佐藤青南
1 鉄がレールを滑る音とともに扉が開き、彼は芝生の上に足を踏み出した。 穏やかな日差しが、緑の絨毯のあちこちできらきらと反射している。裸足の足の裏には、朝露の湿った感触がした。彼は濡れた草をつまみ、指先についた青い臭いの水を舐め取る。 昨日と違う感触、昨日と違う臭い、昨日と違う空気の湿り気。 それは、ほんのわずかな相違に過ぎなかった。だが彼に大いなる警戒心と、ほのかな期待を抱かせるには、じゅうぶんな相違だった。もともとが繊細な性格の上、彼の日常はとにかく変化に乏しかった。 右、左、と二つのこぶしで土のやわらかさをたしかめながら、彼はコンクリートの壁沿いに歩き出した。高さ三メートルほどのコンクリートの壁は湾曲していて、彼の足跡は円を描くようになる。そして彼は、ものの十数秒でスタート地点に戻った。 結局、敵も味方も現れない、いつもの朝だった。違うと感じたのは、カラスかなにかが臭いを残していっただけのようだった。 三十平米ほどの敷地の庭と、先ほどまで過ごした薄暗い寝室。 それが彼にとって世界のすべてだった。彼は寝室と庭を往復しながら、もう数十年のときを過ごしている。彼にとっての空は、コンクリートの壁によって円形に切り取られていた。もっと以前には、空が堅牢な鉄の格子に区切られていたこともある。時代とともに彼の世界も、空のかたちも変わった。 人間の都合で。 彼はニシローランドゴリラだった。四十五歳だから、人間でいえばそろそろ人生の黄昏を迎えようかという年齢だ。 「なあ、コータロー」 背後から声がした。自分に与えられた名前を呼ばれているのだと、賢い彼は理解していた。だがあえて反応しなかった。反応しようとしまいと、食事の時間も量も変わるわけではないのがわかっているからだ。 声は寝室のほうから聞こえた。鉄の扉に嵌(は)められた格子窓の向こうで、頭の禿げ上がって、青い布をまとった個体が掃き掃除をしている。 人間のオスだった。もちろん人間のことは知っている。そもそも二歳のときから、彼はほとんど人間としか接していない。やつらは皮膚の色が薄く、体毛も薄いようで、多くの場合は全身を布で覆っている、小柄で非力な種族だ。彼から家族を奪い、自由を奪った、傲慢で残忍な種族でもある。だが、残忍なわりには、彼を殺して食べようとしないのが不可解だった。それどころか、彼に食事を与えてくれる者すらいる。どうやら人間には、友好的な個体とそうでないものがいるらしい。 頭の禿げた青い布のオスは、友好的な個体だった。そのオスは、ヨシズミという名前だった。毎日、甲斐甲斐しく食事を用意してくれたり、寝室を掃除してくれる。 おそらくヨシズミは過去に我が子を亡くしたのではないかと、彼は推理していた。彼にお節介を焼くのは、きっと喪失感を埋めるためだ。だとしたら納得がいく。彼が二歳まで過ごした群れにも、冷たくなった赤ん坊の亡骸をいつまでも抱き続けるメスがいた。 「おい、コータロー。聞いてんのか」 無視していると、ヨシズミがうっ、うっ、と唸った。それはゴリラの言葉で「こっちに来いよ」という意味だった。数年前、彼ですら忘れかけていた言葉を突然ヨシズミが発したとき、彼は心底驚いたものだ。ヨシズミはほかにも二、三、ゴリラの言葉を発することができた。 彼にはヨシズミにたいして、評価する部分もあった。いくら父親の役割を担おうとしているとはいえ、ほかの種族の言葉など、容易に覚えられるものではない。それなりに努力したのだろう。だが、下手くそなゴリラ語を聞くと、なんだか物まねでからかわれているような気がして、不快になるのも事実だった。それに、二、三語マスターしたぐらいで得意になって欲しくもない。ゴリラの言葉は三十以上に及ぶのだ。 彼のほうは人間の言葉を、八割方理解することができた。 理解しようと努力したつもりはないが、なにしろ四十年以上も、人間としか接していない。自然と聞き分けられるようになってしまった。 「まあ。おまえに話したってしょうがないんだけどな」 しょうがないと言うのに、どうして話をやめないんだ――? 彼は迷惑そうに一瞥をくれたが、ヨシズミはまったく意に介さない様子で続ける。いつものことだった。 「この前、話したろ。園長が替わるかもしれないって」 エンチョウというのは、どうやらヨシズミの群れのボスらしかった。ゴリラは一頭のオスに複数のメスという群れを形成し、それぞれの群れ同士は避け合う平和主義者だが、人間の群れはやはり野蛮なようだ。数年に一度は政権交代が起こるらしく、ヨシズミからエンチョウが交代するという話を聞かされている。 「今日なんだよ。