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  • 気まぐれホッキョクグマ(3) 2015年5月15日更新
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「健ちゃんの言う通り、たしかに動物園のシロクマって、いつも同じ動きを繰り返しているイメージかも」
 ビールのアルミ缶を指先でペコペコとへこませながら、奏江(かなえ)が虚空を見上げた。すでに頬はほんのり桜色に染まり、夫の呼び方も結婚前のものに戻っている。
「そうなんだよな。動物園の園長がこんなことを言うのもなんだけど、人生で数えるほどしか動物園に行ったことはなかったし、その中でとくにホッキョクグマに注目したこともなかったけれど、たしかにホッキョクグマを思い出そうとすると、常同行動をしている姿が思い浮かぶんだ。だけど、その意味について深く考えたことなんてなかった」
「それは私も同じよ。というか、ほとんどの人がそうなんじゃないの。だって職員だって、その常同行動っていうの? それを放置しているんでしょう」
「そうだけどさ……」
 磯貝は口へと運びかけたアルミ缶の中身が残り少ないことに気づき、テーブルに戻した。一緒に飲むときには、酒の強くない妻にペースを合わせるよう心がけている。
 娘を寝かしつけた後の、ささやかな夫婦の酒宴だった。自宅で仕事の愚痴はよそうと決めているつもりなのに、「ふうん、そうなんだ」「それでどうなったの」「本当に? 信じられないね」妻の絶妙な合いの手に乗せられて、気づけばいつも本音を洗いざらいぶちまけている。
「で、結局健ちゃんはどうするべきだと思うの」
「そりゃあ、常同行動をなくしたいさ」
「だけど飼育のプロでも匙を投げるほど難しいんでしょう? ホッキョクグマのエンリッチメントは」
「だからと言って、努力を放棄する理由にはならないよ。動物にできる限り快適な環境を提供する、それができていなくても、努力を継続するのは動物園の責任だと思う」
「でも、まったく常同行動を見せないホッキョクグマなんて、全国的に見てもほとんどいないのよね。ほとんど、ってことは、東京とか大阪とかの大きな動物園でもそうだってことでしょう。なのに野亜市みたいな小さな自治体の動物園で、できるの? お金だってかけられないわけじゃない」
「まあね。だけど、飼育担当者の仕事ぶりを見ていると、なんか歯がゆいんだ。最初から諦めてるように見えてさ。現状には大いに不満があるはずなのに、なんら手を打とうとしていない」
 奏江がふうと鼻から息を吐く。
「それって、決め付けじゃない」
 意味を飲み込めずに磯貝がきょとんとしていると、奏江は景気づけのようにビールをあおった。ほおと息を吐いて、ふたたび話し始める。意図的に柔らかくしたような、小さな子供に言い聞かせるような口調になった。
「いまいる職員の人たちが、問題を解決するためになにも努力をしてこなかったなんて、どうして言い切れるの。健ちゃん、まだ入ったばかりじゃない」
「そ、それは……」
「私はもちろん、健ちゃんのこと応援してるよ。動物園は変わっていかないといけないだろうし、そうしないと生き残ってもいけないと思う。だけど、動物園にだって歴史があって、そこで働く人たちも、一朝一夕にそういう考え方や勤務態度になったわけじゃないと思うんだ。ほら、ホッキョクグマだって、最初から毛の色が白かったわけじゃないし、あんな寒いところで生活していたわけじゃないでしょう。長い時間をかけて、極寒の地域での生活に適応できる身体になったんじゃない。それなのに、いきなりまったく異なる環境に放り込むから、ストレスが溜まって常同行動になるんじゃない」
「じゃあなんだい。やる気のない職員を放っておけって言うのかい」
「そんなことを言ってるんじゃないよ」
「なら、どうすればいいってのさ」
 奏江が頬杖をつき、にやにやとする。
「本当はわかっているくせに」
