佐藤青南
5 朝の柔らかい日差しが、枝葉のシルエットを路面に淡く描き出している。 開園前の動物園。日曜日の朝の空気はまだほんのりと白く、近くの県道から聞こえる自動車の走行音もまばらだ。数時間後の賑わいの気配を先取りするかのように、ときおりあちこちの獣舎から動物の鳴き声が聞こえる。 山脇忠司はゾウ舎に向かって歩いていた。 定年から三年が過ぎても、体力的な衰えとは無縁だと自負している。それを証明するように、ゴム長靴の足取りはしっかりとしたものだ。物心ついてからこの方、大病はおろか、風邪を引いた記憶すらない。青いポロシャツから伸びた腕の毛にはだいぶ白いものが交じるようになったが、肌はこんがりと日に焼け、学生のころ剣道で鍛え抜いた太い前腕には、無数の血管が浮き出ている。 エミュー舎のほうから、山脇と同じポロシャツ姿の女が駆けてきた。 藤野美和。動物園に勤務して十年目になる後輩職員だ。 勢いよく花壇の前を横切ろうとして、ようやく師匠と慕うベテラン飼育担当者に気づいたらしい。美和が見えない壁に激突したように立ち止まる。 「よう。相変わらずせわしないな」 「ワキさん。おはようございます」 その場で足踏みしながら、笑顔のポニーテールが威勢よく弾む。 高校までバレーボール一筋だった美和は背が高く、顔が小さい。学生時代にはよく同性の後輩からラブレターをもらったというエピソードも頷けるスタイルの良さだ。もっとも本人にとっては長身がコンプレックスだったらしく、最初に会ったころはいつも背を丸めていた。ところがこのところ猫背が直ったように思えるのは、仕事に自信がついたからか、それとも人間以外の動物を伴侶に生きると開き直ったからか。そういえば、何年か前によく話を聞かされた恋人とは、その後どうなったのだろう。 「あ……田尾のやつ、またワキさんにやらせてるんだ」 美和の視線が尖る。彼女が見ているのは、山脇が右手に提げたポリバケツだった。その中を満たす液体からは、消毒液特有の化学臭が漂う。 「いいっていいって。おまえたちより、おれのほうが暇なんだ」 「そういう問題じゃないんです。大先輩に朝一の仕事をやらせるなんて、たるんでるんですよ。動物と同じで、しっかり上下関係を理解させてやらないと。ワキさんも少しは厳しく接してください。ただでさえ、あいつは少し甘やかすとすぐ調子に乗るんですから」 美和がしかめっ面で、両手を腰にあてた。この子がもう少しだけ融通の利く性格だったらと、山脇はいつも思う。 アジアゾウは山脇のほか、美和、田尾の三人で担当している。不仲とまでは言わないが、美和と田尾は勤務態度や飼育方針をめぐって意見が対立することが多い。いきおい、山脇には仲裁役がまわってくる。 「そうは言っても、おまえさんと田尾にはほかにも担当動物がいるが、おれはゾウしか担当していないんだ。おれが一番乗りになるのは自然だろ」 現在の山脇の身分は嘱託の臨時職員だった。ゾウの飼育技術者養成には、とにかく時間がかかる。ゾウは賢い反面、警戒心が強く、人間にたいして容易に心を許さない。十年目の美和でさえ、ゾウに直接接触できるようになってから――言い換えると、ゾウから接触の許可が下りてから、まだ一年経っていない。美和だけが特別時間がかかったわけではなく、直接接触まで十年というのは、けっして珍しいケースでもないのだ。 そういうわけで動物園側もゾウ飼育のスペシャリストを手離すわけにはいかず、定年を迎えた山脇に、臨時職員としての再契約を要請したのだった。 美和は口角を下げ、唇をへの字にする。 「最初にゾウ舎の消毒液を準備してから、ほかの動物のところへ行けばいいだけの話です。田尾との間では、そういうふうに話をつけてあるんですから。