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  • アジアゾウの憂鬱(2) 2014年8月15日更新
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「子供のころ犬を飼ってた……か」
 吉住耕三が思い出し笑いをすると、隣であぐらをかく田尾龍一郎が「吉住さん」と目を輝かせた。
「なんだ。吉住さんもおれと同じ意見だったんじゃないですか」
「なにがだ」
「あの素人園長、ペットと動物園動物を同列に見てるってことがですよ。そこが気に食わないんだ」
  何度かかくんかくんと大げさに頷いた後で、頭の重みに耐えられない感じでふらりと後ろによろめく。吉住は慌てて田尾の手から水割りのグラスを奪い取った。
「ちょっと田尾くん大丈夫? 飲み過ぎじゃないの」
 田尾の正面で心配そうにするのは、大前愛未(あみ)だった。大きく黒目がちな瞳が、自らが飼育を担当するマメジカそっくりだと仲間うちでからかわれる。担当動物かわいさか、それとも生来のポジティブな性格のせいか、本人は「手足がすらりと細いところと夜行性なところは、たしかにマメジカだね」とまんざらでもないようだ。夜行性を自称する通り、飲みの席には積極的に参加するが、誰も酔った姿を見たことがないという職場一の酒豪だった。
「大丈夫だって。顔に出やすいけど、見た目ほど酔ってねえんだから」
 田尾は大きく手を払った拍子にバランスを崩し、背後の畳に手をついた。
「ほら、危ないから」
「危なくねえし。ぜんぜん平気だし」
  年齢は愛未のほうが三つ上だが、同期採用のため田尾の口調は気安い。二人の会話は、仲の良い姉弟がじゃれ合うような微笑ましさを感じさせる。
「どこがだよ。明らかに酔っぱらってへろへろじゃないか」
 愛未の隣で平山大輔が、不満げに顎をしゃくった。平山は、弱いくせに酒好きな田尾とたまたま自宅が近所という不運のせいで、酔いつぶれた田尾を自宅まで送り届ける面倒をたびたび押し付けられている。今日もすでに覚悟したのか、しきりにいじるスマートフォンの液晶画面には、運転代行業者の電話番号が表示されていた。
 四人が座敷でテーブルを囲んでいるのは、野亜駅前アーケード内にある大衆居酒屋だった。地方都市の地盤沈下を象徴するようなシャッター商店街にあって、飲んで食べて一人あたり三千円前後で収まる良心的な価格設定で客を集める人気店だ。いまも満員御礼で賑わいを見せていた。
 郊外にある野亜市立動物園の徒歩圏内に、飲食店はほとんどない。アルコールを提供する店となると皆無だ。
  そのため自宅の方角が同じ職員同士で、自然と派閥のようなグループができあがっていた。仕事が終わると、電車やバスでいったん市街地に出てから飲むのだ。野亜駅周辺に自宅があるグループは吉住、田尾、愛未、平山、ほかにも数人の出入りがあり、人数は増減するが、集まる顔ぶれはだいたい同じだ。
「おれ、ずっと考えてたんですけど」
 田尾が前のめりになり、ひひっと芝居がかった悪だくみの表情を作る。
「あの素人園長、なんとかして追い出せないっすかね」
 なにかと思えば。吉住はあきれて肩を落とした。
「なに言ってんだ。そんなことをしてどうなる。また市役所から別の素人がやって来るだけだ」
 野亜市立動物園は、野亜市まちづくり部みどり公園課の管轄下にある。嘱託やパートタイムの職員もいるが、ほとんどはみどり公園課に所属する市役所員だ。だが市役所庁舎での勤務もなく、動物園以外への異動もほとんどないため、職員に市役所勤務という意識は希薄だった。数年ごとに市役所から送り込まれる動物園長が「お客さま」扱いされる原因の一つには、新陳代謝のない組織特有のムラ社会気質もある。
「そしたら、そいつのことも追い出すんですよ」
「はあ?」
  平山が顔を突き出した。愛未はあまり会話に参加したくないという感じに、顔をしかめている。
 田尾は人差し指をタクトのように振りながら、力説する。
「いいですか。おれらはこれまで、トップダウン人事で市役所から送り込まれた園長を、ただ受け入れるしかありませんでした。ずっと我慢してきたんです。そいつがどんなに無能で、どんなにやる気がなくても。だから、クーデターを起こすんですよ。使えそうもない園長が送り込まれるたびに、嫌がらせして、追い出して、追い出して、追い出す。そうすることでやっぱり素人じゃ園長は務まらないんだって、お偉いさん方に教えてやるんです」
