佐藤青南
8 「いったい、どういうことなんでしょうね」 磯貝は歩きながら横を見た。 「さあ、どうでしょう」 肩をすくめる森下は、鼻歌でも歌い出しそうな調子だ。 「森下さん。もしかして答えを知っているんですか」 「まさか。どうしてそう思うんですか」 「随分と楽しそうじゃないですか」 「答えを知っているから楽しいんじゃありません。知らないから楽しみなんです。いずれにせよ、園長にとって、すでに結果は出ているのではありませんか。園内エンリッチメントコンテストは大成功だ」 「ホッキョクグマ担当者たちは、不参加を表明したんですが」 「あれだけ熱心に取り組んできたのに参加を取りやめる時点で、熱心な議論と決断の過程があったということでしょう。園長は、過程を評価する仕組みを作りたい……そうおっしゃいましたよね。それなら大成功じゃないですか」 たしかにそうかもしれない。だがせっかくならば、エンリッチメントの難しい動物の筆頭とされるホッキョクグマ担当者には、参加して欲しかった。 第一回園内エンリッチメントコンテストのエントリー受付は、昨日までだった。 A4の用紙一枚に収めるという以外、応募方法に決まりはない。文章だけのものや、イラストを配したカラフルなもの、プリンター印字されたもの、手書きされたもの。磯貝のもとには、合計十二のエンリッチメント案が集まった。 ところが、期待していたホッキョクグマでのエントリーはなかった。コンテストの参加は強制ではないが、竹崎を始めとした担当者たちが、熱心に取り組んでいたのは知っている。朝礼の後、竹崎を呼び止め、なぜ参加しなかったのか訊いた。 ――よかったらこの後、ホッキョクグマ展示場にいらしてください。おそらく、そろそろ効果が出るころですから。答えをお見せします。 竹崎はそう言って立ち去ったのだった。 「この一か月で、この動物園は変わったと思います。多くの職員たちがたぶん確実に感じている。なんと言っても、顔が変わりましたよ。みんなの顔が。生き生きと働く職員が増えました。この動物園全体が、熱を持ってきたんです」 「熱……ですか」 「ええ。熱は大事です。熱を加えることで固体は液体になるし、液体は気体になる。金属でもかたちを変えようとするときには、熱を加えるでしょう。熱は物体を変化させる源なんです。つまりこの動物園には、変革の素地ができたと言えます」 「変革……か。なんだか、大それた言葉ですね」 「大それたことをやろうとしているんじゃないですか」 森下は愉快そうに眉を上下させた。 ホッキョクグマ展示場が見えてきた。 いったいなんなのだ。竹崎の言う答えとは。 次第に緊張が増してくる。 そしてネーヴェの姿が見えてくるにつれて、磯貝の口は開いていった。 「こ、これは……」 森下もそれきり言葉を失ったようだ。 二人は展示場の柵の手すりをつかみ、しばし呆然とした。 ネーヴェは常同行動をしていなかった。かと言って、活発に動き回っているわけでもない。三段の階段状になった放飼場の三段目で、腹這いになっている。ちょうど『伏せ』をする犬のように、前脚や顎までもぴったりと地面につけた姿勢で、人形のように動かない。 「これが、おれたちの出した答えです」 声がした方向に顔をひねると、竹崎、品川、麻子の三人のホッキョクグマ担当者が立っていた。 「どういうことですか。なぜネーヴェは動かないんですか」 磯貝は疑問に思った。これが答えだというのか。ネーヴェは退屈しているように見える。これならば常同行動であっても、動きがあったほうがまだマシではないのか。 竹崎はネーヴェを見やる。 「そうは見えないでしょうが、ネーヴェはいま、狩りの最中です」 「狩り……?」 竹崎は唇の端に笑みを浮かべた。 「ホッキョクグマはさまざまな方法で狩りをしますが、あれはスティルハントと呼ばれる狩りの方法です。いわゆる待ち伏せです」 そこからは品川が引き継いだ。 「野生のホッキョクグマにとっての、おもな食料はアザラシです。ホッキョクグマは氷上に開いた穴から出てくるアザラシを捕らえるために、穴の前で何時間も待ち続けることがあるんです」 続いて麻子が口を開く。 「ここからは見にくいですが、ネーヴェの前には直径三〇センチほどの穴が開いています。穴の下には水を張ったポリバケツが取りつけてあり、餌を閉じ込めた氷を沈めてあります。ただしそのままだと氷が浮いてきてしまうので、針金で目の粗い網を編んだ落し蓋をかぶせています。氷が溶けると、閉じ込めてあった餌が落し蓋の網の目をすり抜けて、浮かんでくる仕組みです」 「この前の休園日に作業しました」 品川が得意げに補足した。 二人の後輩を頼もしげに見て、竹崎が言う。 