佐藤青南
6 放飼場をラジコントラックが走り回る。 トラックを追いかけているのは、ドールというイヌ科の動物だ。丸く大きな耳が特徴的で、茶褐色の毛色をした中型犬ほどの大きさのこの動物は、アジアの広い地域に生息している。野生では十頭前後の家族群を形成し、獲物を捕らえるのにも群れで協力する。そのため、仲間同士のコミュニケーションに使用する何種類もの鳴き声を持つ――というのが、案内パネルで磯貝の仕入れた知識だった。 ところが野亜市立動物園で飼育する三頭にかんしては、鳴き声を聞いたことがなかった。だから磯貝はドールの鳴き声を知らない。見た目はほとんど中型犬のしかし犬よりもおとなしい、印象としては地味な動物、というのが、ドールという動物にたいする認識だった。 柵の外からトラックを操る飼育担当者の楠勲夫(くすのきいさお)も、もしかしたら同じように思っていたかもしれない。ぽっこりと出っ張った腹に載せたプロポのレバーを慌ただしく両手の親指で倒して操縦しながら、信じられないといった面持ちで放飼場を見つめている。 土煙を上げるラジコントラックの荷台部分には、馬肉のかたまりが括(くく)りつけてあった。 ただ給餌するだけでなく、逃げるトラックを追わせて狩猟本能を刺激しようという、環境エンリッチメントの試みらしい。 当初、ドールたちはラジコントラックを警戒しているようだった。肉の臭いを嗅ぎつけて興味を抱く様子こそうかがえるものの、遠巻きにしているだけだった。痺れを切らした楠がトラックを近くまで走らせると、尻尾を内側に巻き込んで逃げ出す個体すらいた。餌のほうがドールを追いかけ回す有り様に、見物客からは失笑が起こった。エンリッチメントは失敗かに思われた。 ところが、楠がトラックを寝室へ引き返させようと方向転換したそのとき、一頭のドールが短く吠え、トラックを追い始めた。それを合図に、ほかの個体も動き始めた。三頭はさまざまな鳴き声を交わしながら見事な連携を見せ、トラックの逃げ道を狭めていった。 「違う違う! そっちじゃない! あっち! もう、なにやってるの」 柵から身を乗り出さんばかりにしながらラジコントラックに指示を飛ばすのは、楠と一緒にドールを担当する岩井まりあだ。いつも下を向いてもじもじと話す印象だったが、いまでは興奮のあまり、先輩の楠への敬語すら忘れているようだ。 ついに一頭のドールが、馬肉に食いついた。がっちりと犬歯を肉に食い込ませ、獲物を逃さないように後方に体重をかけて踏ん張ると、浮き上がった後輪が空回りして咆哮(ほうこう)する。すると、ドールが恫喝するような獰猛(どうもう)な唸り声を上げた。ペットとは一線を画す野性を垣間見た気がして、磯貝は総毛立つのを感じた。 ほどなく、馬肉が荷台から引き剥がされた。その拍子に弾き飛ばされたラジコントラックが、濠(モート)に転落してばらばらに壊れる。 「うわー、買ってきたばかりなのに」 楠が手で目もとを覆い、天を仰いだ。 「もう、なにやってるんですか」 まりあは先輩職員の操縦技術を非難するが、展示場を取り巻いていた数組の来園客の反応は違った。ドールの見せた見事なチームプレーに、拍手が沸き起こる。当のハンターたちはそんな反応など気にかける様子もなく、満足げに獲物をむさぼっていた。 驚いたのはむしろ、飼育担当者のほうだった。 楠とまりあは戸惑ったように周囲を見回した。 「こんな反応、初めてだよな」 「そう……ですね。拍手どころか、これまではドールの展示場の前で足を止めてくれる人すら、ほとんどいませんでした」 「だよな。こんなのただの犬じゃんって、いつもそう言って素通りされていたのに」 「やってみるものですね、エンリッチメント……」 次第にほころんだ二人の顔に、充実感がじわりと滲む。 そのとき、向かいの柵越しに放飼場を見下ろしていた藤野美和が顔を上げた。たまたま通りかかったところ、ドールのエンリッチメントが行われているのに気づき、見物していたようだ。 「まさか、あんなので園内コンテストに応募するつもりじゃないでしょうね」 ドールの飼育担当者たちに歩み寄りながらそう言うと、少し離れた場所で見守る磯貝に目礼をする。 喜びに水を差された楠は、丸顔の中心にパーツを集めた。 「なんだよ。いちゃもんつける気か。効果はてきめんだったろう。お客さんだって、あいつらだって喜んでたじゃないか」 「あいつら」というところで、三頭のドールを振り返る。 「たしかに効果はあったわね。ドールがあんなに生き生きと動くところも、お客さんがドールの展示に集まっているところも初めて見たし、給餌で拍手が起こるなんて、ほかの人気動物でも見たことない。それは否定しないわ」 「それならいいじゃないか」 「ええ、いいわよ。