佐藤青南
7 森下と磯貝は、アジアゾウの展示場へと急いだ。 柵の周囲にはたくさんの見物人が集まり、放飼場の二頭のゾウを楽しげに眺めている。一見するとなんの変哲もない、平和な日曜日の動物園だった。 森下の後をついてゾウ舎の裏側にまわると、田尾がそわそわとした様子で立っていた。森下を見て表情に安堵を浮かべたのも束の間、磯貝に気づいて眉間に皺を寄せる。 「なんであの人まで……」 「一緒にいたんだ。それよりワキさんは」 田尾の抗議を手を振って払いながら、森下が訊いた。 「中にいます」 「なんだって? どうして怪我人をほったらかして――」 そのとき扉が開き、白髪の職員がゾウ舎から出てきた。彼がゾウ飼育担当の山脇だろう。ここに来る途中で、森下からあらましは聞いている。 山脇は右手で左の手首を掴んでいた。出てきたときには痛そうに顔をしかめていたのに、森下に気づくや笑顔になる。 「なんだ、田尾。呼ばなくていいって言ったろ。先生の手を煩わせるんじゃない。いちいち大げさなんだ」 「そうは言っても……」 「ノッコにアタックされたというのは本当ですか」 森下が訊くと、山脇はへっ、と親指で鼻を擦った。 「そんな、アタックってほどじゃ――」 田尾の声がかぶさる。 「ノッコが鼻でワキさんの左手首を掴んで、振り回したんです」 「黙ってろよ」 口を尖らせる山脇を、「ワキさん」と森下が諌(いさ)めた。 「変に隠し事はしないでください。田尾くんの話した通りなら、紛れもなくアタックじゃないですか。ノッコは遊びでそんなことをするほど子供でもない」 山脇がふて腐れたように視線を逸らす。 「ちょっと見せてください」 森下が手を伸ばし、山脇の左手首に触れる。すると山脇は「痛っ……」と表情を歪めた。 「もしかしたら折れているかもしれない。レントゲンを撮りましょう」 森下の提案で、一同は動物病院へ移動することにした。 野亜市立動物園の動物病院は、管理事務所の奥にある。入園者から見えない敷地の隅に位置しており、全体をクリーム色に塗られた平屋の建物は、どこか秘密の実験施設のような趣だ。 一般の動物病院のように広く患畜を受け入れてはいないので、看板のたぐいは出ていない。にもかかわらず道端で怪我をしていた動物が持ち込まれたり、またそういった動物を職員自身が保護することが多いらしい。あちこちから治療中の動物の鳴き声が聞こえ、目を閉じるとジャングルにいるようだった。 幸いなことに山脇の骨に異常はなかった。森下の下した診断は打撲だった。 「だから言ったじゃないか。大騒ぎするようなことじゃないんだって」 包帯の巻かれた左手首をさすりながら、山脇がベッドから腰を上げようとする。すると森下がキャスター付きの丸椅子を引き寄せながら、山脇の前に移動した。 「ちょっと待ってワキさん、もっと詳しく状況を聞かせてください」 そのとき処置室の扉が開いた。 扉を背にしていた磯貝が一歩横に移動すると、携帯電話を手にした田尾が入ってくる。もう一人のアジアゾウ担当である美和に、報告をしに出ていたのだ。 「状況って言っても、いつも通りさ。とくに変わったところなんてない」 「変わったところがないのに、ワキさんほどのベテランが怪我するはずないでしょう」 「河童の川流れってやつだ。もっとも、おれの禿げ方は河童みたいじゃないけどな。てっぺんというより、前のほうから来てる」 山脇が手で髪をかき上げ、広い額を顕(あら)わにする。 「ふざけないでください」 森下の声は苛立っていた。 「ワキさん。私は敵じゃない。一緒に働いてきた仲じゃないですか」 「そんなこと、言われなくたってわかってる」 「それならなにが起こったのか、話してください。そして、一緒に考えさせてください。ノッコが情緒不安定になる原因と、対処法を」 「今日はノッコの展示を中止してたんです」 田尾が思い切ったように口を挟んだ。 山脇の尖った視線に怯(ひる)む様子を見せながらも、話を続ける。 「掃除をするため、ノッコの寝室にワキさんと二人で入りました。