鮮明に覚えている」「当時は誰がどういう理由でコレクションしたといったことも、まったく知らなかった」とも語っています。 ワイダ監督の「抵抗3部作」時代  第2次世界大戦でソビエト連邦とドイツに分割占領されたポーランドは、1943年のワルシャワ・ゲットー蜂起と1944年に勃発したワルシャワ蜂起(1944年8月1日~10月)により、ワルシャワ旧市街の85%がドイツ軍によって破壊され、瓦礫と化し、当時の人口は3000万人ほどでしたが約600万人、5人に1人が亡くなるという世界最高の比率の犠牲者を出しました。重軽傷者を含むと2000万人以上が戦争被害を受けたとされ、その中にはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所などで無残な最期を遂げた約270万人のユダヤ系ポーランド人も含まれます。  陸軍将校だったワイダ少年の父親も、その他のポーランド軍将校や警官、国境警備員、聖職者らと共に、ソ連の内務人民委員部(NKVD)によって、カティンの森で1942年に銃殺されました。(「カティンの森事件」「カティンの森虐殺」などと呼ばれ、一説には2万人を超える大虐殺)。しかも戦後の東西冷戦期は、この事件がナチス・ドイツ軍の犯罪とされ、真相はほぼ闇に葬られていたのです。  欧州の中でも極めて甚大な戦争被害に遭い、さらに戦後はソ連のスターリン体制の支配下に置かれ、社会主義国の道を歩み始めることとなった最中の1946年、ワイダ青年はクラクフ美術大学へ入学し、その後、ウッチ映画大学へ進学して1953年に卒業すると、助監督を経て、ナチス占領下のポーランドを舞台に若者たちによる反ナチ運動と共産党系人民軍(AL)への加担を描いた『世代』で、1955年に映画監督としてデビューしました。  そして、1957年に発表した『地下水道』が第10回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞、1958年にイェジ・アンジェイェフスキの同名小説を映画化した『灰とダイヤモンド』ではソ連の支配下にある中でのレジスタンスを象徴的に描き、翌59年の第20回ヴェネツィア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞に輝きました。  これら3作品は、ワルシャワ蜂起時のレジスタンスや、戦後共産化したポーランド社会の苛酷な運命を描いた「抵抗3部作」として知られています。  政府による統制経済の影響でブルジョア的文化が否定され、文化芸術には不可欠な言論と表現の自由が厳しく制限される中、ワイダ監督は巧みに検閲を潜り抜け、魂に訴える秀逸な作品により体制批判を続け、〈ポーランド派〉の代表的存在に上りつめていきました。  ワイダ監督をはじめ、ユダヤ系のアンジェイ・ムンク(1921~1961)、現ウクライナ領生まれでアルメニア系のイエジー・カヴァレロヴィッチ(1922~2007)などの監督や劇作家による、抑圧された社会と人間像を重厚に映してきた政治的・社会的色彩の濃い作品が、1950年代から60年代初頭にかけて国際映画祭で数々の賞を受賞したことで、西側のメディアから〈ポーランド派〉と注目を集めたのです。  ポーランド映画は〝灰″の中から不死鳥のごとく甦りました。   ワイダ夫妻が発起人となった「京都―クラクフ基金」  ポーランドという国家そして、ユダヤ系を含むポーランド人は、この1世紀を振り返ってみても、周辺の超大国に事実上、消滅させられたり、意のままに操られたり、無残に殺害されたり、街を壊滅状態にされたりと、まさに悲劇の縮図でした。  1981年12月の戒厳令で独立自主管理労組「連帯」のレフ・ワレサ(後の大統領)が軟禁され、「連帯」の支持者でワレサを映画に特別出演させるなど友人関係にあったワイダ監督も、ポーランド映画人協会会長の座を追われ、自国政府によって製作プロダクションが解散に追い込まれ、海外での製作を余儀なくされるなどの辛酸も舐めています。  名声そして逆境……。強靱な精神力を培いながら、稀代の才能を発揮し続けてきたワイダ監督ですが、心の中にずっと大切にしまっていたことがありました。それは「日本の文化に触れて、(自分のように)開眼するポーランド人が、きっとこれからも現われるはず」という〝確信的な想い″でした。