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  • 第8回〝親日国″〝知日国″の隠れ世界ナンバー1はポーランド(第3編) 2015年4月1日更新
 「被災民の心を少しでも癒してあげたい」
 「被災地の復興の一助になれば」
 4年前の3月、東日本大震災の発生直後からポーランド共和国では団体や組織、有志らが声を挙げ、立ち上がり、政官財とも連携し、コンサートやショー、武術や茶道、盆栽など日本文化の紹介、千羽鶴リレーなど様々なイベントを通じて義援金を募り、被災民の心を癒し、被災地の復興をサポートすることを目的とした活動が全国各地で湧き起こりました。
 ――日本との連帯(ポSolidarni z Japonią 英Solidarity with Japan)――
 という表現で一丸となったポーランド共和国と日本は、この瞬間から、両国の友好を再確認し絆を深め合っていく新たな歴史の〝スタート地点″に立ったのでした。

全会一致で採択された「日本との連帯」
 東日本大震災から5日目となる2011年3月16日、ポーランド共和国の国会で、全議員が起立して黙祷を捧げる様子がテレビにまず映し出されました。この日は、東日本大震災の発生から初めての国会開催日でした。
 審議に先立ち震災の犠牲者を追悼する黙祷を行ない、「日本との連帯(Solidarni z Japonią)」を表明、全会一致で採択されました。
 その冒頭部分は、以下の通りです。
 ――日本国民を襲ったこの恐ろしい惨事に対し、ポーランド国民の名において当国会は深い同情と共に、日本にとって悲劇的なこの日々への連帯を表明します――
 翌日の17日には、ブロニスワフ・コモロフスキ大統領と夫人、ドナルド・トゥスク首相、続いて政財界の要人、一般人らが次々と首都ワルシャワにある駐ポーランド日本大使館を訪れ、弔問記帳を行ないました。
 「被災民は不安な日々を送っているはずなのに、パニックに陥っていない」「70人の勇敢なサムライたちが福島第一原発に残留し、必死の制御作業を続けている」など、政府より一足先に、ポーランド国民の多くはテレビで繰り返し報じられる瓦礫と化した被災地の様子に涙し、被災民を憂い、福島第一原発の1号機、2号機、3号機がどうなってしまうのか……固唾を飲んで見守っていました。大人たちは一様に、隣国の旧ソ連ウクライナで25年前に起きた、チェルノブイリ原発の史上最悪の事故とその被害を想起し、顔を曇らせていたのです。
 日本大使館に同情や弔意、励ましの言葉、更には援助の申し込みの電話が相次ぎ、大使館前に花やズニチェ(お墓や教会に捧げるろうそく)を置いて黙祷する姿も見受けられました。
 国内最大級のNGO団体ポーランド人道アクション(Polska Akcja Humanitarna/PAH)、カリタス・ポーランド(Caritas Polska)、ポーランド赤十字社など主要な慈善・宗教団体も、復興支援や義援金集めに動き出していました。カトリック司教協議会も、国内すべてのカトリック教会に対して、日本へ送る義援金集めのための号令をかけました。
 合気道協会、伝統空手協会、剣道協会などの武道関係団体、ワルシャワ大学(ワルシャワ)、ヤギェウォ大学(クラクフ)、アダム・ミツキェヴィチ大学(ポズナン)など、全国各地で日本語や日本文化を学ぶ国立名門大学の学生たち、若者たちも、学内や街頭で義援金集めや千羽鶴を折るなど動き出しました。小学校や中学校でも「日本デー」を設け、被災民を励ます活動に取り組みました。
 前編でご紹介した日ポの情熱の賜物「日本美術技術博物館マンガ(Muzeum Sztuki i Techniki Japońskiej Manggha)」(以下〝マンガ″)、ポーランド・日本交流センター(タルノフスキェ・グーリ)、日本文化センター・ヤマト(プシェミシル)など、地方の団体や協会も日本との連帯に動き出しました。
 
