物語がつまった宝箱
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  • 恋するフラミンゴ(1) 2015年12月15日更新
1
 平山大輔の一日の仕事は、調理室から始まる。
 広報担当である平山だが、野亜市立動物園には、広報だけを担っていればいいほどの人員的余裕はない。広報だろうが経理だろうが事務だろうが、人手が足りなければ容赦なく現場に駆り出される。
 最初はなにをしていいものか、おろおろと右往左往するばかりで周囲の足を引っ張っていたが、見よう見まねで手伝ううちに、どう動けばいいのか心得るようになった。いまでは現場の職員と同じ青いポロシャツ姿で、動物たちの餌作りに加勢するのが日課だ。身体も自然と動く。
 調理「室」と言っても、実際には独立したコンクリート造りの平屋の建物だった。動物病院と並んで、一般の来園客の目につかない奥まった場所に建っている。
 外観はそれなりに大きく見えるが、中に入ると、中央の作業台を取り囲むように冷蔵庫や冷凍庫、野菜の段ボールやペレットの袋が収納された棚などが配置されていて、かなり窮屈で圧迫感がある。通路は人がすれ違うのも難しいほどだ。この一か所に、すべての動物の数日分の餌が貯蔵されているのだから無理もない。
 平山のおもな仕事は、野菜のカットだった。用意する餌の量や種類は、動物の健康状態や食欲などを見て飼育担当者が判断する。その点、平山はまったくの素人だが、心配は無用だ。なにがどれだけ必要なのか、各担当者が前日のうちに記入した一覧表が、壁に貼ってある。指示通りに手を動かすだけでいい。
 すでに慣れたもので、手際も鮮やかだった。筋肉痛で悶絶したのも、いまは昔。分厚い鉄板の載せられた作業台に向かい、ひたすら手を動かす単純作業は、平山にはときどき精神統一のための儀式のように思える。
 餌の準備を終えると、今度はほうきとちりとりを持って正門に向かう。駐車場から正門付近にかけての一帯を掃除するのも、平山の日課だった。正門は動物園にとっての顔なので、毎日綺麗にしてお客さまをお迎えしないと。などというご立派な使命感や職業意識があったわけでもなく、市役所から異動してきた当初、あまりにやることがなくていたたまれなかったので、外に出て仕事をサボる口実として始めたことが、そのまま習慣化したのだった。
「おはようさん」
 駐車場を掃いていると、頭の禿げ上がった老人男性が声をかけてきた。なで肩にカーディガンを引っかけ、身体の後ろで手を組んでいる。相変わらず、つねに目尻に皺を寄せて、微笑んでいるような表情だ。
「おはようございます。渡辺さん」
 渡辺老人は、週に一度は来園する常連客だった。娘夫婦と一緒に暮らしているが、家にいてもやることがないので、つい動物園方面に向かうバスに乗車してしまうのだと言う。平山には、こうして立ち話をする間柄になった常連客が何人もいた。
「そうそう。平山さんにお礼を言わなきゃならないと思っていたんだ。どうもありがとう」
「なにが……ですか」
「園内にベンチが増えたでしょう。あれ、平山さんが偉い人に意見してくれたんだろう」
 そういえば以前、渡辺老人から「もっとたくさんベンチがあれば、時間をかけていろんな動物を見てまわれるのに」と言われたことがあった。そのときは、上司に伝えておきますと安請け合いしたものの、そんなやりとりがあったことさえ、今の今まですっかり忘れていた。
 ばつの悪さを覚えながら、平山は白状した。
「それ、実は僕じゃなくて、園長が主導でやったことなんです」
 渡辺老人の意見を伝えなくとも、磯貝はベンチを増やす必要を感じたらしかった。だが動物園には、新しくベンチを購入できる予算などない。そこで市内にあるほかの公営施設にかけあい、倉庫に眠っているベンチや椅子を譲ってもらってきたらしい。統一感のないベンチやパイプ椅子があちこちに置かれているのは、けっして見栄えが良いものではない。だが年輩の来園客には、存外に好評だった。
「園長が? だけど、園長はなにもしないんじゃなかったのかい」
 渡辺老人は意外そうだった。
「言いませんでしたっけ。最近、園長が替わったんです」