新しい園長が来るの。たぶんこの後の朝礼で挨拶するんだろうけど……聞いた話によると、そいつ、昨日まで市役所の企画部にいたらしいんだぜ。信じられないだろう?」 キカクブという単語はわからないが、これまでのエンチョウもほとんどがシヤクショというところから来た気がする。おそらくジャングルの名前だ。そしてエンチョウが交代するたびに、ヨシズミは「信じられないだろう?」と渋い顔をした。 「企画部って……素人じゃないかよ……ったく。別にもう、今さらまともなやつを回してもらえるとは期待してないけどさ。それにしても毎度まいど酷い人事だぜ。そう思わないか?」 彼は返事の代わりに指で下唇を弾き、ぶるるん、ぶるるんと音を立てた。人間の群れなど、どうなろうが知ったことじゃない。 「そうだな。おまえにゃ、わかんないよな」 ヨシズミは「アホだな、おれも」と後頭部を叩きながら笑い、ふたたび掃き掃除を始めた。 彼は思った。 おれにはあんたがなにを話してるのか、ちゃんとわかってるよ。 だが、あんたがアホなのだけは、間違いないな――。 2 野亜市は関東平野北部に位置している。およそ四〇〇平方キロメートルの面積は県内八位、十二万の人口は県内七位という規模の地方都市だ。 市の西部にはふんだんな湯量を誇る野亜温泉を有し、新幹線とローカル線を乗り継げば、東京からも仙台からもおよそ九十分という地の利もあって、長らく観光を主要産業として発展してきた。ただし多くの温泉地がそうであるように、このところは長引く不況と少子高齢化の影響もあって、人口も観光客数も減少傾向にある。県庁所在地から三つの市を跨(また)ぐかたちで延びた野亜鉄道の終点である野亜駅前のアーケードにも、シャッターを下ろしたままの店舗が少なくない。 活況を呈しているのは、市を縦断するように走る国道沿いで二年前にオープンした、四〇〇台収容の駐車場を持つ巨大スーパー、それにハローワークぐらいなものだ――市議会を紛糾させた無所属議員の発言だが、ここぞとばかりに集中砲火を浴びせる与野党議員も、内心では言いえて妙だと膝を打ったに違いない。県出身の高名な建築家に依頼したものの、クリスタルの積み木を重ねたような奇抜なデザインが城下町の景観を破壊していると市民からの不評を買う市役所庁舎の中では、既得権益まみれの議員たちが日々むなしい揚げ足取り合戦を繰り返している。 そんな市の中心部から県道を南東方面へ向かうと、ほどなく道はなだらかな上り坂となる。建物の高さも低く、それぞれの間隔も広くなり、のどかな田園風景も見られるようになる。江戸時代までこの地を統治していた大名はこのあたりの丘陵地帯に山城を築いていたらしいが、その名残りを感じさせるのは『野亜城址』という古びた標識だけだ。 一帯でもっとも目を引くのが、東京タワーそっくりの展望台だった。『野亜タワー』と名付けられたそれは、一九八八年に竹下内閣によって交付された『ふるさと創生事業』の一億円で建築されたものだ。若いカップルのデートスポット的なランドマークを目指したらしいが、そもそも高さ三十メートルの展望台に昇って乏しい街の灯を見るより、夜空に瞬く星のほうが明るいという有り様で、建築以来、入場料収入が維持費を上回ったためしがない。近年、議会では真っ先に取り壊しが議題にのぼるような市の財政を圧迫するお荷物だが、なぜかいまだに営業を続けているところが、素朴でお人好しだが商売下手と言われる野亜市民の性格をよく表しているのかもしれない。 そしてもう一つのお荷物とも言われる施設が、『野亜タワー』のおよそ一キロ先にあった。三年前の町村合併までは、市の最南端という郊外。少し進めば県道沿いにはまだ『ようこそ野亜市へ』というペンキの薄れた立て看板が残されているあたりだ。 野亜市立動物園。 広大な野亜森林公園の敷地のうち、およそ半分にあたる八万平方メートルの敷地に、八二種四九〇点の動物を展示している。敷地面積、飼育点数ともに、全国的に見れば中規模の動物園だ。東京の上野動物園が各地を巡回する移動動物園を実施し、全国に動物園ブームを巻き起こしたさなかの一九五八年に開園し、五十年以上の歴史を持つ。ピーク時には年間三十万人強の入園者があったが、少子化の影響などによる入園者の減少を食い止めることができずに現在に至っている。昨年はついに開園以来初めて年間七万人を割り込み、十五年連続で年間入園者数のワースト記録を更新した。 長い歴史の中で動物園がもっとも賑わいを見せたのは、一九八三年だった。東京の多摩動物公園、名古屋の東山動植物園、鹿児島の平川動物公園などとともに、日本で最初にコアラを展示したのだ。