ただでさえ私たちはワキさんの足手まといだっていうのに……あいつ、何度言ったらわかるんだろう」 「足手まといだなんて、そんなことないさ」 「そんなことあります」 山脇はやれやれと肩をすくめた。 「朝からそうカリカリするな。それより、おまえもまだ仕事があるだろう。早くしないと、朝礼に間に合わないぞ」 美和ははっと我に返った様子だった。 「すいません。あの子たちを表に出したら、すぐに戻りますから」 美和の言う「あの子たち」とは、レッサーパンダ三頭のことだ。アジアゾウのほか、美和はエミューとレッサーパンダを担当している。 「ほらほら、あんまり急いでるとこけるぞ」 美和はつんのめりそうになりながら、走り去っていった。 アジアゾウの展示場に、まだゾウたちの姿はない。主を待つ放飼場は、やたらとだだっ広く見える。ゾウ舎では明かり取りの窓の奥の暗がりで、うごめく気配があった。 山脇はアジアゾウ展示場の柵をまわり込んだ。 植え込みの切れ目から芝生に入り、奥へと進む。途中から芝生に現れる舗装道が、ゾウ舎の裏側に続く通路だ。 やがてまったく愛想のない、巨大なコンクリートの壁が登場した。 鉄の扉の前で、山脇はバケツを下ろす。 まずは左足、そして右足。それぞれたっぷり十秒ほど薬液に浸して消毒を済ませ、ゾウ舎の扉を開いた。 建物の中は天井の高い、広大な空間になっている。だが薄暗く、空気が湿っているせいで、実際の広さほど開放感はない。出入り口から伸びた幅二メートルほどの通路は右側が壁、寝室は左側に並ぶ。干し草の匂いと獣臭さが入り混じった臭いが滞留していた。 用具入れのロッカーを開き、長さ八十センチほどの手鉤(フック)を手にとった。金属製で、先端のかぎの部分が鋭くとがったそれは、ゾウに命令を与える際の指示棒であり、万が一のときに身を守るための護身具でもある。もっとも飼育の難しい動物と言われるゾウは、飼育担当者にとってはもっとも危険な動物でもある。世界中の動物園で、ゾウの攻撃による飼育担当者の死亡事故が絶えない。美和と田尾の二人にも、手鉤なしでけっしてゾウと同じ空間に立ち入らないよう、きつく指導していた。 寝室に二頭のゾウがいた。奥のほうで垂らした鼻をゆらゆらとさせているのがサツキ、嬉々とした様子でこちらに歩み寄ってくるのがモモコだ。 「おはよう。モモコ」 野亜市立動物園で飼育する三頭のアジアゾウのうち、もっとも若い十七歳のモモコは、好奇心旺盛で人懐こい。 山脇は格子の隙間から指を突っ込んでモモコの鼻を撫でながら、奥に声をかけた。 「サツキもおはよう」 耳をぱたつかせ、尻尾を揺らす気配こそあったが、サツキはそれ以上の反応を示さない。いいから早く出してくれと言わんばかりに、じっと放飼場を見つめている。クールな性格のサツキは、感情表現が苦手なのだ。 山脇は寝室に立ち入った。うろうろと歩き回りながら、様子を観察する。二頭とも肌艶は悪くない。目に見える範囲では、怪我などもない。歩き方もいつも通り。地面のあちこちにころころと転がった糞も、綺麗な俵形をしている。 異常がないのを確認すると、寝室と放飼場を隔てる鉄の扉を開いた。 待ち構えていたようにサツキが出ていく。モモコのほうはまだ遊んで欲しそうだ。しきりに鼻でじゃれついてくる。ほどほどに相手をしてから、手鉤で地面をとん、と叩いた。 「サイド」 動きを止めたモモコが、不服そうに鼻を丸める。 ふたたび手鉤を振った。心もち語調を強める。 「サイド」 身体の側面を私に向けたまま、私から離れなさい、という命令語だった。 「ゴー・オン」 前進しなさい。モモコが指示通り歩きながら、名残惜しそうに振り返る。 二頭が放飼場に出るのを待って、山脇は扉を閉めた。 通路に出て、隣の寝室の前に移動する。 そこにはノッコがいた。