佐藤青南
8 山脇忠司の脳裏には、四十二年前の記憶が甦っていた。 幼獣のノッコが野亜市立動物園に来たばかりのころ、山脇も駆け出しの飼育担当者で、まだ右も左もわからなかった時代のことだ。 そのとき山脇はゾウ舎の寝室にいて、ノッコの身体にリボンを巻こうとしていた。地元の有力者やマスコミを集めた、仔ゾウのお披露目式典に臨むためのおめかしのためだ。ノッコは動物園の新たな集客の目玉として、関係者の期待を一身に集める存在だった。 リボンといっても幅は三十センチほどもあり、長さも二メートルを超える代物だ。それを着物の帯のように胴回りで一周させ、背中の部分で結び目を作らねばならない。 そもそも誰かをリボンで飾ってあげた経験もないし、その上、相手はやんちゃ盛りの仔ゾウだ。何度も抱きついては逃げられ、ようやく胴回りを一周させても、いやいやをされて振りほどかれる。ノッコは遊んでいるつもりかもしれないが、山脇には全身の筋肉が悲鳴を上げるような重労働だった。 砂と藁と汗まみれの鬼ごっこが始まって、どれほど経っただろうか。ふいに檻の外から、女の笑い声がした。獣臭いコンクリートの箱の中で聞こえるはずのない若い女の声に、山脇は文字通り飛び上がって驚いた。そして、うふふ、と笑う女性が漫画や小説の中だけでなく現実にも存在することを、そのとき初めて知った。太平洋戦争で夫を亡くしながらも女手一つで五人の子供を育て上げた山脇の母は、がははと豪快な笑い方をする人だった。 通路にワンピースを着た女が立っていた。その隣には、女を案内してきた飼育係長の姿もあったはずだが、山脇の記憶には残っていない。 ――その子がノッコちゃんなんだ。 女は愛嬌たっぷりに瞬きをして、ふたたびうふふ、と軽やかに笑った。 ノッコ……ああ、こいつのことか。 女の言っている内容を理解できるまで、数秒の間があった。 ノッコというのは、地元新聞に掲載された名付け親募集の記事に寄せられた五百通の命名案から、当時の園長が選んだ名前だった。それ以前の名前は「マヤ」だった。サーカスの調教師に付けられた名で、ネパール語で「愛」を意味する言葉らしかった。 ――ノッコ……。 山脇がなかば無意識に呟くと、うふふ、と笑い声が返ってきた。 ――そう、野亜市のノッコちゃん。ひみつのアッコちゃんみたいでかわいいでしょう。 テクマクマヤコン、テクマクマヤコン。女は当時流行したアニメの主人公の魔法少女を真似ておどけたが、呪文など唱えなくとも、山脇にはとっくに魔法がかかっていた。 女の名前は鈴木静江といった。ノッコという名前を応募した十八人のうちの一人で、抽選でお披露目式典に招かれた三人の市民のうちの一人だった。年齢は山脇より二つ上。バスターミナルの窓口で切符を売っていたのだが、山脇はしばらくの間、彼女の職業をバスガイドと誤解していた。 後に山脇は、休日のたびにバスターミナルを訪れ、架空の友人を訪ねたり、病に伏してもいない伯父や伯母を、病院に見舞ったりすることになる。バスターミナル詣では、静江の苗字が山脇になるまで、実に三年にも及んだ。 「――さん、ワキさん」 美和の声で我に返った。 「大丈夫ですか」 「ああ。大丈夫。ノッコは」 「いまんとこ、異常はないですね」 田尾が寝室を覗き込みながら、目を細めた。どことなく不本意そうな口調が気に障ったのか、美和が声を尖らせる。 「いまんとこ……って、もうすぐ四時じゃない」 「いやまだまだ、わかんないっすよ」 「なに言ってるの。あと五分でしょう」 「まだあと五分です」 「田尾。あんた、ノッコに情緒不安定になって欲しいの」 「そんなわけないじゃないですか。油断は禁物ってだけですよ」 「だけど、昨日も大丈夫だったし……土日続けてなにも起こらないことって、最近あった?」 そこで山脇は呟いた。 「ない……」 なかった。こんな平穏な週末は、本当に久しぶりだ。 山脇は右手で左手首に触れた。一週間前、ノッコに攻撃されて負傷した箇所だ。まだ湿布が貼ってあるものの、痛みはほとんど消えている。 