「北斎の『神奈川沖浪裏』、喜多川歌麿の美人画や安藤広重の『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』は、私の記憶に刻まれ、どこに行っても永遠に私の物となりました」とも回想しています。そして、クラクフ国立博物館に所蔵されている日本美術コレクターのフェリクス・ヤシェンスキ(1861~1929)の膨大なコレクションを、常設で展示する美術館を造る夢を抱き続けていたのです。  というのも、戦後は表向き「展示する場所がない」などの理由から、浮世絵をはじめとした作品群は、博物館の倉庫のこやし状態で、数々のコレクションを閲覧できるのは研究者に限られ、国内外の展覧会などでごくたまに一般人の眼に触れる程度だったのです。  ワイダ監督が長年の夢の実現に向けて動き出したのは1987年、稲盛財団による日本において科学芸術の貢献者に与えられる京都賞(第3回)の精神科学・表現芸術部門を受賞した時でした。「若い時に経験した感情や歓喜は、人生において最も強く心に残る。若い自分が日本の美術に触れた際に得た、あの幸福感を他の人々にも味わってもらいたい」と、ワイダ夫妻が発起人となり、副賞の4500万円を基に「京都―クラクフ基金」を立ち上げ、日ポ両国で募金活動を展開していきました。  募金委員長は三井物産の八尋俊邦会長(当時)、岩波ホール(東京都千代田区神田神保町の映画館)に同基金の日本支部が置かれ、ワイダ監督と親しく各界に人脈があった高野悦子総支配人(1929~2013)が方々に働きかけ、ワイダ監督も自ら街中で募金活動を行ないました。80年代後半の日本はバブル経済真っ只中、一方のポーランドは統一労働者党(共産党)主導による社会主義経済運営が行き詰まり、ワレサ率いる独立自主管理労組「連帯」が掲げる反共、民主化を求める声が高まっていました。  日本政府が約300万ドルの拠出を決め、1992(平成4)年にはJR東労組(東日本旅客鉄道労働組合)がワイダ監督の情熱を支援する方向性を打ち出し、街頭カンパや「1週間1人10円カンパ」に取り組み100万ドルを提供したことが、ワイダ監督の夢の実現に弾みをつけたようです。ポーランド最古の大学、ヤギェウォ大学で教鞭をとりながら備前焼の専門家でもあるエバ・カミンスキ助教授は、「日本の企業、団体、個人、そして大使館の協力によって〝マンガ″は誕生しました。13万8000人による募金協力と、両国政府の援助で実現したと記されていますが、日本からの多大なる資金援助と協力のお陰です」と語っていました。  設計を手掛けることになったポストモダンの代表的な建築家の1人、磯崎新氏はクラクフの候補地を視察して、ヴィスワ川の分岐点で中世の街らしい景観が広がる見晴しのいい現在の場所を選んだそうです。川が静かに流れるその対岸には、歴代ポーランド王の居城だったヴァヴェル城がそびえています。  名称は、「日本の美術と共にその背景にある日本の技術も紹介したい」とのワイダ監督の想いから「日本美術・技術センター」になりました。1994年11月の開幕式典には高円宮同妃両殿下が公式訪問され、日本・ポーランド関係史上初の皇室によるご訪問となりました。12月にはワレサ大統領が国賓として日本に滞在しており、日本とポーランドの関係において1994年は画期的な1年となりました。  反体制側「連帯」と体制側が政治運営について話し合った「円卓会議(1989年2月~4月)」は世界的に有名ですが、東欧で戦後初めての非共産党政権を誕生させた立役者で、1990年12月に大統領に選出されたワレサも大変な親日家のようで、「ポーランドを第2の日本にしよう。我々は第2の日本になりたい。普通の日本の市民が体験している明るさ、自由、豊かな暮らし、そういうものがポーランドに欲しい。第2の日本をめざそう」と熱く語ったことでも知られています。  東西冷戦の象徴だったベルリンの壁の崩壊(1989年11月)、ソビエト連邦共和国の崩壊(1991年12月)といった歴史的に大きなうねりの中で、東欧諸国やバルト3国、中央アジアなどが、民主化、自由化、独立を獲得し、新生国家として大きく舵を切り始めていた頃の話です。

「お箸で食べるのは難しいよ」。カフェ・マンガでお寿司を食べます(著者撮影)