このところ情緒不安定な傾向があり、ほかの二頭を攻撃する恐れがあるので、一頭だけ隔離している。放飼場に出すタイミングも、ほかの個体と重ならないように調整していた。 「ようノッコ。調子はどうだ」 声をかけると、ノッコは返事をするように耳を軽くぱたつかせ、顔を上下させた。だが動きは緩慢で、元気がない。ここ数週間で、体重も目に見えて落ちていた。本来、アジアゾウのメスは群れで生活する動物だ。孤独は堪えるのだろう。 「お互い、独りは辛いよな」 当然ながらノッコは答えない。 山脇が長い吐息を漏らしたそのとき、遠くで扉の開く音がした。 「おはようございます」 田尾だった。眠そうに目を擦りながらロッカーを開くと、竹ぼうきを肩に担ぐようにしながら近づいてくる。美和が目くじらを立てるのもわかる気がするが、斜にかまえるわりに真面目な若者だし、孫のような年齢の後輩を叱る気にもならない。そもそも序列に敏感なゾウの前では、けっして部下を叱らないのが鉄則だ。叱られた部下が、その後ゾウになめられるようになる。 ただ、いちおう伝えておかないと後が面倒だと思った。 「なんか、藤野が怒ってたぞ。消毒液のバケツがどうとか」 「はあ? なんですかそれ。意味わかんね。生理ですかね」 美和が聞いたら烈火のごとく怒りそうな台詞を吐いて、田尾は寝室のほうを見やった。 「どうですか、こっちのお嬢さまのご機嫌は」 「どう見える」 「昨日に比べて落ち着いては、いますかね……」 懸命に虚勢を張っているが、田尾の横顔はわずかに強張っている。恐怖心を完全に克服するには、もう少し時間がかかるかもしれない。 あれはちょうど一週間前、今日と同じ日曜日のことだった。 山脇はモモコとサツキを放飼場に出すのと入れ替わりに、ノッコを寝室に移動させた。 不承ぶしょうといった雰囲気ながらも、ノッコは命令に従って寝室に入った。不機嫌になり始めているのは、仕草からわかった。 山脇は糞温測定を行うよう、田尾に指示を出した。排泄されたばかりの糞に体温計を差し、ゾウの体温を測る方法だ。 田尾はノッコの糞に歩み寄り、しゃがみこもうとした。ところが、中腰のままふいに動きを止めた。 どうした――。 田尾の視線は山脇を通り越して、もっと高い位置に向けられていた。目を剥き、口を半開きにし、頬を緊張させていた。山脇の背後の、巨大ななにかに驚き、恐れおののいているようだった。 その瞬間、山脇はノッコから視線を逸らしたことを後悔した。 ほんのわずかの間、時間にしておそらく数秒に過ぎないが、たしかに山脇は、機嫌の悪いゾウに背を向けてしまっていたのだ。ゾウの飼育担当としては痛恨のミスだった。 田尾、走れ――! 叫ぶと同時に自分も駆け出した。ゾウの足の裏には蹠枕(せきちん)と呼ばれるクッションがあるため、足音はほとんどしない。だが背後から迫る巨大な影の気配で、追いかけられているのがわかった。 通路に繋がる扉がたまたま開放されていたのは、本当に幸運だった。ゾウが本気で走れば、最高速度は時速四十キロにも達する。扉を開けるのに少しでも手間取ったら、命取りになっていただろう。 がん、と鈍い激突音がして寝室の檻全体が揺れるのと、二人が折り重なるように通路に飛び出すのは、ほぼ同時だった。 振り返って見上げると、ノッコの瞳はぎらぎらと獰猛(どうもう)に光っていた。四十年以上も毎日のように顔を合わせ、心を許した飼育担当者を見る眼ではなかった。紛れもない猛獣の本能をさらけ出していた。 「あの、ワキさん」 田尾の声で我に返った。 「おれ、いろいろと考えてみたんですけど……やっぱ週末は、ノッコの展示を中止するべきじゃないですかね」 思わず言葉に詰まる。 「週末だけです。土日だけ。鎖で繋留することになるよりは、そのほうがずっといいと思うんです。