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  • 気まぐれホッキョクグマ(6) 2015年8月15日更新
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 カンガルー舎を掃除する竹崎のもとに、坂本麻子が駆けてきた。麻子は竹崎と一緒にホッキョクグマを担当する後輩職員だ。
「竹崎さん、ちょっと来てもらえますか……ネーヴェが!」
 血相を変えて、ホッキョクグマ展示場の方角を指差す。
 ついにこのときが来たか。竹崎はどこか悟ったような心境で、麻子の後を追った。
 展示場の前には、もう一人のホッキョクグマ担当職員である品川が立っていた。竹崎たちを認めて駆け寄ってくる。
「竹崎さん。ネーヴェが、さっきから氷に興味を示さないんです」
 放飼場には、竹崎が予想した通りの光景が広がっていた。階段状の放飼場の最上段で行きつ戻りつを繰り返す、ネーヴェの常同行動だ。
「氷はどこだ」
 柵から身を乗り出して見回すと、餌を閉じ込めた氷のかたまりは、プールに浮かんでいた。ネーヴェが落としたのだろう。
「餌に興味をなくすなんて、どこか身体の調子が悪いんでしょうか」
 麻子が心配げにネーヴェを見つめる。
 竹崎はかぶりを振った。
「いや……残念だが、もうこのエンリッチメントの効果がなくなったということだろう。飽きたんだよ」
 品川が目を丸くする。
「本当ですか。まだ五日しか経ってませんが」
 そう。このエンリッチメントを試み始めて五日目だった。いつかこうなると覚悟してはいたが、竹崎が予想したよりも遥かに早い。少なくとも、二週間ぐらいは効果があるのではないかと高を括っていた。
 甘かったなと、苦笑が漏れる。
「ホッキョクグマの賢さを舐めちゃいけないってことだ。氷は時間が経てば溶ける。だから放っておいても、いずれは餌にありつける。なにもする必要はないって、ネーヴェはたったの五日で学んだんだ」
「さすがですね。ネーヴェ」
 麻子の声音には、我が子の賢さを誇るような響きがあった。
 品川が手綱を引き締める。
「そんな感心してる場合じゃないぞ。せっかく消えた常同行動が、また現れたんだ」
「わかってますよ。どうしたらいいですか」
「おれに訊くなよ……どう、しますか」
 品川と麻子が同時にこちらを向いた。二人とも救いを求める目をしている。
 なんて顔してるんだ。
 こんなにやりがいを与えてくれる動物は、ほかにいないだろうに。
 竹崎は不敵に笑った。
「別の効果的なエンリッチメントを探す以外にないだろう。ネーヴェが興味を抱いてくれるエンリッチメントを、考えるんだ」
 ネーヴェとおれたちの、知恵比べだ――。
 それからは試行錯誤の日々だった。
 竹崎は、ネーヴェに餌の入っていない氷を与えてみた。餌が閉じ込められているように見せるため、絵の具のかたまりを注入して凍らせたものだ。溶けた氷の中から餌が出てくると決め付けているネーヴェの、意表を突く作戦だった。もちろん、万が一口に入れても害のないよう、牛乳を主成分とした特殊な絵の具を使用している。
 目論見は当たり、ネーヴェは溶けてもなにも出てこない氷に戸惑っている様子だった。本物の餌はバケツで与え、給餌のパターンを崩した。
 翌日は餌を閉じ込めた氷を与え、その翌日はなにも入っていない氷を与え、といった具合に変化をつけた。氷を意識するべきかどうかわからなくなったネーヴェは緊張感を持って過ごせたようで、常同行動はなりを潜めた。
 だがそれもせいぜい十日だった。ネーヴェは与えられた氷の中身を確認し、それが本物の餌なのか、ダミーの絵の具なのかを判別できるようになったようだった。
 どうしてそんなことができるのか。三人で話し合った結果、おそらくすぐれた嗅覚を駆使しているのではないかという結論に至った。ホッキョクグマは氷の下を泳ぐアザラシの臭いや、一・五キロ先の獲物の臭いを嗅ぎ分けると言われている。餌の臭いがしないのがわかったのか、あるいは、絵の具の匂いを覚えてしまったのかどちらかだ。