あのとき、ノッコが遠くに行ってしまったと感じた。同時に胸の奥に、正体不明の感情が灯った。そんなはずがない。ぜったいに違う。懸命に否定しようとしたが、見る間に膨らんだ得体の知れない感情は、はっきりと輪郭を伴って山脇に現実を突きつけた。認めざるをえなかった。 山脇が抱いた感情の正体は、恐怖だった。 生傷の絶えない仕事だし、仕事中の怪我など日常茶飯事だったが、恐怖を自覚したのは初めてだった。こうなったらさすがに引き際かもしれないと、この一週間、ひそかに覚悟を固めようとしていた。 それがどうだ。この土日のノッコは、ここ二か月半の異変などなかったかのような穏やかさだ。 「園長の、言った通りだったんだ……」 悠然とたたずむノッコを檻越しにしながら、美和はどこか放心した様子だった。 「そういうことですよね、ワキさん」 山脇は腕組みしたまま唸った。 「まだ……わからない」 「だけどノッコは……」 「たしかにこの土日、ノッコが暴れたりすることはなかった。だからと言って、あの園長さんのやったことと関係があるとは断定できない。たんなる偶然かもしれないし」 「そんな意地悪言わないでも」 美和は不満げだが、山脇にそんな意図はない。これまでの経緯を考えると、どうしても慎重にならざるをえないだけだった。 ――やはり『のあフェス』じゃないかと思うんです。 ノッコの不調の原因がわかったかもしれないと言い出した磯貝が、アジアゾウの飼育日誌に目を通し終えた後の言葉だった。『のあフェス』というのは、このところ野亜駅前駐車場で毎週行われているイベントらしい。イベント内容は知らないが、山脇も駅前駐車場に組まれたステージには見覚えがあった。 磯貝によると、ノッコに初めて異変が見られた日と、『のあフェス』が初開催された日は同じらしい。さらにその後も、ノッコが情緒不安定になる日時は、『のあフェス』が開催されている時間帯だという。土日の、午後一時から四時の間だ。さらに、一日だけ雨で『のあフェス』が中止になった土曜日があったが、その日はノッコになにも起こらなかった。指摘されてみれば、たしかに両者は見事なまでに連動していた。 磯貝の意見はこうだ。 ――もともと予算が少ない上に、手作りのイベントを演出する狙いから、ステージはかなり簡素な造りになっています。私も一度、開催中に近くを通りかかったことがあるんですが、バンドの演奏は低音が下腹部に響くような感じでしたし、一緒にいた娘は「足の裏がしびれる」と言っていました。三十キロから四十キロ先の音すら聞き取れる、優れた聴覚を持つゾウなら、『のあフェス』の音がとてつもない騒音に感じることも、ありえるのではないでしょうか。あるいは、ステージでバンドが演奏する大音量のリズムを、ノッコが地震や津波と誤解して、混乱している可能性もあるのでは。スマトラ島のゾウは津波を察知して高台に逃げたとおっしゃいましたが、ノッコには逃げ場がないんですから。 野亜駅から動物園までの距離はせいぜい十キロ。 話を聞きながら、山脇は目から鱗が落ちる思いだった。 では磯貝の仮説が正しいとして、どう対処するのか。 その疑問に、磯貝は少しだけ待って欲しいと応じたのだった。 この一週間、磯貝はたびたび外出してどこかと折衝を繰り返していた様子だ。そして金曜日になると、「とりあえず手を打ってみたので、週末、様子を見て欲しい」と言ってきた。なにをしたのかと問えば、『のあフェス』のステージに吸音材を敷き詰めてもらったのだと言う。『のあフェス』を主催する商工会加盟の工務店に頼み込んで、施工してもらったらしい。 ――どうにかするって大見得切って、たったそれだけかよ。 鼻で笑った田尾ほどではないものの、山脇も懐疑的だった。失敗を願うわけではないが、この程度の対応で状況が改善するとはとても信じられなかった。山脇にとってはノッコとの四十二年の絆を揺るがし、飼育技術者生命すらも脅かすほどの大事件だったのだ。 ところが本当になにも起こらないまま、週末が過ぎ去ろうとしている。昨日も、今日も、ノッコはずっと穏やかなままだった。 