ノッコは常同行動を見せていて、最初からちょっと機嫌悪そうな感じはしてたんです」 「あの、常同行動って……」 磯貝は手を上げて質問した。 田尾は面倒くさそうに睨んできたが、質問には律儀に答えた。 「動物園の動物がうろうろ同じところを歩き回ったり、同じ行動を繰り返すの、見たことないっすか」 「ああ……あれ」 「そう。それ。常同行動はストレスの表れです」 田尾はふたたび森下を向いた。 「それで、竹ぼうきで寝室を掃除してたら、やめろっ……っていうワキさんの声が聞こえて、見たらノッコの鼻がワキさんの手首に巻きついてました。一瞬、なにが起こってるのかわからなくて、遊んでるのかと思いました。だけど、ワキさんの身体が宙に浮いて、壁に叩きつけられて……おれは無我夢中で竹ぼうきを振り回してノッコを追い払いながら、ワキさんが脱出するのを待って、急いで寝室を出ました」 山脇は沈痛そうに目を閉じていた。 頷きながら話を聞いていた森下が口を開く。 「今日、ノッコの展示を中止したのは……」 「おれが提案しました」田尾は頷いた。 「森下先生、前に観覧者の多さが引き金になっているのかも、って言いましたよね」 「うん。言った。最初にノッコの異変を報告されたときには、なにか病気のもたらす苦痛によるものか、あるいは加齢による性格の変化かと思った。だけど、土曜日と日曜日の午後だけ情緒不安定になるっていうのはおかしいからね。当然ながら、ノッコにはカレンダーなんて関係ないし。だとするとノッコの精神状態に影響を与えそうな、平日とは異なる外的要因を考えると、真っ先に思いつくのは人の多さということになる。それでためしに、ノッコの展示を中止してみたってことか」 「そうです。だけど……」 田尾が悔しげに唇を歪めたとき、山脇がぽつりと呟いた。 「わかってたんだよ」 森下の視線が、田尾から山脇へと移る。 「本当はわかってた。展示を中止しても、たぶん効果はないって」 山脇は小さく肩をすくめ、話し始めた。 「土日の人の多さがノッコにとっての引き金になっているのは、おれもたぶん間違いないと思う。だけど、じゃあ寝室に閉じ込めておけば解決するのか、って話だ。残念ながらそれはない。いろいろと知恵を絞ってくれた田尾と藤野には悪いが……」 「なぜですか。寝室にいれば、人目に晒(さら)されるストレスもなくなるのでは」 磯貝は思わず歩み出た。 山脇はちらりと視線を上げ、顔を左右に振る。 「たしかに人間ならば、あのコンクリートの寝室に逃げ込むだけでストレスの大部分が軽減されると思う。もしも自分がノッコの立場だったら、とにかく人目を避けたい、これ以上見られたくないと思うのが普通だろうからな。だがそれは、あくまで人間の感覚だ。なにしろゾウは、極端に視力が悪い。色覚すらないと言われている。そのため外界の認識のほとんどは、並外れた聴覚と嗅覚に頼っているんだ。たくさんの人に『見られる』のが嫌だという感覚は、まずたくさんの人を自分が『見えている』という前提で、初めて成立するんじゃないか」 磯貝ははっとなった。隣では、田尾の息を呑む気配がする。 「ノッコにとって、人の多さがストレスなのはたしかだろう。だがそれは、人目に晒されるストレスではない。ノッコは周囲にたくさんの人がいることは感じても、たくさんの人がいる様子は、ぼんやりとしか見えていないんだから。だとすると、騒音か悪臭だよ。人の話し声や足音を耐えられない騒音と捉えているか、あるいは、体臭やコロンやら整髪料やらの、人が発する臭いを酷い悪臭と捉えているか。つまり、視覚情報を遮断したとしても、ストレスはなくならない」 「そういうことか……」 森下が顎を触りながら、神妙な顔になる。 磯貝は素朴な疑問をぶつけた。 「だけど、ゾウ舎は分厚いコンクリートでできています。騒音や悪臭だって遮断できるのではありませんか」 山脇はかぶりを振った。 「それも人間の感覚だよ。もしも自分なら……っていう考え方は大事かもしれないが、そう考えたところで完全に動物を理解できることはない。それを肝に銘じておかないといけないんだ。