無傷で残った7000点の日本文化・芸術品のコレクション  ワイダ監督の熱意に心を動かされた両国民の力で〝マンガ″が実現しましたが、ここで、さらりと前述しただけの〝陰の主役″に注目したいと思います。〝マンガ″のギャラリーには、クラクフ国立博物館が所蔵する浮世絵や掛け軸、屏風、甲冑、刀剣、陶器など、伝統的な日本美術品が常設で展示されています。これらの大部分は、1人のポーランド人が19世紀末から20世紀初めにかけて収集したもので、その数7000点(欧州有数の浮世絵コレクション約4600枚を含む)ほど。1920年にクラクフ国立博物館にすべて寄贈されました。  コレクションの数の多さ、種類の豊富さにも目を見張りますが、「寄贈」という道を選んだポーランド人、フェリクス・ヤシェンスキとは一体、どういう人物だったのでしょうか?  〝マンガ″のホームページなどから要約してみました。  ――1861年、裕福な大地主の家に生まれたヤシェンスキは、類いまれな知性と芸術的・文学的才能の持ち主でしたが、その天賦の才は大学で学業を修めたこと、そして膨大で多彩な読書を経験したことでさらに開花していきました。1880年代、学業に磨きをかけるため赴いたパリで、初めて日本美術と出会います。  〝芸術の都″だった当時のパリで、日本美術は芸術家らの興味を刺激し、魅了し、その創作活動におけるインスピレーションの源となっていきました。これはいわゆるジャポニズム、19世紀後半にパリで始まった芸術運動で、次第に他の西欧諸国へと広まっていきました。  日本美術の虜となったヤシェンスキは、パリのオークションや骨董品店で、日本伝統工芸品の買い付けを始めました。収集品は、浮世絵、日本画、漆器に始まり、青銅器、陶磁器、布製品、象牙細工、武器にまで及びました。1888年、ポーランドに戻った後も友人や代理業者の仲介で、パリやベルリン、日本からの買い付けを行ないます。そしていつしか彼の胸中に、自らのコレクションを祖国に寄贈したい、という考えが芽生えたそうです。――    「日本が憧れの国」だったヤシェンスキは、しかも単なる〝コレクター″ではありませんでした。ポーランド語やフランス語などで、評論活動をしていました。「日本人即ち武士にして芸術家なり。その胸中には武士道、祖国、芸術の三位一体たる思想。その武器は剣、剣すなわち芸術作品。日本刀は恐るべき武器であると同時に、全世界に並ぶものなき鍛冶技術の傑作である」などと論じたり、芸術品のみならず、画工、彫金工、組紐職人、塗師たちを「芸術家にして職人、職人にして芸術家たち」と称賛もしています。  深い造詣と愛情を持って、日本の美術品のみならず武士道精神にまで傾倒、それを広めていく活動に熱中したヤシェンスキは、ポーランドどころか欧州においても先駆的な〝日本の伝道師″だったのです。  ちなみに日本美術・技術センターの通称、〝マンガ″の綴りはMangghaです。これはヤシェンスキがコレクションの中でも特に熱愛していた『北斎漫画』のMangaという単語のスペルを少し変え、自らのペンネームとして使用していたことに由来します。  ヤシェンスキが日本に傾倒し始めた19世紀後半、日本とポーランドの間に国交はなく、それどころかポーランドという国も無かったのです。隣接していたロシア、プロシア、オーストリアの3国に分割されたポーランドは1795年に消滅、それから123年間、世界地図から姿を消していました。1918年に第1次世界大戦が終結、独立を回復したポーランドは、翌1919(大正8)年に日本との国交を樹立しています。  「一般への展示を目的とすること」「ばらばらにせず、常に1カ所にまとめておくこと」などを条件に、前述の通り、1920年にヤシェンスキ・コレクションのすべてがクラクフ国立博物館に寄贈されることになりました。ところが寄贈契約書を交わした後も、コレクションは9年間、彼の住まいに保管されたまま……。ヤシェンスキは憧れの日本の地を踏むことさえなく、1929年にその生涯を終えました。  〝日本の伝道師″ヤシェンスキの崇高な夢――日本美術を展示する博物館の創設を、半世紀以上かかったとはいえ具現化したのが、「ヤシェンスキ・コレクションに出会い、日本に魅了された」ワイダ監督でした。  ある資料によると、ナチス・ドイツ軍が515点ほどの木版画(葛飾北斎・喜多川歌麿・安藤広重など)と17点の絵画を持ち去ったとされますが、7000点もの日本文化・芸術品が戦禍をくぐり、闇で転売されることもなく、1世紀を超えてほぼ無傷でこの地に残り、ポーランド人の心に「何か」を伝えています。