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  • 気まぐれホッキョクグマ(8) 2015年10月15日更新
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「副園長。お願いします」
「了解しました」
 磯貝に促され、森下がプリントを配り始める。
 プリントを手にした職員たちのほうから、抑えたどよめきの波が起こった。
 竹崎のもとにも、プリントがまわってきた。
 内容は予想通り、園内エンリッチメントの結果発表だった。一位から三位までのエンリッチメントが掲載されている。それぞれにはかわいらしいイラストで図解が添えられていて、どのような取り組みなのかが一見してわかる。
 そして肝心の結果だが、一位は、ドールのエンリッチメントだった。ラジコントラックの荷台に肉塊を載せて放飼場を走り回り、ドールに集団で狩りをさせているという話は、竹崎も耳にしていた。ラジコントラックをラジコンヘリに変更したりと試行錯誤していたようだが、エントリー時点では、スマートフォンで操作できる陸送型のミニドローンに落ち着いたらしかった。ミニドローンは球体に大きな車輪がくっついたような構造をしており、かなり小回りも効くようだ。造りが頑丈な上、防水仕様にもなっていて、池に落ちても壊れないらしい。さらにはボディー部分にカメラも搭載されているため、襲いかかってくるドールを獲物の目線から撮影できるということだった。その臨場感あふれる映像は、展示場の前に持ち込まれたノートパソコンにリアルタイムで公開されている。ドールの狩りの時間には、展示場に人だかりができると、もっぱらの評判だった。
 二位が一部の給餌を来園客に任せる、アジアゾウの『リンゴ流し』。
 そして竹崎自身が投票した、シマウマ放飼場に姿見を設置して、群れを大きく見せるというエンリッチメントは、三位だった。
「三位か……」
 わかっていないな。たしかに一位二位のエンリッチメントに比べると、派手さに欠けるかもしれないが。
 顔をしかめながら、竹崎は湧き上がる感情を奇異に思った。なぜこんなに悔しいのだろう。シマウマなんて、しょせん担当外だ。それほど興味もなかったのに。
 そして竹崎のほかにも、結果に不満な人間がいるようだった。
「なんでマレーグマが入ってないんだ。みんなの目は節穴なのか」
「だから前にも言ったじゃないですか。あのエンリッチメントは、マレーグマのキャラクターに頼り過ぎているんです。そんなことより、シマウマが三位というのが納得いきません」
 背後で品川と麻子が話している。
「だってあんなん、ただ鏡を置いただけじゃん」
「まだそうやって見た目に惑わされているんですか。いいですか。ドールとアジアゾウは、エンリッチメントのためにけっこうな手間暇も、そしてお金もかかっているんだから、効果が出るのはある意味、当たり前です。費用対効果を考えると、どう考えてもシマウマが断トツでしょう」
 初志貫徹で品川はマレーグマ、麻子はシマウマに投票したようだ。そして二人ともやはり、担当外の動物に肩入れして悔しがっている。周囲からも同じように、投票した動物が敗れたのを悔しがり、嘆く声や、逆に好結果を自分のことのように喜ぶ声、意外な結果に驚く声などが上がっていた。
 そのとき、女の悲鳴のようなものが聞こえ、竹崎は驚いて顔を向けた。
 ドールの飼育担当の岩井まりあが、両手で顔を覆って泣き崩れている。なにごとかと思ったが、まりあの肩を抱くようにしている楠勲夫は満面の笑みだから、好結果に緊張の糸が切れたということだろう。
「よかったな」
「おまえたち、頑張ってたもんな」
 ドール担当者たちにかけられる、祝福とねぎらいの言葉。
 楠に支えられて立ち上がったまりあのもとに、藤野美和が歩み寄り、右手を差し出した。
「私の負けだね。おめでとう」
固い握手に、拍手が沸き起こる。
 自らも拍手の輪に加わりながら、全身が電気を帯びたような不思議な感覚に見舞われていた竹崎は、麻子の呟きで気づいた。
「なんか初めてかも。この動物園のみんなが、一つになったの」
 これが一体感か。竹崎はこれまでの人生で、誰かと協力してなにかを成し遂げたり、一つの目標に向かってライバルと切磋琢磨した経験がなかった。
 両手が腫れ上がらんばかりに懸命に拍手しながら、竹崎はあらためて実感した。
 仕事って、楽しい。
 この仕事を選んで、本当によかった――。