 そこで麻子の発案で、ダミーの絵の具に魚の煮汁を混ぜた氷を与えてみた。しかし臭いが弱すぎて餌が入っていないのを見抜かれたのか、これはまったく効果がなかった。品川はダミーの絵の具と、餌を両方閉じ込めた氷を作ることを提案した。だが効果があったのは一日だけだった。
「もう、きりがないですよ。ネーヴェのやつ、いい加減にして欲しいな」
 品川がぴしゃりと自分の顔を叩き、肩を落として頬杖をついた。小さなグラスのビールはまだ半分ほど残っているが、顔が真っ赤だ。品川はほぼ下戸(げこ)だったらしく、すでに追加で頼んだウーロン茶のほうしか飲んでいない。酒を勧めて悪いことをしたなと、竹崎は内心反省した。
「なに弱音吐いてるんですか。ネーヴェは私たちへの意地悪で常同行動をしているわけじゃないんですよ」
 麻子のほうはしっかりしたものだ。竹崎の覚えている限りでも紹興酒を三杯お代わりしていたが、顔色一つ変わっていない。
 イメージと逆だな。品川が呑兵衛で、坂本が飲まない印象だったのに。
 竹崎は意外な思いで、対面に座る後輩職員二人を観察していた。そういえばネーヴェをよく観察するようになってから、後輩職員たち二人についても、いろいろと新たに知ることが多かった。これまで同僚にたいしてあまりに興味を持たな過ぎたのだ。
「あっ……私……」
 麻子が慌てて腰を浮かせる。
 先輩に手酌させてはいけないと気づいたようだ。
「いいよ、別に」
 後輩にお酌させるなんて、柄じゃない。
 手を上げて制すると、竹崎はビール瓶を傾けた。
 三人がいるのは市内の中華料理店だった。タウン誌に載っているのを、麻子が見つけてきたと言う。たまには竹崎さんも付き合ってくださいよと、品川が誘ってきた。正確には「たまに」ではなく、この二人と食事するのは「初めて」のことだった。竹崎にとって、同僚から食事に誘われること自体、久しぶりだった。
「坂本、おまえさ」品川がアルコールで目の据った顔を麻子に向けた。
「どれに投票するか、もう決めたのか」
 園内エンリッチメントコンテストの投票日まで、あと五日に迫っていた。
 麻子が記憶を辿るように虚空を見上げる。
「そうですね……まだはっきりと決めたわけじゃありませんけど、シマウマのは、おもしろいなと思いました」
「ああ。あれか。いまのところ、おれもそれだな」
 竹崎が同調すると、麻子は「ですよね」と目を輝かせた。
「鏡を使って群れを大きく見せるって、すごいアイデアじゃありませんか」
 シマウマにたいして行われているエンリッチメントは、寝室から放飼場に向けて姿見を何枚か立てるというものだった。シマウマは姿見に写った自分を仲間だと思い込み、安心する。単純極まりない仕組みだが、野生では群れで行動するシマウマにとって、効果は小さくない。群れが大きければサバンナで外敵も発見しやすくなるし、それだけ生き残る確率が高まるのだ。
 品川は納得いかない様子で顔を歪める。
「あれですか。たしかにおもしろいと言えば、おもしろいですけど……」
「けどって、なにが気に入らないんですか」
 麻子もまったく酔っていないわけではなさそうだ。普段より少し口調がきつい。
「鏡置いてるだけじゃん」
「それがいいんじゃないですか。簡単にできて、効果が大きいってところが」
 ねえ、と麻子に水を向けられ、竹崎は頷いた。
「その通りだ。人間がどれだけ手をかけたか、は問題じゃない。大事なのは動物が幸せかどうかだ。手間暇をかけたことでえられる充実感は、ともすれば人間の自己満足に繋がる。動物のことを第一に考えるなら、人間にとっては簡単にできて、なのに効果が大きい方法を見つけるべきだ」
 言いながら、竹崎は妙な引っかかりを覚えた。自分の言動には、どこかに矛盾があるような気がしたのだ。
 品川が反論する。
「わかってます。だけどぶっちゃけシマウマなんて、もともとほとんど常同行動とか見せないじゃないですか。鏡のアイデアが良いのはわかるんですけど、いまいち効果が挙がってるのか、わかりにくいんですよね」
「それなら品川は、どのエンリッチメントが一番だと思うんだ」
 竹崎が質問すると、品川は腕組みで唸った。
「難しいですね。強いて挙げるなら……マレーグマ、かなあ」
「ええーっ」
 即座に麻子が不平を唱えた。
「あんなの、ただ玩具としてバランスボールを与えただけじゃないですか。マレーグマ自身、運動量が多くてコミカルな部分があるからエンリッチメントの効果が出ているように見えやすいけど、あれじゃすぐに飽きちゃいますよ」
