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  • アジアゾウの憂鬱(5) 2014年11月15日更新
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 入園ゲート脇の売店に入ると、カウンターの中にいた若い女性店員がぎょっとした様子で背筋を伸ばした。ちょうど欠伸(あくび)をしようと大口を開けた瞬間を見られて、慌てたようだ。
 磯貝は「お疲れ様」と微笑で口だけを動かし、商品を物色し始める。
 狭い店内にはクッキーやせんべいといった日持ちのする菓子のほか、筆記具やキーホルダー、ストラップやぬいぐるみなど、動物関連のグッズが所狭しと並んでいた。開園から二時間しか経っていないが、数組の客の姿がある。
 磯貝は棚の商品を手にとりながら、全身を耳にして客の会話に耳を傾けた。すぐ背後の母子はこれから園内を見るらしい。どの動物が楽しみだというような話をしている。たったいま店に入ってきた大学生ふうカップルは、もう帰るようだ。昼食をどこで食べようかという相談をしながらぐるりと一周し、そのまま店を出て行った。
 磯貝はレジに歩み寄った。
 女性店員の左胸の名札を確認する。本村という名前だった。たしか朝礼でも、端のほうに立っていた。おそらくアルバイト職員だろう。
「本村さん。たしかうちの動物園、ライオンはいないよね」
 名前を呼ばれたのがよほど意外だったのか、本村は眼鏡の奥で目を丸くした。
「い……いません」
「パンダもいないよね。それに、コアラも」
 話の途中から、本村がぶんぶんとかぶりを振る。
「そんなの、いるわけありません。ライオンやパンダが、どうしたんですか」
「うん……どうしてうちの動物園にいない動物のぬいぐるみが、この店に置いてあるのか不思議に思ってさ」
 磯貝は店内を見回した。ぬいぐるみだけではなく、マグカップやシャープペンシル、リュックサックなど、野亜市立動物園で飼育していない動物をモチーフにしたものが多い。
「どうしてって……人気のある動物だから」
「たしかに、一般には人気がある。だけどうちにはいない。たぶんここで買い物をするお客さんのほとんどは、動物園を訪れた記念としてぬいぐるみやマグカップを買い求めると思うんだけど、そんなときに、実物を見てもいない動物のグッズを選ぶものかな」
「そんなこと、私に言われても……」
 本村はややふて腐れた様子で唇を曲げた。
「実際の売り上げは? ライオンやパンダのグッズは売れてる?」
「具体的な数字は私にはわかりません」
 すっかりへそを曲げた様子だった。
「じゃあ、わかる人はいる?」
 店長を呼んでもらい、売り上げのPOSデータを確認するまでに二十分近くを要した。
 その結果判明したのは、園内で飼育されていない、いわゆる人気動物をモチーフにしたグッズのほとんどは、死に筋商品であるという事実だった。業者に勧められるまま発注し、売れ残った在庫は半額以下にまで値下げして処分することを繰り返していたようだ。利益を生み出すどころか、完全な赤字経営だった。
 ところがそのことを指摘しても、丸々と肥(こ)えた中年の女性店長はぴんと来ない様子だった。「どうしたらいいんでしょうかねえ」と他人事のように首をかしげられ、閉口した。
 売店を出ると、磯貝は案内板に示された順路に沿って観覧した。
 ニホンザルのサル山から始まり、マレーバク、シマウマ、アミメキリン、レッサーパンダ、フラミンゴ、ナマケモノ、ホッキョクグマと渡り歩く。
 途中で出くわした職員たちは、磯貝に気づくと例外なく驚いた様子だった。まるで園内で見かける園長こそが、一番の珍獣だとでも言わんばかりの反応だ。前任の園長との距離感が想像できた。
『よるのどうぶつ館』でオオコウモリやスローロリス、ジャワマメジカなどを見て、『なかよし広場』で娘と同じ年ごろの子供たちがウサギやヤギ、ヒツジなどの動物と戯れる様子に目を細めたあたりで、空腹を感じた。時計を見ると、すでに午後一時をまわっていた。