 妻と見つめ合っているうちに、拗ねたふりを続けられなくなる。磯貝はつい吹き出してしまった。
「ほら。やっぱりわかってるんじゃない」
「参ったな。奏江にはかなわない」
 磯貝は缶を逆さにして、中身を飲み干した。
「たしかに奏江の言う通りかもしれない。やる気を見せない職員に腹を立ててもしかたがないね」
「そうよ。そもそも動物が大好きじゃないと選ばないような仕事なんだから、最初からやる気がないなんてありえない」
「そう見えているとしたら、歴代の園長の責任だ」
腰かけ気分の事なかれ主義で任期を満了することしか頭にない前任者たちが、現場からの提案や要求を無視し続けたことは容易に想像できる。そういうことが繰り返される職場で、モチベーションを高く保てと言うほうが無茶だろう。
「つまり野亜市立動物園にまず必要なのは、人間への……職員へのエンリッチメントってことだね」
 動物の飼育環境を作るのは人間だ。人間が本来のやる気を存分に発揮できるような環境づくりができれば、おのずと動物のエンリッチメントにも繋がる。
 もしかしたらゾウのノッコの一件以来、自分には慢心があったのかもしれない。だからホッキョクグマのネーヴェの常同行動を見て、自力で解決策を見つけようとしてしまった。それではいけないのだ。素人の自分などより、日ごろからネーヴェの世話をする職員にやる気を出させたほうが、きっと上手く解決できる。
「人間へのエンリッチメントだなんて、健ちゃん上手いこと言うわね」
「いやあ、それほどでも」
「頑張って。応援してるから」
 奏江が微笑みながら缶を掲げた。
 また上手いこと乗せられてしまった。
 奏江の夫にたいするエンリッチメントは完璧だなと、磯貝は思った。

4

 森下が無料休憩所に姿を現したのは、正午を十分ほどまわったときだった。
「お。今日はナポリタンですか。カレーよりはベターな選択ですね」
 昨日と同じように、磯貝のトレイを覗き込むようにしながら腰を下ろす。
「そう言う森下さんは、やっぱりカレーライスなんですね」
「もう認めます。具は少ないしやたらと甘いけど、私はここのカレーが好物なんです」
 森下は屈託なく笑った。
 互いの子供の話などをしながら、食事をした。
 しばらくして、森下があらたまった調子になった。
「それで、話というのは」
 今日は磯貝が森下を呼び出したのだった。
 森下の皿はすでに空になっている。磯貝は最後の一口を咀嚼し、飲み込んでから口を開いた。
「一つ、アイデアが浮かんだので、森下さんに話を聞いてもらおうと思いまして」
「またですか」
 森下は驚き半分、あきれ半分といった笑みを浮かべた。
「よくも次から次へと思い浮かぶものですね。たいしたものだ。しかし裏を返せば、うちの動物園にはそれだけ、外の人間から見たらすぐに目につくような問題が山積しているということなのかな」
 笑顔に自嘲の色が混じる。磯貝を「外の人間」と表現したのが、せめてもの皮肉なのかもしれない。
「かまいませんか」
「いいですよ。うかがいましょう」
 森下はトレイを脇に寄せ、テーブルの上で手を重ねた。
「園内でエンリッチメントのコンテストを開催したいんです」
「ほお」
 森下が口をすぼめた。
「エンリッチメントについては、NPO法人の市民ZOOネットワークが主催するエンリッチメント大賞があります。ご存じですか」
「ええ。調べました。全国の動物園の飼育担当者が応募しているようですね」
「それだけでなく、あの賞は他薦も受け付けるので、来園者が推薦するというかたちでの応募もあります。ようするに、誰でも応募できるんですよ」
「そのようですね」
「あれでは駄目なんですか。個人の自由意思で、エンリッチメント大賞への応募を推奨するといったかたちでは」
「駄目です」
 磯貝はきっぱりとかぶりを振った。
「私が考えるコンテストの真の目的は、飼育担当者へのエンリッチメントだからです」
「おもしろいことをおっしゃいますね。飼育担当者へのエンリッチメント……か」
 森下が興味深そうに顎を触る。