山脇は鮮やかな手品を見ているような気分だった。 「とりあえず、今週は乗り切れましたね。もう四時は過ぎました」 いつの間に入ってきたのか、背後に森下がいた。その隣では、どこか清々しげな顔をした磯貝が、ノッコを見つめている。 時刻を確認すると、たしかに午後四時をまわっていた。これまでを考えると、危険な時間帯は乗り越えたと言っていいだろう。 山脇はかんぬきを外し、寝室に立ち入った。 「ワキさん……」 ついて来ようとする田尾を、美和が肩に手を置いて引き留める。 山脇はノッコに近づくと、硬い皮膚に覆われた横腹を、ぽんぽん、と軽く二度叩いた。 「つらかったな……」 耳がぱたぱたと動く。機嫌はよさそうだ。 「どうした。どこを掻いてほしい。ここが気持ちいいのか。そうかそうか」 ノッコの身体を撫でているうちに、ふたたび時間を逆流する感覚に陥った。閉じたまぶたの裏に、過去が映る。 今度は八年前の記憶だった。 ベッドの上で、静江が上体を起こしていた。 山脇はベッドサイドで丸椅子に腰かけている。 病室全体が清潔そうな白で統一されていたが、窓の外も白かった。雪の粒がふわふわと花びらのように舞っていた。 ふいに静江がうふふ、と笑った。入院を繰り返すたびに痩せ細り、そのころにはすっかり骨と皮だけだったが、笑顔には若いころの面影が色濃く残っていた。 ――いま、ノッコちゃんのことを考えてたでしょう。 図星を指されてあたふたとしたが、嘘をついても無駄なのは、三十年以上も連れ添ってわかっている。山脇は観念して頭を垂れた。 ――すまない。 もともと暑い地域に棲(す)む動物であるゾウは、寒さが得意ではない。その上ノッコは、動物園でも最年長のゾウとなっていた。ゾウ舎には暖房を導入しているが、この寒さで体調を崩しやしないかと、ふと心配になったのだ。 ――あら、謝る必要はないのよ。ノッコちゃん、心配ね。 妻の屈託のなさが、余計に申し訳なかった。本来はゾウの体調など気にしている場合ではないのだ。 静江の闘病生活は、二年に及ぼうとしていた。妻の肉体に巣食ったがんは、放射線や抗がん剤にも死に絶えることはなく、しぶとく命を蝕(むしば)み続けていた。 ――ノッコちゃん、大丈夫かしら。寒くて震えたりしていないかしら。 自らが名付け親となったゾウの体調を案じる妻の横顔を見ながら、山脇は胸が張り裂けそうだった。そんなことより自分の身を案じろと言いたかった。だが、そんなお節介な性格を愛したのだ。自分のことを二の次にして、人のことばかり心配する。そんな優しい女だからこそ、自分についてきてくれたのだ。山脇はゾウの世話を優先するあまり、妻を旅行に連れていくこともしなかった。体調を崩したゾウの看病のために動物園に泊まり込み、妻に新年を独りで迎えさせたこともある。子供に恵まれなかったのも、もしかしたら運が悪いとか不妊とかではなく、自分が本気で欲しがっていなかった結果なのかもしれないと思うことがあった。 女の幸せをなに一つ味わわせてやれなかった。自分と結婚したばかりに。 後悔ばかりがこみ上げ、喉を焼いた。懸命に笑顔を取り繕ったが、騙せているのかは怪しいものだ。なんでもお見通しの静江が、そのことだけ気づかないわけがない。山脇が医師から妻の余命宣告を受け、それを妻に隠していることを。妻はわかっていた。わかっていて、あえて騙されたふりをした。きっと治るから頑張ろうという山脇の励ましに、笑顔で頷いていた。 その三日後、妻は静かに逝(い)った。 降り続いた吹雪が嘘のような、柔らかい日差しの降り注ぐ小春日和の午後だった。(つづく) 次回は2015年2月15日更新予定です。
第9回『このミステリーがすごい!』大賞・優秀賞を受賞し、2011年『ある少女にまつわる殺人の告白』でデビュー。他の著書に『ジャッジメント』(小社刊)『消防女子!!女性消防士・高柳蘭の誕生』『サイレント・ヴォイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻』などがある。