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  • 気まぐれホッキョクグマ(9) 2015年11月15日更新
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 寝室から出ようとした彼は、芝生の上にこぶしを置いたところで、動きを止めた。
 変化に乏しいはずの彼の日常に、またも変化があった。
 世界の中心に組まれた丸太の櫓(やぐら)。その柱の陰に、何者かが潜んでいる。潜んでいる、というのは正確でないかもしれない。その何者かは、柱の陰に潜める大きさではなかった。彼と同等とまではいかないものの、それに近いほどの肩幅だった。
 彼は警戒も顕(あら)わに、様子をうかがった。彼は争いを好まないが、侵入者におめおめと縄張りの一部を明け渡すほど、臆病でもない。
 侵入者は、彼と似たような姿かたちをしていた。全身が黒い毛で覆われており、人間よりは、彼の種族に近い容貌だ。
 彼は鼻息も荒く近づいていった。だが、侵入者は微動だにしない。柱にもたれるようにしながら、彼の世界と外の世界とを隔てる壁を、じっと見つめている。彼の足音が耳に届いていないはずはないのに、随分と余裕綽々(しゃくしゃく)だ。
 彼は地面を跳ねるように移動しながら、侵入者の正面にまわり込んだ。胸を打ち鳴らして威嚇しようと、二本足で立ち上がる。
 が、こぶしは彼の胸を叩くことなく、芝生の上に落ちた。
 侵入者には、生命が宿っていなかった。
 そのとき、寝室のほうからヨシズミの声がした。
「どうだ、コータロー。ぬいぐるみだ。仲間がいるみたいで嬉しいだろ」
 格子越しに覗き込みながら、にんまりとしている。
 なにかと思えば。彼はあきれながら顔を背けた。
 ヨシズミがなぜこんなことをしたのかは、見当がつく。カンキョウエンリッチメントだ。なんでもヨシズミの大嫌いなエンチョウが、そういう取り組みを始めたとかで、くだらないとか意味がないとか、しきりに文句を垂れていた。
 散々ケチをつけておきながら、どうして自分でもやってみようとするのか。しばしば本心と異なる意思表示をするところが、人間の不可解さだった。つくづく面倒くさい生き物だと思う。彼は嫌いな相手に好きなふりをしたりはしないし、好きな相手には、惜しみない愛情を注ぐ。彼だけでなく、彼の種族全体がそうだった。
 彼は、生命なき侵入者を観察した。自分に姿かたちが似ていると思ったが、よく見ると細部はまったく違った。毛並みも肌の色も、本物の質感とはかけ離れている。臭いもほとんどない。もっとも、一瞬でも彼に生命体だと誤認させてしまうような偽物を作ってしまうのだから、人間の手先は驚くべき器用さだ。
「けっこう大変だったんだぞ。それを見つけるの。市内の玩具屋には、そんな大きいのなかったんだから。休みの日に、隣の市まで行ってきたんだ」
 なにを恩着せがましいことを。
 彼はあえて侵入者に背を向け、腰を下ろした。
 虚しさがこみ上げてきて、やるせない気持ちになる。
 結局、孤独なのだ。
 侵入者の影に気づいたとき、彼は警戒すると同時に、仲間かもしれないとほのかな期待も抱いた。いや、むしろ敵だとしてもかまわなかった。身体をぶつけ合って喧嘩できる相手がいたら、どんなに生を実感できるだろう。相手がだれでも、どんな理由でもよかった。とにかく血の通う相手と、触れ合いたかった。
 彼はためしに、侵入者に触れてみた。思いのほか軽く、手応えのない侵入者は、あまりにあっけなくバランスを失って、ぐらりと倒れそうになる。
 彼はとっさに手を伸ばし、侵入者の腕を?んだ。
 すると腕がありえない方向に曲がった。皮膚や肉どころか、骨の感触すらない腕だった。
「気に入ったか。よかったなあ」
 ヨシズミがとんちんかんなことを言って喜んでいる。
 そのときふいに、おぞましい光景がフラッシュバックした。
 彼の母だった。身体じゅうに無数の弾痕が穿(うが)たれた母の瞳は、すでに光を失っている。土に横たわる亡骸の腕がありえない方向に捻じ曲げられているのは、人間の仕業だった。死してなお我が子を離そうとしない母ゴリラの腕から仔ゴリラを奪うために、数人がかりで強引に力が加えられた結果だった。
 彼の群れは密猟者によって皆殺しにされた。彼は唯一の生き残りだ。彼にはそのときの記憶が、はっきりと残っている。忘れたほうが楽になるのはわかっているし、忘れたような気になることもあるのだが、記憶はふとしたきっかけで甦り、彼を苦しめるのだった。同時に、人間を好きになりかけていた自分に気づき、そんな自分を嫌悪するのだ。
 彼は侵入者を放り投げ、そっぽを向いた。
「なんだ。もう飽きたのか」
 残念そうに言うヨシズミを、ときどき友人のように錯覚することもある。だがヨシズミはしょせん人間だ。彼の群れを笑いながら皆殺しにした、残忍な密猟者たちと同じ種族だ。心を許すことなどできないし、許すわけにはいかない。
 寝室に背を向けて座り直し、空を見上げる。
 雀たちは、今朝は立ち寄ってくれそうもなかった。

(つづく) 次回は2015年12月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 佐藤青南

    第9回『このミステリーがすごい!』大賞・優秀賞を受賞し、2011年『ある少女にまつわる殺人の告白』でデビュー。他の著書に『ジャッジメント』(小社刊)『消防女子!!女性消防士・高柳蘭の誕生』『サイレント・ヴォイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻』などがある。