これは奇跡なのか、偶然の必然なのか?   少なくとも、日本人は感謝しなくてはなりません。 浮世絵や日本画の絵葉書をずっと眺める幼児  2012年5月6日の日曜日、青空が広がり初夏のようなお天気となったこの日、「こどもの日」の特別イベントが催される〝マンガ″に、地元や周辺地域から大勢が訪れていました。  イベントの内容は、オリガミを折ったり、着物姿の女の子や富士山など日本にまつわる絵のぬり絵をしたり、日本文化のクイズに答えたり。常設のカフェ・マンガのデッキ席で、陽だまりの中、寿司やどら焼きを食べる家族の姿もあります。  ちなみに、ポーランドの「こどもの日」は6月1日です。でも、この日は「(日本の)こどもの日」を模したイベントだったので、外には鯉のぼりも泳いでいました。 「こんにちは!」  クリアな日本語でニッコリほほ笑む金髪の愛らしい女の子たち、かぶとのオリガミなどを画用紙に貼り付けた作品を手に持つ2人は、ドミニカ・クルプチャックさんとカロリーナさん姉妹です。「近郊の村からバスに乗って来た」そうで、クラクフ市内に住む幼いいとこ2人も一緒でした。

ドミニカさん(後方右)とカロリーナさん姉妹といとこたち(著者撮影)

 「〝マンガ″が設ける日本語講座の初級クラスで学んでいます。レベルは5段階に分かれていて下から2番目です」と語る高校1年生(以下、すべて出会った時の年齢・学年)の姉ドミニカさん。長い間、会話を続けていて驚いたのは、こちらの質問をきちんと理解し、いわゆる初歩レベルのカタコト日本語ではないどころか、日本人と変わらないイントネーションと正しい文法で、まるで日本人のような受け答えをすることです。  「4歳頃、日本のアニメをテレビで観たのが好きになったきっかけです。漫画はたくさん読みましたよ~。日本のドラマも好きです。小学1年生のいとこは今、トトロに夢中なんです」  こう滑らかな日本語を操るドミニカさんの横で、中学1年生の妹カロリーナさんもほほ笑みながらコックリと頷き、「私もこれから日本語を勉強します」と語り、「日本の文化や伝統、都会、色々なことに興味があります。日本へ行ってみたい!」と目を輝かせていました。  〝マンガ″での日本語講座は2004年から始まり、その他、書道・生花・茶道・盆栽講座も好評だそうです。茶室もあります。また、囲碁と将棋の国際大会も開かれています。さらに能と狂言の他、人間国宝・鶴賀若狭掾(つるがわかさのじょう)氏による新内と車人形、猿八座による浄瑠璃、日本舞踊、地唄舞、舞楽法会、落語の公演なども開催されました。  そして「こどもの日」をはじめ年に何度か、オリガミ、風呂敷の色々な結び方、着付け、書道など、子どもが対象のイベントも催される〝マンガ″で、ハッとする光景も目にしました。売店コーナーには、葛飾北斎の浮世絵をはじめ、日本画家の絵葉書がラックに飾られ売られているのですが、そこにたたずみ、長い時間、1つひとつ丁寧に絵葉書を眺める人々……。その中には、幼児の姿もあったのです。

〝マンガ″の売店コーナー。乳母車の幼児も見つめていました(著者撮影)

 子どもは一般的に色や形状が単純なキャラクター系を好みますが、その反面、細かいものを見る能力にも長けています。ただ、興味が無いものに集中力は続かないはずです。つまり自発的に続けられる=関心がある=好き=才能を発揮させられる素地がある、ではないかと考えます。モノも言わず長い間、浮世絵を眺め、別の日本画を取り出し、また見つめている幼児の姿に、「日本の文化に触れて啓発されるポーランド人がきっとこれからも現われる」と信じてきたワイダ監督の言葉がだぶります。  日本大使館のホームページに、〝マンガ″の開設から20周年によせてのワイダ監督の挨拶文がありました。その最後のフレーズを、以下に紹介しましょう。  ――どうして日本に特別な関心を抱いたのか、いくつもの可能性があったにもかかわらず、なぜこんなにも遠い国に興味を持つことになったのかと、よく聞かれます。  答えは簡単です。日本では、心から親しみを持てる人々と出会いました。言葉も分からず、習慣もほんの少ししか知りませんが、日本人のことをとてもよく理解できるのです。日本人は、真面目で、責任感があり、誠実さを備え、伝統を守ります。それらは全て、私が自分の生涯において大事にしている精神です。日本と出会ったおかげで、このような美しい精神が、私の想像の中だけで存在しているわけではないことが分かりました。