「やっぱりここでしたか」
 開園から一時間が経ったころ、品川が呼びに来た。
「どうした。ネーヴェになにかあったのか」
 竹崎はほうきを動かす手を止め、金網の外に声をかける。ちょうど小動物舎を掃除しているところだった。
「いや。ネーヴェはまだスティルハントの最中です。ぜんぜん動かないのに、意外とお客さんは興味を持ってくれるものですね」
「それは、坂本さまさまだな」
 麻子の発案で、先週から展示場に新しい案内パネルを設置していた。ホッキョクグマのスティルハントの習性を説明した内容を記し、同時に、今日は何時から待ち伏せを開始したのかを書き添えておく。ベニヤ板に模造紙を貼りつけただけの簡素きわまりないものだが、これが効果てきめんだった。
 ホッキョクグマが狩りの最中だと知った観覧者は、興味を持って足を止める。もちろん、ネーヴェは微動だにしない。あまりにネーヴェが集中しているので、観覧者は自分たちの話し声や足音、物音などですら、狩りの邪魔になるのではないかと気にし始める。できれば採餌の決定的瞬間を目撃したい、もうしばらく待ってみようと、固唾(かたず)を飲んで見守る。その結果、思いのほか長時間を、ホッキョクグマ展示場で過ごすことになる。
 なんの予備知識もなければ、ただぐったりしているだけに見えて通り過ぎてしまうだろうに、不思議なことに、ありのままの状況を包み隠さず伝えることで、一緒に狩りに参加しているような気持ちになれるらしい。パネルを設置してから、明らかに観覧者のネーヴェを見る目が変わった。
 公開中の飼育日誌では、過去のスティルハントの持続時間や採餌の時刻も確認できるため、最近では、採餌のタイミングに見当をつけてホッキョクグマ展示場を訪れる観覧者もいるようだ。なにごとも見せ方次第なのだと、目から鱗が落ちる思いだった。
 だが、賢いネーヴェのことだから、いずれまた別の給餌方法を探る必要に迫られるだろう。遠くから駆けてくる品川を見たときには、ついにそのときが来たかと覚悟したが、違うらしい。
「ネーヴェが無事なら、なんだ」
「園長がお呼びです」
「園長が? なんの用だ」
「僕に訊かれてもわかりません。早く行ったほうがいいんじゃないですか」
「なんでそんなに急かす。あの人、怒ってるのか」
 そんな心当たりはまったくないが。
「怒ってる……とは、違うと思いますけど」
「だったらなんだ。おれもそんなに暇じゃないんだ」
「だから僕に訊かれてもわかんないんですってば。伝えましたよ」
 品川は一方的に話を打ち切り、立ち去ってしまった。
「なんなんだ、いったい……」
 首をひねりながら管理事務所のほうに歩いている途中で、ばったり磯貝に出くわした。
「呼び出してごめん。忙しかったかな」
「はい。あ……いえ」
 気勢を殺(そ)がれてしどろもどろになっていると、磯貝は順路の進行方向を指差した。
「少し、歩かないかい」
「えっ、と……その」
 結局、隣に並んで歩いていた。
 平日の午前中とあって、来園客の姿はまばらだった。こころなしか動物たちものんびりと過ごしているように感じる。たいした会話もないまま、二人でしばらく歩いた。
「ところで園長、なんの用――」
 用件がなにか訊こうとしたが、声をかぶせられた。
「最近どうだい。これの調子は」
 パチンコのハンドルを握る動きをしている。
「いえ。このところは、まったく……」
 そのとき初めて気づいた。以前は日課のように通っていたのに、このところ、すっかりパチンコ店から足が遠のいている。
「園長は」
「僕かい。僕は滅多にやらないんだ。最後に打ったのは、そうだな……」
 記憶を辿るように遠くを見る目つきをした。
「大学……二年生のときかな。悪友に誘われて」
 思わず噴き出してしまった。
「随分と長いブランクですね」
「あれってやっぱり、初心者のころに勝てないとハマらないものだね。初めて打つやつはどういうわけか勝つことが多いんだと、友人に勧められてやってみたけれど、僕にはビギナーズラックがなかったからな。勝利の美酒の味を知らなければ、飲みたくはならないんだ」
 磯貝が照れ臭そうに笑う。
 もともとパチンコになど興味がなく、懸命に共通の話題を探ってくれていたのか。そう考えると、あらためて感謝の念が湧いた。
「今度、良い台の見分け方を教えてよ」
「いいですけど、おれはもう、あまりパチンコに行かないと思います」
「そうなのかい」
「ええ。たぶん」