 平山がおもむろに右手を伸ばし、「馬鹿」と田尾の額を中指で弾いた。
「痛っ……なにするんですか」
「おまえは本当に馬鹿だな。そんなことしてたら、園長を追い出すより先におまえがクビだよ」
 愛未も同意する。
「そうよ。だいたいそういうの、陰湿で気持ち悪い。そもそも『ずっと』我慢してきたとか言ってるけど、田尾くんまだ三年目じゃん。二年ちょっとしか働いてないくせに」
「おまえも三年目だろうが」
「そうだよ……って言うか、おまえって言わないで」
「おまえって言ったんじゃねえよ。大前って、苗字を言ったんだよ」
「じゃあ呼び捨てにしないで」
「な、なんでだよ。ほかのやつにはそんなこと言わないじゃん」
「だって田尾くん、私より年下じゃない」
 懸命に抗弁する田尾だったが、愛未相手では分が悪い。
「とにかく、素人だろうとなんだろうと、私たちの仕事を査定するのは園長なんだから。そんなことしてたら、下手したら園長じゃなくて、私たちのほうが別の部署に飛ばされるよ。田尾くん、市役所勤務になったらどうするの」
「そんなわけない。おれら飼育担当がいなくなったら、動物園はまわらねえんだから」
「実際はそうかもしれないけど、上はそう思ってない。だから園長が素人ばっかりなんじゃない」
 田尾が言葉に詰まり、ぐっと喉を鳴らした。
 すると吉住は噴き出した。
「おまえの負けだな」
 さらに平山が追い打ちをかける。
「だいたいクーデターとか一丁前なことを言うのは、担当動物の信頼勝ち取ってからにしろよ。動物もついてこないのに、人間がおまえについてくるわけないじゃないか」
「そんなこと言ったって……」
 田尾はなにか言い返そうとしたが、歪めた唇から言葉が出てくることはなかった。
 吉住は訊いた。
「最近どうだ。ノッコは」
 ノッコというのはアジアゾウの名前だった。野亜市立動物園では、ほかにもモモコとサツキというアジアゾウを飼育している。名前からわかる通り、すべてメスだ。ノッコは三頭の中でも最年長のリーダー格だった。
「急に機嫌悪くなったりして、よくないですね。最近では、ワキさんの言うことですら聞かないときもあります。やっぱり年のせいでしょうか」
 田尾の言う「ワキさん」とは、田尾とともにアジアゾウの飼育を担当する山脇忠司のことだった。すでに定年を迎えているが、「もっとも飼育の難しい動物」と言われるゾウ飼育のスペシャリストは、そう簡単に養成できるものではない。山脇は定年後も、嘱託というかたちで動物園に残っている。田尾、山脇に十年目の藤野美和を加えた三人が、アジアゾウの飼育担当だった。
「まあな。年食ったゾウは気難しくなるって言うし……」
 吉住は水割りを舐め、顔をしかめた。
「先週もワキさんと二人で獣舎に入ってたら、いきなり突進してきたんですよ。早めに気づいて獣舎の外に避難したから助かったものの、もう少し遅れてたら……それまでそんなことなかったのに、突然ですよ突然。本当にノッコ、いったいどうしちゃったんだろう」
「それはさ、おまえがいたからじゃねえの」
 平山はからかったつもりだろうが、田尾には受け流す余裕はなさそうだった。露骨に表情を曇らせる。
「そういうこと言うのやめてくれませんか。本気で傷つくんで」
「田尾くん。もしかしたらフレグランスとかコロンとか付けてたんじゃない。それがノッコの嫌いな臭いだったとか」
 愛未の指摘に、田尾はかぶりを振った。
「いくらなんでも、そんなことするわけないじゃないか。おれ、半人前だけどゾウの飼育担当だぜ。ゾウの嗅覚がどれだけ優れているかは知ってる。だから、普段からシャンプーやボディーソープにだって気をつけてるんだ」
 平山と愛未はお互いの顔を意外そうに見合って、それぞれ肩をすくめた。
「やっぱりどっか悪いとこあるんじゃねえか」
 吉住は腕組みをして、鼻から息を吐いた。
「だけど、森下さんは異常ないって言ってますけどね。食欲だって変わらずあるし、体重にも変動はありません。肌艶も悪くない。どこも悪いようには見えませんけど」
「そうは言っても、あれだけ大きい動物なんだから、簡単に精密検査なんてできないでしょう。病気が発見できないことだってあると思う」
 愛未が言うと、田尾はむきになったようだった。
「なんだよ。ノッコが病気であって欲しいみたいな言い方して」
「そういうわけじゃない」
「そうじゃなきゃ、どうなんだよ」
「まあまあ」吉住は田尾の肩に手を置いて、訊いた。
「ノッコ、いくつになるんだっけ」
「四十四歳と三か月です」