 園内マップを確認すると、ちょうどテラス席の無料休憩所が近くにある。食事のできるスタンドも隣接しているようなので、そこで昼食を摂ることにした。
 カモの泳ぐ池のそばの席に陣取り、テーブルにトレイを置いてカレーライスをぱくついていると、誰かから声をかけられた。
「それ、不味いでしょう」
 副園長で獣医の森下だった。磯貝の対面に座ると、周囲の客の目を気にしてか、ポロシャツの上に羽織った薄手のジャンパーの前を閉める。
「いや、そんなことはないです」
「新しい園長は、どうやら嘘をつくのが苦手なようですね」
 悪戯っぽい上目遣いに、磯貝は肩をすくめた。
「この量と味で九〇〇円は高いですね。ここで作っているんでしょうか」
「いえ。私も詳しく把握しているわけじゃありませんが、基本的にはレトルト食材を業者から購入していたはずです。すべてレンジ調理ですよ」
「食事が美味しければ、お客さんはもっと長居してくれるだろうに」
 磯貝は売店で見かけた若いカップルを思い出していた。昼食の相談をしながら、店内を一周して出ていった大学生ふうのカップルだ。あのときはなぜ園内で食べないのかと疑問に思ったが、たしかにこの味ではデート気分が台無しだ。
「長居ねえ……」と森下は曖昧な表情で、自分の肩を揉んでいる。
「ところで園長は、どうしてこんなところで食事を」
「客の立場になれば、見えてくることもあるかと思って」
 磯貝はスプーンを口に運ぶと、周囲を見回した。
 考えてみると、こうして客として動物園を見てまわったのは、子供のとき以来かもしれない。新鮮だったし、いろいろと気づかされることもあった。
「今朝から園内を歩いて思ったんですが、腰を下ろして休憩できる場所がもっと欲しいですね。立ちっぱなしは、年輩のお客さんにはつらいでしょう。トイレの案内も、園内マップを見ただけだと少しわかりにくい。それに――」
 思いがけず強い調子で遮られた。
「学ぶことがなければ、意味はないんじゃないかな」
 磯貝がきょとんとしていると、森下は不愉快そうに唇を歪めた。
「学ぶ意思のない人間がいくら長居したって、意味はないと思います。園長は動物園の存在意義について、どうお考えですか」
「存在意義……」
「そう。動物園はなんのためにあると思いますか。なんのためにこれだけ多くの動物たちから自由を奪って、見世物にしているんでしょう」
 思わず唸(うな)り声が漏れた。
「正直なところ、考えたこともありませんでした。なんのために、だなんて」
 森下は右手の平を見せ、指を折る。
「種の保存、教育・環境教育、調査・研究、そして最後がレクリエーション。日本動物園水族館協会では、この四つを目的に掲げています。レクリエーションも目的のうちに入ってはいますが、基本的には、動物園は教育研究機関なんです。そこが、この前まであなたがかかわっていたテーマパークとは決定的に違う」
 ふだんの柔らかい物腰からは想像できない、有無を言わさぬ口調だった。素人は余計なことをせずに黙っていろということか。
 それならば、と磯貝は居住まいを正した。
「財務関係の書類に目を通させてもらいました。率直に言うと、この動物園は健全な経営とはほど遠い状態が続いていますね。毎年、市の拠出する予算が一億二千万前後。たいする入場料収入がわずか一千万円……この数字は民間ならありえない」
「民間ではありませんから」
「税金で運営しているのなら、予算の使い道にはより慎重になるべきだと思います」
「利益ばかり追求しては本来の目的を見失い、動物のタレント化や擬人化を招くことになります。以前、後ろ足で立ち上がるレッサーパンダがマスコミに取り上げられ、千葉の動物園に見物客が殺到したことがありましたよね。あの騒動で動物園を訪れたうち、レッサーパンダの生態について正しい知識をえて帰った人は、どれぐらいいたでしょうか。レッサーパンダは骨格の構造上、実際は立ち上がれないほうがおかしい。たったそれだけの事実ですら、いまだに知らないままの人がほとんどだと思います。かわいい、かわいい、と持てはやし、ブームが終わったら忘れ去る。それは私たちの望む、市民と動物園のかかわりではありません」