 より楽しいものを見つけてしまった。パチンコは自分にとっての常同行動だったのかもしれないと、いまになって思う。
 シマウマ展示場の前を通過しようとして、竹崎は足を止めた。
「どうしたんだい」
 数歩先に進んでいた磯貝が振り返る。
「鏡の枚数が増えていると思って」
 竹崎は柵のそばまで歩み寄った。
「コンテストにエントリーされた段階だと、寝室から放飼場に向いて姿見が並べられているだけでした。それがいまは、柵から放飼場を向いたものが何枚か追加されています」
 コンテストの結果を受けて改良したのだろうか。同僚たちも、より効果的なエンリッチメントを模索している。なんだかわくわくしてきた。
 磯貝も変化に気づいたようだった。
「本当だ。これでシマウマも、より安心できるようになるのかな」
「それだけじゃありません。柵側に鏡を設置することによって、シマウマがこちらに抵抗なく近寄ってくるようになります。これまではシマウマを安心させるためだけの目的だったのが、お客さんにとっても間近で観察できる機会が増えるという、より効果的なエンリッチメントになったんです」
 ほんの少しの変化に見えて、効果は劇的だ。力説する竹崎の熱が伝わったのか、磯貝の表情も真剣になった。
「そいつはすごい。このエンリッチメント、ほかの動物にも応用できないかな」
「どんな動物にも、というわけにはいかないでしょうが、同じようなエンリッチメントで効果がある動物も、いるでしょう」
「たとえばどんな動物だと、効果が見込めると思う」
「まず条件としては、野生下では群れで生活する動物、ですね。しかし、たとえそうでも、知能の高い動物への効果は薄いと思います。たとえば霊長類などは、鏡の機能を理解するでしょうから、シマウマのようにはいきません。もっとも、鏡の機能を理解した上で、玩具として興味を示す可能性はあるでしょうが」
「ホッキョクグマはどうだい」
「無理です。ホッキョクグマは知能が高いので、すぐに鏡の機能を理解するはずです。それ以前に、ホッキョクグマは、繁殖期以外は基本的に単独行動する動物ですから」
「そうか。そもそも群れを形成する習性がないんだ。くだらないことを訊いちゃったね」
「いえ。そんなことはありません」
 磯貝はたしかに無知だが、これまでの園長は無知を恥じることも、そもそも現場の職員に意見を求めることもなかった。
 ふたたび歩き出したところで、磯貝が口を開いた。
「ところで今日、竹崎くんを呼び出したのは、伝えておきたいことがあったからなんだ」
 どうやら本題に入るらしい。竹崎は背筋を伸ばした。
「なんでしょう」
「この前のコンテストだけど、集計してみたら、ネーヴェのエンリッチメントに票が入っていた」
「えっ……」
 言葉の意味を飲み込めるまでに、数秒の間があった。そして理解できると同時に、少し落ち込んだ。
「申し訳ありません」
「どうして謝るんだい」
「おれの責任でもあるからです。あの二人には、じゅうぶんに納得してもらえたと思っていたんですが……もっとちゃんと話し合うべきでした」
 今度は磯貝のほうがきょとんとした。ややあって、顔の前で手を振る。
「品川くんと坂本さんが投票したと思ったのかい」
「違うんですか」
 二人が、あるいは二人のうちどちらかが、ホッキョクグマのエンリッチメントに投票したのだと思った。不服だったのなら抜け駆けのような投票行動で抗議せずに、言葉で伝えてくれれば対話する用意はあったのにと、落ち込んだのだ。
「彼らは違うよ……いや、無記名投票である以上、ぜったいに違うとも言いきれないのかもしれないけれど、そもそもそんなことは重要じゃない」
「と、言うと……」
「ホッキョクグマへの投票が、六票もあったからだよ」
「ろ、六……ですか」
 竹崎は唖然となった。
 たしかにそんなに得票しているとなると、かりに品川と麻子が投票していても、それとは別に四人もが、エントリーされていないホッキョクグマのエンリッチメントに票を投じたことになる。
「そう。六票。その六票を投じたのが誰なのか、追及するつもりはないんだ。ただ、六票というのは、単純に無効票として処理すればいいと片づけられる数字でもない。なにせうちの職員は、私を入れても三十二人。一位だったドールのエンリッチメントでも八票、二位のアジアゾウでも五票、三位のシマウマで四票だからね」
 ということは、エントリーしていれば二位だったのか。