「四十四歳と三か月……」
 鸚鵡返しにして、思わず唸った。もう若くはない。なんらかの病気に罹患していても、おかしくない年齢だ。
 それどころか――。
「四十四って、けっこういってるな。おれより十も年上なんだ」
 平山が感心した様子で、呑気に口笛を吹く真似をする。
「私のお母さんとは二個違い」
 愛未が言うと、平山がぎょっとなった。
「マジかよ。大前のお母さんって、若いんだな」
「二十歳で私を産んだんです」
「そうなのか……」
 しきりに頷いていた平山の顔が、なにかに気づいたようにふと田尾のほうを向いた。
「ってか、ゾウの寿命ってどれぐらいなんだよ」
「七十歳っす」田尾は即答した。
 が、吉住と愛未が微妙な表情を浮かべたのに気づいて、付け加える。
「……野生では、そうですね」
「野生では……? ってことは、飼育下ではもっと長いのか?」
 そう考えるのが普通かもしれない。市役所の福祉課から異動してきて広報担当をしている平山は、ほかの三人と違って動物について専門的な教育を受けていない。
 吉住は真実を告げた。
「逆だよ。飼育下のゾウの平均寿命は、野生のゾウの半分以下だ」
「え、半分以下?」
 平山が目を丸くする。
 ゾウ飼育の難しさを物語る事実だった。野亜市立動物園で飼育するほとんどの動物の平均寿命は、野生での平均寿命よりも大幅に延びる。そして長生きさせたという結果が、動物を狭い空間に閉じ込めているという、飼育担当者の原罪意識を慰めてくれもする。
  だがゾウにかんしては、まったくの逆だ。人間の手が加わることは、多くの場合にはストレスにしかならない。田尾がペットと動物園動物の違いについて過剰なほどのこだわりを見せる裏には、担当動物に愛情を注ぐことが、動物の寿命を縮める結果になりかねないというジレンマがあるのだろう。
「七十歳……七十歳の半分、ってことは……あっ」
 虚空を見上げたまま、平山が絶句した。吉住は重々しく頷く。
「ノッコは野生だとまだ二十五年近く生きるかもしれないが、飼育下だともうじゅうぶん過ぎるほど年寄りってことだ」
 田尾の手前、遠まわしな言い方をしたが、ようはいつ死んでもおかしくない年齢だった。
「そんな……野生よりもそんなに寿命が短いなんて」
 自分たちの仕事は動物を護り、育て、生かすことではなかったのか。愕然とした様子の平山の表情は、そう物語っていた。
 田尾が取り繕うように言う。
「だけど、東京の井の頭自然文化園にいるはな子は、いま六十七歳で国内最高齢の記録を更新し続けています」
「例外中の例外だけど、ね」
 愛未の呟きに、田尾の顔は歪んだ。
「ワキさんは、なんて言ってるんだ」
 吉住は訊いた。
「あまり顔には出さないようにしてるけど、けっこうへこんでる感じっすね。ずっと面倒見てきて、通じ合ってると思っていたノッコの気持ちが、最近ではわからなくなった。このままじゃほかの個体と隔離しなきゃならないし、直接飼育から準間接飼育や間接飼育への切り換えも検討しなきゃならない。それに……あまりに手に負えなかったら脚を鎖で拘束しないといけない場合も出てくる……って」
「鎖で拘束だと? そこまで酷いのか」
 吉住は驚いた。愛未も身を乗り出す。
「そんなことしたら、ノッコには相当な負担になるんじゃない?」
 若い時分ならまだしも、四十四歳にもなっての住環境の急激な変化は残りの寿命に影響しかねない。
「わかってる」田尾は語気を強めた。
「おれだって、できればそんなことにはなって欲しくないよ。だけどさ、ノッコと何十年も付き合ってきたワキさんですらどうしようもないんだ。入ってたった二年のおれに、なにかできるはずがない……」
 うつむく眼は、こころなしか潤んでいる。
「きっと……」
 きっとなにか、原因があるはずだ。
 それを突き止め、問題を解決さえすれば――。
 だがなにを言っても慰めにならない気がして、吉住は言葉を飲み込んだ。

(つづく) 次回は2014年9月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 佐藤青南

    第9回『このミステリーがすごい!』大賞・優秀賞を受賞し、2011年『ある少女にまつわる殺人の告白』でデビュー。他の著書に『ジャッジメント』(小社刊)『消防女子!!女性消防士・高柳蘭の誕生』『サイレント・ヴォイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻』などがある。