楠くんが毎日新しいラジコントラックを買えるだけのお給料もらっているのならね。それとも、借金してでもこのエンリッチメントを続けたいって言うなら、私は止めないけど」 痛いところを突かれ、楠が唇を歪めた。 「人のエンリッチメントにケチつけるぐらいだから、自分の担当動物には、よほど効果的なエンリッチメントを施しているんだろうな」 「あら、聞いていないの。アジアゾウの給餌の方法が変わったの」 「それは知ってる。展示の柵の外から放飼場まで、長い樋(とい)が設置されているのも見た。柵の外にはコンテナボックスの中にリンゴが置いてあって、樋は外から放飼場に向かって傾斜がつけられている。ようするに、そうめん流しならぬ、リンゴ流しだな」 「その通り。全部ではないけれど、一部の給餌をお客さんに任せる。そうすることでお客さんは楽しめるし、給餌のタイミングもランダムになるから、ゾウにとっても生活にめりはりがつく。一石二鳥のエンリッチメントでしょ」 美和は得意げに胸を張った。 「たしかにな。一日に大量の餌を必要とするゾウならではのエンリッチメントだ。あの仕掛けを見たときには、さすがだなと思った。さすがワキさんだなって」 アジアゾウ飼育担当者の表情が曇った。 「なんでワキさんのアイデアだって決め付けるの」 「違うのかよ」 不満げに歪めた口元から、反論の言葉は出てこない。 楠が反撃に出る。 「ほらな。偉そうにするのは、せめて自分の考えたエンリッチメントが成果を挙げてからにして欲しいもんだ」 火花が散るような視線の応酬に、まりあが加わった。 「私たちは必ず、もっと効果的なエンリッチメントを思いついてみせます。藤野さんは、自分の担当動物のことだけ考えていたらいいんじゃないですか」 美和は虚を突かれた様子だった。おとなしいと見くびっていた後輩が敢然と立ち向かってきたので、驚いたのだろう。磯貝も内心で驚いていた。 「わかってるわよ。言われなくったってちゃんとやるし」 「それならこんなところで油を売るより、仕事に戻ったほうがいいと思います」 完全に形勢が逆転したようだった。 「コンテスト、ぜったい勝つからね」 美和が捨て台詞を吐いて展示場を後にする。 「望むところです」 まりあは美和の後ろ姿に向けて決然と宣言した。 早速、ドール担当者の間で作戦会議が始まる。 「藤野さんはああ言いますけど、今回の方向性は間違っていなかったと思います」 「おれもそう思う。やはり肉食動物は狩りのときが一番生き生きするよな。だけど、藤野の言うことだって一理ある。毎度まいどラジコンカーを壊されてたら、おれらタダ働きどころか、借金作ることになるぞ」 「だったら、ラジコンカーは使わずに、肉のかたまりに紐をつけて外から引っ張ってみたらどうですか」 「それじゃラジコンカーみたいに小回りが利かない。一瞬で捕まってしまうよ」 「それならラジコンはラジコンでも、ヘリコプターとか。水平方向でなく、垂直方向にも移動できるようにするんです」 「ううん……ラジコンヘリなんて値が張りそうじゃないか。だいいち、ラジコンヘリって、肉のかたまりを吊るしてまともに飛行できるものなのかね。嫌だぜ、高価なラジコンヘリを買ってみたはいいものの、今日みたいに一回の給餌で壊れたとかは」 「ラジコンヘリの性能と価格について調べてみます」 活発な意見交換が続いている。 磯貝は戦利品に群がるドールたちを見下ろしつつ、その場を離れた。 園内エンリッチメントコンテストの実施を発表してから、三日が過ぎた。飼育動物へのエンリッチメントを競うことで、職員――つまりは人間へのエンリッチメントにするという観点では、早くも成果の兆しが見える。 いまも引っ込み思案でおとなしい印象だったまりあが積極的に提案していたし、アジアゾウやレッサーパンダを担当する美和が、自分の仕事には関係のないドールの展示場を覗いていた。磯貝が着任してからわずかしか経っていないが、これまで職員が動物の飼育環境や展示環境を改善するために自ら行動したり、担当外の動物に関心を持っている様子は見られなかった。 磯貝は時間の許す限り園内を歩き回り、職員たちのエンリッチメントへの取り組みを見てまわるように努めた。すべての職員が賛同し、参加してくれているわけではない。同じ動物を担当していても、エンリッチメントに積極的な職員とそうでない職員がいることもある。だが少しずつだが、確実に、変わり始めていた。 ホッキョクグマ展示場の近くに来た。 園内エンリッチメントコンテストの実施を発表して以来、竹崎はともかく、ほかの二人の飼育担当者は知恵を絞って効果的なエンリッチメントを模索しているようだ。しかし、少なくとも昨日までの段階では、成果は挙がっていないようだった。磯貝が展示場を訪れるたびに目にするのは、判で押したような常同行動をするネーヴェだった。