その開園以来最高の入園者数を記録した立役者も、今はいない。ブームの鎮静化とともに年間一千万円もの餌代が問題視されるようになり、運送費を負担するという条件で、十年前に横浜の動物園に譲渡された。ところが、動物園のゲートをくぐってすぐの広場にある、円形の花壇を囲むように立てられた動物のイラストパネルの列には、まだ堂々とコアラが居座っているのだった。 そしていま、その栄光の残滓を背にして、磯貝健吾は立っていた。高校まで続けた野球で鍛え上げた筋肉の上に三十五歳という年齢相応の脂肪をまとい、油断すると丸まってしまう背筋を、胸を張って伸ばしながら、一七五センチの身長を保っている。 目の前にはスーツ姿の磯貝とは対照的な、青いポロシャツの集団がいた。袖を肩までまくり上げたり、上に作業着を羽織ったりと思い思いの着こなしだが、全員のポロシャツの左胸には『NOA ZOO』という白い刺繍が入っている。 野亜市立動物園の職員たちだった。 事務職を含む三十一人全員が出勤しているのは、新しい園長を迎えるためではない。たんに今日が土曜日だからだった。動物園職員は交代で週に二日の休みを取るが、入園者の多い土日と、放飼場(パドック)の遊木などの配置換えや清掃などの作業が多い休園日を避けるのが基本となっている。 つまりは自分も、週末休めないということか。 異動の話を聞かされたとき、まず脳裏をよぎったのは、五歳の娘と遊べなくなるという落胆だった。だが仕方がない。 すでに磯貝は、野亜市立動物園の園長になってしまったのだ。 もはや後戻りはできない。磯貝がごくりと上下させた喉仏には、小さな切り傷がある。今朝、髭を剃っているときに、誤って刃を横滑りさせたのだ。自動車通勤を許可されたものの、通勤にかかる時間は倍増した。明日からは目覚まし時計のアラームをもう十五分は早めておかないと、そのうち自分の喉笛をかき切る羽目になりそうだ。 午前八時五〇分。野亜市立動物園管理事務所の前の広場では、毎日恒例の朝礼が行われていた。すでに飼育担当者は各々の担当動物を獣舎から放飼場に出しており、あとは開場を待つばかりになっている。 磯貝の隣で職員たちに向かい、新園長就任の経緯をさらりと話し終えた小柄な男が、磯貝のほうを向いた。大きな耳と大きな鼻が特徴的で、すぐ背後にあるイラストのコアラとそっくりな顔をしている。副園長の森下篤志。三人いる獣医の一人でもあるらしい。 「それでは園長。一言、よろしくお願いします」 磯貝は頷き、あらためて足を肩幅に開いて立った。両手を身体の前で重ね、職員の顔を見回す。まだあどけない雰囲気を残した若者から、おそらく自分の両親と同じくらいの年齢の者まで、幅広い年代の職員が在籍しているようだ。唯一、共通しているのは、新園長にたいする無関心だった。朝の気怠さや眠気とは異質の、どこか白けたような空気が滞留している。 朝礼が始まる前から薄々感じてはいた。気にし過ぎだ、神経質になり過ぎだと、自らに言い聞かせていた。 だが次の瞬間、気のせいでなかったことが判明する。 「皆さん、はじめまして。おはようございます」 最初が肝心と腹から声を出したが、返ってきたのはまばらな挨拶だった。怯みそうになる自分を叱咤する。 「この動物園の新しい園長に就任しました、磯貝健吾です。正直なところ、急な人事でまだ戸惑っています。それは皆さんにとっても、同じではないでしょうか」 職員の一人の口が「別に」と動くのが見えた。その周囲の職員数人が、笑いを堪えるように小さく肩を揺する。やはり歓迎されていない。磯貝は懸命に保った微笑の頬が、強張るのを感じた。 「私は昨日まで、市役所の企画部にいました。総合企画政策課というところで、どうすればこの野亜市の産業振興に繋がるのか、新たな雇用が創出できるのかを考えていました。今日から園長という肩書きを与えられはしましたが、動物園の業務については、いわばまったくの素人です」 そう、まったくの素人だ。なのになぜ――。 不可解な人事にたいする憤りを奥歯で噛み潰しつつ、続ける。 「皆さんには、なにかとご迷惑をおかけするかと思います。ですが、皆さんと同じように、私も動物が大好きです。子供のころは実家で犬を飼っていましたし――」 職員の中から鋭い声が上がった。 「ペットじゃねえよ!」 先ほど「別に」と言ってほかの職員を笑わせていた男だった。坊主頭で、まだ頬ににきび痕が残っている。細く整えた眉がやんちゃな印象だ。 磯貝がわけもわからず絶句していると、隣から副園長の森下がたしなめた。 「田尾くん。園長の話の途中だよ」 「だったらなんなんすか。