「それは聞いたさ。だけど、首がすげ替わったところで同じなんだろう。どいつもこいつも動物の知識なんてなくて、そもそも関心すらなくて、なんにもしないでただ次の辞令を待ってるだけだって、言ってたじゃない」
 平山は苦笑した。常連客にはつい愚痴をこぼしてしまうことも少なくなかったが、そこまで口を滑らせていたのだろうか。
「たしかにそう言ったかもしれませんけど、どうも今度の園長は、ちょっと違うみたいなんです」
 ちょっと、いや、だいぶ違うなとぶつぶつ呟いていると、渡辺老人は得心した様子で頷いた。
「なるほど。そういうことか。だからこのところ、いろいろと変わってるんだな。最近、飼育日誌が閲覧できるようになったね。私らみたいに暇を持て余した人間には、あれはなかなかおもしろい読み物だ。中には絵の達者な飼育員さんもいたりして、それぞれに個性が感じられるのも楽しい」
「ありがとうございます」
「ほかにもいろいろ変わったところがあるな。餌やりの仕方とか」
「園内でコンテストをやってるんです。環境エンリッチメントという取り組みで、どれだけ動物の本能を引き出して、生き生きさせてあげるかというのを競っているんですが……餌やりが変わったのは、その一環です」
「あとは、ホームページもだいぶ様変わりしたじゃないか」
「ホームページも見てくださっているんですか」
 平山は嬉しくなった。ホームページのデザインには、広報担当である自分が大きくかかわっているのだ。
「もちろん見ているさ。二十四時間いつでも動物の様子が観察できるあれ、とてもおもしろい」
「それは、僕のアイデアです」
 得意になって自分を指差した。
 現在、動物園のホームページは大幅リニューアルの最中だ。それに伴い、ビデオカメラで撮影した獣舎の様子を、リアルタイム配信するコンテンツを追加した。予算の都合上、現在はアジアゾウとスマトラトラのみの実施だが、今後もっと増やしていきたいと思っている。
「あれは平山さんのアイデアなのか。トラなんかは動物園で昼間に見るとゴロゴロ寝ている印象だけど、ホームページで夜の映像を見ると、意外に活発で驚かされるよ」
「トラはもともと夜行性ですから。あ、夜と言えば、こんどナイト・ズーを企画しているので、よかったらいらっしゃってください」
「ナイト・ズー?」
「ええ。さっきおっしゃったトラのように、夜行性の動物は夜にならないと本領を発揮してくれないものです。ですから、特別に夜間に開園して、夜行性の動物たちの生き生きした姿をご覧いただこうという企画です」
「それはおもしろそうだ」
「楽しんでいただけると思います。まだ日程の調整中ですが、決まったらホームページでもお知らせしますので、ぜひ」
 渡辺老人が、目尻の皺を深くした。
「平山さん。良い園長が来て、よかったねえ」
 しみじみと噛み締めるような口調だった。
 思いがけず話し込んでしまったせいで、管理事務所に戻るのが遅くなった。だが、渡辺老人と話せてよかった。このところ、現場の職員たちは生き生きと仕事に取り組んでいる。刺激を受ける反面、どこか置いてけぼりを食らったような寂しさを覚えるのも事実だった。
 自分のデスクにつき、パソコンを立ち上げる。
 渡辺老人に宣伝した手前、ナイト・ズーの企画はしっかり成功させなければ。作りかけの企画書を開こうとマウスに手を置いたとき、新着メールの通知に気づいた。
 ポインタを動かしてマウスを左クリックし、メールソフトを開く。たしかにメールが一通、届いていた。
 そしてメールの文面に目を通しながら、平山は興奮のあまり呼吸の仕方を忘れた。
2
 フラミンゴ舎のケージから出てきた名倉彰子は、軍手を嵌(は)めた手に高さ十二、三センチほどの大きな卵を抱えていた。複雑な表情を浮かべながら、磯貝たちのほうに歩み寄ってくる。
「やっぱり、抱卵していました」
「そうか……」
 参ったなという感じに、森下が唇を曲げる。
「卵を孵(かえ)すわけにはいかないんですか」
 磯貝の素朴な疑問は、彰子にしてみればよくぞ言ってくれた、という内容らしかった。期待に輝く切れ長の目が、森下を向く。だが森下は、重々しくかぶりを振った。
「さすがにそれは無理です。動物園が積極的に雑種を作り出すわけにはいきません。数種のフラミンゴの混合飼育をしている動物園は珍しくありませんし、その結果として、雑種が生まれてしまうケースも珍しくはない。だが、気づいてしまった以上、見過ごすわけにはいきませんよ」
