佐藤青南
2 「ご一緒しても?」 背後からの声に顔を向けると、森下が立っていた。両手でトレイを持ち、了解を求めるように小首をかしげる。 「ええ。もちろん」 断る理由などない。森下が笑みを広げながら対面に座る。だが完全に腰を下ろす前に、磯貝のトレイを覗き込むような素振りを見せた。 「お一つ、いかがですか」 トレイを軽く押し出すと、「それじゃあ、遠慮なく」と皿に載ったサンドウィッチを一切れ、手にした。二口ほどで食べ切り、唇の端についたマヨネーズを親指で拭う。 「クラブハウスサンドとは、悪くないセレクトですね。味はどっこいどっこいだが、コストパフォーマンスを考えると、カレーライスなんかより断然いい」 そう言う森下のトレイに載っているのは、カレーライスだった。 カレーライスを見つめられているのに気づいたらしく、弁解口調になる。 「美味しくないのに、なぜかたまに食べたくなる味ってありますよね」 森下はスプーンで山盛りすくって、口へと運んだ。小柄なわりに一口の量が多い。 「森下さんにとっては、ここのカレーがそうなんですか」 「どうだろう。喧嘩すると妻が弁当を作ってくれないことがあって、しかたなくここでカレーを食べたりすることはありますが」 「それなら、『できるだけ食べたくない味』ってことになりませんか」 「それもそうだ。カレーなのにほろ苦い思い出なんて、おかしいな」 愉快そうに肩をすくめた。 無料休憩所のテラス席だった。週末はそれなりに賑わうが、平日はいつも閑散としている。いまも離れていくつかあるテーブルに、二歳ぐらいの子供を連れた若い夫婦がいるだけだった。 「ところで、園長のお宅は共働きですか」 「いえ。妻は専業主婦です。もうちょっと娘に手がかからなくなったら、パートにでも出ようかと話はしていますが」 「そうですか」 どういうわけか、森下は意外そうだった。 「それがなにか」 「いや。よく……ここで食事してらっしゃるから」 なるほど。磯貝は笑顔で手を振った。 「違うんです。弁当はいらないって僕のほうから断っているんです。妻は、どのみち娘のぶんも作るから労力は変わらないって言ってくれるんですが」 「あ、ああ。そうだったんですか。てっきり……」 森下が自分の後頭部をぽんぽんと叩く。 「夫婦関係は円満ですから、ご心配なく」 「まったく、早とちりもいいところだ。本当に失礼しました」 「かまいませんよ。たしかに誤解を招く行動かもしれません。もしかして職員たちの間では、そういう噂が流れているんですか。僕がいつもここで食事しているのは、妻に弁当を作ってもらえないせいだ。きっと夫婦関係が上手くいっていないに違いない……と」 曖昧な笑顔。図星らしい。 「参ったな。下手なことはできない」 磯貝は苦笑しながらサンドウィッチをかじった。 「しかしなぜまた、奥さまのお弁当を断ってまで……」 「まずはどんな味かを知らないと、改善もできませんから」 一瞬の沈黙の後、森下は目を見張った。 「まさか、メニューを完全制覇しようっていうんですか」 「けっこうメニューが豊富なんですよね」 あっけにとられた顔が、やがてあきれたようにふうと息を吐く。 「つくづくあなたは劇薬だな。そんな細かいところ、これまでの園長は誰もこだわらなかった。職員だって、気にしてはいなかったんじゃないかな」 「細かいところ、じゃありません。食事は重要です。食事が美味しければ来園者の滞在時間も延びるし、リピーターも増える。とくにうちのような近くに飲食店がほとんどない立地だと、食事メニューの充実は来園者の動員に直接結びつく重要な要素です」 「そうかもしれませんが、問題点を見つけたとして、いったいどうするつもりですか」 「どうしたらいいと思いますか」 質問を質問で返されて、森下はふてくされたように唇を歪めた。 「そんなこと、私にわかるわけないでしょう。専門外です」 「私だって専門外です。梶さんたちだって専門外です。調理と言っても、せいぜい電子レンジとフライヤーのダイヤルを回すだけなんですから」 磯貝が視線を向けた先には、食事を販売するスタンドがあった。シルバー人材センターの斡旋で採用されたというパート職員の「梶さん」こと梶山宏邦の白髪頭が見え隠れしている。客足が途絶えたので、椅子に腰かけて休んでいるようだ。 「専門家じゃないから関係ない、専門家以外は口を出すな。そんなことを言っていたら、いつまで経ってもなにも変わりません。この動物園に、飲食業の専門家はいないんですから。動物園だから動物を見せる以外のサービスはおろそかになって当然、という姿勢では、これからの時代、生き残っていけません。