 激しさはないが静かな怒りを湛(たた)えた口調だった。
 磯貝は眼差しに力を込める。
「動物園は職員のためにあるのではありません。あくまで市民のために存在するんです。動物園側の掲げる目的を理解しない客ばかりだとしても、この動物園は公営施設です。運営資金には、森下さんにとっての望まざる客――市民の支払う税金も含まれています。高邁な理念を掲げるのも結構ですが、それ以前に、経営の健全化を目指すのが最低限の存在『条件』だと思いますが。市民が利用もしない施設を、市が運営するいわれはないのですから。それこそ存在意義にかかわる」
 むっとしながら黙り込んだ森下が、仕切り直しという感じに咳払いをする。
「そもそも大人一人あたりの入園料は、たった三五〇円です。採算なんてとれるはずがありません」
「いきなり黒字化しろとは言っていません。だが少なくとも、市民に求められる動物園であろうとするべきだ。現状では、一年につき、二人に一人の市民しか動物園を訪れていない。そのうち半数は、無料開放日の入園者です。つまりたった三五〇円の入園料ですら、払う価値がないと考える市民が大多数だということです」
 統計に基づく厳然たる事実を突きつけられ、森下の顔が赤くなる。
「あなたはなにをするつもりなんですか……まさか、旭山でも目指すつもりですか」
 旭山動物園は、北海道旭川市にある市営動物園だ。一時は存続すら危ぶまれる状態だったが、一九九五年に就任した新園長の強いリーダーシップのもと、「行動展示」を始めとしたさまざまな改革を行い、二〇〇四年十月の時点で年間入園者数一二〇万人を突破、ついには日本一の入園者数を誇る動物園となった。
「旭山は日本最北の動物園といっても、運営母体となる旭川市は、北海道では札幌に次ぐ第二の都市です。人口も三十五万近く、野亜市の約三倍もある。税収だって比べ物にならない。真似しようとしても、どだい同じことはできません。もっと現実的な、地に足の着いた目標を探るべきだと思います……それについてはこれから考えますし、森下さんを始めとした職員の皆さんの協力が必要になりますが」
 森下が真意を推し量るように目を細める。テーブルの上に手を置き、とん、とん、と人差し指で天面を何度か叩いた。
「驚きました。昨日とはまるで別人だ。昨日のあなたは、突然右も左もわからない部署に放り込まれて、ただ途方に暮れている……そんな感じだった。なのに一夜明けたとたん、改革を口にし始めた。うちの収支についても、旭山についても、一晩で調べたということですよね。どういう心境の変化ですか」
「切り替えは早いほうなので」
「昨日も言いましたが、任期はせいぜい二、三年ですよ」
「その間にできる限りのことをやります」
「この動物園を自己実現のための道具にするつもりですか。志半ばで頓挫したテーマパークプロジェクトの代わりにして、充足をえようとしているんですか」
「どう捉えてもらってもかまいません。大事なのは結果です。私の動機がどうあれ、経営の健全化が実現すれば、施設の改修や建設が可能になるかもしれない。人件費も増えて、労働条件が改善できるかもしれない。この動物園にとっても、この動物園で働く職員にとっても、悪い結果にはならないと思うのですが」
 のどかな休日の動物園には似つかわしくない、緊張感のある沈黙が続いた。
 やがて森下が微笑む。
「磯貝さんは、これまでの園長とは違いますね」
「それは褒め言葉と受け取っていいんでしょうか」
 磯貝も頬を緩(ゆる)めた。
「まだどちらとも言えません。うちの動物園にとって、あなたのような園長は未知の新薬だ。拒否反応は必ず起こる。その結果、寛解(かんかい)に向かうのか、逆に悪化してしまうのかは予想もできません。ただ、個人的にはどうなるのか大いに興味はあります。全面的な協力を約束はできませんが、私としてはむやみに足を引っ張ることもしませんよ」