「この六票をどう扱うかについては、正直かなり悩んだ。ホッキョクグマのエンリッチメントがエントリーしていないのは、みんなわかっているんだ。わかった上であえて票を投じるという行動の意味を、汲み取るべきじゃないかとね。だが、ルールを犯してまでホッキョクグマのエンリッチメントを支持する声も尊重されるべきだが、エンリッチメントを競いたくないという、竹崎くんたちホッキョクグマ飼育担当者たちの選択も、同じく尊重されるべきだ。そういうわけで森下さんとも相談した結果、その六票はやはり無効票として、集計結果に反映させないことにしたんだ。でも、そういう声があったことを、竹崎くんに伝えるぐらいはいいんじゃないかと思ってね」
「そうだったんですか……」
 胸がいっぱいになり、竹崎は深々と頭を下げた。
「なんて言うか……あの……あ、ありがとうございます」
「僕にお礼を言う必要はない。僕に投票権はないし」
「だけどやっぱ……ありがとうございます。すべてのきっかけを与えてくれたのは、園長だから。園長がいなければ、仕事の楽しさを知ることも、なんでこの仕事を選んだのかを思い出すことも、たぶんなかったから」
「残念だけど、僕は竹崎くんが思うような人格者じゃない。正直なところ、きみの仕事にたいする熱意を疑っていた。あれほどのリーダーシップを発揮して、後輩たちを引っ張る姿なんて想像も、期待もしていなかったんだ。結果オーライだよ」
「それは、以前のおれの仕事ぶりを見ていれば、当然だと思います。だけど、園長はチャンスをくれました」
「だとしても、それに応えたのは竹崎くん自身だ」
「最初にチャンスをくれたのは園長です。少なくともこれまでの歴代の園長では、そんなこと考えられなかった」
 磯貝はなおもなにかを言いかけたが、根負けしたように口を噤(つぐ)んだ。しばらくして、ぽつりと呟く。
「聞いたよ。トゥリマのこと」
 竹崎は弾かれたように顔を上げた。
「聞いたって……」
 誰から。と思ったが、答えは聞くまでもない。間違いなくあの二人だ。
 新園長にたいして好意的だった麻子の仕業だろうか。いや、違う。たぶん二人ともグルだ。先ほど、小動物舎に呼びに来たときの品川の態度。思い返してみると、相当に不自然だった。
「怒らないでやってくれ。彼らは、竹崎くんのことを思っているんだ」
「怒るつもりはありません」
 それどころか、品川の猿芝居を思い出して笑いを堪えていた。
「なら、いいんだけど」
 それじゃあ行こうかと、磯貝がまたも歩き出す。
 行こうって、どこへ。あてもなく歩いているとばかり思っていたが、目的地があるのだろうか。
 待てよ。この方角にあるのは――と、心当たりに思い至った。
「園長……慰霊碑に向かってらっしゃるんですか」
 アジアゾウの展示場を通過した後、左手に広がる芝生の手前に、円形に柵で囲まれた一角がある。その中心にぽつんと建つ高さ一メートルほどの慰霊碑を、気に留める来園客はほとんどいないだろう。命を扱う以上、動物園は死と無関係ではいられない。野亜市立動物園でも年に一度、僧侶を招き、慰霊碑の前で慰霊祭を行っている。
 磯貝が振り返った。
「今日がなんの日か、わかるかい」
 話の流れからトゥリマの命日かとも考えたが、そもそも季節が違う。トゥリマが死んだのは、冬の寒い日だった。
「わかりません。なんの日ですか」
「来ればわかる」
 唇が企みの笑みを湛(たた)えていた。
 やがてアジアゾウの展示場に着いた。カーブした放飼場の柵沿いに進めば、ほどなく慰霊碑が見えてくるはずだ。
 磯貝が立ち止まったので、竹崎も立ち止まった。すでに遠くには、慰霊碑が見えている。『動物よ 安らかに』と刻まれた石碑の上には常緑樹が大きく枝を広げていて、いつものように周囲より一段暗く、ひっそりとした印象だった。
「あれ……?」
 誰かが慰霊碑の前にしゃがみ込んでいる。竹崎は目を凝らした。
 しばらくしてそれがかつての先輩職員の大石だと気づき、息を呑む。
「先週のことだったかな。品川くんと坂本さんが、園長室を訪ねて来たのは。大石さんの現在の居所を知りたいと言うから、事情を訊いたんだ。そのときに、トゥリマの話を聞いた」
 竹崎は大石の丸まった背中を見つめた。大石は背後に注意を払う素振りもなく、慰霊碑に手を合わせている。
「灯台下暗しというのは、このことだね。昔の職員名簿から大石さんに連絡を取ろうとしたけれど、すでに引っ越したらしく電話は繋がらなかった。だけど、ワキさんが教えてくれたんだ。大石さんに会いたければ、毎月この場所に現れるから、待っていればいいって」
 毎月……?