わからないから手を出さない、ではなく、わからないなりに模索していかないと」 「それなら、調理師免許を持っている人間でも雇ったらどうですか」 「それは難しいですね。人件費がかさむし、梶さんたちの仕事を奪ってしまうことにもなる。そしてなにより問題なのは、あのスタンドの中は狭くて、まともに料理をする設備もないということです」 「それじゃどうにもなりませんよ」 森下は早々に両手を広げて降参の意を示したが、磯貝は諦めなかった。 「なにか方法があると思うんですが」 「どうですかね」 「いい考えが思いついたら教えてください」 「思いついたら、ね」 うんざりとした様子で眉を上下させた森下が、「ところで」とにわかに目を輝かせる。 「聞きましたよ」 「なにをですか」 「昨日の夜の話です。吉住さんと喧嘩したそうじゃないですか」 「別に、喧嘩したわけじゃないですけど……それも噂になってるんですか」 「いや。私が平山くんから聞き出したんです。昨日、吉住さんたちと一緒に飲むとおっしゃってたじゃないですか。園長はきっとあの話をするだろうと思っていましたからね」 飼育日誌を一般公開するというアイデアについては、事前に森下に相談していた。賛同も反対もなく、「上手くいくといいですね」と無責任な励ましを受けただけだ。「野次馬根性で傍観させてもらいます」という宣言通りの態度を貫くつもりらしい。 「森下さんも人が悪いな。その話を聞くために、食べたくもないカレーライスを食べているんですか」 「田舎は娯楽が少ないもので」 悪びれた様子はまったくない。 「だけど、よかったじゃないですか。朝礼で発表したときには、大きな反対もなかったみたいだし。根回しが上手くいったと解釈できなくもない」 「そうかな……」 あれが上手くいったといえるのだろうか。 今朝の朝礼で、飼育日誌の一般公開を提案した。命令ではなく提案だ。仕事量をむやみに増やすと反発に繋がるだろうから、参加はひとまず自由意思ということにしている。 手応えは、よくわからない。職員たちは具体的なイメージができずに戸惑っている、というのが正しい表現だろう。あからさまな反対意見こそ挙がらなかったものの、提案を歓迎する雰囲気も感じなかった。 そして吉住は朝礼の間じゅう、ポケットに両手を突っ込んでそっぽを向いていた。周囲にいた職員は不穏な空気に気づいたらしく、ちらちらと吉住を振り返りながら小声で囁き合う者もいた。 「毒をもって毒を制すという言葉がありますが、人間が作り出した薬というのは、基本的にすべて毒です。だから副作用ゼロの薬は存在しない。そして効果の強い薬ほど、副作用も大きいんです」 「それ、どう解釈したらいいんでしょう。慰められてるんですかね」 「事実を述べているだけです。どう受け取るかは、その人次第です」 「私が毒ってことですか」 「これまでの園長だって、全員が毒でしたよ。あなたのことも毒と認識する職員がいて、拒絶反応が起こっている。ただ副作用を上回る薬効が現れれば、それは薬ということになります」 しばらく見つめ合った後、磯貝はふうと息を吐いた。 「食えない人だな」 「そうですか。典型的な痩せの大食いだって、よく言われるんですけど」 森下が最後の一口をかきこみ、空いた皿をこちらに向ける。 磯貝は不覚にも吹き出してしまった。 食事を終えて管理事務所の方角へと向かう途中、磯貝はふと足を止めた。 「どうしたんですか」 気づかずに先を歩いていた森下が戻ってくる。 「ホッキョクグマ、お好きなんですか」 そこはホッキョクグマの展示場だった。壁を背にした半円型の敷地のうち、三分の一ほどがプール、残りが氷山を模したような白い階段状の放飼場。展示場の周囲には濠(モート)が掘られていて、その外周を柵で囲ってある。 「ネーヴェがまた常同行動をしていると思って……」 「もう名前も覚えてるんですね」 当たり前だ。磯貝は暇さえあれば園内を見てまわっている。そしていまのところ、暇はあり余っていた。 柵にとりつけられた紹介パネルによると、ネーヴェは十三歳のオス。イタリアの動物園で生まれた個体らしく、ネーヴェという名前もイタリア語で雪を意味するらしい。 ネーヴェはけっして広いとはいえない放飼場の、三段になった足場の最上段にのぼっていた。壁に面した、幅二メートル、長さは五メートルあるかないかというスペースを行ったり来たりしている。足場の端まで歩いては黒い鼻先を右に左に動かし、方向転換して反対側へ。そこでまた鼻先を動かし、ふたたび方向転換、といった具合だ。 