 その通りだと、竹崎も思う。
 クマ科最小種であるマレーグマには、バランスボールを与えるというエンリッチメントが試みられていた。運動能力が高く、後ろ足で立ち上がることも多いマレーグマがバランスボールと戯れる姿は、赤ん坊のようでも、酔ったサラリーマンの千鳥足のようでもあり、見ていて楽しいことは間違いない。だがその効果がどれほど続くかは、疑問に思えた。玩具を与えるという発想も、エンリッチメントの初歩の初歩という感じで安直に感じる。
 竹崎はふたたび、自分の思考に奇妙な違和感を覚えた。喉に刺さる魚の小骨のように、なにかが心に引っかかっている。
 品川が不服そうに唇を尖らせた。
「そんなこと言ったってさ……だいたい、自分の担当動物に投票できないのがいけないんだ。だって、どう考えても僕らが一番頑張ってるし、工夫してる。なのに、なにやってもすぐにネーヴェが飽きちゃうから」
 麻子も同意する。
「たしかにそれはありますね。これまで手を替え品を替え、本当にいろんなことをやってきましたもの。ネーヴェが賢すぎるから成果が出ていないように見えるかもしれないけど、私たちほど一生懸命取り組んだ職員は、ほかにいません」
「そうだよな。もしも自分の担当動物に投票していいルールなら、僕はぜったいにホッキョクグマに投票する」
「私もです」
 後輩の愚痴合戦を、竹崎は微笑みながら聞いていた。
 品川のグラスのウーロン茶の水面に、からんと涼しげな音を立てて氷が浮き上がる。いくつかの氷がくっついた状態で沈んでいたのが、時間の経過とともに溶けたらしい。
 そのとき、全身を閃(ひらめ)きが駆け抜けた。
 そして、ほとんど無意識に呟いていた。
「もう……いいんじゃないか」
「どういうことですか」
 麻子が怪訝そうに目を細める。
「自分に投票してもいいルールなら、間違いなく自分に投票する。それほど自分たちの取り組みに自信を持っているのなら、ほかの人間の評価なんか、気にしなくてもいいんじゃないか……ってことさ」
 そうだ。それこそが違和感の正体だと、竹崎は思った。エンリッチメントは動物の幸福を第一に考えて実施するべきだ。そんな当然の前提を、エンリッチメントに熱心になり過ぎると、忘れてしまう。他者からの評価を欲するあまり、担当動物よりも人間のほうを向いてしまう。そこにエンリッチメントの落とし穴がある。
「なにを言ってるんですか」
 意味が理解できない上に酔いも手伝ってか、麻子の語調が尖る。
 品川も首をかしげた。
「僕もいまの竹崎さんの言葉の意味、ちょっとよくわかりませんでした。コンテストで勝てなくても、かまわないってことですか」
「そうじゃない。最初からコンテストにエントリーしないってことだ」
「なんでですか!」
 麻子が両手でテーブルを叩くと、店じゅうの客の視線が集中した。さすがに我に返った様子で声を落とす。
「せっかくここまで頑張ってきたんですよ。たしかにいまはまだ、思うように結果が出せないでいますけど、投げ出さずに最後まで頑張りましょう」
「もちろん、これからも変わらず頑張るさ。エンリッチメント自体を諦めると言っているわけじゃない。ただ、自分たちで満足できているのなら、おれたちの取り組みを、あえて他人に評価してもらう必要もないんじゃないか」
 品川が苛々(いらいら)とした様子で、自分の頭を何度か叩く。
「やっぱわかんないです。竹崎さんのおっしゃっていることは、正論かもしれません。だけど、だからと言ってコンテストを降りる必要はないんじゃないですか。そりゃあ本来、エンリッチメントは他人や、ほかの動物への取り組みと比べたり競ったりするようなものではないのかもしれません。動物の幸福を最優先に考えて実施すべきものです。でも……僕らがその過程を楽しんだって、バチは当たらないんじゃないですか」
 竹崎は空いた皿を隅のほうに寄せ、テーブルの上で手を重ねた。
「園内エンリッチメントコンテスト自体は、試みとしておもしろいし、有意義だとも思う。おれにとっても、とても良いきっかけになった。ネーヴェの常同行動を抑えようとあれやこれや相談するおまえたちを見ていて、おれも情熱を取り戻すことができた。仕事ってこんなに楽しいんだって、再認識できた」