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはありません。野次馬根性で傍観させてもらいます、と言っているだけですからね。副園長としては、無責任極まりない発言です」
 空気がほんのりと弛緩(しかん)する。周囲の幸福そうな雑踏が、ようやく耳に飛び込んでくるようになった。
 磯貝は止めていたスプーンを、ふたたび口に運び始めた。
「実は昨日、妻から娘の描いた絵を見せられました。この動物園のゾウを描いた絵です」
「娘さんがいらっしゃるんですね」
「ええ。それで、その絵を見て驚いたのが、娘の描いたゾウが、私が小学生のときにこの動物園で開催された写生大会で描いたゾウと、どうやら同じだったんです。左の耳が少し欠けているのでわかったんですが」
「ああ。それはノッコだ。四十年ほど前から飼育されているらしいです」
「やっぱりそうですか」
「園長のおっしゃるように左耳が欠けているから、間違いないでしょう。親子二代で同じゾウの絵を描くなんて、素敵な話ですね。娘さんは、おいくつですか」
「五歳です」
「五歳というと、幼稚園?」
「そうです。年長です」
「それはかわいい盛りだ。うちのにもそんな時期があったはずなんだけど」
 森下が苦笑で肩をすくめる。
「お子さん、おいくつなんですか」
「息子二人なんですが、上は二十歳で、東京で一人暮らしをしながら大学に通っています。下は十六歳の高校生です。これが誰に似たのか、勉強せずに楽器ばかりいじっていましてね。女房は下の子がロックミュージシャンになりたいなんて言い出したらどうしようと心配してますが、私はやりたいようにやってみればいいと思っています。今日もあれ、ほら……最近、野亜駅前のステージでやってる催し、あるじゃないですか」
「『のあフェス』ですね」
 磯貝は担当ではないが、市役所の企画部が主導するイベントなので知っている。野亜駅周辺に活気を取り戻そうという目的で企画された。
 野亜駅前駐車場にステージを常設し、毎週末アマチュアバンドやパフォーマーに開放する。一グループの持ち時間は二十分と短いが、無料でステージに立てるとあって、出演希望のメールが市役所のホームページに殺到しているらしい。出演には居住地などの条件がないため、隣県からやってくる若者も多いという。
「そうそう、それ。それに出るとかで、ギターだかベースだか私にはよくわかりませんが、担いで出かけて行きました」
「それは、見に行けなくて残念ですね」
「いやいや。もし休みでも行きませんよ。あの年ごろの子供だと、親に見に来られるのはひどく嫌なものでしょう」
「たしかにそうですね。母親と買い物に行った先でクラスメイトにばったり会ったりするのが、えらく恥ずかしかった記憶があります」
「誰でも似たような経験をしているものだな。私も同じようなことがありました」
 二人で笑い合ったそのとき、どこからか携帯電話の振動音が聞こえた。
「ああ、私だ。失礼」
 森下がジャンパーのポケットから電話を取り出した。発信者を確認し、不審げに眉根を寄せながら電話に出る。
「森下だ。どうした」
 内容までは聞き取れないが、漏れてくる音声から切迫した様子が伝わってくる。
「なんだって? ノッコが?」
 森下が血相を変えて立ち上がった。

(つづく) 次回は2014年12月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 佐藤青南

    第9回『このミステリーがすごい!』大賞・優秀賞を受賞し、2011年『ある少女にまつわる殺人の告白』でデビュー。他の著書に『ジャッジメント』(小社刊)『消防女子!!女性消防士・高柳蘭の誕生』『サイレント・ヴォイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻』などがある。