佐藤青南
4 磯貝は車を駐車場に入れて、マンションのエントランスをくぐった。 エレベーターで四階に昇り、鍵を外して自宅の扉を開ける。すると、待ち構えたように娘の結愛(ゆあ)が駆けてきた。窓から駐車場を見ていたのだろう。 「パパおかえりぃ」 「ただいま」 小さな身体を抱き留め、肩に担いで何周かぐるぐると回った。もっと喜ばせてやりたいが、このところ結愛の身体は急に重みを増した。「もっともっと」と不満げな娘に謝りながら玄関に腰を下ろし、靴を脱いだ。 スリッパの足音が近づいてきた。 「おかえりなさい」 妻の奏江(かなえ)だった。三つ年下の妻とは、磯貝が東京の会社に勤務しているころに知り合った。東京生まれ東京育ちの都会っ子だけに、磯貝の生まれ故郷に移住するという提案にどういう反応を示すかと心配だったが、都会っ子だけに逆に田舎への憧れが強かったらしい。二つ返事で応じてくれた。 「早かったわね。歓迎会とか、なかったの」 意外そうな奏江に、曖昧な笑みで応える。正直なところ朝出かけるまでは、磯貝も歓迎会に招かれる心づもりでいた。 「ゾウさん元気だった? キリンさんは?」 磯貝が動物園の園長になると知ったときから、結愛は父への尊敬の念を強くしたようだ。幼稚園でも先生や友人たちに自慢しているらしい。 「ゾウさんもキリンさんも元気だったよ」 「おサルさんは?」 「うん。おサルさんも元気」 「あのね。タクローくんはライオンが好きなんだって」 「ライオンはうちにはいないな。トラならいるけど」 妻が寝かしつけるまで、娘はずっと動物園について質問してきた。 いつもは九時に床につくのだが、興奮していたのか、娘はなかなか寝つかないようだった。娘と一緒に寝室に入った奏江がリビングに出てきたときには、すでに九時半をまわっていた。 「やっと寝たか」 「私のほうが先に寝ちゃいそうだった」 「寝てもよかったのに」 「嫌よ。貴重な大人の時間がなくなっちゃうじゃない」 妻は缶ビールを二本持っていた。そのうち一本を磯貝に手渡す。結愛が起きている間は、話題も結愛中心になりがちだ。娘を寝かしつけた後で、缶ビールをちびちびとやりながら日々の他愛ない出来事を報告し合うのが、夫婦のささやかな楽しみになっていた。 磯貝はプルタブを倒し、ビールを一口飲んだ。炭酸が喉を滑り降りる感覚が心地よくて、思わず唸ってしまう。そんな夫の様子に、妻は笑った。 「なんだかおじさんみたい」 「そりゃそうさ。三十五歳なんだから立派なおじさんだ。だいぶ貫禄もついてきただろう」 磯貝は腹を手で叩いた。自分でも驚くほど良い音が出た。 「やめてよ。あなたがおじさんだったら、私もおばさんということになっちゃうから」 「潔くないなあ。いっそ開き直って認めたほうが生きるの楽だよ」 「なるほど。楽に生きてるからこんなにしまりのないお腹になるのね。決めた。いつまでも抵抗を続けるわ」 なんでも笑い飛ばしてしまう妻の性格に、磯貝は救われてきた。女性である前によき友人、よき相談相手と呼べる存在だ。 だから娘がいないときには、つい愚痴っぽくもなってしまう。 「あー。それにしてもなんでおれが」 ビールを半分ほど空けたところで、磯貝は思わずため息を漏らした。 「そりゃあ、健ちゃんが必要とされていたからでしょう」 頬を赤らめながら、手に持った缶で二の腕を小突いてくる。磯貝にたいして結婚前の呼び方に戻っていることからも、奏江が少し酔っているのがわかった。 「必要とされてるわけないよ。おれはどこからどう見ても素人だ。今日なんか、最初の朝礼のときから完全にアウェーだったしさ。なぜかわからないけど、やたら喧嘩腰で食ってかかってくる子がいたんだ。ほかの人たちにも、どうやら歓迎はされていないようだし、先が思いやられるよ」 たしか田尾という職員だった。坊主頭の敵意剥き出しな眼差しを思い出すと、気が重くなる。 「大丈夫だって。健ちゃんならなんとかなるよ」 「そうかな」 「そうだよ。私のこと、信じられないって言うの」 「そういうわけじゃ……」 どんなに根拠に乏しくても、大丈夫と言い切ってくれる存在の心強さは、結婚してからの八年で思い知っている。なにかとくよくよしてしまいがちな性格の磯貝にとって、妻は弾みをつけるためのジャンプ台であり、走り続けるためのエンジンだった。 「だけどおれなんかより適任は、大勢いただろうに」 「潔くないなあ。いっそ開き直ったほうが楽だと思うよ」 磯貝の口調を真似た奏江が、いたずらっぽい笑みを浮かべる。