「あたしが、気づいちゃったからだ……」
「そういう問題じゃないんだ。名倉さんは飼育技術者として、当然のことをしている。自分を責める必要はない」
 彰子は破棄することになる卵を悔しそうに見つめ、それからケージに視線を移した。
 直径十メートル、高さ十三メートルほどのケージでは、十五羽のフラミンゴが飼育されている。あちこちで土がこんもりと盛り上がった巣には、卵を抱いたフラミンゴたちが座り込んでいる。
 だが一つだけ、空席となっている巣があった。
 その周辺を、一羽のメスが途方に暮れたように歩き回っている。
 森下が痛ましげに言う。
「同じチリーフラミンゴのオスだっているってのに、なんでまたオオフラミンゴなんて選んでしまったのかなあ……まあ、今日び人間なら、国際結婚なんて珍しくもないんだけど、フラミンゴとなるとね」
 卵を探すメスに、ひと回り大きいオスが近づいていった。寄り添うように首を絡めながら嘴(くちばし)を上下させるさまは、失意のメスを慰めているように見える。
「あれが旦那さんでしょうか」
 磯貝が訊くと、彰子が答えた。
「そうです。お母さんがチリーフラミンゴで、お父さんがオオフラミンゴ。似たように見えるけど、チリーフラミンゴは南米、オオフラミンゴはヨーロッパからアジアにかけてがおもな生息域で、本来、野生では巡り会うはずのない、別の種類なんです」
「なのに動物園で巡り会って、恋に落ちてしまった。ロミオとジュリエットですよ」
 森下の軽口も、いまいち弾まない。
「ロミオとジュリエットか……」
 磯貝は寄り添う二羽を見た。
 違う種同士を巡り会わせたのも人間なのに、雑種を作るわけにはいかないという理由で卵を奪うのも人間。愛し合うフラミンゴにとっては、理不尽極まりない話だろう。
「オオフラミンゴのオスとチリーフラミンゴのメスがペアっぽくなってるなと思って、嫌な予感はしていたんです。そうしたら案の定、卵を産んでいて……それが二週間前のことでした」
「なるほど。そのときは慌てて卵を取り除いて、雑種が生まれないようにした。だけれども、一度くっついてしまったペアは別れそうにない。今朝ケージを見ると、またもや例のロミオとジュリエットが抱卵している気配があったので、私に相談することにした……ということか」
 森下の言葉に、彰子は眉間に不本意そうな深い皺を刻んだ。
 ――森下先生。ちょっと、来ていただけますか。
 そう言って彰子が森下に歩み寄ってきたのは、朝礼の直後だった。
 小柄な体格にショートカットの髪型。高校卒業五年目でまだ二十三歳ながら、そうとは思えないほど、ずばずばと思ったことを口にし、貫禄すら感じさせる気の強い女性という印象だったのが、珍しく思い詰めた顔をしていた。
「つがいのうち、どちらか一羽を隔離するというのは、どうでしょう」
 卵をいとおしげに撫でながら、彰子が提案する。
「隔離、ねえ……」
 森下は渋い顔で顎を触った。
「それは難しい。フラミンゴは本来、群れで生活する動物だ。うちはオオフラミンゴとチリーフラミンゴを合わせても十五羽しかいないから、仕方なく二種を混合飼育にしているけど、これでも群れが小さ過ぎてストレスになっているはずだ。野生下のフラミンゴの群れの規模が、こんなものじゃないのは知っているよね」
「わかってます。数百……下手したら数千」
 彰子が答える。森下がこちらを向いた。
「園長はテレビのドキュメンタリー番組などで、ご覧になったことはありませんか。たくさんのフラミンゴが密集して、まるでピンクの絨毯のようになっている様子を」
「そういえば……」
 見たことがあるような気がする。
「あれが野生下のフラミンゴです。本来、そんな単位の巨大な群れで生活している鳥を一羽だけ隔離したら、それこそストレスで命を落とす可能性だって出てくる。隔離は現実的ではない」
「わかりました」
 ふうとため息をつくと、小柄な身体がさらに萎んだ気がした。
 磯貝は「いいですか」と質問した。
「いま問題にされているオオフラミンゴのオスとチリーフラミンゴのメスが、つがいでなくなる……つまり別れる可能性はないんですか」
 彰子がゆるゆるとかぶりを振った。