ショパンで「連帯」する両国
 ポーランドの音楽業界、クラシック音楽の演奏家たちも即、「連帯」に動きました。
 「日本の被災地の子どもたちの支援」を目的に、ショパン国際ピアノコンクール入賞者のポーランド人ピアニストらの演奏による、フレデリック・ショパンの作品を収めたチャリティー・アルバム『日本と連帯―日本がんばれ!』の緊急発売を決めたのです。
 「ポーランドで最も偉大な作曲家、フレデリック・ショパンの作品を敬愛する日本のために、チャリティー・アルバムを作ろう!」
 こう音頭を取ったのは、ポーランド・ラジオ(PR)チャンネル3、そしてユニバーサル・ミュージック・グループでした。国内の主要なラジオ局から次々と支持が集まり、ポーランド・テレビ(TVP)をはじめ、テレビ各局もプロモーションへの参画を表明しました。ブロニスワフ・コモロフスキ大統領を同プロジェクトの名誉総裁とし、ポーランド人道アクションを通じて販売収益の全額が義援金として寄付されることになりました。
 2011年4月8日に発売された同アルバムは、世界のクラシック界で最高の評価を受けている1人のクリスチャン・ツィメルマン、ショパンに似た風貌からも人気が高い気鋭の若手ラファウ・ブレハッチ、大御所のバルバラ・ヘッセ=ブコフスカやアダム・ハラシェヴィチなど、ポーランドを代表する名ピアニストの演奏が詰まった(それぞれ別の時・場所で演奏、収録)ショパン選集となりました。
 CDの挨拶文には、「わずか数分の間に、すべての人たちとあらゆるものを失った子どもたち――家族・近親者も、クラスメートも、友だちも、家も、本も、おもちゃも――突然、子ども時代を奪われ、寂しくおびえている子どもたちの悲劇は、他者の苦しみに無関心ではいられない人々を動かしています(中略)。ポーランド人演奏家によるショパン音楽の演奏を、心から味わってください。日本との連帯によって、この大きな悲劇に苦しむ日本の子どもたちを助けましょう」と記されています。
 ベルリン芸術大学とハノーファー音楽大学で学び、同大学在学中にペンデレツキー国際コンクール(ポーランド)での総合優勝をはじめ数々の受賞歴があり、ポーランド人の音楽仲間も多いピアニスト牧村英里子氏が、ポーランドのクラシック業界の〝重み″を以下のように解説してくれました。
 「ポーランドが背負ってきたのは、侵略の歴史です。再独立を果たしたものの、戦争で大量の死傷者を出し、戦後はソ連の脅威と隣り合わせで、ベルリンの壁が崩壊する1989年11月まで、西側社会に渡れるのは音楽家など極々限られた人たちでした。80年代の旧東欧諸国は日々の食事を満足に取ることも困難で、ポーランドもその例外ではありませんでした。ポーランド人は、まさに不屈の民です。特に私が触れ合っている海外で活躍するポーランド人音楽家は、『人生は戦いなのよ』『絶対に負けないわ』という貪欲さがみなぎっています。非常にアグレッシブなのですが、その反面、とてもお人よしです。彼ら彼女らがよく語っていたのは、『僕たちは、例えば君をゲストとして家へ招くと決めたら、夕方にはすでに愛犬を君に散歩させているよ(笑)』でした。いったん受け入れると決めたら、家族のようにとことん、という文化なのか民族的な習慣があるようです」
 周辺国に侵略され、国を失うなど幾度もの困難な時代を乗り越え、前向きに生き抜いてきたポーランド人のDNAは、強さと優しさを包含し、それが他者の痛みに寄り添うパワーの源になっているとも言えそうです。
 しかも、ポーランドの音楽業界そして外交関係者は、「日本人はショパンを熱狂的に支持してくれている」「日本でのショパンの愛され方は尋常ではない」と改めて驚き、感激したタイミングでもあったようです。
 というのも前年の2010年は「ショパン生誕200年」の記念すべき1年だったのですが、テレビで特集番組が放映され、音楽業界はもとより旅行業界も、まるで自国の英雄を愛でるかのような盛り上がりでした。〝ピアノの詩人″の異名を持つショパンは、世界中で当然のように愛奏、愛聴されているかと思いきや、他国では必ずしもそうではないようなのです。
 10代で才能を開花させ、名声を得ながら39歳の若さでパリにて早世した天才作曲家フレデリック・ショパンを、「ポーランドの心」とずっと敬愛し誇りに感じているポーランド人。片や、ショパンの繊細かつメランコリックな旋律と人生そのものに共感してきた日本人。2世紀という時を超えても、ショパンはまぎれもなく日本とポーランドの〝絆の架け橋″であり、絶対的な〝守り神″として存在しているのです。

ポーランド人の温かい心に動かされた在ポ邦人たち
 2011年4月1日からは、痛みを分かち合うとともに、健康回復の願いを込める日本の千羽鶴の伝統になぞらえ、「100万羽鶴(Milion Żurawi)」と銘打った運動が全国で開催されました。発起人代表は、日本とポーランドのハーフ(Mike Haruki Yamazaki 山崎春樹、Karol Tomoki Yamazaki 山崎朋樹)の2人でした。チャリティーコンサートや日本文化イベントなどを通して、ポーランド人道アクションを窓口に義援金を集めました。
 ワルシャワのある会場で行なわれた、日本文化チャリティーイベントの中身は、入口に盆栽が飾られ、陶器や茶葉の販売コーナーがあり、日本舞踊が披露され、剣術や合気道を見学でき、書道教室、花札や囲碁で遊べるコーナーがあり、寿司を食べてといった本格的な内容で大盛況だったそうです。
 この100万羽鶴運動の一環では、ポーランドのゴールドディスクを10回、プラチナディスクを7回獲得した、ポーランドを代表する歌姫であり作詞作曲を手掛ける音楽家のアンナ・マリア・ヨペック、J.ステチュコフスカの出演するチャリティーコンサートも行なわれ、アンナ・コモロフスカ大統領夫人が後援をしています。
 4月2日には、ポーランド在住邦人2名とポーランド人1名の女性3名が主催する形で、被災者支援のためのチャリティーコンサート「千羽鶴コンサート」が行なわれました。主催者の1人で、ワルシャワ在住の大学講師ピスコルスカ千恵さんがこう回想しています。
 「大震災発生直後から、ポーランド国中が日本のことを心配してくれていました。ポーランドの方々はこれまでも日本への親近感を強く持っていましたが、『日本のために何かできることはない?』と、私に尋ねてくれました。日本に飛んで行って、被災地で何かできないものか……。遠く離れたワルシャワでただ泣いているだけだった私に、本当にたくさんの友人や知人が日本のことを心配し、電話をかけてくれました。その中には、長い間、会っていなかった方、顔見知り程度の方もいました。友人の1人、カーシャ・ミフネフスカさんが、『じゃあ、ワルシャワで何かしよう! チャリティーイベントを開催し、義援金を集めて日本へ送りましょう』と提案してくれたのです。日本人も大好きなショパンを奏で、音楽を通じてポーランドの人々の温かい心を日本へ届けるのがいいのではないかと、ピアニストで友人の西水佳代さんにお声がけし、千羽鶴コンサート実行委員会を立ち上げました」
 この「千羽鶴コンサート」を開催するにあたっては、ポーランドの外務大臣と在ポーランド日本大使館が名誉後援に、コンサート実行委員会「Poland For Japan」とワジェンキ公園が共催することになりました。