それからふいに、眼差しを柔らかくした。 「健ちゃんはよく頑張ったと思うよ。だけど、今回は運が悪かった。そうとしか言いようがない。だって、あれだけ元気だった市長さんが突然病気になっちゃうなんて、予想できないもの」 奏江の言う通り、今回の磯貝の異動は、反市長派による報復人事とも受け取れる。 市役所の企画部総合企画政策課で磯貝が携わっていたのは、テーマパークの誘致計画だった。具体的な計画内容は、撤退した紡績工場跡地を再開発し、かつての城下町の雰囲気を伝える時代再現型テーマパークを建築するというものだ。テーマパーク内にはアトラクションやアミューズメント施設だけでなく、店舗や集合住宅も作り、その中で生活できるようにする。いわばテーマパークを中心に据えた一体的な市街地再開発計画だった。テーマパークと生活空間を融合させるという、全国でも例を見ない画期的な取り組みだ。 磯貝が東京にいたころ勤務していたアミューズメント会社は、全国各地でテーマパークをプロデュースしていた。一口にテーマパークと言っても、キャラクターテーマパーク、キッズテーマパーク、フードテーマパーク、温泉テーマパーク、時代再現テーマパークなど、さまざまなタイプが存在する。磯貝はプロジェクトチームの一員として、たくさんのテーマパークを作ってきた。ノウハウとコネクションはじゅうぶんだった。その意味では適職といえたが、長年の保守王国に風穴を空けた改革派市長の当選がなければ、実現はとうてい不可能だった。磯貝は市長の後押しを受けて、計画を推進してきた。 たしかに市の商工会の中には、根強い反発があった。 だがあと一歩だったのだ。磯貝が綿密な調査と下交渉を進めてきたテーマパーク誘致計画には、来年度、多額の予算が計上されるはずだった。いよいよ本格始動に向けて動き出そうとしたところで、市長が病に倒れ、急転直下、磯貝には動物園園長就任の辞令が下ったのだった。 悔しさが甦って、知らず眉をひそめていた。 妻がにやりと覗き込んでくる。 「後悔してる?」 「なにを」 「こっちに越してきたことよ」 「そんなわけない」 そもそも磯貝がUターン就職を考え始めたきっかけは、娘のアトピーだった。生後半年ほどでアトピーを発症した結愛の肌は、全身に広がる湿疹で痛々しいほど真っ赤になった。そのうちぜん息発作まで起きるようになり、何度か深夜の救急病院に駆け込むこともあった。 だが盆と正月、家族三人で野亜市の実家に帰省するときだけは、娘の症状が改善した。ぜん息の発作もなかったし、湿疹の赤みも薄れるような気がした。当初は偶然かとも思ったが、奏江に話してみると、彼女も同じように感じているらしかった。 当時の仕事にはそれなりにやりがいも覚えていたが、娘の幸福とは比べるまでもない。磯貝はすぐに野亜市での転職先を探し始めた。そして実家近くに借りたマンションに越してからは、娘の病状は見る間に改善した。いまは肘と膝の裏がかさついている程度だ。 娘の苦しむ姿はもう見たくない。後悔なんてするはずないのだ。 「でもまったく未練がないってわけでも、ないんじゃないの」 横目を向けられ、磯貝は言葉に詰まった。 そのとき、妻はなにかを思い出したように「そうだ」と膝を打って立ち上がった。 「いいもの見せてあげる」 「いいものって、なんだよ」 磯貝が声をかけたときには、忍び足の後ろ姿が寝室に入ろうとしていた。暗闇の中でがさごそとうごめく気配があり、しばらくして戻ってくる。 妻の手には細長い筒が握られていた。画用紙を丸めたもののようだ。 「これ、結愛が描いたの」 磯貝は画用紙を広げて見た。 クレヨンで描かれた絵だった。拙(つたな)いが、大きな耳と、長い鼻、灰色に塗られた身体ですぐにゾウだとわかった。手前のほうに柵があり、人間が描かれているが、ご丁寧に矢印を指して自分の名前を書き添えてある。 「去年のバス旅行のときに描いた絵なんだけど、健ちゃんまだ見てなかったでしょう」 奏江は磯貝に寄り添うように座り、肩に顎を載せてきた。 「ああ。初めて見る……」 「このときすごく楽しかったみたいで、その後しばらくは、また行きたいまた行きたいってしつこかったのよね」 「あ……去年動物園行ったのって、もしかしてこの遠足の後だったのか」 まだ市役所勤務だった昨年、週末に家族三人で動物園に行ったことがあった。奏江から提案されて、なぜ突然、と思ったが、そういうことだったのか。 