ペットと動物園動物を同列に語るような素人園長の話に、聞く価値なんてあるんですかね」 田尾と呼ばれた男が眉を吊り上げる。 すると田尾の隣で腕組みをしていた、年輩の職員が口を開いた。 「黙ってろ、田尾」 「だけど吉住さん。柴田園長がどこに異動したか……」 「別にあの人だって、好きで異動したわけじゃねえだろ。今度の人だって同じだ。好きでここに来たわけじゃねえ」 吉住という男に顎でしゃくられて、磯貝はぎくりとなった。わざとなのかそれとも無自覚か、吉住は同僚を諌めているようでありながら、磯貝に強烈な皮肉を見舞っている。 「でもおれ、納得いかねえっすよ」 「文句があるなら市長に言え」 「言えないっす。あの人いま入院してるじゃないですか」 「なら副市長に言え」 田尾はしばらく吉住を睨んでいたが、やがてふんぎりをつけるように空を殴った。 「それじゃ、園長、続きを」 森下に促されても、この気まずい雰囲気の中では続けられない。 「とにかく皆さん、よろしくお願いします」 そう言って頭を下げるのが精一杯だった。 そのまま朝礼は終了し、職員たちはそれぞれの持ち場へと散っていく。 「すみませんね。田尾くんも悪い子じゃないんですが……」 森下が平身低頭で謝ってきた。管理事務所のほうに手を向けて、「園長室はこちらですよ」と歩き出す。磯貝も森下に続いた。 「かまいません。私が素人園長だというのは事実ですし」 「園長に飼育担当者みたいな専門知識は必要ありません。このところの歴代園長は、みんなその……」 言葉を選ぶような間があった。 「私のような素人ということですか」 「ええ。まあ」 「だけど、柴田園長……でしたっけ。先ほど名前が出ていた前任の園長は。その方は、ずいぶんと慕われていたようでしたが」 自分への反発は、前任者の人望が厚かったせいもあるのかと思った。 だが森下は、苦笑しながら手を振った。 「そのことですか。誤解です。柴田園長がとくに慕われていたというわけでは……と言ったらまた誤解を招くかもしれませんが、それまでの園長に比べて飛び抜けて慕われていたというわけではありません。同じです。歴代園長と変わりません」 「ですが、田尾くんは異動に不満そうでしたが」 「それは、柴田さんの異動自体が不満なのではなく、異動先が不満だったんですよ」 「異動先?」 どういう意味だ。磯貝が眉をひそめると、森下は若干気まずそうに頬をかいた。 「保健所です。昨日までこの動物園の園長だった柴田さんが、いまは保健所の所長をしています。保健所といったら犬猫を始めとしたペットを殺処分する施設です。いわば産ませ、育てる側から、殺す側になったということですね。若い田尾くんは、それが理不尽な人事だと腹を立てたんですよ」 「そうだったんですか」 「人事も人事なら、辞令を受ける柴田さんも柴田さんだと怒ってね。だけど、辞令を蹴るなんて選択肢はありえないでしょう。彼には散々そう言ったんだが、なかなかわかってくれませんでね。私ら動物園職員は地方公務員といっても専門性の高い仕事だから、滅多に異動なんてことはありませんけど、一般の職員はそうはいかない」 「たしかに……」 口調に実感がこもっていたのか、森下が困ったように肩を上下させる。 「たぶん、二、三年です」 はっと顔を上げると、同情するような頷きが返ってきた。 「私がこの動物園の獣医になってもう二十二年になりますが、どの園長もだいたいそれぐらいで異動になっています。柴田さんも三年でした。だから、磯貝さんもせいぜい二、三年辛抱すれば、市役所のほうに戻れると思いますよ」 森下の言葉からは悪意も皮肉も、自らの職場を卑下する印象も感じられなかった。むしろ労わるような響きすらあるのが心苦しい。 「午前中はちょっと忙しいけど、午後になったら園内をご案内します。二時ごろ……になるかな。その時間に、園長室でお待ちいただけますか」 「あ……ありがとうございます」 「それじゃあ、私は病院のほうで仕事がありますので」 森下は軽く手を上げると、園内にある動物病院のほうに歩き出した。 午前中は、なにをして過ごせばいいのだろうか。 管理事務所の扉を開きながら、磯貝は思った。(つづく) 次回は2014年8月15日更新予定です。
第9回『このミステリーがすごい!』大賞・優秀賞を受賞し、2011年『ある少女にまつわる殺人の告白』でデビュー。他の著書に『ジャッジメント』(小社刊)『消防女子!!女性消防士・高柳蘭の誕生』『サイレント・ヴォイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻』などがある。