「そういや、ネーヴェのエンリッチメントについて相談しようとしたら、怒鳴られたことがありましたね」
 そのときのことを思い出したらしく、品川がぺろりと舌を出す。
「あのときのことを、まだちゃんと謝っていなかったな。すまなかった」
 竹崎が頭を下げると、品川は慌てた様子で手を振った。
「別に謝られるようなことじゃ……浮かれてぺらぺら喋った僕が悪かったと思っています。竹崎さんに怒鳴られたことなんてなかったから、びっくりはしましたけど」
「いや。おまえに落ち度なんて、まったくなかった。あれはたんなる八つ当たりだ。どれほどエンリッチメントに熱心に取り組んだところで、誰も認めてくれやしないし、なにも変わらない……過去の経験から、おれはそう決め付けていた。なのにどうしておまえたちは……って、一人で苛立っていた。そんなに頑張っても、がっかりするだけなのに……ってな。結局のところ、おれは楽しそうに仕事をするおまえたちが、うらやましかったんだ。いま振り返ってみると、あらためてそう思う」
 我ながら情けないと、自嘲の笑みが漏れる。
 麻子が遠慮がちに覗き込んできた。
「過去のこと……って?」
「もし話したくないなら、話さなくてもいいですけど」
 品川の言葉とは裏腹に、四つの目が答えを待っている。
 竹崎は話した。かつて自らがエンリッチメントに取り組んだ、スマトラトラのトゥリマのこと、トゥリマのエンリッチメントを巡って先輩職員の大石と対立してしまったこと、その対立がきっかけで動物園の体制はおろか、同僚の職員へも不信感を抱くようになってしまったこと。
 話すことで心の整理がつき、胸にかかっていた霧が晴れていく感じがした。そして感情のフィルターを取り除くことで、自分が一方的な見方をしていたのかもしれないという可能性に思い至った。冷静に振り返れば、過去が違った見え方をしてくる。
 かつての自分は、トゥリマのことを第一に考えて、エンリッチメントに取り組めていたのか。周囲からの評価を欲するあまり、自分本位のエンリッチメントに陥ってはいなかったか。大石が竹崎のエンリッチメントを妨害したのは、ただたんに変化を嫌ってのことだったのか。そもそも大石には、竹崎を妨害している自覚があったのか。
 竹崎の施したエンリッチメントは、トゥリマにとって最善のものだったのか。当時十八歳ですでに老境に差しかかっていたトゥリマに、エンリッチメントによる変化は必要だったのか。
 竹崎は、そしてトゥリマは、本当に被害者だったのか。
 大石にとっては、竹崎こそがトゥリマの平穏を脅かす妨害者と映っていたのではないか。
 エンリッチメントが時代の最先端であり正義だと信じて疑わない、頭でっかちで頑固な若い飼育担当者こそが。
 包み隠さずにすべてを話した。
 品川は痛ましげな表情だった。
「なるほど……そんなことがあったんですか。難しい問題ですね。なにが一番幸せなのか、動物は言葉で伝えてくれるわけではないし」
「そうでしょうか」と、麻子は首をかしげる。
「私は、その大石さんっていう人より、竹崎さんのほうが正しいと思います。トゥリマだって、きっと竹崎さんに感謝していますよ」
 品川は感情論に流されがちな後輩を、諭すように言う。
「必ずしもそうは言いきれないんじゃないか。動物がこう思ってくれているはず……なんてのは人間のエゴに過ぎず、自分本位なエンリッチメントに陥りやすい危険な考え方だって、大石さんはそう思っていたんじゃないのかな。いまの話を聞いて、大石さんには大石さんなりの考えがあったんじゃないかって、僕は思ったけどな。残念なことに、二人とも口下手だったせいで、理解し合うことはできなかったようだけれど」
「そういう見方もできるかもしれませんけど……だけど、竹崎さんはあくまでトゥリマのためを思ってやったわけで――」
「それが危険だってことだろ。よかれと思ってやった、動物のためを思ってやった、だから認めろって考え方がさ。どういう動機であれ、どういう内容の取り組みであれ、大事なのは、動物が幸福になれたかだ」
「でも竹崎さんのエンリッチメントで、トゥリマはご機嫌になったんですよね」
 麻子に問われ、竹崎は肩をすくめた。