ホッキョクグマのエンリッチメントが難しいという森下の話は、本当のようだ。 今日こそは、昨日までと違うネーヴェであって欲しい。 歩を進めるたびに、磯貝は祈るような心境になった。 展示場が見えてくる。氷山を模した三段の階段状になった放飼場。 そしてやはり、ネーヴェの姿は最上段にあった。 やっぱり駄目か……。 脱力しそうになった。 が、次の瞬間、磯貝は落としかけた視線を上げ、目を見開いていた。 ネーヴェはいつものように最上段にいた。しかし、いつものように常同行動をしてはいなかった。三〇センチ四方ほどの大きな氷のかたまりに、前脚でのしかかるようにしている。 展示場に駆け寄り、ネーヴェを観察した。 氷の中には、なにか埋め込まれているようだった。よく見ると、それは魚やソーセージだとわかる。ネーヴェは、氷に閉じ込められた餌を食べようとしているらしい。氷にかじりついたり、前脚で叩いたりしている。短い映像を繰り返し再生するかのような昨日までの動きは、まったくない。 氷と戯れるようなネーヴェの挙動を、磯貝はなかば放心しながら見つめていた。 そのとき、飼育担当者の品川が歩いて来るのが見えた。磯貝と目が合った瞬間、にんまりと誇らしげな顔になる。 磯貝は品川の肩を叩き、賛辞を送った。 「やったじゃないか。常同行動がなくなっている」 「ありがとうございます。いやあ、大変でした。給餌に工夫するしかないというのはわかっていたんだけど、どういう細工をするのかがね」 品川は照れ臭そうに人差し指で鼻の下を擦る。 「氷に餌を閉じ込めるなんて、よく考えたものだ」 「最初は、給餌の時間を毎日変えようかと思ったんです。この時間になれば労せず餌がもらえるとわかっていたら、毎日が退屈きわまりないでしょう。だから毎日、違う時間に餌をあげれば、ネーヴェも緊張感が保てるかなって」 「だけどそれじゃあ、品川くんたちの仕事が大変になるよね」 「そうなんです」と、品川は人差し指を立てる。 「給餌の時間は日によって変えたい。だけども逆に僕らは、毎日同じリズムで仕事させてもらったほうが楽なんです。ネーヴェにつきっきりでいいのなら、それでもかまわないけど、ほかの動物も担当していますからね。日によって給餌の時間が違うとなれば、スケジュール管理が大変になるし、ネーヴェの給餌に振り回されて、園内をばたばた走り回らなきゃいけなくなります。相当な負担増です」 「だから氷に閉じ込めたわけだ。それなら、溶けるまでに時間がかかる」 品川は大きく頷いた。 「氷の大きさや凍らせ具合によって、溶ける時間に変化をつけることもできますしね。ホッキョクグマは人間ほどでないにしろ、視力が良いんです。氷に閉じ込められていても、それが餌だと理解できます。だけど当然ながら、氷に閉じ込められた餌は、すぐには食べられない。見えているのに食べられない。このもどかしい時間がネーヴェに緊張感を与え、効果的なエンリッチメントになるんです」 「すごいな。坂本くんと二人で考えたのかい」 「そうです。すごいでしょう」と胸を張った品川だったが、すぐに堪(こら)えきれなくなったように噴き出した。 「なーんて。だったらいいんですけど、違います。僕と坂本じゃ、ボールや人形なんかの玩具を与えてみようとか、さっきも言ったように給餌の時間を毎日変えてみようとか、その程度を思いつくのが関の山でした」 「えっ……それじゃいったい」 誰がこのエンリッチメントを。 若手二人でないのなら、考えられるのは一人しかいない。いつもやる気がなさそうにしていて、三十路を過ぎているのに学生のような頼りなさを引きずっていて、ネーヴェの常同行動を少なくできないかという磯貝の相談を「無理です」と即座に突っぱねた男だ。 ちょうどその男が、獣舎から出てきた。 ひょろりと背の高い、眠たげな目をした男。 竹崎だった。 磯貝に気づき、ばつが悪そうに背を丸める。 品川が無邪気に手を振った。 「竹崎さん! やりましたね。さすがです。エンリッチメントは大成功ですよ! 園長もすごいって褒めてくれてます! こりゃコンテストの優勝はいただきじゃないですか」 本当に……竹崎くんが――? 磯貝にとって、竹崎が仕事にたいして積極的な姿勢を見せ始めたことは、ネーヴェの常同行動が消えたのと同じか、それ以上の快挙に思えた。(つづく) 次回は2015年8月15日更新予定です。
第9回『このミステリーがすごい!』大賞・優秀賞を受賞し、2011年『ある少女にまつわる殺人の告白』でデビュー。他の著書に『ジャッジメント』(小社刊)『消防女子!!女性消防士・高柳蘭の誕生』『サイレント・ヴォイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻』などがある。