さっきも言ったように、ゾウは並外れた嗅覚と聴覚を持っている。一口に言ってもぴんと来ないだろうが、最近発表された論文によると、ゾウの嗅覚受容体の遺伝子はイヌの二倍……単純にイヌの二倍鼻が利くってことだ」 「イヌの二倍?」 驚いた。イヌの嗅覚が人間の何倍も優れているのは、磯貝でも知っている。そのイヌの二倍。とてつもない嗅覚だ。 「聴覚についてはもっとすごい。ゾウは足の裏で感じた振動を、耳に伝達して聞くことができる。一説によると、三十キロから四十キロ先の、雨や雷の音まで聞き取れるらしい」 そういえば、と田尾が会話に加わる。 「どこかの国で大地震が起きたとき、ゾウが高台に逃げて津波を回避したという話があるらしいですね」 「スマトラ島沖地震だ。二〇〇四年の」 森下が人差し指を立てると、山脇は頷いた。 「あのとき、ゾウは地面を伝わる津波の振動音を足の裏で感じて、反対方向に逃げたと言われている。ゾウの見ている世界ってのは、人間とはまったく違う。人間には、想像も及ばない世界なんだ」 「なのに寝室から出さなければいいだろうなんて、安易でした。コンクリートの小屋ごときで、ノッコをストレスから守れるわけないのに……ああ、おれってほんとに馬鹿だ」 田尾は両手で自分の頭を抱え込んだ。 「いや、おまえと藤野は正しい。無理だとは思っても、やってみる価値はある。本当はおれが、ノッコの展示中止を指示するべきだった。だけどもしも駄目だったら、次は打つ手がなくなる。間接飼育に移行するしかない。それだけは嫌だ……そういう思いから、つい後手後手にまわってしまったんだ。すまない」 「たびたびすみません。間接飼育、というのは?」 磯貝が職員たちの顔を見回すと、答えたのは山脇だった。 「動物と飼育担当者が同じ空間に存在しないようにしながら飼育する方法さ。ライオンやトラなんかの猛獣は、どこの動物園でも基本的に間接飼育をしている」 「もしも私の質問のピントがずれていたら申し訳ないんですが、ゾウを間接飼育するのは、いけないことなんですか」 当たり前だろうと言わんばかりに、田尾が舌打ちをする。 今度は森下が答えた。 「いけない、ということはありませんが、ゾウについては、とくにメスのゾウについては、直接飼育をしている施設のほうが多いですね。獣医の立場からすると、あの巨体に麻酔をかけることがまず難しい。そしてかりに麻酔が効いたとしても、横になっているうちに自重で筋肉が損傷したり、内臓の動きが鈍くなって最悪、死に至るケースもありうる。直接飼育で飼育担当者の命令を聞くように調教しておいたほうが、体調管理しやすいんです」 「最初から間接飼育だったならともかく、途中から間接飼育に切り替えることで与えるストレスも心配ですしね。モモコやサツキと引き離しただけでも相当寂しがっているし……最近のノッコ、かなり体重落ちましたよね」と田尾がうつむく。 山脇は苦々しげに顔を歪める。 「間接飼育に移行するにしても、すぐにというわけにはいかない。ゾウ舎の工事が必要になる。その間はノッコの足に鎖を巻いて繋留することになるんだが……」 「ぶっちゃけ、なんとしてもそれだけは避けたいっすね。最悪だ」 田尾と頷き合った山脇が、こちらを見上げた。 「ノッコは幼獣のころにサーカスから買い取られてきたんだが、どうもサーカスで調教師から虐待されていたらしくてね。鎖を極端に怖がるんだ」 「暴れるから繋留する。繋留するから嫌がって暴れる。悪循環です。相当に衰弱もするでしょう」 歯を食いしばったのか、森下のこめかみがぴくりと動く。 「それじゃあ、どうにかしないといけませんね」 磯貝の言葉を、田尾は鼻で笑った。 「どうにかって……言うだけなら簡単だよな」 「田尾くん。やめないか」 森下にたしなめられ、田尾はつまらなそうに鼻に皺を寄せる。 磯貝はかまわず、山脇に訊いた。 「ノッコがおかしな感じになるのは、土曜日と日曜日だけなんですね」 「そうだ。しかも時間は、だいたい午後一時から四時くらいまで……だっけ」 横目で田尾に確認する。