「千羽鶴コンサート」の開催当日、 パンフレットを配るピスコルスカ小春さん(当時11歳) (提供:ピスコルスカ千恵)

 大きな窓から差し込む光に照らされた彫像が立ち並ぶ美しいコンサートホールで、被災地の写真や被災者たちの呟き、ポーランドからの応援の言葉や寄せ書きなどを編集したスライドショーを背景に、100人以上のポーランド人と日本人の有志による多彩な演奏が繰り広げられました。  午前9時からピスコルスカ千恵さんの娘、小春さん含む子ども・大学生・研究生たちが腕前を披露し、午後からは国立オペラ座の歌手や楽員・ショパン音楽大学の教授・ポーランドで活動している日本人ピアニストの西水佳代さんなど、プロのアーティストが演奏しました。  フィナーレには、2002年公開の映画で第55回カンヌ国際映画祭パルムドールとアカデミー賞の3部門で受賞した『戦場のピアニスト』(監督ロマン・ポランスキー)で、ショパンのピアノ曲を演奏録音したヤヌシュ・オレイニチャクが「日本のために、是非とも弾きたい」と予定を変更して駆けつけてくれました。日本に捧げる祈りのようなショパンのノクターン第20番の静かな音色から始まり、ラストは力強い旋律の英雄ポロネーズが、コンサートホールを包みました。

ヤヌシュ・オレイニチャクの演奏(提供:Marcel Bird)

 9時間にわたる「千羽鶴コンサート」の幕が、閉じられました。  「演奏を一心に聴く人、募金をする人、日本人や学生のボランティアたちに教わりながら鶴を折る人、日本に贈る記念帳に温かい言葉をしたためる人……。会場は、和やかで優しい雰囲気に包まれました。遠いところにいながら日本を応援する気持ちを募金活動という形で表わすだけでなく、鶴を折ったり記帳したり音楽を演奏鑑賞しながら、目に見えない思いをさらに広く、深く皆で共有することができた貴重な1日でした」  こう、ピスコルスカさんらが特設ブログでも報告をしています。  来場者は約2500名、願いを込めた約2000羽の鶴が誕生し、2万4000ズウォティ(約80万円)の義援金が集まりました。寄付金は日本赤十字社に届くよう、同日に日本大使館の義援金口座に振り込まれました。  ピスコルスカさんは4年後の2015(平成27)年3月、以下のように語っています。 「コンサートや義援金募集の活動など、一度もやったことのない素人の私たちが、大規模なチャリティーコンサートを、しかも短期間で準備をして成し遂げられたのは、ひとえにポーランドの方々の『日本のためにできる限りのことを』という温かい支援があったからです。ポーランドでは普段、募金活動をするためには書類申請をして許可をもらわなくてはならず、かなりの時間を要するそうです。でも、私たちの熱意に内務省が『今回は特別です』と許可をすぐに出してくれました。また、コンサート会場はもちろん、印刷物も、折り紙も、会場設定も、ボランティアのスタッフの食事までも、企業や個人がご提供くださりました」  ポーランド人の善意に背中を押されたピスコルスカ千恵さんをはじめとする在ポ邦人は、その後も、震災写真と東北の子どもたちの絵画展を国立大劇場で企画したり、追悼コンサートと「日本の大震災から未来のために学ぶこと」と題したシンポジウムを開催したり、日ポ両国民の心を紡ぐ活動を行なっています。 ブレハッチの原点、聖ローレンス教会から福島へ  前述のチャリティー・アルバム『日本と連帯―日本がんばれ!』に参加した、若手ピアニストのラファウ・ブレハッチ(1985~)は、2005年のショパン国際ピアノコンクールの優勝者ですが、ポーランド国民が「20歳のスーパースターがついに誕生! クリスチャン・ツィメルマン優勝後の空白の30年間。ポーランド国民は、この日が来るのを辛抱強く待っていた」と歓喜、熱狂された逸材です。  国民は総立ちでポーランドの御祝いの時の歌『Sto lat ! (good wish for you for 100 years.「君の100年間の栄光を祝う」)』を合唱したり、国旗を振りかざしたり、国中がFIFAワールドカップで優勝したかのような熱気に包まれたそうです。  そのブレハッチが、「私の原点」と称する教会があります。首都ワルシャワから北西250キロのビドゴシチ市からさらに西へ30キロ、ナクウォ教区にある聖ローレンス教会です。  ナクウォ・ナデ・ノテション出身の彼は、幼少期より敬虔なクリスチャンの両親に手を引かれ聖ローレンス教会へ通っていました。5歳の時から正式にピアノを習い始め、8歳からアントン・ルービンシュタイン音楽院で学んでいます。そして、いつの頃からか、ミサが終わると町の人たちがブレハッチの演奏を楽しみにするようになっていたそうです。

世界的ピアニスト、ブレハッチが「私の原点」と称する ナクウォ教区の聖ローレンス教会 (提供:ポーランド市民交流友の会 影山美恵子)