おれなんかより、ノッコのことをよく知っているワキさんにこんなことを言うのは差し出がましいと思うし、本当は、おれだってそんなことをしたくないんですけど――」 山脇は手を振って遮った。 「わかってる」 「ノッコが嫌いってわけじゃないんです」 「わかってるさ。おまえさんの言いたいことは」 ノッコはゆらゆらと頭と動かしながら、静かにたたずんでいた。先週見せた攻撃的な態度が、幻だったかのように思える穏やかさだ。 「週末だけだもんな。きまって土曜日と日曜日、それも、昼過ぎあたりにかけて」 ノッコの挙動に情緒不安定な傾向が見え始めてからおよそ二か月半。それが週末の日中に限られていることは、飼育日誌を読み返せばすぐにわかった。 田尾が唇を真一文字に結んで頷く。 「週末の日中だけ精神のバランスを崩すっていうのは、病気とか年齢的なものとかより、環境が原因になっている可能性のほうが高いと思うんです。そうなると人の多さ以外に考えられませんよ。やっぱノッコには、観覧者の多さがストレスなんです」 そう考えるのが自然だろう。動物園で週末と平日のもっとも大きな違いといえば、入園者数だ。人気者であるアジアゾウ展示場には、当然ながらほとんどの客が訪れる。人出がノッコの精神状態に影響を与えている可能性は、獣医の森下にも指摘されたことがあった。 本当にそうなのか。本当におまえは、人間嫌いになってしまったのか――。 山脇の脳裏に、幼獣だったころのノッコの姿が甦った。 ノッコとの出会いは、四十二年も前にさかのぼる。 解散することになったサーカス団から動物園が買い取った三頭のうちの一頭で、唯一の幼獣だった。当時の体重はおよそ一トン、現在の四分の一しかなかった。いっぽう山脇はゾウ飼育担当者の中では一番の下っ端で、まだ成獣への接触を許されていなかった。そのため自然と幼獣のノッコの世話をする機会が多くなった。 接触が増えれば、親しみも増す。山脇がそうだったように、ノッコも同じように感じてくれたのかもしれない。ノッコは先輩職員よりも、山脇の命令をよく聞くようになった。山脇もノッコの調教を通じて、飼育技術を学んでいった。 一緒に成長してきたという意識が、山脇にはある。 ノッコとともに動物園にやってきた二頭のゾウはすでに死んだ。山脇にゾウ飼育の心得を叩き込んでくれた先輩職員たちも退職した。 そして、あのときには出会ってすらいなかった山脇の妻も、もうこの世にはいない。 ノッコはもっとも古株のアジアゾウとなり、山脇もすでに定年を迎えた。 「お互いに変わった……って、ことかな」 しみじみ呟いたとたんに、ノッコとの距離が広がった気がした。じわりと寂しさが胸に染み出して、曖昧な感情に輪郭を与えた。 変わってしまったのだ。あのころとは違うのだ。なにもかもが――。 「えっ……なんて言ったんすか」 「なんでもない。とりあえず今日は、ノッコの展示を中止して様子を見るか」 「いいんですか」 「おまえが言い出したことだろう」 「まあ、そうっすけど……」 田尾は気まずそうに頬をかく。 そのとき、扉が開く音がして、美和がゾウ舎に入ってきた。 ――あんた、ちゃんと話したんでしょうね。 ――話しましたよ。大丈夫でした。 田尾と美和の間で交わされた不自然な目配せから、そういう会話が聞こえた。(つづく) 次回は2014年11月15日更新予定です。
第9回『このミステリーがすごい!』大賞・優秀賞を受賞し、2011年『ある少女にまつわる殺人の告白』でデビュー。他の著書に『ジャッジメント』(小社刊)『消防女子!!女性消防士・高柳蘭の誕生』『サイレント・ヴォイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻』などがある。