「ホッキョクグマのスティルハントという習性については、もともと知っていました。だから起きている時間のほとんどを採餌に費やすホッキョクグマのエンリッチメントとして、動物園でもスティルハントができる環境を作るというアイデアを、もっと早くに思い付いてもおかしくなかったんです。だけど、そうはならなかった。エンリッチメントすなわち、お客さんにとっても楽しめる試み、という固定観念が邪魔したんです。エンリッチメントの成果を誰かに認めて欲しいという気持ちが、スティルハントという習性を、選択肢から無意識に外していたんです。動物が本能を発揮するほとんどの場合、動物は活発に動き回るようになります。その結果、お客さんから見ても楽しいものになる。ですが、そうじゃない場合だってあります。動物は本能を存分に発揮しているけれど、お客さんから見たら退屈に映りかねない場合が。それがこの、ホッキョクグマのスティルハントです」 竹崎の手がネーヴェを指し示す。 「人が見ればぐったりとして休んでいるように見えるかもしれませんが、ネーヴェは真剣です。野生では狩りが失敗すれば、生命の危機に繋がるのですから。餌が浮いて来るまでは、ずっとあのままでしょう」 頷きながら話を聞いていた麻子が、真っ直ぐにこちらを見た。 「もしかしたらお客さんにとっては、常同行動をしているほうが、動きがあって楽しいのかもしれません。だけどネーヴェにとっては、緊張感を保って餌を待ち続けるこの状況のほうが、何倍も張り合いがあるはずなんです」 「両立できるならそうするけれど、どちらか一方しか選べないのなら、僕らはお客さんの満足よりも、ネーヴェの幸せを選びます」 最後に品川が、力強く宣言した。 決意に満ちた三人のホッキョクグマ担当者の顔を見渡して、磯貝は訊いた。 「それで、コンテストへの参加をやめたというわけですか。常同行動を抑えることはできても、お客さんの満足には繋がらない取り組みであろうと判断して」 竹崎が答える。 「それもありますが、本来の目的を見失っていたことに気づいたんです。コンテストに参加して優勝したい、他人に評価されたいと願えば、どうしても一見してわかりやすい成果を追い求めてしまう。ですがそれでは駄目なんです。人間でも夢中で本を読んでいるときなど、はた目にはまったく動きがなくても、本人は幸せという場合があります。それと動物の採餌を、同じ次元で語るのは適切でないかもしれませんが……。とにかく、もしもそういうエンリッチメントの選択肢が思い浮かんだとき、躊躇なく実行できる自分でいたいと思いました。他人がどう評価するかではなく、動物にとってなにが最善かを真っ先に考えて行動できるように。そのためには、コンテストに参加しないほうがいいという結論に達しました」 「たしかにネーヴェがあんな状態で、コンテストで勝てるはずがないですし。だけど、ネーヴェが幸せなら……」 麻子が横目にネーヴェを見ながら、少しだけ残念そうに肩を上下させる。 いっぽうの品川は、清々しい表情だった。 「コンテストの優勝なんかいりません。僕らのエンリッチメントには、ネーヴェが応えてくれるんだから」 狩りに夢中なネーヴェに微笑を送って、竹崎がこちらを向いた。 「きっかけを与えてくださったことには、感謝しています。園内エンリッチメントコンテストがなければ、おれたちがこれほど熱心にエンリッチメントに取り組むこともありませんでした。とても良い試みだと思うし、コンテストへの参加をモチベーションにする同僚を、悪く言うつもりもありません。ただ、ネーヴェを……ホッキョクグマを飼育するおれたちにとっては、きっかけを与えてくださっただけでじゅうぶんだった、ということです。おれたちは、ほかの飼育動物担当者と競うのでなく、ネーヴェと向き合っていきたいと思っています」 「話はよくわかりました。これがきみの……きみたちの答えなんですね」 磯貝は訊いた。三人が同時に頷く。隣で森下も満足げに頷いていた。 そういう理由ならば異存はない。むしろ歓迎すべき決断だろう。 それにしても――と、磯貝は思う。 見事なリーダーシップを発揮しているし、後輩二人からも慕われ、信頼されている。 竹崎に、これほど頼もしい一面があったとは。(つづく) 次回は2015年10月15日更新予定です。
第9回『このミステリーがすごい!』大賞・優秀賞を受賞し、2011年『ある少女にまつわる殺人の告白』でデビュー。他の著書に『ジャッジメント』(小社刊)『消防女子!!女性消防士・高柳蘭の誕生』『サイレント・ヴォイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻』などがある。