 ブレハッチが14歳前後になった、あるミサの日の出来事です。  同教会のオルガン奏者が体調を崩してしまい、代役を探していたヤン・アンジェイチャク神父(当時)の元へ、音楽学校で学び、非凡な才能ですでに知られていたブレハッチ少年が、『僕が演奏しましょうか?』と控えめに申し出たそうです。  この時をきっかけに聖ローレンス教会のオルガン奏者を務めることになり、これは敬虔なカトリック教徒としての彼の心の大きな支えにもなったようで、世界的なピアニストになった今もその恩義を忘れていません。  ポーランド市民交流友の会の影山美恵子さん(静岡県浜松市在住)が語ります。  「2011年6月に『ブレハッチを訪ねる旅』が企画され、ブレハッチ・ジャパン・ファンクラブ(事務局:砂子祐子)会員30名ほどでポーランドへ参りました。その際、聖ローレンス教会の神父が被災民への追悼の意を述べ、『義援金を募りましょう』とブレハッチに提案されたところ快諾くださいました。義援金の送り先は、帰国後に私が探すことになりました」  2003(平成15)年、当時18歳のブレハッチは第5回浜松国際ピアノコンクールで最高位受賞(1位なしの2位)に輝いています。通訳などでコンクールのお手伝いをした影山さんはその際、後に「21世紀のショパン」と絶賛される彼と、直接の面識を得ています。  影山さん、そして雑誌月刊『ショパン』等によると、ブレハッチは書類審査の落選者でしたが、将来有望な新人発掘を目的とするウィーンでのオーディションで復活し、浜松国際ピアノコンクールへの出場資格が与えられた1人でした。しかも、1次予選、2次予選とマスコミは彼について一切、取り上げませんでした。各国の高名なピアニストたちが注目され、ブレハッチは圏外だったのです。中村紘子審査委員長は、「ウィーンで発掘した逸材」と評しました。数々の国際コンクール入賞経験者37名が参戦する高レベルの戦いの中、初来日で、年齢も若い無名のブレハッチが最高位の授賞に輝いたのです。  さて、「ブレハッチを訪ねる旅」から帰国後、影山さんが方々に打診をしたところ、福島在住のファンクラブ会員の家族の1人が福島第一原発から約4キロメートル、浜通りという海側に面した地区に建つ町立の双葉中学(福島県双葉郡双葉町)の教師であることが分かりました。  福島第一原子力発電所の事故発生により政府から避難指示や避難勧告が出たことで、双葉町の役場機能を含め、住民約1200人がさいたまスーパーアリーナ(さいたま市)へ集団避難し、その後は埼玉県加須市の廃校に移転していました。「突然の避難指示で、故郷と、家族と、仲間と別れることになった」「頼る親戚や知人がない子どもたち63人は、住む家をなくした家族と、廃校になった高校の校舎で集団生活をしている。教師も一緒に移っている」ことなど、双葉中学(生徒数は震災当時203人)の情報を得た影山さんは、聖ローレンス教会の神父にお知らせしました。  「神父さまは深く溜息をつき、『教会から直接、双葉中学へ義援金をお送りしたい』と申し出てくだいました。そのため義援金は、埼玉県内の中学校の口座へいったん振り込まれ、そこから双葉中学の教師と生徒たちの元へ届けられることになりました」  双葉中学関係者からは「運動会のお弁当代、柔道着の購入のために使わせていただいた」など、その都度、義援金の使途が具体的に記されたお礼の手紙と領収書が影山さんの元へ送付されてきたので、英会話学校を経営する影山さんがまず英訳し、その後、ポーランド人講師にポーランド語に訳してもらい、神父宛ての手紙で報告をしてきたそうです。  ブレハッチとその原点である教会、ショパンとブレハッチを愛する日本人の連携によって、善意の心が福島の子どもたちにも届いていたのです。こういったやり取りは、1年間ほど続いたそうです。 3・11の15時半でストップした大きな壁時計  「被災地周辺は、津波直後から停電が続いていました。約2週間後、通電したのでHPを更新して『幼稚園を再建します』と記しました。天災による被害ですから、幼稚園を再建するにしても行政からの補助は総経費の半分しか出ません。とはいえ、やるしかないと皆で奮起して、震災数日後から瓦礫除去を始めていた時に、人を介してですが、ポーランドから夢のような話が舞い込んできたのです」  宮城県気仙沼市の学校法人あしのめ学園(熊谷政志理事長)の副理事長兼事務局長で、気仙沼市の副市議長を務める熊谷伸一氏が語ります。  同学園は、気仙沼市で2つの幼稚園を経営していました。そのうち内陸部の葦の芽幼稚園(気仙沼市古町)は園舎の基礎や柱に多数の亀裂が生じ半壊状態となり、海岸部から約1キロメートル、標高8.9メートルの地点に建つ葦の芽星谷幼稚園(気仙沼市岩月)の園舎は、大津波が瓦礫などを巻き込み襲いかかり、屋根や柱などの一部骨組みは一部残ったものの全壊状態になってしまったのです。  「大地震による大津波が来れば、園庭まで浸水する可能性がある地域との認識はありました。明治時代にもこの地域は大津波の被害があり、そのことも知っていました。でも、3・11は過去に経験したことのない大揺れを感じ、しかも庭に地割れができていました。これは大変だと!」   石川イネ子園長が、あの日の14時46分直後について語ります。  15時半頃、黒い塊となって瓦礫と共に押し寄せた大津波は、園庭の鉄棒やジャングルジムなどの遊具、多目的ホールや教室のピアノやマリンバなどの楽器類、机や椅子などを容赦なく破壊し、奪い去って行ったのです。

葦の芽星谷幼稚園の壁に掛けられた、大きな壁時計 3・11の15時半過ぎに針がストップ(著者撮影)