田尾が頷くと、ふたたび顔を上げた。 「その時間帯に集中している。まったく不思議なんだが、土日でも午前中とか、夜とかに機嫌が悪くなることはない」 「いつからそんな状態になったんですか」 「二か月半前だな。飼育日誌に記入しているから日付までわかる」 そう言うと、山脇は最初にノッコに異変が起きたという土曜日の日付を口にした。 「その日になにかが変わった、ということはないんですか。たとえば展示場のレイアウトを変えたとか、なにかのイベントを実施したとか」 「そんなの、もしあったらとっくに気づいてるさ。おれらを馬鹿だと思ってんのかね」 毒づく田尾を「こら」と森下が叱る。だがその森下も、そして山脇にも心当たりはないようだ。二人ともかぶりを振った。 「それならたとえば毎週土日、ゾウを見に来ている人がいる、などということは」 レーザーポインターで光をあてたり、物を投げ込んだり、誰かがノッコに悪戯しているということはないのか。 だがこれも、田尾は言下に否定した。 「ない。おれと藤野さんで気をつけてる」 「園長は」森下は不思議そうだった。 「ノッコの情緒不安定の原因が、たんに人の多さだけではないとお考えなのですか。ほかの原因があると」 「いや、私は素人なので偉そうなことは言えませんが……ただ、ある日突然そうなったというのは、変だなと思って。もしかしたらまだ気づいていないきっかけが、あるんじゃないでしょうか」 気持ちはありがたいんですがと、森下は困ったような顔になる。 「加齢によってゾウの性格が変化するのは、けっして珍しいことではないんです。人間もそうですが、たいていの場合、年をとると神経質で気難しくなります。だからノッコの性格に変化が起こって、ある日を境に、それまで我慢できていたことが我慢できなくなるというのは、おかしな考え方でもないんです」 「そうなんですか……でしゃばった真似をしてすみません」 「いや。謝るようなことではありませんよ。気にしないでください」 やはり素人では力になれない。磯貝はがっくりと肩を落とした。 「そういえば」と田尾が虚空を見上げた。 「一番最初にノッコが情緒不安定になったとき、ワキさん、もしかしたらまたデカい地震が来るかもしれないって、言ってましたね」 「さっきのスマトラの話もそうだが、東日本大震災のときにも、ノッコの様子がおかしくなったことがあったからな。最初は、あのときと同じだと思った。結果的には、そうじゃなかったわけだが……」 森下が慰めるように言う。 「とも限りませんよ。ノッコには東日本大震災の恐怖がトラウマとして刻み込まれていて、なにかが原因で、それが甦っているのかもしれない」 「きっかり土日ごとにか?」 山脇が自嘲気味に笑ったとき、磯貝の中で閃きが弾けた。 東日本大震災の恐怖を覚えているゾウ。 遥か遠くに聞こえる、津波の音。 異変が起こったのはちょうど二か月半前から。 土曜日と日曜日の午後一時から四時の間。 まさか……――。 「あの……もしよかったら、飼育日誌を見せてもらえますか」 磯貝の発言に、三人は意外そうな顔をした。 「駄目ですか」 確認すると、森下がかぶりを振る。 「いえ。そんなことはありません。磯貝さんは園長なんですから。むしろ許可を取る必要すらありません。だけど……どうして急に?」 三人の職員の顔を見渡して、磯貝は言った。 「確認したいことがあるんです」 「確認? なにを」 山脇が怪訝そうに訊き返す。 「もしかしたら……もしかしたら、ですが、ノッコの不調の原因がわかったかもしれません。そのことを確認したいんです」(つづく) 次回は2015年1月15日更新予定です。
第9回『このミステリーがすごい!』大賞・優秀賞を受賞し、2011年『ある少女にまつわる殺人の告白』でデビュー。他の著書に『ジャッジメント』(小社刊)『消防女子!!女性消防士・高柳蘭の誕生』『サイレント・ヴォイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻』などがある。