そのような精神が、本当に存在するのです。――  〝マンガ″は、日本の美しい精神に「共感する」ポーランド人のDNAの〝発掘場″になっていると言えそうです。絵葉書を手に取りじっくりと見つめる小さな身体が、素直にそのことを証明してくれているように感じました。   武道は、「ユニフォームがカッコいい」  「英語の授業がたいくつだったりすると、こっそり漢字の練習をするの。学校で先生に当てられて、思わず日本語で『ハイ』って返事をしちゃったこともあります」  こうほほ笑んで語るのはクラクフ在住の中学3年生、15歳のユリア・ブコフスカさん。ニックネームは「茶(チャ)」だそうです。サンスター日本語学校(兵頭博代表)へ通い始めて丸3年、国際交流基金と財団法人日本国際教育支援協会が運営する、日本語能力試験のN5(初級)にも合格しました。  首都ワルシャワ、クラクフなどの大都市には幾つも日本語講座(私塾)が開校しており、放課後や週末に中学生も通っています。同講座の教室はクラクフ一の進学校の校舎の一部を借りて、15時半以降、20時半頃まで、レベル別に行なっています。1学期の学費は日本円で1万数千円。受講費がもっと高い塾もありますが、いずれにしても平均所得や物価から考えれば、決して安い値段ではありません。  「いつ、日本や日本語を意識したのか」について同講座で学ぶ中学・高校生に尋ねてみたところ、大多数が5~7歳に遡るようです。漫画やアニメなら『NARUTO‐ナルト‐』『ONE PIECE(ワンピース)』『ドラゴンボール』『セーラームーン』『ドラえもん』『ポケモン』、そして『となりのトトロ』はじめ宮崎駿作品など。日本発のサブカルチャーは、ポーランドのみならず世界でこの10余年、定番の人気を誇っています。  その他、「北斎の浮世絵や和服に感激して」「テレビドラマの『花より男子』を見て」といった声もあり、JポップやJロックにも詳しく、2012年に取材した際は、「シンガーソングライターのYUIさんが人気」「いきものがかりが好き」など、ネット世代らしく今をキャッチアップしていました。将来については「漫画家か日本語の翻訳家になりたい」「日本学科に進みたい」といった声も上がりました。

サンスター日本語学校で学ぶユリアさん(著者撮影)

 ユリアさんは、「お父さんが『建築家になるのはどう?』って言っていたけれど、私は日本へ行って漫画家になりたい。京都精華大学にマンガ学部があると聞いています。それから、日本人男性ともお付き合いしてみたい!」と語っていました。その他、「日本の神様、神道や仏教について学んでいる」という女子もいました。  インターネットの普及も後押しすることで、全世界で親しまれている漫画やアニメ、Jポップ、Jロック、メイドカフェなどのサブカルチャーのみならず、黒澤明監督の映画作品や日本文学、松尾芭蕉の俳句、歌舞伎や浄瑠璃、能、狂言、浮世絵、琴、茶道、和食、和菓子といった伝統芸能や伝統文化を鑑賞、堪能することが趣味というポーランド人、その方面の専門家や研究者が少なくありません。そして空手、柔道、相撲、合気道、剣道といった日本の武道も盛んです。武道は「ユニフォームがカッコいい」などの理由も含め、近年、人気が高まっています。  ポーランドにおいての外国語教育は、英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語、ロシア語の6種類が基本となっています。戦後からソ連解体前までの主流はロシア語でしたが、90年代から英語に変わり、2004年5月に欧州連合(EU)入りしたことで、大多数の子どもは小学3年生(現在は多くが1年生)から英語(一部がドイツ語など)を学び始め、中学校へ進学すると、さらに第2外国語でドイツ語やフランス語などを選択します。ごく一部ですが、日本語が選択できる中学校や高校もあります。  在ポーランド日本国大使館広報文化センターの資料によると、日本語能力試験がワルシャワで実施された初年度(2004年)の受験者総数は約80名でしたが、2012年には約750名となり、約10倍に増加しています。  また同年5月、ポーランド日本情報工科大学日本文化学部・副学部長の東保光彦教授の関係者(ポーランド人)が、ワルシャワ第212小学校(2~6年生の計400人弱)を対象に行なったアンケート(質問は①日本に興味がある?②日本語を習いたい?