 熊谷副理事長は他3名の園関係者と一緒に、葦の芽星谷幼稚園の多目的ホールにしばらく待機していました。すると大津波が……。舞台の天井から吊り下がるカーテンに懸命にぶら下がり、なんとか九死に一生を得たのでした。園関係者の1人は、数日後に肋骨が折れていることに気づいたそうです。  年長組の卒園式を数日後に控えた中で起きた未曾有の悲劇でしたが、不幸中の幸いは園に残っていた園児を高台に建つ老人福祉施設のキングスガーデンに避難させ、全員無事だったことです。まだ寒さの厳しい季節でしたが、日頃から交流のあった老人たちと室内で凍えることなく共に過ごすことができました。  しかも園児を連れて高台へ避難する際に、教師による咄嗟の判断で朱印を押して乾かすため、机に並べていた卒園証書を持ち出し〝避難″させたのです。  3月29日、葦の芽星谷幼稚園の卒園式が、近所の中学校の多目的ホールを借りて行なわれました。石川園長から1人ひとりに卒園証書が手渡され、園児たちは巣立つことができました。 ポーランド側から提示された120万ズウォティ  4月からの新年度は、園舎を全く使えない状況だったため、姉妹園の葦の芽幼稚園に間借りしてのスタートとなりました。石川園長が当時をこう回顧します。  「両園を合わせると330人にもなる園児を預かり、6つの教室とホールを使って互いに狭い空間で寄り添うような生活になりました。園児たちは不自由で不便な中でも健気に過ごしていましたが、園としては1日でも早く、幼稚園を再建させたく、国や県、市などへ働きかけていました。そういった中、全国各地、世界中から団体、個人を問わず、物心両面にわたる支援の手が連日のように届き、とても勇気づけられました。当園では音楽に力を入れていたのですが、ドイツからは楽器もご寄付いただきました。それにしても情報時代のパワーをつくづくと感じました。自分たちは身の回りのことにだけ必死でしたが、大震災当日から、世界の眼が被災地に向いていたのですから!」  気仙沼の内湾に襲いかかった津波の威力で、船舶用の石油備蓄タンクが浮き上がり、流出した油によって大火災が発生、延々と燃え続ける最悪の事態を招きました。この衝撃的な映像からも、気仙沼は世界中(というか、まずは国内外のマスメディア)の耳目を集めることになったのかもしれません。  内湾が大火事に見舞われた当時、全市は停電状態にあり、その様子をテレビで観た市民はいません。「知らなかった」人もいますし、車や徒歩で避難した気仙沼を一望できる安波山(あんばさん)の展望台周辺から「自分の家の周辺が燃えているのでは」と心も身体も震える夜を過ごした人もいました。  熊谷副理事長が当時を語ります。  「どこもかしこも瓦礫の山で、人々の生活も心も混乱状態にある中、『ポーランド人道アクションというNGO団体が、被災地の幼稚園で再建先を探している』との話が舞い込んだのです。聞くところでは、駐日ポーランド大使館があちらこちらのツテに連絡を取っていたようで、東京のリトルリーグから気仙沼市のリトルリーグ関係者を経由して、現気仙沼市議会議長の守屋守武氏にその話が伝わり、私の方へお声がかかってきました。異国ポーランド、しかも、これまでまったく見知らぬ相手から、幼稚園の再建のために援助をしたいとの話でした」  ポーランド人道アクションが主体となり、ポーランド大使館と在日ポーランド商工会議所(PCCIJ)と共に、幼稚園再建プロジェクトが動き出していました。  「再建のために、ポーランド側から提示されたのは120万ズウォティでした。2011年当時のレートでは5000万円近い金額で、我々はその支援の大きさに驚きました。その後の為替レートでは3000万円ほどになってしまいましたが、いずれにしても大金です。『話がうますぎる。信じていいの?』なんて言う人もいましたよ(笑)」  窓口は在日ポーランド商工会議所となり、ピーター・R・スシツキ会頭とやり取りすることになりました。分厚い英語の契約書も作成されました。大枠では、「120万ズウォティの義援金を、3回に分けてお渡しする」「毎回、何にどれだけの金額を使うのかを明確に記すこと」などが記され、幼稚園の再建に関わる業者の見積りなどを提出しながら進めていくことになりました。不慣れな英語でのやり取りに、ファッションデザイナー森英恵の子息、森恵氏が在日ポーランド商工会議所のアドバイザー兼プロジェクトコーディネーターとの立場で双方の調整役を務めました。熊谷副理事長が続けます。  「1年目は葦の芽星谷幼稚園の多目的ホールの再建のために1000万円、2年目は屋根の修繕のために1000万円を使わせていただきました。そして3年目は、半壊状態だった葦の芽幼稚園の多目的ホールの再建に1000万円。ポーランド国民からの浄財を無駄にしないよう、基礎・土台・間取り等、そのままの設計で使えるところはなるべく使用するなど、工夫もしました」  2012(平成24)年1月、第3学期の始業式から葦の芽星谷幼稚園は再スタートを切りました。ポーランド国民の善意が、急ピッチで形になっていったのです。 ポーランドに〝見守られる″気仙沼の幼稚園  2012年4月、被災地の視察や追悼などを目的に初来日したアンナ・コモロフスカ大統領夫人は、〝日本通″のヤドヴィガ・マリア・ロドヴィチ・チェホフスカ駐日大使(当時)、在日ポーランド商工会議所のピーター会頭、ポーランド人道アクションのヤニナ・オホイスカ-オコインスカ代表などと宮城県気仙沼市を訪れ、葦の芽星谷幼稚園の多目的ホールの再建式典に、両園の年長園児や保護者ら約200人と共に参加しました。  瓦礫が山積みで、道路は不通だったり工事中だったり、あちらこちらで渋滞が発生するなどアクセスが非常に悪い中、大統領夫人一行がわざわざ訪問されたのです。  大統領夫人は「ヤヌシュ・コルチャック年」と記した記念プレートを幼稚園に贈呈、その除幕式典も行なわれました。小児科医であり児童文学作家、そして教育者だったユダヤ系ポーランド人のヤヌシュ・コルチャック先生(1878~1942)は、第2次世界大戦中のナチス・ドイツ占領下で孤児施設を運営、200余名の子どもたちと共にトレブリンカ絶滅収容所に送られ非業の死を遂げるまで、生涯を子どもたちのために尽くした人物です。コルチャック先生の思想信条は、1989年の第44回国連総会で採択された「児童の権利に関する条約」の基礎とされています。  子どもが不安を抱かないよう、力強く優しく子どもたちを最期まで見守ってきたコルチャック先生の魂が、気仙沼に再建された幼稚園にも息づくことになったのです。