「飼育担当者たちに競争させることで、飼育担当者のモチベーションの向上が見込める、ということでしょうか」
「それに加えて、取り組みの過程を評価できる仕組みを作りたいんです。エンリッチメント大賞に応募できるのは、当然ながら成功したエンリッチメントの試みに限られます。入賞するとなると、さらに明確な成果が求められる。もちろん、園内コンテストで優秀なエンリッチメントが挙がってくれば、エンリッチメント大賞への応募も考えます。ですが狙いはそこではない」
「飼育担当者の意識改革……ですね」
 磯貝は頷いた。
「コンテストのかたちをとることで、自然と自分の担当以外の動物にも関心を向けるでしょう。ほかの動物の担当者がどういう取り組みをしているのかを知ることで、刺激にもなる。あるいは担当外だからこそ気づくこともあるだろうし、互いの飼育法について助言し合ったり、活発に議論を交わしたりするような環境づくりを促せるかもしれない」
「そう上手くいきますかね。飼育担当者の縄張り意識は、もしかすると飼育動物以上かもしれませんよ」
 懐疑的な上目遣いを、磯貝は真っ直ぐに受け止めた。
「その縄張り意識を変えなければならないんです。飼育動物は飼育担当者の所有物ではありません。動物が幸せになれるようなエンリッチメントの案があるのなら、それが自分のアイデアでなくとも、積極的に取り入れていくべきです」
 腕組みをする森下は、まだ納得していないようだ。
「だが園長、一つ忘れてやしませんか。私は昨日、ホッキョクグマのエンリッチメントの難しさについて、お話ししましたよね」
「もちろん覚えています」
「ならおわかりでしょう。エンリッチメントの難易度は、動物によって異なります。なのに全部の動物を、同じ土俵に上げてしまったら不公平です。ホッキョクグマのようなエンリッチメントの難しい動物を担当する職員は、断然不利になりますよ」
「ですがホッキョクグマのエンリッチメントが難しいというのは、飼育担当者の間では周知の事実なんでしょう」
「まあ。そうですが……」
「それなら平気だと思います。コンテストは飼育担当者同士の投票形式にしようと考えていますので」
 森下は感心した様子だった。
「なるほど。飼育担当者同士なら、ほかの飼育担当者の取り組みがどれほどのものなのか、その動物へのエンリッチメントの難しさを踏まえた上で評価することができる」
「そうです。私はこれまで、自分のヴィジョンを実現するために、部下をどう動かすかばかりに気をとられていました。どうすれば部下が楽しく仕事に取り組めるのか、という観点を忘れていたかもしれない。動物を幸せにする前に、まずは飼育担当者を幸せにしないと」
 目を閉じて黙考していた森下が、やがて顔を上げた。
「園長……正直な意見を申し上げても?」
「もちろんです。そのためにお呼びしたのですから」
 そうは言ったものの、磯貝は緊張した。テーブルの下でこぶしを握り締める。ここで森下に反対されるようなら、ほかの職員からの賛同など期待できない。
 森下はふうと肩を上下させた。
「失礼ですが初めてですよ。掛け値なしに園長のアイデアを応援しようと思わされたのは」
 嬉しさで全身が熱くなった。
「おもしろい試みだと思います。どれほど効果があるのかは想像もつきませんが、やる価値はある。もしかしたら、この動物園の停滞ムードを変えるきっかけになるかもしれません。ぜひやりましょう」
 森下が差し出してきた右手を、磯貝はしっかりと握り返した。

(つづく) 次回は2015年6月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 佐藤青南

    第9回『このミステリーがすごい!』大賞・優秀賞を受賞し、2011年『ある少女にまつわる殺人の告白』でデビュー。他の著書に『ジャッジメント』(小社刊)『消防女子!!女性消防士・高柳蘭の誕生』『サイレント・ヴォイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻』などがある。