の2問)で、2年生はYESの回答が①64%②57%、3年生は①72%②69%と驚きの数字で、5学年を平均すると63%が「日本に興味がある」、56%が「日本語を習いたい」でした。  母語のポーランド語、英語、そして欧州言語というトライリンガルを目指す、それだけでも大変なはずですが、受験と無関係な「日本語」、しかもアルファベットではなく漢字とひらがなとカタカナで表記し文法も異なる外国語を学んでいる、もしくは学びたがっている若年層がこれだけ目立つ国は、世界的にもかなり特殊であり珍しいと言えます。  EU加盟を契機に日系企業がポーランドへ次々と進出しており、日本語のニーズが以前より高まっていること、SUSHIはじめ日本食レストランの増加なども追い風になっていると考えられます。ただ、アジア諸国においての80年代と90年代の日本語学習ブームのような、「就職や転職の際に有利になるから」といった経済に裏打ちされた理由は、ポーランドにおいての主流ではなさそうです。   「鬱」がなぜ常用漢字に?  天皇皇后両陛下が、2002(平成14)年にポーランドをご訪問された際には、日本研究の歴史で欧州随一とされる国立ワルシャワ大学の日本学科の学生との交流の時間も持たれています。同大学はポーランドで最高学府の1校ですが、古事記の原文訳本を出版するなど、国内外において日本研究の指導的役割を果たしています。  その他にもクラクフのヤギェウォ大学、ポズナンのアダム・ミツキェヴィチ大学などの国立名門大学や私立大学に日本学科があり、日本文学や言語学などの学位が取得できること、理工系の学生にも日本語熱が高く、高等教育においても「日本」は欠かせないキーワードになっています。それどころか国立大学の日本学科は大変な人気で、倍率は20~30倍と超難関です。一例で2006年のワルシャワ大学日本学科の倍率は30.25倍、これは全大学の学科においての最高倍率だったそうです。  しかも、非漢字圏の若者層は日本語をかじったり、専攻していても、その大多数は漢字の読み書きに抵抗があります。ところがポーランド人は話術や完璧な発音のみならず、読み書きの習得にもとても積極的です。「漢字の見た目や日本語の響き、すべてが大好き」という声すらあります。  実際、日本語の実力を示すデータもあります。日本の文部科学省が実施する日本語・日本文化を学ぶ国費留学生(日研生)の合格者数で、2014(平成26)年度にポーランドが世界最多となったのです。  ワルシャワ大学と並ぶ最高学府の1校、国立ヤギェウォ大学の日本中国学科に在籍するアーノルド・ノビック君(2015年現在は大学院生)から受けた質問には、新鮮な驚きを感じました。「ウツの漢字は『欝』と『鬱』がありますね。なぜ、難しい方のこちらの『鬱』が今回、常用漢字に入ったのでしょう?」とメモ帳にスラスラと書きながら尋ねたのです。  常用漢字表が改正(平成22年11月内閣告示)されたことは新聞報道で知ってはいましたが、その際、新たに196文字が追加され、その中でも最も複雑な文字は「鬱」だったようです。自身含む日本の成人のどれほどが「欝」「鬱」を正確に書けるのか相当怪しいはずですが、アーノルド君は複雑なこの2文字すら完璧に書けるのです。  ちなみに、我々日本人を含む一般的な日本語学習は、ひらがなとカタカナをマスターして、その後、頻度が高く書き順の少ない常用漢字を徐々に覚えていく方法ですが、アーノルド君の勉強法は独特です。漢字の「読み」は、音読みや訓読みもある上で微妙な変化もあるため二の次として、まずは「筆記」から。常用漢字すべてを正確に書けるよう練習して、文章も最初から漢字を混ぜて書いていたそうです。

(敬称略) 次回は2015年3月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 河添恵子

    ノンフィクション作家。1963年、千葉県生まれ。名古屋市立女子短期大学卒業後、86年より北京外国語学院、遼寧師範大学へ留学。主な著書に『だから中国は日本の農地を買いにやって来る  TPPのためのレポート』『エリートの条件-世界の学校・教育最新事情』など。学研の図鑑“アジアの小学生”シリーズ6カ国(6冊)、“世界の子どもたち はいま”シリーズ24カ国(24冊)、“世界の中学生”シリーズ16カ国(16冊)、『世界がわかる子ども図鑑』を取材・編集・執筆。