磯貝が異変に気づいたきっかけは、たまたま耳に入った来園客の会話だった。 三十歳前後の父と、小学校低学年ぐらいの息子という親子連れだった。父親がふざけて息子を濠に投げ入れるふりをしてじゃれ合っていたので、事故が起こらないかとはらはらして注意を向けていたのだった。 怖い怖いとひとしきりはしゃいだ後で、息子は父に訊いた。 ねえ、お父さん。どうしてあのシロクマ、同じ動きしかしないの――。 父はこう答えた。 なんでだろう。あれ、本当はロボットなんじゃないか――。 息子はその答えに納得したふうではなかったが、それ以上の質問もしなかった。 あの父子はその後、ホッキョクグマの常同行動について話し合っただろうか。大きかったとか、かわいかったなどの感想は口にするかもしれない。だが、なぜ同じ動きを繰り返すのか、という疑問への解答を見つけようとはしなかっただろう。磯貝には、教育を目的に掲げる動物園側と、レジャー目的でしかない来園客との、動物と向き合う意識の乖離(かいり)を象徴するような場面に思えた。 とにかくそれ以後、磯貝は近くを通りかかるたびにネーヴェを観察するようになった。たしかにネーヴェは常同行動が多かった。そしてそれは、たいていこちらが疲れて根負けしてしまうほど長時間に及んでいる。 「なるほどね」 磯貝の話を聞き終えても、森下にあまり心配する様子はなかった。アジアゾウのノッコのときとは大違いだ。経営には無関心でも、動物にたいしてはいつも親身になるのに。 「園長。実はですね――」 そのとき、森下の後ろに、遠くを横切るホッキョクグマの飼育担当者が見えた。 竹崎隼太。ひょろりと背の高いところは苗字の通り竹のようだが、いつも眠たげな目と紫がかった肉厚の唇からは、「隼太」という名前に似つかわしくない鈍重な印象を受ける。磯貝より三つ年下なのでもう三十歳を超えているはずだが、どこか学生のような頼りなさを引きずっている男だった。 「竹崎くん」 磯貝が手を上げると、竹崎は足を止めて軽く首を突き出した。手招きをされて、ようやくこちらへと方向転換する。いつもこの調子だ。明らかにこちらに気づいているのに、呼び止めなければ挨拶もせずに通り過ぎようとする。 「ネーヴェの体調はどう」 「……いつも通りです」 相手の目を見ずに口の中でぼそぼそ呟くような喋り方も、竹崎にとっては普通らしい。最初は避けられているのかと気になったが、ほかの職員たちと会話するところを見る限りでは、少なくとも磯貝だけにこういう接し方をしているというわけではないようだ。 「餌はちゃんと食べてる?」 「……はい」 「竹崎くんのほうはどうだい」 「どうって……」 「昨日、休みだっただろう。勝てたかい」 磯貝はパチンコのハンドルを握る動きをした。竹崎のギャンブル好きは、職員の間でも有名だった。仕事帰りには毎日パチンコ店に立ち寄り、休日ともなると、台の前に座ったまま一日を過ごすこともあるという。 「収支はとんとんです」 そこで竹崎は、ようやくかすかな笑みを浮かべた。 「ところで今朝の話。どう思った?」 「飼育日誌の件ですか」 「うん。もしよければ、協力して欲しい」 「やらなきゃいけないなら、やりますけど」 いつもながらの煮え切らない態度だった。 「強制はしないけど、できればやって欲しい。考えておいてよ」 軽く首を突き出す動きで話を終わらせて、立ち去ろうとする。「あ、それと」と、磯貝は呼び止めた。 「ネーヴェが常同行動を見せているんだけど」 竹崎はネーヴェを一瞥した。相変わらず、ネーヴェは同じ動きを繰り返している。 こちらに視線を戻しても、竹崎からなんら意見はないようだ。 「どうしてだろう」 「わかりません」 珍しく即答だった。 「なんとか、ネーヴェの常同行動を少なくすることは――」 「無理です」 きっぱりとした語調に面食らった。 「失礼します」 軽く首を突き出すだけの会釈をして、竹崎は歩き去った。 遠ざかる背中を呆然と見送っていると、森下が隣に並んだ。 「やれやれ。相変わらずだな。竹崎くんは」 「僕は、なにか彼の気に障るようなことを言ったのでしょうか」 森下を見ると、彼は少し困ったような顔で頬をかいた。 「さっき言いかけたんですが、ホッキョクグマは、もっともエンリッチメントの難しい動物の一つなんです」 「エンリッチメント……」 聞いたことのない単語だった。森下は説明する。 「正確には『環境エンリッチメント』と言います。エンリッチメントという単語は、直訳すると『豊かにする』という意味なので、動物の『環境を豊かにする』ための取り組みと説明するのが正しいのかな。