「あたしも最初に卵を見つけたときには、それを期待したんですが、結局、同じペアのまま二度目の産卵をしてしまいました。今後も、別れる可能性は限りなく低いと思います。そもそもフラミンゴは、一度ペアになると少なくともそのシーズン中は、ほかの個体に目移りしたりしません。卵を産むとオスとメスが交互に抱卵するし、雛が生まれてからも、子育てはペアが協力して行うんです」
「フラミンゴのオスは、一途で家庭的なイクメンなんですよ。私みたいに」
 軽くおどけてみせた森下が、彰子を向いて諭す口調になった。
「異種間ペアの一羽だけを隔離するようなことはできない。飼育環境はこのままだ。そうなるとおそらく、メスはまた雑種の有精卵を産み落とすことになるだろう。名倉さんにできるのは、あのペアが抱卵しているのに気づいたら、そのたびに卵を取り上げることだ。そして卵は破棄する。フラミンゴの繁殖期は、あと二か月ほどは続く。その間、何度同じことを繰り返すかはわからない。だけど、何度でもやるんだ。何度でも、雑種が生まれる可能性を、きみが責任を持って摘み取る」
 顔を上げた彰子の頬に、反発の色が差した。元来の気の強さが覗いたようだ。
 だが、森下は毅然とした態度を崩さない。
「本来、出会うことのないはずの種同士を交配させて雑種を作りだすのは、もはや神の采配に足を踏み入れる危険で傲慢な行為だ。私たちの仕事は種の保存であって、新たな種の創造ではない。そんなことをしてはいけないんだ。断じて」
 彰子の瞳から力が失われていく。最後には目を閉じ、両手で抱えた卵に額をつけた。生まれさせてやれないことを、詫びているようだった。
「命を扱うのを仕事にするというのは、そういうことだ。かわいがるだけではいけない。つらい役回りを引き受けなければならないことだってある。この場合、それはフラミンゴを担当するきみの役目だ。だけど、どうしても自分にはできないと言うのなら、誰か代わりを探そう。いつも飼育している担当者よりは、そうでない人間のほうが、思い入れが薄いぶん、やりやすいかもしれないからね」
 だが、彰子はきっぱりと宣言した。
「あたしがやります。あたしが、フラミンゴの飼育担当ですから」
 そのとき、遠くから声がした。
「園長っ」
 平山だった。両手両足をじたばたと振りまわすような滑稽な走り方で駆けてくる。
「何度も電話したんですよ」
 ポケットから携帯電話を取り出してみると、たしかに五件の着信が残っていた。
「申し訳ない。ぜんぜん気づかなかった。どうしたんだい。そんなに慌てて」
 だがすぐには答えられなそうだった。平山は両膝に手を置き、ぜえぜえと肩で息をしている。よほど急いでいたようだ。
 何度か痰(たん)を切るような咳払いを挟んで、ようやく言葉になった。
「来たんです……ついに、来たんです」
「来たって、なにが」
「だから来たんですよ! メールが!」
 もう息は切れていないようなので、言葉足らずなのはたぶん興奮のせいだ。
 森下が軽く肩を叩く。
「平山くん。落ち着いて、順を追って話してくれないか。いったい誰から、どんな用件のメールが届いたって言うんだ。一度、深呼吸してごらん」
 平山は律儀に三回、深呼吸をした。
 その後に発した声は、やや落ち着きを取り戻していた。
「北関東テレビのニュース番組の記者を名乗る方から、メールが届きました。うちで行っているいろいろな取り組みを取材して、夕方の特集で放送したいそうです。園長に指示されてから、駄目で元々でいろんな媒体にプレスリリースを流してきましたけど、ついに地道な努力が実ったんですよ! 園長! テレビの取材です!」
 最後にはやはり感情が抑えきれなくなったようで、声が裏返っていた。

この作品、『市立ノアの方舟』は2016年4月中旬に単行本として刊行予定です。

著者プロフィール

  • 佐藤青南

    第9回『このミステリーがすごい!』大賞・優秀賞を受賞し、2011年『ある少女にまつわる殺人の告白』でデビュー。他の著書に『ジャッジメント』(小社刊)『消防女子!!女性消防士・高柳蘭の誕生』『サイレント・ヴォイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻』などがある。