磯貝の肩に顎を載せたまま、奏江は頷いた。 「一度連れて行ったから少しはおとなしくなったけど、あの後もたまに言ってたのよ。また動物園に行きたいなって」 「そうだったんだ」 「あの子は動物園が大好きなんだから。パパが動物園の園長さんになるって聞いたときの喜びよう……覚えてるでしょ」 耳もとにくすりと笑う息の気配があって、磯貝も微笑んだ。 異動だ。動物園の園長だってさ……――。 家族の食卓で落胆しながら伝えたところ、結愛は文字通り飛び上がって喜んだ。やったやったと大騒ぎする娘の様子に、磯貝は戸惑いながらも笑顔を繕うしかなかった。 「私ね、案外、悪くないと思うんだ。子供のヒーローでいられるお父さんって、世の中そんなにいないんじゃない?」 ちらりと上目遣いでうかがってくる。 磯貝はあらためて画用紙に視線を落とし、ふうと息を吐いた。 「たしかに……そうかもしれないね」 「でしょ?」 「わかった。頑張ってみる。開き直ってやるしかないね」 「それでこそ健ちゃんだ」 「また上手いこと言いくるめられたな」 「夫の操縦法は心得てますから」 微笑みを交わし合ってから、二人で娘の絵を眺めた。 巧みとは言えないかもしれないが、生き生きとした線と、鮮やかな色使いは、なかなかのもののような気がする。もっとも、親馬鹿の自覚もじゅうぶんなので、画家にしようとまでは思わないが。 奏江が絵の一部を指差した。 「ここが少し残念ね」 ゾウの左耳のあたりのことを言っているらしい。たしかに、謝ってクレヨンを滑らせてしまったような線が、耳の輪郭にたいして鋭角に交わっている。 「クレヨンだと描き直せないからね」 そう答えた瞬間、記憶が逆流する感覚があって、鼓膜の奥にかすかな声が響いた。 よく描けているじゃないの。お耳が切れてるところまでそっくり――。 はっとなった磯貝を、奏江は不思議そうに見つめる。 「どうしたの?」 「いや……なんでもないけど」 そう言いながらも、脳は猛スピードで回転していた。 いったいいつ聞いた声なんだ。声の主は誰なんだ。 そして答えに辿り着いたとき、磯貝はふたたび言葉を失った。 小学校一年生のころだから、もう三十年近く前になる。磯貝は野亜市立動物園で催された写生大会に参加し、ゾウを描いた。何人かのクラスメイトも参加していて、引率は担任教師だった。担任教師は大学を出たばかりだったはずだから、当時まだ二十三、四歳の若い女性だったが、当然ながら磯貝にはずいぶん大人に思えていた。 時間を忘れるほど熱心に写生したのは、担任教師に褒められたかったからだ。たぶん、あれは磯貝にとっての初恋だったのだろう。 無心に筆を走らせていると、磯貝の手もとを担任教師が覗き込んできた。そして笑いながら言ったのだ。 よく描けているじゃないの。お耳が切れてるところまでそっくり――。 そうだった。たしかあのゾウの左耳は、怪我なのか生まれつきなのか少し欠けている部分があった。忠実に写し取ってやろうとこだわった部分を褒められて、有頂天になったのだ。 いま磯貝は、あのとき、ふわりと鼻孔をかすめた化粧の匂いまでをも思い出していた。 と、いうことは――。 「嘘だろ……」心の声が口をつく。 「え……なに?」奏江は困ったような笑みを浮かべた。 信じられない。親子二代で同じゾウを描いていたというのか。あのとき磯貝が見つめたゾウを、いま娘の結愛が見つめている。 そして動物園のゾウは、入園者の人生を見つめ続けている。 全身が粟立ち、画用紙を持つ手が震えた。 「すごい……」 思いがけず発見したタイムカプセルだった。かつて見た景色、嗅いだ臭い、聞いた音、皮膚を焼く日差しの感触までもが生々しく甦り、泣き出しそうだった。 磯貝は胸の高鳴りを抑えながら、奏江のほうを向いた。奏江はどう反応したものかといった、複雑な表情をしている。 「すごいよ、この絵。すごくいい。耳が欠けているところまで、とても正確に描けてる」 やってみるか、動物園の園長――磯貝は思った。(つづく) 次回は2014年10月15日更新予定です。
第9回『このミステリーがすごい!』大賞・優秀賞を受賞し、2011年『ある少女にまつわる殺人の告白』でデビュー。他の著書に『ジャッジメント』(小社刊)『消防女子!!女性消防士・高柳蘭の誕生』『サイレント・ヴォイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻』などがある。