再建された葦の芽星谷幼稚園の多目的ホールと、 ピアノの前の壁に貼られた記念プレート(著者撮影)

 「きれいなホールができて、とても嬉しいです」と、両園の年長の園児約110人が声を合わせ感謝の言葉を述べ、大統領夫人は「みんなで元気に遊んでほしい」と語りかけたそうです。園児たちはポーランドの童謡を合唱し、記念写真を撮るなど交流を深め式典を終えました。  学校法人城西大学東京紀尾井町キャンパスにて、被災地視察後の4月12日に行なったポーランド関連の講演会とレセプションでは、大統領夫人の特別講演他、ポーランド人道アクションのヤニナ・オホイスカ-オコインスカ代表による活動報告もありました。1992年の設立以来、コソボ紛争やチェチェン紛争、アフガニスタンなど、紛争や貧困、自然災害などにより人道的支援を必要とする国々に使節団を派遣し、様々な人道支援を行なっているそうです。   世界を〝旅 ″する園児たちの絵  2013(平成25)年9月には、前年に着任したツィリル・コザチェフスキ駐日大使と安倍昭恵首相夫人、そして「世界一大きな絵」プロジェクトの主催者でNPO法人アース・アイデンティティ・ プロジェクト(本部:東京)の河原裕子会長らが訪園しました。園児たちが描いた絵は、ポーランドの子どもたちが描いた絵と共に「世界一大きな絵2016・2020日本・ポーランド」となり、更には世界各国の子どもたちの絵と縫い合わされ、「世界一大きな絵」として2016年8月、リオデジャネイロ五輪で披露されるというプロジェクトです。その後は圧縮してカプセルに収め、未来の子どもたちへの平和のメッセージとして広島の小学校の校庭に埋められる予定です。

園児たちに〝おひげの大使″と大人気のツィリル駐日大使 (2013年9月撮影 あしのめ学園提供)