「正直なところ、いまとなっては自信がない。当時のおれにはトゥリマが喜んでいるように思えたが、それは、おれ自身がそう望んでいたせいかもしれない。考えてみれば、おれはまだ経験の浅い飼育技術者に過ぎなかったんだ。おれなんかより、大石さんのほうがよほど長い間、トゥリマを観察していたし、だからトゥリマの考えていることも理解できたはずだ。だけど一刻も早く一人前になりたかったおれは、そんなことを素直に認めたくなかった。ほかの動物園の飼育技術者から聞きかじったエンリッチメントの知識を楯に、大石さんを考え方の古い石頭だと決め付けた。耳学問を振りかざしたおれと、トゥリマを直接観察し続けていた大石さん。どっちが動物にたいして、より親身になっていると言えるんだろう」
 麻子は言葉を失ったようだった。
 品川がうんと頷き、手を上げる。
「おれ、竹崎さんに賛成です。この三週間ちょっと、どうやってネーヴェの常同行動をなくすのかを考えて、いろいろ試すのは本当に楽しかった。この動物園に就職してからいままでで、一番楽しかった。エンリッチメントは、これからも続けていきたいと思います。だけどそれは、コンテストで勝つためであってはならない。上司や同僚に認められるためでも、お客さんを楽しませるためでもいけない。まずはネーヴェの幸せを最優先にできないと。だから、今後間違った方向に進まないためにも、コンテストに参加するのをやめましょう」
 じっと一点を見つめながら話を聞いていた麻子が、ふうと肩を上下させる。
「なにもそこまで……とは思いますけど、止めても無駄でしょうね。いちおう確認ですけど、コンテストは辞退しても、エンリッチメントは続けるんですか」
 念を押され、竹崎は頷いた。
「もちろんだ」
「よかった。ならいいです。私もネーヴェのエンリッチメントを考えるの、すごく楽しかったから」
「やめたりはしない。コンテストのためでも、お客さんのためでもない、ネーヴェのためのエンリッチメントをやるんだ」
「よし。じゃあ決まりだ」
 品川が差し出した手に、ほかの二人も手を重ねた。
 ところがこの期に及んでも、麻子はコンテストへの未練があるようだ。
「あーあ。なんか残念」
「いまさらなに言ってるんだ。もう決めたことだろ」
 品川が声を尖らせる。
「わかってますけど、だけど、なんだかもったいない気もするんです。そんなにストイックにならなくても……って。だって、同じことじゃないですか。コンテストの優勝を目指していようが、お客さんを楽しませる目的だろうが、あくまでネーヴェのためだろうが。効果的なエンリッチメントを実施できれば、コンテストにも勝てるし、お客さんも楽しめるし、ネーヴェだって幸せになれる」
「それは違う」竹崎がきっぱりと断言するのがよほど珍しかったのか、ほかの二人が不思議そうな顔をした。
「飼育環境を野生下のものに近づけたり、動物の本能を引き出すような仕掛けをしてやることで、動物が生き生きとし、お客さんの満足にも繋がる。お客さんの満足に繋がる結果がすなわち、動物にとっても幸福をもたらすエンリッチメントだと、おれもそう思っていた」
「違うんですか」
 品川が意外そうに言う。
「違わない……ホッキョクグマを除いてはな」
 二人の後輩は、互いの顔を見合わせた。
 動物の幸福度と来園客の満足度が反比例するエンリッチメント。
 動物の本能を引き出すことが、来園客の不満に繋がるような取り組み。
 ウーロン茶のグラスに浮いてくる氷を見た瞬間に、竹崎はそれを思い付いた。
 いや、正確にはいま思い付いたのではない。他者の評価を気にするあまり、来園客の満足を優先するあまり、気づいていながら無意識に目を逸らしていたのだった。

(つづく) 次回は2015年9月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 佐藤青南

    第9回『このミステリーがすごい!』大賞・優秀賞を受賞し、2011年『ある少女にまつわる殺人の告白』でデビュー。他の著書に『ジャッジメント』(小社刊)『消防女子!!女性消防士・高柳蘭の誕生』『サイレント・ヴォイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻』などがある。