ようは動物の本能を発揮できる環境を整えてあげて、精神的健康的に豊かに暮らさせてあげようという取り組みです。こういう言い方が適切かわかりませんが、このところの動物園のトレンドですね。具体的になにをどうすれば、という定義はなく、動物園、もしくは人間による意図あるすべての試みがエンリッチメントになります。たとえば展示場を本来の生息環境に近づけたり、運動不足解消のために遊具を設置したり、もしくは野生では群れで暮らしているのに一頭で飼育されていた動物を、多頭飼育に切り換える、などでもいい。とにかく動物を幸せにするための、ありとあらゆる試みです。もっともわかりやすい成功例を挙げると、旭山動物園の一連の行動展示です」 「ああ。あれがエンリッチメントというんですか」 「ええ。アザラシの展示で筒状のトンネルを設置して、その中を通るアザラシを間近で見られるようにしたり、オランウータンの展示では地上十七メートルの高さに張ったロープを綱渡りさせたり、さまざまな取り組みがテレビなどでも紹介されています。あれは動物に曲芸をさせているわけではありません。動物が本能的にそうしたくなるような環境を、動物園側が整えてあげているんです」 「なるほど。動物に本能を発揮させる環境を与えて生き生きと過ごさせることが、お客さんの満足にも繋がるわけか」 「そうです。常同行動というのは、言葉を発しない動物にたいし、エンリッチメントが効果を上げているのかを判断するための、わかりやすい指標になります。常同行動が見られなくなれば、動物のストレスが軽減されている」 「つまりエンリッチメントが成功している」 森下は頷いた。そのまま視線を展示場に向ける。 「だけどネーヴェの常同行動をなくすのは、並大抵のことじゃない。たぶん日本中の動物園を探しても、常同行動をまったく見せないホッキョクグマなんて、ほとんどいないんじゃないかな」 「なぜですか」 「まずは、ホッキョクグマの頭の良さが挙げられます。頭が良いということは、学習能力が高いということです。学習能力が高ければ、刺激に慣れるのも早い。あるエンリッチメントが功を奏したとしても、賢いホッキョクグマはすぐに刺激に慣れ、飽きてしまいます」 咳払いを一つ挟んで、森下は続ける。 「それに、ホッキョクグマ本来の生息域と動物園では、あまりに環境が違う。それはやはり大きいですよ」 「そうは言っても、本来の生息域と環境が違うのは、どの動物も同じでしょう」 「たしかに。動物園動物で、生息域と同じ環境を与えられているものはいません。人間は動物園動物にたいして、例外なく残酷な仕打ちをしています。とはいえ、その度合いはそれぞれ異なります。ホッキョクグマの生息域である北極圏は、アフリカのサバンナやアマゾンの熱帯雨林などと比べても、ことさらに特殊です。なにしろ生物の絶対数すら少ないわけだから、餌を求めて、一年で数千キロにも及ぶ移動を強いられる。ホッキョクグマは一日で平均して一四から一八キロを移動し、その行動圏は、分類学的に近いとされるヒグマの四五〇倍と言われています」 「そんなにですか」 ヒグマの行動圏の四五〇倍。想像もつかないが、途方もない広さだとはわかる。 「野生のホッキョクグマは、起きている時間の七七%を捕食についやすと言われています。過酷な環境への適応を、遺伝子レベルでプログラミングされているんです。ところが、動物園で飼育されている場合、捕食に時間をかけることはない。野生のホッキョクグマが七七%をあてていた時間が、ぽっかり空白になる。そのため、なにもすることのない時間ができて、ストレスになるんです。遊具などで暇つぶしするにしても、先ほども言ったように頭の良い動物だから、すぐに飽きてしまう……ですからホッキョクグマにストレスを感じさせないで過ごさせるのは、至難の業なんです。ほぼ不可能と言っていい。園長がネーヴェの常同行動に触れたことで、竹崎くんは、無理難題を押しつけられたと感じたのかもしれません」 磯貝は竹崎の去った方角を見た後、ホッキョクグマの展示場に視線を移した。 ネーヴェはやはり、短い映像を繰り返し再生するように同じ動作を繰り返していた。(つづく) 次回は2015年5月15日更新予定です。
第9回『このミステリーがすごい!』大賞・優秀賞を受賞し、2011年『ある少女にまつわる殺人の告白』でデビュー。他の著書に『ジャッジメント』(小社刊)『消防女子!!女性消防士・高柳蘭の誕生』『サイレント・ヴォイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻』などがある。