 2014(平成26)年3月には、「V4+日本」交流年ポーランド親善大使を務める歌姫アンナ・マリア・ヨペック、ツィリル駐日大使と大使夫人らが葦の芽星谷幼稚園を訪問、園児約140人の元気な歓迎を受けています。V4とは「ハンガリーの北部ヴィシェグラードで、友好と地域協力を進めるための枠組みに参加した4カ国(ハンガリー・ポーランド・チェコ・スロバキア)」を指し、2004年の小泉純一郎首相時代にV4と日本の協力関係が確立され、安倍政権が唱える「価値観外交」の一環で、10周年を迎える2014年が「V4+日本」交流年となったのです。  アンナ・マリア・ヨペックが紀尾井ホール(東京都千代田区)で開催した「V4+日本」交流年オープニング・コンサートでは、開幕の挨拶を務めた安倍昭恵首相夫人他、来賓が大勢集まる中、日本を代表するピアニストの1人、小曽根真との協演で最新のコラボアルバム『俳句/HAIKU』に収録された曲などが披露されました。  仙台と気仙沼の市民の「心に灯火を灯す」ためのチャリティー演奏会も開いたアンナ・マリア・ヨペックは、ギター奏者ロベルト・クビシンと共に仙台近郊の山元町北保育所(宮城県亘理郡山元町)や児童養護施設・知的障害児施設の広尾フレンズ(東京都渋谷区)でも、音楽を使った遊びを教授し、ポーランド歌曲を歌うなど、子どもたちとの時間を過ごしています。  なお、日ポの園児たちの絵を縫い合わせ完成させた作品は、2013年10月にウッチ市織物業中央博物館にて開催された「ジャパン・デイズ」に出展されました。同市の要人たちや在ポーランド日本大使館関係者、伝統空手協会、ファッションウィークで訪問中だったファッションデザイナー、コシノ・ジュンコらに披露され、その後、日本へ舞い戻り、「世界一大きな絵ポーランド&日本」は首相官邸でも披露されました。  さらに、ポーランド南西部のオポーレ県の園児からの折り紙の贈り物も、ポーランド在住の日本人を通じて、同年11月、葦の芽星谷幼稚園と葦の芽幼稚園に届きました。そして園児の描いた絵は、オポーレへと向かいました。  園児――〝日ポの小さな芸術家″たちの絵も世界を〝旅″し、交流をしているのです。 「鯉のぼり200匹」が繋いだ縁  「ポーランドの被災者支援と復興のためのポイントは、まさに子どもに寄り添うことです。また、『どのような支援が良いでしょうか?』とも聞いてくれます。佐賀県から当市にいただいたスタンウェイ社のピアノのこけら落としにショパン・コンサートをとお願いしたところ、本国から著名なピアニストを招いていただいたり、歴史と文化に裏打ちされた懐の深い支援を、大使の交代を経ても継続的にいただいており心から感謝しています」  菅原茂・気仙沼市長がこう語ります。また、「ポーランドにはずっと親近感を持っていた」と語る菅原市長は株式会社トーメン(現豊田通商)に勤務していた時代、ポーランドに出張経験もあり、ポーランド漁船が漁獲したフォークランド沖のイカやナミビア沖のアジなどを輸入する部署に所属していたそうです。  市長はそして、こう呟いてもいました。 「絆というか、とても縁を感じます。このように繋がり、次第に太くなるのがやはり本当の縁ですね」  ポーランド国民の総力を結集させて進めてきた、東日本大震災の被災者支援と復興のための活動は、他国におそらくない特徴がありました。その1つは、被災地のどこかをピンポイントで選び、子どもたちのための具体的な形になるもので、復興のサポートをしたいと案件の選考を始めたことです。  要するに、ポーランド人の〝分身″を被災地に残し、なおかつずっと見守り、絆を深めていきたいと考えていたようです。事実、3・11から4年を経ていますが、半年に1度ほどは大使はじめVIPクラスが、東京からはるか遠方の気仙沼を訪れています。  また、2011年夏に行なった、被災地の子どもたちをポーランドへ招待する〝絆の懸け橋″プロジェクトでも、ポーランドの伝統空手道協会が主催だったこともあり、岩手県からは空手選手の中高校生が参加しましたが、宮城県からは気仙沼市の中高校生が対象となりました。  ポーランドが気仙沼を復興サポートの主軸にしたのは、単なる偶然だったのでしょうか? 津波の被害が甚大だった岩手・宮城・福島の臨海部の被災地の中でも、宮城県気仙沼市は東京からかなり遠方(北方の海沿い)に面しています。死傷者・行方不明者数においては宮城県石巻市の被害が最大で、岩手県陸前高田市がそれに続いていました。   「あの鯉のぼりが、関係あるのかもしれない」気仙沼青年会議所(JC)の一部OBの、頭のほんの片隅に残っていた10数年前の記憶が、東日本大震災を契機に蘇ることになったのです。  時は1996(平成8)年4月に戻ります。気仙沼青年会議所の主催による、女性市民向けの講演会が行なわれました。ゲストは岩波ホール(東京都千代田区神田神保町の映画館)のディレクター(当時)の大竹洋子氏他1名でした。  気仙沼青年会議所のOBの1人、松井敏郎氏のつてでお招きしたそうです。大竹氏の大学時代の同級生と松井氏が親戚関係にあり、大竹氏の子息がフォルクローレ・ミュージシャンで、気仙沼へ何度か招いてライブを開催したことなどから知己の関係でもあったのです。  そもそも、松井氏は岩波ホールで上映されるアンジェイ・ワイダ監督の作品の大ファン。しかも大の落語好きで、同年9月よりスタートさせた「目黒のさんま祭」の発起人であり、目黒のさんま祭気仙沼実行委員会の会長との肩書きを持っています。ちなみに、気仙沼はさんまの水揚げ日本一を誇る「海の市」です。  大竹氏は気仙沼入りする道すがら、風を受けて心地良さそうに磐井川の川面を泳ぐ鯉のぼりを見て感激したそうです。その時、1年半ほど前のある映像を脳裏に浮かべていたようです。それは、ワイダ監督の長年の夢を実現するため「京都―クラクフ基金」の日本支部を岩波ホールに置き、ポーランドと共に7年ほど汗を流した末に1994年11月、古都クラクフに完成させた〝マンガ″とヴィスワ川が流れる美しい光景でした。大竹氏も高野悦子支配人と共に、クラクフでの開幕式典に参加していました。  気仙沼での講演会の最後に、大竹氏は「鯉のぼりを〝マンガ″にプレゼントするのはどうでしょう? 〝マンガ″を包むように流れるヴィスワ川に、鯉のぼりの川渡りをしてもらいましょう!」と観客席に向けて提案しました。「それは良いアイディア!」「是非!」と盛り上がる中、幕は閉じました。  その時、司会をしていたのが気仙沼青年会議所の会員(当時)で、市内でガソリンスタンドなど手広く経営していた株式会社気仙沼商会の高橋正樹氏(平成17年6月より社長)でした。高橋社長は、こう回顧します。  「大竹さんに『お願いしますね!』と話をふられ、思わず『はい、分かりました』と返事をしました。それで後日、『お前、どうするんだよ? はいって返事しちゃっただろう』と会場で手伝っていたJC仲間に詰め寄られたのですが、大勢の女性たちの前で約束してしまったからなぁと。皆で鯉のぼり集めをしてみることにしました」

ワイダ監督と夫人へ「鯉のぼり」の贈呈式 気仙沼JCの昆野理事長(当時・左)、ワイダ監督と夫人、 松井氏(右から2人目)、高橋氏(右)(提供:松井敏郎)