 しばらく考えて、竹崎ははっとなった。
「月命日ですか」
 トゥリマの――。
 信じられない。大石は飼育動物の死をずっと悼み続けていた。毎月欠かさず、月命日にこの場所を訪れて。
「ちょっとお節介が過ぎると思ったし、実際に、あの二人にもそう言ったんだ。竹崎くんには、大石さんとの間にわだかまりがあったかもしれないけれど、人生において、誰ともわだかまりを残さないで生きていくなんて不可能だよ……ってね。だけどまあ、こんなに近くにいたわけだし、選択肢だけを提示して、あとは竹崎くんに任せるのでもいいかな、と思い直した。どっきりみたいになって申し訳ない」
 磯貝は悪戯っぽく肩をすくめた。大石の背中を見つめ、話を続ける。
「話せばわかる……とも限らない。話すことで、かえって溝が深まることだってある。人生って、なにがどう転ぶか、わからないものだからね。だから、竹崎くん次第だ……声をかけるも、このまま立ち去るも。どちらを選んでも、間違いじゃない。逆にどちらを選んでも、正解とも限らない」
 竹崎は自分の足もとを見た。
 ゴム長靴を穿いた爪先が、しっかりとした足取りで一歩踏み出すのを、見た。そこには強制も惰性もない。あるのは、前に進もうとする自分の意思だけだった。
 大石の背中が近づいてくる。たしかに大石だが、以前よりも髪が薄くなっており、身体も萎(しぼ)んだようで、すっかり老人の後ろ姿だった。
 およそ一メートルの至近距離に達するまで、大石はかつての後輩職員の接近に気づかなかった。竹崎が声をかけようと口を開いたそのとき、ようやく気配を感じたのか、素早く振り向いた。互いに目を見開いたまま、しばらく見つめ合うかたちになった。
 怪訝そうだった大石の表情が、ある瞬間にさっと強張った。ようやく目の前の人物が、竹崎だと気づいたのだ。
「お久しぶりです。大石さん」
「お、おお……」
 大石の右手がぴくりと動く。手を上げようとしたのだろうが、上がらなかった。
 ぎこちない沈黙が訪れた。
 もしもいま、大石に会うことができたら、こんなことを話したい。こういう意見をぶつけたい。それにたいする反論を聞きたい。教えを乞いたい。ネーヴェのエンリッチメントに取り組みながら、かつての大石と同じ立場になって後輩を指導しながら、何度もそんなことを考えたはずだった。
 だが、なかなか言葉が出てこなかった。不自然に絡まったまま、長年放置された糸は、すぐにほどけそうもなかった。
 それでも今度こそは、絡まった糸を絡まったままにするつもりもなかった。
 竹崎は勇気を振り絞り、言葉を発しようと小さく息を吸い込んだ。

(つづく) 次回は2015年11月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 佐藤青南

    第9回『このミステリーがすごい!』大賞・優秀賞を受賞し、2011年『ある少女にまつわる殺人の告白』でデビュー。他の著書に『ジャッジメント』(小社刊)『消防女子!!女性消防士・高柳蘭の誕生』『サイレント・ヴォイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻』などがある。