 同年の10月頃のことです。第46回ベルリン映画祭(1996年2月)で銀熊賞を受賞した『聖週間』(1995年製作 ポーランド=独=仏)の銀座ヤマハホールでの上映会などに合わせワイダ監督夫妻が来日、気仙沼青年会議所の昆野龍紀理事長(当時)らと、新品の鯉のぼり1セットと目録の贈呈式を行ないました。  ワイダ監督は前年の1995(平成7)年に勲三等旭日中綬賞を受賞し、来日前の1996年7月、世界の芸術文化の発展に貢献した芸術家の業績をたたえる第8回高松宮殿下記念世界文化賞(主催・財団法人日本美術協会、総裁・常陸宮正仁殿下)がフランス首都パリのルーブル美術館で発表され、演劇・映像部門の受章が決まっていました。  にこやかに鯉のぼりを手にするステキな熟年ワイダ監督!!   ですが、当時すでに、映画界のみならず世界の芸術界の〝レジェンド″でした。しかも、日ポの関係を紡ぐキーパーソンであり続けていたのです。   〝化石″となったクラクフの想い出と再出発  「鯉のぼりの中古が、200匹ほど集まりました。それを〝マンガ″へ送ることにしました」  これで、ひとまず約束は果たせる。高橋社長をはじめとする関係者一同、そんなつもりでした。ところが〝マンガ″の館長から、謝意と共に「鯉のぼりの揚げ方が良く分からない」「設置する予算が不足していて……」との手紙が届いたのです。  このまま放置してはおけない。高橋社長は東北電力に勤務する知人に頼んで、ポールの立て方やアンカーの扱い方、川の両岸に渡して鯉のぼりを泳がせる方法などイラスト入りの説明書を英語で作成してもらいました。さらに、鯉のぼりを揚げるための概算費用として20万円ほど持参することにしたのです。  「日本を出発したのは、忘れもしない1997(平成9)年の4月15日でした。というのも5月5日のこどもの日前後が妻の3人目の出産予定日でしたので、今のタイミングならギリギリ間に合うかなと。ところがホテルにチェックインしたら、会社のスタッフから『生まれましたよ!』って電話が入ってね(笑)」  高橋社長ら気仙沼からの客人は、〝マンガ″のブリコヴィッチ館長、そして翌日にはアンジェイ・ワイダ監督夫妻にも大歓迎されました。 「とても広いエントランスホールの真ん中にテーブルが1つ、贅沢な環境でワイダ監督と面会しました。腰が低くフランクな方だったため、事前に『日本では黒沢明のような存在、世界的に著名な監督』と聞いてはいたのですが、ピンときませんでした。その後、ワイダ監督を見つけたポーランド人の子どもがサインを求めていて、やっぱり凄い方なんだ、子どもにまで顔が知られているなんて!と驚きました。僕はワイダ監督から金色のペンで鯉のぼりの絵を描いたサイン入り色紙をいただき、館長からは日ポの関係史や〝マンガ″完成までの年譜などが写真と共にまとめられた日本語の資料をいただきました」  高橋社長の元には、クラクフを訪れて以来、〝マンガ″から「鯉のぼりを揚げました」との手紙やクリスマスのカードが届き、〝マンガ″10周年記念の丁寧なお礼状も送られてきたそうです。 「でも、日々の急がしさにかまけて、何もこちらからは連絡をしていなかったのです」  こう、高橋社長は振り返ります。  東日本大震災当時、気仙沼商会は市内15箇所にガソリンスタンドの事業所がありました。ところが、そのうち13事業所が被災。しかも前述の通り、津波で持ちあがった船舶用の石油備蓄タンクから油が流出したことで、海上が大火事となり、翌朝には東京都と愛知県の消防隊が応援に駆け付けていました。  高橋社長の不眠不休の日々が始まりました。  「ライフラインが完全にシャットアウトされた中、被災民が車内で暖をとるためにも、ガソリンが必要です。そのような中、ガソリンをどこへ優先的に配給するのか、僕も市庁舎に詰めて市長からの指示を受けながら、社員たちに給油を続けてもらいました。しかも停電していますから、手動しか給油の方法がありません。1リットルの給油にぐるぐると20回前後、ハンドルを回さなくてはなりませんでした。10リットル入れるためには200回転。腱鞘炎になりそうでしたが、仕方ありませんでした」  その頃、クラクフの〝マンガ″関係者は、義援金集めに立ち上がり、千羽鶴を折って、日本のために祈り続けていました。  大震災から数カ月後のある日、市から高橋社長にある連絡が入りました。  〝マンガ″からの義援金を、クラクフ在住の日本人パフォーマー岩田美保さんが代理で持ってきていて、気仙沼市長の元を訪れたとのことでした。  鯉のぼりを〝マンガ″に届けて、実に14年の歳月が過ぎていました。  「世の中、捨てたもんじゃないですね。本当に、色々な人々に助けられました」  東日本大震災から丸4年を経た2015(平成27)年3月、高橋社長はほんの少し安堵したような表情で語ります。間借り状態を経て、現在は気仙沼市南町1丁目を仮本社にして営業を続けています。  津波は、当時の本社ビルの社長室がある2階まで襲いかかったそうです。会社の重要な書類はもちろん、高橋社長がクラクフで購入した写真集も、滞在中に撮った写真を収めたアルバムも〝マンガ″でいただいた年譜が記された貴重な資料も、灰のようなザラザラした成分を含んだ独特の海水に浸かり、〝化石″のような塊に変容してしまいました。もう、中を開いて見ることができません。壁に飾っていたワイダ監督からいただいた金の鯉のイラスト入り色紙は、津波にさらわれ行方不明のままだそうです。

〝化石″のような塊になった クラクフの想い出 右側は高橋社長(著者撮影)

 さて、大震災の翌年に着任した駐日ポーランド大使館のツィリル大使は、「鯉のぼりの話は初耳です!」と目を丸くしていましたが、「日本との連帯」でポーランドの政官財民が復興支援へ動き出す中、この〝鯉のぼり物語″を知る誰かが、気仙沼にこだわったのかもしれません。  「ポーランド大使館は目黒区にあります。そして目黒のさんま祭は、気仙沼市との目黒区のコラボです。着任以来2回、新鮮で美味な秋刀魚をいただきました。また、菅原市長は漁業を通じて、ポーランドとかつてから縁がある方です。ポーランド、気仙沼、目黒はトライアングルの関係になりました」と、大使はにこやかに語っています。加えて、ポーランド人は欧州人としては珍しく、クリスマスにターキーではなく鯉(carp)を食べる習慣があります。  ポーランドと気仙沼、そして鯉! どこか不思議な縁が、再び動き出したことは間違いありません。

(一部敬称略) 次回は2015年5月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 河添恵子

    ノンフィクション作家。1963年、千葉県生まれ。名古屋市立女子短期大学卒業後、86年より北京外国語学院、遼寧師範大学へ留学。主な著書に『だから中国は日本の農地を買いにやって来る  TPPのためのレポート』『エリートの条件-世界の学校・教育最新事情』など。学研の図鑑“アジアの小学生”シリーズ6カ国(6冊)、“世界の子どもたち はいま”シリーズ24カ国(24冊)、“世界の中学生”シリーズ16カ国(16冊)、『世界がわかる子ども図鑑』を取材・編集・執筆。